1.玄 舶
<ことば>
※玄舶(くろつむ)
いかなる波にも沈まず、いかなる航海からも無事に帰ってくることが出来る黒い船。
島ほども大きい。造語。
※家鳴(やなり)
古い家に住んでいて、きぃきぃと鳴く小鬼の妖怪。
ぼろい木造の小屋組みが軋んでいるわけではない。
※希望崎
江戸前(東京湾)に超巨大な筏を浮かべて、その上に作られた魔人の集落。
異能を活かした怪しい商売と、金持ち達の節介のおかげで陸の町以上に栄えている。
メガフロートという数百年後の技術に近いオーパーツ。
※殺戒(さっかい)
仙人が秘密兵器「宝貝」を使って殺生をしたくてたまらなくなること。
仙人を魔人、宝貝を魔人能力と置きかえればハルマゲドンに近い。
※三宝如意玉
元始天尊が自身の法力を数千年かけて注いだ、分身や半身ともいうべき宝貝。
それだけに通天教主に持ち逃げされそうになったときは半泣きになった。
危ういものを「崎」という字で表すことがある。江戸前(東京湾)にはいつからか、たまげるくらいに危うく、そして馬鹿馬鹿しいものが浮かんでいた。
それは組木の箱をずらりと縦横に繋いだ巨大な筏の上に作られた集落である。子供でも思いつかないような与太だが、真事(マジ)なのだから仕方がない。
そんなところに住んでいるのはいかな連中か。やはり「崎」の字がよく合いそうな奇人達である。それぞれが妖術のような異能を使う。彼らは妖怪変化の類でなく人を親に持つれっきとした人間だが、だからこそ余計に気味悪がられて遠ざけられて生きて来た。遠くに、もっと遠くに、もっともっと遠くにと追いやられて遂に来るとこ来たのがこの筏の上なのだった。
さて、そんな筏の地面は、波の揺れにさえ慣れてしまえば中々大したものである。華と言えば聞こえは良いが、所詮は気忙しいだけの陸(おか)の町と比べて、海の上は広々のんびりと気品がある。そこにさかしらな金持ち共が目をつけ、金を回し、筏の上は陸の町よりむしろ栄えた。いつ誰が呼び始めたのか、羨望とやっかみを込めた「希望崎」という名が定着した。
尤も、栄えるだけで済むなら世間の話ではない。希望崎はひとつの難局を迎えていた。筏がウワモノの重みに耐えかねて、少しずつ沈み始めていたのである。
その対策は大いに揉めた。最初に考え出されたのが新しい筏を作ってそこに移住するやり方。これはじきに却下された。次に出たのが平屋ひとつぶん筏を海に沈めて、今ある筏の上にもう一層筏を組んでしまおうというやり方。そして一番新しく考え出されたのが大きすぎるウワモノを取り壊してしまおうというやり方だった。
他にも細々ああでもこうでもそうでもないと口げんかに手が生え足が生えてしているうちに、とうとう希望崎を真っ二つに分けての武力抗争にまで至ってしまった。
しかし、あれこれ口実は立ててみても、言うところのこれは殺戒。ハルマゲドンである。仙人さまですら、千五百年に一度は手ずから作った殺戮兵器「宝貝」を試してみたくなるのだから、それが異能を持っただけの人間ならば尚更だった。(要するに皆、存分に異能を試してみたかった)
希望崎の南東の角、一番の場所に建てられたのが三の床と天井を持つ「崎々亭(さきざきてい)」である。希望崎といえば崎々亭というくらい大した佇まいは、筏の沈下の一番の原因にもなっており、良い悪い両方の意味で卓越していた。
その崎々亭の三階、角から二番目の部屋で善通寺は一人の男とやり合っていた。元々希望崎で起きている殺戒(ハルマゲドン)とは関わりのない彼だったが、ケンカの仲裁や説教、意気投合を繰り返しているうちに、すっかり巻き込まれてしまっていた。
「するどいげんこつじゃ!」
男の突きを巨大な筆の柄で受けとめながら、善通寺は感嘆する。同時に懐から「吸」やら「衰」やらの文字が書かれた札を取りだすと、ぱっと無造作にばらまいた。その札を危うしと見た男は後ろに飛び退く。札はしばらく空中を漂ってから床に落ちた。そのうち一枚が、床できぃきぃ鳴いていた小さな猿のような生き物の額に落ちる。たちまち猿のような生き物、家鳴(やなり)は「きゅう」といって伸びてしまった。
