「ふーん、ふん、ふふーん……」
後ろ手に扉を閉めながら、もう片方の手で電灯のスイッチを探る。もう随分慣れたもので、すぐに指先がしかるべき突起を見つけた。
ぱちり。
何度か点滅した後に、蛍光灯が室内を照らし出す。
積み上げられたダンボール、業務用の冷凍庫、裏側から見るドリンク棚……購買部のバックヤード。毎日大勢が訪れる施設の、限られた数人しか入れない一室。そこに自分がいるという事実は、なんとなく特別な気がして悪くない。
「おはようございます」
ぺこりと頭を下げる。私以外には誰もいないので、これは場所に対する挨拶だ。そういうの、ちょっと大事だと思う。
これから軽く掃き掃除をして、次にお金や在庫の確認をしたりして、開店に備えるのがいつもの流れなのだけど……今日は、その前に。
ちら、とその方向を見る。部屋の中央の作業台に置かれた、ごく小型ながら高級な冷蔵庫。私は知っている。その中には場違いなほど立派な桐の箱が入っていて、さらにその中には、伝説の……。
もちろん、盗む気なんかない。冗談抜きで殺される。けれど、ちょっと人より早く目に入れるだけなら。
冷蔵庫の扉に手をかける。少し間を置いて緊張感を演出。それからぐっと引いて開け、淡く照らされた内部を覗き込んで、
「……あれ?」
私は、首を傾げることになった。
「おや、おはよう」
「ひぇっ!?」
慌てて扉を閉め振り返ると、戸口に店長が立っていた。
日焼けした肌、引き締まった肉体。ほんのり憧れるようなナイスミドル。ただ、少し怪訝な表情をしている。
「今日は、僕だけで店番をすると連絡を回したはずだけど」
「れ、“レース”で危ないのって、昼休みだけでしょう? 朝の準備はお手伝いしようかと思って」
「ふうん……?」
彼の視線が、私の背後の冷蔵庫に動く。
「……まさか」
「いやいやいやいや違います! ちょっと実物を見てみたかっただけで! 確認してくださっても構いませんから!」
全力で首を振る。一瞬、確かに店長の言葉が冷えた。こんなところで死にたくない。
「あの、と言うか、本当に確かめてください。気になることがあって」
「うん? どれどれ」
「ほら、おかしくないですか、これ? だって――」
戦渦を忌み、目を背ける心が、太陽にもあるのだろうか。
五月、七日。
その日の空は、朝から分厚い灰色の雲で覆われていた。
「――……」
教師が何かを喋っている。しかし、仕橋王道は極度の集中によって、自身の聴覚を研ぎ澄まされた無音の内に保っていた。机の横には無骨なバックパック。争奪戦のための備えがそこに詰まっている。
彼だけではない。今この教室には、正しい意味で授業を受けている人間は一人もいない。彼ら彼女らの視線はただ一点、教室正面の掛け時計にのみ注がれ、耳はやがて鳴るチャイムの音色を聴くことにだけ機能を絞り込んでいる。
中には争奪戦に参加しない生徒もいるにはいたが、そういった者らにしたところで事情は変わらなかった。睨み合うライオンの群れの只中に放り込まれたとして、その状態で暢気に国語や数学の話を聞ける者が、果たしてどれだけいるだろうか?
「…………」
やがて、教師の意志も挫けた。彼は黙り込み、教卓の前の椅子に座して頬杖を突いた。
時計の針が進む。残り五分。この時のために、それは執拗なほど精確に調整されていた。
もうすぐ、四限の授業が終わる。
仕橋は地図を思い描く。教室を出て購買部へ向かい、伝説の焼きそばパンを手に入れるまでの地図を。幾度も確かめ、改良を重ねてきたそれを、この寸暇にも磨き上げていく。
残り三分。誰かが唾を飲む音が聞こえた。その者はこの場にいただろうか。あるいは隣の教室だっただろうか。
残り一分。時が止まったような静寂。だが秒針は動いている。文字盤という運命の車輪が、世界をその瞬間へと駆り立てていく。
そして。
キ
――スピーカーが最初の一音を鳴らすのと同時に、伝説の焼きそばパンを巡る戦いが幕を開けた。
舟行呉葉は八徳包丁を振るった。流れるような動きだった。
彼女を貫通刺殺せんと迫った鋭利な太刀魚は、空中で綺麗に三枚に下ろされた。
「そんな……!」
眼鏡を掛けた文学系の地味めな女子生徒が驚愕する。呉葉は記憶から彼女の名を手繰った。たしか黒渕さん――下の名前までは出てこない。
「食べ物を粗末にするのは、感心しないっすね」
跳ね上げられた切り身が落ちてくる。呉葉は懐から紙皿を取り出してそれを受けた。
そして手近な机に置いておく。おそらく誰かが食べてくれるだろう。
「それに、心臓狙いは良くない。人を殺せば、焼きそばパンの購入権を失う」
「……別にいいよ。私、自分で欲しいわけじゃないから」
じりじりと円を描くように動きながら、二人は間合いを測り合う。呉葉は巨大な包丁を構え、黒渕さんは両手を交差させて、それぞれの指の間に靴下を挟んでいる。それが太刀魚に変じるのだ。どういう理屈かは知らないが――そも、大抵の魔人能力には合理的な説明などつかない。
教室は既にもぬけの殻だ。他の者は全て焼きそばパンを買いに向かうか、あるいは単に巻き添えを恐れて逃げ出した。呉葉も購買部へ急ぐつもりだったが、教室を出る直前、太刀魚攻撃による妨害を受けた。
(どうして自分が狙われた? まさか焼きそばパンの正体を知られて? いや、それなら他にやりようがある。……単純に、彼女が勝たせたい人間の障害になりそうだから、か)
呉葉は無自覚だ。己の腹筋の魅力と、威力に。鍛え上げられた肉体を持ち、さらに業物を携えた彼女が最優先排除対象とされるのは、実際のところほとんど必然と言えた。
(よりによってこんな時に……。早くアレを確保しないと、私と大山田さんの優雅な公費横領ライフが……!)
額に汗が浮かぶ。その焦りが僅かに彼女の足を乱した。元より机と椅子が占める空間、教室は運動に向いた場所ではない。一定の速さを保っての摺り足が、机につかえて一瞬止まった。
黒渕さんの目が鋭く光った。
「――太刀魚天国!」
一斉に投げ放たれる靴下、いや太刀魚! 呉葉は即応し、今度はボールのような物体を取り出して投げ返すと、太刀魚の切っ先と交錯する刹那、再び包丁を一閃した。
八尾の太刀魚は回避難度も八倍。それでもなお全てが三枚下ろしとなる。C・C・Cに対象数の制限はない! だが!
(甘い……!)
黒渕さんは机の陰で密かに片足を振り上げた。太刀魚天国は靴下を太刀魚に変える力。無論、それは自分が今履いているものであっても可能!
呉葉は未だ得物を振り抜いた体勢。死角からの攻撃を避けられはしない。上履きは駄目になるだろうが、構うものか。
無慈悲な振り子投石器の如く、必殺の一撃のために黒渕さんの足は振るわれ――
「……あああああぁっ!?」
――しかし、成らず。
両目を押さえてうずくまる彼女を、呉葉は肩の力を抜いて見下ろす。
「玉ねぎの目潰し。麺類を狩るのにも使える手っすよ。……眼鏡で遮られたらどうしようかと思いましたけど」
「あ、あなた……さっき、食べ物を粗末にするのは、って……!」
「や、まあ、そこはやむを得ない犠牲ってやつで」
頬を掻く呉葉の後方で、計二十四枚に捌かれた太刀魚が、先ほどの紙皿の上に落ちて重なった。もはやそこそこの団体向けの量だ。
「正直褒められた動機じゃないけど、私もあのきし――焼きそばパンを欲する一人っす。だから行かせてもらう。……目、早めに洗ってよ」
そう言うと、呉葉は教室の窓に近付き、躊躇なくひらりと飛び降りた。ここは二階だが、呉葉は戦闘型の魔人だ。問題はない。
「……闇雲……くん……」
残された黒渕さんの声は、誰の耳にも届くことはなかった。
舟行呉葉の勝利から、時間は少し遡る。
新校舎から購買部までの道の上空に、数々の花が咲いていた。
花とは例えばパラシュートであったり、あるいは背中から生えた翼であったり、あるいは何だかよく分からない謎の視覚効果であったりした。
「ウッキキーッ!?」
花の一つから投下された網が、地上を走る生徒の数名と、一匹のチンパンジーを捕らえた。
特に魔人能力によるものではない、ごく普通の狩猟用の網だ。そしてごく普通の狩猟用の網は当然、獲物が簡単に逃げられるようにはできていない。
彼らはレースから脱落した。
新校舎における教室の位置は、学年によって異なる。
一年生が一階、二年生が二階、三年生が三階。明快な法則だ。
では、校舎と外を結ぶ出入口の位置は? これもまた分かりやすいことに、一階である。
以上の事実を踏まえると、今回の争奪戦においては、すぐ外に出られる一年生が有利なのであろうか。
答えは、否。
((季紗季ちゃん、右に避けて!))
「うわっ、とと……!」
言われるがまま彼女が跳ぶと、たった今までいた場所で、粘つく物体がばちゅんと弾けた。
(接着剤……? いや、トリモチってやつ?)
((気を付けて、まだ狙われてるよ!))
(う、うん!)
ばちゅん、ばちゅん、ばちゅん!
続けざまに降ってくるトリモチを、千倉季紗季はすんでのところで回避していく。ハリガネムシくんの指示のおかげで、自分は前を見て走りながらでもそれができる。さもなくば避けるので精一杯だったろう。
とは言え、このしつこい狙い! 二人のコンビネーションをもってしても、徐々に先頭集団から離されていくことを防げない。
(もうっ……先輩方、容赦無いなあ)
((きっとそれだけ美味しいのさ。頑張っていこう))
(だね。絶対ゲットしてやるんだから)
意気を揚げ直す彼女らの背後で、またもトリモチが弾けた。
四限終了の鐘の音と同時に、多くの二年、三年生は、教室の窓から空へと飛び立った。ある者は自身の能力を活かして、ある者は文明の利器の力を借りて。
空中の移動を禁じる校則はない。わざわざ廊下を、しかも走行に制限をかけられて通り抜けるより、よほど早く購買部を目指せる。
自らを反撃困難な位置に置きつつ、地上への攻撃も行える。スタート地点が高所であるからこその、単純な遠近とはまた異なる利点。
新校舎と購買部の間の1km足らずの土地には、被弾した走者たちが点々と横たわり、その数は少しずつ増えつつあった。
「うおおおっ!」
彼もまた、頭上からの一方的な攻勢に悩まされていた。
こちらでは投下された長いロープが、蛇のようにひとりでに動き、前を走る生徒数名をまとめて縛り上げたところだ。あと少し止まるのが遅ければ、彼も巻き込まれていただろう。
「クソッ……ふざけんな、ガキ共! 焼きそばパンごときでマジになってんじゃねぇよ!」
自分のことを棚に上げてわめく。その物言いに付近の何人かが視線を向けてきたものの、それだけだ。
チンパンジーですら籍を置く希望崎学園である。見慣れない男の一人や二人、誰も怪しんだりはしない。
彼の名は臥間掏児。盗んだ制服で変装しているものの、本来学校とは何の関係もない、スリだ。
「あー、ツイてねぇ……どいつもこいつもケチ臭い財布の中身してるくせに、安く幸せが買えるってなると飛びつきやがる……楽して儲かるのは俺だけでいいんだよ」
ぼやきながら、彼は再び走り出した。すれ違いざま、先ほど拘束された生徒たちから財布を盗み取る。彼らの学生証さえあれば、部外者の掏児でも焼きそばパンを買える。ついでになるべく多くスリ取っておけば、もし買えなくても生活費の足しにできる。
だが、そもそも掏児にとって、自分が争奪戦に参加する展開は予定外だった。そんな面倒なことをしなくても、店に並ぶ前に盗み出せばいいと考えていた。しかし聞き回ってみたところによると、連休前から礼拝堂に安置されているとかいう焼きそばパンは実はフェイクで、本物は発売前日に調達部とやらが納品する手筈だというではないか。あまりにも時間がない。おまけにこの学校の購買部は、侵入者に対しては抹殺も一切躊躇わないほどの過激派組織であるらしい。
ゆえに、彼は仕方なく参戦を決めた。どうせならスタートはゴールに近いほうが良いだろうと、一年の教室付近に隠れ、四限終了と共に走り出した彼らに紛れた。
その結果、上級生の爆撃を受けることになった。
「だあああっ!」
またしても眼前にロープ投下! 悪運の強さか、掏児は今度も絡め取られるのを避け、代わりにやはり少し前の集団が犠牲となった。
「クソが! クソが! なんで俺ばっかり狙いやがる!」
掏児は苛立ちも露わに叫ぶ。もっとも、客観的に見ればそれは誤りだ。上空の者の主な標的は固まって走る生徒たち。掏児は自らそこに近付いている。目先の金で懐を潤すために。
まさしく墓穴を掘るが如き行動。だが一方で、彼はある意味有利に戦いを進めてもいた。窃盗に手間を割きながらも、全体の中での順位は着実に上がっているのだ。悪党の端くれとして鍛えられた逃げ足が、この土壇場で強みとなっていた。
彼は新たに脱落した集団からも財布をスった。盗品が無視できない重みになってきたが、やめる選択肢はない。もったいないからだ。次のカモを探す彼の目が、一人で走る女子生徒を捉えた。
その上空。
対地攻撃用の網を使い切った仕橋は、ハンググライダーの舵を操作しながら、改めて眼下の様子を俯瞰した。
レースはようやく中間地点を過ぎ、伴って走者の数も半分程度にまで減った。
空中もまた安泰というわけではない。つい今しがたも、白い翼を生やし突撃槍で武装した女子生徒が、蝙蝠の如き羽とトリモチを分泌する能力を持つ男子生徒と相討ちになって墜落したところだ。
その中で自分はと言えば、周囲に何人か競う相手はいるものの、地上も含めて概ねトップの位置にいると言っていい。
あとは魔人の身体能力で耐えられる限界まで速度を保ちつつ着陸し、全力の走りで購買部に駆け込む。
勝利のビジョンは見えているが――
「しかし、そう都合良くも行かないだろうな。何しろこれは魔人の戦いだ」
振り返る。
「――君もそう思うだろう?」
「……!」
折しも仕橋を後ろから撃とうとしていたアフロの男は、敵の予想外の反応に機を逃す。
「……勘がいいじゃねえか」
「危険感知……パシリをしていれば自然と身に付く技能だ。頼んだ後でやっぱり違うものが食べたくなった。そんな注文者の心の機微を察せなければ、制裁を免れることはできないからな」
「ハ。流石ってとこか。……仕橋先輩」
「僕も君の名を知っている。住吉弥太郎くん」
住吉は動揺はしなかった。風の動きに巧みに応じて舵を操り、砲の照準を仕橋に合わせ続ける。駆るのは仕橋と同じくハンググライダーだが、操縦の腕ならおそらくこちらが上手。そして片手で保持する砲は、当たれば確実にレースから脱落だ。己が有利だという自信があった。
それでも、眉間にわずかに皺が寄るのを止めることまではできなかった。
「……有名人じゃないつもりなんだけどな、あんたと違って。まさか俺の能力まで割れてるのかよ?」
「いや。生憎とそこまでは知らない」
「そいつは安心だ」
ブラフか? 飄々とした風を装って答えながら、住吉は相手の顔を見据える。仕橋は無表情を崩さない。
睨み合いに益はない。伝説の焼きそばパンをみすみす他人に譲ることになる。
仕掛けなければいけない。速やかに。しかし外してはならない。弾丸は残り一発。きっと仕橋もそう見切っている。でなければ惜しまず撃てばいいのだから。
「ところで、地上に動きがあったようだ」
「!」
突然、住吉にまったく興味を失くしたかのように、仕橋は下方に顔を向けた。
つられて下を見そうになるのを咄嗟にこらえ、住吉は引鉄に指を掛ける。相手は完全に無防備になった。好機。好機。好機のはずだ。
「見てくれ。いや、見なくてもいいが。脱落者の、脱落の仕方が絞られてきた。派手に暴れている参加者、そいつに吹き飛ばされるのが一つ。それから、そこら中にあるらしい落とし穴に落ちて抜け出せなくなるのが一つ」
いつでも撃てる。撃てば当たる。そのはずなのに、本能が否定する。今ではない。今撃っても無駄だ。お前は弾を無駄にする気か?
