第一回戦SS・湿地その2


飯田カオルのワクワク動画の生放送。あれ以来学校では迷宮時計の話題でもちきりだった。
それっぽい時計を見たとか希望崎学園に行った先輩が迷宮時計をもっていたとか。
ミスターチャンプと斎藤一女の戦いがムチャクチャ燃えたとか斎藤一女可愛かったとか。
毎日そんな話を飽きもせずに続けている。
いつの間にか迷宮時計は知る人ぞ知る存在もあやふやな怪しげな都市伝説、というものではなくなっていた。
誰もかれも時計が実在していることを疑っていなかった。そしてそれを多くの人が自分とは関係のない遠い世界の出来事として受け入れていた。
テレビや漫画よりも臨場感があって面白いエンターテイメント。少なくとも、僕のクラスの人たちは迷宮時計のことそんな風に思っているように見えた。
「ねえ、もし永倉くんが迷宮時計を手に入れたらどんな風に使う?」
クラスメイトの女子が永倉くんという子に声をかけた。
こんな質問が当たり前にされるようになってるんだから、多分この見立てはそんなに間違っていないと思う。
「そうだなあ。俺だったらとにかく金持ちになるためになにかするかな。過去に行って当時はまだ見つかってなかった油田や金山掘り当てたりしてさ」
「えー。せっかくなんでもできるのにそんなことに使うのー?」
「むしろこういうことのために使うもんだろ。そういうお前はどうするんだよ」
「んー、そうだなあ。私だったら例えば松尾芭蕉に松尾芭蕉がこれから読む俳句を全部教えたらどんな風になるかみたりしたいな」
「なんだそりゃ」
「だって、それで困ったり悔しがったりしてくれたら可愛いし、もしかしたらそれで発奮してもっとすごい句を詠んでくれるかもしれないじゃない」
「あー、そう考えると結構有意義?いや、わかんねえな」
なんて言いながら二人で笑い合っている。迷宮時計は今はそういうものになっていた。
自分の腕時計をみる。チクタクチクタクと針が時刻を刻んでいる。
本屋文。
一見変哲のないこの時計が、昨夜この名前を示した。
いや、示した…というか教えられたというか…最初に時計に触れた時と同じように情報を頭の中に一気に流し込まれたような感じだったんだけど。
あれはやられた瞬間すごく気持ち悪くなるから結構つらい。一瞬でいろんなことが理解できるのはいいんだけど、情報に酔うっていうのか、とにかく頭が疲れる。
朝のSHRのチャイムがなった。みんなが席について、先生が教室の扉を開く。
本屋文。
その名前をもう一度頭の中で復唱した。
今日、僕はこの人を殺す。


─────



蛎崎裕輔。
それが迷宮時計が示した名前だった。聞き覚えのない名だ。
迷宮時計を操作し、映像を確認する。
恐らく、年の頃は14~16歳ぐらいだろう。子供…というよりも少年という言葉が似合う時代だ。
残念ながら本屋の好みからは外れている。だがそれはそれとして映像をまじましと見つめる。
やはり見覚えのある風体ではない。これが彼の偽りのない姿であるということは本屋の能力ならば簡単にわかる。
つまり彼は当然整形手術をして顔を変えているということもなかれば魔人能力で風体を変えているということもない。
全て混じりっけなしの天然ものだ。
それで本屋に見覚えがないということは、蛎崎裕輔は軍の関係者や魔人犯罪者などではないということだろう。
映像は流しっぱなしにして図書館ネットワークにアクセスした。
図書館ネットワークとは全国の図書館の持つ全ての情報が詰まっているデータベースだ。

