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【過去】花園
戦闘領域:1km四方
花の絨毯が極彩色に咲き乱れる、一面の美しい花園。
何処かの高原の一画か、あるいは人工的に整えられた庭園かもしれない。
あるいは、遠く過去の記憶を想起させる地であるかもしれない。
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年が明けた頃のこと。高原に建つ慎ましやかな礼拝堂で、若き夫婦が永遠の愛を誓い合った。
敢えて冬に日取りを決めた新郎の配慮も空しく、暴発した新婦の魔人能力”花いっぱいの街”に当てられた花々は積雪を突き破り、一夜にして雪の原を花園へと変えたという。
冬を力任せに乗り越えた草花たちは、春に向かうにつれてますます繚乱の様を呈し、夏を迎えた今もなお高原一帯を鮮やかに覆い尽くしている。
『愛の奇跡が生んだ花畑』――地元の観光協会がそんなキャッチコピーで大々的に宣伝したことに加え、新聞などのメディアにも取り上げられた結果、結婚式を挙げるカップルや観光客の数は例年の倍以上にも膨れ上がっていた。
魔人軍国主義の崩壊から五十余年を経て尚、魔人に対する差別は根強い。
彼らは時に国家をも揺るがす脅威となり得る、厳重に取り締まるべき対象である。多少の善良な魔人を冷遇の巻き添えにしたとしても、必要悪にすぎない。そんな横暴が罷り通っているのが現状である。
だが、本当は誰もが気付いていた。魔人能力を有効活用できれば、社会はもっと豊かになるということに。
奇跡の花園――人と魔人との愛が生み出し、同時に魔人能力の経済資源としての有用性を示したこの土地は、この国が共生の道へと歩むための始まりの場所となるだろう。
古き慣習に囚われぬ若き魔人が。あるいはその友人が、家族が、恋人が。
世紀の移り変わりを前にして多くの人と魔人が、輝ける未来の訪れを共に信じていた。
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[花園の世界:1999/7/2/12:00=基準世界:2015/1/17/20:00]
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一面に広がる色彩の海原――その只中に、転送されたメリー・ジョエルは立ち尽くしていた。
風にそよぐ花が左脚を柔らかく撫で、甘い花の香が嗅神経をくすぐる。
強化プラスチックの中を満たす羊水の温かさとは違う、得体のしれない、けれど不快ではない感覚――これは、いけないものだ。
人は快刺激を拒絶できない。争いの絶えない未来世界においても尚、性技を戦いの術とする者たちが生き延びたことがそれを示しているように。
迷宮時計の器として作られた自分――父さまと母さまに与えられた自分。それがなにか外的な刺激によって別のものに歪められることを、メリー・ジョエルは恐れていた。
生体への影響を自動精査=異常無し/大気中に植物性の塵を多量検知=戦闘空間『花園』の普遍的特性=脅威無し/メンタルバランスに微小な変調を確認。
『きみは何も心配しなくていい/ただ従えばいい』――脳裏からの囁き/メンタルバランス変調の解消を確認=異常無し。
未知なる体験への戸惑いを、維持機構からのフィードバックが掻き消してくれる。悠久の時を隔てて尚、父さまと母さまを感じさせてくれるもの/刷り込みの成果。
そして並行するプロセス――戦闘空間の概算が完了。それに基づいた、戦闘人格の更なる提案。メリー・ジョエルは静かに頷く。従う以外の戦い方を彼女は知らない。
始めてしまう前に一つだけ、せねばならない事がある。メリーは膝をつき、色彩の群れをかき分けた。
色とりどりのコスモス。ヒマワリの大輪。はっとするような鮮やかさのカーネーション。ガーベラ、ハマナス、ラベンダー、紫陽花。季節感も生息地も無視して、己こそが主役とばかりに主張する美しい花たち。
そのいずれでもなく、慎ましやかに咲くなんの変哲もないシロツメクサを選び、静かに手折った。長い茎を左手の人差し指に巻き、結いつける。
未来世界に花はない。汚染された大気の下に命は生まれず、記憶媒体に遺されたホログラム映像でのみ人は花の形を知っている。