今ではない。今ではない。今ではない……ああ、だが、ならば、いつなのだ? いつまで待てば、本当に当たるようになる?
「事前にあれほどの罠を仕掛けていた者がいたのか? 誰にも気付かれず? 奇妙だな。まるで気を配っていないようなのに、暴れる輩が罠にかかる様子がないのも奇妙だ」
「……そう、かよッ!」
住吉は引鉄を引いた。
くぐもった破裂音と共に、砲口から白い玉が飛び出す。玉は拡散し、強靭な網になった。その光景は蜘蛛の巣が自ら獲物を求めて襲いかかる様を思わせた。
狙いは正確。仕橋は対応しない。命中。
「ネットランチャーか」
――住吉がそう確信した瞬間、仕橋のバックパックが火を噴いた。
瞬時の超加速。射出された網は残像のみを掠め、何者も捕らえずに地上に落ちた。
「一般的なものとは異なるようだが」
「……自作だよ」
「なるほど。器用な男だ」
住吉は半ば呆然としながら答える。
爆発的な勢いの持続は一秒にも満たず、炎はすぐに消え、焦げた臭いだけを空に残す。とは言え仕橋が攻撃を回避し、かつ後続を大きく引き離して先頭に躍り出るには十分な効果。
それを為さしめた、バックパックに仕込まれた筒状の金属は、
「……ジェットエンジン……?」
「スイスの発明家に、売ってくれるよう頼み込んでな。飛行機のチケットはタダというわけに行かなかったから、少々痛い出費だったが」
「……そこまでやるか、あんた」
「これも“パシリ行為のため”だ」
もっとも重量の関係で、出力はそう高くなく、可能な噴射もたった一度。
ゆえに勝負を決められるような代物ではない。第一の意義は緊急回避。ついでに多少リードを稼げただけ。未だ焼きそばパンを手にしてもいなければ、購買部に辿り着いてもいないのだ。
仕橋は降下のために舵を取った。一拍遅れて、住吉を含む後方の者たちも着地に備え始めたのを感じる。
ここからだ。地上での争いにおいて、十全に力を発揮することこそが――
ガクン。
ハンググライダーが、まったく唐突に速度を失った。
「何?」
衝突したのだと察知するまで、さしもの仕橋もわずかに時間を要した。
曇天に溶け込む灰色の細い繊維。空中に広く張り渡された網が、最初の餌食を捕らえたのだ。
希望崎学園最高峰のパシリは、あっけなく墜ちていく。
(気付かなかった……? 馬鹿な。僕の目が、危険感知が見逃すはずはない)
彼の思考は加速する。
(間違いなく、ほんの数秒前まで網などなかった。地上ではいつ仕掛けられたかも不明の落とし穴。その手の事前工作は当然監視していたのに)
彼は上方、もはや届かない高みを見た。驚いた顔でこちらを見下ろす住吉と目が合った。さらにその向こうに何かの影。
鳥か? いや、あれは。
「住吉くん! ――ドローンだ!」
((ふひひひひ。どぅ、どうですか、姉様))
(ええ。いい仕事でしてよ、照子)
((あぅあああ、も、もったいないお言葉、です))
一見、彼女は物思いに沈んでいるようだった。
淡く波打つ黒髪の艶は、織りたての絹と見紛うばかり。教室の窓から外を眺める、なんと言うことのない格好でいても、まるで一葉の絵画のよう。そんな美しさを持った少女だった。
しかし、冬頭美麗は戦士であり、今この時にも戦いの内にある。
(殴花。あなたから見ては、どう?)
((悪くないぜ、姐さん。道もだいぶ空いてきた。そろそろ詰めに入ってもいいだろ))
(そう。お疲れ様。……それにしてもやっぱり、あなた、もっとお淑やかに喋ったほうが可愛いと思うのに)
((……今言ってる場合かよ))
拗ねたような語調――音で会話しているわけではないが、なんとなく分かる――に、美麗は思わず微笑を零す。
同時に、最後の一人に呼びかける。
(亜由美。準備をなさいな)
((……承・知))
テレパシーの中ですら彼女は無口だ。極限まで言葉を削れるように考えながら話す。
その拘りぶりに慣れなくて、美麗は今度は苦笑を浮かべた。
だが、その彼女こそが勝利への鍵。
スピードに特化した能力を持つ魔人は、“難しい”とよく言われる。
最大の要因は人の肉体の脆さだ。わずかな段差や舞い上がった砂粒でさえ、高速移動中には命取りになる。美麗の能力の影響下にあれば多少はマシになるものの、過信できるものでもない。
そこで、事前に障害物を減らす。
罠大居照子が罠で競争相手を排除する。岡本殴花――通称上級ヤンキーおかもとが、金属バットで競争相手を排除する。
二人が掃除した道を、素極端役亜由美が駆け抜ける。
そうして、美麗と三銃士が勝つ。伝説の焼きそばパンを我が物とする。
美麗は窓の外の光景に目を凝らした。
校舎からもうかなり離れたところで、砂煙と共に繰り広げられる熾烈な戦いが見える。しかしそこにいる人間の数は、昼休み開始当初よりずいぶんまばらになった。照子が空を飛ぶ連中に向けて張った網も、今しがた最初のライバルを蹴落としたようだ。後続にも動揺が広がっている。
機は熟した。
(決めて頂戴)
指示はごく簡潔。答えは返らない。代わりに美麗は見た。預言者に割られる海の如く、校庭の砂が二つに分かれて噴き上がるのを。その先端を突き進む、小柄な少女の後ろ姿を。
他の全ては彼女に置き去りにされた。妨害できる者は誰もいない。
勝った。美麗がそう思うか思わないかのうちに、亜由美は購買部の入り口に辿り着いていた。
((ん? 待ってくれ、なんだアイツ――))
いかにも不吉な言葉を殴花が発したのは、その直後のことだった。
「……何たる不覚」
彼は苦い口調でそう一人ごちた。
高校生とは思えないほど、重く静かな空気を纏う男だった。
「耐えられれば良い、が――」
腰の刀に手を添える。見据える先には購買部。
居合い抜き。プレハブ小屋が斜めに断たれた。そしてこの世ならぬ力によって歪み、縮小し、最後には消えた。
淀みなく繋ぐ斬り下ろし。突然の事態に立ち竦む少女が、購買部と同じ運命を辿った。
乾いた音を立てて刀が落ちる。
彼は膝を突いた。全身から力が抜けていく。
「やはり……重い、か。何某かに塩を送っただけだな、これでは」
「――テメエェェェェェッ!」
自嘲して笑う彼の耳に、怒りに満ちた叫びが届いた。
彼はそちらを見た。セーラー服を着た少女が、長い黒髪を振り乱しながら突進してきていた。鈍く光る金属バットを携えて。
クラシカルだな、とだけ彼は思った。
「ド、ドローンだと……?」
焦燥に歯を噛みながら、住吉はその言葉を反芻した。
司法書士を志す者として、世の中の出来事には気を配っている。
なんでも最近首相官邸に落下したとか、いや落下したのはかなり以前で発見されたのが最近なのだとか――
「って、んなことはいい」
アフロを振って余計な情報を追い出す。
仕橋を撃墜した網は、当然それだけで消えてくれてはいない。住吉の前を飛んでいた者たちもそれに捕らえられ、あるいは避けようと無理な動きをして落とされている。
彼は持ち前の器用さを発揮した。片手でスマホを取り出しつつ、もう片手でグライダーを操って上手い具合に傾かせ、上方に視界が通るようにする。
果たして、彼は自らの頭上に、複数のプロペラを備えた黒い機影を見出した。
「アレか。アレを……壊せばいいのかよ」
仕橋は敵だ。信じていいものかは分からない。一方で、特に信じない理由もない。物のついでという言葉もある。どの道、網には対処するのだ。
住吉は素早く電話をかけた。彼だけに意味のある番号に。
「しかし、そういうつもりで言ったってことは……」
耳に当てる。この番号は発信しても呼び出し音は鳴らない。ただ、炎の燃える音がする。
最初は小さく、弱く。やがて徐々に大きく、激しく。
ついには、それは現実の世界にも響き渡る。
「やっぱり知ってたんじゃねえか」
荒ぶる巨鳥の紅蓮の炎が、希望崎学園島を照らし出した。
((姐さん! 姐さんっ! 亜由美が! 購買部が!))
((ふ、ひィィ……! 姉様、カメラがか、怪獣にやられましたです!))
(……落ち着きなさい、二人とも)
美麗は、テレパシーで姿が伝わらないことをありがたく思った。
戦いの場で取り乱してはならない。特に司令塔である自分が無様を晒せば、仲間たちをも不安にさせる。
――二度と。
(……亜由美。亜由美、応答して!)
((…………無・事))
返答は、凍えた体に染み通る珈琲のように美麗を癒した。
大きく息を吐く。ぞっとしない時間であった。
((現・在・番・長・小・屋・裏))
(……学園内ではありますのね。怪我はない? レースには復帰できそう?)
((可・能))
(良い子。後ほど褒めて差し上げますわ)
慈しむようにそう言って、一転厳しい眼差しを窓の外に向ける。
購買部もまた現存していた。だがその位置は元々建っていた場所から、広大なグラウンドを挟んで反対側。
(何があったの、殴花?)
((アタシもよく分かんねえ。なんか侍みてえなヤツが、刀を素振りしたと思ったら……。反動で弱ってたっぽいんで、ぶっ飛ばしてやったけどよ))
(……柳生新開の時空剣術? 私、彼は早めに排除するように言っておきませんでしたこと?)
((えっ……その、悪い、ぶん殴りまくってるうちに忘れてた……))
(もう……)
美麗は額を押さえて溜息を吐いた。最も新顔の三銃士たる彼女は、ヤクザ一万人殺しの噂も頷ける戦闘力を誇るものの、頭の出来が少々可愛らしい。
((か、重ねて悪い、姐さん。他の奴らがまた走り始めた。どうすりゃいい?))
(……仕方ありませんわね。亜由美が復帰するまで代わりに走ってくださいな。今度は敵の排除より、先頭についていくことを優先して)
((了解))
((ね、ねね姉様、カ、カメラは……))
(プランBですわ。私も出ます)
近くに置いておいたハンディカメラを手に取る。見た目には何の変哲もない代物だが、メーカーを示すマークはない。
これもまた“エリア51”の産物なのだ。
((ふ、ふひ? 大丈夫ですか……?))
