プロローグ(佐渡ヶ谷 真望)
私立丸木戸高校はいわゆる上流階級に属する家庭の学生たちが通う名門校である。
一流の人材と一流の設備によって提供される一流の教育は開校から一貫して高い評価を集めているが、およそどのような組織・集団であってもそうであるように、入学する生徒のすべてがその水準に見合う精神性を有している訳ではない。
有り余る富と権力は人間の精神を容易に堕落させうる。それが自分の手で築いたものでないのなら尚更だ。
名門丸木戸高校に籍を置く人間であっても、それは決して例外ではなく。
「佐渡ヶ谷ィ!!」
茜色に染まった図書室に、場に馴染まぬ野卑な怒声が響き渡った。
名を呼ばれた少女――佐渡ヶ谷真望が豊かな銀髪を優雅に揺らして振り向くと、狭い通路を塞ぐように4人の男が立っていた。
先頭に立つ、見るからに柄の悪い男が書架を蹴りつけ、口角泡を飛ばしながら吠える。
「てめぇ、よくもクミを……俺の女を手籠めにしてくれやがったなぁ、ああ!?それなりの覚悟があってのことだよなぁ、おい!」
少女は形の良い唇を結んだまま、汚物を見るような目つきでその様を眺めている。
閑静な図書室で発せられた大声に反応する人間の気配はない。すでに人払いを済ませているのだろう。少女が独りになったタイミングで、目的を果たす為に。
真望の態度が気に入らないのか、男は増々激昂して語気を強めた。
「なんとか言えやこのクソアマ!土下座して命乞いするってんならちったぁ情けをくれてやるよ!ただし……」
男の後ろに控えていた3人が、その言葉を契機にずいと前に出た。いずれも強面の大男で、暴力の臭いを隠そうともしていない。真望は眉をひそめた。
「どの道、二度と表を歩けねぇツラにすんのは確定だがなァ!」
「……ああ」
磨りガラスのような質感の声が、少女の喉からまろび出た。
酷薄さを秘めた金の瞳が細まる。身長差ゆえに男たちが少女を見下ろしている形だが、逆に見下ろされているかのような威圧感。
「アンタ、クミの男?そういえばそんなことを言ってたわね」
明らかに嘲りを含んだ笑み。血のように紅い唇が、容赦のない言の葉を紡ぐ。
「あんまりどうでもいいことだからすっかり忘れていたわ。あの娘(コ)、わたしの足に縋りついて言ってたわよ。『もう貴女なしでは生きていけません』って。
そう、アンタのことも聞いたわね。自分勝手で独りよがりな短小野郎だったかしら」
「テメェ……!」
「それとも早漏野郎だったかしら?ま、どうでもいいわね。……そうね、憐れに思わないこともないから、アンタにはあの娘がわたしに躾けられてる場面を想像しながら自分を慰める権利を認めてあげる」
男の額に浮かぶ青筋や血走った目、むき出しになった犬歯が、いよいよ怒りの頂点が近いことを示していた。
そのような殺意に近い怒気を正面から浴びせられて、少女は傲岸な口ぶりをいささかも緩めることなく、男の理性にとどめとなる一撃を見舞った。
「特別に、喜びのあまりこの場でみじめったらしくむせび泣いてもいいわよ?その程度の見苦しさは許容してあげましょう。わたしは寛容な女王ですから」
「――ブチ殺せ!!」
怒号と共に、3人の巨漢が一斉に戦闘態勢に入った。
1人は両手に物々しい篭手を嵌めてボクシングのような構えを取り、1人は懐からスーパーボールを取り出して自らの眼球に押し込み、また1人は目にも止まらぬ速さで脱衣し、赤縄で亀甲型に縛られた己の肉体を誇示した。
真望は経験と才覚によって、3人がいずれも魔人能力者であることを見抜いている。艶めかしい舌先がちろりと唇を舐めた。
「いいわ。おいで」
パシン、と乾いた破裂音が響く。細身の懐中電灯ほどの筒に内蔵された、携帯用の鞭を振り抜いた音だった。
「可愛がってあげる」
「実の所、少しだけ……本当にほんの少し、小指の爪先よりも僅かだけれど、わたしは感心しているのよ」
折り重なって倒れた巨漢たちの上に腰を下ろし、鞭をゆるやかにたぐり寄せながら、真望は穏やかな口調で言った。
それは戦闘とすら呼べぬ、一方的な制圧だった。3人の巨漢はいずれもその魔人能力を発動することすらできず、細身の少女に鞭一本で行動不能に追い込まれたのである。
その鞭は先端が輪となって、先ほどまで口汚く喚いていた男の首に絡みつき、少女のたおやかな手付きに従って徐々にその締め付けを強めていた。
男は息も絶え絶えにあえぎながら鞭を外そうともがくが、少女の巧みなバランス操作に加え、彼我の高低差により半ば首吊りのような状態にあっては、成果は一向に挙がらなかった。
