プロローグ(澪木祭蔵)


 森に小人や動物たちが駆け回っていなくても。笑いあっていなくても。
 町に魔法がなくても、空に妖精が飛んでいないってわかっていても。
 この世界が夢の国だって信じたいんだ。


〈一〉


「ぐ、あっ」

 苦悶と驚愕の声を上げ、男は跪いた。
 ……何が起こった? 自分は今、このアジトに踏み込んできた警官の喉笛めがけ、必殺の貫手を放ったはずだ。和やかな顔で、近隣の盗難事件の聞き込みに来たなどと欺く警官に、完全に虚を突くタイミングで。なのに、なのに――。
 目の前の自分の指は、ぐしゃぐしゃに折れ曲がっていた。いや、異変はそれだけではない。

 ――何だ。何だこの毛むくじゃらの細長い指は? 俺の指なのか?

 細く、白く節くれだった四本の指。異様に長い爪。まるで、まるでネズミのような――!
 混乱する頭で視線を上に向ける。男はまたも目を疑った。
 警官の体が、ダイヤモンドに変わっていた。
 それは紛れもなく先程までの警官だった。同時に、ダイヤモンドの体にスーツを纏った、人型の何かだった。一瞬前までにこやかだった笑顔は、今や只々鋭い。

「確保!!」

 ダイヤモンド警官が叫ぶ。どこに備えていたのだろうか、このアジト――東京郊外の雑居ビルを、一フロア改修した偽装会社――の入口から警官が殺到し、また一瞬の赤熱のあと、突き破られた壁から更に警官が雪崩れ込んできた。
 現れた警官たちは、皆一様に異様な姿だった。
 体と四肢が、それぞれ巨大なムカデと化した警官がいた。小柄な体に、透き通るような羽、空中を舞う妖精の警官がいた。ゴムマリのような球状の体に、マッチ棒のような手足、極度にディフォルメされた肥満体の警官がいた。
 十を超える数の警官は、その全員がおおよそ人間の姿をしていなかった。
 それは、警官だけではない。
 このフロアをアジトとする、中東の過激派武装組織アル・ニスル。
 彼らの日本進出の足掛かりとして送り込まれ、うちフロアに詰めていた八人ほどのメンバーまでもが、人ならざる姿に変わっていたのだ。
 米国を筆頭とし、先進国……彼のエプシロン王国に対してまでも、首脳抹殺を掲げる危険組織である。彼等の影が、日本でも見え隠れしている。現在の時勢において、その摘発は急務であった。
 その日本潜伏のリーダーまでもが含まれていた精鋭たちだったが、自分たちの体と、踏み込んだ警官、その双方の異常事態に、反応が遅れた。
 異形の警官たちがその隙を逃す筈もなく――銃弾と魔人能力が乱れ飛ぶ、大捕り物が始まった。

 ◇

「鈴木さん、虎さんは魔人ね。注意して。園田さんは右手のタマゴさんをまずやっちゃって。放っておくと孵化されて後々面倒なことになるわ。大丈夫、見た目通り脆いから」

 雑居ビルから二軒ほど隣、そのビルの屋上。
 オフィスの窓からちょうど視線が通るその位置で、屋内で繰り広げられる異形たちの乱闘を観察し指示する、一人の影があった。
 男性である。小綺麗に手入れされた黒髪に、さり気なく引かれたルージュ。上等だが堅苦しさのないカジュアルスーツ。全体的に、質の良い身なりであった。
 ただ一つ、左手に提げた缶入りの飲料酒、ストロングゼロだけが、妙に浮いている。

「ふむふむ、今回は虎さんにカエルさん……ネズミさんはさっきやられちゃったからいいとして、あら、ヤドカリさんにケーキさんもいるわ。珍しいわね」

 名を澪木(みおぎ)祭蔵(さいぞう)。警視庁の地域密着特別魔人安全官にして、今回の検挙のため招集された特別メンバー。
 オフィス内の異常な事態も、この男の魔人能力によるものであった。
 『TDL』。
 有効範囲内の者たちを、人ではない姿に変えてしまう力。
 これは例えば後方から前線の者たちに使うことにより、何も知らぬ敵には隙と弱点を、味方達には変身の恩恵を、それぞれ一方的に付与する支援能力となる。
 加えて今回は自らの能力を熟知する澪木が戦場を俯瞰し、指示を送ることで、更に盤石とする。
 作戦が上手くハマったパターンと言えた。魔人すら含まれる警官たちの活躍により、防戦に追い込まれるアル・ニスルたち。
 しかし。