(こうなっては、一人だけじっとしていても意味がありませんもの。あなたの護衛に期待しておりますわ)
美麗は床にダストシュートを開かせ、鮮やかに校庭へと滑り降りた。
「……これは、一体」
ヨガの力で浮き上がり、深い落とし穴から脱出した直後、パン崎努は思わず呆然とした。
購買部がなくなっている――いや、瞬間移動している。
これは幻覚か? パンツ欲が限界を突き破り、とうとうおかしくなってしまったのだろうか。
パン崎は絶望に呑まれかけたが、彼の目は同時に、新たなゴールに向かって再び走り出す参加者たちの姿を捉えた。
ならば現実だ。自分はまだ、正しく物事が見えている。
――僕は、まだ戦える。
パン崎は駆け出した。ヨガ部での活動は、彼に肉体面での持久力も与えていた。競争相手からの妨害をかいくぐり、時には避け損ねて遅れを取りながらも、息が乱れていることはない。
先輩。そして部長。たった二人の、されどかけがえのない仲間の顔を思い出す。パン崎にとって、彼らは平穏な日常の象徴とも言えた。また、ヨガ部に戻りたい。
入部希望者として訪れた、あの可愛い少女の姿も脳裏に過ぎる。不純な思いがむくむくと身をもたげ、涎が垂れてきそうになる。パン崎は激しく頭を振り、邪な空想を追い払った。
もし、伝説の焼きそばパンが手に入ったら。そうして、呪わしい自らの欲望に、決着を付けることができたなら。
彼女とも、仲良くやっていけるだろうか。
その時。
美しいフォームでひた走る彼の鼻に、かぐわしくも背徳的な芳香が届いた。
そう。
パンツの匂いだ。
「……!」
パン崎努は戦慄した。
頭の中で思い描いた彼の理想のパンツのイメージが、そのまま現実になったかのような、あまりにも暴力的な香りだった。
ああ、もう見なくても分かる。
その色は真珠を思わせる白。シンプルな形状でありながら、線の細さや生地の柔らかさがいじらしく感じられるに違いない。腰周りは静かな細波にも似たフリルで取り巻かれ、正面にワンポイントで飾られた小さなリボンが、野に咲く一輪の花のように存在を主張していることだろう。
彼は抗った。見たい、という衝動に。己に強いて正面を向き、ただひたすら購買部を目指すことに神経の働きを注ぎ込んだ。見てしまえば、パン崎は自分を抑えられる自信がなかった。スカートの下のそれを暴き、非力な抵抗を嘲笑いながら剥ぎ取って、持ち主の目の前で口に含む。おお……なんたる邪悪、かつ魅惑的な行為であろうか。彼には狼藉を働く自分の姿が、恐ろしいほどはっきりと見えていた。そのような獣に堕するのは嫌だ。絶対に嫌だ。パン崎は走った。必死に走った。
しかし、なんと無慈悲なことか。彼女は足が速かった。パンツ臭が徐々に強まる。彼女はもうすぐ後ろにいて、自分を追い抜こうとしているのだ。それがどれだけ危険なことかも知らずに。
最後の抵抗に、パン崎はきつく目を閉じた。パンツがすぐ横を通り抜けていく。そのまま行ってくれ。早く離れてくれ。彼は祈った。その時だった。グラウンドに落ちていた小石が、無情にも彼の足を掬った。
「あっ……」
瞼が開かれる。彼の天運はここに尽きた。パン崎は見てしまった。自分を追い越したその人間の姿を。
そして――そして、彼は困惑した。
男だった。
学ランを着て、髪を金色に染めた。女らしい男、ですらもない。
パン崎は地面に倒れ込みながら、あのような男が学園にいただろうかと思い、それ以上になぜ彼からパンツの匂いがするのかを不思議に思った。
「待ぁてええぇぇぇ!」
後ろから女性の声。
ぎょっとして振り向くと、今度は間違いなく、少女がこちらに向かってきていた。赤いフレームの眼鏡がよく似合っているが、むしろことさら目を引くのは、掲げた右手の先から伸びる、うねくる白い縄のような物体だ。
視線の方向から、先ほどの男に用があるのだということは分かった。一体何があったのか、ものすごい剣幕の顔は真っ赤に染まり、左手はスカートの裾を押さえている。
彼女は転んでいるパン崎には目もくれずに走り去った。脇を通られる際、パン崎は身を固くしたが、結果としてはより困惑することになった。
彼女からは、パンツの匂いがしない。
掏児は女子生徒の財布を盗み取ろうとした。
簡単な仕事だ。背後から近付き、そっと触れる。それだけで済む。伝説の焼きそばパンなんかのために必死になっている馬鹿な子供は、現実的な悪事への警戒心がお留守になっている。
すなわち、彼にこそ油断があった。これまでが順調過ぎたために。
「捕まえて、ハリガネムシくん!」
((了解!))
「……は?」
掏児が触れようとした直前、その女子生徒は振り返っていた。そして彼女が叫ぶやいなや、上着の裾から飛び出した魔人ハリガネムシが、彼の手首に巻き付いたのである。
無差別に手を出していれば、いずれは悪い相手にも当たる。上空から降るトリモチと同じく、千倉季紗季は後ろから接近する男のことなどとっくに気付いていたのだ。
(このガキ、何か仕込んでやがったか!)
しかし、その時点ではまだ掏児は冷静だった。彼は相手の武器が鞭か何か、ともかく普遍的な物品に過ぎないと誤認したのだ。一見どこにでもいそうな少女が、実は巨大ハリガネムシと共生しているなどと、一体誰が想像できるだろう?
ゆえに、彼もまた普遍的な対処を選んだ。
選んでしまった。
スポン。
((あれ?))
「え?」
「あん?」
フィンガーマン――触れるだけで気付き得ないほどの速度でスリを働く能力。
一瞬後、彼の手の中では、体長20mのハリガネムシが激しくのたうっていた。
「……なん、なんじゃこりゃあああああ!」
「ハ、ハリガネムシくん!?」
互いに狼狽する掏児と季紗季! 掏児はまさかそれが生物だとは思わなかった! 季紗季はまさか親友が突然攫われるとは思わなかった!
最も早く我に返ったのはハリガネムシくんだ。彼は何にせよ敵である掏児を拘束すべく、生けるロープとなって男の体を縛り上げていく!
(やべえ……!)
掏児はとにかくこのままではまずいということだけ理解した。幸い腕はまだ自由になる。右手を季紗季に伸ばす。彼女は怯んで背を反らすようにしたが、避けるには動きが小さすぎる。
彼の脳内で思考が駆け巡る。何を盗ればいい? 財布か? 駄目だ。もっと、強力な交渉材料になり得るものを……!
掏児が季紗季に触れる。
まるで手品の如き早業で、その手には可愛らしいパンツが握られていた。
「……え?」
季紗季は目を点にした。その視線がパンツと自らのスカートの間で彷徨った。ハリガネムシくんですらひととき動きを止めた。
「い、いいか! この……なんだか分からん気持ち悪ぃのを引っ込めやがれ! さもなきゃ!」
掏児は勝機を感じ取った。
空いた左手で彼女を指す。
「次はそのスカートを貰ってやる!」
――かくして卑劣な策により、彼はひとたび窮地を脱した。いつでも人質にできるよう、奪ったパンツをポケットに押し込めたまま。
ただしそれは取りも直さず、季紗季に狙われ続ける選択でもある!
(あいつ、近付いてきてた。きっと相手に触らないと使えない能力なんだ)
((そうだね。つまり季紗季ちゃんに近付かせずに僕が捕まえれば))
(最初っからそうすればよかったよ、もう……)
彼女は必死で掏児を追う。ある意味焼きそばパン以上に大切な、己の尊厳を奪い返すべく。
「痛い……体が、重い……」
先頭の集団からは、ずいぶんと後方。
脱落した生徒たちが倒れ伏し、時たま呻き声を上げる中を、杖をつき、体を引き摺るようにして移動する影がある。
髪はぼさぼさで、顔は皮を貼り付けただけの髑髏のよう。誰の目から見ても健康状態のひどく悪い彼は、おまけに着ている学ランにも汚れが目立ち、体のあちこちに傷がある。
一体どれほど争奪戦で痛めつけられたのか――そう思わずにはいられない有様だが、実際のところそうではない。
不健康そうな外見は元からだし、傷や汚れも他者からの攻撃で負ったものではないのだ。
「眠い……。でも、眠れない……。いっそ気絶したい……。でも、この程度じゃそれもできない……」
彼は不幸だった。そのために痩せ細り、常に疲れ果てていた。
彼の能力も呪いのようなものだ。例えば先ほど、彼は二階の窓から校庭に降りるために梯子を召喚した。しかし代償として転落し、全身をしたたかに打ち、左腕の骨を折った。単純に飛び降りた方がまだマシだっただろう。
彼は歩きながら、落ち着きなく辺りの様子を見回していた。あるいは、もはや力の入らない首が、足の踏み出す勢いによって振り回されているのかもしれない。
目に入るのは脱落者ばかり。その中には気を失っている者も多い。彼はそういった者たちが羨ましかった。焼きそばパンという夢には届かずとも、彼らの今は平穏であろうから。
だから、彼の胸の奥にはささやかな反感が宿った。
まるで誘蛾灯の下の地面の如く、なぜか翼や滑空具を背負ったものばかりが倒れている一角。そこからゆらりと立ち上がった人物の姿を認めた時に。
それが見知った顔であったことも、あるいは多少関係していたか。
「……仕橋、先輩」
呼ばれた男もまた、痛々しい姿だった。
骨折ほど大きいダメージこそないものの、服の汚れと負傷の多さでは勝るとも劣らない。眼鏡のレンズにはヒビが入り、まだ使えたはずの道具の数々は、どれも壊れて散らばっている。墜落の際、バックパックをクッションにせざるを得なかったからだ。
仕橋もまた、呼びかけた男に正面を向け、その名を呼んだ。
「闇雲希くん……か。相変わらず、無茶をしているようだ」
「したくてしてるわけじゃ、ないんです」
「そうだろうな。同情するよ」
話しながら、仕橋は歩き出す。希も同じ方角だ。
「……先輩、いつもと少し、違いますね……?」
「そうかな?」
「そうですよ。眉間に皺が寄ってる。あんまり余裕がないみたいだ……」
「そうだな。思っていたより、少しまずい。焦っているのかもしれないな」
二人の歩く速さは、少しずつ上がる。仕橋がペースを上げれば希がついてくる。希がペースを上げれば仕橋がついてくる。
希は杖をついている。その杖に仕橋の視線が留まる。
「……先ほどから気になっていたが、それは?」
「あぁ……これですか」
希は笑った。誕生日のプレゼントを褒めてもらった子供のようだった。
「これは、武器なんです」
「ほう」
「僕は、伝説の焼きそばパンを手に入れる。そのための、武器」
「焼きそばパンか。僕もそれを買おうと思っている」
二人は走り始めていた。それでも希は“杖”をついている。先端が菱形に膨らんだそれを。
ガツ、ガツ、ガツ、ガツ。先端が砂の地面を突く度に、硬く詰まった音が鳴る。希は笑みを深め、小首を傾げた。
「……譲ってくれませんか、先輩。先輩は僕と同じパシリなのに、いつも勝つ側だ。たまには、負けるのもいいと思うんです」
互いに顔は相手に向けたまま、仕橋は跳び、希は少し走る軌道を変えた。二人のパシリ危険感知力が、落とし穴の存在を察知したのだ。
仕橋としては少々気にかかるところではあった。グラウンド側にも罠? あのドローンは無関係だったのか。それとも新たな媒介が用意されたのか。
しかし、目下の敵は。
「悪いができない相談だ。僕にも求める理由がある」
「理由。理由。アハッ」
希が杖を振り上げる。その顔から笑みが消える。
「――僕にだってある。あれが、あれが、僕を幸せにしてくれるんだ」
振り下ろす。頭を狙う一撃。だが雑だ。仕橋は避けた。代わりに打たれた地面が抉れる。
直後、両者は再び落とし穴を回避。そしてさらにスピードを上げる!
