第一回戦SS・希望崎学園(過去)その2


ダンゲロスSS4第一試合

~夜雀(よすずめ)とは~

夜闇の山道にて、凶運をもたらす物の怪。雀の如くさえずり、耳にした者に憑く。
名の通り雀の姿であったり、黒い羽虫の群れの姿で現れるともいわれるが
姿を捉えることは極めて困難で、ただ(さえず)りの声のみが響く。
迂闊に捕まえてしまえば、夜目を奪われ夜道に迷い、転び、惑う。
また、山犬や狼の物の怪を呼び寄せることもあるという。

~~~

『欠片の時計』――転校生・時逆順が遺した忘れ形見。
文字通り欠片となって散らばったそれらは、再び一つになるべく戦いを求む。

今回『欠片の時計』が選んだ舞台は――希望崎学園。
魔人が争い合うのに、これ以上なく相応しい場所である。

だが、二人の所有者が一騎打ちをするには、あまりに不向きだった。

~~~

(……まずいですね)

時刻は夕暮れ。希望崎学園の敷地内にある森林地帯――その樹上。
一見すればどこにでもいそうな青年である蒿雀ナキは、太い枝を足場にして息を殺しながら足下の様子を伺っていた。

ヘルメットにチョッキ、手には警棒や鉄パイプ。
どこか心許ないとはいえ、武装している人間が三名。

戦いの舞台が『希望崎学園』と知らされた時点で、学生や教師が存在している可能性については
ナキも承知していた。場合によっては彼らを巻き添えにしてでも、相手を倒さねばならぬということも。
だが、今眼下にいるような――戦闘を既に警戒しているような人間がうろついているとは。

(これは……ハルマゲドン、とやらでしょうか?)

ナキは、ツクモガミ達から仕入れた情報を反芻する。
希望崎学園――全国各地から「魔人」が集まる戦闘破壊学園。
度々、番長グループと生徒会の大規模な武力衝突……『ハルマゲドン』が起きる学校だと。

ナキの持つ『欠片の時計』は至って普通の懐中時計であり、文字盤や針の動きが変化することで
情報を指し示すというものであった。欠片がもう少し集まればもっと情報を引き出せるのかも知れないが、彼が試合を告げられた段階で得ていた情報は限られていた。

場所が希望崎学園であること。
時代が今の滞在先よりも昔であること。
対戦相手の名前が『善通寺 眞魚』であること。
この三つだけであった。

(幸い、こちらには気付いていないようですね。
 それに警戒心もまだ薄い。ということは、本格的な交戦には至っていないと見ていいでしょう)

もし、これがハルマゲドンであれば……下の者を殺すのはまずいだろう。
どちらのグループに所属する者たちかは分からないが、遅かれ早かれその死が仲間や敵に知れれば
戦争の激化は不可避となり、巻き添えを食う危険も高まる。
逆に言えば、相手を巻き込んで先に殺せる可能性もあるのだが――

(とりあえず、夜になればもう少し動きやすくなりますし……ん?)

沈思黙考しかかったところで――下が俄に騒がしいことに気付く。

ズズーッ。ズズズッ、ズルッ!ズルズルーッ!
「おい!何者だ!」「名を名乗れ!」「うどんを喰うな!」
ズルズル、ズルーッ……ちゅるん。

繁る葉の隙間から、様子を伺うナキは―― 一瞬その目を疑った。
……なんで、こんな所で、あんなことをしているのだ?と。

視線の先に、うどんを啜る白衣(びゃくえ)姿の青年がいた。その背には、巨大な筆。
先程の三人が、得物を構えながら取り囲む中――彼は、手にしていたうどんを最後まで平然と食べていた。

「ごちそうさん! ……んで、何じゃったかいの」
「貴様何者だ!どこから来た!」「名を名乗れ!」「公安の回し者か!?」

警戒を強める三人組に対し、警戒されていることを気にもしていない様子で青年が名乗り、問い返す。

「わしかえ?わしゃあ善通寺眞魚っちゅーもんじゃが……
 おまさんら、このへんで“アヤカシ”とか見ちゃあせんかえ?」

「!」
青年の言葉に、思わず動揺したナキの足元に力がかかる。
折れこそしなかったが枝にヒビが入り、亀裂音と葉擦れが響く。

「おい、上だ!上にも誰かいるぞ!」「さては仲間か!」「報告を!」

三人が一斉に樹上に視線を向ける。

(南無三……もはや戦いは避けられませんか!)

