プロローグ
目覚まし時計を叩き止め、二度寝に入ってからしばらく経った。シャッというカーテン音と同時、俺こと種人 光(しゅじん こう)の部屋に白い陽光が満ちる。眩しい。
「起きてっ、光くん!」
「ん……あと五分……」
「昨日もそう言ってたし、それで遅刻ギリギリだったんでしょ! ほら起きて!」
ゆさゆさと俺を揺する彼女の名前は馴染 おさな。ほんの数日前に俺の隣家へ引っ越してきた、俺の幼馴染みだ。あの日の突然の再会以来、こうして毎朝俺を起こしにきている。まったく、子供じゃあるまいし……
「ほーら、起きなって! 光くんっ!」
「あと十分……」
「伸びてるし! 睡眠時間伸びてるし! もうっ!」
俺を揺する手が止まる。かと思えば、がしっと掛け布団を掴んで……
「えーいっ!」
「うわっ!」
力一杯俺の掛け布団を引き剥がしに来た! 全身に朝の日差しが突き刺さる!
「ぐあー! やめろー! 布団を返せー!」
「はいはい、布団さんとはしばしのお別れです」
「やめろー! 早くしないと、こう……灰になってしまうー!」
「もう、いつから吸血鬼になったの? まあ、昔っから光は空想とか好きだった、け、ど……」
「だから、昔の話はやめろ……?」
しゅるしゅると下がっていくおさなのテンション。顔を守る腕を持ち上げてチラッとおさなを見てみると、彼女の視線は一点へと集中していた。それは俺の下半身、それは俺の足と足の間、それは俺のユーアーマイサン……
「こっ、このヘンタイーーーー!!」
「待てええええ!!」
「……さっきはごめん」
「……気にしてねえよ」
まだヒリヒリする頬を押さえる俺に、申し訳なさそうな表情を向けるおさな。
「ああいうのはだな、生理現象で、どうしようもない事なんだ……俺くらいの年になるとな。分かってくれよ」
「うん。ごめん……何でも昔と同じじゃないんだよね」
「当たり前だろ」
そうだ。昔と同じではいられない……何もかも。
俺とおさなは、現在最寄り駅へと向かっている所だ。俺はそちらから上り方面の電車に乗り、おさなは下り方面へ。彼女が着ている制服はミッション系とかカトリック系だか、とにかくそんなような女子校の物だったはず。よく似合っている。
「にしても、わざわざ朝から引っ付かなくたって良いんだぞ?」
「そんな事言って! 私が来なかったらまた遅刻してたかもしれないでしょ? おばさまに頼まれたんだもの」
「いきなり夫婦で海外出張なんてなあ」
そう。本当に突然な話だった。何せ、あの日学校から帰ってきたら家はもぬけの殻で、代わりにおさながいたのだから。俺の両親は、おさなの両親の仕事のミスのフォローのために一週間ほど海外へ行く事になり、入れ違いでこいつが来たという訳だ。
「もともとこっちに帰ってくる予定はあったんだけど、私のパパ……お父さんが、ぎっくり腰でやらかしちゃって」
「どんな仕事だよ……あれ? お前の両親の仕事って何だったっけ?」
「ルポライター。おじさまがカメラマンやってた頃に知り合って、それで私と光くんも知り合ったんじゃない」
「そうだったっけか」
「……本当に昔の事、覚えてないの?」
「そ、そんな事あるかよ!」
寂しそうなおさなの表情につい慌ててしまう。忘れるものか。おさなと過ごした日々の事はよく覚えている。近くの公園で遊んだ事も、ケンカした事も、わんわん泣きながら仲直りした事も……
「……忘れるもんかよ。だって、俺は、お前の事」
「え? 何?」
「何でもない」
俺の言葉に、小首を傾げるおさな。少なくとも今はまだ、口にするべき事じゃない……俺の気持ち。おさなと再会して思い出した、俺の。
「……あ、そうだ光くん。『ゾクカン』って知ってる?」
「『ゾクカン』……ああ、アレだろ? あの川沿いの」