「おっと、すまんの」
善通寺は「活」と書かれた札を家鳴の上に落とした。元気を取り戻した家鳴は善通寺のズボンの裾を掴んで、怒っているのか面白かったのか一生懸命鳴いている。
「しかし、家鳴の多いことじゃ」
善通寺は部屋を見渡しながら言った。四国は結界の守として霊界に通じる彼には、部屋のあちらこちら、高いところにも低いところにも家鳴の姿が見えていた。実のところ、善通寺は目の前の男に対しやり辛さを感じていた。攻撃してくるからには敵意があるのは間違いない。しかし、その敵意はどこか散漫で、表情の無さや体術の巧さもあって攻撃が読みにくい。まるで部屋中に広がる煙を相手にケンカをしているようだった。
善通寺は筆で自分の周囲に円を描くと、その外側に「滑」と文字を書いた。すると床の上の家鳴達が一斉に右につつつと滑ってゆく。
家鳴だけでなく、煙のような敵意をはなつ男も床に膝をつき、右に、やがて左に、次は手前に奥にと床の上を滑っている。希望崎の地面は常に波に揺れている。床は一時だって平じゃないのである。
男はなんとか立ち上がろうと試みるが、床が滑って難儀している。それを見て善通寺は「痺」と書かれた札を取りだし投げつける。男は今度こそ躱せず、肩にくらってしまう。すかさず床の「滑」の文字を斜線で消すと、善通寺は男に駆け寄りその腹に筆で「縛」と書いた。文字は服をすりぬけ、男の地肌の上に乗った。
手足を見えない何かにいましめられた男を、善通寺は部屋の隅へと移動させた。
「すまんの、命までは取らんきに」
善通寺の肩にはいつのまにか家鳴が数匹乗っかり、興味深そうに筆をつっついて遊んでいる。
「おんし達。物事は中道的な解決法というもがを考えないといかんちやよ……ん?」
身動きとれない男に説教を始めようとした善通寺の目は、床に転がった一つの時計に止まった。彼の目に若干の険しさが宿る。
「おんし、もしかして……」
善通寺は時計を拾い上げると、指で「調」の字をなぞった。しばらく時計と見つめあった後、時計を床にそっと置きなおした。
「迷宮時計やない、普通の時計か。ほんなら違うな」
その目からは険しさが消えていた。家鳴の一匹が筆から一本毛を抜き取りはしゃいでいたので、げんこつで叱る。
筆の先を床に向けると、大きく「隠」の字を書いた。
そして、左の掌に書かれた円印の中にも指で「隠」となぞると、両掌を合わせ、気合を込める。すると部屋の隅に寝かされた男の姿は背景に溶けて見えなくなってしまった。
「隠の結界じゃ。これでたぶん敵には見つからん。日が落ちるころにゃ動けるようになるよ」
筆から今度は隠の結界に興味のうつった家鳴が、その境を出たり入ったりして遊んでいる。
善通寺は部屋の床の中央あたりに何やらまじないを書くと、さっきと同じように手を合わせてえいっと念を入れた。だん、だんと何度か床を足で叩いた後、こくりと頷いて部屋から出て行った。
「それにしても、蒿雀ナキって名前、男か女かも分からんね」
その後も善通寺は希望崎のあちこちにまじないを書いては念じるという行為を繰り返していた。何度かケンカに巻き込まれたが、対応は大体同じようにこなした。動けなくして見えなくする。
そして日もだいぶ傾いた頃、希望崎の北西端で最後のまじないを終えた。
「よし、これで筏の沈下は収まろう!」
殺戒にまんまと巻き込まれた善通寺だったが、勿論人殺しに励むつもりなどなかった。ケンカの中を潜り抜けて、とうとう希望崎に「不沈御水の願」を掛け終えたのだった。水難から船を護るまじないの中でもとびっきり強力で、そのぶん骨の折れるものだが、これで殺戒の根を断ち止められるなら割の悪い話ではない。
大仕事終えて伸びをする善通寺の背中を一人の女が見つけた。善通寺が希望崎に来てから、割と早い段階で見知った女である。
「善通寺さん、本当にあなた今まで筏に落書きして廻ってたの?」
女に声をかけられ振り返った善通寺は、にっと笑った。
