その日は薄曇りで、日差しは弱いもののただただ蒸し暑いだけの日和だった。神事と聞いて集まった人々は流れ出る汗を拭き拭き開始を待つ。
7月14日。町内、九十九里浜。どこまでも続く長い砂浜と、空を映し暗い色の海。今そこに、7月14日生まれの三者は立ち合っていた。
ひとり。白髪に赤い目の異相の持ち主。お誕生日お祝い人間ver0714。
ひとり。小さな体躯ではあるが、糸を引く粘液が禍々しい奇怪な生物。姦崎成。
ひとり。微かに吹く風に靡かせた長い黒髪と麦わら帽子に清楚な白いワンピースの少女。熱海真夏。
「はじめ!」
老人が声を張り上げる。観客は息を飲む。これはあくまで神事。歓声をみだりに上げることはまかりならぬ。彼らのほとんどは沈黙の誓いを意味する、赤くバツ印の書かれたマスクで口を覆い隠している。異様な光景であった。観客があまりに多いためマスクが間に合わなかった分は、直接口にバツを書いて事なきを得た。
初めに動いたのは、熱海真夏。彼女は身に纏った白いワンピースをその場で脱ぎ捨てた。
沈黙の誓いは開幕破られ、大きな歓声が湧いた。
◆◆◆◆
熱海真夏はパーカーを羽織った白いビキニ水着姿になると、手早く髪を束ねた。健康的なその肢体があらわになる。これは彼女の第二段階にあたるフォーム《楽しい海開き》であり、通常であればこのような早期に見せる姿ではない。だが、彼女は抜かりなく相手の力量を見定めていた。ワンピース姿でバックに泣けるピアノ曲を流して勝てる相手ではないのだ。
特に、あの触手生物。彼女は目を細める。異形である。異端である。何をしてくるか知れない。
彼女は傭兵だ。今回もまた幾ばくかの金銭で契約し、出場を決めた。勝利自体が条件ではないとはいえ、仕事は確実にこなさねば気が済まない。何より、『最強の7月14日生まれ』の響きは甘美であった。
そして、この舞台である。彼女の能力にはもってこいの――。
ここまで僅かコンマ二秒。真夏はターゲットを定めた。
◆◆◆◆
お誕生日お祝い人間ver0714は、まずは手のひらから取り出したケーキをご馳走して二人の7月14日生まれをお祝いしようとし……目を疑った。くすんだ曇りの空が一瞬で晴れ、見る間に入道雲の湧き起こる澄んだ青空へと変化したのだ。海の色も同時に、南国のような透明な青に変わる。
「ねえー! そんなところにいないで、遊ぼ!」
遠くで手を振る、水着姿でポニーテールの少女がいる。対戦相手だ、と理性は理解していた。だが、一瞬だけ。彼はふと思ってしまった。
(ああ、ああいう感じのクラスメイトと臨海学校とかに行けたら、いいなあ……!)
彼はお誕生日お祝い人間であり、7月14日のお誕生日を滞りなくお祝いするため、夏という季節に関するあらゆる知識を身につけ生まれた。だが、目の前に顕現し実感する『夏』は、知識を遥かに凌駕していたのだ。
彼はその瞬間だけ、お誕生日お祝い人間であることを、己の使命と定めを忘れた。彼はひと時、ただのお誕生日お祝いしない人間であった。だが。
「【移動魔術】」
お誕生日お祝い人間ver0714は、突如頭から砂浜に突っ込んだ。
◆◆◆◆
「おっと、やり過ぎちまったか……?」
姦崎成は、少し離れた砂浜、逆さまに突き刺さって何だかビクンビクンと震えているお誕生日お祝い人間ver0714をちらりと見る。見る間に、彼の視界にも晴れた空と青い海が広がった。
「なるほど、そういう能力か……」
独りごちる。黒髪の少女は一生懸命にビーチボールを膨らませようとしていた。
「あれえ、上手くいかない……代わりに膨らませて?」
駆け寄ってきてしゃがみ、ボールを手渡そうとする。上目遣いでお願いしようとしているのだろうが、小さな彼に対しては見下ろさざるを得ず、結果妙な目つきになっていた。
(前に会った女神サマと比べればまあ、顔も体型もそこそこってところだが……少し付き合ってやるか)
「【低級風魔術】」
触手の一本が伸びて空気穴に触れる。と、その瞬間にビーチボールは丸く膨らんだ。
「ええっ!?」
少女はボールと彼を見比べ、一瞬遅れてぱっと顔を輝かせる。
「すごーい! そんなことが出来るんだ!」
恐らく、相手は油断をさせた隙に何らかの攻撃を加えるつもりだったのだろう。