「……あら」

 敵もさるものであった。
 虎と化した敵の魔人が奮戦していた。魔人能力だろう、手から放出される光弾を駆使し包囲を突破すると、ケーキの姿になったメンバーを連れ、フロアの脱出を果たしたのだ。
 鋭い身のこなしだった。強力な使い手かもしれない。

「やるじゃない。……ふむ。鈴木さん、そこはもう大丈夫ね? 一旦“切る”わ」

 インカムに一言伝えると、オフィス内の者たちが、何事もなかったかのように“普通の”人間の姿に戻る。……ネズミだった男の指は折れ曲がったまま苦悶し、タマゴだった男の頭部は割れたまま、流血と共に倒れていた。
 その様子だけを一瞥し、澪木はストロングゼロを呷った。そのままビルのフェンスを乗り越え身を翻す。そのまま見れば酔っぱらいの投身自殺だが、勿論そうではない。魔人の身体能力で無事が保証された、最短経路の追走であった。
 あの逃走した者たちは、自分が抑えなくては。その為の跳躍である。

 ◇

「クソッ! 何なんだあいつらは!」

 フロアを脱出し、床をぶち抜き階下に逃れた二人は、そのまま屋内駐車のバンに乗り込んだ。周囲の警戒をも突破し、今まさに猛然と走り出したバンで国道に合流せんとしている。

「例の“協力者”からの情報はありませんでした。不測の事態か……いよいよこちらをも裏切ったか」
「元々命を預けうるに足る相手ではなかったが……この辺りが潮時かもしれんな。仲間達に連絡を。まずはこの場を切り抜けねばならん」

 バンを運転するメンバー、つい今しがたまで虎だった女は、アル・ニスルに仕える人造魔人サンプル花子。
 そして花子の考えを聞き、状況を整理する男は、アル・ニスルの若き幹部にして日本潜伏を指揮する気鋭のリーダーである。
 彼の胸中は苦い。今回の日本警察の奇襲は鮮やかだった。残念ながら潜伏し、再び力を蓄える他あるまい。まずは残るメンバーを集結させ――。
 その瞬間だった。リーダーとサンプル花子は息を呑んだ。
 突如、歩道から一人の男がバンの前に身を晒したのだ。
 それは今まさにビルから飛び降り、加速しきる前のバンに先んじた澪木祭蔵!

「なっ――!」

 リーダーと、花子。そしてそちらを向いた澪木の目が合う。
 サンプル花子は、反射的にハンドルを切ろうとした。
 人間は運転中、全くの意識の外から車の前に飛び出された時、反射的にブレーキを踏むか、ハンドルを切ってしまう。それは、たとえ武装組織に身を置き、過酷な命の奪い合いを行う者とて例外ではない。
 事実、サンプル花子もハンドルを切――刹那の逡巡の後、すぐさま手を止めた。
 何という精神力であろうか。花子は今、目が合った瞬間、澪木が尋常の者でない事を看破したのだ。
 アジトの襲撃、突然に現れた謎の手練れ、走行車両の前へ身を晒す謎の挙動。偶然ではない。このまま轢殺する――!
 ヒトとしての反射すら抑え込む、驚異の超反射。
 一瞬だけ切られたハンドルは即、ニュートラルに戻――らなかった。
 花子の手は、虎のものに変わっていた。
 豊かな毛皮に覆われた前肢、ぷにぷにした肉球。当然、ハンドルをしっかりと握れるはずもなく。直進コースを外れたバンは、そのままガードレールに激突した。

