プロローグ(ファイヤーラッコ)


「ハァーーー……」

喧騒の中に、男が一人。
光を反射してしぶく波。
水着の男女の戯れるさまを見下ろして。

「YouTuberになりたい……」

ひとりの男が、溜息を吐いた。
2m近いであろう巨躯。
上半身はみっしりと体毛で覆われ、その頭部は最早人のそれではなく――

――ラッコであった。


ここは全天候型屋内ウォーターレジャーランド「グレートプール島原」。
高度20mを滑り降りるウォータースライダーを目玉とし、流れるプールに特に流れないプール、あと浜辺と……屋台とかと……あと……とにかくいろいろなものがある一大リゾートである。

そして、ラッコの彼はこの施設の監視員だ。アルバイトだ。
この仕事に大それた思い入れなどあるまいが、ずるずると勤め続け何年になるだろうか。
まあしかし、そうは言ってもだ。

例えば、ファミレス。これはダメだ。彼のラッコボディは毛が多すぎる。
如何に清潔にしていようが、周囲の理解など得られまい。
『衛生上問題がある』と、厨房どころかフロアにいることも認められないのだ。

例えば、工場。ならばこれだってダメだ。彼のラッコボディは毛が多すぎる。
衛生帽子どころの騒ぎではない。製品に毛が混じってはクレーム沙汰だ。

例えば、交通整理員。冬とか雨の時たいへんそうなのでダメだ。

どうだろうか。残念なことに、世の中はラッコが生きるための整備が未だ進んでいない。
その結果行き着いたのがプールの監視員……そう、ラッコイメージがプラスに働き得る希少な職種であった。

ただ、それはそれとして。

「YouTuberになりたい……」

彼は、元来働きたくない男だった。


「あー! あんなところにラッコがいるぞ!」
「墜とせ! 墜とせーっ!」
「一斉射! てーーッ!!」

目をやれば、数名のクソガキがビート板を振りかぶっている。
『良識など目の前のラッコ怪人に比べれば些事』……そんな無邪気さで目を輝かせ、ああ、ほら。
投げた。

「ボッ、ボアアーーーッ!! やめっ……やめろ!! 散れクソガキどもーっ!!」
「わー!! ラッコがキレたー!!」

蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってゆくクソガキたち。
最近のプールサイドを滑りにくくした功労者は誰だ。
そんなことを考えながら、ラッコの男は恨めしげに呼吸を整える。

「はー。こんな、こんなのは間違ってる……労働は呪い…」

愚痴は止まらない。

「俺はなあ……俺はラッコなんだぞ……」

彼はラッコなのだ。

「あー! こんななー! こんな時になー! 5億円が手に入ればなー!」

そう、5億円さえ手に入れば。
その言葉に如何程の意味が込められていたか。
ともあれ、奇異なことは起こるべくして起こるものであり。
その瞬間、施設の巨大スクリーンには国営放送による速報が表示されていた。

「国を挙げて勝った人に5億円をあげるトーナメントをやるよ! すごい!」

「すごい!!!!」

そう! とてもすごい!

「5億円……そう、5億円さえあれば、も、ものが買える! どんなに高価な機材だって買える! すごい……ということは、5億円さえあれば、YouTuber……大物YouTuberになって、楽してガッポガッポ儲かって、遊んで暮らせるということ……! つまりもう働かなくてよい……すごいことだぞ!! これは!!」

なんとすごいのだろう!!

「なんかこう……スポンサーから送られてくる新商品を開封したり! あとはゲームしてお金が貰える……それがYouTuber!!!」

夢みたい!!!!

「どうしたら……どうしたら一般参加ができるのか!」

そこへ現れる、謎の黒服の男!!!

「フハハ! 私の名前はトーナメント運営の一部太郎!」

彼の名前はトーナメント運営の一部太郎!!!

「まさか……もしかして、アンタはトーナメント運営の一部で、倒したらトーナメントに参加させてくれるってことなのか!? この俺……ファイヤーラッコを!?」
「そうだ……私はトーナメント運営の一部で、倒したらトーナメントに参加させてやろう! 未来の優勝者……君の名はファイヤーラッコと言うのだな!!」

うわーすごい!!! すごいすごーい!!!