(だが、悪いね。俺は元々体質で幻覚が効かないんだ)
恐らくだ。目論見では、あのビーチボールには彼の発する甘い香りの……媚薬成分が含まれている。それは少しずつ空気に抜け、じわじわとこの水着の少女を蝕んでいくはずだった。
(あーあ、あんまり俺好みのやり方じゃないが、仕方ないよな? 先に仕掛けてきたのはあっちだし……)
「じゃ、やろっか。ビーチバレー。落とした方が負けだよっ」
熱海真夏は太陽のような笑顔を浮かべた。成は答える代わりに触手をくねくねと動かした。
◆◆◆◆
ターゲット変更。未だ真夏は冷静だった。ビーチボールには小さな針が仕込んであり、タイミングを見計らい破裂させることが可能。幸い、相手は術中にいるようであるし、意表をついた瞬間に狩り――夏殺す。
真夏は高くボールを放り投げ、触手目がけ強力なサーブを打とうとした。その瞬間だった。大きな破裂音がその場に鳴り響いた。真夏は思わず力の抜けたボールを投げてしまう。
「な、何!?」
「お誕生日おめでとう!」
それはクラッカーの破裂音だった。地面にはバラバラと紙吹雪が散らばっている。お誕生日お祝い人間ver0714がごく真面目な……心なしか上気した顔で拍手を送った。
「君のお誕生日は今日と聞いている。それで、まずはお誕生日をお祝いさせてもらった」
「ちょ、ちょっと今はタイミングがっ……!」
帰ってきたボールを打ち返す。謎の粘液が纏わり付いていて、手がねちょりとした。
「まだ7月14日だから大丈夫。ハッピーバースデー」
「後にしてくれるかな!!?」
もう一度打ち返そうとした時、妙なことに気づいた。身体が重く、奇妙に熱い。それは夏のわがままな日差しのせいではなく。
お誕生日お祝い人間ver0714はゆっくりと頷いて今度は触手の元に歩いて行く。真夏は重い身体を大きく動かしてボールを叩き、隠れていた針を作動させる。これで次にアタックされた際にボールは割れるはず。何をされたか知らないが、触手になんて絶対負けない、と彼女は息をついた。
◆◆◆◆
成は、相手の動きがわずかに遅くなったのを見届け、小さく頷いた。予想通り、【低級燃焼魔法】の時と同じく、粘液を通してでも魔術は通じるらしい。彼が唱えたのは【低速魔術】。何か狙っているのなら、その目論見を外してやればいい。
「お誕生日……」
「はいはい、後でな!」
ケーキをいそいそと用意したお誕生日お祝い人間ver0714が近づいてくる。彼は触手を振りかぶって、トスを……。
ぱあん、とこれはクラッカーの音ではなかった。ボールが突然弾けて消えたのだ。
「あぶねっ!」
周囲に甘い香りが漂う。ボールの残骸は砂浜に落ちていた。中の空気を吸ったと思しきお誕生日お祝い人間ver0714が再び痙攣を始めた。ケーキは皿を下にして砂浜に無事着地した。
同時に、熱海真夏がわずかに遅いスピードで駆け込んでくる。
(【低速魔術】がなければ危なかったかもしれないが)
成は高速で思考する。そして詠唱。
「【拘束魔術】」
伸びた触手は正確に真夏の脚に巻きつき、動きを封じた。
「ちょっ、やっ、やあっ、触手なんかに、負けないんだからっっ///」
砂浜に転がり、嬌声を上げる真夏。観客が大いに歓声を上げた。彼はやはり悶えているお誕生日お祝い人間ver0714をちらりと見る。あちらは問題なし。【拘束魔術】の効果は、このわずかな魔力量ではごく短時間しか保たないだろう。だが、相手を倒すのには十分な時間だ。
「もっとっ、もっと強く縛ってえっ///」
「お望み通り、やってや……あれ?」
成は移動をしようと脚にあたる触手を動かし……そして違和感に気づいた。身体が重い。【低速魔術】の効果とは違う。人の身であった頃、体調を崩した時のことを思い出す、目眩を伴う重さだった。
新しい己の身体に対して、彼の理解はわずかに足りていなかったと言わざるを得ないであろう。触手生物の本来の生息地は湿った沼地、あるいは地下。本体は表面を覆う粘膜によってか弱くも防護されている。それが夏の高い気温と砂浜のまとわりつく砂によって乾けばどうなるか。最弱の身体の動きは鈍る。彼は、今や自分があらゆる脅威に対して無力と化していることを自覚した。
(まずい……このままでは!)
