プロローグ


あの日、飴が溶けるような夕日の中で私は彼女の姿を見た。
健気な様子で金色の楽器を演奏する彼女の姿に私は心を揺り動かされた。

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「こんにちは、お久しぶりですラトン先生」
今日、ある女性が私の家を訪ねた。楽器と音楽だけを人生としていた私が唯一心を許した人間だ。彼女は幼子と手を繋ぎ私の家を訪ねてきた。
「どうしたね、君は素敵な旦那を貰っただろう。この私の家を訪ねるのは君にとっては不貞を疑われるという事だ。だから私の所に来なくなったと手紙で書いたのは君だろう」
最後に手紙が届いてからだった、彼女とは4年前から会ってもいないし文通もしていない。彼女の為を思ってだ。
「それで何故この狂人に会いに来た?浮気でもしに来たのかな?」
私は世間で狂った音楽家、サイコパスなどと呼ばれている。楽器や音楽への執念が人より強いこと、人とあまり喋らないこと、家から滅多に出ないこと、数々の有名な音楽家が我が家に入ったきり消息を絶っていることが原因だろう。
「お話を、聞いて下さい。」
彼女は私を一睨みすると俯いて言った。
かつては下らない冗談だろうと必ず笑顏を見せてくれた彼女のだったが、今目の前にいる彼女は4年前は見せなかった表情を見せた。
何やら深刻な事態らしい。

彼女と話をしなくてはならないが、まず彼女の息子を大量の楽器が並べてある大部屋に連れて行った。
彼がシンバルに興味を示していたので、シンバルを一緒に持って一度鳴らした。
「マ"ン"マ"ァ"ァ"ァ"ア"ア"!!!」
私の膝丈程の身長だった彼はたちまち190センチはある私の背丈を越えて大きくなり、210センチ程の大きさで巨大化を止めた。彼の着ていた幼児服がパァンと音を立てて弾け飛ぶ。
筋骨隆々、野太い声。その姿を見た者はきっと彼をアスリートかボディビルダーと勘違いするだろう。しかし彼の今の姿は音楽家の、シンバル奏者の姿であった。
「マ"ン"マ"ァ"ア"ア"!!!」
彼はバシィンバシィンとシンバルを鳴らした。
「『アリデキリギリス』ですか?」
彼女は殆ど驚く様子を見せず質問をした。少なくともこの世界の一般人で私の魔人能力を知っているのは彼女だけだ。話す機会があった頃、私は彼女に自分の全てを教えた。
「その通りだ、彼に話を聞かせたくはないのだろう。だからと言ってそのまま放置しては何処に行って何をするか分からないからな。
暫くはこの状態でシンバルを鳴らしていて貰おう」
「あのような姿になるような能力でしたっけ?」
「彼に持たせたのは魔人用のシンバルだ。常人では持ち上げることも出来ないような重量を持っている。それに合わせて身体が強化されただけだろう。
能力を解除すれば元に戻るから安心して欲しい」
「はぁ、そうですか。」
重厚な金属と金属のぶつかる音を聞き流し、私は彼女を自分の部屋へと連れて行った。

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10年前の秋の日、私は室内で固まった足腰をほぐすため河川敷を散歩していた。その日は太陽を溶かしたような夕日が全てを包んでいたことを覚えている。
腰を下ろして少し休もうとした所、耳障りな雑音が聞こえてきた。
まるで古くなって錆び付いた工場の重機械が動いているような、大きな獣が苦しみに呻き声を上げているような、聞いていて胸が苦しくなる音だった。その音は河川敷の麓から聞こえていた。なんとなく音源へ近づく。
「この騒音は君が出しているのかい?」
そこには近所の中学校の制服をきた女子が一人、金色の物体を手にして立っていた。
「騒音ではありません、音楽です。」
これが彼女と最初に会話だ。

