プロローグ(シズマ)
晴れの日の昼下がり、傾いた冬の日光がリビングの私と兄を包む。ソファーから手を伸ばし、リモコンを操作してワイドショーを映していたテレビの電源を切った後、私は自身の膝に頭部を預けて眠る兄へ目を向けた。年の頃は私とそう変わらない筈だが、無防備な寝顔を晒すその表情は背格好より大分幼く見える。喉を鳴らしながら寝返りをうつ彼を、私は苦笑しながら見つめていた。
「兄さん」
兄にささやくように呼びかけ、透き通るような白髪をなぞる。シズマ――それが私の兄の名前だ。そして私は、彼の1番目の妹、四城 七海(しじょう ななみ)。十年程前、私は彼の妹になった。それ以前の事はよく覚えていないし、今となっては取り立てて重要な事だとも思えない。
今、私は彼の妹で、これから暫くの間もそれは変わらないだろう。そして、目下の考え事としては、今夜の献立だとか、洗剤の取り置きが無くなった事だとか、そんなものだ。きっと兄も、似たようなものだと思う。あるいはそれすらも考えていないか、なんて。
「あ、もうこんな時間」
兄につられ私もうとうとしていたが、そろそろ晩御飯の買出しに行かないとまずい時間だ。兄を起こさないよう、そっと頭をソファーへ移しながら立ち上がり、財布とエコバッグを手に取る。
「えーっと、今日は挽き肉が安かったから……ハンバーグにしようかな?」
防寒具を着込みながら、今夜は何を作ろうかとチラシや冷蔵庫の中身と相談した後、私はマンションのドアを開けた。
「う……ん」
独りの部屋で、シズマは目を覚ました。寝起きのぼうとした頭で周囲を見回すが、眠る前に居た筈の妹の姿は無い。壁に掛けられた時計を見やれば、その針は5時半を回ろうとしていた。日は既に半分ほど建造物の影に隠れつつあり、ベランダの戸は強風にがたがたと音を立てガラスを揺らしている。
(買い物かな。でも、それだけにしては帰りが遅いな)
いつものルーティーンなら、七海は既に台所に立って夕飯の支度をしている頃だ。彼は自身のスマホを確認したが、遅れる旨の連絡も無い。もう彼女も子供ではないし、少しくらい帰りが遅くなったところでさして心配することもない――はずなのだが、それでも大事な妹だ。逡巡の後、彼女を迎えに行くため、支度を整える。彼はハンガーから着古したカーキ色のモッズコートをひっ掴み、もぞもぞと袖を通した。玄関においておいたマフラーを巻き、シズマは家を出る。
(テーブルの上にチラシがあったし、あそこのスーパーだな)
外に出れば、其処は寒風吹きすさぶ2月の街だ。コートのフードを被り、マフラーを巻いた首を縮こませながら、シズマはスーパーへと向かった。
「さむ……」
三日ぶりの外出に、彼の身体は外気温に慣れるまで少し時間を要した。現在定職についていない彼は、特に用事が無ければ何日も家にこもる事はざらにあり、この所の寒波襲来もあって先月はマンションから出た日の方が少ない程だ。たまには買い物代わってあげないとな、等と考えながら、シズマは彼女の足跡を辿る。
(……あれは)
徒歩8分。目的地のスーパーマーケットは、丁度看板に灯が灯ったところだった。明滅する街路灯の下で、シズマは妹の姿と、その周りに群がる男達の姿を確認した。
「へへ、いいじゃんちょっとくらいさァ~? オレらと遊んでってヨォ」
「だから困りますって……これから帰って夕飯の支度が」
「夕飯? 偉いねぇ、自炊してんだ。何作んの? 俺らもご相伴に預かりてえなァ」
来年には年号も変わろうかという昨今、最早絶滅したかと思われていたチンピラの姿が其処にあった。元々対人恐怖症気味のシズマにとって、このタイプの人種は相性最悪といえる部類である。思わず身体を硬直させたが、妹の視線が此方を捉えたのに気づき、拳を握りしめ覚悟を決めた。
「あ、あの……止めてください」
男達の背後から、恐る恐る近づいたシズマが声を掛ける。必死で搾り出した声だったが、それでもその声は少し掠れていた。
「あァン? 兄ちゃん、邪魔してンじゃねえよ!」
「っ、ひ」
男達の中で、一番小柄な男――身長は160ちょっと程度の、華奢な体躯――が身体を乗り出し、シズマに顔を近づける。突如対人距離を侵されたシズマは、反射的に防衛本能を働かせ、裏拳を放った。当然、手加減抜きの。