一人が警棒を、一人が懐中電灯を、一人がトランシーバーを構え、
ナキが鋭い爪の光る右手を構えたところで――

――ぱたり、と学生が一斉に地面へと突っ伏した。

「……」

ナキが、ふわりと音もなく地面に降り立つ。
眞魚は目の前に現れた“アヤカシ”を前に、ゆるい笑顔を浮かべたまま筆を戻した。

「おまさん、そんな物騒なまねはやめちょきや。
 こん人らあにゃ、ちっくと寝て貰うたけん安心しいや」

高いびきをかき始めた三人の武装学生の顔には、『眠』の文字が書かれていた。

~~~

さて。ナキの推測だが、当たらずとも遠からずだが、正鵠を射ているとは言い難かった。
この時代において、そもそも希望崎学園は新設されたばかりであり
生徒会と番長グループの二分対立の構造が完成する遙か以前であるからだ。

では、なぜ彼らは武装していたのか?

答えは、時代にある。
196X年。
世は、学生運動真っ盛りであり。

建設が完了し、開校したばかりの希望崎学園は――
今まさに、学生運動セクトが籠城中であった。

今の段階でナキと眞魚の二人は、その事実を知らない。

~~~

念の為、より人気のない所まで移動したところで――二人は改めて互いに向かい合う。

「蒿雀ナキ、と申します。世間では夜雀、送り雀とも呼ばれております」
「ほーかほーか。どうりで嗅いだことのある匂いじゃ思うたんよ。
 わしゃあ善通寺眞魚っちゅー旅ガラスじゃ。雀と烏じゃが、仲良うしとうせやー」
「……あまり面白くない洒落ですね」

緊張感なく差し出された眞魚の右手を、ナキはあっさりと握り返す。
友好の証ではない。あくまでも、己の力を発揮するための打算である。
緩みきっている青年を倒し、帰還するための布石として――会話は続く。

「ところで、先程アヤカシがどうとか言ってましたが……もののけの類には慣れておられるようですね」
「まあの。悪りことしゆうアヤカシを鎮めたり、場合によっちゃあ封じるんがわしのお役目じゃきに」
「封じる、ですか。……殺しはしないのですか?」
「無益な殺生はせられん、と習うたきの。おまさんを止めたんも、それがあるけん」
「ふふ、お優しいのですね。ですが――
 私は、妻のためにも、なんとしても戻らねばならないのですよ」

和やかな口調から一転、ナキが左手を振る。
右手は未だ握手のまま。これで相手は飛び退く自由を失った。
狙いは眞魚の首筋!

しかし、その爪が首を裂くことはなかった。
眞魚が左手に握った『小筆』がナキの左手を受け止め、受け流していた。
奇襲が失敗したことを悟ると、右手を離して間合いを取る。

「小筆も持っていましたか。やれやれ」
「かみさんがおるがか……そらあ必死にもなるわな」
「よく言われます。そんな歳には見えない、と」

世間話を続けながら、臨戦態勢に入る二人。
一方は積極的に、もう一方は消極的に。

「めったのう……わしも譲れん事情があるきのう……どういたもんじゃか」
「時計に選ばれた人間には誰だって事情があるでしょう――失礼、私は雀でした」

ナキがまたも先に仕掛ける。踏み込み、勢いのままに蹴りを繰り出す。
眞魚は大筆を立て構え、軸で蹴りを受けようと、

「ですので、やろうと思えばこういう動きも出来るのですよ」

飛び蹴りの姿勢から、空中で体勢を捻り――
防御の為に筆を支えていた眞魚の右手を掴み、ナキが掬い上げる様に投げる!

