プロローグ(叢雨 雫)

<1>


集団下校の通り道に今日もその人はいました。

交通安全の手旗を振りながら、車をせき止めて、運転手さんにぺこぺこしたり、
帰っていく子達に「ころぶなよー」なんて声をかけたりしています。

まるでモデルさんみたいなキリリとした顔とスタイル。
胸があるので女の人なのでしょうが、イケメンという言葉がしっくりときます。

半月ほど前にポッと現れたこの人が今、
私の学校で少し話題になっています。

「自分のことをヒーローと言っている」「無くしたカギを一緒に探してくれた」
「車にひかれそうになったところを守ってくれた」「おっぱいがすごい」
「アメをくれた」「手品を見せてくれる」「悪い中学生から守ってくれた」

クラスの子達の会話を、本を読んでいるフリをしながらこっそりと聞き続けた結果、
たくさんのことがわかりました。

話をまとめると、どうやらあの人は、
「相談すればなんでも解決してくれる親切な人」であるようなのです。

それがわかってから、私はチャンスを探っていました。
私の悩みを聞いて貰うチャンスを。

何日か様子をうかがう日が続きましたが、機会は訪れませんでした。
でもそのかわり、お姉さんをじっくりと観察することができました。
その中でどうやらウワサが本当らしいということもわかってきました。

ウワサが本当なのであれば、あとはお願いするだけです!

そこで「今日こそは」と、たくさんの準備をしてきました。
普段は行かない学童で本を読んで時間を潰し、集団下校を避け……。
そして遠くの物陰からこうして様子をうかがい、
お姉さんと二人きりになれる時を待っていたのです。

周りの人通りはあいかわらず多いですが、
きいろの帽子を被った学校の子の姿はなくなりました。

集団下校の切れ目。

ーー今しかない!

決心して、お姉さんの元へ近づいていきます。
こちらに気付いたお姉さんがパタパタと旗を振ってくれました。

「気をつけて帰んなよー」

柔らかな笑顔を向けてくるお姉さんに、ずんずんと歩み寄っていきます。

「おっ?おっ?」

私が傍に来たのを認めて、お姉さんはしゃがんで目線を合わせてくれました。

おっ……! おっぱい!
おっぱいが大きくて近い!

なんという迫力でしょうか……!
目の前におりて来たそれに威圧され、つい一歩下がってしまいました。
えっちな男子たち騒いでいたのも納得の存在感です。

「オレに用かい? お嬢ちゃん」

おっぱいにめげず、一歩前へ出た私の心の中を察してか、お姉さんはそう聞いてくれました。
男の人のような喋り方に少しびっくりしましたが、それはそれ。
話が早いと封筒を差し出しました。
犬の形をしたハリガネ飾りの付いたお年玉袋です。

「んァ~? いらねぇよ金なんか。
困ったことがあるから来たんだろ?
さっさと言いな、どんな悩みでも瞬殺してやるよ」

「でも、人にモノを頼む時はちゃんとしなさいって、おじいちゃんが……」

「はッ、そいつァじいちゃんが正しいな。
……そうさな、じゃあそれくれよ」

そう言ってお姉さんは犬の飾りを指差しました。

「こんなのでいいんですか?」

「ああ、ちょうどこんなのが欲しかった。 めちゃくちゃキュートでサイコーだ」

受け取った飾りを数度眺めて、嬉しそうにポッケの中に滑りこませました。

「で、何をお望みかな?」

お姉さんの問いかけに、私はもう一度周りに学校の人がいないかを確認し、
小さな声で告げました。

「……友達。友達が欲しいんです。クラスのみんなと仲良くしたい」

それまでニヤニヤしていたお姉さんが、急に難しい顔になりました。
なんでもアッという間に解決してくれるとウワサのお姉さんでも、
人間関係のトラブルは専門外だったのでしょうか。

「お前、友達いないのか」

「うっ……。 はい、いません……」

あまりにもストレートな問いかけに、心が痛くなりました。
悲しくて、返事からも力が抜けてしまいます。

「はァ~~~っ!? なんで?」

なっ! 「なんで」とはなんですか!
真剣な相談を小ばかにされたような反応に私は言葉を失いましたが、
お姉さんは構わず続けます。

「ンなことあるハズねぇって。
ちょっと喋っただけだがよ……お前いい奴だろ?
頭も良さそうだし、見た目もメチャかわいい。
そんな奴に友達がいないはずがねぇ! なんかの間違いだ!」

