第二回戦SS・坑道その3


3.dropout

――そう,貴方が見つける私の死体.それは同時には起こり得ずも有り得た自分自身の姿に他ならない.

 地上レベルから立孔(りっこう)で19メートル下ったレベルに広がるのが「旧坑道」と呼ばれる空間である。旧坑道と地上レベルを繋ぐ二か所の立孔をそれぞれ「南立孔」「北立孔」という。
 旧坑道から更に11メートル掘り下げられた採鉱場が「大坑道」、大坑道から西に位置し、長い連絡通路で繋がるのが「第二坑道」、更に大坑道の東側に旧坑道と中間のレベルに掘られているのが「中坑道」だ。大坑道には4つの立孔が設けられており、旧坑道と繋がるものを「第一立孔」、中坑道に繋がるものを「第二立孔」と呼ぶ。「第三立孔」と「第五立孔」は緊急時の避難に用いられる立孔である。「第四立孔」は存在しない。
 南北立孔と第一、第二立孔には動力式の昇降機と動力が使えない場合の為に梯子が掛けられており、第三、第五立孔には昇降機が無いかわりに梯子が二本掛かっている。
 第二坑道と中坑道の避難用に設けられた立孔には名前が無い。それぞれ旧坑道と繋がるもので、縄梯子が一本掛けられているのみである。

――私の求むべき未来はこの坑道に呑まれ潰え様としている.
 故に責めて,貴方が求むべき未来へ進める様に,私の知り得た事柄を此処に刻み遺す.

 綾島聖が最初に立っていたのは大坑道の第一立孔前のホールだった。人と物資の動線が交差する立孔付近では、坑道のほかの部分に比べて広めの空間が確保されており、大坑道で最も重要な第一立孔前のホールは実に11メートル四方の広さがある。
 第一立孔前のホールには西に2本、南と東に1本ずつ、幅3メートルの通路が取りついている。そのうち南の通路から掘り進められたのが大坑道南鉱山、或いは単に南鉱山と呼ばれる場所である。南鉱山は途中で西に曲がって西鉱山と連絡する。そして、南鉱山と西鉱山を繋ぐ南北方向の通路に対して丁字に東西方向の連絡通路が交差している。その連絡通路を西に進めば、第二坑道と呼ばれる大空間に繋がっていた。
 その東西方向の連絡通路のほとんど第二坑道寄りで、綾島は一人の少女と向かい合っていた。姿勢が良く健康的な体躯の綾島とは好対照な、猫背で痩せっぽちな少女には人としての名前は無く、作品名として「一切空」が題されている。
 一切空が迷宮時計によって送り込まれたのは第二坑道の避難立孔で、この立孔には連続して設置されたホールというものが無く、通路の脇にぽつんと設けられている。昇降装置は無いが、坑道内の動力はもとより使えなくなっているため、立孔としての機能は第一立孔とほぼ同じと考えてよい。
 一切空にとって綾島との遭遇は想定外、或いは不都合な事態だった。彼女の能力「アルバート・ホール」は隠密性と殺傷力には優れるものの、攻撃速度は中の下、更に穴の表面を物理的に破壊する事で攻撃を無力化されるという弱点がある。正面戦闘では後れを取りやすい。
 彼女が綾島の接近を許した理由、それは壁に残された落書きのためである。壁には「耳」「赤」「口」「針」などの漢字が刻み込まれている。その羅列の意味するところを考えていたところに、ぬっと綾島が現れたというわけである。
 綾島の顔を最も特徴づける糸のように細い目は暗視ゴーグルによって隠されていた。そのゴーグル越しに、綾島は一切空の深い穴のような瞳を見つめている。
 少女は裸眼である。彼女の暗晦な瞳に侵入する影は、光以上の精度で網膜に像を結んだ。
「吸い込まれそうに美しい。しかし、なんという空しさを湛えた瞳なのでしょう」
 少女の齢は十四といったところだろうか。丸瀬十鳥の手によって神経質なほどに手入れされた肌は、それに似つかわしくない灰色のみすぼらしい服で包まれている。
 綾島が一歩、少女に向かって歩を進めると、少女の猫背がさらに丸く曲がり深い前傾姿勢をとった。大きく開いた口から、よだれが一筋零れた。
「おや、愛らしいお顔が台無しですよ?」
 綾島が懐からハンカチを取出し、更に歩み寄る。
「私が感じるあなたの素晴らしさ、それをあなた自身にこそ感じ取ってほしいのです」
 少女は床に手を付き、四つん這いの姿勢に変わった。粘り気のある細い唾液の糸が、頤と地面をつなぐ。
「アー……」
 綾島は既にアルバート・ホールの射程内に入っている。少女は掌からひとつ、穴を地面に落とした。穴は少女の指先から20センチほどの位置で小さく揺れるような動きをしている。綾島は少女から3メートル離れた位置から、その穴と少女の体を見下ろすように観察した。
 少女の口元が小さく動き、それに合わせて喉が何かを飲み込むように上下した。その仕草に綾島は小さく身震いした。口の中に折りたたまれた長い舌と、狂喜の叫びを零しそうになるのを堪えたため、口元の下に不自然なしわが寄った。しかし、見るべきは彼の表情ではなく、暗視ゴーグルの1センチ上、額中央に開いた直径2センチほどの穴である。
 次の瞬間、綾島の額と胸の中央に焼けるような激痛が走った。
「ひ、ひゃ……なにが……? ごふ!?」
 一切空は足の裏から穴をふたつ、地面に落としていた。その穴は射程限界まで後方に離れた後、床から壁、天井を迂回して綾島に接触していた。少女の掌の先でちらちらと揺れる穴を見下ろしていた暗視ゴーグルの死角は、その動きの一切を見落としていた。
 口内に大量の血液が流れ込み、綾島は苦しげに手で口を覆う。せき込むたびに指の間から血が零れ落ちた。
 致命的な貫通傷と、出血。あっさりとした決着に、少女は小首を傾げて「アー」と呟いた。
 油断ではない。彼女の五感を超えた危機探知能力が、決着に及んでなお激しく警戒を呼び掛けてくる。
 つと綾島の脚が地面を蹴り、少女の視界から消える。目が追いつくより速くその体は壁、天井を飛び跳ね、びたんと少女の眼前の床にへばりつくように着地した。床から10センチと離れていない少女の顔を更に見上げながら、綾島がハンカチで少女の口元をそっと拭った。
「言ったでしょう? 愛らしいお顔が台無しだと」
 綾島の腕が少女の体を掴み、強引に引き起こした。少女の運動能力は四つん這いの状態で最大となる。だが、綾島が彼女の体を引き起こしたのはそれを見破っての事ではなく、全く別の目的からである。綾島の手が少女の灰色の衣服を引き裂いた。その隙間から手入れされた滑らかな肌が覗く。
「思った通りだ! あなたは素晴らしい!」
 綾島の手は神父としてはもとより人としてあるまじき目的を以て動いた。少女の肌を傷つけることなく、しかしその衣服を正確に、そして順序良く剥ぎ取ってゆく。
「あなたは女性としてこの上なく、素晴らしい、美しい! その素晴らしさを、共に理解しましょう!」
 綾島が少女の体を仰向けに地面に押さえつけた。その体に残った衣服の残骸は少女の肌をほとんど隠していない。しかし少女の瞳は恐怖にも羞恥にも動じてはおらず、ただただ黒いだけだった。
 綾島の額から血が流れおちて少女の顔を汚した。綾島の口から30センチはあろうかという舌が伸び、少女の顔についた血をねぶり取る。ねぶってもねぶってもその顔に綾島の血が落ちるので、飽きずねぶり続ける。
「ひぎっ!」
 綾島の体が大きく痙攣した。それは体の芯から指の先までを隈なく走った。
 アルバート・ホールでより大きなダメージを与える方法は大まかに二つ。ひとつは穴の断面を大きくすること、そしてもう一つは貫通距離を長くすることである。綾島の脳天には直径7センチほどの穴が開いていた。その穴は頭頂部から頸椎を経て背中まで至っている。綾島の顔中の穴から血が流れ出していた。
 綾島の両腕はしばらく空中の何かを掴もうとするようにさまよった後、だらりと力なく垂れ下がった。その身はいまだ細かく痙攣を繰り返している。
 次の瞬間、少女の肌の上に赤い轍のような跡が走った。その溝は股の間から下腹部、肩口までを一直線に抉っている。さっきまで地面に落ちていた綾島の右手は、顔の高さで弾力のある肉を握りしめている。
「ああ、『また』やってしまいましたか……」
 地面に血が丸く大きく広がってゆく。
「私は女性の扱いがどうにも苦手でして。お恥ずかしながら、数えるほどしか女性の相手をしたことが無いのですよ」
 綾島はバツ悪そうに、血まみれの手で頭をボリボリと掻いた。
「ですが、安心してください。死体の相手なら、数えきれないほどしてきましたから……」

