プロローグ(則本 英雄)
東京都の外れ――廃工場。
そびえる巨大な製造機は既に停止し、人の出入りもなく、錆の匂いの充満するそこに、今は数人の人影があった。
1人は女性。猿轡を噛まされた状態で壁に縛り付けられている。何らかの抵抗があったのか、その衣服は既に傷だらけだ。その上、彼女の額には割れているような傷があり、そこからはおびただしいほどの血液が流れ続けている。傷の様子から考えても、出来て数分しか経っていない。そればかりか、彼女の左腕は肩のあたりにある別の傷から噴き出た血で濡れ、滴を垂らし続けてさえいる。
――簡単に言えば、手負いの状態だ。現代ではそうそうある事ではない。
そして、その周囲には覆面を被った青年たちが数十人。それぞれ各々、思い思いの武器を持ち、周囲を警戒しているようだ。
「――とっとと起きろ。寝てたら人質の証明にならねぇだろうがよ」
覆面の青年の1人――唯一フードを被った青年が、女性の顎部を掴み、引き上げる形で上を向かせる。女性の額から流れ出た血が、青年の長い袖を紅く染めるのも御構い無しだ。
だが女性の方は既に目に覇気は殆どなく、朦朧とした意識の中でボンヤリと男を見つめているだけだ。
「ハッ、ざまあねえなァ? 首相直属運転手、兼ボディーガードの内藤さんよォ」
男が腰のホルダーに挿していたナイフを引き抜きながら、下卑た笑いを浮かべる。
その言葉に、縛られている女性――内藤芳佳は、ぎりりと歯を軋ませる。
――迂闊だった。1人の暴漢に対しての護身術は身につけていたが、そんなものでは、一対多にはどうしようもない。そのくらい、思考に入れておくべきだった。
「……っ、こんなことをしても、何も利益は――」
「利益がねぇだぁ? ざぁんねぇん、それを決めるのはアンタじゃあねぇぜ?」
ひたり、とナイフを内藤の首筋に当てる男。
もはや、反撃の手段は内藤には残っていない。両手は完全に固定され、足も縛りつけられている。このままナイフに力を入れられれば、この細い首などすぐに跳ね飛ばされてしまうだろう。
クスリクスリ、と周囲から笑うような声が漏れる。
「あの首相のお気に入り、ともなりゃあ相当目もかけられてるんだろうなァ……ヒヒッ、揺さぶる人質としちゃあ好条件ってワケだ」
「そんなことは――ッ!?」
「――喋るんじゃねぇ。俺が今喋ってんだ」
ぐぃ、とナイフに力が入り、当てられた首筋が少し凹む。――刃は刺さってさえいないが、これ以上怒らせるのは危険だ。
内藤が口を噤んだのを見て、男が再び喋り出す。
「ッハハハァ。いつもならアンタの主さんが来るところだろうがなァ……アンタの主さんは今、天空城のお姫様とお空の上で会談中――助けに来る訳ねえぜ?」
苦虫を噛み潰したような顔で、内藤は男を睨みつける。
――確かに今、首相はエプシロン王国にて、グロリアス・オリュンピアに関する会談を行なっている真っ最中。そんな国家としても大事な会談をほっぽり出して、ここに来る訳がない。かといって、他に助けに来るような人間も思い当たらない。
「さぁて。首相官邸にでも脅しの電話を――」
――その瞬間だった。
「内藤ォォォォッ!! 無事かァァッ!!」
廃工場の天井が蹴破られ、何かが工場内に落下――屋内に盛大に砂埃が舞う。
蹴破られた天井はひしゃげ、地面ににめり込む形で凹みを作っている。
突然の出来事に、目を丸くして立ち尽くす男達。
そして、穴の空いた屋根から漏れる光。その中心に立っていたのは。
「……っ!? ……総……理っ!? 王女との会談は――」
「秋元副総理に任せて抜けてきた! まったく、手間をかけさせてくれるな、君は!」
そこにいたのは、スーツ姿の頑強な1人の男――第102代日本国総理大臣、則本英雄であった。
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「ふふふ……面白い方なんですね、あの方は。まさか、生身のまま飛び降りるだなんて」
「お褒めに預かり光栄です――いやはや、もう少し総理としての責任感あたりも持っていただきたいところですがねぇ……」
