<EP0>
<PETAL IN THE DARKNESS >
人知れず夜に咲く花のように、少女の瞳はひらかれた。
闇のなかに咲いたそのうつくしい瞳は、しかし涙に深く濡れている。
それは夜ごとみる夢のためだった。
夢の光景はいつも同じ。
彼女がまだ幼いころからよく一緒に両親と観に出かけた桜の思い出。
元気に咲き誇る桜の並木、うれしそうに風に舞う花弁、やさしさの薫り。
二歳のとき、母親に抱かれて見上げた桜吹雪。風と踊るそれに手を伸ばした。ふれた花びらのあのやわらかさ。
六歳のとき、桜の木の下で家族みんなでお弁当を食べた。水筒に入れた紅茶を飲んでいたときに、カップの中に花びらが落ちてきて、それをみてみんなで笑ったこと。そのまま飲んだお茶のあまい香り。
十歳のとき、父親が自作の絵本の習作のため桜をデッサンしている横で、自分も一緒に父の色鉛筆を貸してもらって桜を描いたこと。桜色だけでなく、青や緑や紫や、すべての色を使って描きこんだ多色の絵を褒めてもらえたこと。それを今でもずっと部屋に飾ってあること。
いちばん印象深いのは高校入学のとき。
いつもの並木道で桜を見上げながら両親と散歩をしていたとき。
高校生になったらやりたいこと。部活のこと。中学までとは別々になってしまう友達のこと。新しく出会うであろう友達のこと。期待と不安。たくさん話した。
お母さんが「彼氏ができたらすぐに紹介してね!」と言うと、お父さんがわかりやすく動揺していたこと。
それをお母さんと一緒にからかったこと。
その直後につよい風が吹いて、いっせいに舞いあがった無数の桜の花びらにつつまれながら「わぁ」とみんなで歓声をあげたこと。
その中でお母さんが抱きしめてくれたこと。
幼いころからよくそうしてくれたように、彼女の顔を両手で包みながら頬を親指でこしこしっとなでて「おめでとうね、御咲ちゃん」と言ってくれたこと。
自分は確かにこの世界に祝福されているのだと信じることができた瞬間。
全部——かけがえのない——大切な……大切な思い出だ。
だが、心を幸福に充たしていたあまい蜜は夢の醒め際になって急速に濁り、劣化し、腐敗していく。
あたたかな甘露によってひととき鎮静されていた現実が首をもたげ幻想を残虐に喰い破って、鮮血のしたたる心の生々しい傷を見せつける。
大好きだった母は、もういないのだ。
無惨に殺されて、もういない。
彼女の頬を、またあんな風になでてくれることは、もうない。
「……おかあさん……」
彼女——御咲の瞳からまたあつい涙があふれるが、それは頬をつたって虚しく枕のつめたい染みになった。
❇︎
その起源には諸説ある。
法の光から隠れ潜む外国人労働者たちが、貧民窟でサヴァイヴしていくために自衛の手段として振るいはじめたスラングまみれのそれが原初であるという俗説もあれば、とある天才的な智極道が学識につちかわれたその素養を暴力に転化し、鬼神のごとく対抗組織の構成員の、あるいは裏切者たちの、そしてかつての親分や兄貴分たちの屍を築きあげ、みずからの一大勢力を暗黒街にうちたてたのが魁であるとの伝説もあった。
いや、天におわす“あのお方”がこの世を光と闇に分けたとき、その闇にすでにそれは息づいていたのだという神話も——。
いずれにしても、それはろくでもない暗黒の世界で、悪意と、奸計と、流血と、ナイフと、背徳と、肉片と、怒号と、ヤニと、骨と、鉛玉と、薬物と、脂と、吐瀉物と、苦痛と、精液と、糞尿と、官能と、悲鳴と、つめたい床と、涙と、そして死。
それらによって受胎し、はぐくまれ、蠢き、そして誕生した。
産声をあげた。
それが
「そうだ。これが“悪しき英語”だ」
“魔術師”に一撃された鉄塔の基礎脚部は甚大に奇形した。あまりに劇烈な変形のためにつよい熱を持ち、先ほどからまばらに降りはじめた冬の雨がその鉄肌でジュッと断末魔をあげて灼けた。
今しがたその驚異的な打撃をくりだした自身の左掌を無造作にひらいたりとじたりして、余韻を確かめながら右手のロックグラスに残っていた手製のマティーニ(オリーブなし。雨の雫入り)を呑みほし、用済みになったグラスを投げ捨てた。“魔術師”は苦しげにうずくまる少女に言う。