――先ずこの坑道で戦うべき二人の敵に就いて.一人は神父服の男で名を綾島聖.
 之は驚異的な身体能力と耐久力,何より異常な精神性を有している.
 もう一人は甚だ姿勢の悪い少女である.名は判らない.カラダに幾つかの孔を有し,攻めに使う.其の孔の危険を恐らくの範囲で以下に記す……

 第一立孔前のホールから南の壁にある通路が、南鉱山という場所に繋がるのは先に述べた。
 西の壁から伸びる二つの通路の内、南側の一は西鉱山に通じている。北側の一は途中で北に折れ、その端には可燃物等の保管に供する部屋がある。
 東の壁から伸びる通路は下り勾配となっており、大坑道から約2メートル下がったレベルに広がるのが東鉱山、その東鉱山から第二立孔を上がると中坑道に至る。蒿雀ナキの初期地点がこの中坑道の第二立孔前のホールだった。第一立孔前のホールに比べると狭く、四方は7メートルほどの空間である。
 ホールからは北に一本の通路が伸びているだけだが、その先の中坑道は蟻の巣の方が幾らか整然というくらい秩序なく入り組んでいる。その上あちこちで崩落を起こしている為、旧坑道に繋がる避難用の立孔に辿り着くのさえ難儀だった。
 中坑道の探索を早々に切り上げたナキは東鉱山に降りて来た。東と呼ばれているが、実際は大坑道のうち、南鉱山と西鉱山以外の部分全てを指して用いる名前である。東鉱山はスロープを混ぜながら北を迂回して西鉱山とぶつかる。南鉱山との接点は無い。
 大坑道を東から北、そして西へと探索して来たナキは足元の死体の有り様に顔を顰めた。基本的に人間に対して淡泊なもののけが哀れに思うほど、その死体は無残にそして丹念に破壊されつくしていた。下半身ではなく上半身の特徴からその性別を女性と判断した。と言えば惨たらしさが伝わるだろうか。
(虹色の時計……この娘の迷宮時計か?)
 ナキは少女の遺体の周辺を黒く染め上げる血の跡が、明らかに一人分では無い事に気付いた。迷宮時計の戦いは常に一人と一人の戦いでは無い。おそらく、この少女を殺害せしめた者がこの坑道内に最低でも一人、潜んでいる。希望崎での善通寺との戦いから用心の肝要さを学んだことからの洞察だった。
 ナキは五感を緊張させ、敵を警戒する。雀といっても闇の中に目が利かないのではもののけとして落第だ。今いる通路の来た側とは反対、西方向に目を凝らす。通路は15メートルほど先で南北方向の通路に突き当たっていた。
 息を止めて耳をそばだてると、その通路の奥から小さな足音が聞こえた。その足音は淀みないリズムで少しずつ低く小さくなってゆく。こちらに背を向けているのだ。
 敵の背後を狙える事を期して、ナキは足音を殺して通路の交差点に取りついた。そっと顔を出して足音の聞こえた先を伺う。
 不意を打ってナキの肩に手が置かれた。
「私に御用ですか?」
 正に目と鼻の位置にある綾島の顔にナキはぎょっとして、飛び退いた。綾島は丁字路の交差点の北側に、ナキは交差点から南に3メートル離れた位置に立っている。少女の死体が転がっていたのは丁字路から東に15メートルの地点だ。
 ナキが聞いた綾島の足音は「鶯(うぐいす)」と呼ばれる歩法で、強弱高低自在に足音をコントロールし、死角に潜む敵に自分の位置を分かりやすく伝える為の技術である。それは今回のように不意打ちに用いるのは本来になく慎まれるべき技だった。
「はじめまして、私は綾島聖と申します」
 神父服の男は折角掴んだ必殺の隙を自己紹介で徒にした。ナキには知る由もないが、『逸機』こそが綾島を綾島たらしめる真骨頂の一つだ。真意の読めない綾島の行動を訝しく思ったものの、ナキの顔はいつもの無表情に戻っていた。
「あなたは、その表情の奥に何か思いつめたものを隠していますね? 私に何かお手伝いできる事があればいいのですが」
 綾島の言葉を無視して、ナキは問うた。
「あちらに女の死体がありました。あなたですか?」
「いいえ?」
 実際、綾島の体には見える範囲で傷は無く、服も汚れていない。少女を殺したのが別の誰かで、坑道内のどこかに潜伏しているとしたら鬼笛は使いづらい。居場所を教える事になりかねないからだ。そして何より、あまり傷を負う訳にもいかない。
 気を引き締めるナキをよそに、綾島の目は壁に刻まれた文字にとらわれていた。そこには「ア」「あ」「唖」……様々な大きさで同じ読みの文字が刻まれている。敵前にあるまじきその『油断』は、彼が修める万難を招き近づけ然るに敗北に至る秘儀の中でも最も重要な心得のひとつと数えられている。