「そうですか? 私は好きですよ。国も恋人も守る、いい響きじゃありませんか」
ふふふ、と笑うのは王女――フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン。稀代の能力バトル好きとして知られ、グロリアス・オリュンピア開催の最大スポンサーだ。
そして、その向かい側に座っているのは、日本国副総理――秋元泰弘。則本総理に「用事が出来た!後は頼む!」と言われて急に王女との対談に臨むことになった、不幸な男である。
「恋人、ならまだカッコがつくのですがねぇ」
「おや、違うのですか?」
「内藤君――今総理が助けに向かった総理のお抱え運転手のことですが――と総理は奇妙な縁があるといいますか。今こういう状況になっているのも、元々は内藤君の父上と総理の約束が所以らしいのです……」
申し訳なさそうに呟く副総理。
――それ以上のことは知らないが、そこまでは知っている。約束の内容に興味がなかったというのもあるが、それについて総理に尋ねたことはなかったのだ。他人に説明する機会があると知っていたなら、もう少し詳しく聞いたのだが。
「そう、ですか。なら、私自身で次の機会に尋ねてみることに致しましょう。――それでは、本題の方に移りましょうか」
「おっと、そうでした。……首相の、グロリアス・オリュンピア参加要望の件でしたね」
「ええ。一国の長にして魔人――私、興味がありますの」
王女が、無垢な笑顔を浮かべる。
その笑顔の裏に何があるのか――秋元には、知る由もなかった。
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「チィッ……来やがったか。まあいい、手間が省けた。やっちまうぞ野郎共ォ!」
内藤の側にいたリーダー格らしき男が叫ぶ――と同時に、周囲の男達も呼応し、其々が各々の持つ武器を構える。模造刀、鉄骨、鉄パイプ、丸太、ナックルダスター。どれもこれも、玩具などではない。本気の殺傷用の道具である。
だが、それを見ても則本にたじろぐ様子はなく、また依然として、堂々たる構えを崩すことはない。
「投降するつもりはないときたか……ならば、仕方ない」
則本が拳を強く握り込む。
周囲の男達が、一斉に則本に飛びかかる。
そして、ありとあらゆる武装が則本に向けて振り下ろされ――
「――むうんッ!!」
ブゥン、という音と共に、則本が拳を振るう――周囲にいた男達が、問答無用で吹き飛ばされ、工場の壁に打ち付けられた。
それを見たリーダー格の男が、驚きの声をあげる。
「なッ……!? たかだか発勁で衝撃波だと!? ふざけるな……ッ!」
「おや、見えているとは。なかなかいい動体視力だ」
そう語りかけながら、則本は膝を少し曲げ、屈み込む。
「ハッ、クソが。てめえに褒められても嬉しくなんか――ッ!?」
男の視界から則本の姿が消える――刹那、腹部に激しい衝撃。
「――だが、警戒心が足りんな!」
則本の鉄拳が、男の腹部にめり込むようにして命中する。
一度ではない。二度。三度。あるいは四度以上か。もはやそこは男には把握することはできない。――判ったのはただ、『鉄塊をぶつけられたかのような痛み』のみ。
「がぁ……ッ!?」
「まだまだッ!!」
則本が放った殴打が、めきゃり、と音を立てて男の顔面にめり込む。まともに攻撃を喰らった男はそのまま吹き飛び、頭からコンクリートの壁にめり込んだ。
ふぅ、と則本が息を吐く。
「片付いた、か……おっと、内藤! 無事か!」
「えぇ、はぁ、大……丈夫です……」
縛られ、血を流しながらも、内藤は返事を返す。先程まで掠れかけていた意識は、目の前で則本の一方的な蹂躙を見たせいか、既にハッキリとしていた。
それ故に、見えてしまった。
壁にめり込んだ男が、焦点の合わない目をぐりぐりと動かしながら、息を吹き返した死体のように動き出すのが。
「――っ、総理! 後ろです!」
「何ッ!?」
則本が踵を返し、拳を構える。
その瞳には、先程吹き飛ばした男がゆらりと立ち上がるのが映っている。まるで、ゾンビか何かのように。
「魔人……か!」
