ヨウジ・ヤマモト:Yohji Yamamoto
ブランドの始まり
71年に自身のブランドを立ち上げる。(72年、株式会社「Y'z(ワイズ)」を設立。
ヨウジ・ヤマモトについて
山本耀司(Yohji Yamamoto)は1943年、東京生まれ。父親は第二次世界大戦で戦死。母親は裁縫で生計を立てる。66年、慶應義塾大学法学部卒業。69年、文化服装学院デザイン科卒業し、その後は母親の仕立屋で仮縫いを担当。
母親の仕立屋で経験を積み、71年に自身のブランドを立ち上げる。72年、株式会社「Y'z(ワイズ)」を設立。77年、最初のファッションショーとして東京コレクションにデビュー。
日本で成功をおさめると当時、恋人だったコムデギャルソンの川久保玲とパリに渡り、81年、パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。82年ニューヨークでコレクションを開催。同年「ヨウジ・ヤマモト」設立。82年、FEC賞受賞。
1982A/Wコレクションは初のルーヴル・テントでショーを開き、コムデギャルソンとともに「ボロルック」として大きな話題を集める。以後、「カラス族」と呼ばれる黒を主体とした独特の作品は、独自の世界を作り上げた。
川久保玲、三宅一生(イッセイ ミヤケ)らと並び、80年代のDCブランドブームを引っ張り、世界的な名声を得るデザイナーに成長。
88年、株式会社「ヨウジデザイン研究所」を設立。2002年、無印良品の衣服雑貨の監修を担当。 2003S/Sプレタポルテコレクションを、あえて2002A/Wオートクチュールの直前に開催し、停滞する オートクチュールに新風を吹き込む。
2003年、アディダスとのコラボレートションで「Y-3」を発表。2004年4月28日、学術・芸術・スポーツ分野を対象にした褒章である紫綬褒章を受章。2004年12月21日、文化・経済などの分野での重要な業績を評価して贈られるイタリア・トスカーナ州における最高の栄誉である「銀の旗賞」を受章。
2002年7月、自身の軌跡を写真と文章で綴った「Talking to Myself」を発表。デザイナーとして活動にこだわらず幅広い分野で活躍。「BROTHER」「Dolls」「座頭市」等の北野武監督作品の衣装等も手がける。
2006A/Wにてワイズの実験的な新ラインを発表、これがその後、ワイズレッドレーベルとなり、2008S/Sシーズンの東京コレクションにてデビュー。また、2007年、マンダリナダックとコラボレーションで、トラベルバッグやアクセサリーのライン「ワイズ・マンダリーナ」を発表。2008年、イタリアのアパレルメーカー、シンヴ社とライセンス提携した新ブランド「カミングスーン(COMING SOON)」を発表。
デザイナーやブランドとのコラボレーションが多くこれまで、有名なところではアディダス、ヒロムタカハラ(HIROMU TAKAHARA)、ビルケンシュトックなどとコラボレーションを行っている。
山本の長女・里美(りみ)も、自身のブランド、リミ・フゥ(LIMI feu)でデザイナーとして活躍している。
ヨウジ・ヤマモトのライン
ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)
ワイズ(Y’s)
Y-3
ワイズレッドレーベル
コメントおよび補足
ヨウジ・ヤマモトは、川久保玲とともに、服の既成概念を廃した独特の表現手法で世界のデザイナーに「衝撃」を与えたといわれています。フランスに渡った当初は、モデルの顔を白く塗り、奇妙な黒い服を着せて電子音の鼓動の中を歩かせたこともあり、賛否両論。「広島シック」と批判も受けましたが、アバンギャルドかつクラッシックなスタイルは、徐々にクリエイティブな若手デザイナーから受け入れられていき、80年代以降、世界を代表するデザイナーへとなっていきます。実際、マルタン・マルジェラ、ドリス・ヴァン・ノッテン、弟子だったエンニョ・カパサ(コスチューム・ナショナル)、ロエンの高原啓等に多大な影響を与えました。
最終更新:2010年01月14日 16:26