読者諸兄もご存じの通り図書館の持つ情報量は膨大なものだ。
それこそ裏のばあさんが生涯に食べためざしの数というどうでもいい情報から本能寺の変の真相、ケネディ大統領暗殺の真犯人までこの世界のありとあらゆる情報を網羅している。
故にそのネットワークのアクセスには厳しい制限がかけられている。
例えば3級司書資格以上を持たない者は一切アクセスできないし、不正アクセスは問答無用で死刑だ。
さらに3級司書では本の情報のみ。2級司書からDランク以下の情報にアクセスでき、1級司書でも個人情報を除くBランクまでの情報しかアクセスすることができない。
しかし日本で唯一の特級司書である本屋はこのネットワークに一切の制限なくアクセスすることができた。
いつの時代も戦いの趨勢を決めるのは情報だ。それは魔人同士の戦いの場合でも何も変わらない。
そして全ての情報は図書館ネットワークに集約され、その情報の真贋はコニサーズ・チョイスを使えば本屋には瞬時に見極められる。
偽情報に踊らされることもない。本屋の眼は常に真実をとらえる。
だから情報戦において本屋が他者に後れを取るということは一切ない。
「なるほど…」
図書館ネットワークから蛎崎の情報を一通り抜き出した後、本屋は誰に言うでもなく呟いた。
この情報に嘘はない。それは『コニサーズ・チョイス』を持つ本屋ならば一目でわかる。
北海道出身のスペースノイドの身体能力の高さはいやというほど熟知している。
それは魔人機動隊の一個小隊を単独で軽々撃破できる実力者である本屋にであっても警戒に値する肩書きだった。
しかし、肝心の能力。それに関しては一切不明であった。
この少年が魔人ではない…という可能性も考えたが、流し続けていた映像に目をやりその考えを打ち消した。
その人間が魔人かどうかなどは能力を使うまでもなくその立ち振る舞いをみればわかる。
ならば何故能力に関する情報がないのか。一度でもそれを使ったことがあるなら図書館はそれを検知し情報として納められるはずである。
つまり蛎崎裕輔は魔人として目覚めてから能力を一度も使ってないということになるのか。
死亡制約の能力ならそれもありえる。もしくは何か能力を使えない理由でもあるのか。
わからない。しかい、だからと言って思考を止めるべきではない。幾重にも考え、思考を重ねていくべきだ。
魔人の能力は大抵が本人の生い立ち、願望、性癖などに関連している。
ならば図書館ネットワークに入っているデータから蛎崎の魔人能力はある程度の推測はできるはずだ。
無論、その推測に縛られてしまってはかえって逆効果だ。
しかし、それでもある程度のあたりをつけておくことは悪くない。それは魔人司書としての戦闘経験からくる教訓である。
「しかし…」
──この私が、子供を守るために、少年を倒す算段を立てねばならないとはな
本屋が自嘲気味に笑った。
無論、殺さないための算段も考えてはいる。しかしいざとなれば躊躇せずに殺すという覚悟も持っている
迷宮時計─移動式図書館に鍵を差し込む。迷宮時計のエンジンが心地よいリズムを刻みはじめた


─────



学校からの帰り道。気がついたらいつの間にか景色が変わっていた。
ここが迷宮時計の言っていた湿地か。
足を一歩踏み出す。クチャリ、と小気味いい音が耳に、気色悪い感触が足裏に伝わった。
思っていたよりも歩きづらい。草の背も高い。聞いたことのない動物の鳴き声が聞こえる。
ここに本気で敵に潜伏されたらちょっと気付くことができる自信がない。
ふと、叔父さんと叔母さんのことが頭をよぎった。
叔父さんと叔母さんには何も言わなかった。
僕がここで負けてしまったら僕は多分二度とあの家に帰れない。
伝えた方がよかったかもしれない。そう思った。
もし伝えていたら、きっと二人とも心配してくれる。叔母さんはもしかしたら泣いたかもしれない。