 ナキとて構えすぎて機を逃すのではつまらないので、その油断には乗じる一手である。少女の遺体の傍から拝借したナイフを投げつけると、それはいともあっさり綾島の喉に深く突き刺さった。
「ひゅっ……ご、ごひゅ?」
 綾島の喉から呼吸音と血が漏れ出る。ナキは期待以上の奇襲の戦果にやや困惑しつつ、右の拳で綾島の顎を殴り付けた。左の拳による追撃までは入らなかった。否、綾島の体が忽と消えたのである。
 綾島は天井に指を突き刺して逆さまにぶら下がっていた。その首は床に向かって血を滴らせている。綾島が必敗の奥義を尽くしても尚負ける事が出来ない理由の一つはこの耐久力にある。
「ひゅー、ごひゅ、ひゅひゅうぅううう」
 綾島は声にならない声で絶えず何かを喋り続けている。その行為は喉から溢れる血の量を徒に増やすだけだったが、彼は血と唾液をまき散らしながら口を動かすのを止めない。これに及んでナキは先の強襲が成功どころか、綾島の体にはほとんど何のダメージも残していない事を悟った。
 綾島の体がナキの背後に着地した。しかし二度も続けて敵を見失うほどナキもヤワでは無い。気配を頼りに振るわれた綾島の腕を軽く捌いて受け流す。両者の体の位置が入れ替わり、ほぼ同時に向き直って対峙した。
 綾島は脚に力を込めると、右の壁に向かって跳躍した。縦横をノミの様に高速で跳ねまわる移動術「飛び跳ね」は、しかし不発に終わった。綾島の体が横向きに壁に叩きつけられ、地面に落ちる。
(三……)
 ナキは体術の達人である。跳躍の瞬間を制し、綾島の体に触れて僅かにその姿勢を崩していた。飛び跳ねは無造作に見えてその実は繊細なコントロールを必要とする。暗闇の中で初期動作の乱れは大きい。
 綾島がのたりと身を起こし、床に大きな亀裂を残して消えた。
「ごひゃひゃごひゃ! ひゃひゃひゃ、ひゅいっ!!」
 ナキは右背後に表れた綾島の顔面を手の甲でしたたか打ちつける。綾島はよろめいて数歩後ろに下がった。
 高速移動で敵の背後を取り、警告後適度な間をおき攻撃に移る殺技、減歩蜉蝣(げんぽかげろう)を破られて尚、綾島の顔には余裕の笑みが張り付いている。
(四。やはり、この男は……)
「ごひゅひゅひゅ! ごひゅ! ごひゅっ」
 綾島が長い舌で唾液をまき散らしながら何かを捲し立てている。ナイフは相変わらず喉に突き刺さったままである。
(私よりも、強い)
 ここまで戦闘を優勢に運びながら、ナキはそう結論せざるを得なかった。綾島が何を意図してそうしないのかはナキには知れないが、彼がその身体能力を無駄なく戦闘に用いれば既に三度は勝負が決していてもおかしくない。
 ナキは手に詰まりつつあった。彼は綾島に対して決定打を持たない。
 綾島が地面に拳を置き、クラウチングスタートのような構えを取った。両足の筋肉が更に大きく膨らんでいく。
 はち切れんばかりの筋肉が、地面を踏みきった瞬間、綾島の耳に直接雷が落ちたような轟音が鳴り響いた。ナキに綾島を倒すだけの力は無い。だが、綾島にはある。綾島が地面を蹴る威力は、ナキの妖術によって雷鳴に変えられ彼の鼓膜を打った。
 当然その場に崩れ落ちるかと思われた綾島は、しかしそのまま大量の土塊を巻き上げながらナキに向かって突進し、その体を10メートル以上も吹っ飛ばした。彼が走った床には90センチほどの幅で二本の溝が平行に走っている。
 土竜轍(もぐらわだち)。走りながら地面を拳で抉る事で突進速度と威力を減じ、更に自らの拳を傷めつける。一石で三羽の鳥を取り逃す極め付きの武技であり、この土竜轍でなければナキの体はバラバラに解体されていた。
 ナキはゆっくりと近づいてくる綾島を絶望的な目で見る事しか出来なかった。
 綾島の体に触れた回数が4、今の五々色鳴で使ったのが2。この窮地を脱する手立ては俄かには思い当たらず、それが見つかったとして体が動かない。
 綾島は丁字路の交差点で、何気なく東側に伸びる通路を見通した。暗闇の先に何かが転がっているような気がした。綾島は自身の特殊能力のひとつ、知覚操作で視力を強化させる。
 8メートル、9メートルと視界が広がってゆき、遂に彼はそれを見た。
 少女の死体を見た綾島の体に、大小様々な穴が穿たれてゆく。綾島は大量の血を流し、身を震わせる。やがてその体は地面にくずおれ、動かなくなった。

