仕橋 王道プロローグ

 学校の中庭というものは、日頃の整美係の努力からすれば残念なことに、あまり気持ちの良くない場所であることが多い。
 何しろまずは日当たりが悪い。三方、時には四方を数階建ての校舎に囲まれた立地。雲一つない晴れの日でさえ、そこには薄暗く湿った空気がある。
 ――ましてや、その壁たる校舎が、半ば瓦礫と化した廃墟であるとなれば。

 グラウンドで汗を流す運動部の掛け声、芸術校舎から響くブラスバンドの騒々しい音色、部活棟の賑わい……そういったものを全て置き去りにした先、敷地の果てにその場所はある。
 希望崎学園、旧校舎裏の中庭。
 ことごとく割れた窓ガラス、土のこぼれた花壇、かつては咲き誇っていた何本ものチューリップの、ミイラのように砂色に萎びた骸。文明崩壊後じみたランドスケープ。分別があり、そして幸運な生徒なら、在学中一度も近寄らないであろう不穏の空間。
 彼は、そこに姿を現した。

「おう、仕橋。相変わらず早ぇなァ」

 たむろしていた不良生徒の一人が、それに気付いて言葉を発する。彼らの数は十人前後。指定制服をだらしなく着崩し、地べたに直に腰を下ろし、中には煙草をくゆらす姿もある。番長グループに加わるほどには意気地がない、それゆえにより性質の悪い連中だ。

「光栄だ……と、言っていいのかな」

 訪れた少年は、そう声を返した。不良たちとは対照的な、神経質に整った制服。身長こそ並程度にあるが、体の線は細く、肌は白く、運動に親しまない習慣を窺わせる。無難なデザインの眼鏡と、適当に切り揃えただけの髪型が、いかにも垢抜けない。
 仕橋、と呼ばれた彼は、片手に中身の詰まったビニール袋を提げていた。そこから飲み物、あるいはスナック、あるいはパンやおにぎりを取り出すと、不良の一人一人に手渡していく。不良たちは礼も言わず、ただにやにやと笑って受け取る。引き換えに代金を渡すことはしないし、もちろん事前に預けてもいない。仕橋は彼らの奴隷(パシリ)なのだ。

 何たる学校社会の闇であろうか……? 否、しかし、よく観察すれば奇妙だ。
 不良が仕橋に向けるふてぶてしい笑みには、どこか怯えやへつらいの色もまた含まれているようには見えないか。対する仕橋は無表情ながら、その歩みや品物を渡す仕草には、ゆったりとした余裕のようなものがありはしないだろうか。場に満ちる空気が硬い緊張感を湛えているのは、学校の中庭が持つ陰鬱さだけによるものか?

「……以上のはずだな。注文と違うものはないか? もしくは追加で何か欲しい者は?」
「いや、俺は大丈夫だ」
「俺も問題ねえ。へへ……ええと、じゃあ、いただくぜ。いつも悪ぃな、仕橋よ」
「構わないさ、暇鯉くん。僕は君たちのパシリだからな」
「そいつぁそうだ。当然、だよな……お前が俺らに、ご奉仕、すんのはよ」

 下卑た言い回しに笑い声が上がる。無理にそうしているような、不自然な笑いが。その中心に立つ仕橋は、空になったビニール袋を綺麗に三角形に畳み、ズボンのポケットの中へと収めた。不良たちの行いで気分を害した様子など、欠片ほども見受けられない。

 以前――ずっと以前ならば、仕橋は馬鹿にされて俯き、反論もできず悔しげに肩を震わせただろう。その無様な反応が、不良たちにさらなる笑いの種を提供しただろう。
 しかし今は違う。あの日以来、彼らの関係は変わった。
 魔人能力Pa.Si.Ri――仕橋はそれに目覚めた。早く確実にパシリをこなすだけが取り柄だった彼は、魔人能力を得たことにより、より早く確実にパシリをこなすようになった。
 その結果どうなったか? なまじ直接害を為すものでなかったために、不良たちは侮った。朝食、昼食、放課後の間食まで、ますます便利に仕橋を使った。毎日、毎食、彼に食料を調達させた。
 ……気が付いた頃には、仕橋は実質的に不良たちを掌握していた。当然だった。もはや不良たちは、仕橋なしでは食事にありつくことができない。圧倒的パシリ力に屈した今の彼らは、表向き悪ぶった態度を取るだけの、牙が抜けた野犬の群れだった。

