【花は白妙の】
「花見で一杯…には、まだ早いわね」
ぽつりと呟いた霧切さんは、リモコン片手に週末の天気予報。
桜前線は首都をようやく通り過ぎたばかりだった。
「花見、したかったの?」
「一杯、したかったわ」
強調の違いで、ああ、なるほどを肩を竦める。
要は理由があれば何でもいいのだ。彼女風に繕って言えば、「肴が欲しい」ということ。
「満開の桜、とはいかなくても…近場の堤、白梅が綺麗だったよ」
「梅、ね…悪くは無いけれど」
「桜の方が良い?」
抱えたクッションに口元を埋め、小さく唸る。否定はできないけど肯定をしたくない、という仕草。
確かに、和の世界においては、花と言えば桜。梅は次点と考える人も多いかもしれない。
けれど、けっして劣っているかといえば、そういうワケでもないと思う。
「僕は梅の方が好きだけどな」
「…そう」
「派手さは桜に劣るかも知れないけれど、こう、それに負けない気品があるじゃない」
「……『厳しい美しさ』、『高潔・上品』、『忍耐』ね」
目を見開くと、心外だ、と言いたげな睨みが返ってきた。
「あ、いや、…さすがの知識だな、と思って」
「…お忘れのようですけれど、私は女よ」
チクリ、と棘が宿る。
『女性扱い』を嫌がるクセに、女性であることを忘れられると怒る人だ。
気難しい性質は、梅の木とそっくりである。
「あ、それに、ホラ。梅の花の方が、霧切さんに似合うかな、って」
思いついたまま口で咄嗟に取り繕うと、ソファーに埋めた目元がキッと鋭くなった。
追及する目である。
これで睨まれて、上手く嘘を貫けた試しが無い。
「……苗木君」
「……はい」
「…正直に言ったら、まだ怒らないであげる」
「……、桜はさ、あの…虫が多いじゃない」
やっぱり、と気だるげに肩を落として、スラリと足を伸ばした後姿。
その銀髪から覗く耳元が、うっすら撫子色に染まっているのが見えた。
「…梅の方が似合うっていうのは、嘘じゃないよ」
「そう。ええ、別に、何でもいいけれど」
「堤防、明日にでも見に行かない?」
「…貴方がどうしてもっていうなら、付き合ってあげるわ」
【鳥は老鶯が】
白玉が熱いうちに青きな粉を塗して、一口サイズに捩る。
そのまま、あらかじめ分けておいた餡子を包んで閉じ、皿に取り分け、串を添え。
足先で器用に戸を引くと、ふわり、と漂う程度の酒気。
ソファーの主は、いつもよりほんの僅かにだけ蕩けた顔を、僕の方に向けた。
「…お先に」
「もうちょっと待っててくれてもいいのに」
梅の実を入れておいた酒瓶を見れば、すでに三分の一ほど無くなっている。
とんだハイペースだ、と言いたいけれど、彼女にとってはマイペースだ。
「…犬だって、もう少し待てるよ」
「お生憎様。私は猫派よ」
「そういうことじゃないってば、もう」
言い終わる前に、僕が抱えていた皿からウグイス餅を引っ掴む。
別段大喰らいというワケでも、下品というワケでもない。
むしろ霧切さんは行儀は弁える。ただペースが速いだけ。
けれども、作ってご馳走する側としては、もう少し情緒というか、しっかり味わってほしいな、なんて。
「……好きだからこそ、逸る気持ちが分からないのかしら」
「あれ、和菓子好きだっけ?」
「……別に」
ふい、と拗ねるように横を向いても、ウグイス餅をついばむ手は止めない。
今日も今日とて、霧切節だ。
「言ってくれれば、毎日…とはいかないけど、できるだけ作るよ」
「…頂いてるわ」
「え?」
「ほぼ、毎日…好物を、貴方に作って頂いているわ」
酒気のせいか、少しだけ部屋の温度が上がる。
食べ物の好き嫌いは、今まで一つとも聞いたことが無いけれど、それなら重畳。
「そう? それは、…良かったけど」