そして僕を止めてくれただろう。バカなことはやめろと頬を叩いてくれたかもしれない。
ミスターチャンプの事を知ってそこに僕を送るべきか本気で悩んだりしてくれたかもしれない。
それでも、僕はきっとこの戦いをやめなかっただろうけど。
けど、そのことを伝えていれば。
僕がいなくっても、迷宮時計の戦いに巻き込まれていたということがわかっていれば僕が帰ってこなくても諦めて、納得することができたかもしれない。
きっとただ待ち続けるよりも、そうして納得することができた方が叔父さんと叔母さんにとっては幸せだったと思う。
それはわかっていた。でも言えなかった。
余計な心配をかけたくない、という気持ちもあったけど、それ以上にあの二人に僕が私欲のために人を殺そうとしているということを知られたくなかった。
いつかはバレてしまうかもしれない。
けれど、最後の最後まで叔父さんと叔母さんには知られたくなかった。
最後まであの人たちのいい息子でありたかった。
「バカだな…」
思わず声が漏れた。自嘲するような響きだった
──そうだな。本当にバカだよ。
──こんな親不孝をしておいて、何がいい息子でありたいだ。
「The Green, Green Grass Of Home」
能力の名前を呟く。
帰りたくても帰ることのできない故郷。
僕は頭上に現れた北海道を見つめた。
本屋文、それが僕たちの敵だ。北海道に伝えるように心の中でつぶやいた。
いつの間にか涙が流れていた。
何に対しての涙なのかはよくわからない。


─────



恐らく、蛎崎の能力は北海道に関するものであるということはあたりをつけていた。
両親を殺した北海道への恨み、それでも消えない故郷の懐古が何らかの形で顕現したものであろうことはわかっていた。
しかし
(まさか──これほどのものが出てくるとはな)
突如頭上に出現した大地を見上げなら、本屋は心中一人ごちた。
その巨大さ故に全貌はわからない。しかし、それが北海道であるということを本屋は確信していた。
蛎崎の生い立ちから考えてもそうだ。スペースノイドの異常性から考慮してみてもそうだ。
そして何よりも魔人司書として幾多の戦闘を生き延びてきた本屋の肉体が、あれは危険であると信号を送ってきている。

(しかもあれは)
贋物ではない。正真正銘の北海道だ。真贋を見抜く眼を持つ本屋にはそれがわかった。
北海道が太陽の光を遮っている。しかし仕事柄夜目が効く本屋は空に浮かぶ北海道をくっきりととらえることができた。
(どうする。このまま蛎崎を探すべきか、それとも…)
あの北海道が何をしてくるかは読めない。
しかし、あれは本屋の敵として出現したと前提してこれから行動するべきだった。
そしてその場合自分はどうするのが最善なのか。
このまま蛎崎を探しだし決着をつけるべきか。それとも一度図書館に戻り北海道に備えるべきか。
一瞬であるが本屋は迷ってしまった。
そしてその一瞬のうちに北海道は行動を開始していた。
(あれは…)
北海道によって空は遮られていた。その空に一条の光が差し込んでくる。
北海道の地面が割れていく。その隙間から光が、水が、地面に向かって落ちてきている。
(まずい…!)
本屋にはあの裂け目に見覚えがあった。いや、正確に言えばあの裂け目の形状が示すものがなんなのかということを知っていた。
(茂辺地川か…!)
茂辺地川。北海道でも有名な観光地にして屈指の危険区域である。
茂辺地川が観光地として有名になった理由も危険区域として指定されている理由も同じものであった。
シャケである。
この時期、茂辺地川ではシャケが遡上していく光景を見ることができる。
無数のシャケが我先に川の流れに抗い泳いでいく。その光景はまさに圧巻である。
しかし、シャケではあるが。北海道のシャケである。
その凶暴さ、特異性は庄内などでとれるシャケとは比べ物にならない。
そのことを魔人司書である本屋はよく知っていた。
つまりあの川から落ちた大量のシャケどもが本屋に襲いくるということだ。
(来る…!)
本屋が図書館貸出カードを構える。
それに呼応するかのように無数のシャケが宙を泳ぎ本屋に向かってきていた。
エゾジャケだ。
北海道という過酷の環境に適応して進化したシャケ。
体内に反重力機構を持ち、川を、海を、空を、宇宙を、自在に泳ぐことのできる肉食の宇宙回遊魚だ。
斉明4年の蝦夷征討。その際に阿倍比羅夫率いる180隻のスペースシャトルの多くを撃ち落としたのがこのエゾジャケであると日本書紀は記している。
現在でも宇宙ステーション建造中に作業員がエゾジャケに襲われたとかステーションがエゾジャケに壊されたとかそんな話は腐るほどある。
エゾシャケが近づいてくる。
群れを成している。数が多い。正確な数を計ることはできない。
そのすべてが本屋を狙ってきている。囮のエゾジャケは一匹もいない。
本屋の両目は真贋、虚実を見抜く。だからフェイントなどにかかることはない。
だが作戦もくそもない魚相手ではその真贋を見極めることに意味はない。
ただ、エゾジャケが本屋に向ける殺意。それが全て本物であるということは視えた。
そして本屋はその殺意の源は蛎崎のあるであろうと確信する。
この時点で、本屋は迷宮時計─マイクロバスに戻るという選択を捨てた。
宇宙ステーションすら破壊する攻撃力を持つエゾジャケが相手ではバス程度の装甲は何の役にも立たない。
むしろ狭い場所に追いつめられて不利になるのはこちらである。
故に本屋は決断する。
このままエゾジャケと戦うことを。
故に本屋は覚悟する。
この戦いを本屋か蛎崎のいずれかの死によって終わらせるということを。



