プロローグ(八剱聖一)
東京。
林のように乱立するビルディング。
それらに入っているテナントが、具体的にどのようなものなのか。全てを漏れなく把握している者などいない。そんなことを知らずとも、ビルの下を行き交う人は生きていける。
認識の隙間。
社会の間隙。
斯様なところに悪なるものが潜むのは必然であり。
だからこそ、言い渡されたその仕事に、八剱聖一が疑問を差し挟むことはない。
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「あらまぁ」
行動は迅速にして不断である。
何かのスイッチを後ろ手にアポイントメントの有無を問うてきたツナキワークスの受付嬢を瞬時に殺害した後、ビジネススーツを着込んだ聖一はロックされたドアを破壊し、その女の前に立った。
「殺人の上に押し入り強盗なんて、良くないんやないの?」
ベンチャー企業・ツナキワークスのオフィスには似つかわしくない、和装の女である。日本刀を左手に持ち、右手は既に身体前へ。居合いの構えを隠そうともしない。
「けーさつに捕まってまうよ?」
「かも、しれませんね」
聖一は歩みを止めない。あと数歩で間合いに入る。だから。
「『散り』『襲え』」
聖一が呟くのと同時に空中に現れた、光り輝く睨天鉄(エプシリウム)の無数の鏃は、まるで意志を持つかのように刀の女へと襲いかかった。
「は」
女は刀を抜き放ち、僅かに曲線を描く斬撃軌道でそれらを全て叩き落とす。
「『束なれ』」
武器を振り抜いた瞬間という絶対の隙を撃ち抜くべく、次に襲来するのは聖一本人である。右手に現れた睨天鉄の剣で、亜音速にも至らんという撃突を放つ。
だが。
「ふふ」
「『鎧え』」
それは狙われた女の心臓には届かない。左手にあったはずの鞘が宙をぬるりと伸び滑り、剣を迎え阻んでいた。
静止した刹那を斬り裂くべく、女の刀が振り下ろされる。聖一は左手の甲でそれを受けた。無論、無防備ではない。そこにはやはり、睨天鉄で編まれた光り輝く籠手がある。
「『立て』」
聖一の足下が蠢く。己の直感に身を委ねた女が背後へ飛ぶと、その瞬間、聖一の靴先から六本もの槍が伸び、先ほどまで女がいた空間を串刺した。
「『襲え』」
攻勢は止まらない。床から生えた槍はトビウオのように跳ね飛ぶと、そのまま宙を滑って次々女へと襲いかかった。女は防ぐ。続いて最初と同じ、鏃の雨。これも防ぐ。
「……やりますね」
「嫌やねえ。あんなに激しくしておいて、うちに受けばっかりさせて、そない涼しい顔」
女は汗一つ流さず、流麗に笑う。その名を御風 御桜。防御能力『貴人に刺客・刺客に近衛』を持つ戦闘魔人である。
「そのキラキラした能力、『墜放騎士』の八剱はんね?」
「だとしたら?」
「別にぃ。いよいよ目ーつけられてしもたんやな、って思うだけや。……どお? うちの社長なら、今の報酬の2倍は出しますえ?」
「雇い主は裏切らないと決めている。次がなくなるからな」
「ああ、そう。今は国のお使いやったやろか。いい首輪でんなあ?」
御桜は抜いた刀を両手で下に構えた。その身に着けた鞘が、扇子が、簪が、能力によって自動し、防御の構えを取る。
「わんわんやろう何やろうと、ここは通しません。それがうちの役目さかい。お覚悟、できてます?」
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八剱 聖一――
弱冠25歳ながら、日本でも有数の戦闘力を持つ魔人の一人であると呼び声高い男。
彼は御風 御桜の語った通り、正義の味方の請負人である。持ちかけられた仕事の正当性と報酬により、あらゆる場所でその力は振るわれる。
『墜放騎士の栄光』。