「うわっち!」

眞魚も投げられる直前に身体を捻り、受身を取って土の上を転げ回る。
そこに合わせて、ナキの掌が迫る。飛び込んでの掌底!
眞魚が小筆を左で振るい、袈裟懸けに“払い”流す。
中空に浮かぶ『ノ』の字にナキの掌底が触れた途端、滑る様に斜めに力が逸れる!

「っ……奇怪な術です、ね!」

ぱん、と地面に掌を叩き付けた反動で再び宙に舞い、眞魚の方へと跳びかかる。
勢いを乗せての、至近距離での斬撃!

「“書道”の基本ぜよ、止め・はね・払いは!」

眞魚が咄嗟に拾い上げた大筆でナキをいなす。浅い。躱しきれず、右の肩口に爪が軽く触れる。
白衣が、その下のシャツが、皮膚が裂ける。しかし、痛みで筆を止めることはない。
爪の一閃の勢いがまだ止まらぬナキの胴に、大筆の一閃!

「がっ……!」

筆先ではなく、柄による胴。ナキはまともに喰らって転げる。

「おまさんの気持ちもようわかる。誰やちかみさんは大事じゃ。
 けんど、わしが背負うちゅうんは“四国”じゃき」

眞魚が大筆を構え直し、ナキが体勢を立て直す。

「……お互い、譲る気はなさそうですね」
「いやあ、わしは譲ってもええけんど、おまさんの一途さを見よったらわかる。
 わしの代わりに“四国”を大事にしてくれ言うたち聞かんじゃろ」
「ええ。申し訳ありませんが、妻のことで手一杯胸一杯なものでね」

陽が完全に落ち、薄暗かった森がより闇を増した、次の瞬間。

とん、と眞魚の胸元にナキの手が一瞬触れて、離れた。

「……よう気配を消しちょった」
「送り雀……いえ、夜雀ですので。夜闇は私の味方です」

夜雀としての――夜の(とばり)の中を、音もなく飛び回る、姿隠しの力。
ここから先は夜明けまで、ナキの本領を最も発揮できる場面となった。

眞魚は素直に、己の不覚を認める。だが、二度は通じない。
アヤカシを鎮め、封じ、四国88結界を護ってきた眞魚ならば、次はもう捉えられる。
だからこそ、訝しんでもいた。先程まで爪での一撃必殺を狙っていたはずのナキが、
完全に入る筈の奇襲をなぜ、寸止めにも等しい軽い接触で終わらせたのか?

「それは、これにて仕込みが終わったからですよ」

そんな眞魚の疑心を見抜きながら、ナキが己の指を口で咥え――
大音声(だいおんじょう)の指笛を、吹き鳴らした。

「があああああああああああ!?」

その瞬間、眞魚の身体に衝撃が走る。
桁外れの音量が、鼓膜を通して舌を突き刺す『酸味』を生み出す!
身体を震わす空気の振動が、鼻腔を通じて『刺激臭』を感知する!
送り込まれた森の空気が、三半規管を苛む『高音』へと変化する!
僅かに口中に残る出汁の風味が、皮膚という皮膚を『くすぐる』!

蒿雀ナキの異能『五々色鳴(ごごしきなき)』!
“四回”触れたことで、眞魚の味覚・嗅覚・聴覚・触覚の四つをかき混ぜ――
同時に己のもう一つの切り札たる爆音の指笛、『鬼笛』を使うことで!
己の聴覚と触覚を『閉じ』、自らへの反動ダメージを最小限に抑えると共に
眞魚に最も高いダメージを与えたのである!