「ぶお――っ」
(あ、やば)
小柄な男の身体は、魔人能力により強化されたシズマの打撃により軽々と吹っ飛ばされ、頭からコンクリートの壁へめり込んだ。普通の人間であれば最悪死亡するまでの可能性がある打撃力だったが、幸か不幸か、男はすぐさま激突した壁の側から跳ね起き、首元をさする。
「……何だ、兄ちゃん。アンタも魔人かヨ?」
自分の身体に異常が無いことを確認しながら、男は黒一色のコーディネートで決めた革ジャンとパンツを神経質そうに手で払う。他の男達は既に七海から離れ、野次馬達と共に遠巻きに二人の様子を見守っていた。どうやら他の者は非魔人であったらしい――自分が殺人を犯さずに済んだことに、ひとまずシズマは安堵した。
「いや、流石に今のは引くわ。今時はキョートのニンジャだってアイサツしてから戦闘に入るって聞くぜ? 兄ちゃん」
男の頭部からは派手に血が吹き出ていたが、軽口を叩いているあたりそこまで深刻なダメージではないようだ。
「あ。す、すいません」
「って謝るんかい! そンな半端モンなら最初から手ぇ出すんじゃねぇよ――もう遅ェけど、な」
言いながら、男は腕をぶんぶんと回し始める。魔神同士の本能的な感覚でシズマは理解する……男の能力が、発動する事を。
「俺ァ分別のある魔人だからヨ。十倍返しで済ませてやるぜッ!!!」
男の手先から肘の辺りまでが、徐々に濃い黒色へと変色していく。無機物的に冷たい光沢を表すそれは、まごうこと無き鋼鉄の両腕だった。
「ヒュウ~! 死んだぜ、あの野郎。タイガの『鋼鉄天使(アイアン・マイケル)』にかかりゃあ、あんなヒョロ魔人一撃だぜ!」
対峙する二人の遠くから、外野の声が僅かに聞こえる。小柄な男――砂原 大河(すなはら たいが)の魔人能力は、今見た通り自身の身体を鋼鉄化する能力である。身体全体を鋼鉄化するには数分の時間を要するが、今のように腕先、あるいは足先等の端部であれば、十秒弱もあれば変化は完了する。
「ぶっ飛んでおねんねして風邪でもひいてろやぁあ!!」
優しいのか単なるボケなのか怪しい発言を繰り出しながら、大河はシズマへと迫る。シズマはその様子を見、彼に背を向け一目散に妹の元へと走った。普段から口を開かない所為でどもる口調を何とか抑えながら、シズマは七海へ訊く。
「な、七海。今ってこの近くに、戦闘型の妹――って、居たっけ」
「ううん。あの人達に絡まれた時、私も隙を見て何人かにメッセージは入れてたんだけど、誰も返信が無かったから……まだバイト中か、何かの用事で気づいてないかだと思う」
「……不味いな……」
背後から放たれる大河の鉄槌を横っ飛びでかわしながら、シズマは思案した。自分と彼とでは、真っ当に戦えば考えるまでもなく大河に軍配が上がる。彼の頭の中には既に勝ち気は無く、どうやってこの場を穏便に収めるかに思考がシフトしていた。
相手が飽きるまで逃げ続けてみるか? 無い線では無いが、戦闘を長引かせれば逆に相手をヒートアップさせてしまう可能性も否めない。下手に重傷を負えば、自分は痛いし妹達も悲しむ――それに何より、一部の妹達の過剰な報復行為を抑えられる自信がシズマには無かった。
ならば、彼の言葉に甘んじて十倍返しを受け入れるか? 少なくとも大河に殺意は無いようだったし、自分の納得した選択であれば妹達も報復は抑えてくれるだろう。問題は、その場合でもやはり自分は痛い目を見るということだ。程度の差はあれ、痛いものは痛いし、避けれるならば避けたい。
(……なんか、面倒になってきたなあ)
そもそも、今現在の状況に至る原因は――シズマ自身が先に大河を殴ったことを棚に上げれば――このチンピラ達が七海に絡んできたことが原因だ。何故そんな塵芥を相手に、態々自分が悩まなければならないのか? それに、彼が固有の魔人能力を持っているように、自分にも――
「兄さんっ」
五度目か六度目のテレフォンパンチをフットワークで避けたところに、七海が二人の間へ立ち塞がった。
「七海」
「ごめんなさい、兄さん。自分で蒔いた種ですから、自分で枯らすのが道理――ですよね」
手に提げていたスーパーの袋をその場に落とし、両掌を大河へ向ける。呼吸はゆっくりと、深く、その足運びは上から下へ落ちる流水の様に自然に、大河の方へと向かう。