「……ッ!? て、適当なこと言わないで下さい!」

傷口に塩を塗られたと思えば、急にハチミツを塗りたくられて……!
不意を突かれた私は、わけがわからなくなって、顔が熱くなるのを感じました。

「適当じゃねぇさ。
ここンとこず~~~っと、チラチラチラチラこっち見てたろ?
話しかけるタイミングを窺ってた……そうだよな。それに年上への言葉遣い。
お前は人を見て……人のことを考えて自分を合わせることのできるいい奴だ。
それにかわいい。
クラスの奴らがどんな考えかは知らねーが、少なくとも世の中的には……。
……いや、ちげーな。 少なくともオレはお前みたいな奴とダチになりてぇよ。
かわいいしな」

まっすぐな瞳で見つめられ、刻むようにかわいいかわいいと言われ、
勘違いではなく顔が熱くなってきました。
真っ赤なほっぺの自分を想像して、恥ずかしくて思わずうつむいてしまいました。

「だからよ、もうちょっと詳しく聞かせてみ?
たぶんなんかの間違いなんだって」

笑ってお姉さんは促します。
力強く「間違いだ」と言いきられ、心が少し軽くなるのを感じました。

「……昔は、普通に友達がいたんです。
楽しくおしゃべりして……休み時間も一緒に遊んで……。
でも、ある日学校に行ったら、それまで仲良くしていた子達が急に冷たくなって……」

「そりゃあ……おめェ……。
なんかやらかしたんだろ?」

「私もそう思いました。
でも、心当たりが無くて……。
その時一番仲が良かった子に相談しても、『ごめんね』とだけ言われて……」

「なんだそりゃ、わけわかんねぇな」

「わかりませんよね……」

「いつ頃からそうなったんだ?」

「ええと、2年生の1学期からですから……だいたい3年前からです」

「は? 3年!? ……えっ、おまっ! マジか!?
3年もボッチキメてんの!? つらくねぇ!?」

「ボッチ……?
ええ、まぁ、つらいですよ……。だからこうして相談に来たんです。
自分でやれることは全部やったつもりですが、どうにもならなくて……。
そのうち、だんだんと怖くなって、今では満足に話しかけることもできなくなりました……」

「ウェ~~~! かわいそ~~~~!
……あっ、アレだ、先生に相談は?
『イジメられてま~す!』って言やァなんとかしてくれンだろ?」

「イジメ……とは、何か違うような気がして……。
無視されたり、ひどい扱いを受けたことはないんです。
ただ、なんとなくよそよそしくなっただけで……。
……それに実は先生も、なんだか私と距離をとりたがっているようで……」

「はぁ~~~? 先生もか!?
意味わかんねぇな!」

お姉さんは頭を抱え、「わっかんねぇ!わっかんねぇ!」としばらくうなっていましたが、
急に吹っ切れたように明るい表情になり、スッと立ち上がりました。
そして、手に持っていたビニールの傘を剣のようにかざして言いました。

「よ~~し、わかったぞ!
全然わからんから、とりあえず殴ってみよう!」

「え!?」

「殴ったら治るかもしれねェだろ?」

「殴るって……何をです?」

「先生」

「ええっ!
そっ、そんな、……家電じゃないんですから殴っても治りませんよ!」

「なんでやってもねェのに決めつけンだよ!!
意外とアレだ、ぽこんと治るかもしれンだろ!?」

「無理ですって! 発想が蛮族過ぎます!
それにそんなことしたらお姉さん捕まっちゃいますよ!?」

「あー、それは大丈夫。 オレ、ヒーローだから。
悪い奴殴ってもいいルールになってる」

「意味がわかりません!」

「大丈夫だって、とりあえず殴るのは先生だけにしとッから!
子供殴んのは流石に悪い気がすっからよォ……へへッ」

「『へへ』じゃないですよ! なに『常識的だろ?』って顔してるんですか!
先生を殴るのもアウトですって!」

名案だと思うけどなァ、などと食い下がるお姉さんを必死で説得しました。
とにかくすぐさま学校に出向いて叩いたり蹴ったりして事を荒立てたがるお姉さんを、
体を張ってその場にとどめて、なんとか先生のきれいな顔面を死守しました。

