『木津皆羽プロローグ』
木津皆羽の人生が大きく動き始める、運命の日。
それは、普段と全く変わらぬ、学校からの帰り道のことだった。
「あの、ね、ミナちゃん……ミナちゃんは好きな人って、いる?」
きっかけは、近所に住んでいる友達の門真奈々からの唐突な質問だった。
「好きな人……? まだいませんけど」
「そっか……そうなんだ」
その答えに、安堵したような、すこし残念そうな様子を見せる奈々。
「奈々は誰か好きな人がいるんですか?」
「えっ、私の好きな人は、えっと……その……な、内緒っ! また明日ね!」
皆羽の問い返しには答えず、奈々はぷいとそっぽを向いて走り去ってしまった。
「うん。また明日」
角を曲がって駆けていく奈々の赤いランドセルが揺れるのを、皆羽は不思議な気持ちで見送った。
(好きな人……好きな人……小学五年生には、まだ早いと思うんです……)
その日の夕食は、大好物のオムライスだったのに、皆羽は味がよくわからなかった。
「好きな人って、いる?」奈々からの質問が、頭の中でぐるぐると繰り返される。
赤い色のライスをもぐもぐ噛みながら、クラスの男の子の顔を順番に思い浮かべてみる。
ぜんぜんピンとこない。
やっぱり恋なんて、自分にはまだ早い。
ごくんと口の中の食べ物を飲み込んで、皆羽がそう結論付けかけた時。
皆羽の耳に、美しい声が飛び込んできた。
『私、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン――最初の仕事です。国外視察……お邪魔させていただきたくお願い申し上げる国は』
その声は、テレビの中から聞こえてきたものだった。
フェム王女の会見を伝える、ニュース映像。
皆羽の目は、画面に映る美しい女性の姿に釘付けとなった。
瀟洒な宮廷の一室の中にあって、その姿はかすかな光を放っているかのように輝いて見えた。
流れるような黒髪、深い知性を感じさせられる整った顔立ち。
その瞬間、皆羽の世界は完全に変わってしまったのだ。
『……日本です』
フェム王女の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、皆羽は部屋の窓を突き破り飛び出した。
彼女の自宅は14階。マンションの最上階。地上からの高さは40m以上。
少女はベランダの柵を乗り越え、地上に向かってダイブする。
「皆羽あああーっ!?」
彼女の母親が、血相を変えてベランダから見下ろす。
そこには元気に地上を走り去る娘の姿が……!
「ああ、皆羽もそんな年頃なのね」
皆羽の母は、娘の無事を確認すると、にっこり笑って成長した娘を見送った。
◆◆◆
数日後――農林水産省機密円卓会議室。
中央の席に座る男は、農林水産省審議官・蘭沢興人。
野心家である彼は、思わぬ欠員の補填で五賢臣に急遽任命されたこの機会を逃すつもりはない。
農林水産四天王を招聘し、緊急極秘会議を開催したのも、グロリアス・オリュンピアを通じて省を益する戦略を練るためである。
「さて、諸君らの意見を聞こうか」
机に両肘を立て、両手を口元に置いた態勢で、五賢臣・蘭沢は静かに切り出した。
「大会は他省庁を出し抜く絶好のチャンスだ。特に、試合場を作ったとやらで大きな顔をしている国交省の土建屋どもには目にものを見せてやらねばならぬ」
「ヒッヒッヒッ、まずはこちらをご覧ください」
白衣を着た博士めいた男が指を鳴らすと、モニターに彼の品種改良した農作物のデータが映し出される。農業を司る四天王。IQ600を誇る恐るべき頭脳の持ち主だ。
「ヒッヒッヒッ、既に人体を用いた実験も成功しております。この農産物を使った料理を使い、王女をもてなすのです。一流の食材を使った酒池肉林の宴は必ずや王女もご満足され、自然と我ら農林水産省の株も上がるというもの。成功の暁には私に褒美を。ヒッヒヒッ」
「あら、あなた一人の手柄にするつもり? 酒池肉林ならば、当然私の肉の出番だと思うけど」
彼の言葉に反応したのは、ホルスタイン柄のセクシーな装束を着た妖艶な畜産の四天王だ。どっちの意味の『肉』でもてなす気なのか、少し不安を感じなくもない。
「俺の海産物を忘れてもらっては困るな。何せ、空を飛ぶ島だ。シーフードを食べる機会なぞそうあるまい。海の恵みは王女様を虜にすることだろう」
蟹めいた甲殻に身を包む異形の魔人が、ギシギシと鋏を鳴らす。水産を司る四天王、生身で一千気圧以上に耐えられる恐るべき潜水者だ。
「おれ材木で木彫りの熊作る。王女様のお土産にする」
チェーンソーを背負った山の如き男が巨大な木材を載せると、頑丈な円卓が軋んだ。1/1スケール木彫りの熊が王女様のお気に召すかどうかはさておき、その強靭なる体躯は林業を司る四天王に相応しいと言えよう。
「ヒッヒッヒッ、食料品の安全と流通を取り仕切る我々の力があれば、必ずや作戦は成功し農林水産省の栄光と繁栄は未来永劫約束されたも同然です。ヒヒッヒヒヒッ」
「クックックッ、私も恐ろしい部下を持ったものだ。諸君らの力があれば、他の五賢臣なぞ恐れずに足らずという事よ。ハッハッハッハッ」
蘭沢が高らかに笑い声をあげる。
その背後の壁面が砕け、巨大トレーラーが出現する。
鳴り響くブレーキ音、飛び散る瓦礫、舞い上がる粉塵。
トレーラーは円卓会議室の円卓ごと、蘭沢時雄と農林水産四天王を轢き潰した。
「ひいいいい……いま、建物の中の誰か轢いちゃったような……?」
真っ青な顔で暴走トレーラーのハンドルを握っているのは……門真奈々!