夏に殺されるか、お誕生日をお祝いされて、終わりだ。
その時、成の中で鎌首をもたげたものがあった。それは日頃彼が人たる理性により少しも意識をしていなかった――触手としての習性、あるいは本能。本能は彼に告げた。生きよ、と。彼の身体は自然にその声に従った。
乾く身体を守るため、陰に……狭く、細い隙間に逃げ込むことを選んだのだ。そう、傍には格好の穴があった。
お誕生日お祝い人間ver0714の、手のひらに開いた穴が。
「えっ」
「えっ」
「えっ」
触手が吸い込まれるようにその穴に飛び込もうとした時、三者が――成自身も含めた三者が同時に驚きを見せた。観客はもはや沈黙の誓いを破り捨て、大きなブーイングを送る。
成は己の咄嗟の動きに戸惑い、お誕生日お祝い人間ver0714は捨て身とも見える動きにどうお祝いすべきか判断が遅れ、未だ拘束され劣情に捕らわれていた真夏は微かにプライドの引き裂かれる音を聞いた。
「や、やめっ、壊れ……!」
「ああっ、お誕生日お祝い人間ver0714の中、ひんやりして気持ちいい!」
「そんな動かれたらっ……!」
みし、と何かがひしゃげる音がした。
◆◆◆◆
お誕生日お祝い人間ver0714は、その時覚悟を決めた。彼は決してこれまでぼんやりとお誕生日をお祝いしていたわけではなかった。お誕生日をお祝いしながらも、敵の能力と動きをじっと、着実に窺っていたのだ。
そうして機会は来た。彼は決めた。己の一部と、お誕生日をお祝いする能力の一部と引き換えに、相手を仕留めることを。
体内プラントから遠距離祝福用お誕生日おめで砲を生産。腕と体内両方から彼を責める苦痛に、お誕生日お祝い人間ver0714はたまらず小さく喘いだ。
生産物を取り出すはずの出口は暴れる粘液まみれの肉の腕により塞がれている。それならば、行き場を失った力の向く方向は。
「っあああああ!!」
ばあん、と一際大きな音が響いた。おめで砲内の火薬が圧に耐えかねて炸裂し、お誕生日お祝い人間ver0714の右腕ごと触手を吹っ飛ばしたのだ。衝撃で宙を舞う触手はその一本を伸ばし、何事かの動きを見せた。
だが、その前に細い腕が成の既にボロ切れと化したローブの端を掴み、つまみ上げる。熱海真夏だ。彼女は全身砂にまみれ、荒い息を吐きながら、今の攻撃で弱まった拘束を引きちぎるようにして立ち上がっていた。
彼女は粘液のほとんど乾きかけた小さな身体をさくさくと砂浜に埋め、上に山を作って小さな旗を立てた。そうして、千切れた右腕の跡を押さえるお誕生日お祝い人間ver0714にむけ、ウィンクしてみせた。
「みんなには、内緒だよっ」
最弱を望んだ元勇者は、その最弱の身体が故に弱り、戦闘不能となったのだった。
◆◆◆◆
ウィンクをした瞬間、熱海真夏の視界はふっと暗くなった。彼女は物陰に走り去り、砂まみれの身体の上に用意してあった白い衣服を素早く纏う。それは朝顔の柄の浴衣だった。第三段階、《夏祭りの夜》、発動。
辺りは夕闇に包まれ、涼しい風が通り抜けていく。遠くからは祭囃子が聞こえていた。真夏は線香花火を手に、緑色のお誕生日液があふれる右腕跡をかばうお誕生日お祝い人間ver0714に笑いかけた。
「ふたりっきりだね」
『夏』が再びこの相手に効くか否かは未知数だ。だが、やるしかない。中高と演劇部で鍛えた演技で、相手の魂を落とすのだ。既に郷愁力は最高値をマークしている。『夏祭りに一緒に遊びに来た同級生』という設定を思い込ませることは可能なはずだった。
「ね、花火やろう!」
お誕生日お祝い人間ver0714は頷き、近づいてきた。よし、『夏』の力は確かだ。乗ったふりをして騙すつもりでいるならば、こちらも油断はしていない。接近戦で捌くのみ。
マッチを取り出そうとしたところ、お誕生日お祝い人間ver0714は残った左手の手のひらから火のついたろうそくを生産し、差し出してきた。ありがたく受け取る。
小さな炎の花が、ぱちぱちと闇に咲いた。
「綺麗……」
「……俺は」
