パン崎努プロローグ


 某年4月。希望崎学園にも、春が来る。
 新入生が入り、1年生、2年生は進級をする。希望崎学園は広く、生徒数が多い。クラス替えもあるので、今まで知らなかった人とも出会う、キャッキャウフフな季節である。
「ねーねー、聞いた? 今度、購買部に伝説の焼きそばパンが入荷するんだって!」
「まじで! あの伝説の焼きそばパン!」
「何それ知らなーい」
「お前頭スポンジか? めっちゃうまい上に、すげえご利益があるとか、なんでも願いが叶うとか言われてんだよ! 食ってみてえなあ!」
 頭スポンジ発言をした男が女子数人に張り倒される姿を背景に、やれそんな話はデマに決まってるだの、この学校だからあり得るだの、そもそも一個しか売らないんだから手に入るわけがないだのと喧騒が巻き起こる。今をときめく高校二年生は、くだらないながらに夢があり、生産性がありそうにみえるが実際には微塵もない話が大好きである。
「あ、パン崎君とかどう? めっちゃパン食べそうな名前だけど、興味ない?」
 突然会話を振られたのは、窓際後ろから二番目の席、数人の友人たちと談笑しながら、可愛らしい大きさの弁当箱で昼食を取る男。中身は、本人の手作りである。
 背筋を伸ばし、背もたれを椅子につけない、美しい姿勢。箸と弁当箱を手に持つ姿からは、気品すらあふれてくる。
 しかし、ほほがこけるほどやせぎすな体からは少しばかり不健康な印象を受ける上、長身で、腕、脚など体の各パーツが長いため、格好がいいというよりは、出来のいい人形のような人間味のなさを持っていた。
 その頭には髪の毛が一本もなく、肌の色は透き通るように白い事もあり、さながら修行僧かガン患者のようですらあった。
 パン崎努は、困ったように
 「うーん。僕、パンはちょっと苦手でさ。ごめんね」
と言い、ニコリとほほ笑んだ。
 話を振った男も、そっかーと言って、すぐに群衆の中に消えた。
 だから、パン崎が小さく口の中で唱えた、

 僕はパンじゃなくて、パンツが食べたいんだよ。

の一言は、誰の耳にも届くことはなく、ざわつく教室に溶けていった。


「はいー、それじゃ、今度は火の呼吸法ねー」
 放課後、天井の高い体育館で、男子バスケ部や男子バレー部等の大きな部活が活動する一角で、畳6畳程度の小さなスペースにマットを敷いて、総勢3名のヨガ部員が練習をしている。
 パン崎は、数少ないヨガ部員の一人であった。ヨガ部は人が少なすぎて、特定の練習場所を持たず、その日その日で借りることができる場所を使っている。パン崎は、女子が所属する部活と場所を共有する時は何かと理由を付けて休んでいるのだが、今日体育館で活動する部活は男子部のみだ。心穏やかに練習ができることを喜んでいた。
 パン崎は、ヨガが好きだった。ヨガは、己との対話である。自分の体が、何をしたら心地いいか、何をしたら苦しいか等を、ストレッチや呼吸法を通して知ることは心地よかった。また、自分の肉体を知ることは、パン崎自身の能力を使う事にも非常に有用であった。
 何よりも、ヨガ部には女子がいなかった。教室でスカートをはいている女子がいるという事実を意識しただけでもよだれが出てくるパン崎にとって、女子のいない部活は、安息の場であった。
 なぜならば、パン崎努は、パンツを食べる、いわゆるパン食を唯一の性癖とする男であるからだ。だが、彼はその性癖を実現できたことは一度もない。