「……気取った言い回しは好きじゃあないが、これも王たらんとする者の試練ということかな」
そう言う仕橋の表情は厳しい。
今の位置はほとんど最下位に近い。加えて眼前の相手、闇雲希もまた一廉のパシリ。
彼をもってしても、容易な状況ではない。
「いいだろう。僕はいつでも、誰の挑戦をも受ける」
兵動惣佳は外を眺めている。
冬頭美麗のように戦ってはいない。ただ、外を眺めている。
そうしよう、と思ったわけではない。
今日も番長小屋に向かうつもりだった。母が用事で忙しい日だったので、今日の昼食は手作りだ。小次郎は私が焼いた鮭を美味しいと言ってくれるだろうか。
……そんなことを、考えていたはずなのに。
(……無理、だよね……)
見つめる先は購買部。今そこに伝説の焼きそばパンがあって、それを食べれば願いが叶うと言われていて、だから大勢の人が求めている。
……大勢の、強い魔人たちが。惣佳は見ていた。戦いの中で次々に倒れていく生徒たち。凄まじいスピードで走る女の子。瞬間移動させられた購買部。巨大な火の鳥。
自分なんかでは、手に入れられるわけがない。
「……いや、そもそも、叶えたい願いなんてないし」
ゆるゆると首を振る。
自分は今の日常に満足している。友達は確かにいないけれど、動物たちがいてくれる。したたかに生きる野良猫や、木の枝で鳴き交わす小鳥たち、テレビで見る外国の珍獣。彼らの話は面白いし、他の誰も知らない世界の秘密だ。他人がどれだけ望んでも手に入らないものを、私はもう持っている。
だから、これくらいでちょうどいい。伝説の焼きそばパンなんて、分不相応というものだ。
さあ、未練がましいのはもう終わり。
そろそろ、小次郎に会いに行こう。
「…………」
それでも、購買部から目を離せない。
その時。
『ソーカ』
聞き慣れた声がした。
はっとしてそちらに目を向けると、いつの間にやって来ていたのか、窓の下に一匹の猫。
「こ、小次郎?」
『他の誰に見えるってのさ。早く行こうよ』
そうか。ずいぶん待たせて、お腹が減ったに違いない。
そう思い、鞄から弁当箱を取り出した惣佳へ、小次郎は不満げにニャアと鳴いた。
『違うって。行くのは、あっち』
そう言って、頭の向きでそちらを示す。
惣佳がずっと見つめていた、プレハブの建物を。
「え……でも」
『でもじゃなーいー。欲しいんでしょ? 伝説のヤキソバパン』
「……その話、知ってたの?」
『人間たちの間で持ち切りだもの。さ、早く』
「ま、待って!」
尻尾を向けて歩き出そうとした小次郎を、惣佳は思わず呼び止めた。
「い、いらないよ。欲しくないもん、焼きそばパンなんて」
『ニャア』
「え?」
『ニャア。ニャアニャアニャア』
「な、なに言ってるの、小次郎……」
小次郎はそのまま歩き出した。惣佳の心を不安が掴んだ。
「小次郎!」
彼女は窓枠を乗り越えた。上履きが砂で汚れるのも構わず、猫を追いかける。
放っておいたら彼が遠くへ行ってしまうのではないか。それは恐ろしい予感だった。
しかしそんな彼女へ向けて、小次郎は振り返って言ったのだ。
『ほら。やっぱり』
「……小次郎?」
『ソーカは自信がないんだ。そんなに慌てちゃってさ。他の人間は誰も僕らの言葉なんか分からないけど、ソーカよりずっと楽しそうにしてる』
「そんな……そりゃ、他の人は分からないのが元々だし」
『楽しく生きるのに、魔人の力は関係ないってことさ。逆に特別な何かを持ってるからって、その分他で遠慮しなくちゃいけないなんてことはない。僕はソーカを友達だと思ってるけど、猫の友達がいるから人間の友達を作っちゃいけないなんて決まりはないんだ。ましてや自分の気持ちに嘘をついてまで』
「でも……でも、私は」
『うまく人と打ち解けられるか分からない。だろ?』
小次郎は笑った。見た目では変わらなくても、惣佳には分かる。
アニマル・リンガル。そんな力があるならば他には何もいらないと、そう思う人もいるかもしれない。
けれど、そう思わなくてはいけないという理由はない。
『だから焼きそばパンを手に入れよう。あれだけ多くの人たちに勝ったら、あとはなんだってできる。そう思えるようになるよ』
「…………うん」
兵動惣佳は、確かに頷いた。
「小次郎。力を貸して」
『もちろん。いいかい、僕が通った後をついてくるんだ。そこらにたくさん罠が仕掛けてあるから』
「わ、罠……」
やはり本気の戦いなんだと、改めてそう実感する。
その上で、弱々しくながらも惣佳は微笑んだ。再び歩き出した小次郎の後から、渦中に飛び込む第一歩を踏み出す。
罠大居照子のトラップは、当然ながら対人用だ。
最も数が多い落とし穴も、時たま紛れている凶悪なベアトラップも、猫が乗ったくらいでは反応しない。
小次郎は先行して安全な道を探りながら、しばしば振り返って惣佳を気遣う。
彼女もまた懸命に駆けた。一般的な魔人と違い、彼女の身体能力は並の人間と変わらない。それでも可能な限りの力を出した。
ふと、惣佳の目が少し離れたところの人影に留まった。
既に先頭集団は過ぎ去って久しい位置だが、脱落者というわけでもなさそうだ。
不思議な男だった。まず腕が大量にある。肩から背中から、数え切れないほど生えている。
それだけ異様な風体ながら、纏う雰囲気は穏やかだった。急いて走ることもなく、ゆっくりゆっくり、歩いて購買部を目指している。
彼の名は“歩く千手観音”大石扇丸。
近接戦闘では無類の強さを誇る魔人だが、歩行でしか移動できないという制約は、此度の争奪戦にはあまりにも不向きだった。
そうと知りつつ参戦したのは、果たして何を思ってか――そのアルカイックスマイルから、余人が読み取ることは難しい。
『ソーカ。早く!』
「あ、うん!」
小次郎の声が、惣佳を引き戻す。
再び走り出した彼女は、乱れかけていた呼吸がすっかり整っていることに気付いた。
単に休憩になったからか、戦う決意を固めたからか、彼を見つめたことに何か意味があったのか。
いずれにせよ、彼女は前に進むことにのみ意識を注いだ。
それは、奇蹟のような光景だった。
薄暗い曇天の空の下、敗れた者たちが倒れ伏す荒野。陰鬱な世界の中にあって、ただ一人躍動する例外、猫に導かれる少女が駆けてくる。あたかも激しい合戦の後に現れるという天上の戦乙女の如く。
しかし彼女が求めるのは、勇敢な戦士の魂ではない。伝説の焼きそばパンなのだ。
罠をことごとく避けられること、走者同士の戦闘と無縁だったこと。目指すべきゴールが中途で変わったことも、惣佳の助けとなっただろう。
争奪戦最後の参加者は、決して悪くない順位に食らいつこうとしていた。
希は背中を丸めてうなだれるようにし、垂らした腕で持つ杖の先端を、並走する仕橋に向けた。
殺人剣術、蛮鬼の構え。
繰り出されるのは怒涛の連続攻撃。胴を狙って薙ぎ、胴を狙って薙ぎ、胴を狙って薙ぎ、胴を狙って薙ぎ……つまり、ひたすら胴を狙って薙ぐ。
仕橋は避け続ける。パシリの基本技能、回避。本来は、混み合う店の中で、人の間を縫うように移動するための技。だが彼ほどのパシリともなれば、戦闘にも多少は応用が利く。
希の剣術が付け焼刃であり、かつ左腕が使えないことも、防御の難度を引き下げていた。
避けながら、レースへの復帰もまた忘れてはいない。
戦場がグラウンドに移って暫し。一度は最下位近くにあった仕橋たちは、いま再び先頭集団に食い込みつつある。
俊足。それもまたパシリの心得。
そもそもなぜ、Pa.Si.Riが会計の手間を省く能力なのか? 答えは明白。会計の速度だけは自分ではなく、店員の技量によって左右されるからだ。
翻って言うならば、会計以外にかかる時間は自らの修練で減らせばよい話。
仕橋王道のパシリ行為にとって、魔人能力は助けでこそあれ、決して不可欠なものではない。彼は彼だけでも最強のパシリの一人なのだ。
しかし。
「焼きそばパン……焼きそばパン……焼きそばパン……」
――その彼についてくる希のことは、侮っていたと言わざるを得まい。
最初の数撃を適度にいなし、後は彼我の速度差で突き放す。その戦術は成立しなかった。
仕橋は訝しむ。痩せさらばえた体のどこに、得物を振り回しながら高速で走り続けるほどの持久力が秘められているのか。
常人には測り難い。それこそが希の強みなのだと。
不眠症、感情の鈍磨、空腹感と満腹感の麻痺――その行き着く先は、疲労の忘却。
闇雲希は疲れない。正確には疲れを感じない。体がどれだけ悲鳴を上げようと、その声が脳に届くことはないのだ。
「……先輩」
間断なく攻め立てながら、希が言う。
「どうした」
それらを全てかわしながら、仕橋は問う。
「僕、勝てると思いますか」
「質問の意図が読めないな。勝つために戦っているんだろう」
「そうですね……そうだ。そうだけど……前の人たちとこんなに離れてるんだ。特別な何かに頼らないと、難しいんじゃないですか」
何かとは? 仕橋はそう問いを重ねた。
だがその声は掻き消えた。音速の壁を突破する轟音に飲まれて。
噴き上がるのは砂の壁。その先端には一人の少女。希望の泉に現れて、一呼吸の間にグラウンドに至る。
レースに戻った素極端役亜由美が、凄まじい速度で購買部へと“歩く”。
「ああ……やっぱりだ。頼るしかない。僕は嫌だ。でも、こうしないと幸せが逃げていくんだ」
希は呻いた。その足元に超自然の輝きが生じる。
仕橋が身構える。
「君は、」
「契約する。彼女を止めてくれ」
輝きは魔法陣となった。
――希望崎学園島が、揺れた。
「く……!」
「あ……好機……」
体勢を崩す仕橋に向けて、どこか呆然とした様子の希が、呆然としたままに杖を振り上げる。
「しまっ――」
「先輩。僕が、勝」
次の瞬間、希の姿は地面の下に消えた。
落とし穴。論理的には、能力発動直後で危険感知力が鈍った。そして悪魔との契約的には、それが今回の代償であった。
その日の地震は、震度にして6前後となる激しいものであったという。
奇妙な点は二つ。
一つは、それが希望崎学園でしか観測されなかったこと。
もう一つは、それほどの揺れにも関わらず、被害が人的・物的ともになかったこと。
ただ、その“亀裂”を除いては。
「…………うっわ、マジっすか」
舟行呉葉は、少し離れた場所から大地の崩落を見た。
例えるなら――隅が欠けたタイルのように、だろうか。
希望崎学園島の南西部は、新校舎の南端から旧校舎付近にかけて生じた地割れにより、島の本体から分断された。
購買部は、地割れの向こう側だ。
「……!」
亜由美は火急の選択を迫られた。
能力を解くか解かないか。谷は深く、幅は広い。落ちれば命はないだろう。解けば落ちる前に止まれるかもしれない。解かないなら飛び越えることになる。飛距離は足りよう。自分はマッハ2だ。着地に失敗した場合は――。
((止まりなさい、亜由美!))
「!!」
彼女は即座に従った。是非を論じる暇などはない。慣性が彼女を引き摺る。必死で踏ん張る。靴の裏から煙が上がる。焦げているのだ。地割れの縁が迫る。迫る。ぎゅっと目を瞑る。
静寂。
((……無事ですの?))
亜由美は目を開けた。視界いっぱいに闇が広がっていた。
驚いて後退る。後退れた。落ちてはいなかった。代わりに踵がもつれ、尻餅をつく。
自分が停止したのはまさに崖っぷちだった。そう理解し、呆然とした。それから思い出したように返事をした。
(……停・止・成・功)
((…………よかった))
ほっとした気配が、テレパシーでも伝わる。
なんだか今日は二回目だ。やっぱりスピード系は難しいんだなと、亜由美は他人事のように思った。
((大丈夫? 怪我はない?))
問われて、自分の足を見る。
靴底が燃え尽きてなくなっていた。ソックスも運命を共にしていた。そうして露わになった足の裏は、黒と赤に焼け爛れていた。
なので答えた。
(…………痛いです)
((……褒めてあげるだけじゃ足りませんわね。ともかく、後は私たちに任せて))
素極端役亜由美は脱落した。
「みんなー、出番だよーっ!」
「「「オオオオーッ!」」」
座り込む彼女を背景に、学園のアイドルが声を張り上げる。
どこからか湧いて出る男子生徒の群れ。精神操作された彼女の奴隷たちだ!
「さあ! 橋になってくれた子にはー、私の次のシングルを五万枚買う権利をあげちゃう!」
「「「オオオオーッ!」」」
軍隊アリじみた連携! 男子生徒と男子生徒が連なり、ものの数秒で地割れを跨ぐ橋が架かる。
満悦の表情で足をかけるアイドル。しかし!
「おらぁ!」
「きゃん!」
彼女を突き飛ばし割り込む者あり! 金髪の男! 臥間掏児! 抜け目なくも相当な順位に上がってきていたのだ!
なお彼はもちろん突き飛ばした際にアイドルの財布を奪っている。非道!
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
掏児に踏まれるたび、男子生徒たちは感謝の声を上げる! 日頃のファンクラブ活動の成果だ!
彼は気味悪げにしながらも、とにかく真っ先に対岸へ渡った!
「悪い!」
「失礼っす!」
続いて住吉、呉葉が駆け込む! 沸き起こる感謝の大合唱!
やや間を置いて仕橋王道! だが彼には背後から迫る影!
「――焼きそばパン!」
「闇雲くん……!」
振り下ろされた杖が避けられる! 勢い余って橋を強打!
さすがに苦しげな声が出てくる! それでも二人は遠慮なく戦闘を繰り広げながら通過!
「……みんな、ひっどーい……」
アイドルは少しの間ふて腐れていたが、やがて気を取り直して橋を渡り始めた。
「あり……がとう、ござい……ます……」
男子たちの額には脂汗。だが彼女はそんなことを気に留めはしない。アイドルだからだ。
むしろ彼らの声が小さいことを不満に感じ、踵を強く捻り込む。
「ほーらー。私が踏んであげてるんだよ? もっと元気出して?」
「あ…………あり……が……」
今回ばかりはやめておくべきだった。
男子生徒の橋は崩落した。
「……うそーーー!」
アイドル――和田美咲の悲鳴が、長く、長く尾を引いた。
やがて、ばしゃん、という水音が立て続けに響く。
――落ちても死ななかったかもな、と亜由美はぼんやり考えた。
「行くよ、姐さん!」
「ええ。お願いしますわ」
冬頭美麗は頷いた。
岡本殴花がバットを振りかぶる。
美麗は橋の崩落に間に合わなかった。努力はしたが、やはり自分は現場向きではないと思い知らされた。
だから、殴花でなく自分が向こう岸に渡るのは、有利不利とは違う。意地だ。
ここまで来た以上、最後まで行ってみたい。そう告げた自分に、三銃士は賛同してくれた。かつてと顔ぶれは異なれど、彼女たちもまた大切な仲間。
殴花のバットが美麗の背を打った。
間違いなく全力の一撃。だが痛みはない。その代わり、美麗の体は弾き飛ばされる。ボールのように。
バットでの打撃を当てた際、“破壊力”と“ぶっ飛ばし力”を反比例させて調整できる――それが岡本殴花の魔人能力。
今は破壊力を限りなくゼロに、ぶっ飛ばし力を最大限に。美麗は地割れを軽々と越えた。
ただし、着地の安全は保証されない。
(照子)
((イエス、マム!))
