プロローグ
――死にたくない。
――暑い。渇く。痛い。焼ける。熱い。
――死にたくない。
「ん……」
ガラリとドアの開く音が、雨竜院暈々の眠りを覚ました。
「げ! 姉ちゃん」
続いて、ドアを開けた弟・暈哉の声が微睡みをすっ飛ばして彼女の意識を現実へ引き戻す。
暈々は入浴中、湯に浸かったまま眠りに落ちていた。
「あら、暈哉。ずいぶん大胆な覗きね。ダメよ、義理とはいえ姉なんだから」
「ちげーよ!! 姉ちゃんその状態じゃ外から入ってるってわかんねーじゃん!!」
暈哉がそう叫ぶ。
今の暈々の肉体は湯と同化した状態だった。暈々は湯船に盛られた39℃のゼリーと化し、そこに顔だけが元の形で浮かび上がっている。
同性愛者の暈哉だが、喩え女体に興味津々のヘテロな中学二年生でもこの裸体(?)に欲情するのは厳しいに違いない。
「俺も夕飯前に入りたいから、早くね」
そう言って暈哉がドアを閉めると、暈々は現実から見ていた夢へと再び意識を遊ばせた。
夏の日差しに全身を焼かれ、死が迫る中で思った「死にたくない」。
体感時間はともかく数百年前の、生後数ヶ月の頃の記憶が脳裏にハッキリと焼き付いているのは、その何より原始的な衝動が、彼女を魔人へと作り変えたからだろう。
「死ぬのは嫌よね……死ぬのは……」
湯船の縁に置かれた小物へ目をやる。
いわゆる水時計。上に溜まった水が細くくねった管を通り、飾りの極小水車を回しながら一定時間で下へと注ぐ。
砂時計より少し複雑なだけの玩具のような品だが、しかしこれが今、暈々の運命を握る時計だった。
数日前の放課後、希望崎学園傘部の部室にて。
「畢ちゃん、知ってるかしら? 『迷宮時計』の話」
部活前、暈々は従姉妹にして部長・雨竜院畢にそう話を振った。
「『迷宮時計』? 何それ」
「何です? カサカ=サン」
「知っているよ。今流行りの都市伝説だろう」
問われた畢や1年生部員の相合傘愛がきょとんとする中、少年めいた声が答える。
「流石ね、ウパナンダ」
答えたのは傘。畢の持つ生きた武傘・ウパナンダ。
人々の間で噂される都市伝説に根差した性質を持つ都市伝説魔人(モデル「唐傘お化け」)である。
自分がそちら側の存在で、且つ「STG(Story-Teller-Glow、都市伝説魔人)の会」に身を置く彼は、ひょっとしたらオカルト研究会員でもある暈々以上に、その手の話に詳しかった。
「ウパちゃんの仲間なんだ!」
畢は嬉しそうに言うが、ウパナンダの表情(傘布に目と口がある)は浮かない。
「怖い話さ。都市伝説はだいたい怖いけれど」
「怖い……」
畢がきゅっと内股になる。
全員で屋外へ向かう道中、暈々が話した。
「『迷宮時計』という意思を宿した時計があって、その時計が『所持者』に選んだ人はそれを決して捨てることが出来ない。捨てても、叩き壊しても、必ず戻ってくる。
そうして最後、時が来たら所持者を別な世界へ連れ去ってしまう。
1年生に行方不明の子がいるでしょう。その子もいなくなる直前、『迷宮時計に選ばれた』と周囲に漏らしていたって」
最後の二言で、畢と愛の表情が目に見えて強張る。
やや不謹慎だが、しかし行方不明の女生徒がいるという事実は噂話に、妃芽薗学園の血塗られたそれのような生々しい恐怖を与えていた。
「ほ、本当?」
「噂だよ。本当かなんてわからない。でも『本当』にこれからなるかもっていうのは怖いところだね」
本当になった実例であるウパナンダがそう答える。畢は当然、安心するどころかますます怯えた顔になる。この日の夜、彼女は彼女は布団に世界地図を描いた。
「何か選ばれない方法って無いのかな? そういうの、あるじゃない」
「定番だけれど、それはお話の定番だから、本当のことには無いかも知れないわ」
「こ、怖い話はもうやめにして! 恋バナしましょ恋バナ! はい、カサカ=サンの好きな人!」
暈々が恐怖を煽るようなことを言うので、愛が強引に話題を変える。その後恐怖とは無縁の楽しげな話題に花を咲かせながら、三人と一本はいつも通り、雨の希望崎散策を始めた。
「このあたりを歩くのは久しぶりね」
暈々がそう言った。希望崎は広い。1、2時間で散策する広さには当然限界があり、「今日はこのあたり」とエリアを決めて歩いているのだが、この日のそれは普段あまり来ないところだった。
「うん、前来た時は愛ちゃんが入る前だったね。迷わないよう、部長が案内したげよう」