「ふう。さすが過激派テロリストね。ちょっとヒヤッとしちゃった」

 バンへと接近する澪木。後続の応援が到達するまで、この者たちを釘付けにする。
 澪木は警察の人間だが、飲酒が必要な能力の特性上、銃器の携帯を許可されていない。酒を飲んでも素面同様の運動能力、判断力を発揮できる澪木だが、やはりそこは通常の警察組織であるからだ。
 これが、あるいは魔人のみで構成された魔人公安であれば話は別かもしれないが――。
 その時、車輌のフロントガラスが中から粉砕された。
 そこより飛び出した影はサンプル花子、否、サンプル花子タイガー。撃ち出されるサンプルシューターと共に、澪木へと襲い掛かる!
 澪木はすぐさま半身の構えをとった。ネコ科の猛獣の襲撃に、全く遅れを取らないスピードだった。
 手刀で前肢の爪を落とす。体をひねりタックルを躱す。そして掌打で顎をかち上げ……手首から滑りだされた小型のコロンから、乳白色のミストを鼻に向かい吹きつけた。

「え、にゃ……? ふぁ……っ? ひにゃ……!」
「経験上ね、分かるのよ。アナタ達みたいな武装組織には、必ず一人か二人、ネコ科の武闘派さんがいるってね」

 濃縮マタタビだ。
 完全に酩酊状態になった花子タイガーを難なく組み伏せ、制圧する。
 バンに視線をやった。助手席の男、ケーキの姿に変わっていたその男は、衝突の苦悶に呻きながらも動き出す様子はない。ならばこれでほぼ詰みだろう。後は全員確保で終了だ。

「でも……私達的にはアナタ達を捕まえてそれで終わりじゃないの。組織についてとか、今後のプランとか、色々訊かせてね?」

 その時、澪木は花子の異変に気付いた。
 花子タイガーの体が熱い。それどころか、瞳や口が輝き始め……全身が発光しはじめたではないか。
 サンプル花子が共通して持つ魔人能力、サンプルシューター。これはそのエネルギーを体内に向かって解放し、暴走状態からメルトダウンに陥らせる応用能力――サンプル自爆だ!
 サンプル花子は爆発四散した。

 ◇

「……もう、気合入り過ぎよ。折角かわいらしい子だったのに」

 澪木はすんでの所で離れ距離を取っていた。
 その周囲には、先程まではなかった白煙が漂っている。花子に発煙剤でも仕込み、自爆の際にまき散らしたのだろうか。視界が遮られる中、澪木はバンへ走る。
 ぬうっと、煙の奥からショートケーキが現れた。
 車内のケーキリーダーだ。矢のような体当たりが澪木を捕え、諸共にビル壁に叩きつける。
 『白猿の帳』。ケーキリーダーの魔人能力だ。フィルムケース程のサイズの筒に砂糖や小麦など白い粉末を込め、自在に煙幕とする。そしてその煙に包まれた物質の位置を、自分だけが把握できる。
 そのまま瞬きの速さで取り出したコンバットナイフを、澪木の腹部めがけ――。
 猫を思わせる機敏さで、澪木の体幹がしなった。
 ケーキリーダーの顔面が、右半分から側頭部にかけて抉り取られていた。

「ごめんなさいね、っと!」

 脱力したリーダーの体に魔人チョップでとどめを刺し、体を蹴り飛ばす。
 口の中いっぱいに頬張ったもの、今しがた齧り取ったリーダーのショートケーキ頭を吐き出し、安堵の息を吐く。クリームの上品な甘さが絶品なケーキであったが、飲みこむわけにはいかない。

「熱烈なアプローチだったけど……私には応えられないわ。先に休んでて頂戴」

 頭部の半分を抉られ、変わり果てた姿となって斃れたリーダーがいる。能力を解除すれば、そのまま人間の死体となってそこに現れるだろう。

「……夢の跡。とでも言うのかしらね」

 体が菓子に変わる者は、その身に秘めた夢想の如き理想を、捨てず、曲げず、まっすぐ半生に打ち出して来た人間に多い。経験上、澪木はそう判断している。
 自らの在り様が、肉体で持ってはっきりと語られる。
 この能力でそうした相手と対峙する度、澪木の胸中に複雑なものが走る。
 感傷である。
 このリーダーの所業は、血に彩られた許されざるものだったろう。
 ただ、それでも自分には出来なかった生き方を選べた者たちに対し、最後の祈りを捧げずにはいられないのだ。
 雨の雫が、アスファルトを濡らす。遠く、パトカーのサイレンが通りに響き始めた。