ゾクカン。故の知れない魔人が自殺しているのが見つかったという倉庫で、そこには死んだ魔人の能力なのか、種類様々な魚が空気中を漂って生きているのだという。『水』のない『水族館』のようだから、『ゾクカン』。なんだかなあ。
「そうそう。言ったことある?」
「ない。っていうかあそこヤバイって噂なかったか?」
「そうなの? うーん」
「やめとけよ。魔人能力に関わるなんて……」
そう言いながら、俺は平静を保つよう努める――そのせいだ。おさなが何故、そんな事を訊いたのかを尋ねるのを忘れたのは。
『ゾクカン? 最近は行かねえよ。なんかヤバイ奴住み着いてるって噂だし』
『魚がメッチャ死んでたって話だぜヒャッハー!』
『ちょっとゾクカンの様子を見てくるって言った不良が川に流されていった』
安心を得るために始めたゾクカンの情報収集だったのだが、どうも悪い話ばかり耳に入る。おさなへのメールも音沙汰なし。放課後になって思い切って電話もしたが、出ない。
「……気にしすぎだ」
自分に言い聞かせるように呟く。大丈夫だ。今夜も帰ったら台所にはおさながいて、夕飯を作っているに違いない。肉も魚も控えめな野菜中心のレシピで、でも俺が飢えないようボリュームたっぷりで、絶対に食べられないピーマンだけは使わないで。
「!」
ポケットの中で携帯が震えた。着信相手は、馴染 おさな。
「もしもし!」
『あ……光くん?』
「お前……お前今どこに?」
『……もしかしてバレちゃってるかなあ』
その声色は妙に細かった。ゴホゴホと咳き込むおさな。ただの咳ではない。喉の奥に何か絡んでいるような咳だった。痰……あるいは血液。想像力が嫌な方向へひた走る。
「何があったんだ」
『あのね、光くん……』
「何があったんだ!」
『聞いて……』
俺はもう走り出している。ゾクカンに行くための最短経路が頭の中に浮かび上がる。
『……洗濯、乾燥までちゃんと済んでると思うけど……綺麗に畳まなきゃだめだよ?』
「おい」
『最近冷えてきたから……お風呂にも入って、体温めてね。掃除、昨日の内にしたから……』
「おい!」
『ごはんも、好きな物ばっかり食べないで……栄養バランスに気をつけて』
「おい……!」
バカ言うな。何言ってるんだ。洗濯物を畳むとか、風呂の用意するとか、料理だって……それはお前がやる事だろ! おばさまに頼まれたから、とか言って! 昔からそうだ! 大人ぶりやがって! 根っこは泣き虫の甘えん坊のくせに……!
「お前、今……ゾクカンにいるんだな?」
『…………』
「いいか。動くな。俺もすぐそっちに行く。だから……」
『ダメ!』
「おい!」
『来ちゃダメ……来ないで』
「じゃあ帰って来い!」
『……ごめん』
「なんで!」
なんで謝るんだ……!
『……あはっ』
「おい?」
『こんな事、言うつもりなかったのに。言ったら、光くんのこと、困らせちゃうから』
はあ、と溜息の音が聞こえる。耳をくすぐる彼女の息は、音だけならばこんなにも近いのに。
『でも、言うね。言いたいから……これを言わずに死んだら、きっと化けて出ちゃうから』
「おい」
『――好きでした、ずっと』
どくん。自分の心拍が一瞬止まって、心臓の辺りがヒヤリとした。
『ありがとう。久しぶりに会ってから、今日まで……楽しかった。だからね。私の事は、もう忘れて』
「お、い」
『もう多分、会えないから。だから』
……そうじゃないだろ。
『え?』
「一回だけ聞くぞ。お前、どうして欲しいんだ」
『…………』
「なあ」
沈黙。時間に直せばほんの数秒。俺は待ち望む。
『た……』
馴染 おさなの言葉を。
『……助けて』
右手から迸るオレンジの光が、閉ざされたシャッターをザリザリと切り裂き溶かしていく。ゾクカンの正確な位置を俺は知らない。だから片っ端から破壊するのだ。俺がもしただの人間なら不可能だっただろう。
(感謝するぞ――今ばっかりは!)