「はい、部長」
「畢こそ迷わないようにね」
畢と愛がとててて、と森に向かって駆け出していく。その様子に暈々もクスリと微笑み、遅れてついていこうと踏み出した、その時だった。
『こっち、来て……』
「えっ?」
突然、知らない声に囁かれた。あたりを見回すが、誰もいない。
「気のせい……?」
暈々の言葉の直後、また声がした。
『こっち、こっち……』
「……」
確かに聞こえた。少女の声だ。声のした方を見る。自分達の背後に広がる、別な林。
叫ぶような声でも無いのに、ずっと遠く、恐らくこの林の奥から誰かが呼んでいる。
(どうやって呼んでいるの……? 魔人能力? それとも……)
畢に「違うところを散策してみる」とメールを出し、その声の導く方へと歩き出した。
武傘「アンクテヒ」を差すのをやめると当然、降り注ぐ雨粒が暈々の衣服や身体を濡らす。
「『シフト&ウェット』」
体表の水を体内に取り込み、そして傘を手にする右手首へと送る。柄を握る掌から「水の触手」が伸び、中骨の空洞部分に溜まっていく。
武器を使う準備は出来た。さあ、何が待つのか。
『もう少し、もう少しよ』
その声に従い、歩くと開けた場所に出る。
暈々は、自分を呼んでいたものに出逢った。
少女がぶら下がっていた。
一本植わった大樹の枝に縄を結び、首を括って死んでいる。
「あ……」
目を見開き、息を呑む。
暫し呆然とした後、そのてるてる坊主のような亡骸を改めて見る。
鬱血した顔だけでなく、手も足も変色し、膨張している。死んでから日数が経っているのは明らかだ。
(この子って……やっぱり)
行方不明になった女生徒。顔を知っているわけでないし、あまりこの死に顔を見たくないが、恐らく間違いないだろう。
(自殺……)
この少女の事情など知る由もないが、暈々には理解し難い行為だった。死ぬのはあんなに嫌なのに、進んで選ぶ人間がいることが。
「あら……?」
足下に何か落ちていることに気がついた。
遺書の類では無い、少女の遺品であれば、死ぬ場所に持参するには不自然過ぎる物。
(砂時計……?)
草の上に倒れている砂時計。流れることの無い砂は、止まってしまった少女の時間を象徴するかのようだ。
(時計……)
噂ではこの少女は、「迷宮時計に選ばれた」らしい。そしてここにあるこれ。
その不吉過ぎる代物を、この時の暈々は迷わず拾い上げていた。何を思ったわけでもなく、何かに命じられたように。
向きが変わったことで再び砂が落ち始める。時が動き出した。迷宮時計所持者の時が。
「これは……」
魔人覚醒時に似た感覚を、この時の暈々は味わっていた。
一瞬にして脳へと流れこむ、迷宮時計の情報。
迷宮時計所持者は異界に招かれ、所持者同士で最後の1人となるまで戦わねばならない。
倒した所持者の時計を統合し、全ての時計の欠片を揃えた者が、全てを手にする。
そして、自分が今、この時計の所持者に選ばれたこと。
砂時計は、手の中で水時計へと変わっていた。
「迷宮時計を手放す方法、あったのね……」
ぶら下がった少女――前所持者を見上げる。時計を手放すには、死して次の所持者へと譲ること。
『ありがとう。おかげで逝ける』
屍の隣に、その生前の姿であろう、もう1人の少女が現れてそう言った。
死を選んだがそれだけでは解放されず、暈々をここに呼び寄せた少女。
『じゃあ、頑張ってね』
呪詛の言葉を遺し、少女は淡い光と化して消えていった。
生徒会に連絡した暈々は第一発見者として色々と面倒な目にあったが、迷宮時計のことは誰にも話していない。
暈々は暇があれば傘術の稽古に打ち込んでいる。畢や愛、家族にも心配されたが、暈々は少しでも準備を整え、力を蓄えねばならない。
勝ち残る……その動機は最後の1人に与えられる強大な力などでは無い。
「死にたくないもの、私は」
命しか持たなかったあの頃と比べ、今はそれなりに多くのものを得た。家族や友人、将来。
数百年を経た世界で始まった、雨竜院暈々としての人生。
「手放したく、ないもの」
その時、カチリ、と頭の中で何かが鳴った。
迷宮時計を見る。水時計には変わりないが、ごく単純だったはずの構造が、今は極めて複雑なものへと変化していた。
この時計の水が全て落ちるまで、今度は24時間。
この世界に存在し続ける権利を賭けて、戦いへの時が刻まれ始めた。
最終更新:2014年10月06日 02:40