押したり引いたりを繰り返すうちに、疲れたのか、
お姉さんはややトーンダウンして言いました。

「殴っちゃダメとなると……ちくしょう、万策尽きたぜ……」

「万策の意味わかって言ってます?
まだひとつ目のどうしようもない策が消えただけですが」

「だってよォ……お嬢ちゃん。
お前が3年かけて色々試して……それでダメだったんだろ?
オレより賢そうなお前がだ。
……だったらよォ、やってないこと試してみるしかねェだろうに」

「それは確かにそうですが、人の道を外れるようなことはいけません。
……おじいちゃんがそう言っていました」

「カァ~~~ッ! お前もお前のじいちゃんもほんとにカッケェな!
3年も1人で耐えて、イジメてきた奴らをかばって……!
それでも合法で前向きな解決策を探すってぇのか?
普通なぁ、3年もーー

何かを言いかけたお姉さんがハッとしたように言葉を止めました。

「3年……? 3年ってーと、もしかして……」

ぶつぶつと独り言を並べながら、
お姉さんは私の全身を舐めるように下から上までジロジロと見てきました。
蛇が這いまわるようなうねうねとした視線はやがて胸元でピタリと止まりました。

真剣な眼差しが胸に注がれます。
熱烈な視線に耐えられず、考えるより早く腕が前を隠していました。

「なっ、なんですか!」

「ハァ~~~!? なに色気づいてんだクソが!
手ぇどけろ! 名札だよ名札!」

「へ、名札?」

「……あのよォ、嬢ちゃん。
今更なんだが、名前はなんてーの?」

花凛(かりん)……。 竜胆 花凛(りんどう かりん)ですが、
それがどうかしましたか?」

「カッ! ハァ~~~~~~ッ! バカ!! 本当にバカ!! 最悪!!」

「バカとは!?」

「先に言えよバカ!! 全部わかったわ! クソが!!」

怒ったような口調ですが、その中には喜びの感情が混じっているようにも感じられました。

「いいか花凛、『もう問題は解決している』んだ。
オレの言う通りにしろ。
ちょっと辛いかもしれんが、クラスの奴にもう一度勇気を出して話しかけてみろ。
……そうだな、とりあえず1人に狙いを絞れ。
はじめは冷たくされるだろうが、話しかけ続けろ……それでもうこの話は終わりだ。
そうすりゃお前には友達ができる! 必ず! 絶対!」

「ちょっと待って下さい、いきなりなんですか!
わかったって、どういう……」

「うるせぇ! いいから言う通りにしろ!」

「なっ……! それじゃあ納得できません!」

確かにお姉さんの言葉には真実味があります。
当てずっぽうではない、何らかの根拠があるのでしょう。
……だからと言って、ハイそうですかとは引き下がれません。

道理の分からないことに身を委ねてはならないと、おじいちゃんが言っていたからです。
それに、単純に気になります。
あの日、クラスの皆に何があったのか。

「なぁ……頼むよ。
そういうこともあるんだ……知らない方がいいことが、世の中には。
オレだってなァ……! ホントは全部教えてやりてぇんだよ……!」

「だったら、お願いします。 教えて下さい」

「ダメなんだ、言ったら殺されちまう」

ころ、される……?

誰かが、お姉さんを殺す?

誰が?

言い方からして、立場が上の人でしょうか。
上司? 先輩? 管理人?

「殺される」と言うくらいですから、きっとその人は、
気安く暴力を行使する性質を持っているのでしょう。

その人と私がクラスで浮いてしまった理由には関連性がある。

一体、誰……?

……いや、違う。

先に考えるべきは『人』ではなく『関連性』の方。

どんなつながりであれば、
「私に友達がいないこと」と「お姉さんが殺されること」が結びつくのか。

例えば、そうーー

「やめろ! ストップ!! ストーップ!!
今なんか考えてるだろ!? やめろそういうの!
お前、頭いいんだから考えるな!! わかっちまったらどうするんだ! バカになれ!!」

お姉さんは再びしゃがみ、私の頭を小刻みにゆすってきました。

「ひゃっ! ちょ、やめっ!」

ひとしきりゆすった後、頭を両手で支えたまま、
優しい口調でお姉さんは語り掛けてきました。

「信じてくれ。
詳しく言えないのは俺のためでもあるが、何よりもお前のためなんだ。
これは……そう、誰も悪くねぇんだ。
クラスの奴らはもちろん、『そうなるように願った奴ら』もいい奴で……。
クソッ……!」