「何だァ、嬢ちゃんも魔人かい? 悪いがもう止まらないぜェ、俺ぁフェミニストだから手加減できねーぞ」
「――今更退けとは言いません。覚悟も矜持も無いまま、惨たらしく苦しんで苦しんで、死んでください」
シズマが内心で愚痴を吐いている間に、状況は更に悪化する。確かに彼女も魔人ではあるが、身体能力はシズマ以上に低い。しかし、一度彼女の能力――『悪辣右腕(ヒールライト)』が発動してしまえば、この戦闘は当事者二人の目論見を軽々と飛び越え、凄惨な結末を迎えることになる――その事を、七海の能力を知るシズマは理解していた。
「おぉぉらあ!」「……!」
大河の鉄腕と七海の右腕が交わる――直前、二人の攻撃の軌道は歪められる。七海の右腕は空を切り、大河の腕は間に入ったシズマの背へ突き刺さった。
「……悪かった、七海」
空を切った腕を掴み、戦闘領域外へ七海を放り投げる。背に沁みる痛みを堪えながらすぐさま転身し、シズマは大河へ向き直った。
「終わらせる」
「……ジョートーだぁ」
シズマの目には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。それは即ち、能力発動の準備を彼が始めたサインである。
(――今回の目標点は、そこまで高くない。性別変化は混じるが、体躯の調整は最小限で済む)
右腕を横薙ぎに振るう大河。シズマは間合いを見切りスウェーで避けるが、大河は身体を回転させながらもう片腕のバックハンドブローへ繋げる。
「ぐっ……」
咄嗟に左腕でガードしたが、慣れない防御体制で腕を痛めた。更に追撃を狙う大河から、大袈裟なバックステップで距離をとるシズマ。
「非力を補う技量――+5点」
「……あ?」
意味深な呟きに大河はいぶかしんだが、それで攻撃の手を緩める程彼は考える事が好きではなかったし、それで打開策が見つかると思う程自分の頭脳を信用してもいなかった。斜めに跳躍し、今度は鋼鉄化した右足でシズマを射抜こうと画策する。
「ん、っ」
ここに至り、シズマは漸く自ら前へ出た。空中で二人の身体は交錯し、しかし何事も無くすれ違う。意表を突かれた大河は攻撃を加えることなく着地し、しかし追撃の手を緩めずすぐさまUターンする。
(遊んでるつもりか?)
(髪質は悪くない、+3点。顔を見る限り、肌も意外に綺麗なようだな……+5点)
そしてその後も、同じような展開が続く。直線的な攻撃に時折フェイントを混ぜながら迫る大河に、のらりくらりとかわしながら眼前の相手の観察を続けるシズマ。
「っふ……畜生、ちょこまかと動きやがって……」
(考えなしにスタミナを使いすぎだ――戦術的思考能力の欠如、+4点。体力の少なさ自体にも+3点程度の重みはつけられるか)
「……何見てやがんだてめェ。余裕のちゅもり――」
噛んだ。
「――余裕のつもりかッ、アァ!?」
(肝心な場面での滑舌の悪さで+25点、照れ隠しの態度で+10点――総計104点)
「整った」
シズマの能力――『シスター・コンクエスト』使用の前段階、対象の特性理解は完了した。前に一歩踏み出す彼に、大河の本能が警戒信号を出す。
「んなろォ、いい加減沈めやぁ!!」
しかし、彼がそれに従う事はなかった。目の前にはさんざんコケにされた軟弱な魔人、今更この手を止める理由は無い。
「無駄だ」
振りかぶられたその腕を、シズマは掌一つで受ける。今まで止められなかった筈のそれは、シズマの念一つであっさりと止まり、鋼鉄のコーティングは粉微塵に砕け散った。
「なン――」
事態に狼狽える大河の腕に、シズマの腕が絡みつく。彼の触れた部分から服、そして腕の肉が削れ、傷も無く血も出ないままその体は変えられていく。本人の意思などまるで無視して。
「て、てめェ、一体何を」
「聞き苦しい。潰すか」
今度は喉仏に手を遣る。片手で締めるように大河の喉を持ち上げ、地面にたたき落とす。背を強打し、血の塊を吐き出しながら大河から漏れたその声は、既に男性のものとはかけ離れた、舌っ足らずな甘い声。
「あ――あ、俺」
「その言葉遣いも止めろ」
ばん。鈍く低い音が、張り飛ばした頬から長く響く。返す手の甲でもう一撃。それを繰り返し、さらに二撃。