「食べ物だけじゃないわ。本とか……、…あと、このソファーの座り心地とか」
返した僕に、また霧切さんは不機嫌そうに顔をしかめて、言葉を続ける。
心なしか、その目に宿る光が、いつもよりも柔らかい。
自分では自覚は無いのだろうけれど、飲んでいる時の彼女は、ちょっとだけ口が回るようになる。
「…貴方の部屋には、私の好きなものしか、ないもの」
どう返していいか分からず、換気をするね、と僕は立ち上がる。
何とも言えないような表情で目を瞬かせて、霧切さんは僕に背を向ける。
窓に映る自分の像に手を伸ばして、ようやく意味が分かり、頬が燃えあがった。
【風は木枯で】
寒い季節は、昔は苦手だった。
北寄りの風が、落ち葉を散らしながら、びょう、と吹いた。
正面からの風、思わず立ち止まり、身を縮こまらせる。
お気に入りのコートの裾とともに、舞い上がる髪。
寒い季節は苦手だった。何よりも、独りをしんしんを感じさせる。
誰もいない広い部屋で、独りぽつんと座っているのが、本当に嫌だった。
例え暖房がついていようとも、乾燥した冷気に煮凝られているような錯覚にまで陥る。
寒さとは、温度のことのみではないのだ。
「うー、寒いね…」
小動物のように身を縮こめて、隣を歩く彼が呟く。
合わせたかのように、びょう、と寒風。
春とはいっても、まだまだ天気は安定しない。
私よりも小柄なこの少年が、そのうち吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほど。
ちら、と、苗木君の視線が、コートのポケットに入れた私の右手に注がれた。
「その…霧切さん、寒くない?」
「…平気よ。だって、手袋をしているもの」
「あ、うん、だよね…」
苦笑いの内に、ほんの少しだけ残念そうな色を見せた彼に、バレないように頬を緩める。
手を繋ぐ口実を探して、再び視線は中空を彷徨い出す。
そんなこじつける理由など探さずとも、ストレートに手を繋ごう、それだけで良いのに。
繋ぎたいのなら、別に拒んだりしないのに。
素直にそう言いだせない彼の奥ゆかしさが可愛くて、わざと意地悪してみたり。
「…でも苗木君、貴方が寒いのなら、手を繋いであげてもいいわ」
「うぇ!?」
案の定、虚を突けば頬を真っ赤にして、小動物のような瞳が見上げてくる。
どうしたものか、と視線があちらこちら。
偶には自分がリードしたい、という可愛らしい男の子心との葛藤だ。
「…どうする?」
思わず緩んだ頬を引き締めて、そっと苗木君の手に指を絡める。
と、躊躇いがちながらも、おずおずと折れた彼の、指もそれに応じた。
「お、お願いします…」
「ええ、よろこんで」
びょう、と再び寒風が、音まで鳴らして吹き荒ぶ。
「……霧切さん、寒くない?」
照れか寒さか、林檎のように頬を染めた苗木君が、上目がちに再び尋ねた。
その気遣いに感謝しつつ、そっと肩を寄せる。
「…大丈夫よ。寒いのは、嫌いじゃないから」
【月は射千】
「…まだ起きてたの?」
窓から差し込む燐光が、薄ぼんやりと彼女の輪郭を浮かび上がらせていた。
「……もともと、夜型なのよ」
「そっか」
僕が寝静まった後も、霧切さんは時々こうして、独り居間で佇んでいる。
何をするでもなく膝を抱えて、まるで暗闇に耐えているかのように、物淋しげな表情でじっとしているのだ。
「隣、いいかな」
ん、と小さく呟いて、霧切さんはソファーを左にずれた。
普段の固く引き締まった印象のコート姿ではなく、下着の上に男物のシャツを羽織っただけ。
ちなみにシャツは僕のもので、少しだけサイズが小さいのか、胸元がはだけ、へそまで裾が届いていない。
シャワーを浴びていたのか、ふわりと花のような果実が、しっとりとした空気に乗って鼻まで届く。