――この坑道で脅威たり得るのは二名の敵に限らない.
 恐るべき,そして打つ手の無い脅威.
 死体だ.

 第二坑道は四周を回廊で囲まれた正方形に近い形をした鉱山である。回廊を構成する四本の通路はそれぞれの方位をとって「北廊」「東廊」「南廊」「西廊」と呼ぶ。東廊は大坑道と長い連絡通路で繋がっている。
 東廊から北廊に少し入った左の壁面に、かなりの面積を使って文字が刻まれている。等間隔に「死」という文字がびっしりと敷き詰められていたり、精神病患者が発する奇声としか表しようのないものが延々と書き殴られていたりする。
 その落書きの上方、天井付近に直径30センチほどの穴が開いていた。その穴は南廊の壁面まで貫通している。アルバート・ホールで作られたトンネルの中ほどに一切空は身を隠していた。柔らかいとはいえ岩である。彼女が多少這った程度では穴の表面にアルバート・ホールの維持に支障をきたすような傷がつくことは無い。
 狭いトンネルの中はかなり蒸した。少女の額には汗で髪がへばりつき、粗末な衣服が肌にまとわりついていた。不快を通り越して身体に害を及ぼしかねない悪環境を意にも解さず、一切空は危機察知の網を張り巡らせ、敵の気配を探っていた。
 どのくらいの時間そうしていただろうか。彼女のセンサーが闖入者を捉えた。男だ。
 男は二、三歩ごとに足を止めて警戒しながら東廊を北に向かって進んでいる。頻繁に立ち止まってくれるのはむしろ都合が良かった。
 その気配はあらかじめ天井に仕込んでおいた穴の下を通り過ぎた。穴が音もなく壁を伝って床に移動し、背後から闖入者に迫る。二つの穴の内、一つが目標の体を捉えた。その穴が床面から120~130センチの高さに達したところで能力を解除する――
 男の右脇腹に激痛が走った。服には赤い染みがどんどん広がってゆく。だが、動きを止めれば、更に正体不明の攻撃による追撃を許す事になる。男は思わず膝をつきそうになるのを寸で堪えた。しかし。
 既に彼の体には第二、第三の穴が侵入していた。
 一切空はしばらくの間、闖入者が床を掻く音を聞いていた。それが止むと、アルバート・ホールのトンネルごとそこから離れていった。
 男が息絶えてしばらく後、蒿雀ナキはその亡き骸を発見し、驚愕した。
「これは……」
 あり得ないものがそこにあった。上半身を血に染めた死体。それは見間違い用が無い。
「私の……死体……?」
 ナキが見つけたナキの死体の床に、文字が刻まれていた。「耳」「赤」「口」「針」……それは一見意味のない羅列に思われた。

――貴方は見つける.綾島聖の死体を,少女の死体を,
 そして,私の死体を.