「う……あ」
打撃としてのダメージは僅かの筈だが、シズマの能力を伴った張り手はそれ以上に、心理の奥底へと支配の根を張る。抵抗の声が無くなったことを確認し、シズマは大河の身体へと手を這わした。
「ん、ふぅ」
肩口に手を寄せ、その関節を一旦外し、間を絞りながら嵌め直す。胴体に手を遣り、手首を回転させながら撫でつけるように動かせば、引き締まった肉体は縮みながらだらしなく退化し、胸部には僅かばかりの膨らみが現れる。
そのまま腰、そして脚を、身体の輪郭に沿うように、揉みしだきながら移動させる。変化が進むほどに柔らかさを増す身体は、それに反比例するように体積を少しずつ縮めていく。身長で言えば20cm以上小さくなっているであろう――そして、同時進行で彼の服は形を失い、大河は既に一糸まとわぬ姿へと成り果てていた。
「仕上げだ。もう、『それ』も必要ないだろう」
気が狂ったのか、それともこれこそが彼の本性なのか。シズマの掌はついに、大河の唯一残った男の部分――太股の内側から、男性器を掴んだ。
「痛みは無い……と思う。暴れるなよ」
「ん――――!!」
左手で口を塞ぎ、右手でその器官を圧し潰すように捻る。大河の抵抗はもはやその体を為しておらず、しかしその手足のばたつきを止めることはなかった。無駄な足掻きをあざ笑うかのように、シズマの右手指は不可侵の其れを蹂躙し、陵辱する。塞がれたその口から紡がれていたのは、果たして絶望だったのか、それとも。
「無駄だ。お前は――俺の妹に、なるんだよ」
感情を覗かせない、抑揚の失せた声だった。一旦手を離し、すぐさまばぁんと同じ部分を打てば、そこにはもう、彼を彼たらしめるモノは何一つ存在しなかった。其処に横たわるのは、齢十を過ぎた位の少女。
「起きろ」
シズマはその少女の腹部に、容赦なく蹴りを入れる。流石に魔人の力は使わなかったが、朦朧とした意識のままで不意打ちを受けた少女は身体を一回転させられ、その後脚を震わせながらゆっくりと立ち上がった。
「……め……さい」
瞳を覆うように隠す前髪の所為で、その表情を正確には読み取れない。しかし、そのか細く怯えるような声を聞くだけで、シズマの中の支配欲は心地よく満たされていった。
「ごめん、なさい――お兄ちゃん」
『妹制圧術(シスター・コンクエスト)』。老若男女誰彼構わず、自身の妹へと変化させる能力。
「……ごめんな。ごめん」
シズマが少女の頭の上へぽん、と手を置けば、彼女の身体はすぐさま衣服に纏われる。女児用の下着から冬用のアウター、ジーンズ。少しだぼついたダッフルコート、最後にちょこんとポンポン付きの毛糸の帽子が頭の上に乗る。
「七海」
呼ばれることは予測していたのか、七海の姿はシズマのすぐ後ろにあった。激しい戦闘の中で、周囲に居た人々は十分な距離をとってこちらの様子をうかがっている。絡んできた他の男達は、大河が劣勢に陥ったところで既にその場を離れたようだ。
「この子、頼める?」
「うん。この様子だと、記憶抹消まで終わってるね……とりあえず、今日は家まで連れて帰るよ」
七海は少女の手を取り、笑いかける。少女は戸惑うような表情を浮かべながらも、彼女に握られた手の温かさに安堵している様子だった。
「兄さんも帰ろ? ちょっと遅くなったけど、今日は大好物のハンバーグ、腕によりかけて作っちゃうから」
「……悪い。少しその辺、歩いてくる」
兄さん、と呼びかけようとし、七海はその言葉を飲み込んだ。妹二人に丸めた背を向けて、シズマは何処へとなく歩み始める。
(またやっちまった……)
今のシズマの頭にあるのは、唯々後悔の一念だった。妹を守るためだったとはいえ、彼は自身の能力で、ある意味命を奪う以上の行為に及んでいた。――そして、其れすらも正確な事実で無いことを、彼自身分かっている。
「……方便だろ。守る、なんて」
選択肢は未だ、いくらでも在ったはずだ。その思考を大河への子供じみた怒りにすり替え、七海の助け船に甘え、結局は自分自身の欲望のまま、やりたいように暴れただけ。悪いことに、彼にはそれを教訓とし学ぶ能力も、開き直って忘れる明るさも、果ては後悔を飲み込む度胸すらも欠如していた。
「何で、俺は――ッ」