「貴方の旅も、ここで終わりです。旅ガラスさん」

聴覚がまだ閉じている為に、やや不明瞭な発声だったが――ナキは勝利宣告を、静かに告げた。
感覚操作の時間は、僅かに十秒。だが、十秒あれば。
視覚以外を狂わされ、悶える人間の首を刈ることはできる。
ナキが眞魚の目前まで迫り、爪を振るう。

だが、その手が急激に止まる。
唯一開いていた視覚に飛び込む閃光が、ナキの動きを止めた。

「こっちだ!」「見つけたぞ!」「侵入者だ!」「誰かを襲おうとしてるぞ!」

(しまった……!)

(くら)みかけた目を擦りながら、ナキは改めて状況を確認する。
別の巡回武装学生が、二人を再発見し――持っていた懐中電灯を向けたのである。

ナキの切り札は確かに強力だった。だが、眞魚以外にも『爆音』は届く――
そのことを失念していたのが、ナキの失策と言えた。
さらに、電灯の光を浴びたことも彼にとって不運だった。
闇に適応した状態で、不意討ち気味に光を浴びれば――より強いスタン効果を生むからだ。
そして、好機は一度逃せば続けざまに逃れていく。

十秒が経ち、身体の感覚を取り戻した眞魚が起き上がり――その場から離脱した。

「逃げたぞ!」「被害者では?」「でかい筆だ!」「向こうも追え!」

(……仕切り直すしか、ありませんね)

ナキも咄嗟に身を翻し、電灯の光が届かぬ暗がりへと転がり込む。
こうして、第一ラウンドは――痛み分けに終わった。

~~~

「っかー、ありゃあしんどかったぜよ……」

数時間後。夜もとっぷり更けた中、眞魚は校舎の裏手にいた。
幸いにも、学生の姿はここにはない。道中出くわした学生はやはり夢の中だ。
あの時、巡回学生が偶然やってきたことは眞魚にとって救いだったが……
その結果、警備の目が更に激しくなったことは、眞魚にとって不運と言えた。

眞魚の能力『筆を選ばず誤りて帰る』は、筆で書いたイメージを仮想現実として具現化する能力である。
書いたものを見た者に、味や触感、匂いや気配といったあらゆる感覚を実際に感じ取れる『幻』を生み出す力。

つまり。何かを描けばそれを見た者全てに影響が及ぶ。
それは、今の眞魚にとって不本意であった。

「こん世界のことは、こん世界のもんのものやきなあ……」

ナキ以外の、この世界の者を巻き込むことは極力避けたい。
“四国”の命運を背負う眞魚だからこそ、他の世界を無闇にかき回したくない、という想いが強かった。

「“四国”を離れて、夜雀に当たるちゅうのも妙な…… ん?」

独りごちる中で、眞魚が何かに気付き―― そして、破顔した。

「ほーかほーか。ほんなら、いけるぜよ」

そして、背中の筆を構えると――

~~~

「いたか?」「いません」「見つからないな」「今誰かケツ触った?」

(眞魚さんが見あたりませんね……朝まで待つ気でしょうか)

「そっちはどうだ?」「気配ナシ」「ん、肩叩いたの誰?」「誰もいねーよ」

ナキが見つからないのも道理はない。暗闇に己を溶け込ませ、電灯の光を避けながら進む。
夜雀であるナキにとっては、このくらいは本来当然に出来る芸当だ。
武装学生が巡回する中をかいくぐり、ナキもまた校舎裏手へと辿り着いていた。

(流石にもう一度『鬼笛』を使うわけにもいきませんし…… おや?)

思案するナキの足元に、黒い染み。墨汁だ。
墨汁の雫が、校舎の壁に向かってぽたぽたと垂れている。

(眞魚さんはこの先、ということでしょうか……?いや。ワナか?)

ナキは雫を足で追う愚策はとらなかった。だが、目で追ってしまった。


そこには、善通寺眞魚が立っていた。
その後方、校舎の白い壁一面に、大きな絵が描かれていた。
水墨画。高さ五メートル、横幅八メートルほど。
黒い翼、黒い嘴、黒い瞳、三本の足―― 八咫烏(ヤタガラス)、である。

(……旅ガラスが八咫烏を描くとは、なんとも…… !?)