 坑道の至るところに死体が転がっていた。それは綾島聖の死体であり、一切空の死体であり、若しくは蒿雀ナキの死体だった。
 死体のほかに目立つのが、壁や床に数多く残された落書きである。それらは一見しても考えても意味が分からない。つまり、特定の者のみに向けた暗号で書かれていた。
 例えば蒿雀ナキが残した落書きは、夜雀特有の知識を用いて書かれている。例えば「耳」「赤」は赤色に見える音を示す。
「ア」の読みを持つ文字のみで書かれた落書きは一切空が、延々と精神異常者が発する奇声を書き起こしたような字列は綾島聖が、それぞれ残したものである。

――例えば貴方の前に左右二つの道が在るとする.左へ進む貴方,右へ進む貴方,引き返す貴方.そのどれもがこの坑道内には存在している.
 それらは互いに出会う事は無い.但し,その何れかが死体となった場合に措いては其の限りでは無い.
 そう,貴方が見つける私の死体.それは同時には起こり得ずも有り得た自分自身の姿に他ならない.

 自分の胸には今、どんな感情が浮かんでいるのか。いつからか一切空にはそれが分からなくなっていた。思考はある。だから、人を殺せる。猫が何故鳴くのか分かる。
 彼女は猫よりずっと単純に、ただ一音だけを使って鳴く。心を声に出す普通の順とはあべこべに、自分の発した鳴き声から自分の心を理解する。まるで、自分(わたし)ではなく、他人(あのこ)の事を考えるように。
 単音の中に広がる心の形。それが一切空が坑道に残した暗号の正体だった。
 細かい部分での差異はあるものの、一切空が読み解いている坑道内に敷かれた奇妙な法則は、蒿雀ナキの考えるものと結論部分では大きな違いは無かった。故に、こうして身を潜める。死体を見つけてはいけない。特に自分の死体を見つけては。
 にゃあ。とか鳴いてみようと試してみる。いつも通りの声しか出せなかった。

――私の死体が遠い過去に貴方から分岐したモノである場合は問題無い.
 危険なのは近しい過去を共有する私と貴方だ.分かたれた過去が近ければ近い程,死体は貴方に対して強い影響力を持つ.
 つまり,貴方は死体と同じ傷を受け,或いは死に至る.

 一切空と蒿雀ナキは坑道に死体の数が増えるにしたがって、その身を隠すようになった。その理由の一つは敵を斃しても意味がないからだ。それは坑道内に同じ死体が幾つも転がっている点から明らかだった。そして、もう一つの理由は、坑道内で死体を見つけるリスクの高さである。目でその姿形を捉えるだけでなく、血の跡や匂いを感じた時点で死体を発見したことになる。坑道内を歩くに従って、死体との邂逅を回避する手段は存在しない。そして死体との邂逅は時として致命となる。
 その中にあって、堂々と坑道を徘徊しているのが綾島聖だった。彼は大坑道を中心に広範囲を探索し、多数の死体を作り、そして死体となっている。
 彼が坑道内に残している落書きは、実は何の意味もない。紛れもなく精神異常者の声そのものだ。単に坑道内のいたるところに残された意味不明の落書きを彼なりに真似て戯れた結果に過ぎない。故に、彼は坑道内のルールをあまり理解していない。
 ただ、この坑道は宝物で溢れた素晴らしい場所だとは、理解している。
 坑道を歩く綾島は死体を見つけると一様に同じ行動をとった。収拾である。彼は見つけた死体を一か所に集めようとした。主な保管場所は「第一立孔」、「第三立孔」、そして「第五立孔」だった。死体がこもごも集められたそれらの場所は、坑道内最大の危険地帯と化していた。
 大坑道の西鉱山、第五立孔付近で綾島は少女の死体を見つけた。坑道で見かける死体は約半数までが綾島であり、少女の死体は最も少ない。思わず高鳴る綾島の胸に突然、穴が開いた。両の目、両肘関節、足首、その他複数の箇所にも次々と穴が穿たれる。
 少女は綾島に殺された。しかし、彼女を殺した綾島も全身に穴を穿たれた。それは今、死体を見つけた綾島の体に生まれた穴と同じ位置である。

――私以外の死体でも,それに私と関わっている場合は貴方に影響を与え得る.
 私がその死体を作る際に負った傷が,貴方にも現れる.