「演奏?これが演奏…?ハハハ、演奏っていうのはね。こういう事を言うんだ。」
私は自分の人差し指を咥えて爪と肉の間に息を吹き込んだ。柔らかい高音が鳴り響く。
続いて中指を口に咥えて息を吹き込み、息を吹き込む。そして次は親指を…
2分間程の演奏を終えると彼女は唖然とした表情で私を見つめていた
「口笛でも指笛でもない…どうなっているんですか?」
「私には君の演奏と呼んでいる物の方が不思議だが…
まあ良い、教えてあげよう。指が管楽器になっている。それだけのことだ」
説明を聞いても訳が分からない顏をしている彼女を無視して逆にこちらからも質問をした。
「君が扱っているのは○○社製のトロンボーンのように見える。
しかし、いくら君の演奏が下手でも、安さだけが売りの○○社製の楽器だとしても、そのような音は出ない筈だ。
少し見せてくれ」
質問をしながら半ば強引に彼女が手にしていた金色の物体を奪い取った。
私がそれを調べているのを見て、彼女は何か怯えていた。
「なんだこれは。色々な所に傷がある。多少雑に扱ってもこんな傷が出来るものか。
ん?マウスピースに接着剤が塗ってある。」
なんたる楽器への侮辱!多分この時の私の顔はナマハゲの面と見分けが付かなかっただろう。
「君がやったのか!?」
夕日が私の憤った顏を更に赤くおどろおどろしく染めていたらしい。
彼女は泣き出してしまった。
まあ普通に考えて自分の楽器を使いづらくしてそれを演奏する人がいるとは思えない。
いたとしたらそれは狂人だ。私は反省し、顏を出来るだけ柔らかい表情に変えて何があったのかを聞いた。普段笑っていないので表情がどうなったかは分からない。
「私の家は音楽家の一家なんです」
彼女は嗚咽しながら語り始めた。

つまりこういうことらしい。
彼女は名のある音楽家一家の末っ子だった。しかし家族で一人だけ上手く楽器が使えない。
中学校に入った時、親に無理矢理吹奏楽部に入部させられ、家の名前に期待している皆の前で演奏させられ笑い者にされた。
そこの学校では吹奏楽部の部員数が多く、全員がコンクールに出られる訳では無かった。そのため、野球のように一軍、二軍などを作っているらしい。
彼女には三軍に入る程の実力も無かった。
しかし顧問は彼女の家に媚諂うため、彼女に過度の期待を寄せたため、彼女を一軍にねじ込んだ。実力と不相応な割り当てに、他の部員は不満を募らせた。
そして始まったのが彼女へのイジメ。
一軍二軍三軍…と作ってしまう程の部活全員、大人数からのイジメ、学年も性別も越えたイジメだった。
彼女だって不満だった。入りたい訳でもない部活に入れられ過度の期待を寄せられ、不本意なイジメを受ける。
彼女の家族は幼い頃から演奏がそこそこ出来、実力でイジメられる事が無かったため、彼女がイジメられていると言われても取り合わなかったらしい。
助けてくれる人はいなかった。

そして入学して半年が経ち、秋のコンクールが近づいて来た。彼女の中学の一軍は毎年全国大会に出場する実力があった。彼女の家族や親戚が同じ学校に通っていた事も理由だろう。
顧問はすっかり彼女の家に信頼を寄せていた。だから一軍メンバーに彼女を入れたままで出場することを決めてしまった。

部員達にとってこれ以上の迷惑は無かった。そして画策したのが彼女の楽器を使い物にならなくするということだったらしい。
彼女の家族は、○○社製の楽器だろうと上手に扱ったため、学生の間は周囲と同じ楽器を使うようにしていた。しっかりした楽器は成人になってから買ってもらうということだった。
部員によって楽器をボロボロにされた彼女は最初安心したらしい。
コンクールに出なくて済むから。
しかし家族がそれを認めなかった。家の名誉のため、一軍になったからには絶対コンクールに出てもらいたいということだった。
これ以上学校の皆に迷惑をかけられない、そうして彼女はダメになった楽器を使い河川敷で演奏の練習をしていたらしい。せめて騒音では無く普通の音が出るようにと。