光をもたらすもの《ライトブリンガー》。それが俺、種人 光の力。この身に浴びた光を武器に変え、右手から放つ。放出される光の剣は夕陽の色なのだ。
シャッターを裂いた光はそのまま倉庫内を照らし出した。ハズレだ。右手に光の剣を仕舞うと、次の倉庫へ。引き裂く。
「……!!」
シャッターの隙間から、魚の死骸が見て取れた。間違いない、ここが……!
「光くん!」
「おさな!!」
彼女の声に背を押され、光量を上げる。細い三角状に切り開かれたシャッターの中に飛び込めば、そこには暗いコートを纏った男と、制服をボロボロにしたおさながいた。白い下着が、外れかけていて。
「お前……!!」
「……そうか、そいつを籠絡した訳か。クソ女」
「訳の分からない! 事を!」
夕陽の槍を男に向けて放つ。こいつは破壊力は剣に劣るが、精度と射程に優れる。万一にもおさなを巻き込む訳には行かない! 対する男は動かず、コートで受ける。
「バカな少年よ――倍返しだ《ダブルアップ》」
男がそう呟いた瞬間、突き刺さったはずの夕陽の槍が跳ね返ってきた。俺が放ったよりも太く速く眩しい夕陽の槍が、俺の身体に突き刺さる。男は嘲笑った。
「ハッ! どうだ、己の攻撃を倍に返された気持ちは。やれやれ、人選ミスだったようだなあ馴染とやら……何!?」
「おおおお!!」
傷つきながら、吼える。吼えながら、俺の右手から更に太く速く眩しい夕陽の光を放つ。その威力、最初に放った物の2倍!
「ば……倍返しだ《ダブルアップ》!」
「はあああ!!」
更に強力に返された夕陽の槍を受け止め、更に強力になった夕陽の槍を放つ……その威力は4倍だ。俺の能力は光をもたらすもの《ライトブリンガー》。光を浴びれば武器となる……それが俺の手によって武器化した光であっても!
「倍返しだ《ダブルアップ》!」
「があああああ!!」
血反吐を吐く。男と俺の間を行き来しながら、夕陽の槍は威力を増し続ける。男はどうやら、俺の能力を無効化しつつそれを返しているようだ。対する俺は攻撃を食らいつつ強力な反撃を返さなければならない。
しかし、その無効化も無限ではないはず。耐久力か、限界量か、とにかくそういうものがあるはずだ……そうでなければ男の狼狽に説明がつかない!
「光くん……頑張って!」
「うおおおおおおお!!」
おさなの声が力となる。俺は当初放った物の512倍の威力を持つ槍を放ったのと同時に、倉庫の外へと飛び出した。そこは障害物の少ない川沿いだ。夕陽の角度もベスト。
「も、もうやめろ……倍返しだ《ダブルアップ》!」
1024倍の夕陽の槍が俺の身体を貫いた。全身が炭化しそうな熱、痛み。だが倒れない。俺は今、最強の光をこの身に浴びている。
「らあああああああああ!!!」
1024倍の夕陽の槍に加え、たった今浴びた全ての光を……そして俺がおさなから受け取った光を、その一撃に込める! 俺の生涯で最大最強の一撃を!