 蒿雀ナキは落胆の溜息をついた。彼が立っているのは第二立孔と呼ばれる場所で、彼が迷宮時計によって最初に運ばれて来た地点である。彼はそれからずっと中坑道と呼ばれる迷路のような鉱山を探索し、遂に何の成果もないままこのスタート地点に戻ってきたのだった。
 第二立孔の壁には、元は無かった「口」「耳」などの文字を組み合わせた字列が刻まれていた。集大成とも言えるその落書きの内容は頭を抱え込みたくなるものだった。
 改めて中坑道の探索に挑む気にもなれないナキは、仕方なく立孔から大坑道東鉱山に下りた。第二立孔から西に真っ直ぐ伸びたスロープは第一立孔に続いている。
 第一立孔前のホールの光景は異様としか言いようが無かった。まず中央には6体の死体。北西角に3体、そして南側の通路の前には綾島が血を流して倒れている。そして、ナキの右斜め前方3メートルの地点には綾島と、もう一人少女の死体が折り重なって倒れている。計12体の死体の内訳は綾島が6、ナキが4、一切空が2だった。
 ナキは第一立孔前のホールの東の壁に取り付いた通路の前に立っていた。12の死体は全て大坑道で収穫されたものであるため、中坑道を延々と迷い続けていたナキとはあまり関りが無いもの達だった。
 西の壁の北側、可燃物保管部屋に続く通路から足音がひとつ近づいてくる。靴が土を踏みしめるその音から、足音の主は裸足ではない、つまり綾島であることが分かった。ナキは第二立孔に残された落書きから、綾島が異常な身体能力と生命力、そしてそれ以上に狂った精神性の持ち主であると知っている。
 通路からポリタンクを右手に持った綾島がぬっと姿を現した。綾島はナキの姿を認めると、親しい友に対するように左手をあげて会釈した。目はゴーグルに隠れて見えないが、口元は微笑んでいる。
「またお会いしましたね、と言えば良いのでしょうか? 生きているあなたにお会いするのは初めてですけども」
 綾島はそう言ってホールの中央、死体の山の前まで移動するとポリタンクの蓋をくるくる回しはじめた。ナキは綾島を視界に残したまま、西側に伸びる二本の通路、そして南側の通路を順番に見た。万が一の逃走を考えてのことである。
「ところであなたは、ここが何の発掘をしていた鉱山かご存知ですか?」
「……いいえ」
「浅学ゆえ断定は出来ないのですが、歩いた範囲で分かった構造からして植田銀山ではないかと私は思います」
 植田銀山とは新潟県魚沼市に在る鉱山の名前である。魚沼市は2014年に措いて日本最大の魔境、危険地帯として知れている。
 魚沼市には実家があるのだと、綾島は恐ろしい事をさらり口にした。
「私には、この鉱山が金や銀を採掘していたものだとはとても思えないのです。そう、もっと別な、もっと恐ろしく素晴らしい何かを採掘していたのではないかと」
 綾島の持つポリタンクの口からつんとした臭いがする。ポリタンクの中身はおそらく可燃性の液体である。
「たとえば『時わたりの石』の原石……という仮説はどうでしょう?」
 綾島は坑道内に無数の死体が存在する理由は、時流に影響する鉱物が迷宮時計に干渉した結果だと考え、その仮説に至っていた。元より植田銀山では秘密裏に「特殊な鉱石」が採掘されていたという類の話は、都市伝説から学者間までまことしやかに語られている。
 綾島の話を無視して、ナキは問うた。
「その死体の山はあなたが集めたのでしょう? 何のために?」
「燃やして差し上げようと、思ったんですよ」
 おおよそ答えを予想して問われた質問に、綾島は予想通りの答えを返した。「だって、不憫でしょう?」と言いながら、綾島はポリタンクの中身をとぽとぽと死体の山に垂らしはじめる。坑道内で大きな火を起こす危険性を、綾島は勿論理解している。知ったうえで、やる。
 攻撃の構えを見せたナキに先んじるように、綾島が懐から円柱状の何かをナキの顔めがけて投げつけた。ナキがそれを躱した隙に綾島は火のついたライターを死体の山に投げる。表面をくすぶる間もなく、ぱっと激しく橙色の炎が上がった。綾島はゴーグルを外し、投げ捨てた。
「ああ、なんて、なんて……、う、美しい……」
 立ち昇る煙をものともせず、その暖かな色をした炎をうっとりと眺める。炎の揺らめきに合わせて綾島の影が妖しく、そして醜悪に歪む。
「ああ、美しい……う、美し……美しいぃいいいいいいい!!!」
 三十センチを悠に超える舌を巻きに巻きながら、神父が絶叫した。
「燃え盛る私の死体、死体、死ヒャ! 死体! 私の! 私が! 赤い!! 燃えて! 熱い! 熱い!! 死、死、死死死死死死死死……死ヒャアアアアアアアアア!!!!」
 叫び声と同時に綾島は上、ナキは右に地面を蹴って跳躍した。ナキの立っていた地面には足跡に蹴り潰された小さな穴が開いている。
「キシャアアアアア! 気付いていないとでも思いましたか!?」
 綾島は空中で半回転し、重力に逆らって天井に着地する。天井に大きな亀裂が走り、広範囲に渡って崩れ落ちた。床に落下する岩塊の中にひときわ大きな塊が混じっていた。地面にしなやかに着地したそれは、灰色の衣服を纏った少女だった。橙色の炎に照らされたその肌は汗に濡れてつやりと光っている。
 一切空は煙から逃れるため、四つん這いの姿勢から更に頭を低くした。ナキは片膝をついて口元を袖で押さえている。その足元には小さな穴が二つ空いている。それぞれの穴の縁には爪で引っ掻いたような跡があった。綾島は天井に指を突き刺してぶら下がっている。その頭はちょうど煙に燻される位置にある。
「全く準備不足ですねぇあなた達は私は坑道で戦う上であらゆる状況を想定し事前準備をしてきたのです例えば暗視ゴーグルそして非常用の携帯食料さらには酸素マスクまでも……」
 煙に燻されながら綾島は息継ぎもせずに早口でまくしたてると左手で懐をまさぐった。しかし、あるべきはずの酸素マスクと小型ボンベが無い。死体に火をつける直前、ナキの顔めがけて投げつけた円柱状の物体、それこそが彼の用意していた小型の酸素ボンベだった。
「ぐげっ、げほっ! ぐほばっ!!」
 大量の煙を吸い込みせき込んだ綾島が仰向けに地面に落ちる。すかさず一切空の両手から無数の穴が地面に這い出す。綾島が裏返った悲鳴を発しながら体を数度大きく振るわせた。一切空は視界に綾島とナキの両方を捉えている。ナキは身をかがめたまま動く気配が無い。アルバート・ホールの移動速度を考えると、攻撃を仕掛けるには遠い距離だった。