お誕生日お祝い人間ver0714は呟くように言った。その赤い目には、火花のちかちかという光が宿っていた。
「お誕生日をお祝いするために生まれた。それ以上でも以下でもない。だが」
「お誕生日お祝い人間ver0714君?」
何の話をしているのか。同情を買わせるつもりか。真夏は少し背の高いお誕生日お祝い人間ver0714の顔をちらりと見る。
「今は君のおかげでそうでない……昨日と明日のある、ただの人間になれた気がする。ありがとう」
「…………」
失敗だ。真夏は奥歯を噛んだ。この相手には『夏』が通じていない。
「君が同級生でないことはわかっている。でも、一瞬だけ俺は夢が見られた。そして、思った」
線香花火が、ぽとりと落ちた。
「やはり俺はお誕生日お祝い人間でありたいと」
すっ、と真夏の目の前に突きつけられたのは、銀色のフォークだった。ケーキを食べるための食器なのだろうが、十分な武器にもなり得る。
「もっとたくさんやりたいこと、あったんだけどな」
真夏は笑った。その時、空に打ち上げ花火が大きな輪を描いた。遅れて音が響く。
真夏はフォークを握った左腕を蹴り上げた。武器は鋭い金属音を立てて吹っ飛び、砂浜に突き刺さる。開いた胴体に突きを叩き込むが、一歩引かれる。浅い。お誕生日お祝い人間ver0714は再度左腕を伸ばす。受け止め、流す。足払いをかけられる。飛んでかわす。
いくらかの攻防を経て、ふたりはにらみ合った。空には大輪の花がいくつも咲いては流れる。
「お誕生日! おめでとう!」
「見て、花火。すごいね。でも、私は!」
浴衣の裾から白い脚を惜しげもなく覗かせ、回し蹴りを一回、二回。
「さっき君とやった、線香花火の方が好きっ!」
受け止められるが、相手の体勢は崩れる。真夏はその隙を見逃さなかった。懐に飛び込み、もつれ、倒れ込む。左手を掴み、捻り、体重を掛け。
「――――!」
腕がへし折れる鈍い音が響いた。これでもう、お誕生日をお祝いする術はなくなったはず。真夏は目を細める。
「……ハッピーバースデートゥーユー」
そして、苦しげな息の下、聞こえてきた歌に彼女は目を剥いた。傷つき、倒れ、もはや起き上がるのも難しい状態の彼は、確かに歌っていた。
「ハッピーバースデートゥーユー」
彼は、確かにお誕生日お祝い人間だった。腕はなくとも、プレゼントも飾り付けも何もなくとも、最後までお祝いをしようともがき、戦っていた。
「ハッピーバースデーディア――」
花火の音がいくつも空に弾け、その微かな歌声はかき消される。だが、真夏は心で理解していた。彼は7月14日に生まれた全ての人間を、心からお祝いしているのだ。
「ハッピー……」
「ハッピーバースデー、トゥー、ユー」
真夏は最後、そっと歌声を合わせた。まだあの触手の甘い毒が残っていたのかもしれない。お誕生日お祝い人間ver0714が微笑む。彼はその時、お誕生日お祝い人間ver0713のことを……初めて彼のお誕生日をお祝いしてくれた相手のことを思い出していたのだが、真夏には知る由もない。
ただ、歌い終わった時、ケーキのろうそくは吹き消されねばならない。真夏は手刀を振り下ろした。
「ねえ、私ね。お誕生日お祝い人間ver0714君のこと――」
花火の音と、途切れた意識が、その先の言葉を彼に聞かせなかった。
◆◆◆◆
勝者、熱海真夏。観客は何が起こったか判然としないままに大きく盛り上がった。夜の風景は見る間に曇った昼間の海へと変わりゆく。その境目に、彼女は微かに小さな流れ星を見た。彼女が用意した『夏』にはなかったはずの。
「あはは」
真夏は笑う。
「勝者には幸運を、って、これ? これっぽっち?」
彼女は笑い続け――そうしてひとつだけ願い事をした。普段の彼女からすれば、甘すぎる願い事ではあったが。
全ての7月14日生まれに、祝福を。転生をした元勇者に、やがて短い生を終えるはずのお誕生日お祝い人間に、『夏』を運ぶ傭兵に。その他の全ての7月14日生まれの人間に、幸いを。
その願いは、誰にも聞こえないものではあったが――きっと、叶えられるであろう。