「倍返……グオーッ!?」
男はついに俺の攻撃を返しきれず、そのコートから夕陽の槍に焼かれ始める。だがそれと同時に、俺も崩れ落ちる……
(……おさな)
無茶をし過ぎた。命が、魂が薄れていくのが感じられる。だが、悔いはない。おさなを助けられた。それで十分じゃないか。閉じた瞼の裏を、走馬灯が走る。おさな、おさな……俺も、好きだ。
―――――
「やってくれたな……」
「……あなたみたいのが一番始末に困るからね。戦いが始まる前に始末したかったの」
瀕死の体で転がる男――『ジャグラー』というコードネームである事だけは、迷宮時計に表示されたので知っていた――を見下ろしながら、私、馴染 おさなはてきぱきと着衣を整えた。
ああ、もちろん言うまでもないけど、これは種人 光を怒らせるための細工でしかない。好きな女の危機。薄暗い倉庫。見知らぬ男。こういう構図に、ああいう想像力が豊かなムッツリスケベタイプはとても弱い。
「本名不詳の仕事人タイプ。別に、その気になれば本名を調べるくらいはできたと思うけど、仮にそうした所で、あなたが私に優しくしてくれるかは分からなかったし」
「それで、あの少年に私を……襲わせたのか」
「本当はもっとピンチになったら『使う』つもりだったんだけどね。初戦からあなたみたいのに当たるハメになるなんて」
話しながら、死んだ種人 光に視線を向ける。全身が焼け焦げ、煙を発している。文字通り焼けるような痛みを受けていたのだろうはずなのに、死に顔は穏やかな笑顔だった。彼はここ数日、私の手によってどっぷりと幼馴染み感に漬けられていたのだから、幼馴染みのために死ねて悔いがないのは当然だ。私はこういう死体をこれまで何度も見てきた。
「……参ったよ。降参だ。しかし命だけは助けてくれ……戦闘空間に向かうまであと2時間だ。もしそうしたらすぐに時計を君へ」
「悪いけど」
学生カバンから肉厚のナイフを取り出す。ジャグラーの表情が引き攣った。
「私は慎重派だから」
暗闇の中でやかましいパトカーの赤いライトとサイレン音を、私は川越しに眺めていた。
警察には私が通報した。捕まっているのは、殺人 好太郎。この近くに住む17歳の男子高校生。ジャグラーから迷宮時計を奪った後、彼の携帯に電話をかけて幼馴染みにした後、あのゾクカンに呼び出した。通報した警察が彼を発見できるようなタイミングで。
この後好太郎は殺人犯として捕まるだろう。彼は魔人能力者ではないが極端な加虐趣味があり、スナッフビデオの蒐集を趣味としていた。そしていよいよ我慢ができなくなり、二人を殺害したという筋書き……
「……なんて、すんなり行くとは思えないけど」
何せ焼殺の手段が不明なままなのだ。さすがに淀みなく収束はすまい。とはいえ、状況的には好太郎が二人を殺した最有力の候補になるはずだし、その好太郎も『幼馴染みに呼ばれた』と訳の分からない事を喚くしかできない。好太郎に幼馴染みはいないし、私は好太郎に名前すら教えなかった。ちゃんと携帯電話も、私の痕跡の一切を削除した光くんの物を使って――
「光くん、だって」
ちょっと苦笑してしまう。ジャグラー退治と後始末を終えて、気が緩んだのかも。心を切り替えないと。
歩き始めながら、頭の中で幼馴染み候補を挙げていく。次は誰にしよう? 光くん……種人 光は、私がキープしていた中では最高の幼馴染みだった。今日予定通りに籠絡しておけば、寝室の業務用冷蔵庫で眠る彼の両親の片付けを済ませた後、私の護衛兼手駒として良く働いてくれたはずだ。
しかしその一方で、ジャグラーに勝つには試合が始まる前に光を使う以外の方法はなかった。対戦相手が本名不明で、戦闘空間が孤島で、一対一だなんて、この時点で勝ち目が薄い。少し調査を進めたら闇社会ではそれなりに名のあるエージェントだとも分かり、光を使う事はすぐに決定した。ビームの反射レースを始めた時は少々肝が冷えたが、結果オーライ。元より余裕の勝利なんて期待していない……
「あっ」
何気なく見た腕時計の文字盤がじりじりと変化し始める。迷宮時計としての機能を発揮し始めたのだ。まったくせわしない。休む暇もない。
さて、どう動こうか。光から解放された今、幼馴染みは有効に選んで使っていかないと。ひとまず情報収集? それとも今から好感度を稼いで、事前に殺す――それが無理でも、せめて負傷させるくらいの算段はつけるべき?
「……待っててね、――くん」
薄笑みを浮かべ、馴染 おさなは夜闇へ進む。
最終更新:2014年10月06日 02:50