そこで彼女はハンディカメラを地面に向けた。
何の前触れもなく、その場所にスプリングフロアが出現する。獲物を跳ね飛ばす床面の罠。とは言え今回のこれは実質トランポリンだ。
バネ仕掛けに受け止められて、美麗は無事に谷を渡った。
「頑張れよー、姐さーん!」
「…………」
殴花が両手をメガホンにして叫び、その傍らでぺたりと座った亜由美が、控え目な仕草で手を振った。
「Dad Rule. She Move」
呪文めかして唱えると、パン崎の右手は見る見る伸びる。
対岸の縁を掴み瞬間移動。ぶら下がる形になったところを、ヨガの姿勢を取って浮き上がる。
突然の地割れには非常に驚いたが、障害として見れば彼には対処しやすい部類だ。
「いや、でもさ……それは、そうなんだけど……」
ふと、聞き覚えのある声がして振り返る。
向こう側、つまりパン崎が先ほどまでいた側に、パンツの匂いがしない少女がいた。
どうして匂いがしないのか、清く正しいパン崎の精神は、未だに答えを出せていない。けれども対岸に多く残っている、地割れを乗り越える手段が見つからず途方に暮れている生徒たちとは、彼女の悩み方が違うようには思えた。
事実、季紗季は渡れるかどうかで悩んでいるのではない。
((だからさ、季紗季ちゃんが思い切りジャンプして、硬くなった僕がめいっぱい伸びれば、向こう岸の地面に引っ掛けられる。それから引き上げて、向こうに渡れるよ))
(うん、それは疑ってないの。でも……)
((やっぱり怖い? だけど、焼きそばパンはともかくとしてもさ、あの悪い男はとっちめてやらなきゃ))
(そ、そうじゃなくて。だから、つまりさ…………パンツ、盗られちゃったじゃない)
((うん?))
(その……その状態で、派手に動いて……もし見えちゃったら……って……)
((…………))
――ここを渡らなければ、パンツを取り返せない。一方で無理に渡ろうとすれば、パンツ以上に大事な何かを失うかもしれない。
哲学的に深い問題が、目の前の谷のようにぽっかりと口を開けているのだ。
パン崎は素早く思考を巡らせた。
競争相手という意味では彼女も敵であり、助ける義理はないはずだ。だが、困っている者には手を貸すのが正しい行いではないのか。
あるいは彼女にパンツ臭があれば、逆に危険に晒しかねないと、ある意味での言い訳もできたかもしれない。
しかしそれがない彼女。これは運命ではないか。女性に対して到底顔向けできない欲望を抱えた自分が、せめてもの罪滅ぼしをする機会なのではないだろうか。
「すみません、そこのお嬢さん」
そこまで考えた時には、パン崎の口はひとりでに言葉を紡いでいた。
意表を突かれた様子で、季紗季が自分の顔を指差す。
「あ、はい? 私?」
「そうです。もしよろしければ、こちらに渡るお手伝いをさせていただきたいのですが」
「え。その、どうして」
「まあ……自己満足のためといったところでしょうか」
恥ずかしげに笑うパン崎からは、季紗季もハリガネムシくんも悪意を感じなかった。
「……時間かかります?」
「いえ、一瞬です」
「……強い風を受けるような感じになったりは?」
「? 特にそういうことはありませんが」
「……じゃあ」
季紗季はおずおずと手を前に出した。
パン崎は頷き、右手を伸ばす。
「Dad Rule. She Move」
「わっ……」
ゴムのように伸びる右手に、季紗季は目を丸くした。
手が触れ合った次の瞬間、パン崎の顔がすぐ近くにあって、ますます目を丸くした。
「うわわっ」
「おっと」
どちらからともなく慌てて手を離す。
季紗季は改めて周囲を確認した。たしかに対岸だ。
「おおー、すごい……! ありがとうございます!」
「い、いえいえ。ですが、ここからはライバルなので。お互いに頑張りましょう」
ぴょこんと礼をする季紗季に対し、パン崎は妙にうろたえた風で、礼を返すとすぐ走り去っていく。
パンツに苦しめられてきた彼にとって、初めて間近で見る女子の存在は、それはそれで刺激が強いのだった。
((ちょっと顔色悪いけど、いい人だねえ))
(こらこら)
そんなことは露知らず、季紗季とハリガネムシくんは言葉を交わし、パン崎を追うようにして購買部を目指す。
彼女から少し離れたところで、ハンディカメラを携えた女子生徒が、トランポリンでの着地を決めた。
「はあ、はあ……な、何これ……」
『うわー、こりゃすごい』
猫に導かれる少女は、その直後にやってきた。
肺が酸素を求めてひりつき、膝に手を当てて息をしている。
周囲には未練がましくたむろする生徒たち。視線の先には大きな谷間。
一方でどうやったのか、向こうに渡った者たちもいて、彼らは逞しくもまた走り出している。
悠然と佇む購買部に向かって。
すごい、と惣佳は思った。伝説の焼きそばパンを欲しがる人たちは、こんなにも欲しいのだ、と。
弱気な思考がまた首をもたげてくる。……どの道自分には、この谷を越える方法なんかない。
呼吸は少し落ち着いたけれど。
ここまでやれただけで十分だ。
彼女は微笑んで小次郎に顔を向け、
『ニャアー!』
「ふえっ!?」
猫のフライングボディプレスを顔面に受けた。
「わぷっ……ちょ、な、こ、こじ……」
『また諦めようとしてただろ、ソーカ』
惣佳の手をかいくぐり、小次郎は器用に頭の上に登った。
そして前脚で彼女の顎を抱え、ぐいと上に向けさせる。
『ほら。空見て、空』
「そ、空……?」
言われるがままに惣佳は見た。
ハト、カラス、ツバメ、カモメ、セキレイ、ムクドリ、ヒヨドリ、ノスリ、チョウゲンボウ、スズメ――曇り空を覆い尽くさんばかりの無数の鳥たちが、こちらへ舞い降りてくる光景を。
『ソーカちゃん!』
『ソーカたん!』
『助太刀に参りました!』
『猫はどっか行って!』
次々と着陸する鳥の群れ。あまりの数に周囲の生徒もたじろぐ。瞬く間に鳥類ふれあい広場じみた有様だ。
唖然とする惣佳から、小次郎がぴょんと飛び降りる。
「こ、小次郎……?」
『僕は何もしてないよ。こいつらが勝手に集まってきたんだ』
『何がこいつらだこの小動物!』
『我々は一度でもご飯をくれた相手を忘れたりはしない! 猫と違って!』
『猫はどっか行って!』
『あーもう、うるさいうるさい』
猫はげんなりした様子で尾を垂らし、惣佳の元に集まりつつある鳥の輪から抜け出した。
振り返って言う。
『まあ、あとは頑張ってよ。惣佳ならできるさ』
「え? でも……え? どうするの?」
『我々の上に乗ってください、ソーカさん』
『あ、できれば寝そべるような感じで』
「こ、こう?」
恐る恐る鳥たちの上に横たわると、クッションに身を任せたように、彼女の体は幾らか沈み込んだ。かなり不安になる感触だったが、潰れてしまったりはしていないようだ。
生ける魔法の絨毯が羽ばたき出す。惣佳は重みをかけないように注意しつつ、少しだけ頭を上げて後ろを見た。
『小次郎! ――ありがとう!』
猫はそっぽを向いたまま、ニャーン、と言葉にせず鳴いた。
体が浮き上がる。離陸する。大勢の人の視線を受けながら、暗く深い谷を眼下に渡る。
気恥ずかしさと、怖さと、昂揚と、動物たちへの感謝と――色々な気持ちが混然となって、惣佳は少し涙を零した。
そして、強い眼差しを前方に向ける。
誰もが目指してきた購買部。そのプレハブ小屋の周辺では、最後の戦いが繰り広げられようとしていた。
争奪戦は、最終盤。
掏児が走る。
もう、彼の前には誰もいない。あるのは購買部ただ一つ。その扉が速やかに近付いてくる。彼という勝者を迎え入れるために。
(行ける。行けるッ!)
呉葉はその背中を歯痒く見つめる。追いつけない。
最初の妨害があまりにも痛かった。購買部に一着で乗り込むのは、あの金髪の男になるだろう。
――あとは、最後の手段に頼るしかない。
彼女は祈るような気持ちで購買部を見た。
(頼むよ……!)
その後ろから仕橋と希。彼らはまだ戦っている。
正確には一方的な攻撃。攻めているのは常に希で、仕橋は守りに徹するのみ。
この期に及んで仕橋に執着する意味は、合理的に考えれば希にはない。
だが彼は既に考えてなどいなかった。悪魔に取り憑かれたその日から、希の人生は不条理の連続だ。
だから彼自身も不条理となった。彼を突き動かすものは、ただひたすらに湧き上がる衝動。
幸せを手に入れたい。
邪魔立てする者は全て倒す。
幸せとは伝説の焼きそばパンだ。
そして目の前の相手だけは、なんだかとても許せない。
「僕が……勝つんだ……」
滅茶苦茶に杖を振り回しながら、彼は呻いた。
搾り切れた魂の、最後の叫びであるかの如く。
さらにその後方からは、パン崎、季紗季、美麗、惣佳。
だが、時を同じくして。
臥間掏児の手が、購買部の扉を掴んだ。
彼は扉を横に、
「っしゃあーッ!」
引き開け、そして、
「――――ぶっはあ!」
強い勢いで、弾き飛ばされた。
もんどり打って倒れた彼から、盗まれた財布が飛び散った。
「…………はじめまして」
戸口にゆらりと現れた人影が、掏児に向かって頭を下げる。
初対面の相手には、挨拶をすべきだ。
彼は、“普通”に礼儀正しかった。
「上下、中之です」
それは、五月六日の放課後のこと。
西日の差し込む教室で、帰り支度をする上下に、舟行呉葉が話しかけた。
「上下くん。今日は急ぎっすか?」
「やあ、舟行さん。いいや、特に用事があるわけでもないし」
上下は如才なく笑って対応した。
窓から吹き込んだ悪戯なそよ風が、呉葉のセーラー服をわずかに捲り上げる。上下は思わず視線を動かしたが、すぐに戻した。
健全な男子高校生として、そういうものに反応してしまうのは“普通”だ。が、割れた腹筋に目を奪われるのは“普通”ではない。
「じゃあ、ちょっと付き合ってほしいんすけど」
いずれにせよ、呉葉は気付かなかった。
「上下くんは、やっぱり狙うんすよね。伝説の焼きそばパン」
「うん、そのつもりだよ。今日は興奮して眠れないかも」
「……でも、本気で勝ち取る気ではいない。そうじゃないっすか?」
「……どういうこと?」
上下は首を傾げた。
本当に、なんでそんなおかしなことを思うのか、と、心底不思議そうな表情だった。
「もちろん、挑戦するからには本気だよ。そうでなきゃ他の人たちにも悪いし。それに、夢があるじゃないか。食べれば願いが叶うなんて」
「あー……言い方が悪かったっす。うん、上下くんは本気で取りに行く。けど――万一にも、本当に手に入れてはいけないんだ」
汗が伝う。
呉葉の頬を。
上下中之は“普通”である魔人だ。能力の詳しい実態までは分からずとも、彼と同じクラスにでもなれば、大体の人間はやがてそれを察する。
普通概念存在。魔人の能力とは、すなわち本人の願望の影絵でもある。呉葉はそんな彼に目を付けた。協力者として。
「……そうかな?」
「そうっすよ。“普通”の魔人じゃ勝ち目がないとは言わない。周到な計画とか、幸運とか、そういうのがあれば、きっと狙えるものではある。ただし、そうして手に入れてしまったら? その後は誰も、そいつを“普通”だなんて思わない。“伝説の焼きそばパンを手に入れた、あの”上下中之になってしまう」
「うーん……言われてみると、そうかもしれない。困ったな。けっこう悩ましいぞ……」
頭を抱えて唸って見せる、おどけたリアクション。
演技でないことは分かっている。彼は本当にそうなのだ。
――だからこそ、こうして改めて“普通”ぶりと接するのは、呉葉ほどの魔人であっても落ち着くものではない。
“普通”だと感じるということは、自分が上下の能力の影響下にあるということに他ならないのだから。
「……参ったな。舟行さん、僕を参加させないためにそんなことを? 策士だなあ」
「いや、そうじゃないっす。上下くんには、私の味方になってほしいんっすよ。……具体的には、事前に購買部で待ち構えて、私以外の参加者を排除してほしい」
「ふーん……? まあ、クラスメイトの助けになるのはやぶさかじゃないよ。とは言え正直なところ、どうして僕が、ともちょっと思うかも」
渋る上下に、呉葉は笑った。
「“普通”の男子っていうものは、こういうちょっと悪い役回りにも、憧れたりするもんじゃないっすか?」
「ど……どきやがれーッ!」
立ち上がった掏児が再度突撃!