「おうよ、これでこの筏は正に玄舶(くろつむ)じゃ」善通寺が足元のまじないを筆の柄でコツコツ叩きながら言った。「これでおんし達も、ケンカの理由が無いじゃろう!?」
心底うれしそうな善通寺の様子に女はため息をついた。
「無駄だってば。言ったでしょう? 理由なんてホントはどうでも良くて、皆ケンカしたいだけなんだから」
「それがいかんのじゃ」
短いというにも短すぎる付き合いだが、善通寺が説教を始める気配を感じ取った女はさっと手を挙げて制した。
「その落書き、じゃなくてまじないで希望崎が沈まなくて済むってなら、本当にあなたには感謝してるよ」それは本心で、もひとつ女は本心を語った。「あなた変わってるね。自分の住むところでも無いのにさ」
女は善通寺が身におぼえのないケンカに巻き込まれながら、必死に希望崎にまじないをかけて廻った事を不思議がっていた。あなたには何の義理も、得もないじゃないか、と。
「こんな面白い舟が沈むのも、そんな面白いところに住んどる面白い連中が殺し合って数を減らすのも、つまらんじゃないか」
錆の聞いた声の調子は、心地よくて頼もしい。顔の作りは良く無いが、半欠けの夕日に目を細めた表情の精悍さに、女はおもわず見とれた。
「ところで誰だっけ? 蒿雀さん? その様子じゃまだ見つかって無いの?」
「そうなんじゃ。だいたい、わしも名前しか知らんき。ついつい日が暮れそうや」
善通寺は頭をかきながら胸に下げた懐中時計で時間を確認した。ありふれた代物である。そう、ありふれた……
「なぁ、おんし」善通寺は時計の蓋を閉めると、女を手招きしながら言った。「これ、何かわかるか?」
「何それ?」
「うん、おんしはこれが時計やて、ふつう思わんよな」
善通寺は自分のやらかしたへまに気づくと、あちゃあ、と天を仰ぎ額を押さえた。この時代に掌に収まるような時計があるわけないじゃないか――
「あいつじゃ!」
言うが早いか、善通寺は女の横をすり抜けて走った。崎々亭三階で戦った男、蒿雀ナキの腹に書いた「縛」の印は解けるまでにもう少し時間がある筈だ。でなくては困る。
崎々亭の三階で、ナキは顔をしかめながら腹をぐぐっと捻っていた。その姿を家鳴達がみて、ききっと笑う。時間とともに、手足のいましめは緩みつつある。それともうひとつ、腹をねじって字の形を変えれば、更にいましめが弱まる事に気づいていた。だから見栄えが悪くたって、この腹芸を続けざるを得ない。
ナキは目の前に転がっている自分の迷宮時計を見た。
「あの男は『迷宮時計』と口にした。とりあえず誰と戦えば良いかは分かりましたか」
大筆の男はナキの時計を調べて「迷宮時計ではない」と言った。ナキ自身も自分の時計が、他の迷宮時計とは勝手が違う事に気付いていた。例えば、この時計は対戦相手の名前も、戦う場所も、時も告げずに前置きなくナキを過去へと連れてきた。善通寺とやり合っていたのは、単にその男が首から時計を下げていた事からの当て推量――つまりナキも善通寺と同じ見落としをしていた事になる――で、当たるも八卦、外すも八卦に過ぎなかった。(もののけというのは呑気で段取りをしない性質のものが多い。人と同じだけ気を張るには些か寿命が長すぎるのである)
ナキはツクモガミの親分との問答を思い出していた。
「私からも、聞いていいですか?」
ツクモガミの親分の「幽霊は血を流すのか?」という問いに嘘で応じた後、今度はナキが問いを投げた。
「ん、いいよ?」
ただし、都合の悪い事には嘘をつくかもね、と親分は付け足した。嘘をついたのは本当だが、こうもあっさり看破しているぞ、と仄めかされては少々面白くなかった。
「あなたは迷宮時計は持ち主に合わせて姿を変えるのだと言いました。そして、時計の持ち主になる事で、迷宮時計がどんなものであるかをも知る、と」
「真偽は私も確かめようがない話だがね」
「しかし、私の時計は前の持ち主の時から姿を変えていない。何より、その時計が私に時間以外の何かを教えてくれたこともありません」