「……なぜ言えないかも、教えてはもらえないんですか?」

「ああ、今は……な。
だが約束する、お前が大きくなったら必ず全部教えてやる!
だから今は我慢してくれ。
高校……いや、中学にあがったら、必ず話してやるよ」

「そう、ですか……」

胸のモヤモヤは晴れませんが、
かと言ってお姉さんが嘘を言っているようにも思えませんでした。

悔しそうな口調も、「私のため」なんていう言い訳がましい主張も、
何もかもが真実なんだろうと思わせる力が、お姉さんにはあったのです。

「わかりました」

そう言った私の頭をお姉さんはガシガシと撫でまわしました。

「おめェ、やっぱりいい奴だな!
いい奴にはひとつ、プレゼントをやろう」

そう言ってお姉さんは携帯端末を取り出しました。

「花凛は何年の何組だ?」

「えっと、5の2です」

スイスイと端末を操作したお姉さんは、何かを見つめて言いました。

「『山口』ってクリクリした小僧、クラスにいるだろ?」

「あっ、野球クラブの山口君! はい、知ってます!」

「さっきそいつに『飼い猫が昨日から帰って来てないから探して欲しい』って頼まれたんだわ。
……それでよ、もしよかったら一緒に行かねぇか?
お前も手伝ったとなりゃ、小僧と話すきっかけにならねぇかと思ってよ。
あの小僧、ちょっと話したけどスゲェいい奴だったし、友達になったら楽しいと思うんだ。
……どうよ?」

ステキな提案に考える間も無く、私は首を縦に振りました。




<2>


「それは何をしているんですか?」

迷い猫探しのスタートは、お姉さんの奇妙な行動からでした。

「んァ~? やったことねえ? ≪傘占い≫だよ。
猫の居場所を占ってんの」

傘を地面に立てて、手を放して倒す。
倒れた傘をまた起こして、もう一度。
それをさっきから何度も何度も繰り返しています。

「それ、1回じゃダメなんですか」

「おお、1回じゃハズレちまうかもしれねぇからな!
最低10回、時間があるならできるだけいっぱいやりてぇんだ」

回数を増やしても結局あてずっぽうなのだから意味が無いのでは?……という考えを飲み込み、
しばらくお姉さんの様子を見ていると、不思議な現象が見えてきました。

「……へへっ、気付いたか」

「はい……! でもそれ、どうなってるんですか!?」

「手品だよ手品、面白いだろ?」

お姉さんの傘は、ある一定の方向に多くの回数倒れ込んでいました。

「つまり、あっちに猫がいる……?」

「まぁそうなんだろうな」

「いや、でも……!
地面の微妙な傾きや傘の先端を置いた場所の状態、
手を放すお姉さんの位置なんかが合わさって、
特定の方向に倒れやすくなってるだけかも……!」

「ようわからんけど、疑うなら花凛もやってみっか?」

そう言ってお姉さんは傘を手渡してきました。
私は地面を足でならし、体の位置や放す手を左右変えてみたり……、
条件をいくつか変えながら、何度も傘を倒しました。

「ええ、すごい……。 なにこれぇ……」

「だから手品だって。 ヒーロー手品」

それでも、傘は何度も同じ向きを示しました。
悪戯っぽくお姉さんは笑いました。








その後、ちょっと進んでは傘を倒し、ちょっと進んでは傘を倒しを繰り返しているうちに、
通学路からやや離れた商店街まで来ました。

往来の真ん中で立ち止まったお姉さんは私に言いました。

「たぶんこの近くだから、集中して探すわ。
しばらく話しかけンなよ?」

そう言うとお姉さんは目を閉じ顔をやや上に向け、額にコブシを当てました。
またしても奇行ですが、行き交う人たちは悪いように受け取りませんでした。

……というのもこのお姉さん、黙って立っている分にはモデルも顔負けの美人さんなのです。
変なポーズも顔の良さで覆い隠され、なんだか彫刻のような造形美すら覚えてしまいます。
すれ違う人たちの視線や溜息がその感性を肯定してくれます。