「そうだ!! 俺はファイヤーラッコ!! 炎を操る……ラッコのような姿の男だ!!」

その時、ここにいる誰もが理解した!

こっちの男がトーナメント運営の一部で!
そっちの男がこっちの男を倒したら、そっちの男がトーナメントに参加して、あとそのそっちの男って呼ばれてる方のやつの名前は「ファイヤーラッコ」といって働くのがいやだから優勝して5億円ですごい機材を買い揃えて大物YouTuberになって遊んで暮らしたくて……なにか、そのようなニュアンスの何かを!

即ち!
戦いの火蓋は、今ここに落とされる!


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面接開始:ファイヤーラッコ vs トーナメント運営の一部太郎レディ
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お詫び:トーナメント運営の一部太郎はやっぱりレディになりました。ここまでのパートのトーナメント運営の一部太郎については、各自脳内での修正をお願いします。
    皆様の想像力……いえ、創造力に期待しております。よろしくな!



人避けは滞りなく行われ、今やこの広い空間を支配するのは件の二人のみである。
流れるプールの中央には広い桟橋が渡り、その両端で相対する。距離にしておよそ20m。

「アンタ、よく見たら女性だったんだな……スーツのおねえさん……こんなに美人なのに、今の今まで気付かなかったぜ! ともあれ、いいんだな。俺が勝てば、そのなんちゃらトーナメントへの参加権をいただくぜ」

ファイヤーラッコが指を鳴らし、腰を深く落とし構える。
とてもじゃないが美しい型とは言えないだろう。
我流も我流、ただのケンカ殺法であろうことは一目にして明らかだった。

「グロリアス・オリュンピア、です。この戦いは既に公式に認可されました。安心してかかってくるといいでしょう」

ト運一レディは薄手の白手袋に指を通すと、懐から小さな包みを取り出した。
中身をプールへ振り撒いて、そのまま包みも放り込む。
水はみるみるうちに透明度を失い、甘い香りとともに褐色の奔流へと姿を変える。

「《恋乙女の2.14(バレンタイン・ティアー)》。このプールは、これより私の支配下です。甘く美味なるチョコレート……どうぞ、ご堪能ください」

恭しく一礼すると同時に、彼女の左右からビターの濁流が鎌首をもたげた。

「えー! これマジ全部チョコレート? 食ってもいいの? なんかこう、トラップ的にお腹痛くしたりしない?」
「ええ、大丈夫ですよ。口に入れば制御を離れ正真正銘ただのチョコ。味のほどは……うーん……た、多分大丈夫……だと思うのですが」

僅かばかりに目を泳がせ、ひとつ、咳払い。

「……まあ、目の前の相手を叩きつけたり貫いたりするにはそれで充分でしょう? ですから、ええ。受け取ってくださいな」

レディが薄く微笑むと同時、濁流(ビターチョコ)が身を捩りファイヤーラッコを襲う!
左右からの同時攻撃だ! ファイヤーラッコは前転で逃れるが、濁流は即座に軌道修正する!

「も、もうちょっと大人しいチョコが好みだな! ヒエーッ」
「チョコをつくる時、女の子も積極的になるものですから」
「受け止めきれない!」

後方の濁流をよそに、正面ルート――桟橋を一直線に駆けるファイヤーラッコ!

「シャオラーッ! 最近のプールサイドは!! 走っても滑らねえんだぜ!! 最高の大発明だーっ!!」
「前に詰めるのならこうするだけです」

ト運一レディを守るように、チョコの壁が展開する! 嗚呼、四面チョコ!

「これで逃げ場はありませんッ!」

壁はみるみるうちに厚みを増し、複層の巨岩と化す!
仕上げとばかり、網目状に掛けられるチョコソース!
しかし、ファイヤーラッコは足を止めるどころか更に速度を増していく!