「事情は分かった。」
人が困っている時には干渉しない事が多い私だったが、今回ばかりは許せなかった。
楽器を傷付けた奴らが憎かったし、その原因となった彼女の家族が憎かった。
「少し待っていてくれ」
私は全速力で家へ帰り、自分の作った銀色のトロンボーンを彼女に差し出した。
「これを使え。」
私の作った楽器だ。そこから生まれるメロディーは騒音から人間の作り得る最高の音を出せるし、『アリデキリギリス』だって発動出来る。
見返してやって欲しかった、彼女を、楽器を傷付けた奴らを。
「私は魔人だ。そのトロンボーンを使えば演奏が上手くなる。」
楽器を吹くように促す。しかし彼女は拒んだ。
「あなたは私に皆を見返して欲しいと思っているようですが、偽りの才能で見返すつもりはありません。」
考えてみれば当然のことだ。
彼女の演奏が上手くなったとして、部員達が今更イジメを止めるかは分からないし、彼女の家族や顧問は喜ぶだけだ。彼女には後ろめたさだけが残るだろう。
「ただ、その能力を使わずに楽器だけ貸して頂けますか?皆に迷惑をかけたくはないし、流石にこの騒音でコンクールに出るわけには行きませんものね。」
私は能力を付与せずに楽器を手渡した。彼女は一言私に礼を言い、銀色の楽器に口を付けたのだった。

彼女の結び出したメロディーは騒音では無かったもののやはり拙かった。
しかし、音楽への情熱は伝わってきた。彼女の話を聞く限りとても音楽を好きになれるような環境では無さそうだったが、それでも必死で好きになろうとしている。
もしかしたら彼女の情熱は私よりも上かもしれない。
そう考えているとなんだか彼女へ興味が湧き始めた。
私は自分と同じかそれ以上の演奏能力を持った人間を探していた、そのような者はまだ見つかっていないが、自分以上に音楽へ情熱を注ぐ人間を見つけてしまったのだった。


太陽をそのまま溶かしたような光が銀色の楽器に反射されて金色に染まった。
飴が溶けるような夕日の中で私は彼女の姿を見た。
健気な様子で金色の楽器を演奏する彼女の姿に私は心を揺り動かされた。



それから私は放課後に彼女を家に呼び、レッスンを施すことにした。
彼女は家族にはこの事を内緒にしていた。
「ラトン先生のは私の家族の中では妖怪とおなじ扱いの狂人として使われていますから」
どうやら彼女の親戚が私の家を尋ねた後失踪したらしい。忘れていたが彼女の名前にはなんとなく聞き覚えのある名前だった。
彼女は私が失踪させたのかどうかを追求しなかった。
「家族や親戚よりラトン先生の方がよっぽど優しいですし、一緒にいて楽しいです」
「私のような狂人の家に平気で入る君も狂人だよ」
このような半分本気の冗談で彼女はよく笑ってくれた。

彼女の演奏も大分上手くなった頃、彼女が大学に入った頃だった。
彼女は私の家に来ている事が家族にばれた。
彼女の両親はこの時期に彼女の許婚を決めていた。
中途半端な時期に決めているが、そういう家だというのだから仕方がない。
結局決まった相手は名家の長男で、彼女自身それに見合った人間でなくてはいけない。
そう考えた彼女の両親は興信所を雇って彼女の日常での様子を確かめさせた。そして私の家に入る所を見られた訳だ。

この後、彼女が私に最後の別れの手紙を送ってきてから私達が会うことは無かった。

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「どうして戻ってきたんだ」
彼女を椅子に座らせると質問した。
「先生は迷宮時計をご存知ですか?」
逆に質問されたが、その言葉には興味があったので取り敢えず頷いた。
「どう思っていますか?」
次の質問だと…?質問しているのは私ではなかったか。まあいい、答える。
「持っていれば平行世界に行けると聞いた。そこで私が求めていた演奏能力を持った人間に出会えるかもしれない。
本当に存在するのであれば手に入れたいものだ」