ナキは、己の目を疑った。
彼は夜雀であるが故に、夜目が利く。つまり、見てしまう!
夜闇によって本来見えづらいはずの、白黒の水墨画を!

水墨画の表面が波打つ様に盛り上がり、絵が抜け出る。
嘴が、翼が、頭が、胸が、足が――全身が、飛び出す。

「わしの力作“八咫烏”じゃ――よう見とうせ」
「ははは……冗談でしょう、これは」

ナキは力なく空笑いを浮かべ――咄嗟に、逃げ去った。

「カアアアアァアァアァアァアァァァァァッ!!!!」

勝利を司る霊鳥、八咫烏。
夜雀如きが敵う相手では、ない。

「くっ!」

背中を押す風圧に、思わず転倒するナキ。その背中の上を、鋭い爪が掠める。
ナキの頭上を悠々と通り越し、旋回する八咫烏。
鋭い嘴をナキに向け、超低空滑空で襲い来る!

「はあっ……!」

タイミングを合わせ、横っ飛びでタックルをかわす。

(触れて感覚を入れ替え……いや、無理だ。
 最低でも三回は触れねば……だがあの巨体では!)

ナキには、この八咫烏を打破する術は……ない。
眞魚を直接狙うか?いや、最早彼は油断すまい。

ならば、こうするまで!

ナキは、再び『鬼笛』を吹き鳴らした。
眞魚が予備動作に気付き、耳をしっかりと塞ぐ。
八咫烏は微かに怯んだ様にも見えたが、効いては居ない。
だがそれでいい。八咫烏も眞魚も狙ってはいない。
狙いは、別だ!

「何だ今の音は!」「前にも聞いたぞ!」「いたぞ!」

巡回している武装学生を、集めること――それこそが狙い。
集まる人数はまばらだが、これから徐々に集まる筈だ。
彼らが大八咫烏を見れば、間違いなく彼らも対処に追われる。
その中には、あの大鳥を仕留めうる能力を持つ者もいる筈――!

しかし。
彼らは八咫烏に目もくれず、ナキ目掛けて向かってくる!
どころか八咫烏の爪が一人の学生の頭に当たったにも関わらず、学生は怪我一つしていない!

(これは……!? もしや、幻術の類?)

ナキは思い至る。先程の絵こそが、実ある虚の源ではないか?
ならば、絵を消せば――最悪、汚せばなんとかなるのではないか?

(だが、どうすれば――)

その時。ナキは、学生の一人が持っている『あるもの』に視線を奪われた。
『あれ』を使えば、そして、ここまでに自分がしてきた、ある『仕込み』を使えば――

あの壁の絵を封じられる!