親分の持つ迷宮時計の情報が正しいのであれば、そもそも親分の話した迷宮時計に関する内容をナキが知らないというのは全くおかしい。
「面白い事を言うね。その時計はまるで君に時間なら教えてくれるみたいだ」
今度の親分の沈黙は長い。とんちに付き合えと言っているのだ。ナキは暫く考えたのち、うん、と頷いて答えを出した。
「私に不足があると?」
「うん。時計で時間を知るというのは、時計が君にアクセスした結果ではなく、君が時計にアクセスした結果だ」
親分は皿から洋菓子を口に運んだ。
「君の問いに戻って、二つの仮説が立てられるね。ひとつは時計が示す情報に君がアクセスできていない可能性。もうひとつは君の時計が情報を表示していない、つまり不完全品である可能性だ」
ナキは沈黙した。親分もしばらく沈黙し、互いに言葉を譲り合う形になった。最終的に譲りを受けたのは親分の方だった。
「迷宮時計は元々一人の魔人が持っていた魔人の力だ。魔人ではない君とは親和しないのかもしれない」
親分がこともなげに付け足した言葉にナキは少し憂鬱になった。妻の居る世界へ帰る手がかりが一気に細くなったように思えたからだ。
憂患だった時計の欠陥は、皮肉にもナキの窮地を救う事になった。
「何が得になるか、分からない、ものだな」
ナキはそう言って、再び身をよじり始める。
「家鳴、すこし肩を押して手伝ってくれませんか?」
最初の一匹がナキの肩を押し始めると、面白そうだと残りの家鳴もそれに倣った。
希望崎の北西の角から、南東の崎々亭まで走っていた善通寺が、その足を止めて振り返った。道の端で男がうずくまっていた。
「大丈夫か、おんし?」
助け起こした男の顔色は土のように悪く、息遣いはあらい割に浅い。懐は血で赤く染まっている。善通寺は男の体に「救」と「活」の二つの文字を書いた。幾らか顔色がマシになった気がした。
「わしが戻ってくるまで、ここ動かんときや。わかったねや?」
男の姿を隠の結界で隠すと、善通寺は再び南東へ向かって走り出した。
「酷い目にあいました」
隠の結界の内側で、ナキはさっきまでと同じ姿勢で寝そべっていた。床の上で一匹の家鳴が腰を捻って腹をぐにゃりと曲げている。それを見て、他の家鳴達はバカ受けだ。
ナキはややバツ悪そうに言った。
「内緒ですからね」
からからと戸が開く音がして、部屋に誰かが入ってきた。独特のシルエットからそれはすぐに善通寺だと分かる。家鳴の声がやや大きかったこともあってか、筆を構えて警戒するように、じりっ、じりっ、と隠の結界に近づいていく。どうやら結界の内側は、術者である善通寺にも見えないものらしい。
ナキはそっと身を起こすと立膝をついた。「縛」のいましめから解かれたのは、善通寺が部屋に入ってくるほんのわずか前のことである。
ナキは家鳴の一匹をそっと脇に抱え上げると、その頭を3度撫でた。
「五々色鳴」
とたん、家鳴とナキの耳が聞こえなくなる。間髪いれずナキは指をくわえ、指笛を吹き鳴らした。そのやかましさに、家鳴達が目を丸くしてこてんこてんと倒れる。不意をつかれた善通寺もよろめいた。平気なのは耳が聞こえなかったナキと家鳴の一匹だけだった。
善通寺の前に躍り出たナキの左手はあっという間に大筆の柄を掴み、右手は善通寺の首にかけられた。爪が首の皮に食い込み、血が滲みだす。
「あなたには一度見逃していただきました」善通寺の目を見据えながら、ナキが静かな声で言う。「時計を置いて退いてくださるなら、これ以上はなにもしませんよ」
七十ばかりの春を精々数えて終う命を奪う事にナキは慄きはしない。しかし、恩や借りは命の長さとは無縁である。
善通寺は右手を筆の柄から離すと、降参を示すように手を顔の高さにまであげた。続いて、左手も同じように顔の横につける。ナキはその左掌に描かれた円印を訝しみ、視界の端にて注視した。
(ひとつ……ふたつ……)
心の中で善通寺が数を数える。背中にはじっとり、イヤな汗をかいている。心臓のうつ速さは胸を破って飛び出しそうなほどである。
(みっつ!)