「俺はファイヤーラッコ……炎を操る、そんなラッコだぁッ!!」

ファイヤーラッコの右腕から、激しい火炎が放出される!
チョコソースが一瞬にして溶け出し!
当然巨岩も溶け……と、溶けない!

「ファイヤーなどと聞かされて、対策しないわけにはいかないでしょう。ベイクド・チョコ(これは溶けないやつです)!!」
「ならッ! こいつでどうだァ!」

爆発! 推力を得たファイヤーラッコは岩壁を超える!

「爆発も、概ね火炎!! おりゃあ!!」

そのままレディの頭上を取り、炎が全身に展開する!




「はい!突然ですがここでオレ様爆発オチ太郎の出番でーす!」


(爆発オチ太郎は、文字数や時間や気分的な問題によって自然発生する形而上存在です!)


「よいサイズの石油コンビナート~!」


(よいサイズの石油コンビナートは、なにかこう……よいサイズです! とてもちょうどよい!)




二人の間に、謎のワームホールが出現! よいサイズの石油コンビナートが飛び出してきた!

「あっなになになに!? ちょっ……ちょっと待てーっ!! 火!! 火ーっ!! あっ……」

コンビナートめがけ飛び込んでいくファイヤーラッコ……!!





(ダイナミックな音)





斯くして、戦闘はここに終了した。


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ぼろぼろのスーツの上にバスタオルを羽織り、パラソル付きのテーブルで書類の作成を執り行う女性が一人。
涼しい顔をしているが、その頭は哀しくも見事なアフロヘアーだ。
トーナメント運営の一部太郎レディである。

「さて、あとは同意書へのサインです」

書類を整え、向かい側へと差し出す。続いてペンを。

「こちらに。それから、先程の約束もどうかお忘れなく」
「オーケーオーケー。この? チョコを? フェム王女に?」

ファイヤーラッコは、先程押し付けられた小さなラッピングをつまみ上げた。中には一口大のガナッシュがいくつか。色とりどりのチョコスプレーが散りばめられ、見た目にも華やかだ。

「私の身分では謁見は叶いませんから。是非とも勝ち上がってください」
「トーナメント、自分で出りゃよかったんじゃない?」
「……本戦の頃には、私はただの無能力者です。……それと、渡す時ですが。誰からかは言わなくて結構ですよ」
「一国の王女が受け取るかなあ、そんなもん」
「それならそれで構いませんから」
「なんで王女サマ?」
「見ませんでしたか? テレビ。顔が良かったので」
「ふーん」

サインを終えて、書類を返す。

「このチョコ、俺の分ないの?」
「貴方は拾い食いした分で十分では」
「うげ。見てた?」
「味はどうでした?」
「美味かった」
「安心しました。毒味ありがとうございます」
「…………」

ファイヤーラッコは、同意書の他に、身分証明、参加動機、保険の加入状況など、十数枚の書面に記入を行った。母子家庭の高卒であるとか、5億でいい機材で大物YouTuberであるとか……概ねそのような項目である。

「……ええ、はい。記入に不備はありません。貴方をグロリアス・オリュンピアの参加候補者としてエントリーしました」
「サンキュー、おねえさん」

あくまで、候補者である。
ここからファイヤーラッコが本戦に進むためには、何やら運営の審査が必要になるらしい。

「……あ。そうだ、この機会に捜し人とか見つかるかな?」
「世界的に注目されている大会ですし、可能性はあるでしょう。優勝すれば、王女が願いを叶えてくださる、とも」
「何よりその時は大物YouTuberだからな!」
「それはよくわかりませんが」

あらかたのものを鞄に収め、レディが席を立つ。

「まあ、陰ながら応援していますよ。未来の優勝者」
「おう」

その背中を見送って、ファイヤーラッコは大きく伸びをした。
チェアは日光浴のできるゆったりとした作りになっている。
そのまま身を横たえると、戦闘の疲労が一挙に押し寄せた。
微睡みに包まれていく。

――程なくして。

――爆発オチ太郎が再入場し、グレートプール島原は改めて爆発オチを迎えた。
最終更新:2018年02月18日 20:58