小学五年生なので、大型牽引二種免許は持ってない可能性が高い!
「問題ありません。位置よし。風向きよし。射出準備に入ります」
トレーラーの屋根の上に腕を組んで直立しているのは……木津皆羽!
皆羽の纏う勝負服は、観月小の標準服をベースに、フリルやビーズ等による改造が加えられている。
奈々の操作により、トレーラー後部のハッチが開いてゆく。
そこに収められていたのは、全長10mの古代カタパルト投石器!
皆羽と奈々は持ち場から移動して投石設置部に乗ると、傍にあるロープを切断した。
ロープ切断により射出機構の戒めが解け、蓄えられていた張力が轟音をあげる。
スプーン状部位が猛烈な速度でスイングし、空高く射出される二人!
天空へ向かって飛び立つ恐るべき加速度の中、互いを強く抱きしめる皆羽と奈々。
一瞬で高層ビル街を眼下に見下ろす高度まで上昇。もう人の姿は点よりも小さく見えなくなった。
気圧差で耳鳴りがする。頬を切る風は冷たく、死の気配を孕んでいる。
奈々は、いっそう強く皆羽のことを抱きしめる。
そうして皆羽の体温を感じていると、凍てつく風も寒くなく、恐怖も和らいだ。
飛び行く先は……東京都上空に停泊している、浮遊国家『エプシロン王国』。
なぜ二人が農林水産省に突っ込んだのか? 賢明な諸君ならすでにお分かりだろう。それは、浮遊大陸へカタパルトジャンプするために最適な位置に、たまたま農林水産省が存在したからだ!
「うん。計算……通りです!」
目的地である宙に浮く大地が近づき、皆羽が笑顔になる。
放物線運動のほぼ頂点、垂直方向の速度がほぼゼロになった地点で浮遊国家に到達。
王国の北西部、丘陵地帯の森林に二人は落下した。
◆◆◆
「いたたたた……うー、ミナちゃん大丈夫?」
「はい。上手いこと枝がクッションになってくれたみたいですね――見て!」
皆羽が指差す先、丘陵から見下ろす平野部に、エプシロン王国の街並みがあった。
整然と立ち並ぶ石造りの家々の間を水路が迷路のように巡り、大きな湖に注いでいる。
湖のほとりには、ひときわ大きな建物、エプシロン城がそびえ立つ。
「すごい……まるで魔法の国みたい」
異国の風景に目を奪われ、うっとりとつぶやく奈々。
「そうですね。魔法……そう、ここは確かに魔法の国です」
皆羽も同意した。まぎれもなく、ここは魔法の国だった。
魔法の国の、魅了の魔法に心を奪われて、皆羽はこうして空の果てまでやってきたのだ。
目的地は城の尖塔最上階、ファム王女の居室!