「……ん、んーっ。さあて終わったわ。後は応援とショカツの皆さんに任せちゃって大丈夫よね。鈴木さんに報告して帰ろうかしら☆」

 大きく伸びをし、ひらひらと手の平を振る。
 かちゃん。かちゃん。濡れたアスファルトをこする、金属音が響く。

「……まったく。残業確定じゃない。お互い、楽しいアフターファイブで手打ちってワケにはいかなかったのかしら」

 金属の足音が止まる。まばらに降る小雨と霧散し始めた白煙の中、それは現れた。
 雷が迸る機械の騎士がそこに居た。


〈二〉




「親がよ、再婚するんだと。今日ここで顔合わせだったワケ」
「ああ。なるほど折り合いが悪いのね。それで実際逃げてるヒト、初めて見たわ」
「うっせ。ったく、澪木クンがそんな奴だったとは……ここで会うのも意外っつーか……」
「それを言ったら私だって。なんかそう云うコドモみたいな、かわいげある隙とかあったのね烏丸……くんて。意外」
「……フン。なあ澪木クン」
「ん?」
「ここ、詳しいんだろ? 何かおすすめとかある?」



 澪木祭蔵にとって、烏丸(からすま)久登(ひさと)はあの当時ただのクラスメイトでしかなかった。

『人間の体が、カートゥーンのような異形に見える』。

 自分でもまるで理解が及ばなかった、だが幼い頃はそれこそ世界を極彩色の夢の国に見せていた知覚と認識に背を向け十余年。
 小中学校と只々灰色の世界に身を置いていた澪木は、高校入学後もその断絶感を抱えたまま教室の隅でひっそりと過ごしていたし、対する烏丸は常にクラスの中心にいる人気者だった。
 容姿に優れ、行動力高く、好奇心旺盛で奔放でありながら愛嬌を備え、教室のどの層の生徒とも不足なく付き合えるコミュニケーション能力を持ち、成績も十人並以上。
 そんな絵にかいたようなクラスヒエラルキー最上位の人間と澪木の間に接点が出来たきっかけは、おそらく『どこにでもある話』だったのだろう。
 千葉県は浦安市、日本最大級のテーマパーク。
 『夢の国』とも称されるその巨大遊園地は、澪木に取ってかつての魂の故郷そのものであり、同時に二度と戻れない楽園の象徴だ。
 定期的に訪れ、時間を潰していたが、好きなのかそうでないのかすら分からない、そんな場所だった。
 そこで烏丸に遭った。
 逃げるように急く烏丸に巻き込まれ、その日共にパークを巡った。
 のちに十年以上続く友人関係の、それが最初の一日だった。

 ◇

 機械騎士が右手に持った馬上槍を、澪木目がけ繰り出す。
 速い。そして所作がコンパクトだ。澪木も躱し捌くが、洗練された動きは踏み込む隙を与えない。
 ならば距離を取るか、死角へとステップインするか?
 だが澪木が動こうとする瞬間、まるで先を読んだかのように騎士が纏った雷が奔り、絶妙に足運びを妨害するのだ。
 騎士は、雷を攻撃には使ってこない。飽く迄周囲からの隔離と、こちらへの牽制。そして移動の妨害に留めている。
 メインの攻撃は鉄の体を駆使した直接攻撃だ。
 そして牽制と移動の妨害として機能しているという事は、こちらの動きがじわじわと操られている事を意味する。ゆっくりと、追い詰められているのだ。
 ……自分はこの電撃を、魔人能力を知っている。
 電気でありながら水に触れると片栗粉のような性能を発揮し、更にとろみから固形状態までの粘度を持つそれを自在に操れる。そんな魔人能力を、そしてこんな使い方を、よく知っている。
 自分が、今回のアル・ニスル検挙の要として参加した一因にも関わってくる。

 ◇

 ――奴らはこれまでも我々の捜査から常にすんでの所で逃げ切っている。……捜査情報が漏れている可能性があります。
 ――澪木さんの参加は対策班の指揮官から少数ずつ、順番に周知して行きます。そしてあなたの能力を組み込んだ作戦も、演習などはありません。当日、直に当たってもらいます。……大丈夫です。現場における我々の優秀さは、中々に知られたものですから。
 ――……そして。言いにくいことですが、内部情報が漏れているとして、我々はその情報を流しているホシに、ある程度のアタリをつけています。
 ――今回、情報統制が功を奏し検挙が上手く運んだ場合……情報を握れなかったその者は、必ず動く。我々はそこを抑えます。あなたももしソレと接触するようなことがあれば、現場の判断においてご協力願いたく……。

 ◇

「まったく……本当に来る、なんてねっ!」

 槍を下方に叩き落す。騎士がつんのめる。足で踏みつけとともに、その蹴り足の反動で一気に接近。狙うは左腕。変則の一本背負いで投げ飛ばす。
 そこで騎士の胸部が展開した。
 現れたのはバネ仕掛けの射出ナイフ!