 小学1年生のころ、パン崎は当時流行っていた格ゲーが好きで、かといって外で遊ぶのが嫌いなわけでもない、活発な、健康的小学生だった。少し元気がよすぎるけど、何よりも他人のことを一番に考え、みんなで楽しむことが大好きな、リーダーシップを持った少年だった。
 パン崎が、仲のいい友達と近所の公園でかくれんぼをして遊んでいた時のことである。生垣の下に潜むパン崎は、泥にまみれて捨てられていたある雑誌を目にとめ、なんの気なしに開いてみた。それはいわゆるヤング○○的な青年誌で、少しお色気のあるシーンはあるものの、大人が見る分には単なる漫画雑誌であった。
 しかし、幼少のパン崎にとって、ちょっとエッチなシーンに対する衝撃は並大抵のものではなかった。ヤンキーがヒロインを犯す寸前だったり、ヒーローが助けた女性とベッドインしたり、仲間のお色気お姉さんが主人公にクンニしろオラァァァ! したりといった描写を、パン崎は食い入るように見続けた。
 何よりもパン崎が見入ったのは、主人公が転んでヒロインの股に頭からダイブし、純白のパンツを口に含むシーンだった。色々なモノが染みついたであろうそれを口に含む描写に、パン崎の股間は人生最初のエレクトリックサンダーを達成した。
 それ以来、パン崎はパンツを食べるという行為に対して、尋常ならざる興味を持つことになった。何分小学1年生である。性差を意識する者などほとんどいない。幾分早めのエレクトを経験してしまった、パン崎以外は。
 転ぶ女子はパンツを隠そうともしないし、そもそもジャングルジムとかで遊んでいるだけでもいくらでも目に入ってくるし、体操着に着替える時など、同じ教室で着替えるんだからとんでもない。
 しかし、パン崎は厳しい両親の教育の結果、高い道徳心と強い倫理観を持っていた。嘘をついてはいけない。盗んではいけない。人の嫌がることをしてはいけない。パンツを口に含んではいけないとは教えられたことはないが、それが正しい行いではないことは、当然のように想像がついた。
 だから、パン崎は、己の欲望に蓋をし続けることになった。

「はいー、それじゃあ次は座禅を組んで、空中に浮いてくださーい」
 ヨガ部長の声に引き戻され、現実に戻る。座禅を組み、宙に浮く。不必要な情報がシャットアウトされ、不純な欲求が消えていくのを感じる。今だけは、パンツのことを忘れられる。それが、パン崎にとっての救いだった。
 ちかちか、と眼の端で何かが光った。ふと見あげると、体育館の天井の蛍光灯が点滅していた。ヨガ部は気が付いていないようだが、他の部の部員が何人か気にしている様子だ。体育館の天井は高いため、大きな梯子か何か持ってこなければ交換はできない。
 どうせ誰かがやらなければいけないことだ。
「部長、ちょっとすみません」
「お、どしたのパン崎君?」
 部長が不思議そうな目を向ける中、地面に立ち、無造作に右手を蛍光灯に向ける。
「Dad Rule. She Move(君は僕のおもちゃ)」
 ニュオーン。
 パン崎の右手が、早歩き程度の速さで伸び始める。おおー、という声が聞こえる中、パン崎の右手は手が入る程度の鉄網を抜け、切れかけの蛍光灯をつかみ、きゅきゅっと捻って取り外す。
「おい、先に網外さねえと……」
 バレー部員がそう言った瞬間には、すでにパン崎の右手は通常の位置に戻り、その右手には細長い蛍光灯が握られていた。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、僕の能力、大丈夫なんですよ。原理はよくわからないんですけど」
 ぽかんと口の空くバレー部に微笑み、一礼する。蛍光灯は、先生の所に持っていけば、新しいものと取り換えてくれるはずだ。体育館の隅に置いておき、後で持っていくことにしよう。
 ヨガ部長が、感心したように腕を組み、うんうんと唸る。
「ありがとねー、パン崎君。いやあ、本当に便利な能力だよねえ、それ」
「それが、そうでもないんですよ。この能力、遠くのものを掴むくらいしか、役に立たないんですから」
 当然だ。この能力は、本来パンツを盗むためのものなのだから。

 再び、小学生時代。その日は体育があり、着替える際に女子のパンツを見続けて、興奮冷めやらなかった。
 下校道の途中にあった、一戸建て2階ベランダの物干しざお。あれは、フリルが可愛い、白色のパンツだった。
 欲しい、と思った。強烈な欲望と、倫理観との戦い。関係ないことを考えて、気を紛らわす。昨日食べた夕食。最近はまっている格ゲー。
 ふと、右手をパンツに向けた。深い考えがあったわけではない。ただ、思ったのだ。
 腕が伸びたら、と。
 その瞬間、パン崎努は魔人として覚醒した。気が付けば、自分の手には、白いパンツがあった。理解が追い付かず、しばらく茫然とした後、自分がしたことの重大さに気づいて震えが止まらなくなった。
 パンツを盗んだ。僕が、自分の意志で。
 罪悪感と、達成感と、今すぐパンツを口に含みたい気持ちがあふれ出し、混乱したパン崎は、パンツをその場に置き、全力で駆けだした。そのまま公園のトイレに入り、泣きながら何度も吐いた。吐きながら、あのパンツもったいなかったなと考え、そんなことを思っている自分が恐ろしくて、さらに吐いた。
 それ以来、パン崎はパンツに対して恐れを抱くようになった。正確にいえば、パンツと相対した自分に対して。人を傷つけ、法に背いてでもパンツを食べたいと考えている自分を抑え込もうと必死だった。
 ストレスで禿げた。拒食症気味になり、がりがりに痩せた。たくさんつらい思いをした分、人に優しくなれた。だが、パン崎のパンツ欲はなくならない。ふとした瞬間に、間欠泉のように吹き出る欲望の波に飲まれそうになる。
 パンツを買ってみたこともある。だが、パン崎のパンツ欲はあくまでも性欲だ。新品のパンツでは想像力が刺激されず、ただ布を噛んでいるという感覚だった。
 小学校ではまだ何とかなった。しかし、中学生になり、パン崎自身も思春期を迎えることになると、その辛さは圧倒的であった。
 何しろ、性的な魅力を増した女子中学生と触れ合う機会が増えるうえ、彼女らのほとんどがパンツをはいているのだから、尋常ではない。数えたことはないが、おそらく95パーセント以上の女子はパンツをはいているだろう。
 しかも、女子の制服はスカートだ。今更言うまでもないことだが、おそろしいことにパンツは常に空気に触れている。つまりパン崎は、女子がはいているパンツがふれた空気が充満する教室で呼吸しているのだ。正気でいられる方がおかしい。
 パン崎が中学校に初めて登校した時、あまりのパンツ臭にあてられ、勃起が止まらず貧血を起こした。運ばれた保健室でも、脚を組んだ女性保険医の黒色パンツに苦しめられて失神した。起きては保険医パンツがいて失神し、起きては椅子の上に立ち棚の上の包帯を取っている保健委員の可愛いパンツがいて失神し、最終的には救急搬送された。
 パン崎は、常に綱渡りなのだ。