「――ふっ!」
しかし上下は隙のない構えから相手の腕を取り、力の流れを巧みに利用して投げ飛ばした!
またもゴールから遠ざけられる掏児! 手で触れることすら許されないのではスリも行えない!
「くそっ……まあ、あいつなら、ああいう真似してもおかしくないけどよ……」
住吉がぼやく。
普通概念存在は見事に機能している。授業をサボるのは校則違反だが、上下がやるならそれは“普通”だ。
授業時間中から購買部に潜んでいても、誰も咎めたりはしない。
しかし、なぜ“普通”である彼に、掏児を寄せ付けない戦いぶりが可能なのか?
「よし。うまいこと仕上がってくれてるみたいっすね」
その答えもまた呉葉!
彼女は昨日上下との交渉がまとまると、すぐさま彼を調達部に入部させた。
そして見せたのである。数々の食材怪物を仕留めてきた調達部の活動記録ビデオや、自分と大山田末吉との生の組手を。
――“普通”の調達部員ならこれくらいできると教え込んで!
仕橋王道もまた、その状況を横目で確かめた。
自分で焼きそばパンを買わないのなら、上下は何者かと組んでいるはず。だがそれを推理する必要はない。住吉弥太郎、そして舟行呉葉。間もなく上下一人では物理的に阻めない数になる。
したがって、こちらもそろそろ行かねばならない。
「……闇雲希くん。君は強い」
希の渇望が、仕橋にも伝播したものか。彼は感傷めいて言った。
「僕は……僕は、褒めてもらいたいわけじゃない。幸せになりたいんだ。伝説の焼きそばパンが欲しいんだ」
希は杖を振り上げた。殺人剣術。
「勝ちたいんだ……!」
「…………」
仕橋の頭へ振り下ろす。
彼は、今回は避けなかった。
鈍い音が鳴る。
仕橋の左手が、杖の先端を受け止めていた。
「君は……強い。君に勝たなければ、僕はパシリを完遂できまい」
彼は打撃の勢いを殺す術までは心得ていない。
顔はひどく顰められ、見る間に掌が赤黒く変色する。骨にヒビくらいは入っただろう。
だが、勝負は決した。
「ゆえに、僕の力は有効となる。――君のこの武器、僕が買い取ろう」
「あァ」
闇雲希は、得物が自らの手を離れていくのを、ただ眺めていることしかできなかった。
それは買われたのだ。渡さなければならない。
彼は購買部、もはや遥か遠くに見えるその建物を見た。
既にそこには複数の人間がいる。誰かが邪魔をしているようだが、直に止め切れなくなるだろう。
幸せが逃げていくのを感じる。焼きそばパンが。
『ヒャーッハッハッハッハッハ! どうするゥゥゥゥ!?』
いやに遅く感じられる時間の中で、希の頭に耳障りな声が響いた。
『さあ、今度は何を出してやろうか! さっきみたいな地割れがいいか? そいつでヤツらを飲み込んでやろうか!』
「……駄目だ。購買部も巻き込む。それじゃ焼きそばパンが手に入らなくなる」
希は呆けたように答える。
その足元には超自然の光。彼は気付いていない。
『そうだな! そうだな! ならどうしようか! 機関銃で撃ちまくってやろうか? おっと、殺したらまずいんだっけか! カウボーイみてえに投げ縄と洒落込むか? お前じゃ当てられそうにないな! トラック? でも運転できねえわな!』
「僕は……僕は、」
『……おやおや、こりゃ結構マズくねえか? こんだけ差ァつけられちゃあな。何出したって無駄そうだな。生憎だ、お前に幸せは訪れねえよ』
「嫌だ…………嫌だ!」
希は震えた。まだできることを探そうとした。どうにかして、勝つ方法を。
沸騰したみたいに全身が熱い。だが何も考え付かない。心臓が壊れそうなほど速く鳴っている。見つからない!
希は叫んだ!
「もう……もう、嫌だ! なんとかしてくれ! お前ッ! 物じゃなくて、お前が出てきて、焼きそばパンを勝ち取らせてくれ!」
――瞬間。
購買部周辺を包む空気が、決定的に変質した。
『……ふふふ』
希に時間の感覚が戻る。
だが先ほどまでとは何かが違う。声も消えない。購買部に最も近い者たちですら、異様な気配に目的を忘れて身構える。
雷が鳴った。空の雲はその濃さをいや増し、色調を灰から黒へと変えた。
『言ったな……言ったな。お前が出てこいと。我輩そのものを』
再び大地が揺れた。
またしても地割れが生じるのか? 全員が恐れをなしたが、そうではなかった。
『その通りにしてやろう……』
禍が起ころうとしていた。
見よ、山のように盛り上がるグラウンドを。大地を砕き、砂と土の繭を振るい落として現れた、おぞましきものを。
校舎にも匹敵する巨体。堅牢なる緑色の鱗。忌まわしく輝く赤い瞳。
それは大蛇であった。その首は胴体の半ばから九つに枝分かれし、先端に各々の頭部を備えている。
「あれは……まさか」
「あぁ!? 知ってんのか!」
呻いた上下に、対立も忘れて掏児が訊く。
彼は学校にひしめく怪しげな噂にも、“普通”程度には詳しかった。
「聞いたことがある。希望崎七不思議の一つ。遥か昔のハルマゲドンに、邪神が現れたことがあると。そいつは時の番長に召喚されたとも、番長自身が変生したのだとも言われていて、最終的には生徒会長により、島の地下に封印されたのだと。邪神の名は――ダンゲロスヒュドラ!」
「オオオオオオオーッ!」
ヒュドラが吼えた! それは久方ぶりの現世への帰還が成ったがゆえの、歓喜の、しかしおぞましい咆哮であった。その叫びは風圧を伴い、新校舎の窓を軋ませ、嵐の如くに木々の葉を散らし、レースの参加者たちを打ちつけた!
「あ……」
「何……ッ!?」
震動の最中、希の足下の地面が崩落! 仕橋をも巻き込んで、彼らは突如生じた深い縦穴、その闇の底へと落ちていく。
九つの首はそちらに目をやり、嘲るようにシュウシュウと音を出した。
果たして、上下の語った伝承は正しかった。
だがそれは真実の一部でしかない。封印されたヒュドラはそれ以後、虎視眈々と復活の機会を窺っていたのだ。
不幸にも目を付けられたのが闇雲希だった。彼の願いに沿うものを召喚する。悪魔としてそう契約を結んだ上で、希が悪魔そのものの降臨を願うように場を整えた。
その場こそ、此度の争奪戦。強い願望とままならない現実の板挟みとなった希は、謀略の駒として思惑通りの働きをしてしまった。
しかしながら、未だ顕現は完全ではない。今の肉体は“召喚されたもの”でしかない。存在を確固たるものとするには、力ある贄が必要だ。そう――
――伝説の焼きそばパンが!
「オオオオオオオーッ!」
ヒュドラが購買部に向けて迫る! その巨体の前では地割れなど障害にもならない。逃げ惑うのはその手前に留まっていた生徒たちだ。数名が落下!
重々しい地響き。大蛇が裂け目を越えた。それはひとたび立ち止まり、異なる九箇所に視線を向けた。
首の一つは購買部を。残りの八つは、その付近に集った、小さな人間たちの一人一人を。
あたかも、これから引き裂き破壊する絵画の構図を、戯れに覚えておこうとでも言うかのように。
「い……嫌ぁぁああああっ!」
兵動惣佳が蹲る。彼女はその能力ゆえに、怪物の邪悪な精神の一端を理解してしまった。
赤い瞳が残忍にぎらつく。必要なのは焼きそばパン。だが、無抵抗なオードブルを見逃してやる義理があろうか。
首の一本が牙を露わにし、少女を食らわんと伸び迫り――
「危ないっ!」
――横合いから放たれた鞭が、その頭部を捕まえた。
「あなた、逃げて! ……ハリガネムシくん、頑張って押さえて!」
声を張り上げたのは千倉季紗季だ。袖口から伸ばしたハリガネムシくんは、蛇に絡んだ上で硬質化し、季紗季自身も踏ん張って引き合いを演じる。
惣佳は顔を上げ、その光景を見た。
大蛇の、表情などないはずの爬虫類の顔が、極めて禍々しい笑みに歪んでいるのを見た。
「……駄目、離して!」
「え?」
警告はあまりにも遅かった。
蛇の首が振り上げられる。季紗季があっさりと宙を舞う。
高く高く放り投げられた彼女は、自分が真っ逆さまに落ちていく先が、待ち受ける大蛇の口の中しかないことを理解した。
(いけない。スカート、捲れる……)
麻痺した思考の中で、季紗季はそんなことを思う。
誰かの悲鳴が聞こえる。
解けたハリガネムシくんと共に、彼女は肉色の奈落の中へ。
否、運命は未だ定まってはいない。
邪神よ、見るがいい。
携帯電話を耳に当てたアフロの男を。
黒雲を割って飛び来たる、輝ける炎の鳥の威容を!
「――借りて来た不死鳥ッ!」
居合わせた者は確かに聞いた。怪物に突進する不死鳥が発した、淀んだ大気を劈く一声を。
業火の奔流が大蛇を飲み込む! 季紗季を食らおうとしていた首は、瞬時に黒く炭化して崩れ落ちた!
「オ……グオオオオオーッ!」
「Dad Rule! She Move!」
苦悶に暴れ狂う大蛇の隙を突き、パン崎の右手が猛スピードで伸びる!
過たず落下する季紗季の腕を掴み、救出! 元の長さに戻った腕は、彼女の体を紳士的に抱き止めている!
「あ……あ、あり、がと……」
「いえ……ご無事で、よかったです」
心底安堵したように、パン崎は震える息を吐く。
地面に下りた彼女の元へ、目に涙を浮かべた惣佳が駆け寄ってくる。
「おい、皆! ここは一時共闘と行こうぜ」
住吉が言う。不敵な眼差しをヒュドラに向けて。
「……そうっすね。このままじゃ焼きそばパンどころじゃなさげだし」
その傍らに呉葉が立つ。
「異論ありませんわ」
さらに、ハンディカメラを携えた美麗。
三者に対するは一体の怪物。
残る八本の首を揺らめかせ、八対の瞳に怒りを燃やし、襲いかかるべき時を待っている。
大蛇は考えを改めていた。踏みにじるのではなく、戦うのだと。
眼前の小さな者たちが、己が望みを阻む障害、全力をもって屠るべき敵であると認めて。
焼きそばパンを手に入れるために、戦う。
その要素だけを取り出すならば、彼もまた今、争奪戦の参加者となった。
「…………あの、俺戦えねえんだけど」
「じゃあ、僕とここで待ってようか。危ないし」
のろのろと手を挙げた掏児には、上下がにこりと笑って言った。
「……お前は行ったらいいんじゃねえかな?」
「いや、“普通”の高校生は、あんなのには敵わないと思う」
「あ、そう」
金髪の男は露骨にげんなりとして座り込んだ。
全員行ったらその隙に焼きそばパンを奪ってやろう。そんな企みは脆くも頓挫した。
「僕らも離れていましょう」
「……ううん。私は行く」
「え?」
静かに首を振った季紗季に、惣佳は驚いて目を瞠った。
「あ、危ないよ。さっきだって……私は、おかげで助かったけど」
「……僕も反対です。先ほど助けられたのは運が良かったんだ」
パン崎の表情もまた険しい。
だが季紗季は決意していた。
「できることがあるかもしれないもの。じっとしてられないよ」
「でも……」
「大丈夫。さっきので、やっちゃまずいことは分かったしさ。無茶はしないで、ちゃんと弁えるよ」
季紗季は笑った。ごく自然な笑顔だった。惣佳はそれを眩しく思った。
パン崎は躊躇いを見せたものの、最終的には頷いた。
「分かりました。お気を付けて」
「うん。また後でね!」
元気良く手を振って、季紗季は戦列に加わりに行く。
((できることがあるかもしれないから、じっとしてられない、か。季紗季ちゃんも変わったねえ))
(誰かさんのおかげでね)
体の中の友人と、そう言葉を交わしながら。
残された惣佳とパン崎は、どちらともなく顔を見合わせた。
何か喋ろう。惣佳が口を開きかけた直後、パン崎はいきなり後ろに倒れた。
「……ぇえ!?」
惣佳は慌てて傍らに屈み込むが、医学の知識があるわけでもない。
ただ、元々そうなので分かりにくかったが、顔色が少し悪くなっているだろうか……?
もしかしたら、能力の反動なのかもしれない。
そう平和的に結論するしかなかった。
彼女には知る由もないことだった。自分のパンツ臭がパン崎を苦しめていたのだと。
先ほどまでは女性二人の手前、彼は気が遠くなりかけるのを必死にこらえていた。
しかし季紗季が去り、これまたかぐわしい芳香を持つ惣佳と二人きりにされたことで、パン崎の精神は限界に達した。
「……わ、分かりました。あなたが回復するまでは、私がしっかり守りますから」
惣佳がいる限りそうはならないだろうが、ともかく彼女はその言葉通り、守るようにしてパン崎の前に立った。
できることがあるかもしれないもの――見た目はそう変わらない季紗季の言葉が、彼女に勇気を与えていた。
「パ、パン……ツ……」
うなされるようなパン崎の言葉は、幸い惣佳には聞こえない。
――ヒュドラが上げた咆哮に掻き消されて。
「……やりづらいですわね!」
美麗は強く地面を踏んだ。
カチリと乾いた音がして、直後に地面から火矢が噴き上がる。
大量に発射されたそれらのうち、何本かがヒュドラの首に刺さった。苦痛の声が上がる。だが決定打ではない。
((ふひ……! ご、ごめんなさい、姉様……!))