そんなことを考えている間に、お姉さんは猫を見つけたようです。
どうやったのかと聞いても、「ヒーロー手品」としか答えてくれませんでしたが、
どうやら占いよりは自信はあるようで、グイグイと先に進んでいきます。

はぐれないよう、お姉さんの後をついていく途中、ぽつりぽつりと雪が降ってきました。

「ほらよ、使いな」

お姉さんはビニール傘を私に渡してくれました。

「いいんですか?」

「遠慮すんな、オレにはこれがあるから」

そう言って、お姉さんは土まみれの傘を差しました。
あれは先ほどまで占いで使っていた傘です。

「あれ、じゃあコレは……?」

私は渡された傘を注意深く観察しました。
いたって普通のコンビニ傘のように思えます。

私の記憶違いでなければ、お姉さんは傘を一本しか持っていませんでした。
他に手荷物はありませんし、持っているのは手旗のみです。

もし傘を最初から二本持っていたなら、それはきっと印象に残っているはず。

では、この傘は一体。

「……ンだよ! パクったんじゃねぇからな?」

「また手品ですか」

「おう、わかってきたじゃねぇか」








雪がやや強くなってきた頃、私達は目的の場所に着きました。

「あそこだ」

お姉さんが指差したのは、銭湯の太い煙突の上でした。
チラチラと降る雪と、立ち上る煙のせいでよく見えませんが、
確かに上の方で何かが動いたような気がしました。

あれが……山口君の猫?
登るだけ登って、降りられなくなってしまったのでしょうか。

「ちょっと行ってくらァ! これよろしく!」

「あっ、ちょっと!」

言うが早いか、お姉さんは交通安全の手旗を私に投げ渡しました。

そして泥棒のように人目を気にしつつ、タイミングを見てひょいと塀によじ登り、
ぴょんと跳び、屋根の端に掴まりました。
そして懸垂のように体を持ち上げ、屋根にのぼりました。

一度こちらを向いてぐっとガッツポーズをしてきたので、
私も旗を振って頑張れの気持ちを伝えました。

そのあとお姉さんは傘を口にくわえて、
煙突についた点検用のはしごをテンポよく登っていきました。

まるでアクションゲームのキャラクターのようなサクサクとした動きで、
煙突を半分ほどまで登った、ちょうどその時でした。

煙突の上にいた影が、勢いよく登って来るお姉さんにびっくりしたのか、
飛び降りてしまったのです!

「きゃっ!」

反射的に目を閉じてしまいました。
いくら猫とはいえ、あの高さから落ちて、無事なはずがありません。

最悪な想像が頭を埋め尽くし、マフラーの内に嫌な汗がにじみます。

しかし、しばらくしても大きな音や、周囲の人のざわめきは聞こえていませんでした。

おそるおそる目を開くと、目の前には大きな三毛猫を抱えたお姉さんの姿がありました。

「……こンのッ!! バッッカ野郎!!
なんで飛ぶんだよ! 死ぬとこだったんだぞ、オイ! オイオイオイ!」

そう言いながら猫の喉元を猛烈な勢いでナデナデしています。
ぶみゃんぶみゃんと気持ちよさそうに猫は鳴いています。

「あの……今、落ちましたよね」

目の前の状況が理解できず、思ったことをそのまま口に出してしまいました。

「おお、このブテ公が飛びやがってよォ……!
……オイ、聞いてんのか? テメェのことだぞ? オイオイ!」

「……お姉さん、さっきまであそこにいませんでしたか?」

そう言って、煙突を指差します。

「あァン? 見てなかったのかよ。
ええとな、……コイツが飛んだの見て、ヤベッと思って……。
それでダダっと行ってガッてして、バサッ!からのフワッ……でストンだ!
わかったか!」

「『ダダっと行ってガッってして、バサッ!からのフワッ……でストン』」

「そういうこと!」

くるんと、お姉さんは差していたビニール傘を得意げにまわしました。








「よかったんですか、家まで連れて行かなくて」

「降ろしてやったんだからあとは勝手に帰るさ。
別に怪我もなかったしな」

お姉さんと私は並んで住宅街を歩いています。
猫探しのミッションを無事に終え、帰路についているところです。

「明日クリ坊主を見かけたらよォ~、
『お前のクラスの花凛って奴に猫探しを手伝って貰った』って伝えてやる。
そっからはまぁ、若いモン同士上手くやってくれや」

「……はい」

果たして本当にうまくやれるのか。
その心配が私の返事を鈍くさせます。

今日お姉さんに相談するまで、みんなと仲良くなるために、
やれることは全てやってきたつもりです。
その中には「頑張って話しかける」という作戦も当然含まれていました。