エプシロン城への潜入は、まったく問題なく成功した。
特に障害らしい障害すらなかった。
城の一層目は広く国民に開放されており、普通に歩いて入城することができたのだ。
更に、二人は天井裏の換気ダクトの中を通って立ち入り禁止区域に潜入。
小学生でなければ入れない、狭いダクト。
ダクトの構造については、皆羽は流出工事図面を入手して把握済みだ。
設備の急速な近代化と、高度情報社会への対応の遅れが生んだ、セキュリティーホールである。
しかし、尖塔ダクトの垂直登攀が間もなく終わり、王女の居室まであとわずかの時だった。
王女の間を守る近衛兵、ウーがダクトに潜む人物の気配を察知した。
「む、何奴!」
ウーは跳躍し、壁面を走る四角いダクトに回し蹴りを放った。
ダクトが破断し、中から二人の小学生が転がり出てくる。
「賊め、王女様を害するつもりか。何人たりとも此処は通さん。女子供とて容赦はせぬぞ」
近衛兵の中でも高位の実力を持ち、それゆえ尖塔の番人を務めるウーが拳法の構えを取る。
王家に伝わる治癒の秘薬がある限り、彼が不審者に手心を加える理由は一切ない。
仮に二人がここに来たのが何らかの間違いであっても、殺害後に蘇生すれば何の問題もないのだ。
「ミナちゃん、ここは私に任せて王女様のところへ!」
門真奈々が空手の構えを取り、ウーの正面に立つ。
奈々は、五年生でありながら、県大会の小学校高学年の部で準決勝まで勝ち進んだ実力者である。
「ありがとう!」
皆羽が礼を言い、ダクトに向かって振り返ろうとした瞬間。
乾いた空気の炸裂音が小さく二回、鳴った。
皆羽と奈々は、痛みを感じ、それぞれ自分の胸を見る。
制服に小さな穴が開き、その周辺にじわじわと赤い染みが広がっていた。
「通さぬ、と言ったはずだ」
ウーは拳士であり、拳銃の腕前に関しては達人とは言えない。
しかし、暗器術の応用による、隠し持った銃での早撃ちに反応できる者は少ないだろう。
皆羽の目に、門真奈々が倒れる姿がまるでスローモーションのように映った。
「奈々ああああーっ!」
皆羽は叫び、親友の仇めがけて猛然と突進した。
「待て! お前も撃たれたのに何故!?」
能力『初恋アンブレイカブル』は、皆羽の初恋を叶えるために肉体の致命的ダメージを無効化する。
ウーは冷静に連続射撃で応じる。消音器によって抑えられた銃声が、何度も響く。
数発が命中するが、その肌に僅かな傷を付けたのみ。
拳銃の残弾ゼロ。怒れる皆羽がウーに肉薄。
「ハァッ!」
ウーが蹴り上げた爪先が、皆羽の顎に命中した。
強烈な蹴りを受けて、皆羽の軽い体が宙に浮く。
「ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!」
空中で回避動作の取れぬ皆羽に対し、連続で突きを見舞う。
一瞬、套路が途切れた。
ウーは懐から弾丸のカートリッジを素早く取り出し再装填。
為すすべもなく宙に浮いた皆羽に、再度連続射撃! 全弾命中!
銃弾の雨を浴びた皆羽は硬い石造りの床に落下し、片膝をつく。
眼鏡の奥の瞳が、強い視線でウーのことをにらみつける。
短距離走のスタートのように床を蹴って最突進。
しかし、反撃を予想していたウーは、皆羽の体当たりを片手で事もなげに捌いた。
少女の細い右腕を体の後ろに回し、床に組み伏せる。
ウーは、皆羽の腕をへし折って無力化しようと試みたが、折れなかった。
能力『初恋アンブレイカブル』によって、その肉体が重大な損傷を受けることはない。
「恐るべき頑丈さだ。しかし、このまま縛り上げて牢に繋ぐことはできよう」
「私は……私は行かなきゃいけないんです!」
皆羽は必死でもがくが、腕が完全に固定されていて身動きができない。
「じき、衛兵が来る。それまで大人しくしておきたまえ」
ウーの言葉が冷徹に響く。
その背後に、忍び寄る影があった。
「言ったから……ここは私に任せてって言ったんだから!」
門真奈々は、死んではいなかった。
懸命な形相でウーに組み付き、皆羽から引き剥がそうとする。
「馬鹿な!? お前までも不死身だったのか!?」
ウーは己を恥じた。
確実に心臓を撃ち抜いたという思い込みで、もう一人の侵入者に対する警戒を怠っていた。
(いや、違う。私の失敗だ。銃弾は、心臓をわずかに逸れていたに違いない)
女子供だろうと、ウーは情け容赦なく殺すつもりだった。
だが、自分より遥かに背が低い人間を射殺する訓練を積んだわけでもなかった。
通常とは異なる射撃角度で命中精度が低下したとしても、それは彼の甘さによるものではない。
ウーによる拘束が緩んだ一瞬を、皆羽は逃さなかった。
強引に全身を回転させ、ウーの顔面に蹴りを見舞おうとする。