メリーの父と母――二人の博士が生まれるよりもずっと前から、それが当たり前だった。
私は必ず掴み取る――未来にこの色彩を取り戻す。決意を忘れないための、勝利のおまじない。精神の安定を図る儀式的行為。
『支配せよ――』胸に疼く本能。
『破壊せよ――』脳裏からの啓示。
二つの声が、メリーを戦いへと急かす。
”魔女の箒”の脈動/親に抱きつく稚児のように跨る/アクセルグリップを握る/唸るような機動音/煌めきを伴いながら”翅”が展開/浮遊/衝撃/急速爆進。
排気を浴びた花が吹き飛び、焼け焦げて、花園に飛翔の痕を残してゆく。花弁が宙を舞い、紙吹雪のように踊る。
ラダーペダルを蹴り、強引に機首を振り上げる。1km四方の戦闘空間の中心座標に辿り着いた時、メリーは空中に静止した。
「なんだ?」「女の子……」「飛んでる?」「魔人……?」
戦闘空間に居合わせた者たちの困惑の声と視線。若いカップル。家族連れ。幼い子供。メリーにとってはノイズ足りえない些細なこと。
竜紋機構を起動――右脚義足が熱を帯びる。収束するエネルギーを、メリーは眼下の花園へと向けて撃ち落とした。拡散した光が花を焼き、猛烈な勢いで炎が広がる。
「うわぁ!!」「燃えてる!?」「お母さん!」「逃げろッ!!」
更に光を落とす。たちまち延焼し、炎の絨毯が人々を捕える。逃げ遅れた人間が火だるまになって叫びを上げ、絶命する。
――父さま。母さま。わたしは勝ち残ります。迷宮時計を支配します。破壊します。
対戦者も、そうじゃない者も、邪魔をすれば許さない――あの花のように摘み取ってみせる。他の何を天秤にかけても、必ず未来を勝ち取ってみせます。
だから、わたしのことを見て――わたしを愛して!
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戦闘空間の中心付近。若いカップルの内の一人――山口祥勝は、メリー・ジョエルのその行いをすぐ近くで眺めていた。
「花畑ごと焼き尽くす気だ。容赦がねえな」
戦闘空間への放火は一度山口も考えたが、自身をも巻き込みかねないと保留した。それを実行できたのは、あの飛行能力に依るものだろう。確かに上空に退避したまま火を付けられればどうしようもない。このままでは焼け死ぬか窒息死。仮に耐え切ったとしても、隠れる場所がなくなりこちらの不利。
『お前が言うな』『どっちもどっち』『血も涙もないくせに』
「うっせ。……おい、死にたくなきゃとっとと逃げろ!」
「ひぃっ……!」
恐怖に震える“彼女役”に喝を入れ、走り去る背を見送る。戦闘空間に転送された直後、物陰で脅しつけて従わせた女だ。魔人腕力をちょっと見せてやったらすぐだった。
ハイライトサテライトを展開しながらデート客を装って戦闘空間をおおまかに回り、対戦相手メリー・ジョエルを先に発見、そのまま狙撃の機を伺うつもりでいたのだが。メリーと思しき飛翔少女は自ら姿を晒して放火したのちすぐに飛び去ってしまった上、この世界の住人を巻き込む事にも躊躇ない様子であった。
『んで、どーすんだ? このままじゃ死ぬけど』
「そうだな。何か良い手はないか?」
『降参は?』
「却下」
『とりあえずライフルどかーんしよ』
「あんな動き回られてちゃ当たらないな。こっちの位置を教えるだけだ」
こういう時、山口祥勝は魔人としては無力である。並行思考によるサポートが優秀であろうとも、本人の身体能力と戦闘技術で出来ることは限られていた。故に、基礎スペックが強大すぎる相手に対しては度々手詰まりに陥る。
――だが、活路というものは思いがけない会話からも唐突に見出せるものだ。今までもそうして、何度も危機を乗り越えてきた。
『そこ、1999年なんだっけ?』『ノストラダムスの大予言とかあったよな』『懐かしいわー』『地球は滅亡する!』『ΩΩΩ<ナンダッテー』
「……なるほど、それでいこう」
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戦闘空間を飛翔する。先の地点から十分な距離を取り、竜紋機構を起動。力場が発生し、熱エネルギーが渦巻く。眼下の花園へと放出――新たな炎の群れが生まれる。
更なる縦横無尽の飛翔/エネルギーの解放/戦闘空間全てを覆い尽くすための火種を蒔き散らす。