「さて」

 仕橋が片手を挙げると、笑い声がぴたりと止んだ。

「食べながらでいいから聞いてくれ。連休明け、6日の食事の希望を取ろうと思う。少し先で考えにくいかもしれないが、やはり事前に聞いておかないと、品切れで迷惑をかけてしまうかもしれないからな」

 パシリの発言に異を唱える者はいない。一人ずつ順番に、従順に、飼育係に縋る家畜のごとく、何を食べたいかを述べていく。仕橋は腕を組んだ格好で聞く。メモを残す必要はない。注文の正確な記憶はパシリの基本能力だ。
 一見異様ながら、彼らにとっては日常となった光景――しかし今日は、一つ普段と違うことが起きた。全員分の注文が取り終えられた後で、一人の不良が声を上げたのだ。

「……なあ」
「どうした、苦尾切くん。注文の変更か?」

 仕橋に視線を向けられ、ひときわ大柄な不良、苦尾切は一瞬後悔したように俯きかけた。だがすぐに再び意を決した。その目にはかすかに火が灯っていた。彼らが忘れかけていた意志の火が。

「伝説の焼きそばパンの話……知ってるよな、テメェなら」
「昼休みに張り紙を見た。7日に入荷するそうだな」
「俺ぁよ、それが欲しいんだ。7日の昼に、それを買ってこい」

 どよめきが生じた。苦尾切はもう迷わず、ほとんど睨むようにして仕橋を見つめていた。仕橋も正面から見返す。彼の側は変わらず冷静で、よっていかなる思考が巡らされているのか、他人が判断する術はない。
 伝説の焼きそばパン。不良たちは押し並べて愚かだったが、だからこそ、かの魔パンをただの食べ物だと思うような常識的な誤謬とは無縁だった。それを食せば、苦尾切は……具体的には分からないが、とにかくきっと凄いことになる。……あるいは、仕橋の支配を脱することも。

「いいだろう」

 張り詰めた無言の間は、実際には僅か数秒のことだったろうか。不良たちが見つめる中で、仕橋があっさりと言った。

「7日の注文を受け付ける。伝説の焼きそばパン、この仕橋王道が必ずや、苦尾切くんの昼食としよう」
「……おう。頼んだぜ」

 苦尾切はぶっきらぼうに応じた。二人の会話は、それで終わった。苦尾切は今手元にあるコロッケパンの消化に戻り、今日の役目を終えた仕橋は鞄を背負って帰り支度を始めた。そこでようやく他の者たちも、時間が再び流れ出したことに気付いた。取り繕うように冗談を飛ばす者もいれば、ペットボトル飲料を猛烈な勢いで飲み干す者もいた。そして誰もが一様に、睨み合いが睨み合いで終わったことに安堵していた。

「じゃあ、僕はこれで」
「ああ? まだいたのかよ、オメー。ハウス! ほれ王道ちゃん、ハウス! おうち帰りなさい!」

 形ばかりの揶揄を尻目に、仕橋はその場を去った。湿って薄暗くて弛緩した、ただの中庭の空気が戻ってきた。支配者の重圧から解き放たれた者たちは、辺り一帯がゴミ箱であるかのように散らかし、あまり品の良くない話題に花を咲かせ始める。彼らは仕橋がいない時だけ、以前のような真っ当な不良としての自分を取り戻すことができるのだった。
 しかし苦尾切だけは、思い詰めた顔でその輪に加わらずにいた。



 江東区への橋を歩いて渡りながら、仕橋は思案していた。
 苦尾切が焼きそばパンを食べることに危惧はない。そんなことはどうでもよかった。そも、不良たちの上に立つこと自体、副次的な結果に過ぎないのだ。
 問題は――そして本命は、自分こそが並ぶ者のないパシリであること。パシリの王。争奪戦は苛烈なものになるだろう。ゆえにそれに勝つことには意味がある。譲れぬ意味が。
 彼は無自覚に微笑んでいた。争奪戦は苛烈なものになるだろう。勝てるかどうかは分からない。だが当然のように勝つ。相反する思考と決意が、彼に久方ぶりの昂揚をもたらしているのだった。
最終更新:2015年04月25日 16:06