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太宰治疎開の家 津島家新座敷

概要

太宰が故郷の青森に疎開した際に暮らした家。生家(斜陽館)の離れだった。1922年(大正11年)建築。

1942年(昭和17年)10月下旬から11月にかけて、重態の母と対面するため、太宰は妻と長女を連れて故郷・金木の生家を訪ねる。そのときの母の病室がこの離れであり、小説「故郷」に様子が描かれている。

1945年(昭和20年)7月末日、太宰は妻と長女、長男を連れて、金木に疎開する。その際に太宰一家にあてがわれたのも、この離れである。

同年8月の終戦も金木で迎えた。「回想の太宰治」によれば、終戦の翌年は各都市で大変な食糧不足の混乱が起きたが、太宰一家は母屋に寄りかかって何の心配もなく安穏な日々を送ったという。

太宰はここで「パンドラの匣」「十五年間」「苦悩の年鑑」「男女同権」「親友交歓」「トカトントン」「貨幣」など多数の小説を執筆した。また、「冬の花火」「春の枯葉」の2編の戯曲も書いている。出版社からの原稿依頼はとても応じきれないほどに多数あり、人気作家になりつつあった。

1946年(昭和21年)11月、疎開生活を終了し、帰京することに。11月11日、金木駅で大勢に見送られながら出発した。1年3ヵ月あまりの疎開であった。

また、この新座敷は「帰去来」「故郷」「薄明」「たずねびと」「海」「庭」「親友交歓」「やんぬる哉」「母」 などで舞台としても登場している。

小説「故郷」より抜粋

母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。けれども意識は、ハッキリしていた。
「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。私が園子を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。枕頭にいた五所川原の叔母は、微笑みながら涙を拭いていた。

(中略)

親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟(けし)の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨毯も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。

詳細

時間:9:00(夏季8:30)-17:00

休:不定休(毎日公開していますが、臨時休館と年末年始に休館有り)

料金:500円

住所:〒037-0202 青森県五所川原市金木町朝日山317-9

TEL:0173-52-3063(受付:白川)

アクセス:金木駅下車、徒歩4分

外部リンク

太宰治疎開の家 - 太宰屋

太宰治疎開の家「津島家新座敷」店長ブログ

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最終更新:2013年08月06日 04:11