(隠し武器!)

 とっさに交差した両腕でガードする。ナイフが腕に突き刺さる。
 浅い。しかし、それは澪木の足を止めるのには十分。
 ハンマーの如き左腕が、澪木を正面からとらえ殴り飛ばした。
 脳が揺れる。意識が一瞬、飛んだ。
 地面へと叩きつけられるまでのコンマ数秒、澪木は息を整えた。正念場だ。切り札の一つを使う。
 空中で反転、アスファルトへの着地をさせると同時、澪木は前方、騎士に向かい跳んだ。
 澪木の両脚が車輪の(・・・)ように(・・・)回転する(・・・・)
 騎士は目を疑った。

 米国の有名なカートゥーンに、ネコとネズミが毎回面白おかしく、仲良く喧嘩する、というものがある。
 ディフォルメの極致であるそれは、獣でありながら二足で歩行し、物理的にあり得ない漫画的挙動、表現を駆使し視聴者を楽しませたコメディの金字塔である。
 全ての、夢と希望のファンタスティックカートゥーンは澪木の友であり、親であり、師だ。
 自分はアレになれる、アレで在れる。
 澪木の狂気にも似た執念が、その動きを実現させた。
 懐に飛び込むと同時、電光石火の諸手突きが、非現実的な軌道で機械騎士を襲う!

 ――……。

「……?」

 一泊、間を置き。騎士に外傷はない。
 更にその一呼吸後、機械騎士の右ひじが、ネジとナットをばら撒いて分解された。

「ッ!」

 反射的に放った左拳が、今度こそ澪木をアスファルトへ叩きつけた。
 そう、その澪木の仕業だ。
 カートゥーンのような、物理を超えたスピード、世に非ざる逸脱した器用さ。そして相手が同時に、空想のような騎士である。それら全ての一端を持って、交差の一瞬で分解せしめた。
 世にファンタジーを顕現させるのが自分の能力であるのなら。
 自分自身だってファンタジーになれる。
 妄想に近い思い込みである。事実、疲労も己へのダメージも半端ではない。
 とにかく鍛えて努力して、それでも僅かな時間しか持たない。
 しかし、今はその僅かな時間で十分であった。
 右の槍を外せた。

 銃声。
 騎士の体が揺らいだ。ちょうど盾になる槍が、外された角度だった。
 その方向に振り返る。右肩の部分が、やや熱い。当たったのはそこか。
 体がダイヤモンドで出来た警官が、ピストルを構えていた。

「アナタ、ピーターパンって知ってる? ……知ってるか、そりゃねぇ」

 後方、騎士に向かって声がかけられた。澪木だ。

「私ね、何にでも向かっていって、皆の中心にいて、キラキラしてたアナタが……昔からピーターパンみたいに見えてたの。眩しい世界のピーターパン……本当よ」

 逡巡。この一瞬、澪木への視線を切っていたのがまずかった。あるいはそれすらも、警官の増援を視野に入れた、澪木の計算だったのか。
 突如、機械騎士の体が思いきり傾き、くずおれた。騎士は混乱した。
 澪木だった。息も絶え絶えで、指先からも、かなりの血が流れている。
 それでも、鉄の右脚を持って騎士へと掲げてみせた。

「おま、え」

 機械騎士が、初めて言葉を発した。
 自分の右脚は、腿の部分からボルトを外され消失している。分解――!
 そして。
 体勢を崩し無防備な機械騎士が、人間の姿へと変わった。
 ダイヤモンド警官――否、鈴木の放った弾丸が、男の額を貫いた。