人々の悲鳴――未来世界と何ら繋がりを持たない、どこかの誰かの憤怒、狼狽、嘆きの声。
焼ける音に異臭が混じる。生理的嫌悪/『ただ従えばいい』/メンタルバランスの改善。
時計の統合は起こらない。対戦者は未だこの花園のどこかで、降参するでもなく生き残っている。
飛翔する/火種を蒔き散らす/阿鼻叫喚を踏みにじる。既に花園の半分近くが炎上していた。それでも、メリーは決して手を緩めない。バトルロイヤルの優勝者を/その候補者の一人一人を、彼女が赦すことはない。
『――高エネルギーの接近』
戦闘人格が唐突に異常を告げる=回避提案/速度を殺すことなく反転/直前まで居た空間を穿つ、天からの白い光。
遠景に望む影――戦車、大砲、戦闘ヘリ。軍服を着た将官。可憐な服の少女たち。不良然とした学生。チャンピオンベルトを巻いた偉丈夫とその弟子。奇妙な籠を腰に提げた男。
機械拡大された声が響き渡る。
「世界の敵、メリー・ジョエル! 貴様は完全に包囲した! 破壊活動を止め、投降せよ!」
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住宅地で。街中の電器屋が展示するテレビで。公共施設の大型モニタで。
混線ノイズがスコールのような音とともに画面を灰色に乱す。
日本のあらゆる地域で、人々がその放送を観ていた。
『さあ本じ……ゲストはこの……ザザッ……舞台公演を控……は……ラス……ザザ……ュート……俺はブラストシュート! 未来世界からこの時代を救うためにやってきた!』
バラエティ番組の総集編に、突如として入り込む音声。
『1999年、世界は崩壊した――突如出現した”世界の敵”メリー・ジョエルと、それが呼び起こしたアンゴルモアの大王によって! 俺は奴を追ってこの時代までやってきた! 見ろ、人々! この地獄を!』
切り替わる映像――奇跡の花園が、燃えている。逃げ惑う人々。逃げ遅れ、無惨にも砕けた亡骸。空を翔ける銀色の影――美しく死をばら撒く少女。
『今は奴を俺の魔人能力によって四方1kmに閉じ込めている! だが、俺が死ねば奴はこの場から飛び去り、更なる敵が解き放たれてしまう! この時代に生きるみんなの力を貸してくれ!』
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この世界の大まかな要素や歴史が基準世界と合致していることは”彼女役”に確認済みだった。地上デジタル放送への移行が進んでいないこの時代ならば、情報の暗号変換も必要ない。
ハイライトサテライト――あらゆる障害を越えて、自分の周囲の状況を生放送配信する魔人能力。異次元の壁さえ越えて届くその出力を以ってすれば、全国放送程度は造作もないこと。コメント機能がなければフィードバックが得られないという点を除いて、ワク生以外に使えないなどという制約はどこにもない。
電波ジャックは、れっきとした犯罪である。だが今の山口には関係ない。法による裁きが下る前に、どうせ自分は元の世界に帰還するのだから。治安機構にとっても、優先すべきは”世界の敵”の排除に決まっている。
少女による破壊と殺戮。その一部始終を、全国へと晒し上げた。更に脚色演出――カメラに映らない位置で花園に追加の火を放ち、既に絶命した家族連れの焼死体をバラバラに引き裂いて踏み砕いた。実際に起こった災害や事件を織り交ぜながら、いかに自分たち未来人が苦しめられてきたかを訴えた。
残虐非道なる”世界の敵”メリー・ジョエル――その虚像を、人々へと印象付けるために。
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『いつもながらよくもまあ、出まかせがスラスラと出てくるものよね』
「ドラゴンボールは天下一武道会編までなんて分かったような口を利く奴がいるが、俺はセルゲーム編のトランクスも結構好きでな」
――暗殺者として磨き上げられた体術でも、手段を選ばない戦い方でも、衛星と集合知による情報力でもない。
欺く事こそが、魔人ヒーロー・ブラストシュートにとっての最大の武器。
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――山口祥勝。お前がこれを喚んだのか?