それは、本来であれば右肩が完全に破壊されるような無謀な動き。
だが、『初恋アンブレイカブル』が与えるのは肉体への絶対的加護。
皆羽の動作は、その能力によって『右肩を損傷しない動き』へと強引に補正される。
物理法則上ありえない軌道を描いた皆羽の蹴りがウーの顎に炸裂した。
予測不能の衝撃で、ウーの頭部が揺れる。脳震盪。
組み付いた奈々の腕の中で、意識を失ったウーの体から力が抜け、重さを増した。
◆◆◆
ついにたどり着いた王女の居室。
繊細な意匠の凝らされた大きな扉を、傷だらけの二人は押し開いた。
エプシロン王国第一王女、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンは椅子に腰掛け、書物に目を通していた。
透き通るようにきらめく、色素の薄い髪。まだ幼さの残る顔立ちにもかかわらず、溢れる気品。
突然の侵入者を見て目を丸くするが、けして取り乱すことなく、その目には好奇心の色が強かった。
対照的に、王女の傍に仕える侍女、ピャーチの慌てぶりは激しかった。
「な、ななな、何者っ!? どうやってここへ!?」
取り落としたティーセットからこぼれた紅茶が、柔らかな絨毯にしみを作る。
狼狽しながらも、王女を背に庇うように立ちはだかる。
いっぽう皆羽は、間近で見る愛しき人の姿に、雷に撃たれたような感銘を受けていた。
自然に体が動き、西洋の騎士がするように立て膝をついて、うやうやしく頭を垂れた。
すう、と一息大きく吸い込んでから、その想いを言葉に乗せて発する。
「一目見て、貴方のことが大好きになりました! 私と……お付き合いしてください!」
「ふふ。よいでしょう」
フェム王女はにっこり微笑んで、こう答えた。
その微笑みにこめられた気持ちはふたつ。
ひとつは、困難を乗り越えここまで潜入してきた皆羽への敬意。
「ただし、交際には条件があります。近く開かれる大会、グロリアス・オリュンピアに参加し、優勝なさい」
もうひとつは、皆羽の戦闘能力への興味。
少なくとも、近衛兵のウーを倒さねばこの部屋には辿り着けない。
彼の研ぎ澄まされた武術は、魔人能力の域に近いものであるはずだ。
ウーを倒すほどの戦いが間近であったのに見逃したことが、フェム王女は残念でならなかった。
後で『鏡』を使ってじっくり見よう、と思った。
「わかりました。必ずや勝ち上がって御覧に入れます。貴方のために」
皆羽は顔を上げ、真っ直ぐにフェム王女の方向を見て宣言した。
天井から吊るされた煌びやかな照明を映し、皆羽の眼鏡が光る。
力強い視線と、輝くような赤い頬。
その表情には根拠のない自信と、フェム王女に交際を認めてもらった喜びが溢れている。
奈々は、そんな皆羽を見て、誇らしい気持ちと同時に締め付けるような胸の痛みを感じた。
だが、心の中のもやもやした気持ちを無理やり振り払い、こう思った。
(よかった――頑張ってね、ミナちゃん)
皆羽と奈々は、駆けつけた衛兵たちによって治療を受けた後、丁重に見送られた。
衛兵たちの案内で小部屋に入ると、その内壁には五色の線で複雑な紋様が描かれていた。
その紋様に魅入られるように二人が部屋の中を見回しているうちに、ふっと二人の意識が遠のく。
次の瞬間、二人は農林水産省の敷地内に戻っていた。
道路を埋め尽くす緊急車両の赤い回転灯に包まれ、二人の王国訪問は終わりを告げた。
王国の衛兵から経緯の説明を受ける省の官僚が苦い顔をしているのを見て、皆羽は流石に少し申し訳ないことをしたような気分になった。
◆◆◆
皆羽と奈々が立ち去ってから少し経った後。
「フェム様――僭越ながら申し上げます。交際の約束などしてしまうのは、如何なものでしょうか」
侍女は、深刻な表情で王女に進言した。
「気を悪くしたのなら、ごめんなさいね。でも、婚約するわけでなし、お付き合いぐらい良いかと……あっ、もしかしてピャーチは女性同士でお付き合いすることに抵抗がある?」
「いえ、私自身はそのような偏見は……ですが、王女という立場にある者が、軽々しく交際なさることに、私は同意しかねます」
「……ふふ、そうですか」
ピャーチの言葉に、何かを察したフェム王女は、笑顔になった。
「あなたはよく気の回る人ですが、案外、鈍いところもあるのね」
「フェム様? それは、どのような意味で……」
ピャーチの問いに対してフェム王女が答えを返すことはなく、ただ悪戯っぽい微笑を返すだけ。
会見への随行を許されるほど王女から信頼されている忠実なる侍女は、当惑するばかり。
その侍女の髪は、流れるような美しい黒髪であった。
(木津皆羽プロローグおわり)