「下僕からアンタの女癖の悪さは聞いてるわ。あちこちで泣いてる娘がいるってね……立場上放ってもおけないし、いずれ躾けに行かなきゃいけないとは思ってたけど、アンタの方から来てくれて手間が省けたってこと。0.5㎛ぐらい見直したわ」
嗜虐的な笑みを浮かべながら、少女は鞭を持つ手に力をこめ、男の体を引きずり上げた。細い体躯に見合わぬ膂力。明らかな魔人の特質。
男の体は鞭によってかろうじて足先が着く程度にまで吊り上げられ、その口から踏みつぶされたカエルのような呻き声が漏れた。
「それで、どう?わたしの下僕になるっていうならこの辺りで許してあげてもいいけど。勿論わたしの言うことには絶対服従、靴をなめろと言えばなめる。便器をなめろと言えばなめる。わたしが呼んだら24時間365日どこにいようが飛んできて奉仕する。どう?できると誓える?」
「ゲッ……ぐごっ、あが、な゛、ガハッ」
「なに?言いたいことがあるならちゃんと言ってごらんなさい」
真望は容赦なく鞭を引き上げる。ほとんど宙吊りの状態となった男の脳内に、死の実感が溢れていく。ここで返事を返さねば、死ぬ。
「な゛……なる゛……な゛ります、がら、助け……」
「あらそう」
その一言で、真望はあっさりと男を解放した。
四つんばいになって激しくむせこみながら、必死に酸素を取りこむ男の眼前に、銀髪の少女はあくまでも優雅に降り立った。
涙で滲む視界の中、己を見下ろす女王は、慈愛の女神を思わせる微笑みを投げかけた。
次の瞬間に襲いかかった顎部への衝撃によって、男の意識は遥か彼方に飛ばされた。
真望が魔人の膂力でもって男の顎を蹴り上げ、失神せしめたのだ。彼にとって、あるいはそれは幸運であったかもしれない。
「――美しくない。賢くもない。慎ましさも淑やかさもない。自分の所有物を奪った相手に復讐を完遂する能もない。自分の所有物を奪った相手に最後まで反抗する気概もない。わたしに捧げるべきものを何一つ持たない貴様がわたしに奉仕するだと?」
言葉が吐き出される度に、空気が冷えていくようだった。女王たる者の怒気が、急速に場を凍り付かせていく。
仰向けになって泡を吹く男の股間に、ピンヒールが踏み落とされた。ぐちゃりと嫌な音と感触。赤黒い染みが、股間を中心に広がっていく。
「不遜にも程がある。貴様は下僕にする価値すらない」
カツン――と、一際高くヒールを響かせ、少女は銀髪を揺らしながら図書室を去っていく。
カーペットに転がる男どもの後処理など、彼女が心を砕くような問題ではない。わざわざ命じられずとも、下僕たる者たちが始末を付ける。
佐渡ヶ谷真望。
日本SM界における最高位の権威たる、佐渡ヶ谷家の一人娘である。
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佐渡ヶ谷家にとって、金曜日の夜は少々特別な意味を持つ。
真望の母、佐渡ヶ谷フランソワは全国の歓楽街に支店を持つSMクラブ『WhipLash』の総支配人であり、日本SM協会の理事も務めている。一方父の武田(旧姓)獅子雄は世界で活躍した元格闘家で、現役を引退した現在も数多くのTV番組に出演する人気タレントだ。
そんな多忙な両親が、一人娘と一緒に同じ食卓に着くと決めた日が、金曜の夜なのであった。
「学校の方はどうなの?」
ナプキンで口元を拭ってから、フランソワが尋ねた。洗練された、流れるように上品な動作は、それを見慣れたはずの真望にさえ新鮮な驚きをもたらす。
「ええ、いつも通り何ごともなく。クラスの皆もよくしてくれていますわ」
「そう、良いことね」
母の問いかけに対し当たり障りのない答えを返す真望だが、その言葉に両親を心配させまいとする気遣いが含まれている――訳ではない。
真望にとって今日のような襲撃は真実日常茶飯事であり、わざわざ報告するような事柄ではないだけだ。母フランソワもまた、その『日常』の範疇を理解していた。
「フゴゴフゴフゴゴフゴッフフォッフゴッフゴ」
「ええ、わたしもぜひそうしたいのですが、その、そこまで親密な関係になるきっかけが掴めないというか……」
真望の席からは父の姿は見えていない。母の椅子としての責務を果たしているからだ。
ギャグボールを噛ませた状態ではまともな発音は不可能だが、女王たる教育を受けた真望にとって、その意図を汲むことは容易い。下僕たる者の言葉が分からぬようでは女王失格である。
「フゴゴフォフゴンフゴゴフンフゴゴ、フゴフゴフンフフフォフゴウンッ!」
「女王とは孤高なもの。それもまた誇りある道を歩むということなのですよ、真望」