 ヘッドロックしながらヨガヨガ叫びつつ相手の頭を殴る体操を終えて、本日のヨガ部の活動は終了した。マットを片付けている最中、部長を含む先輩たちと話す。部員が少ないから、上下関係は無いに等しい。パン崎は自分がやります、といつも言うのだが、結局片付けも掃除もみんなでやることになり、その雰囲気が心地よかった。
「いや、そろそろ新入生入ってくんないとまずいんだよねー。パン崎君、誰かいない?」
 部長が水を向けるが、パン崎は首を横に振る。
「僕の友達には聞いてみたんですけど、全滅でしたね。新入生は、見学に来てくれないと接点がないですからね」
「やっぱり、部活紹介で火吹くからだめだったんだろ」
「だって、ヨガの基本じゃん!」
 部長と先輩が浮くべきだったか火を噴くべきだったかの論争を始める。わいわいと話すこの時間が、今のパン崎にとって一番の憩いの時間である。論争に熱中している間に、できる限り掃除を進めておこうとモップを取り出した時に、ぞくっ、と背筋に悪寒が走った。
 パンツの匂いだ。
「あ、あの……」
 声に振り返ると、ロングの黒髪、褐色の肌、肉付きの良い体をしたおとなしそうな女性がいた。相当、可愛い部類に入る。さぞ、パンツはうまかろう。
「ヨガ部、入りたいんですけど……」
 うおおお! と、先輩たちの歓声が聞こえた。冷汗がダラダラと出てくる。怪訝そうな顔をした女の子に、精一杯笑顔を作って答えた。
「ようこそ。歓迎しますよ」
 もう、この部にもいられない。


 パン崎が、とぼとぼと帰り路を歩く。目に入るのは、道行く体操服女子。制服女子。私服女子。タイトスカートの先生。
 同じ空間にいて、同じ空気を吸っているのに、どうして僕は君たちに触れられないんだろう。
 ここまで辛い思いをして、やりたいこともできなくて。それでも生きてる意味ってあるのかな。

 パンツ。パンツが食べたい。

 もう無理だよ。

 パン崎は、購買部の横を通った時、扉に貼られていた「伝説の焼きそばパン、近日入荷!」のチラシを見た。
 これほどの人気だ。必ず争奪戦になるだろう。そうなった時、自分のような平凡で、弱弱しい魔人能力では、とても勝ち残ることはできまい。
『この能力、遠くのものを掴むくらいしか、役に立たないんですから』
 ふと、自らの言葉が頭をよぎった。
 僕の能力は、弱い。でも、これは戦うことが目的ではない。パンを買うことが目的なのだ。
 僕なら、もしかしたら。
 パン崎は、考える。脆弱な能力で焼きそばパンを手に入れる方法を。
 そうだ。これは、運試しだ。達成できる可能性が低いほどちょうどいい。自分を許すための、許されたと錯覚できる程度の”何か”が欲しいだけなんだから。
 きっかけはなんでもよかった。ただ、僕の限界に、このお祭りが重なっただけなんだ。

 パン食べたら、パンツ食おう。

 パン崎の目に、切れかけた蛍光灯のような、わずかな光が宿った。
最終更新:2015年04月25日 16:11