(あ、いいえ、いいのよ。私が曲がりなりにも戦える――ふりができているのは、照子のおかげですもの。ただ)
上空を見上げる。
三たび飛来した炎の鳥が、今度も一撃で首の一つを爆散せしめた。
(……あれを見せられてしまうとね)
「せええい!」
呉葉は突っ込んできた首を横に跳んでかわし、即座に切り返して斬撃を放った。
赤熱した包丁が、深く入って骨まで断つ。傷口が焦げて煙を上げる。切り落とすまでは行かなかったが、こうなればもう動かせはしない。
ヒュドラの名を持つだけあってか、怪物は強い再生力を有していた。
彼にとって不幸だったのは、相手がことごとくそれを無効化できたことだ。
八徳包丁は焼く機能も完備している。美麗も対応してのけた。住吉などは言わずもがなだ。
大蛇の首は、既に残り五本。
「――オオオオオ!」
ヒュドラが吼え、呉葉に向けて突進する! その胴体で轢き潰そうと言うのか!
ビルが倒れかかってくるのにも比する速度と質量!
だが、彼女は動じない。
「お願い!」
「はいっ!」
呉葉の胴にハリガネムシくんが絡み、真上に向けて投げ上げる。ヒュドラは何者もいない空間を虚しく通過!
空中でのすれ違い際、呉葉は機を見逃さず薙ぐ。さらに首の一本が戦闘不能! 残り四本!
勝てる。
そこにいる魔人の誰もがそう思った。
ダンゲロスヒュドラは恐ろしい敵だ。だがそれは屈しつつあるのだと。
彼らに、一つ誤りがあったとすれば。
邪神は決して、血に酔うばかりの獣ではない。
それは闇雲希を陥れた、狡猾な楽園の蛇なのだ。
(胴体は、囮……!)
すぐそばに迫った尻尾を前に、呉葉は自身の迂闊を悟った。
頭の一つがこちらを見ている。通常の生物には不可能でも、この相手は前後を同時に見ることができる。
彼女は咄嗟に包丁を盾にした。振るわれた尾が直撃する。
のみならず。
「……あ? まずくね?」
危機を最初に察知したのは、座り込む臥間掏児だった。
呉葉は突進を回避した。それはいい。
しかし怪物はその勢いのまま、こちらに向かってきてはいないか?
いや、いる。
「――おいおいおいおいおいおい!」
「おっと……っ!」
轟音。
ヒュドラの巨体が、それと比べれば遥かに矮小な、プレハブ小屋へと突っ込んだ。
「うわ、うわ……!」
購買部の破片が周囲に降る。
惣佳は気絶したパン崎の足を引っ張って逃げた。大して変わるものでもなかったが、結果的には正解だった。
少し前まで彼の頭があったところに、飛んできたガラスが突き刺さったのだから。
「わ……っ……」
彼女は息を呑み、足を止めて購買部を見た。
あの怪物は焼きそばパンを求めていた。であれば、今の行動の意味は?
土煙が晴れていく。
大蛇の顎の一つから、力なく垂れ下がっている者がある。
「上下……!」
住吉が歯を噛んだ。
“普通”の高校生は、あんなのには敵わない。自らの言葉が、呪いのように彼を捕らえたのだ。
「……それだけじゃありませんわ」
美麗の顔は青褪めている。
彼女は――正確には、カメラのズーム機能を利用した罠大居照子は、別の顎が咥えたより致命的なものを把握していた。
「あの怪物――伝説の焼きそばパンを」
「……!」
住吉はすぐさま件の番号に電話をかけた。
だが火の鳥は発信後すぐに現れるわけではない。そして今日、これまでの人生で最も多く能力を使った住吉は、なお悪いことに気付かされていた。連続で使えば使うほど、火の鳥の“呼び出し”には時間がかかる。
願いが叶うとも言われる伝説の焼きそばパン。それを怪物が食べればどうなるのか。火の鳥はまだ現れない。
(……しめた……!)
住吉や美麗とは対極に、掏児の胸は高鳴った。
彼は突進を避けていた。逃げ足と悪運がまたも彼を救った。
今、彼の目の前にはヒュドラがいる。伝説の焼きそばパンを咥えたヒュドラが。掏児の存在などまるきり知らずに。
怪物が顎を上向かせた。捕まえた餌を飲み込もうと言うのだ。
(バーカ。それは俺のもんだよ)
掏児は心中で嘲笑った。
上下とやらは食われるだろうが、学園の生徒など自分には関係ない。大事なのは伝説の焼きそばパンだ。
彼は手を伸ばす。ヒュドラに。すなわち輝かしい未来に。
一体いくらで売れるだろう。故買屋は億の値と言っていた。一億か。二億か。三億か。売り込み次第ではもっと上がるか?
まずアパート暮らしとはおさらばしよう。いい女だってモノにできる。店員が水も持ってこないようなファミレスとだって縁切りだ。
彼の思考はまた過去にも巡った。東海道武装強盗団。ろくな思い出がない。
とりわけ鮮明なのは父との会話だ。最悪だ。今でもあの怒鳴り声が耳に響く。
「テメェなんで働かねぇ! 銃も撃たねえ、罠も張らねえ! 挙句にゃわざわざ金ヅルどもを逃がすと来やがった!」
自分はべそをかいていた気がする。
「でも父さん、オレ、オレ」
「人が死ぬのなんか、嫌だよ」
「――ッ――クソッ、タレがぁーーーっ!」
掏児の手が、大蛇の体に触れた。
次の瞬間、その腕の中に、上下中之の体があった。
「……君は……」
上下が薄く目を開けた。
牙による傷が痛々しいものの、深手というわけではないようである。
そんなことを測る余裕は、今の掏児にはなかったが。
「畜生! 畜生! 畜生! ふざけんじゃねえよッ!」
滅茶苦茶に喚き散らしながら、上下を抱えて走る。
ヒュドラはやかましい輩が自分から餌を奪ったことに気付いた。一方で肝心の焼きそばパンは無事だ。
なので特に気を悪くすることもなく、ちょっとした制裁として尾で薙ぎ払ってやった。
「――うごぉあッ!」
無論、怪物の“ちょっと”は人間と尺度が違う。
衝撃で取り落とされた上下は幸運だった。掏児の体は高々と宙に浮き、それから重力に引かれて地面に激突した。
「オオ……オオオオォォオ!」
ヒュドラは叫んだ。
生きた首は三本きりしかなく、あとはみな惨たらしい有様になっている。にも関わらず、その声は過去のどの時点よりも強大に響いた。
力ある贄を、それは飲み込んだのだ。
「そんな……」
美麗が呟く。カメラを持った手はだらりと下げられている。
「馬鹿な」
住吉は震えた。火の鳥はまだ現れない。
いや、現れたところで意味があろうか。
上下が助けられたのは目にした。
しかし、それも喜んでいいものやら分からない。
伝説の焼きそばパンを食べた怪物が、食後のデザートたちを睥睨し、舌なめずりをしているのだから。
ヒュドラはずるりと這い、同時に首をひとつ伸ばした。
住吉の方へと。最も狼藉を働いた彼を、最初に食らってやる気であるらしかった。
その頭が、爆発した。
「……何を、勝ったつもりになっている……」
起こったことを理解できた者はいない。
為した彼本人を除いては。
「まだ、戦いは終わっていないぞ」
崩落した縦穴の縁に、闇雲希が横たわっていた。彼は意識を失っていた。
その傍らに男が立っている。“杖”をその肩に担ぐ格好で。
希が武器として使用し、振り回していた杖とは何だったか。
それには二箇所のストックが備わっていた。それの後端は管楽器のように開いて広がっていた。それの先端は菱形に膨らんでいた。膨らみとは弾頭だった。
――それはRPG-7の名で知られる兵器であった。
「オ……オォオォオォ!?」
「……! 行け、不死鳥!」
混乱の叫びを上げる怪物! そこに火の鳥が現れる!
悪しき大蛇の首を焼き滅ぼす! 残り二本!
ヒュドラは手当たり次第に暴れる獣と化した! 伝説の焼きそばパンを得てなお力が戻らぬことに、これまで前提としてきた一切の思考が破綻したのだ!
首の一本が兵動惣佳へと向かう! 立ち竦む少女! だがその前にパン崎が立ちはだかる!
否……それは本当にパン崎なのか!?
頭に毛髪こそないものの、その肌の色は健康的な褐色! 肉体も引き締まってはいるが力強い!
一体彼に何があったというのか!
その奇蹟は誰の目からも外れたところで起こっていた。
掏児がヒュドラの尾を受けて吹き飛ばされた際、その懐から一枚の布が零れた。
布とはパンツであった。掏児が盗んだ、千倉季紗季のパンツ。
それはひとひらの花弁のように宙を漂い、何の因果か、彼女を二度に渡って助けた男の、
口へ。
もぐ、もぐ、もぐ。
ごくん。
「……ぉぉぉぉおおおお!!」
仰向けに倒れて気絶していたパン崎は、その瞬間、総身に漲る力を感じて目を覚ました。
驚いて振り返る惣佳の目の前で、劇的な変化は生じたのである。
己が何を得たのか、パン崎は知らない。生涯知ることはないだろう。
ただ一つ、彼には確信があった。自分は解放されたのだと。
彼はそよ風の薫りを知った。彼は草花の本当の色を知った。目鼻や耳口を知らずのうちに包み込んでいた灰色のもやが、綺麗に取り払われたかのようだった。
そして、彼はもうパンツ臭に惑わされなくなっている自分を知った。
迫り来るヒュドラの首の動きは、今のパン崎にはひどく緩慢に見えた。
彼は深く息を吸いながら、両腕を顔の前で交差させた。
次いでその腕を後ろに引きつつ、頬を大きく膨らませてヨガの炎を噴いた!
「オオ……アアアアアア!」
怪物が苦悶に叫ぶ! だがそれも一瞬!
煩悩を克服したパン崎のヨガは、火の鳥にも肩を並べる熱量で大蛇を浄化した! 残り一本!
パン崎の背後、無事守られた惣佳は、怪物が遺した叫びの残響に、戸惑ったように小首を傾げた。
「どうして……伝説の焼きそばパンを食べたのに、どうして望みが果たされないのか、って言ってる……?」
舟行呉葉は体を起こした。片目を眇め、首をごきりと鳴らす。
「あー。まあそりゃあ、ねえ」
彼女の元にも、大蛇が向かってきている。
「色々あったんすよ……今回は」
八徳包丁のダイヤルを捻る。鉄の刀身が、再度熱を帯びる。
『呉葉。呉葉。聞こえるか』
インカムからノイズ混じりの声。
「聞こえてます。つーか遅いっすよ」
『悪い。調べるのに手間がかかった。だがその分確かな情報だ。素直に信じてくれていい。いいか?』
「はいはい。どうぞ」
間合いが近付く。包丁を構える。
『ダンゲロスヒュドラは、食える』
一閃。
呉葉の魔人能力は、刃渡りなどお構いなしに、ヒュドラの首を輪切りにした。
断面から、フランベのように炎が上がった。
昼休みは終わりに近付いていた。
未だ意識のない者も含め、十人。それが購買部に集った者の数。
いや。
もはや、そこは購買部跡と呼ぶべきだった。
「先輩。終わりましたよ」
腕を組んで立つ仕橋に、呉葉が軽く手を振って言う。
「容態は?」
「どっちも大事ないっす。闇雲くんは見た目酷いすけど、一番重いので左腕の骨。あの金髪の見知らぬ輩はもっと軽い。ともかくできることはやっておきましたんで」
「そうか。助かった」
「いえ、応急手当は調達部の嗜みっすから」
そこで一旦言葉を切り、彼女は仕橋をまじまじと観察した。
「……って言うか、むしろ先輩こそ平気なんっすか、怪我」
「なに。これくらい大したことはないさ」
そう言ってから、彼はふと寂寥を湛えてそちらを眺める。
「……いや。けれども少し、痛いかもしれないな」
購買部であった瓦礫の山を。
((季紗季ちゃん。戻らないの?))