─────



エゾジャケがこちらに向かってくる。
カードを投げる。
魚群が広がる。投網を投げられたかのように見えた。
避けられた。エゾジャケが私の周りを囲んでいく。
速い。
一匹が突出してくる。
首筋。狙ってきている。
カードを投げる。
避けられる。
あらかじめ投げていた2枚目のカードがエゾジャケの横腹に当たった。
エゾジャケの体が二つに別れる。
それでもなお頭だけで向かってくる
拳打。
エゾジャケの頭を砕く。
その体が地面落ちた。
それを合図にしたように、ごう、と空気全体が震えるような音が聞こえた。
エゾジャケが動き出した
四方八方。ありとあらゆる方向から私の体を食いちぎろうと襲いかかってくる。
あたりの空間がエゾジャケに覆われている。
まるで水族館だ。
転がる。
カードを投げる。
転がる。
拳打。
跳ねる。
回転しながら360°にカードを放つ。
エゾジャケの血が服についた。
蹴り。
エゾジャケの頭を砕く。
肩の肉が抉られた。
転がる。避ける。
首筋に噛みついたエゾジャケを両拳で打ち殺す。
転がる。跳ねる。目の前にいたエゾジャケを噛み殺す。
血の味が口の中に広がる。不味い。
血を吐き捨てる。拳を横に薙ぐ。
転がる。服が泥に塗れる。
太ももの肉が食われた。カードを投げる。拳打。蹴り。転がる。
泥が撥ねる。水が傷口にしみる。
痛い。
だがまだ生きている。
前方にまとめてカードを投げる。拳打。蹴り。跳ねる。
エゾジャケがドームを作っている。そこの一点を少しでも薄くする。
カードを投げる。蹴る。拳打。繰り返す。
光が見えた。
カードを投げ、走り抜ける。
ふくらはぎの肉を食われた。
走る。エゾジャケが追いかけてくる。
速い。やはり撒くことは難しい。
振り返る。カードを投げる。
血しぶきが目にかかった。ぬぐう暇はない。息が苦しい。
走る。転がる。カードを投げる。
戦いながら、蛎崎を探す。
拳打。転がる。蹴り。跳ねる。カードを投げる。走る。
足が泥にとられた。バランスを崩す。靴ごと、つま先を食われた。
カードを投げる。転がり、立ち上がる。
痛みがある。
走る。
まだ生きている。
一度大きく息を吸った。
まだ、戦える。
エゾジャケが四方から同時に来た。
一匹をカードで斬り殺し、その方向に転がるようにして避ける。
カードを投げる。肩が痛む。息が苦しい。
跳ねる。蹴る。拳打。カードを投げる。転がる。
泥が目にかかる。ぬぐわず音を頼りにエゾジャケを殺す。
子供たちが見えた。
私の図書館で楽しそうに本を読んでいる。
大人しく読んでいる子もいれば本を投げたりして騒いでいる子供いる。
みんな、可愛い私の子供だ。
みんなを集めて本をよんであげよう。
みんな楽しそうに私の読み聞かせを聞いてくれいる
さっきまで騒いでいた子も目を輝かせてくれている。
幸せだ。
本と子供達に囲まれて生きる。これ以上の幸せがあるだろうか。
エゾジャケが脇腹の肉を抉った。
しばらく、意識を失っていたようだ。
どれくらい気を失っていたのだろう。
いつの間にか目にかかっていた泥が取れていた。
エゾジャケは相変わらず無数といえる数を誇っていた。
それでも数は減っている。そう感じた。
走る。
カードを投げる。
跳ねる。
カードを投げる。
体が苦しい。もうダメだと叫んでいる。
だが、これからだ。本当の戦いというのはこれから先のことだ。
魔人司書である本屋はそのことを熟知していた。
呼吸。丹田に気を沈め五体を結ぶ。
走る。転がる。跳ねる。打つ。蹴る。転がる。カードを投げる。
左耳を持ってかれた。視界の端に赤い血が見える。
まだ、戦える。
カードを投げる。エゾジャケが地面に落ちる。
後ろ。ふくらはぎに噛みつかれた。拳で打ち払う。
目の前に孤児院があった。
私は迷宮時計を運転し孤児院に入っていく。