 炎から上る煙は立孔に吸い込まれてゆくので、直ちに問題はなさそうである。
 綾島は頭を一切空の方に向けて、仰向けに倒れている。両目があった箇所には直径二センチほどの穴が開いて、血が流れている。
 突然、その穴から眉を挟んで対象な位置に糸のように細い目が開かれた。更に額に同じ形の糸目が六つ現れ、一切空の瞳を見つめる。
「炎に照らされて尚一点の光さえ宿さぬその瞳、実に素敵だ。その目を今3.4ミリ見開いて驚きましたね? 分からないでしょう? どうして私が頭に穴を穿たれて生きていられるのか?」
 綾島は仰向けの姿勢のまま両手を地面に着き、膝を立てて背中を浮かせた。それはまるで四つん這いの上下を逆にしたような姿勢、土蜘蛛と呼ばれる構えである。
「教えてやろう! 私の体は脳や眼球を含めて固形部分の99.6%が筋肉! そして私の能力は筋肉操作!! つまり、能力使用限界である三分の間、この私は完ッッゼンに不死身なのです!!」
 自ら弱点を絶叫しながら綾島は獲物にとびかかるアシダカグモのように跳躍した。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……ナァムアミダブッツァアアアアアアア!! まるで護摩の炎で煩悩がひとつまたひとつ削がれて消えていくような清々しい気分ですよォオ!!」
 綾島が護摩行では用いない経を唱えながら一切空の体に覆いかぶるように襲い掛かる。一切空は四つん這いの姿勢のまま素早く前進し、その下を潜り抜けるようにして避けた。ナキから視線を切らないための合理的な回避だが、体の構造的に明らかに不合理な土蜘蛛の構えは、一切空の予測を遥かに超える機動力を発揮した。
「小ィイイさな背中が、がら空きですよぉ」
 今度はうつ伏せに、空中から一切空に襲い掛かる。その後頭部をナキの掌が掴み、顔面を地面に叩きつけた。ナキと一切空の視線が一瞬だけ交差する。目と目で通じ合うような間柄ではないが、互いに暴走状態の綾島を相手に三分間凌ぐ事が難しい事を知っている。
 素早く体を反転させた一切空の掌から、いくつかの穴が地面に落ちる。穴はナキを素通りしてすべて綾島に襲い掛かった。
「何度も何度も何度も! この私が同じ技を喰らうとでも思うのかァ!? 喰らえ! 鼠花火!!」
 ブレイクダンスのウインドミルに似た動きで綾島が高速回転し、ナキの体を弾き飛ばすと同時に地面の穴を全て削り潰す。アルバート・ホールは隠密性と殺傷力に優れるが、攻撃速度は中の下、何より穴を物理的に破壊する事で無力化されてしまう弱点がある。一切空がナキとの一時的な共闘を選んだのは、アルバート・ホールの正面戦闘における脆さもあっての判断だった。
 綾島は回転速度をさらに上げ、進路上の死体を解体しながらナキと一切空に突進する。
「この爆速超回転は触れる物を容赦なく抉り、切り刻むのです! さぁ、あなた達の体もグッチャグチャに掻きまわしてさしあげましょう!」
 高速で回転しながら綾島は平然とまくしたてた。しかし、その高速回転は彼の体から容赦なく血液を搾り取ってゆく。みるみる内にその動きは鈍り始める。
 一切空は既に地面に新たな穴を放つことはやめ、綾島の攻撃を回避する事に専念していた。ナキと一切空の連携はあくまで互いに攻撃をしないというだけのものである。
(そろそろか……)
 ナキはホールの南東角から部屋全体に目を走らせる。
 綾島が能力の使用限界を迎えて力尽きようとしている今、ナキと一切空は互いに裏切るタイミングを計っていた。一切空は新しい穴を地面に放つのを止めている。それこそが彼女の罠であり、裏切りの秘策である。一切空は穴を地面に放っていない。しかし、既に放たれた穴が4つ、潜伏していた。
(天井に一つ、西の壁に一つ……北の壁にもひとつ)
 善通寺との戦いを経て、その反省からナキの神経は鋭く研ぎ澄まされている。一切空の潜伏させた四つの穴の内三つまでを既に見つけ、その算段を看破していた。
「ほうら! 更にスピードをあげてさしあげましょう!!」
 綾島が消耗の激しい鼠花火から、床、壁、天井を使った飛び跳ねへと移行した。しかしそのスピードは本来のそれからは程遠い。明らかな苦し紛れだった。
 飛び跳ねにいち早く反応を示したのはナキである。飛び跳ねによって少女が部屋の中に潜伏させた穴が破壊される危険がある。つまり、一切空は動かざるを得ない。ナキにとって裏切りの機はここに熟した。
「アッ!」
 鋭い悲鳴を上げて、一切空が身を強張らせた。アルバート・ホールは、一切空の体を離れても、動かせる状態にあるうちは彼女の体の一部である。そしてナキはその穴を二つ爪で破壊していた。
 五々色鳴によって温度覚を乱されていた彼女は、知らず炎に近づきすぎていた。そして、妖術を解かれ正常に戻った感覚は、炎の熱に鋭く反応する。
 その一瞬で、ナキの体は一切空の横をさっと駆け抜けていた。少女の服がはだけ、その幼い胸とその真ん中に開いた穴が露わになる。穴の縁からは、四本の細く赤い傷が伸びていた。
 胸の穴の表面を覆っていた肌色が、肉の赤と骨の白からなる断面に変わった。その断面は林檎ほどの大きさのある血の塊をごぼりと吐き出した。
 一切空の絶命により能力が解除され、部屋に潜伏していた穴は全てただの穴となった。
 同時にナキも膝から床に崩れ落ちた。驚愕に見開かれた瞳が、右斜め後ろに倒れる一切空の死体を一瞬、視界の端に捉える。
「既に詰まされていた……か……」
 一切空が機を見てナキを殺傷すべく潜伏させていた四つの穴のうち、三つまでは囮に過ぎなかった。最後にして本命のひとつ、最も気づかれにくく、そして最速で「殺す」ことが出来る場所――
 それがナキの額の上だった。
 綾島は、新しい二つの死体を見下ろした。
「おやおや、さっきまでは随分と仲がよろしいようでしたのに。男女の仲と言うのは分からないものですねぇ」
 ナキと一切空は、この戦いに勝利する方法として、「自分以外の時計所有者を同時に斃す」という仮説として考えていた。皮肉にも、それを成したのは蒿雀ナキと一切空のどちらでもなく、綾島聖だった。