大地――地球からその力を吸い上げ、天空の未解明金属、睨天鉄(エプシリウム)を生成し、操る魔人能力。
その経緯にはエプシロン王国が深く関与していると推測されたが、聖一はそんなものに興味はなかった。
己の力を活かし、戦い、勝つ。勝ち、勝ち、勝ち続ける。
すべては、ただ一つの目的のために。
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御桜を斬殺した聖一を次に襲ったのは、銃声だった。
「『鎧え』!」
銃弾の到達と聖一の命令。速いのは前者だ。だから聖一は手近の障害物――デスクの影に屈み隠れながら、自身を睨天鉱の鎧で覆った。
銃声は雨のように降り注ぐ。フルオート機能のあるアサルトライフルだろう。つまりいずれは連射が途切れる時が来る――来た。
「とわーっ!」
その瞬間、チャイナドレスの小柄な少女がデスクを吹き飛ばしながら聖一の元へと突っ込んできた。手にした剣でデスクを斬撃しつつ応戦する。少女は勝ち気な笑みで片足を上げ、奇妙な拳の構えを取った。
「わたしは怜峰(レイホウ)! 宿飯の恩義によりツナキワークスを守衛する魔人侠客であるからして!」
「ご丁寧にありがとうございます。とはいえ生憎、名乗りに名乗りを返すなどという風習は100年以上前に廃れ、て!」
再度の銃声である。聖一は反射で身を引き、壁の影に隠れた。怜峰は聖一へと迫る。降りかかる弾丸を意にも介さずに。
「……なるほど」
「そう! わたしの『水鳥鳴鴉乗(みずどりからすのなくにのり)』は、飛び道具を透過する! わたしのkung fuならあんなものに、当たらない!」
「『束なれ』」
しなやかに振るわれる拳撃に、生成した剣を合わせる。速度だけ見れば怜峰が速い。その差を埋めるのは剣捌きだ。軸を少し揺らすだけで、彼女の拳には刃が掠れる可能性が生まれる。たとえ掠り傷であろうと、主武器たる拳に走るものであれば看過し難い。
だがこの場は一対一の決闘場ではない。オフィスに似つかわしくない銃声が、人を傷つけるためだけに生まれた銃弾が、常に聖一を脅かす。
(この状況を打開するには……)
「ほら、どう、どう! とっととシッポを丸くして帰りなさい! さもないと――死んじゃうんだから!」
剣への打撃を肩まで伝わる振動で感じながら、聖一は怜峰の攻勢を凌ぎ続ける。確かにその打撃、胸や首に入ればただでは済むまい。全てが渾身。
「『解けよ』」
だからこそ、それが最大の隙と見た。
「え」
突き出した拳が空を切る。一直線に放たれたそれは、無数のワイヤーのように崩れた剣を抜け、聖一に向かう。彼は大きく身を捩り、それを躱す。もしもこれが単なる白兵戦中だったとすれば、聖一は次の攻撃に対応できず、怜峰の前に膝を着いていただろう。
だが違う。
「『絡め』」
「……ッ!」
突き出された腕に、解けた剣が力強く絡みついた。逃れようと拳を引くが、鋭利なワイヤーがその腕を傷つける。
「痛っ」
怜峰は攻防に優れた戦闘型魔人である。それが単なるワイヤーであれば、声を上げて躊躇するほどの痛みなど感じなかっただろう。しかしそれは睨天鉄。『墜放騎士の栄光』により編まれた、特異なるものを殺す鉄。
そして、その瞬間が致命となる。
「『束なれ』!」
「あがッ!?」
絡まったワイヤーが、再び一つの剣となった。その隙間に怜峰の腕を巻き込みながら。
「ぐう、ぅ、うぅぅっ!」
痛みに歯を食い縛りながら、それでも強靱な意志で己が右腕を剣から引き抜く。少女の血肉混じりの剣を聖一は冷徹に突き出すが、飛び退いた怜峰は後方からの銃撃援護にも助けられて追撃を免れた――
「『届け』」
怜峰がそう安心できたのは一瞬のことである。聖一の刺突は、ただ突き出すだけで終わりではなかった。剣身が、伸びる。まるで空中に線を引くように。