善通寺の左手の円印が橙色の玉に変わった。同時に手の形も鷹のかぎ爪のように鋭く変化している。善通寺の首に生えた硬い鱗はナキの爪を外に押し出していた。ナキは善通寺の目を見てぎょっとした。そこには縦に長く割れた瞳孔、金色の瞳、そのまわりを炎のような赤で囲った「龍の眼」があった。
ついと振るわれた右爪の一撃を、雀の野性は間一髪で大筆の柄で受けとめる。しかし、龍の腕力はナキの体を軽々と吹っ飛ばして、壁に叩きつけた。
「おんし、おなごみたいに軽いのう」二つに分かれた舌先と、鋭い牙をのぞかせて善通寺が言った。「これがわしの切り札、龍の如意玉じゃ!」
善通寺には書いた文字から力を引き出す技のほかに、描いた絵を具現化する技がある。描いた絵を具現化させるには、その絵をある程度の時間見せ続けなくてはならない。
善通寺の左手の円印は龍がその手に抱く如意玉。元始天尊が持つ三宝如意玉と同じく、龍が持つそれは龍の半身であり力そのものである。それを手に抱けば善通寺もまた、龍となる。
今度はナキが失策を嘆く番だった。ナキの未熟な妖術はその力を十全に発揮するためには相手の体に何度か手で触れる必要がある。さっきは家鳴の体に4度触れてその「聴覚」を乱す事が出来た。善通寺の体には一度しか触れていない。即ち、乱せる五感は「味覚」ただひとつのみ。
善通寺が二度、その爪をナキに翳す。間一髪で躱された爪が床を引っ掻く。三度爪が振り上げられるその咄嗟に、ナキは指笛を鳴らした。今度はナキの耳も聞こえるから、二人して身をこわばらせる。
一瞬早くショックから立ち直ったナキが間合いを外す。指笛の痺れはまばたき一つの間に消えるというのに、善通寺の最初の一撃、筆の柄で防いだその一撃はまだナキの腕を痺れさせていた。
しかし、腕の痺れはナキにひとつ天啓をあたえた。まず左手に掴んだままの筆の柄を、次に善通寺の爪が引っ掻いた床を見た。どちらも傷らしい傷はついていない。これほどの痺れを腕に残す一撃なのに? もしや善通寺に宿った龍の力は、どういうわけか自分(ナキ)にのみしか作用しないのではないか――
そう仮定したナキは一か八か、障子を破ってその身を宙に投げ出した。見た目よりも軽い雀の体は4間は離れた地面にふわり着地する。
「なるほど、そういう魂胆かよ!」
躊躇わず、善通寺もナキを追って障子を破った。その着地は雀と同じ軽やかさとはいかず、足の裏から頭の先まで電気のような衝撃が走る。ナキの考え通り、龍の鱗はナキの爪は防げても落下の衝撃は防ぐことは出来なかった。善通寺もそれは覚悟しての行動だった。
「つぅー、思ったより効く!」
痺れが走る両ひざに手を置き、善通寺が呻いた。その瞬間を捉えてナキが走る。竜の鱗に雀の爪など通じないが、触れれば問答無用の妖術「五々色鳴」がある。物に触る感覚を乱せば手の中に宝玉を握っていられなくなる筈だ。
ナキの手があと一歩で届く、まさにそのタイミングで善通寺が牙をむき出して吠えた。雀の鳴き声などとは比べ物にならない竜の咆哮にナキはくずれ落ちた。
「おんしの読み通り」善通寺は自分の耳を指さしながら言った。「龍の声もおんしにしか効かんのじゃ」
