プロローグ(松陰 万)
「グラシアス・オリンピアへの参加を申請する」
「…………はい?」
市役所のメガネの職員のもとをその女が訪れたのは、夕方の終業時間直前のことであった。
「えぇ~っと…グロリアス・オリュンピアですか?能力バトル大会の?」
「そうだ。私はぎなた術の強さを世に知らしめねばならない。このグロテスク・オリンピアはその千載一遇の好機だからな」
その女―――松陰 万は、窓口に用意された椅子に座ることなく、腕を組んで立ったまま答えた。
長身の彼女の立ち姿は、その背に負ったおそらく武器の入っているであろう大きな布袋の存在も相まって、座っているメガネの職員からすれば大変な威圧感があった。
それ故に、そのことを彼女に告げるのは、それなりに勇気のいることだった。
「申し訳ありません。うちでは大会のエントリーはできないんですよ」
「……何だと?」
「大会を運営しているのは国や都なんですよ。うちは角兎市の市役所なので…」
「何故できない?ここは役所なんだろう?」
めんどくさいのが来た、とメガネの職員は思った。
このまま応対が長引けば残業が確定する。なんとしても早々にお帰りいただきたかった。
「エントリーは郵送やインターネットでも受け付けているみたいなので、そちらからエントリーしては…」
「なるほど、実力も分からない輩のエントリーを許すわけには行かないというわけだな。たしかに、ぎなた術の知名度は低いからな」
違う。
話を聞いてくれない。
「いいだろう。魔人警備員を連れてこい。一人や二人くらい、常駐しているだろう。私がグルコース・オリンピアに出場するに相応しい実力の持ち主であることを教えてやる」
「いや…そういう訳にも…」
仮にもグロリアス・オリュンピアに出場しようとしている彼女が、魔人警備員を倒してしまう可能性は十分にあった。
戦闘の余波で被害を被り、その上で状況が何も好転しないということも考えられる。
というか、彼女はさっきから一度もグロリアス・オリュンピアを正しく言えていない。
その時である。
「ふざけんじゃねーぞテメェー―っ!!」
隣の窓口から怒号が聞こえてきた。
見れば、いかにもチンピラと言った風貌の男が、隣のメガネの職員を怒鳴りつけていた。
「市では子供が生まれた家庭に一人につき5万円の出産祝い金を給付するんだろ?うちでは百人生まれたから五百万円よこせって言ってるんだよ!」
「で…では出生証明書は…」
「持ってきてねーよ。百人分も書いてたら医者が過労死するじゃねーか!」
「じゃあ、お子様はどちらに…」
「連れてこいっていうのか?百人連れてくるのに交通費いくらかかると思ってんだ!いいからとっとと五百万円よこせ!!」
なんということか。めんどくさいのが一日に二人、しかも二人とも終業時間間際に来るとは。
「口で言っても分かんねえなら…実力行使に出るしかねえなあ!」
そう言うなり、男は自分の口に手を入れ、口内からおそらく毒であろう紫色の泡立つ液体の滴るサーベルを抜き出した。
男も魔人だったのだ。
「なんだ。迷惑な客がいるな」
お前が言うな。
いよいよまずいことになった。
もはや残業どころの話ではない。
男は今にも暴れそうな雰囲気で、毒サーベルで隣の職員のメガネをつついている。
奥に座ったメガネの上司は、パソコンの画面を注視し、我関せずを貫いている。
警備員を呼ぼうにも、到着までには時間がかかるため、それまで男が暴れない保証はない。
何より、警備員を呼んでしまうと、万が戦う口実を与えてしまうことになる。
だが、ここでメガネの職員は閃いた。
「わかりました、あなたの見せてもらいましょう」
「む?」
「あそこのチンピラを倒してください。ただし、殺したりはせず、また、周囲には極力被害を出さないように。それができれば、エントリーを認めましょう」