 空が陰る。雨脚とサイレンの音が、なお強まる。

「どうしてこんなことになっちゃったのかしらね。バカ……本当にバカ」

 澪木はこと切れた男――烏丸久登を見下ろして言った。
 友達だったのだ。高校卒業後も自分を気にかけ、大学を中退した時も何とか連絡をつけ、帰国後も警視庁へ誘ってくれた、本当に数少ない友達だったのだ。
 明るい未来があった烏丸が、なぜ中東の武装組織の間諜などをしていたのか。それはこの後の澪木にも、正確な所は分からなかった。
 烏丸の父が、外資系の伝手で某中東国政府と強力なパイプを持っていたこと。数年前、家族で海外に行った際、母が事故で他界し、その後ほぼ一家離散に近い状態になっていたこと。それでも烏丸は、まだ小学生の幼い弟と共に、賢明に生きていたこと。
 表面を撫でた程度の事情から、何となく推測するしかない。
 自分は悲しいのか。きっと悲しいのだろう。
 だが心に波が立つことはない。驚くほど何も動かない。
 とても昔、色とりどりの世界に別れを告げた日から、ずっとそうだ。

 美しい世界に自ら見切りをつけてしまった自分は、あの国の住人のように心から泣いたり笑ったりする資格などないのだ。
 機械の戦士のような心で、今日も生きなければならない。
 この世界は灰色で、夢の国ではないのだから。


〈三〉


「公安部外事第三課の陣内です。先日はお疲れ様でした」

 彼らが澪木の自宅マンションを訪れたのは、三日後のことだった。
 警視庁公安部外事第三課。日本の国家体制を脅かす犯罪事案に対応する公安警察、その警視庁公安部において、主に中東方面の国際テロ捜査を担当するセクションである。
 先の澪木が参加したアル・ニスル検挙も、元を質すと彼らの要請である。

「ご協力のお陰で彼らの日本進出は足掛かりの時点で挫けました。感謝いたします……残党の捜索も順調です。近い内、国内の掃討も完了出来るでしょう……」

 警部補、陣内。
 幽鬼のように痩せ細った、陰気な刑事であった。同じ公安の警官を引き連れたその男は、通されたリビングで茶を啜り告げた。
 本来、部署ごとの機密性が極めて高く、秘密主義的な側面が強い公安警察において、同じ警視庁とはいえ外部の者と協調することなど、まずありえない。
 それにもかかわらず、澪木を預かる生活安全課……いや、それだけではない。警視庁本部における他の部署は勿論、国土交通省や外務省とまで連携した特例中の特例たる一大捜査・防衛体制を敷いているのは、明確な理由がある。

「いえいえ。公安さんの頼みじゃ私も断れないわ。今期の評定、期待させてもらうわね。……で、今日はそれだけってワケじゃないのよね。ついに動きがあった?」
「話が早くて助かります……はい、件のエプシロン王国王女殿下の日本視察の日程ですね、正式な日程の通達がありました。おいおい、公式な発表もあるでしょう。……はい、勿論、王女殿下歓迎のためのバトル……こほん、異種格闘大会の仔細についても」
「ええ。むしろここからが本番ね」

 国内に影を落とす国際武装組織の一掃は、これらの事前準備に過ぎない。陣内も頷いて続ける。

「はい。本日は改めて、グロリアス・オリュンピア参加を要請したく、参上いたしました」
「ヒュウ。いやぁ私だけじゃないとは言え、警察の代表ってのは責任重大だわ~。このか弱い肩で支えきれるかしら。おっと、表向きは自営業、だったわね」
「ええ。知っての通り、送り込むのは……失敬、潜入参加を要請するのはあなただけではありません。刑事部に警備部、組織犯罪対策部(マルボウ)の魔人警官に、魔人公安からも幾人、出場をお願いしてあります。我々も、当日は外部へ向けて総力を挙げた警備を敷く」

 事前に受けた話の通りだ。
 アル・ニスル。エプシロン王国含む先進国家首脳の抹殺を公言している組織の、一先ずの打破には成功した。
 しかしこれは日本とエプシロン王国という国家の、前例のない接触である。
 まだ見ぬ危難の存在に備え、あらゆる角度からなる警備対策で臨まねばならない。
 その一つ。
 すなわち、同じ参加者として内部に存在する不穏な人物の勝ち上りを阻止し、フェム王女はじめ各国国賓に対する警備とする。
 その為の新たな人員編成である。