猫をきっかけに話しかけても、冷たくされたらどうしようと考えるだけで、
冷たい体がさらにゾクリと冷え込みます。

『……ごめんね』

友達だと思っていた子に言われた言葉が、急に頭の中で再生されました。
それをきっかけに、辛かった思い出が次から次へと頭の中に浮かんできます。

違うことを考えようとすればするほど、思い出はより鮮明になり、
息が苦しくなります。

その時、ドンと体に衝撃が走りました。

前を歩くお姉さんにぶつかってしまったのだと気付くまで少し時間がかかりました。
慌てて謝ろうとした私よりも早く、お姉さんが口を開きました。

「止んだな」

何のことかとお姉さんの方を見ると、お姉さんは空を見上げていました。
そこでようやく、これまで降っていた雪が止んだのだと分りました。

お姉さんは傘を閉じ、ビュンと時代劇のお侍さんのようにそれを振り、
水滴を払いました。

私も傘を閉じ、トントンと先端をアスファルトに打ち付け、水を切りました。
それからハンカチで落としきれなかった水分をぬぐい、止め紐をくるりと一周させ、
ボタンを留めました。

「お姉さん、これ……ありがとうございました」

差し出した持ち手を、お姉さんはやんわりと手のひらで押し返します。

「やるよ」とお姉さんは短く言いました。

「さっき見たろ?
それ、……すげぇ傘なんだよ。
モノはただのコンビニ傘なんだが、中身がすげぇ。
力を込めといた。ヒーローの力を。
身に着けなくてもいい。花凛が持ってるだけで、少しだけ幸せな奇跡が起こる。
なんとなく……そう、いろんなことが……いいかんじにうまくいく」

「……例えば、友達ができたり?」

「それだ!」

「……あはっ」

お姉さんがわかりやすく励ましてくれたのが嬉しくて、笑みがこぼれました。

その時、厚い雪雲の切れ間からお日様の光が射しました。

「わあっ」

キラキラと遠くで降る雪が照らされ、
万華鏡の中に入ったかのようなステキな景色が目の前に現れました。
それは、とてもとても綺麗で、まるで絵本の挿絵のようでした。

「……なっ、さっそくご利益あっただろ?」

ニカッとお姉さんは笑いました。

体の中で渦巻いていた黒いもやもやが、頭のてっぺんから出ていくような。
そんな感覚がありました。

久しぶりに早く学校に行きたいと思いました。
こんな気持ちはいつぶりでしょうか。

きっと、何もかも上手くいくのだろう……そんな予感がしました。




ーーそのすぐあと

ーー突然、とてもうるさいエンジンの音が聞こえてきました。




<3>


閑静な住宅街。雪のおかげで人通りはまばら。
プロはその絶好の機会を見逃さなかった。

荷物の搬送に特化した大型乗用車が2人の人物の横へ、
鈍く大きなブレーキ音と共に急停止した。

スライドドアが勢いよく開け放たれ、中から覆面を被った屈強な男性2名が飛び出した!
狙いはランドセルを背負った女児ーー竜胆花凛!

「ンだテメェ!」

女児の傍にいた黒いスーツの女性が庇うように前に出た。
そして手に持っていた傘で先頭の男を殴りつけた。
傘は男の肩を捕らえ、衝撃に耐えられず中頃でポキリと折れた。

返礼とばかりに撃ち放たれた拳が、女性の脇腹を捕らえた。
カエルのつぶれたような声が躰の奥から漏れ出る。

ーー男達の手が、女児にかかる。

女性は腹を打たれ悶えながらも、女児を抱きかかえ、地面に倒れ込んだ。
直後、アラート。
ランドセル側面にとりついていたドロップ型の防犯ブザーがけたたましい警告音を鳴らした。

男達は暴力的に引きはがしにかかるが、女性は粘り強い抵抗を見せる。

柔道の抑え込み技に対抗する構えのように、四肢をとられないよう丸まり、
耐える。

頭皮ごと引き抜かんばかりに髪を引かれ、コンクリに頭部を打ち付けられても、
無防備な横っ腹につまさきをねじこまれても、女児を放さない!