足はまだ痺れて動かないのか、腕の力だけで振り下ろされた爪を、ナキの左腕が辛うじて受け止める。肘から先が不気味な音を立てて潰れた。踏込が無かったためか、或いは加減があったのか、そのまま頭を潰されるには至らずすんだ。
その痛みが気付けとなって、ナキは横に転がり追撃を免れる。ほうほうで逃れて立ち上がった場所は筏の縁からほとんど離れていなかった。
善通寺はナキの姿に龍の目を細めた。
龍の咆哮と共に吐き出された息は、本来ならば満月の夜にしか解くことが出来ない変化の術を破っていた。表情こそ変わらないが顔は少年のものへと変わり、さっきまでは手首の下にあった袖が今は手の甲をすっぽり隠している。
否、善通寺はとうに龍の金睛でその本性を見切っていた。彼がたじろいだのは、ナキの纏う空気の変化に対してである。丸く広がって焦点のなかった敵意が、今はささくれ立って自分に向けられている。
善通寺は山で遭う獣どもの、内に怖れを孕んだ敵意を思い出していた。
化ける事とは、弱さを覆い隠す事。変化を解かれた少年の姿。歴然とするヒトとモノノケの埋められない差。化けの衣を失い、秘めた惧れを晒したナキは獣と同じ殺気めいた敵意を張りつめる事でそれを守ろうとしているのだった。
ナキがたかが十の齢を化かして隠したかった弱さの正体を、善通寺は知る由も無い。だが弱みを晒して尚、獣が逃げずに敵意を剥くのは誰かを護るためだと知っている。
「おんしにも、譲れん事情……いや、誰かがいるようじゃ」
ナキの左足が半歩、後ろに下がった。かかとが筏の縁にかかるほどまで近づく。すぐ下で真っ黒な海面が揺れている。
(赦せよ)
その言葉を善通寺は飲み込んで覚悟を決めた。乞うて赦される事であるものか、と。善通寺は、足で地面を何度か叩いて見せた。どうやら足の痺れも引き始めたらしい。
「命、貰うき」
善通寺が殺気を伴いナキの心臓をめがけて貫手を放つ。化けの皮に割かれていた精気が満ちたのか、もしくは張りつめた意気によるものか、僅かに冴えを増したナキの体は紙一重で善通寺の爪を躱し、無事な右腕で袖を掴む。
(なんつう身のこなしじゃ、こいつ!)
心の中で感嘆する善通寺をぐいと引き寄せ、もろとも筏の縁から海へと引きずり込む。善通寺はその行動の意図を瞬時につかんだ。
(海水で、玉の絵を滲ます気か!)
ナキの体が海面とぶつかりしぶきをあげる。
「滲まんぜよ! これは入れ墨やき!」
続いて、善通寺も海に落ちる。
水の中にたった無数の沫を裂いて、善通寺の爪の先が遂にナキの喉元に届く。
――そこまでだった。善通寺の脇をすいと泳いですりぬけ、ナキは水面から顔を出す。
善通寺はゆらゆらと海の底へと沈んでゆく。
善通寺の舌の感覚は、五々色鳴で口の中から皮膚の表面すべてに広がっていた。舌となった全身で海水を舐めた善通寺は、からいと感じる間もなく意識を失って終(しま)った。
ナキは海水に浸された傷の痛みに顔をゆがめた。
希望崎では善通寺の想いも空しく、殺戒が続いている。
筏の縁に家鳴達が集まっていた。海中に小さくなってゆく善通寺の姿を見て、家鳴達は泣いた。