「…それ、僕のシャツ…」
「……」
応えず、罰が悪そうに霧切さんは目を逸らす。イタズラを見咎められた子どものような反応。
酷く、官能的な出で立ちだ。無意識に喉が鳴った。
「…響子さん」
「…誠君」
互いを下の名前で呼ぶ合図は、どちらからともなくだった。
するりとしなやかに白い影が立ち上がって、シャツが背を伝って床に落ちる。
恐ろしいほど綺麗だ。
まるで絵画か、あるいは幽霊に近い美しさ。
色素の薄い彼女を形容するには、白妙、という言葉ではあまりにも強い。
もっと儚く、淡く、それこそ雪や灰のような脆さを含んだ白。
一糸纏わぬ絹布のような背に、銀の髪糸がふわり、と広がる。思わず見惚れてしまう。
「……、…私に露出の気はないわ、誠君」
と、僕の視線に耐えかねたかのように霧切さんが喋り始めたので、染み入るようなしじまが終わった。
「女の子だけを裸に剥いて…自分は寝巻に手もかけないなんて、良い趣味だと思わない?」
やや早口に急かす声。
振り返っても、僕の視線を厭って布や手で隠すことはしない。
堂々と、胸の下で手を組むのみ。
その潔さも、雪のような儚い彼女自身を際立たせる。
僕が言葉を返さないでいると、不満そうに、む、と眉をしかめた。
その仕草が、その実不満ではなく不安なのだと、気付けるようになったのは最近の事だ。
【月は射千玉に】
「…なんとか、言ったらどうかしら」
隠しきれないほど、声はか細く、震えている。
犯人を追いつめる時は驚くほど冷静に、例え挑発されても、凶器を突き付けられても揺るがない。
そんな女の子が、僕の無言の圧に、震えているのだ。
自分には無縁だと思っていた加虐心が、むくりと首をもたげた。
「…苗木君?」
一歩踏み出すと、あからさまに、びくん、と肩を震わせる。
腕を伸ばせば、不安げに腕を胸の前で組む。
その腕を、わざと力強く掴み、ぐい、と引き寄せた。
月は、人の気を狂わせるという。
ならば暗闇に映えた彼女の肢体に、僕もきっとおかしくなってしまったんだろう。
嬌声がひとしきり響き渡った部屋で、今度こそ優しく、彼女の頬を撫でる。
始終緊張で張っていた身体が、そこでようやく力を抜いた。
「…夜になると、……っ、貴方は時々、人が変わるわ…」
荒い息の切れ切れに、恨み事を漏らす。
「……ごめん」
「謝るくらいなら、最初から…、驚かさないでくれない?」
シーツに横たわったまま、すみれ色の瞳がこちらをじっと見上げていた。
しゅるり、と、隙間から伸びてきた手袋に、ぐい、と引き倒される。
とさり、と、二人で向き合うように、ベッドの上に身体を投げ出した。
怖かった、と、ぽそりと呟く。
「……苗木君が、じゃなくて。貴方を拒絶できない自分が、怖いの」
「そうなの?」
「…貴方を見捨てかけた負い目でもあって、貴方に惚れた負い目でもあるわ」
霧切さんが自分の弱みを素直に打ち明けるのは、とても珍しい。
心を許した相手か、心が緩んだ状況か、そのどちらかでしかない、とは彼女自身の言葉だ。
今は、どちらだろうか。
「きっと私は、―――貴方をずっと拒めないのよ」
「…そういうの、僕本人に言っていいの?」
「ええ、信頼しているから」
と、したり顔で微笑みながら、言葉で楔を打つ。
そんなこと言われて易々裏切れるほど神経が太くない、という僕の弱点を良く突いていた。
てっきり情事のみの話だと、僕は思いこんでいて、
「……たぶん、貴方に殺されてもね」
ぞく、と、今度は僕が震えた。
霧切さんの幽玄な出で立ちも相まって、まるで幽霊に囁かれたような心地までした。
月に狂ってしまったのは、僕の方だけではなかったらしい。
最終更新:2013年06月01日 00:46