「いくよ! キュア・シャドーバインド!」
「オーケー! キュア・メテオストライク!」
神代の頃より連綿と受け継がれ、古代エジプトの壁画にも描かれる魔法少女の系譜――そのバトンを担う二人の少女。
キュア・メテオストライクが振り上げたステッキの動きに応じ、人工衛星から放たれた無数の極太殺人光線がメリー・ジョエルへと襲い掛かる。副脳の制御に身を委ね、高速飛翔によって回避。
死角から迫る影の拘束縄――キュア・シャドーバインドの修めるグンマー呪術・外呪の「縛」が”翅”を絡め取り、揚力を奪う。
天翅の失墜――落下点を狙う砲口。
発火/炸裂/閃光/破壊――副脳の制御/全身から痛みが消えていく。
戦闘継続可能。
翅がなければ、走ればいい。魔人たちの群れへと飛び込み、突撃槍を振るう。灼剣で薙ぐ。
血と肉の焼ける異臭/半裸のレスラーの片腕を焼き落とす/構わず放たれたアッパーが脳を揺さぶる――戦闘継続可能。がむしゃらに得物を振るい続ける/殺戮と炎の嵐を巻き起こす。
迷宮時計の完璧な器の作成――そんな科学者の妄執がメリーを形作った。
時計に干渉するためのデバイスとしてだけではない。かつて迷宮時計は所有者同士を競わせ、生き残った者を持ち主として選んだという。ならば当然、器たるメリー・ジョエルも、バトルロイヤルを優勝できるほどの力を備えていなければならない。
本屋文、撫霧煉獄、森久保眞雪、浅尾龍導、時ヶ峰健一、リークス・ウィキ、青空羽美、蛎崎裕輔、山禅寺ショウ子、綾島聖、猟奇温泉ナマ子。転校生にも匹敵したという参加者たちをも撃破できるだけの力を、逆算的に与えられている。故に、メリーは簡単には斃れない/止まらない。
だが。
「メリー・ジョエル。世界を破滅に導くお前を、我々は決して看過しない!」
メリーを討つために駆け付けた、この世界の正義なる者。
人と魔人とが共に手を取り合う、輝かしき未来を信じる者たち。
未来世界のために/父さまと母さまのために、メリーが戦い続けるように。
彼らもまた、自分たちの世界を守らんとする鋼の意志で立ち塞がる。
砲弾が降り注ぐ。傷も厭わず殴りかかる。光の矢を放つ。
少しずつ、されど確実に、メリー・ジョエルにダメージを与え続ける。
一帯が燃え盛り、穿たれ、焦土と化して尚、誰一人として手を緩めることはない。
全てはブラストシュートの虚言――それに気づくことなく。あるいは違和感を覚えても、同調圧力に流されて。
孤独な戦いに独り臨む少女を、善意の集団が駆逐しようとしている。
――どうして?
わたしは未来のために戦っているのに。
父さまと母さまに、もっと見つめていてほしいのに。もっと愛してほしいのに。
未来世界が荒廃する。その地続きには、お前もいるはずなのに。
――どうして邪魔をするの、山口祥勝!?
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『何故』 『破滅だ』
『許されない』
『お前のやっていることは』 『生まれ行くものたちを』
『お前の未来を』 『どうして』
『返せ』
『私たちの未来を』
山口の脳裏に直接響く、糾弾の声。
メリー・ジョエルは、山口にそれを認知させたいと願った。山口の持つ欠片の時計は、ルールの精密理解という特性を秘めていた。
メリーに宿る人造心肺――その特異な欠片について、山口の時計は説明責任を果たす。
バトルロイヤル優勝者による世界の荒廃――それを防ぐために戦う、少女の決意を。
倒れていった者の無念と怨嗟を。死の世界でなお生き抜こうとする者たちの意志を。
血の繋がった娘を改造し、時計と直結させる――そんな科学者の狂気と、歪んだ愛の形を。
その全てを、一瞬にして理解した。奇しくもそれは、山口がこの世界の人々に騙ったものとよく似ていた。
「……参ったね。あの子が負けたら未来は滅ぶんだと」
『急にどうした』『虚構と現実の区別がつかなくなったか?』『昔は聡明な子だったのに』
視聴者たちの軽口。無論、彼らは山口の正気を本気で疑いはしない。今この瞬間も一言一句を解釈し、最良の判断を下すべく思考をフル回転させている。
「なんか知らんけど頭に流れ込んできたんだよ。詳しいことは話してる時間ねえんだけど。バトルロイヤル優勝者が滅ぼした未来から、あの子はやってきた。なあ。俺はどうすべきだと思う?」
コメントが止まる――察しの悪い者は言葉の意味を呑み込めず、理解した者にとっても容易には答えを出し切れない問いかけ。彼女を倒すことは、山口が未来を滅ぼすことと同義なのか――?