アンバランスな剣だ。怜峰が健在であれば難なく対処できただろう。しかし彼女は右手を失ったばかりであり、痛みと動揺の最中にいた。
そういう瞬間を狙ったのだ。
「あが」
心臓、やや上を突き抜ける。
「『咲け』」
それが決着の一言。伸びた剣の先端は全方角に花開き、怜峰の左胸上を吹き飛ばした。
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七比良 朱梨――
聖一の幼馴染みであり、犠牲者。
八剱 聖一の魔人能力は、外的要因によって覚醒した――と、思われている。
修学旅行の自由時間に見つけた、奇妙な『顔』。
興味本位で聖一がその目を開いた途端、彼は途方もない怨嗟と力をその身体に叩き込まれた。
苦しみ悶える聖一を助けようと手を伸ばした朱梨が、怨嗟だけを身に受けた。
そして残ったものが、力と呪い。
八剱 聖一は無双の力を得て、七比良 朱梨は無二の呪いを受けた。
両足は完全に麻痺し、指先は慢性的に痙攣し、光は失われ、高音は吐き気をもたらすほどの頭痛因となり、日光への耐性を失い、それでいて夜は死体のように眠り耽った。
女性としての機能は悉く失われ、成長も止まった。そして日々、新たな苦痛を与え続けられる。
せめてもの慰みにと、季節の花々で埋め尽くされた病室。
そこだけが朱梨の世界であり、朱梨の全てである。
……彼女の人生を取り戻す。
彼の身と彼の力は、ただそのためだけにある。
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「……殺すのですか」
怜峰の後ろにいた銃手も殺した聖一にそう言ったのは、社長室の前に立っていた長い黒髪の女であった。巫女然とした紅白の装束の通り、落ち着きのある神秘的な姿だ。
「私はあなたに、何もするつもりはありません」
「敵対魔人のそんな言葉を信用できるほど、俺も無垢じゃあないですよ。それに、皆殺しは雇い主の意向だ」
「他人の意志に、殺人の罪を託すのですか?」
「朱梨みたいなことを言う」
振るった剣で、女の黒髪がぱさりと散った。遅れてその首が転げて落ちる。
「罪とか罰とか、そういうものは死後の楽しみに取っておくと決めてましてね」
しかし彼が社長室に踏み込んだ瞬間、異変が起きた。
「……これは」
「ミユイ君の『今生呪詛』を受けたね」
社長室で待っていた、禿げ上がった中年男性――ツナキワークス社長、綱紀 権(つなき ごん)が、拳銃を抜きながら言った。
「己を殺した者から、戦いの力を奪う魔人能力だ。慎重な皆殺しが仇となったな」
「『鎧え』……」
咄嗟に床から大地の活力を吸い上げ、呟く。聖一の足下が不自然なくらいに煤け、僅かばかりの睨天鉄の膜が生まれるが、それ以上のものは生まれない。ここは都会のビルの上階である。大地の活力など得られようがない。
「さらばだ」
綱紀が引き金を引くと、銃口から衝撃弾が放たれた。聖一は目を見張る。それはおぞましき生体拳銃、サンプル花子ガン! 全長5cmほどにカスタマイズされたサンプル花子を潰し殺し、断末魔の怨念で衝撃弾を放つ非道兵器である。
聖一は身を低くして駆けた。綱紀が笑う。
「そんなことをしようと……グッ!?」
綱紀は声を上げて拳銃を取り落とした。その手の甲にはナイフが突き刺さっている。
「なっ……力は確かに、削いで!」
「それはただのナイフです。市販品ですよ。当然、こういうものだって持ち歩きます」
聖一の口調には少しの焦りもなかった。綱紀がその姿を見る。
「ば……」
刹那。聖一は社長室に飾られていた小鉢を倒し、そこの土から大地の活力を引き出していた。
彼は氷のような表情と口調で、告げる。