「ミサキ、今のおまえの程度ではほんの数秒、俺の前に敵として立ち続けることもかなわない。片手で酒をかたむけながらのこの俺にだ」静かな、厳かな声だった。怒りもなく、侮蔑もない。教会で聖典を読み聴かせながら教えさとす司祭のような。御咲の前にかがみこみながら、高級スーツの懐からシガレットケースを取りだし、その中の一本を咥えた。
冬の雨よりつめたい眼が、まばたきもせず真夜中の月のように御咲を見据えている。
凍てつく眼光を、御咲が精いっぱい奮いたたせた力でにらみ返すが、その瞳には見る見る涙が充ちていき、ついにはこぼれた。あわてて帽子を目深にずらしてその涙を隠したが、それでも震える華奢な両肩が、どうしようもなく十六歳の少女だった。
「今でも、そのへんでナイフをこれ見よがしにチラつかせながらチャチな栄光に浸っているような喧嘩士気取りの五人や十人、容易くに圧倒できるだろう。だが——かの大会に集結するような連中に、はたしておまえのその狡猾さが、無慈悲さが、憎悪が……とどくのか?」煙草に火をつけてたっぷり煙を肺の隅々まで行きわたらせていく。紫煙を吐きながらつづける。
「忘れるな。英語とは——人を傷つけるためにある」
“魔術師”は立ちあがる。咥え煙草のまま、持参した酒のボトルとバーツールをトランクケースにしまうと、雨をそそぎ続ける曇天を眼を細めてにらんだ。
「今夜だ。今夜俺は現地へ向かう。おまえが来ないなら、本来どうり俺が出場して俺が全員殺す。少しは楽しめる奴がいるといいが……だが、おまえも来るなら、約束どうり出場権はくれてやろう。だが——」ゆっくりと御咲に向きなおる。「今のままのおまえでは、犬死するだけだ。いかな名刀であれ、刃が研ぎいれられなければ鈍同然だ。俺の見込んだその才能——研ぎすませ。そして」
『約束』を果たせ、愛弟子よ。と“魔術師”は言い残した。
死神が愛用する戦車みたいな漆黒のランボルギーニが走り去ったあと、ひとり打ち棄てられて、今や倒壊しそうに歪んだ鉄塔の廃墟に取り残された御咲に、おそろしい主人がいなくなるのを見計らっていたかのように、つめたい雨たちが勢いよく降りそそいだ。
❇︎
深夜。
あの想い出の桜並木を、雨にうたれながら御咲は見上げていた。
広大な自然公園をぐるりと囲むように小川が流れている。その公園内の樹木の大部分がそうであり、小川のほとりにずらりと植えられているものも、またその小川に面した国道の両側に群列しているものも、すべて桜の木であった。
春には桜の名勝として多くの人に愛され、また桜たちも訪れる人々を祝福した。夢のなかにしかないはずの光景を現出させたかのような桜の咲き誇る輝きに満ちた場所。ここはまぎれもないひとつの聖地であった。
御咲は幻視する。
真冬の、花ひとつない殺風景な桜たちの、それでもそこにかつてあった花、その色彩や薫りを幻視する。それらとともにあった自分の想い出を探し、味わい、確かめる。懐かしそうに、愛おしそうに、寂しげに……見つめている。白い肌をいくつもの雨露がながれ、髪先から雫としてこぼれた。
時刻は二十三時を過ぎていた。
アイフォンの雨露に歪む時刻表示を見て、御咲は唇を噛んだ。
迷っていた。
だが、それでも決断は揺るがなかった。
一本の桜に歩みよって「ごめんね」と謝ってから、その枝をひとつ折り取った。そのまま路肩に停めた愛車のカフェレーサーにまたがりエンジンに火を蹴り入れると——
最後に——そう、最後に。
静かに目をつぶって、かつて母がこの桜の木の下で自分を抱きしめてくれたときのことを、大切に思い出す。
自分の右の頬をかじかむ指先でなでながら、かつて母がそこをなでてくれたときのことを、大切に、大切に、思い出した。
「……おかあさん……」
————やがて……
桜の枝をやさしく口に咥えると、降りしきる雨を散らしながらバイクは走り出した。
❇︎
ギアをひとつあげて、夜の桜の並木道を走り抜けていく。雨脚はさらにはげしくなり、御咲の身体を、カフェレーサーの灼熱するエンジンを、鎮まる桜の樹々を、果てなくのびる黒いアスファルトの路面を、容赦なく洗礼しつづけた。
行く手をはばむかのようなこの凍てつく雨粒のように、この道の先にはさまざまな災厄が待ち受けているだろう。
おそるべき能力に目覚めた魔人たちが。
空前絶後の魔技の使い手たちが。
筆舌に尽くしがたい怪物たちが。
そこには、きっと激しい痛みがあるだろう。
耐えられないほどの——。
命を——落とすのかもしれない。
こわかった!