「それでも、今回の出場者は多数が予想されます。数人でも、上手く出場できれば恩の字……事前の選手審査すら、一人も残らない可能性がある」
「ま、それはそれで気楽ではあるわね。本音を言えば、私だってこんな滅多にないお祭り、仕事抜きでゆっくり観戦したいくらいだもの」
「それは失礼しました……お互い、大変な立場ですね」

 一瞬、会話が止まった。陣内は能面のような表情を崩さず、眼の光も変わらず薄暗いままだ。
 もしかして、今この御仁は冗句を言ったのだろうか?
 澪木はやや思案したのち、話題を変えた。

「ええと……もしもだけど。あたしたち潜入参加のメンツの誰かが勝ち進んだとして……それで貰える賞金とか副賞とかはどうなるのかしら」
「……ああ、それは。考えていませんでしたね」
「ちょっと」
「冗談です」

 僅かながらではあるが、今度こそ陣内の眼が光った。

「……知っての通り我々の目的は入賞や勝ち上る事ではありません。極論、途中の敗北が前提と言ってもいい。脱落しても、警備側に回ってもらうだけです」
「なんかサクラって言うか、主催側の賑やかしも兼ねてるみたいな言い方ねえ」
「ですが。実態はどうあれ、今回は“潜入”としての参加の形です。潜入捜査官が、潜入中に得た金銭物品は、法に触れる類を除けば終了後も基本不問です。今回に限って言えば、ボーナスと思ってもらっても結構ですね」
「あら珍しい。まあ私たち公僕の誰かが賞金を得られるなんてそれこそ宝くじみたいな確率だけど。太っ腹ね」
「これは本音を言いますと、今回は都と国の主催ですから……下手に課税や没収みたいな真似して、後でマッチポンプなどと嗅ぎつけられるのも厄介ですからね」
「王国歓迎のレセプションですもんねえ。そんな下手にケチつくポイント、潰しときたいわよね」
「そういうことです……では、受けて頂けると思っていいですね? 書類もそのようにまとめておきますので。詳しい伝達事項は、後日またお伝えします……」

 陣内は立ち上がった。相変わらず、雰囲気の割に忙しない男である。
 見送る澪木に構いもせず退出し――ドアノブを手に掛けた所で、動きが止まった。

「……烏丸警部補のことは、残念でした。内通者が更に特定出来ていれば、あなたへの要請もなかったのですが」

 背を向けたまま言った。

「気にしないでいいわよ。……ガラでもないわねぇ。陣内さん疲れてるんじゃないの。今回の訪日決まってから、色々激務って聞いたわよ?」

 澪木は笑い飛ばし、陣内もそのまま去って行った。

「相変わらずミステリアスなヒトね。きっと十年くらいしたら、素敵なロマンスグレーになっているわ☆」

 澪木は陣内のことが嫌いではない。何を考えているか分かり難い相手だが、どちらかと言えば好感を持っている部類である。

「……さて」

 誰もいない部屋で明るい声を出してみても、気分は晴れなかった。目の前には、グロリアス・オリュンピアの資料。
 気が乗らないわけではない。むしろ出るならば勝つつもりだし、何なら警戒のためという目的も……無視とは言わないが、一旦置いといてこのバトルに集中したい、まであるほどだ。
 それでも、いやそれだからこそ、彼は思わずにいられない。

 五億――は過剰だが、幾ばくかの賞金と、願いが叶えられる副賞があれば、家族を失った少年に未来への希望を贈ることが出来るだろうか。
 いずれ兄の真の姿を、そしてその最期の顛末をも知るだろう。それでも、一人立ち上がれるまでの間、明日を憂うことなく暮らしてゆければ、この冷たく孤独な世界で生き抜けるだけの夢と希望を育めるだろうか。
 ――兄を奪ってしまった自分が、彼の夢と、未来と、希望だけは守ることができるだろうか。

 昨日見舞った烏丸の家では、何も知らぬ弟が、ひとり帰らぬ兄を待ち続けていた。
 本当のことなど、言える訳がなかった。

「いいじゃない。やってやるわ」

 ストロングゼロに口をつけた。
 今日は酷い味だ。そんな味にしているのは、自分だ。
 この缶が空になったら、立ち上がらなければならない。
 夢を失った少年に、世界にはまだ夢が残されていると伝えたいから。
 自分にはそれが出来ると、世界が“夢の国”であると信じたいから。
最終更新:2018年02月18日 21:00