「ッハハァ、御名答ォ……一撃で葬ったつもりだろうが、そうは問屋が卸さねえってもんだ」
男がフードを外し、歪んだ顔でニヤリと笑みを浮かべる。
――則本には、その顔に見覚えがあった。
「坂……城……か?」
「おぉおぉ、覚えてやがったか。嬉しいねぇ、オレのことなんか忘れてると思ってたが」
ニィ、と笑うフードの男――坂城零。
「高校の頃ぶりかねぇ、アンタと会うのは。ま、接点なんてなかったけどなァ」
「坂城……」
「おっと。回想タイム中だぜ、邪魔すんじゃねぇ……そうさな、ありゃ懐かしい思い出だ」
坂城が、ポツリポツリと呟くように語り出す。
「オレは昔から一人だった。小さい頃から魔人ってだけで疎まれて、蔑まれて、失望された。……苦しかったさ、ずっと。誰も理解してくれやしない、理解しようともしない。だから諦めてたんだよ、オレは。魔人ってのはこういう存在だ、この能力は生まれ持った呪いなんだ、ってな」
「…………」
「だがな。高校で初めてお前を見た時、オレは心底驚いたよ。……魔人にもかかわらず、人と普通に関わり、それどころか尊敬され、みんなの中心にいるアンタを見て」
ぎりり、と歯を軋ませ、怒りの形相を露わにする坂城。
その顔に浮かぶのは、憎悪。憎いという悪の感情。あの頃から変わらぬ、殺意。
「羨ましかった。その居場所が、その人権が、その笑顔が! ……オレにとって、命をかけてでも欲しかったものを……お前は何の苦労もせずに得ていた。お前のその居場所こそが、オレが最も渇望していたものだった! お前に分かるか、この気持ちが! 自分が欲しがっていたものは、お前にとって当然のものだったという事実を知った気持ちが!」
「坂城……」
「……いや、アンタにゃ分からねえ。分かってほしくもねえ。ぬるま湯で育ったお前に、地獄の苦しみを理解できるわけがねぇんだ。お前はあの時、オレを救おうともしないで、ずっと自分の居場所を守ってただけなんだからなァ!」
坂城の慟哭が、廃工場内に響き渡る。
「だから。オレはお前を殺す。殺して、お前のその居場所を奪う。……そこの運転手なんかにゃ、もとより興味はねえ。お前を殺すための作戦の材料だっただけだ」
「……坂城。私を殺したからといって、私の居場所に君が居られるわけでは――」
「うるせえ。ンなことは分かってんだ……だがなァ! だが……もう戻れねぇんだよ……これ以上、退がることはできねぇんだ……分かってくれ、則本……」
「坂城……」
男――坂城零は、纏った憎悪をさらに激しく燃やす。
「……これ以上話すことはねぇ。終わりにしよう。《不死皇帝》ッ!」
燃え盛る憎悪が形を成し、影のような漆黒が坂城を覆っていく。
――《不死皇帝》。それは、その名の如く、自らを不死存在へと変貌させる魔人能力。その『不死存在』の概念は多様であり、吸血鬼の肉体的強度や屍人のような痛覚遮断能力など、あらゆる存在の利点を内包する。逆に言えば、それらから受けたフィードバックによって食人衝動や吸血衝動が起こる、諸刃の剣だ。
「俺のために死ね――則本ォッ!!」
坂城が、則本に向かって跳躍する。その掌の中には、先程までのナイフではなく、吸血鬼の特性である血液操作能力を用い、血によって形成された片刃の剣が握られている。
――ブラッドウェポン。失血死しない不死存在であるからこそ可能な戦術だ。
その血の刃が、則本へと振り下ろされる。
「ぬぅ……っ!」
金属の衝突音めいた音が、工場内に響く。ぶつかり合っているのは、血の刃と、則本の腕。
そう、肉体硬化。則本の能力は、自らの肉体を金属をも凌駕する硬度まで練り上げる。
一言で例えるならば――人間要塞だ。
「チィッ、硬ぇな……クソがッ!」
「当然だ! これでも国を背負う者、この程度で傷ついていられるかっ!」
腕を大きく振り、坂城を血剣ごと遠くへと放る則本。
投げられた坂城はくるり、と空中で体勢を整え、着地。お互い、傷はついていない。
「……坂城。私が総理になった理由を教えよう」
「黙れ。結構だ。アンタの戯言を聞く気はねえ」
坂城が刃を則本に向ける。だが、則本が話すのを止める様子はない。