 中坑道から避難立孔を上って旧坑道に蒿雀ナキの姿があった。彼は迷路のような中坑道を踏破して、この避難立孔に辿り着いていた。避難立孔からは北に向かって真っすぐ通路が伸びている。通路は途中で90度東に曲がり、その突き当たり北立孔を上ればいよいよ地表のレベルである。
 北立孔を上り切ると、坑道の淀んだ空気に新鮮な外気が混じって感じられた。澄んだ外気が肺に流れ込む感覚は、立孔から坑口に向かって通路を進むほど強くなってゆく。
 西向きに口を空けた坑口から、赤みがかったぼんやりした光が差している。その中に、一つの影が立っていた。
 その意外な人物に、ナキはきょとんと目を丸くした。あちらも鏡のように同じ表情をして固まっている。
 ややあって、逆光の中に立つ男は聞きなれた様で聞きなれない声と口調で話しかけて来た。
「てっきり、生きている自分とは出会う事は無いと思っていました」
 坑口の前に立っているもう一人の自分。その語りかけに例えば親分ならどう答えるのだろうか、とナキは少し考えた。
――おおかた、君は今とは過去から無数に分岐した枝の先端の一つだと思っているのだろう。
 頭の中で親分の声が聞こえた気がした。
――しかし、未来から分岐した今というのも、等しく存在し得るとは考えられないかい?
「あなたと私は同じ過去から分岐し、そして違う未来から分かたれているのでしょう」
「あなたは私なのに、まるで親分のような事を言う」
 そう言って、坑口側のナキは笑った。そして、言った。
「同じ過去と未来から分岐する自分とは出会う事は無い。しかし、異なる未来から分岐した自分とは出会い得る、か。中々気に入りました」
 根とする同じ未来とは何かを考えて、ナキは少し憂鬱となった。
「あなたはこの鉱山に留まり、戦う私なのですね?」
 そう問われた坑口側に立つナキは、懐から迷宮時計を取り出しじっと見つめた。
「そう。あなたが進んでくれるなら、私はここに留まれる」
「そして、あなたが残ってくれるから、私は先に進むことが出来る」
「ありがとう」
 二人のナキはすれ違いざま、同じ言葉を口にした。

 坑口周辺の木々は広範囲にわたって伐採され、茶けた山肌にまばらに草が生えていた。砂利を敷いただけの幅4メートルほどの舗装が、西に向かって伸びている。
 蒿雀ナキは懐から時計の重みが消えている事に気が付いていた。
 迷宮時計は失ってしまった。しかし、それは妻の元へ帰る為の手段の一つを失ったに過ぎなかった。
 手段を一つ失くしたなら、また別の手段を探せば良い。
 ナキは坑口における自分自身との奇妙な邂逅を思い出していた。坑道の中で一つの未来を根として分かたれ、戦い続ける自分。坑道内の至る所に晒されたその未来を考えると、彼らが同じ未来を根とするというその仮説が間違いであってほしいと思えた。
 ナキは坑口を振り返り、見た。誰もいなかった。


注)植田銀山は架空の鉱山であり、実在の上田銀山(新潟県魚沼市)とはあまり関係がありません。

(※GK注)自キャラ敗北SS:【第二回戦第3試合】【キャラクター:蒿雀ナキ】

最終更新:2014年11月15日 19:35