「『貫け』」
「八剱です。終わりました。約束は……ええ。速いほうが良い。はい……」
その口元に、今日初めての笑みが浮かぶ。
「では早速、今夜に」
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深夜。
七比良 朱梨の病室に降り注ぐ月光が、色とりどりの花々の最中で眠る彼女を照らす。幸いなことに、今夜の彼女はうなされていなかった。
聖一はその唇を指先で開き、一つ白い錠剤を舌へ乗せる。そして、甘ったるい香りの液体を流し込んだ。
「……どうです?」
聖一が問うと、ベッドの傍らで測定モニタを見ていた医者の顔色が変わる。
「た、確かに……バイタル値が上昇! 心拍数も落ち着いて……悪性細胞値が、まさかほんの10秒で、1%も……!?」
「…………」
それは、この地球上の科学的常識において、決してあり得ない現象だった。エプシロン王国の『秘薬』のもたらす、天上の奇跡である。
しかし。
「……死者すら癒すこれでも、か」
「ええ」
僅かに落胆する聖一と、無面目で頷く神官風の女性。彼女はエプシロン王国よりの使徒であり、今朝の殺戮の『報酬』――大会で使用される秘薬のサンプルの、政府を介した横流し。その責任者でもあった。
「やはりその『死よりも重い呪い』は、地上における尋常のそれではありません。間違いなく、エプシロン王国に由来するものです」
「でしょうね」
不思議には思わなかった。『墜放騎士の栄光』により生み出される睨天鉄と、エプシロン王国の関係性を鑑みれば、当然の可能性である。
「しかもその呪い自体、かなり強力なものです。我らとしても古文書を紐解かなければなりませんね」
「慈善でそうしてくれるんです?」
「……そうは参りません」
女性は変わらず無面目である。聖一も、自分はきっと同じ表情をしているな、と思った。
「解呪の儀式は、呪いの拡散と紙一重です。エプシロン王国としても、記録定かでない呪詛への対処など、そう簡単に約束することはできません」
「しかし、不可能ではない」
たとえば、そう。グロリアス・オリュンピアで優勝し、王女へそれを願えば。
「あなたのお考えは分かります。ですが、神官として一つ忠告をさせてください」
無面目の女性は穏やかな寝息すら立て始めた朱梨を見た。表情が変わらずとも、その胸中には思う所があるのだろう、と聖一は推測する。
「はっきり言って、現状のこの娘は……いつ死んでもおかしくはない」
「……死、ですか」
「あなたたちの技術で計測すれば、確かに以前と変わらないかもしれないでしょう。ですが、我らには分かりますこの娘は、当に死の境界を乗り越えて、今ここに生きている。その力がいつ尽きるかは分かりません」
「それでは、どうすればよろしいでしょう?」
「残念ながら、地上の技術では到底彼女を癒すことはできないでしょう。魔人能力ですら、怪しいものです。唯一手段があるとすれば……」
「イプシロン王国の医療技術」
それこそ、大会で供給される、秘薬のような。
「……フフ」
聖一は笑った。無面目の女性が聖一を見る。
「何を」
「朱梨を助けることが、ここにきてようやく、可能だと実感できた。だから笑ったのです」
心底からの笑みだった。
次から次へと、駄目元で新たな技術・新たな能力に縋る日々は、いよいよ終わりを告げようとしている。
朱梨の人生の取り戻される瞬間が、見えた。
「ええ。良いでしょう。俺は最善の手を打ちますよ」
八剱 聖一の言葉に、行いに、一切の迷いはない。
「出場者に供給される、治療の秘薬……それを全て朱梨に与えた上で、優勝します」
可能か、不可能か。
そんな判断基準すら、埒外である。
八剱 聖一はその実行を決断した。