子供たちが私を歓迎してくれている。
一人の子供が私の前に出てきた。
お姉ちゃん本が好きなんだよね。と言って私に本を渡してくれた。
私はどうして私に本をくれるのかその子に聞いた。
その子は僕はお姉ちゃんが大好きだから。大好きなお姉ちゃんに僕の大好きな本を持っていてほしいんだと言ってくれた。
エゾジャケに右手の小指を食われた。
また意識を失っていたようだ。
どれだけ意識が飛んでいたかはわからない。
ただエゾジャケの数は大分減っている。
いい夢をみた。
帰ったらまたあの本を読もう。
どこにでも置いてあるようなただの本だけど、あの本は今でも私の宝物だ。
大きく息を吸う。
エゾジャケが正面からきている。カードを使って切り裂く。
すう、と体が軽くなるの感じた。
入った。
死域だ。
これで、まだ戦える。
走る。切り上げる。カードを投げる。跳ねる。殴る。カードを投げる。
転がる。切り上げる。カードを投げる。転がる。蹴り飛ばす。立ち上がる。走る。
エゾジャケの動きがゆっくりに見えた。だがそれでも傷は少しずつ増えていく。
負けられない。
それが愛なのか、エゴなのかなんてことは私にもわからない。
ただ、もう一度子供たちの笑顔が見たい。
走る。殴る。蹴る。カードを投げる。跳ねる。蹴る。泥がはねる。走る
もう、痛みは感じない。疲れもない。
死んでいるのか生きているかもわからない。
それでも、まだ戦える。それだけがわかっていれば十分だった。
走る。転がる。カードを投げる。跳ねる。カードを投げる。蹴る。跳ねる。転がる
蹴る。転がる。走る。殴る。切り上げる。カードを投げる。走る。
転がる。跳ねる。蹴る。カードを投げる。
首筋。噛みつかれた。拳で頭部を砕く
左足の肉を持って行かれた。カードを投げる。転がる。滑り込む。
カードを投げる。跳ねる。蹴る。転がる。カードを投げる。走る。
繰り返す。何度でも繰り返す。
このエゾジャケどもが消えるまで。
蛎崎を倒すまで。
元の世界に戻って子供たちに会うために。
殴る。転がる。
エゾジャケが数匹地面から顔を出してきた。
カードをまとめて投げる。一匹仕留めそこなった。
頬の肉を削がれた。
学習してきている。私を殺すために
跳ねる。口の中に湿った空気が入ってくる。
カードを投げる。足が泥にとられる。殴る。蹴りあげる。転がる。立ち上がる。
走る。跳ねる。走る。カードを投げる。
子供が泣いている。
私はその子に声をかけようとした。けれど動くことも声を出すことすらもできなかった。
その子供は私だった。小さいころの私だった。
小さいころの私はよく泣く子供だった。その度にお母さんは本を読んでくれた。
ほら、やっぱりお母さんが来てくれた。お母さんが本を開く子供の私はさっきまで泣きじゃくっていたのがうそみたいぱあっと笑っていた。
まったく現金な子だ、と思ったらお母さんも子供の私に同じことを言っていた。
腹が焼けるように熱い。
エゾジャケにどてっぱらを貫かれた。
血反吐を吐いた。口の中に鉄っぽい味が広がる。エゾジャケに比べればマシだがやっぱりまずい。
エゾジャケの数は目に見えて減っていた。だがその目が霞む。
死が近づいてきているのを感じた。
それから逃げるように地面を蹴った。
死ねない。
死ぬわけにはいかない。
カードを投げる。走る。カードを投げる。跳ねる。
腹の穴から気が抜けていっているのがわかる。
血反吐を吐いた。
生きる。
生き抜いてやる。
殴る。蹴る。走る。カードを投げる。
体が痺れる。思うように動かない。
それでも、まだ、戦える。
子供たちを守るためなら、私は。
カードを掴む。
それを放とうする。
だが指先から力抜けた
カードが地面に落ちる。
エゾジャケに右腕を噛み千切られた。
右腕が宙を舞っている。
思わずそれを目で追った。