時折持ち上げられないよう重心を振り、不用意な手が目の前にあれば、噛みついた!

痺れを切らした男がスタンガンを取り出した。

「だめです! ≪孫≫が死んじゃいますって!」

別の男が諫める。

ーー襲撃より10秒と少し、まばらだが、
確かにそこに存在する通行人達がブザーに注目をはじめた。

男達に焦りが生じる。その時だった。

運転席のドアが開き、更に男が一人飛び出して来た。

「もういい! そいつごと攫うぞ!」




<4>


薄暗い車内。
震動が、高速で走行していることを伝えてくる。

ちょっとした部屋ほどもある車内後部の空間には4人の男女がいた。

2人は覆面をとった屈強な男性。
1人は携帯端末を持ち、1人はスタンガンを弄んでいる。
1人は気を失った幼女ーー竜胆花凛。
そして最後の1人は成人女性。

一切の衣服をはぎ取られ、その手足は梱包用の結束紐で固められている。
口には布が噛まされ、体には生々しい暴行のあとが見られる。

バチッ

カセットコンロの点火時のような音がし、
それに呼応して豚のような悲鳴があがった。

「なんだったんだよこいつはよォ~~!」

バチリ

そう言って、男は憂さを晴らすように再びスタンガンを起動させた。
女性の身体が再び弓なりにのけぞる。

雨宮(あまみや)……雨宮 静流(あまみや しずる)、22歳、会社員」

もう一人の男が女性から押収した携帯端末を操作しながら答えた。
指紋認証を突破されたそれは、主人の個人情報を赤裸々に語る。

「ンなことは聞いてねぇ! こいつ……≪竜胆会≫の兵隊じゃねぇンだろ?」

「そのようですね。製薬会社に所属……入社はスポーツ広告要員として。
へぇ……すごい、その人柔道の強化指定選手らしいですよ。
あとは……歳の離れた姉弟が小学校に通っていて、
あの場には交通安全の見守り当番でたまたま居合わせたようですね」

「ちげぇよ、俺が聞いてンのはな……なんで素人があそこまで抵抗したかってことだ」

男は左手についた歯形を見せる。

「……うわ、ダサ」

「あん?」

「いえ、なんでもないです。
抵抗が激しかった理由は……そうですね。
女の子が目の前で攫われそうになったら、助けるのが人の情なんじゃないですか?
女性は特に子供を守ろうとする本能があるみたいですし。
……まぁ普通そんな甘っちょろい輩はちょろっと脅せば地金を晒すもんですが」

「なまじ根性と強い体があったから最後まで抵抗しちまったのか」

かわいそうなことだと男は言い、下腹部に押し当てたスタンガンを起動した。

「お前らァ!」

その時、運転席から声がした。
「へい!」と二人の男は揃って返事をした。

「アニキに相談した!
その女、連れてくぞ!」

「≪やっさん≫マジっすか!
途中で捨ててきゃいいじゃないですか!」

「どこに、どうやってだ!」

「山とか海とか、どこでもいいでしょうに!」

「ンなとこ寄ってる暇はねえ!
そいつが敵のまわしもんじゃねぇことは分かったんだろ!?」

「ウス!
怪しいものは何も持って無かったッス!」

「じゃあ問題ねえ!
アニキんとこに連れてきゃあ金になるしな!
隠したり殺すより、よっぽど合理的で健全だろ!
……それに、もう≪竜胆会≫の追っ手がかかっててもおかしくねぇ!
一刻も早くアニキ達と合流する!」