市役所では大会へのエントリーを受け付けてはいない。だが、大会へのエントリーはインターネットからでも可能だ。
万にチンピラを処理してもらい、その後市役所のパソコンでエントリーを済ませ、穏便にお引き取りいただこうという魂胆だ。
メガネの職員の残業は確定するが、背に腹は変えられない。
「うむ。いいだろう。おい、そこの不届き者」
「あぁ?なんだテメェ?」
万はあっさりと引き受け、男に声をかける。
声をかけられた男はこちらに向き直り、サーベルを向けてきた。
「この役人の計らいで、お前には私のグRRRス・オリンピア出場への礎になってもらう。覚悟しろ」
発音を曖昧にしてごまかすという小細工を弄してきた。
あとこっちにヘイトが向きそうな発言はしないでほしい。
「何だと?外野のくせにしゃしゃり出てくんじゃねーよ!」
男は幸いにもメガネの職員の方には目もくれず、万に向かってサーベルを構え突っ込んできた。
柄を両手で持ち、上段に振りかぶる構えである。サーベルである意味があまりない。
万はすう、と大きく息を吸い込むと、背中の袋から素早く武器を取り出した。
その武器は、メガネの職員も、チンピラの男も見たことのない形状をしていた。
これこそが、平安の世より伝わる武器、武蔵坊弁慶の愛用した『ぎなた』である。
男は万にサーベルを振り下ろす。だが、その動きは万には水中にいるかのようにゆっくりに見えた。
万はぎなたの鉤でサーベルを受け、そこからひねるようにして叩き落とした。
鉤を利用した刀剣相手の立ち回りは、ぎなたの強みだ。
「くそっ!」
男は飛び退いて距離を取った。チンピラにあるまじき判断力である。
「だが…これならどうだ!」
言うなり、男は口から毒の塗られた針を万めがけて吹き出した。
万は不意の攻撃にうろたえることなく、ぎなたについた鎖分銅を振り回し、毒針を弾き飛ばす。
そして、振り回して勢いの付いた分銅を、男に向かって投げつける。
鎖分銅を使った遠距離戦は、ぎなたの得意とする戦い方の一つである。
「ぐはぁっ!?」
分銅は男の腹に命中し、男は腹を抱えて前屈みになる。万はこの隙を見逃さない。
万は素早く男との距離を詰め、男の胴に腕を回す。
そして、ひっくり返すように肩の高さまで持ち上げ、放り捨てるように背中から地面に叩きつけた。
これこそがぎなた術の奥義、ギナタ・ボムである!
万は大きく息を吐くと、呆気にとられているメガネの職員を尻目に、ピクリとも動かなくなった男に歩み寄る。
「ふむ…脈はあるな。多少周囲が汚れたが、まあ被害というほどでもない。さあ、エントリーを認めてもらうぞ」
そう言って、万はメガネの職員に笑いかけるのであった。
「あ、姉ちゃん」
エントリーを済ませ、市役所を出た万を、バイクに乗った青年が迎えた。
「大会のエントリーはできたの?」
「ああ、多少迷惑をかけてしまったがな」
なお、彼女の言う迷惑とは、残業をさせたことであり、それ以外については迷惑をかけたとは微塵も思っていない。
「へぇ、大会の運営は国や都だから市役所じゃできないと思ってたけど」
「世界一を謳う大会だからな。できて当然だろう」
万は受け取ったヘルメットを被りながら、青年の後ろに座る。
「見ていろ。ぎなた術は最強だ。すぐにその事が世に知られることになるだろう」
「はいはい。期待してますよ」
青年も自分のヘルメットを被り、バイクのエンジンをかけ、走り出した。
「そういえば、この前そこの産婦人科で、百つ子が生まれたんだって。未だに書類やらなんやらでてんやわんやだってさ」
「ほう。半分くらいぎなたの道に進んではくれないだろうか」
「一人でも厳しいんじゃねえかな…」
二人の乗ったバイクは、暗くなりゆく町中を駆けていった。