(……うん、そろそろ。でも、もう少しだけ)
千倉季紗季はそう答えつつ、プレハブの残骸を眺め続ける。
彼女だけではない。全員が、なんとなく去りがたいものを感じていた。
((……パンツ、見つからなかったね))
彼女の場合は、別な事情もあったが。
(それはもういいよ……)
誰に聞こえる会話でもないものの、顔を赤らめて俯く。
気絶しているあの憎き泥棒男に対し、徹底的な身体検査を行ったものの、出てきたのは盗品の財布ばかり。
果たしてパンツはどこに消えてしまったのだろう? なぜか、季紗季はもう二度と見つからないような気がしていた。
その時。
垂れ込めた雲に穴が開き、一筋の陽光が下界に差し込んだ。
それはちょうど瓦礫の山を照らし出した。
天使の梯子、と俗に言う。透き通った黄金色の光は確かに、何かが天界へと昇るための道のように思えた。
「……え……?」
最初、誰もが幻だと思った。
瓦礫の隙間から、泡のように浮かび上がったものを見て。
陽光を浴びて――否、そうするまでもなく、丁寧なラッピングの内から輝きを放っている。
不思議な力を主張するみたいに、ふわふわと宙に浮いている。
「そんな。嘘だ」
呉葉に反論する声はない。間違いなくヒュドラの胃に消えたはずのもの。
そして、それ以上に呉葉は知っている。
今回の争奪戦で争われたものは、元々から真っ赤な偽物だったのだと。
だが、ならばこれは。
たとえ一切の情報を知らぬ者であっても、その本質を見誤ることはないだろう、圧倒的な存在感は。
「伝説の焼きそばパン……」
その言葉にも、反論は出ない。
舟行呉葉のミスにより、たったひとつ購買部に入荷された品は偽物だった。
だから、真の伝説の焼きそばパンは存在しない。
それが論理的な帰結。
しかし、見方を変えればもう一つの真実が見えてくる。
そもそも今回、実に数年ぶりに伝説の焼きそばパンが入荷される運びとなったのは、闇雲希が“伝説の焼きそばパンを手に入れる”契約をした結果だ。
悪魔は願いを叶えない。代わりに願いに応じた物体を召喚する。そして――その契約に、嘘はない。
召喚される刀は玩具ではない。鍛冶屋は鍛冶屋を名乗るだけの素人ではない。暴漢は強い。ヤンキーはテレポートできる。救世主を名乗る変態は、救世主だし変態だ。
悪魔の、ヒュドラの思惑は、自分を召喚させること。“自分”に贋作が有り得るようでは本末転倒だ。
焼きそばパンは、二つあったのだ。
ガラリ。
瓦礫の山の一角が崩れ、中から人が這い出してきた。
日焼けした肌、引き締まった肉体。ほんのり憧れるようなナイスミドル。
学園の生徒なら誰もが知っている。購買部の店長だ。
彼はすっくと立ち上がり、服の汚れを叩いて落とした。
それから、小脇に抱えていた機械を手に持った。
機械はバーコードリーダーだった。
店長が、バーコードリーダーを掲げた。
「――ぉおおおおおおおお!!」
最後の戦いが始まった。
誰もが、一度は焼きそばパンを手にした。
住吉弥太郎が軽やかな動きで。千倉季紗季がハリガネムシくんとのコンビネーションで。冬頭美麗が罠大居照子の支援で。兵動惣佳ががむしゃらな努力で。
それでも勝負は決まっていない。
店長のところまで持っていき、バーコードを読み取ってもらい、財布を出し、お金を払う。
一連の手順を、終えられた者はいない。
「……行くんっすか?」
腰を下ろした舟行呉葉が問う。
彼女には、もう求める理由がない。佇む上下中之にも。結跏趺坐するパン崎努にも。臥間掏児と闇雲希は目を覚ましていない。
だから、問われたのは仕橋王道だ。
「ああ」
彼は短く答え、また一歩進んだ。
左足は自由に動かず、右足だけで踏み出していた。
「……無理じゃないっすかね」
出遅れた。その時点で、彼が戦える状態にないことは明白だった。
仕橋は、また一歩踏み出す。
「無理だとか、無理でないとかではない。僕は勝つ。――勝ちたいんだ」
彼の言葉に、感情の熱が宿った。
「……勝つったって……失礼かもしれませんけど、先輩が焼きそばパンを狙うのは、きっと誰かにパシリを頼まれてでしょう? そんな真剣に、勝つとか負けるとか、あるんっすか」
「違う。パシリだからだ。パシリとして挑んでいるから勝ちたいんだ」
また一歩踏み出す。
呉葉は鸚鵡返しにした。その意味するところが、まだ分からなかった。
「……パシリだから」
「そうだ。僕はパシリだ。ずっとパシリとして生きてきた。報われない役目だ。悔しい思いもしてきた。ずっと、勝ちたいと思ってきた。パシリのままでだ」
一歩踏み出す。
「パシリだって、勝ってもいいはずだ。幸せになれるはずだ。パシリのままで。パシリのままで!」
踏み出す。
「僕はパシリを見捨てたくないんだ。パシリでいる限り夢も希望もないなんて、そんなことはないと証明したい。だから勝つ」
踏み出す。
「勝ち続ける。他の誰に譲るのでもない。至高のパシリの王となって、パシリというあり方を支えたい」
踏み出す。
辿り着いた。
瓦礫の山を見上げる。
不安定な足場の上で、伝説の焼きそばパンが取り合われている。
目まぐるしく所持者を変えながら。
登りはしない。罠があるだろう。
それに、そうする必要もない。
パシリの上級技能、把握・動――売れ筋の人気商品を相手にしても、完売前に購入する。その為に必要となる、商品の“売れ方”を視る技だ。
不意に、攻防の中から焼きそばパンが弾き出された。
その先は真空地帯。奪い合う者たちの打ち手が拮抗して生じる、彼らの誰も予想せず、誰も手を出せない領域。
既に、彼はそこにいた。
「――これ、ください」
あらゆる視線が収束する先で。
仕橋王道は伝説の焼きそばパンを確保し、購買部店長にそう宣言した。
「……なんてこった。お礼を言おうと思っていたのに」
上下中之はがっくり肩を落とした。
真の伝説の焼きそばパンの行方に釘付けになっている間に、金髪の男は姿を消していたのだ。
臥間掏児という名前すら、結局彼が知ることはなかった。
「まあ、いいんじゃないっすか? あいつ、真っ当な稼ぎ方してる人間じゃなかったみたいっすし」
「うーん。でも、“普通”はそうきっぱり割り切れないよ」
その言葉の通り、上下は葛藤に苦しむ表情をしていた。
いや、本当に、葛藤に苦しんでいる――のだろう。
「……さいで」
やはり調子が狂う気がして、呉葉は溜息を吐いた。
「あー。一応確認に来たんっすけど、上下くんはやっぱり抜けますよね。調達部」
「どうかな? 部活に入ってるのは“普通”じゃない?」
「うちの部は特殊っすから。変わり者と思われるよ」
「それもそうか。じゃ、退部ってことで」
「あい。部長にも伝えとくっす」
何気ないように話を繋ぎながら、内心で彼女は安堵した。
調達部は確実に特殊だが、上下が在籍し続ければ、“普通”の部活と見なされてしまうようになる気がする。
それで他校にライバルが増えたりしてはたまらない。ただでさえ近年は狩猟対象の個体数減少に悩まされているのだから。
「あ、待って。調達部じゃなくてもあれは食べさせてもらえるよね?」
上下はダンゲロスヒュドラの死体を指差した。
指差した、とは言っても、大きすぎるのと散乱しているのとで、だいたいどの方角に指を伸ばしてもそうしたことになるのだが。
「大量にあるんで、むしろ食ってください。……でも、いいんすか? あんなワケ分かんないの欲しがって」
「“普通”に生きてると、たまには冒険もしたくなるんだ」
「……なるほど」
その後しばらく、二人は通信越しに大山田も交え、ヒュドラの調理法についての話に花を咲かせた。
「やー。残念だったねー、住吉くん」
「残念だったのはお前もだろ。つうかわざわざそれ持って迎えに来たのかよ。暇だな」
住吉は争奪戦の余韻に浸ることもなく、早々に校舎へと引き揚げていた。残り少ない昼休みを勉強とダンスで有意義に使うために。
そんな彼を入口で待っていたのがアデュール麻衣子だった。女子力の高そうなジュラルミンケースをぶら下げて。
「私じゃないよ。私の後輩」
「どっちでもいい。とにかく、もう俺に用はないだろ。やっぱり堅実に生きるのが一番ってことだな、俺みたいなアフロは」
住吉が教室に向けて歩き出すと。当然のように麻衣子もついてくる。
「謙遜しちゃってー。学園のやばいやつらにも勝ったって聞いたよ?」
「勝ったって言うか、お前が言ってたようなのいたか……? ああ、時空剣術だかは見た気がするけどさ」
「ほら、いいところまで行ったんじゃない。住吉クンすごいなー。ただならないなー」
「あのな……」
一言言ってやろうと思って住吉が振り返ると、狙い澄ましたようなタイミングで開けられるジュラルミンケース。
たこ焼きの黄金の光が住吉の目を射る。二度目であっても変わらない魅力が住吉の心を掴む。
「く……っ。こんなの見せてどうするんだよ」
「伝説のお好み焼きパン」
「なに?」
「今度はそれが入荷するらしいのね。で、かわいい後輩が欲しいって言っててー……」
((ほんとにそろそろ戻らない、季紗季ちゃん?))
(うー、でもー……)
争奪戦の勝者が決まった後も、季紗季はプレハブ小屋――の残骸の周りを歩き回っていた。
目的は、もちろん。
((ショックなのは分かるけどさ。すごく大事なものってわけでもないんでしょ?))
(そうだけど……考えてみてよ)
((うん?))
(今日、これで学校終わりじゃないんだよ? 次の授業も、次の次の授業も、私このまんまで過ごすの……?)
((……体操着とかは?))
(持ってきてない……)
((…………))
気まずい沈黙が下りる。
そこへ。
「あ、あのっ!」
「はいっ?」
背後から切羽詰まった声。
なんとなくやましい気分の季紗季は、思わず飛び上がりそうになってしまう。
「あ、ご、ごめんなさい…………さっきの、怪我とか、大丈夫だったかな、って……」
「ん……? ああ、さっきの!」
ヒュドラと戦った時にいた相手だと思い出して、季紗季は屈託のない笑顔を向ける。
勇気を振り絞って声をかけた惣佳は、それを見るとますます恥ずかしくなってしまうのだったが。
「うん、だいじょぶだいじょぶ。むしろそっちこそ平気だった?」
「うん……おかげさまで……」
「そっか。よかったー」
「うん……」
「……」
「……あの、本当は、さっき聞くべきだったんだけど……無我夢中で……」
「あー。いや、分かるよ、私だってそうだったもん」
「そ、そう? だよね……あはは……」
「でも結局、三年の先輩だっけ? やっぱり慣れてるのかなあ、魔人として、みたいな」
「ど、どうかな。私、そういうのよく分からないから……」
「あ、そっか……」
「……」
「……」
――会話が弾まない。
((いい子そうだけど、口下手なのかなあ))
(こらこら)
「うう……分かってはいるんだけど……」
「え?」
「え?」
((あれ? ……もしかして聞こえる?))
「あ、うん、そういう能力だから。……聞かないほうがよかった?」
「ああいや、全然。ちょっとびっくりしただけ。ハリガネムシくんと話せるひと、私以外にはいなかったからさ」
「ハリガネムシくんっていうの? 私、兵動惣佳だよ。よろしくね」
「惣佳かー。こっちは千倉季紗季。よろしく」
「え?」
「え?」
「…………あ、いや、そっか。そうだよね……!」
惣佳は肩を震わせた。
恥ずかしいやら嬉しいやらおかしいやら。そういう気分自体が久々な気がした。
((ところでお二人さん、そろそろ校舎に戻ったら?))
「あ、授業始まっちゃう? 行こうか、えっと……季紗季?」
「そうだね……。……ところでさ」
「なに?」
小首を傾げる惣佳に対して、季紗季はかなり悩んだ末に尋ねた。
「……変なことだってのは分かって聞くんだけど。替えのパンツとか、持ってない……?」
「え、きみパン崎くん!?」
「これ闇雲先輩なんですか!?」
同じようなリアクションをしたのは、片や三年、片や一年の生徒だ。
パン崎は照れたように頭を掻いている。言動こそ元の通りだが、かなり別人に近い。無理もない。
「うーむ……これもヨガの力なのか? 可愛い新入部員も入ったことだし、我が部も新たな探求のステージに進む時か……」
「そうなのかもしれませんね。頑張っていきましょう、部長」
「お、やる気だねえ。よし、今日は多目に火を吹くとしますか!」
彼らの方は、問題ないとして。
「闇雲先輩のこんな安らかな寝顔、見たことない……まるで憑き物が落ちたみたいだ……」
「……本当にそうだからな」
「え?」
「いや」
仕橋は、闇雲希を迎えに来た一年生に対し、なんでもないと首を振ってみせた。
話すと長くなる上に割と荒唐無稽だ。
「耕太郎くんだったか。見ての通り、闇雲くんは眠っている。数日は目を覚まさないかもしれないが、今までの反動のようなものなので心配はない。腕の骨折にだけ気を付けてくれ」
「はあ……ありがとうございます。すみません、わざわざ」
「……と、調達部員が言っていたという程度の話さ。僕も乗りかかった船だからやっているだけだ。気にしないでくれ」
背負っていた希を彼に託す。
彼は何度か振り返って頭を下げながら去っていった。
闇雲希は不幸ゆえに勝ちたがっていた。幸せになりたがっていた。
その原因が除かれた今、彼はどうするだろうか。次はパシリの立場を脱却しようとするだろうか?
――それに関わる権利も、義理も、仕橋にはない。
重要なのは――
「…………」
旧校舎の中庭を目指して歩きながら、仕橋は落とし穴を避けた。
己の直感がそこにあると告げた落とし穴を。
「僕は、僕のパシリとしての役目を全うさせてもらう。依頼主以外に渡す気はない」
引き続き歩きながら、仕橋は虚空に向けて喋る。
「……だが、君が依頼主と直接交渉する分には自由だ。好きにしてくれ」
中庭が近付いてくる。
ことごとく割れた窓ガラス、土のこぼれた花壇、かつては咲き誇っていた何本ものチューリップの、ミイラのように砂色に萎びた骸。文明崩壊後じみたランドスケープ。
そして、彼を使役する不良たちが。
――重要なのは、自分がパシリであること。
そして勝ち続けること。
すなわち、パシリの王であること。