「私は今、迷宮時計所持者です。夫もそうでした。」
やっと彼女が言いたいことが分かった。私の言葉は彼女を傷つけていたかもしれない。
「私の対戦相手は夫でした。戦いは起こりませんでした。彼は平行世界に飛ぶと、自害したんです」
彼女はここまで言うと嗚咽を漏らした。
「夫は、先生と会えなくなってから私の気持ちを理解し、『僕はただの許婚で良い、それでも君を愛する』などと言ってくれました。許婚が彼でなければ私は自殺するか本当に狂っていたでしょう。
とても献身的な人だったんです。
両親にも許婚に彼を選んでくれたことだけは感謝できる位に…」
彼女は大粒の涙を垂らしていた。
「私はもうこの世界に居場所がありません。
だから、かつてあった居場所に戻ってきてしまいました」
私は彼女の頭に手を置いた。
言い慣れていない慰めなど彼女は欲していないだろう。
「先生、愛して下さい。本気で愛して下さい」
破れかぶれになっている。あの頃の彼女は気丈で、最初に見せた時以外の涙は見せることがなかった。私が彼女の涙を見るのはこれで2回目だ。
彼女は服を脱ぎ始めた。先程まで袖に隠れていた腕時計(迷宮時計だろう)が姿を現し、彼女の身体が少しずつ露わになっていく。

彼女と過ごした6年間。あの時から私は彼女の全てを理解している。彼女も私の全てを理解している。
今、彼女がして欲しいことは私に分かっているし、彼女は私に愛されるためにどうすれば良いのか分かっていた。
私は彼女の瞳を覗いた。
気丈な色を取り戻した彼女の瞳は、決心しているようだった。

彼女は私の指を咥えて息を吹き込み、音を鳴らした。下手な演奏だった。
きっと嗚咽を交えているからだろう。
しかし彼女は段々と呼吸を取り戻し、今までで最高の演奏を見せてくれた。
私はポケットに入れていた指揮棒を取り出し、演奏をリードした。





そして演奏が終わると、それで彼女の額を貫いた。赤い血が噴き出し、彼女は倒れた。
部屋の机から薬品の入った瓶やノコギリ、鏨などの工具を取り出す。

彼女の死体は楽器となった。

彼女はこれを望んでいた。私に本気で愛されることを。
彼女は本気で私を愛してくれた。
私は彼女を可愛がることしか出来なかった。好きだったが、それが本当の愛情なのかどうか分からなかった。
だから彼女は私が愛していると確信出来るもの、楽器への転生を望んだ。

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バシィンバシィン
シンバルの音が聞こえる。彼女の息子が鳴らしているのだ。
彼女は夫もいない状態で自分の両親や兄弟姉妹を息子と一緒にするのを嫌がっていた。


彼が音楽の道へ進むのならば私が鍛えよう。
だがやはり親となるのは責任が重い。
子供が両親からの愛を欲することぐらい彼女だって分かっているだろう。

彼女は私が欲しがっていた迷宮時計を最後にプレゼントしてくれた。
これで私の求める演奏者に巡り会えたとしても、今の私にはそれだけでは物足りない。
出来れば彼女を蘇らせたい。
私がいない間に彼女を慰めてくれた彼女の夫も蘇らせたい。
呼ばれなかった結婚式をやり直し、最高の演奏者を集めて最高の演奏を贈ろう。
私は彼女を祝福したい、見守りたい。それで十分なのだ。
殺しておいて勝手な、などと思うか諸君。
狂人と呼びたければそう呼べ、普段から呼ばれているからな。



太陽を撒き散らしたような赤い部屋の中で私は彼女を演奏した。
健気な様子で演奏される彼女のメロディーに私は心から彼女を愛した。

最終更新:2014年11月11日 16:04