その先に。
蛎崎が。
30M。
射程距離内だ。
左手でカードをつかむ
蛎崎と目があった。
向こうもこちらに気付いている。
だが関係ない。
反応すらさせない。
死んだことにすら気づかせない。
これを投げることができれば
私の勝──────────

────────

────

──



─────



一瞬だった。
一瞬だけあの人と目が合った。
本屋文。
たった一人でエゾジャケと渡り合っていた。
隠れなければいけない。隠れてエゾジャケやエゾシカに任せておけばいい。
それは分かっていたのに。
見惚れてしまった。
命を削るようにして戦う、その姿に。
本屋文は僕と目が合った瞬間にコートのポケットに手を入れた。
きっとあのカードで僕を殺そうとしたんだろう。
だけど、その手がカードを投げることはなかった。
ポケットから手を出す間もなく、本屋文は北海道から降りてきたエゾヒグマの放射熱線に焼かれて死んだ。
焼け跡の方に足を進める。
人の脂の焼けた臭いとエゾジャケの焼け焦げた嫌な臭いが鼻をついた。
すごい人だった。
あれだけの数のエゾジャケを相手に最後まで一歩も退かなかった。
最後まで戦い続け、そして、僕をあと一歩のところまで追いつめた。
そんな人を
エゾヒグマが
僕が
殺した
膝をついた。立っていることができなかった。
胃の中のものが逆流してくる。喉が熱い。涙が出てきた。
死んだ。目の前で、人が。
あの時の母さんのように、エゾヒグマの放射熱線で。
いつの間にか僕はベッドで寝ていた。
叔父さんと叔母さんが横にいてくれていた。
どうにも下校中に突然倒れてそのまま病院に運ばれてしまったらしい。
叔母さんが僕の右手を両手で包んでくれていた。
心配させないでよね、と涙をぬぐいながら笑いかけてくれた
叔父さんは黙って僕の頭を撫でてくれた。
マタギだった父さんのゴツゴツした手と違って少し柔らかかったけど、やっぱりそれは父親の手だった。
だけど、今は二人の優しさがただ心に刺さった。
左手の腕時計を見る。迷宮時計はいつも変わらずチクタクと針を進めていた。
それをみてどこか安心すると同時に、少しだけそのことを疎ましく感じた。


最終更新:2014年10月21日 17:57