後に残ったのは、143人目の妹。その存在も、その場だけの慰めにしかならない。能力を使用する度、彼の中には言い知れない澱みが溜まっていく――それでも、妹を増やす欲望は止められない。いつまでも埋まらない穴が、彼の心には空いている。
一つだけ。
俺に必要なのは、ただ一つだけでいい――
「そこの」
平時の落ち着きを取り戻した雑踏の中、シズマは背後から呼び止められた。しゃがれた声の主は、シャッターの閉まった空きテナントの前に陣取った、占い師の風体をした老婦だった。小さな机とボロボロの椅子だけを備えた店構えは、みすぼらしいながらもどこか惹かれる雰囲気があった。
「……何、でしょう」
「迷うておるね、あんた。人生に」
心の裡を見透かされたような発言にシズマはどきりとしたが、少し考えてみれば『人生に迷う者』等、この世界には幾らでも居る。当てずっぽうの放言であることも否定できない。
「押し売りなら、お断りだよ」
「ふひゃひゃ、占いに押し売りもあったモンじゃないだろう。口を出したくもなるさ、あんた、随分と視えやすいモノを抱えとる」
尋常ではない、という事は先ほどの騒ぎを見ていれば分かる事。これ以上付き合っても無駄と感じた彼は、老婦に踵を返し帰路の続きへとつく。
「妹に会いたいかい?」
そうして進めようとした足は、その一言に縫い止められた。ゆっくりと首、身体を反転させ、振り返る。
「……ああ。未だこの世界に居るのなら」
「一つだけ」
しわだらけの手を持ち上げ、人差し指を立てる。
「これからのあんたの未来について、一つだけ質問に答えてやろう。その答えを信じるかどうかはあんた次第だが」
対象一人につき一生一度きりの未来予知能力――『不退転(ワンチャンス)』。彼女もまた、魔人能力保持者であった。
「妹は、」
老婦の言葉に応え、シズマは頭の中で質問を反芻し、口に出す。
「どこへ行けば、『本当の』妹に会える?」
彼の発言を聞き、十数秒。人ごみの喧騒の中、空気の重さに耐えられずシズマが再び口を開こうとしたところで、老婦は腕をさらに持ち上げた。
「上」
彼女が指差したのは、東西南北何れでもなく、天。人の身のままでは到達できぬ、遥か彼方の星星の庭。
「……時間の無駄だったかな、やっぱ」
溜息を吐き、再度その場を離れようとするシズマは、再びその場で足を止めることを余儀なくされる。
『そうでもないさ』
ビルの影から出でて、人の群れが闊歩する街の上空に迫る巨大な――空の半分を覆い隠すような、余りにも巨大な土塊。その姿に、人々は驚きと感嘆、そして思い思いの熱狂の喚声を上げる。その中で、シズマの耳には老婦の声が奇妙に反響していた。彼が空からシャッターへ視線を移した時には、既にその姿は無い。
『代金は成功報酬で構わんよ』
その場に居ない筈の彼女の声は、尚も反響を続ける。
「成功報酬……?」
『御前試合の優勝賞金、その半分の2億5000万。あんたは彼の地で開かれるその戦いを通じ、いずれ彼女と――あんたの本当の妹と相見えることになるだろう。尤も、其処まで辿り着ければの話だが』
御前試合――グロリアス・オリュンピア。その名前は、半引きこもりのシズマの耳にも届いていた。曰く、どごぞの王女様が視察で日本にやって来るのに合わせ、能力者達が鎬を削る大会が開かれると。優勝者には何でも望みが一つ叶えられるという話もあったが、シズマにとってはスケールが違いすぎて別世界の話のように頭の中から抜けていった。
しかし、今の老婦の言葉を信じるならば、妹は――本当の妹は其処に居る。あの浮遊国家の何処か、あるいはその大会とやらの参加者・関係者として。
「間違いは、無いんだろうな」
『ああ。後は、あんたの行動次第さ』
それを最後に、老婦の言葉は消える。聴覚が徐々に戻る中、シズマは騒がしい群衆の間を縫い、今度こそ帰路へついた。
人ごみから聞こえる話題は空中都市、視察に来るという王女、グロリアス・オリュンピア、それらに類するあれやこれや。流行に乗るのは苦手だが、それでもこれは彼にとって降って湧いたチャンスだ。片手指の数ほどしか無い、人生の岐路となり得る絶好の機会に、彼はその奔流へ飛び込むことを決意した。
「……参加登録、ネットでやってるかな」
視界から遠ざかる空中都市を眺めながら、シズマは独りごちた。