会話に気取られわずかに体勢が変化した隙を見逃さず、フランソワの鞭が獅子雄のボンテージ服に守られていないむき出しの尻を打った。
真望は小さく感嘆の吐息を漏らす。父ほどの下僕が主人を不快にさせるなどあり得ない。父に沸き起こったささやかなマゾ心が母を不愉快にさせぬ程度の揺れを生じ、また母もそれを見逃さず間髪を入れぬお仕置きを実行したのだ。なんという息の合ったプレイだろうか。
「ええ、承知しておりますわ」
「とはいえ、あなたももう16歳。そろそろパートナーを見つけなくてはね。この人のような素敵な下僕と巡り合えればいいのだけれど」
フランソワは愛おしげに赤く腫れた下僕の尻を撫でる。獅子雄は主人の体を一切揺らすことなく器用に身悶えした。
パートナー。佐渡ヶ谷家の後継者として、必ず直面する問題。
真望は思う。自分もいつか理想のパートナーを得て、あのような仲睦まじい夫婦としての関係を築くのだろうか。……築けるのだろうか。
「……はぁ~~~……」
入浴を終えて自室へと戻ってきた真望は、深いため息と共にベッドへ倒れ込んだ。半ば無意識でブタ――生物学的な意味で――のぬいぐるみを抱き寄せる。
同時に枕元の携帯に手を伸ばし、SNS上に溜まった下僕どもへの返信を打っていく。下僕の品質管理もれっきとした女王の仕事であり、手抜きは許されない。
もはや思考するまでもなく、条件反射的に返信していく内に、真望の思考は先ほどの母の言葉を反芻していた。
『そろそろパートナーを見つけなくてはね』
佐渡ヶ谷真望には秘密がある。誰にも、両親にも話していない秘密が。
「パートナー、かぁ……今日みたいなザコは論外だし、もっともっと強い殿方……最低でもお父さまより……ううん、わたしよりも強い方……男らしくて、たくましくて……」
理想のパートナーに想いを馳せる。いつもそうであるように頭がぼんやりしてきて、下腹部の奥が熱くうずき始める。
「わたしより、ずっとずっと強い殿方にめちゃくちゃにされて、屈辱と絶望の限りを味わわされて、公衆の面前で顔を地べたに押し付けられて、むりやりギャグボールを……鼻フックを……ああ、そんな、でも……いい……!」
熱い吐息を漏らしながら、真望は燃え盛る情欲を鎮めようと試みる。絶対の強者、産まれついての女王として育てられてきた己を屈服させ、強引に下僕にされる屈辱は、想像するだけで彼女の芯を痺れさせた。
生粋の女王、つまりはドSの血を継承し続け、夜の支配者として君臨してきた一族、佐渡ヶ谷家。
その唯一の跡取りたる佐渡ヶ谷真望は、生来のドMであった。
一仕事を終え、真望は倦怠感に支配されたまま、リモコンを片手になにを考えるでもなくテレビ番組をザッピングしていた。
ふかふかのベッドに体を横たえ、ただ世俗の情報を聞き流すだけの時間は、常に女王として気を張り続ける彼女にとって必要不可欠なものだ。
『日本政府は増加するサンプル花子への対策として一時的に人権を剥奪する法案を提示し、多くの人権団体がこれに対して抗議声明を――』
『見てください、この大きなカニ!本日は漁港でとれたての新鮮なカニをそのまま急速冷凍――』
『CMのあとは武田獅子雄のグルメ道場破りのコーナー!本日のゲストはお昼の顔でお馴染みのあの人!?』
『フェム王女来日に際し、都議会は魔人によるトーナメント大会の開催を正式に決定し、優勝者には多額の賞金と可能な限りの願いを叶える権利が――』
『なんとお値段9800円!こちら税込み送料込みとなります!そして今ご注文をいただいた方に限り!なんともれなくもう一杯――』
「……え?」
真望は思わず身を起こした。あの大きなカニが二杯で税込み9800円……!?
「――じゃない!魔人の、トーナメント大会……!?」
慌ててチャンネルを戻す。画面にはカメラに向かって手を振るフェム王女と、開催される大会の要約が映し出されていた。
真望の思考が急速に回転を始める。そして。
「……これだ。これだわ、この大会なら……!」
強者の集まるこの大会ならば。
きっと自分を完膚なきまでに打ちのめし、屈服させてくれる殿方がいるに違いない。
両親に面と向かって己の性癖を打ち明ける勇気はないが、本当に強い殿方を前にすれば、そんな心理の枷も吹き飛んで、偽らざる本当の自分として生きていけるはず。
従順で忠実で、なにも悩む必要のない、、下僕としての人生を。
かくしてこの夜、佐渡ヶ谷真望は己の持てるあらゆる手段をもって『グロリアス・オリュンピア』へ出場することを決意したのだった。