おそろしかった!
父がよくつくってくれた自慢のビーフシチューの、あのホクホクのジャガイモの味がふいに脳裏をよぎった。ふくよかで人なつこく愛嬌のある笑顔のやさしい父のことを想う。気の弱いところがある人だけど、御咲と母を深く愛してくれた人。
その父が、自分がなにも言わずに家を飛び出して、今どんな気持ちでいるかを想像してはげしく胸が痛んだ。
瞳からは、この雨とはちがう、たしかな熱さを宿した水をながしている。
——だが『それでも』だった。
御咲が口に咥えた桜の枝が見る見る芽吹き、花開いていく。その花は無限の開華と無限の散華を繰り返しながらあたり一面に飛散していく。
それに呼応するかのように、周囲の桜の樹々も次々と満開と咲きこぼれ、桜の嵐がはげしい雨のなかをまるでたわむれるかのごとく舞い踊った。
幽玄の窮み。
この世ならざる幻想的美麗さであった。
真冬の夜の、仮初の春——。
雨を吸って充ち満ちる桜のあまい薫りのその只中を、さらにスピードをあげて御咲のバイクは突き抜けていく。
それでも——
それでも、あたしは——
「あたしは……おかあさんを取りもどす!!!」
御咲の心が叫んでいる。
ただ、両親の愛を一身に受けてやさしい心をはぐくみ、人々のささやかな営みを愛し、自分もそんな生活を通して一生をおくるのだと、無邪気に、無垢に、美しく信じていたその心が。
どうしようもなく十六歳の少女であるその心が。
御咲の心は叫びつづける。涙を流しながら叫びつづける。
どんなことをしてでも、あたしは必ずおかあさんを取りもどす、と。
そのために、この先に待ち受けるすべてのものをつらぬいていく。
ありとあらゆるDANGEROUSを——
だから、あたしはあたしを研ぎすます必要がある。この地獄の氷のようにつめたい、御咲の体温をむさぼる雨露たちはうってつけだ。
金属が砥石に身を削らせ、犠牲をはらって鋭い刃を手に入れるように、あたしはこの雨をつかって、自分の弱さを削りとり、強さを得るのだと。
これは禊。悲壮な生贄を強いる通過儀礼。
あたしの熱なら、好きなだけあげる——
スピードをまた押し上げる。
バイクのライトの照らし出す前方から御咲の身体に次々と打ちつけられてくる雨が、獲物の肉に狂喜乱舞しながら喰らいつく悪魔たちを思わせる。極限の思考のなかで“魔術師”に教わったおのれの身にながれる悪しき英語の純度を飛躍的に昂める呪文を思い出し——それを唱えた。
「MY NAME IS DARKNESS……」
そのままアクセルをさらにひらいて、感情をひきちぎった。
❇︎
御咲のカフェレーサーはもうはるか遠く——見えなくなった。
彼女の能力、サクララの影響をうしなった桜の花びらたちが、闇のなか、なにかを探すように虚空をさまよったあと——ついには力尽きて、濡れたアスファルトの上に累々と堕ちていった。それを乱れうつ雨が凌辱しながら川の濁流に引きずりこんだ。
冬の雨は、永劫の冷気をためこんだこの宇宙そのもののように、ほんとうにつめたかった。