ナキは学生の間を縫って、虚実の八咫烏の猛攻をかいくぐり……
あの絵があった壁へと、背中をつけた。

――そして、ナキが意を決して『五々色鳴』を発動する。

ここまでに、触れる的は沢山あった。
闇に紛れ、繰り返しそっと触るだけでいいのだから。

「うわああ!苦い!」「何だ!?黒い音が!」「痛い!」

途端に、パニックを起こす学生達。

そう。逃げ回る中で、ナキは学生達に密かに触れ続けていたのだ。
そしてパニックの余り、一人の学生が、手にしていたものの引き金を、引いてしまう――

ぱん。

一発の銃声が響いた。


ナキの五感が再び開いたとき、もはや八咫烏の姿はなかった。
声も、爪も、匂いも、気配も、消え失せていた。

校舎の壁一面に広がる、見事な水墨画は。
ナキの身体から溢れる紅によって、汚されたからだ。

「……っおまさん、何しよんじゃ!!」

眞魚が駆けつける。
未だ五感を狂わされ悶える学生に向かって『眠』の文字を次々に刻み、寝かしつけて――
倒れ伏したナキの元へと、駆け寄った。

「阿呆が……! おまさん、己の血ィで……!!」

「……ふふ。五感を閉じれば、痛みは、ありません、から」

五感を狂わせ、狂乱を招くと同時に、発砲を招き――
それに撃たれることで、血飛沫を絵にかけ、汚す。それが、ナキの狙いだった。

「……ほんとうは、ね。こうして近付いてきた貴方を、最期の力で
 首を刎ねれば、終わりだった、んですが……手が動きません」

ナキの誤算は。その暴発した弾が、掛け値無しの致命傷であったことだ。

「……なぜ泣く、んですか、眞魚さん」

「……おまさんを、命を張るまでに追い詰めたんはわしじゃ……!
 それで泣かん奴はほんまもんの阿呆じゃ……!!」

「いいんです、よ。どうせ、敗者は、戻れな、いの、ですから……」

「いいや!おまさんは絶対に連れて返す!かみさんが待っとうんじゃろが!!」

「……シナギ、すまな、い」

(さえず)りのように、妻の名を吐きながら。
蒿雀ナキは、善通寺眞魚が筆を構える様を最後に目にし――
愛しい妻の姿を、瞼の裏で最期に見た。

~~~

「消えた……!?」「逃げたか?」「どうなっている!」

武装学生達が互いに目を見合わせ、己の目を疑った。

追い詰めた筈の“侵入者”が、いきなり目映い光に包まれ――
二人とも一瞬で消滅したからだ。

その前後、時を刻むような音が微かに響いたのだが……
それを気に留める者は、誰一人としていなかった。

また、別の学生が「校舎の壁が墨で汚れている」のを発見したが
そこに何が描かれていたのかは、雨によって流され、判別できなかった。


結局、この“侵入者”の介入は、この学生運動にほんの少しの混乱をもたらしたに留まり。
夢と闘志に満ちた学生達の戦いは、数十日にも及び続いていくのだが――

彼らが望むものは得られたのか、或いは失意のうちに敗れたのか。
それは『ここではない、どこか別の世界』の話となる。

~~~

「……!」
「おや、目が覚めたかい」

ナキは、己が『目覚めた』ことに驚愕を禁じ得なかった。
銃で撃たれ、死を待つのみだった筈の自分が、何故目を覚ませるというのか。
そして、何故目の前に『親分』がいるというのか。

「君が戦いに赴いて、二、三日ほど後のことだ。出先で、絵巻物を持った青年に出会ったんだよ。なんだか無性に気になって見せて貰ったら、いや驚いたよ。君が絵の中にいたのだからね」

「絵の中に……なる、ほど」

ナキは得心が行ったように頷いた。

眞魚は、ナキが力尽きるその寸前で――
彼に『封』の字を書き『封印』し、絵巻物にしたのだと。

『欠片の時計』の敗者は、置き去りにされるのが常だ。
だが、絵巻物という『物品』ならば――戦利品として持ち帰ることも出来よう。

「その絵巻物を譲ってもらって、とりあえず広げて置いてたら傷だらけの君が飛び出てきたので手当をして数日ほど寝かせていた、という次第だよ」

『親分』が指し示すとおり、ナキの身体にはあちこち包帯が巻かれていた。
傷口はまだ痛むが、命は拾ったようだった。

「ああ、そうだ。彼からの伝言。
 『おまさんとかみさんの二人分も背負うちゃるけ、ちっくと寝ちょってや。
  どうしたち我慢できんがじゃったら、こん時代で相手になるきに』だってさ」

やれやれ、と肩を竦める『親方』越しに、伝言を受け取ったナキは。
“これから”のことを色々と考えながら、静かに微笑んで言葉を返した。

「伝言を、頼めますか。

 “雀が烏に勝てるわけがないだろう”とね」

時計は失った。だが、妻の元に帰る術は――まだ、失っていない。

~~~

『チッチッチと鳴く鳥は、シナギの棒が恋しいか、恋しくばパンと一撃ち』
“四国”は富山村に伝わる、夜雀除けの呪い(まじない)である。

最終更新:2014年10月23日 20:22