「私は、昔から人に囲まれて育った。皆が皆、私に優しくしてくれた。私自身、それが当たり前の事として育ったよ」
「あぁ、そうさ。アンタはそうやって自分の価値観だけで人を見てきた!」
「……そうだ。少なくとも、高校に入るまではな」
則本が、据えた目で坂城を見つめる。
「私は、君を見て知った。魔人の現状を。虐げられている者たちを。そこで私は思った。私の今の立ち位置さえあれば、そういう魔人をなくせるのではないか、と」
「何……ッ!?」
「そうだ。魔人でありながら虐げられていない私であれば。人気を獲得できる可能性のある私であれば。国政に出て、国を直接変えられるかもしれない。魔人への差別を、根本から断つことができるかもしれない。だから私は努力した。人一倍努力した。だからこそ……私はここにいるのだ」
「今回のグロリアス・オリュンピア開催もそうだ。丁度いい機会だった。世間に魔人をより身近な存在とするために――魔人であることを不可変な個性として、認めてもらえるようにするための催しを開催するにはな」
「ッ――!」
「まだ結果は分からない。これでどうなるかは、この催しが成功するか否かにかかっている。……だから私は、ここで死ぬわけにはいかないのだよ」
話し終えると、拳を構える則本。来るならば来い、と言いたいらしい。
だが、坂城が飛びかかっていく様子はない。苦虫を噛み潰したような顔で、則本を睨みつけている。
「チッ……あー、クソが。興が削がれちまった。だーからそういうのは嫌ェなんだよ、オレは」
能力を解除し、武器を納める坂城。目線を則本から逸らし、俯く。
「今日は撤退だ。じゃあな、則本」
「坂城……?」
「勘違いするんじゃねぇ。今はお前の能力への対抗策がない。だからこその撤退だ」
坂城がコートを翻す――と、身体が蝙蝠の集団へと変化する。当然、能力によるものだ。
『……準備が整ったらまた襲いに行ってやる。覚悟してろ』
捨て台詞を残し、破れた窓から飛び去る蝙蝠たち。
――そして、訪れる静寂。
「坂城――おっと、しまった! 内藤ッ! まだ生きてるか!」
「えぇ、はい……なんとか」
ハッとしたような風の則本の呼び掛けに、頭部からだらだらと血を流したままの内藤が応える。笑みを浮かべてはいるが、放置していい状況ではあるまい。
則本は慌てて縛られていた内藤のもとへと駆け寄り、縄をほどきにかかる。
「……ここの後処理は警察に任せて、ひとまずは病院に行こう」
「警察に?」
「あぁ。既に情報は回してある――っと、よし、外れたな」
一通りの縄を外し、内藤に背を向けてしゃがむ則本。どうやら、病院まで背負って行く、と言いたいようだ。
「……ありがとう、ございます」
内藤が則本の背中に覆い被さるようにして手を前に回し、そのまま則本が立ち上がる。がっしりした体型だけあって、抜群の安定感だ。
「ところで総理、今日の会談はどうするんです?」
「あぁ、そうだったな――その件で、一つ話しておくべきことがある」
「話しておくべきこと、ですか」
きょとん、とした顔の内藤。このタイミングで話すことについて、彼女には心当たりがない。
「何ですか、それ」
「うむ、そこまで重要というほどでもないが――グロリアス・オリュンピアに出場しようと思ってな」
えっ。マジですか総理。バカじゃないですか。――とは流石に言えず、驚いたような顔のまま、背中の上で固まる内藤。だが、それを知ってか知らずか、則本はそのまま喋り続ける。
「王女からの直々の要請でね。スポンサーを任されてくれる代わりに、私が出場してくれと」
「そう……ですか」
「ああ。もし優勝できたなら、願いを王女に聞いてもらえる権利を使って、魔人差別撤廃に向けての政策を、王国にサポートしてもらえるよう頼んでみようと思っている」
爽やかな、笑顔。その顔に裏などない。これが、則本英雄という男だ。
そして――こういう人間だからこそ、人は彼を好きになるのかもしれない。
結局その後、病院に彼女を送り届けて副総理と合流した則本は、勝手に何処かへ行ってしまった件について彼にめちゃくちゃ愚痴られたのだが――それはまた、別の話。