『決まってるでしょ』
こういう時は、決まってA子が早い。
『勝つのよ、ブラストシュート』
そして、それは決まって山口祥勝に力を与える。勝利に必要な、あと一歩の執着を。
「ああ」
山口はほんの一時だけ、目を閉じた。心の中で反芻する。全ての始まりの言葉を。己が退かぬ理由――行動原理を。
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『ありがとう、ヒーローさん。お父さんとお母さんを殺してくれて』
耳に残る囁き――善良な皮を被り違法薬物を売りつけていたクズ共を撃ち殺した時、その娘からかけられた呪い。
祥勝は庄司愛子を殺せなかった。『運命の出会い』だったから?――そこの理由は最早どうでもいい。
善人も悪人も、男も女も、大人も子供も、関係なく蟻のように踏みにじってきた祥勝が、その時初めて明確に区別を付けた。金持ち共の薄汚い喘ぎ声と投げ銭よりも、遥かに価値のあるもの――愛子からの承認を、知ってしまった。それなしには生きられなくなった。
山口祥勝の本質は、アサシンだった頃と今もなお変わらない。ただ、三大欲求を満たす以上の快楽をコミュニティに見出したというだけのこと。
――時計に込めた願いなど何も無い。
満ち足りていた。物質的にも、精神的にも。何不自由なく日々を謳歌していた彼にとって、今更変えたい過去も、今以上に望む未来もない。
欺瞞ヒーロー業は、危険であると同時に痛快だった。
信頼できるメンバーたちとの出会い。
大勢を騙し、秘密を共有することの愉悦。
有象無象に過ぎないちっぽけなはずの俺たちが、警察でも手に負えぬような凶悪犯を討ち取っている。だから、俺たちは凄い――根拠のない、ハリボテで向こう見ずな自尊心。
迷宮時計の戦いをも、俺たちならば制してしまえるだろう。そんなくだらない夢物語を、もう少しだけ見ていたい。身内のぬるま湯に浸っていたい。そのために勝ち続ける必要があった。彼らを突き動かすのは、惰性じみた全能感に他ならない。
山口祥勝にとってはそれこそが、己の命を賭けても、世界のすべてを棄ててでも守りたいと願うものだった。
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周囲を見回す。四方を炎に囲まれ、逃げ道はどこにもない。山口にとっても、時間はあまり残されていない。
スコープを覗く。炎の中で舞う翅無き天翅。荒ぶる死の具現。自らも少しずつ、破滅へと向かっていく。
山口は引き金に指を掛ける。
(メリー・ジョエル。未来が滅ぼうと、お前が不幸になろうと、俺は何の責任も取らない)
(もしもこの先俺が勝ち上がったとしても、世界を滅ぼしたりはしないだろう。だが、お前の代わりとして未来を守ったりするつもりもない)
(俺は正義のヒーローじゃない。俺は俺たちのために戦う。誰にもその邪魔はさせない)
「すまん」
短く一言だけ、山口は謝罪した。メリー・ジョエル本人には決して届かない、一方的なエゴの言葉。微かに残された良心が吐き出す罪悪感から、逃れるためのモージョー。
引き金を引く。
響いた銃声は、炎の音に呑まれてすぐに掻き消えた。
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人造心肺を穿つ衝撃。副脳からの応答――戦闘継続不可能。
そのまま、地へと倒れた。
手足が痺れて、立ち上がれない。視界が霞む。魔人たちの歓声が遠く聞こえる。
――父さま、母さま。ごめんなさい。わたしは何ひとつできませんでした。未来世界の荒廃を、食い止められませんでした。
涙が止まらない。悔しかった。惨めだった。寂しかった。誰も自分を知らない世界で、このまま消えていくことが怖かった。
炎の抱擁――痛み、渇き、熱く、苦しい。身体も、魂も、全てが熱の中に融けて、混ざって、やがて燃え尽きるのだろう。
『――――――――』
『――――――――』
――それはあらかじめ意図されていたものかもしれないし、あるいは度重なる衝撃によって生まれた電子的ノイズかもしれない。けれど、メリーには確かに聞こえた。
『――――――――』
胸奥から響く声。
『――――――――』
脳裏で囁やく声。
言葉の形を成さない、幽かな囁きの集合体。戦いに駆り立てる二つの本能とは違う、父さまと母さまの優しい子守唄。
悔しさも、惨めさも、寂しさも、不安も和らいでゆく。
とても眠い。目が覚めた時、わたしは二人のもとへ帰れるのだろうか。よく頑張ったねと、抱きしめてもらえるだろうか。
父さまと母さまは、この花を受け取ってくれるだろうか。
泣き疲れて、メリーはそのまま意識を手放した。強化プラスチックの子宮の中にいた時のように、安らかな顔で。
左手には、シロツメクサを結わえた指輪が。炎から守るように握りしめられていた。