<5>


貿易用コンテナの仮置き場。
表向きは製鉄所の資材置き場とされているその場所に、大型乗用車が乗り入れた。

ギィコギィコと錆びた音がしてシャッターが閉まる。

待ち構えていたのは10人ほどの銃によって武装した男達。

彼らは待っていた。
憎き≪竜胆会≫に報復する機会を。
そのために必要な急所の到着を。

大型車より体格の良い男が、
気を失った女児を抱きかかえながらのそりと倉庫へ足をつけた。

男達にわずかな喜びが走る。

次いで、車から女が蹴り出された。
四肢をきつく拘束され、ぼろ雑巾のようになった一糸纏わぬ体が赤土に倒れ込む。

意識はあるようで、土に埋もれた顔をふらりと持ちあげた。

そしてその瞳が集団に紛れた1人の男を捕らえた時、それは起こった。

ーー2発の銃声。1発の銃声。そして間も無く響いた轟音。

その意味を完全に理解できた者は、その場に2人のみであった。








集団の中で最も強く、最も人望厚い≪アニキ≫と呼ばれる者がいた。

アニキは車から蹴り下ろされた女の顔を見るや否や、銃を抜き、2度引き金を引いた。

即断・即決。

ーー3年前、男の属する暴力的不法団体は抗争の末、見るも無残な弱体化を余儀なくされた。
その時の仇敵、≪竜胆会≫の秘蔵にして宝刀。
数多くの仲間を刑務所へブチ込んだ最悪の敵。

目の前の女がそうであると、唯一対峙経験のあるこの男は一瞬で見抜いた。
故の発砲。

一方の女性ーーruby(むらさめ しずく){叢雨 雫}は、銃撃の予兆を感じ取って行動を起こしていた。
彼女はここに至るまで、常に臨戦態勢であった。

不慮の事故で恩人の孫が死なぬよう気を張り、
車内においても凌辱を受けながら、女児の生死を何よりも重んじ、監視を続けていた。

不測の事態が起こらぬように、その予兆があれば擬態を捨て、場の者全てを消し去る構えだった。

そして、今がその時。

人外のーー魔人の膂力にて拘束バンドを引きちぎった彼女の眼前で、
銃弾の軌跡が曲がった。

赤橙色の2本の残像が流線形を描き、見えざる障壁の姿を断片的に映す。

魔人能力 ≪太陽の傘(ヒーローシェルター)

彼女の持つ、傘の特性と強度を引き上げる能力。

一見無手に見える彼女はしかし、確かに、≪見えざる傘≫を握っている。

魔人、叢雨の愛用する武器はなんの変哲もないコンビニ傘である。
彼女がそれを使うのは、それが最も戦闘に優れた特性を有する傘であるためだ。

その特性の一つが透過性。

傘の幕部の透明な性質を強化し、
接触しているビニ―ル傘全体を限りなく不可視へと近づけることができる。

それをこの局面に至るまで、彼女は≪傘バランス≫によって隠し通した。

≪傘バランス≫ーー傘の端部を支持し、立てた状態でバランスをとって保持する技術。
何の訓練も受けていない小学生でも、指一本で可能な初等テクニック。
故に傘の熟達者たる彼女にかかれば、指に限らず体の一部の自由が効けば永続的に保持可能。

電撃で嬲られながら、車の振動を浴びながら、それでも彼女は傘を保持し続けた。
足の指先で、あるいは腿で。

それはすべてこの時のため。

一本の傘さえあれば、彼女はーー最強無敵の自負を持つ。

銃弾を受けた直後、叢雨は駆けた。

男は狙いを定め、更に引き金を引く。
狙うは足。頭部付近は防がれると学習した。

対する女は射線を読み切り、
移動経路でそれを躱し、素早く不可視の傘を閉じた。

ショートレンジの攻防!

懐に潜られた男は、一手、防御を打つ。
女の手首の返しを瞬時に見切り、攻撃が来ると思われる箇所に銃身を置いておく。

みしりと傘の先端が銃身に叩き付けられた。
防御成功! しかし!

「ぶッ飛べ!」

太陽の傘(ヒーローシェルター)≫ ーー 発動!

銃弾を弾く時と同じように傘の持つ≪はじく力≫を強化、
膂力に能力を乗せ、男を壁面付近のコンテナへと叩き付けた。

ーーここまで3秒に満たぬ魔人同士による高速攻防。

そこに、常人達の意識が、介入が、……ようやく追いついてくる。
女の足元を狙った銃撃は、既にそれを見越して動き出していた者の影を騒がすに過ぎない。

魔人の筋力による高速移動を経て、幼女を抱えていた男を一太刀で叩き伏せ、
そのまま幼女の身柄を奪い、林立するコンテナ群の間に逃げ込んだ。

武装した男達が何手かに分かれてその後を追おうとした時、

「行くな!」

へこんだコンテナから、一人の男が這い出て叫んだ。
アニキだ。

額から血を流し、左腕をだらりと垂らした男の戦意はまだ萎えていない。

「……闇雲に追って行っても順々に潰されちまう。
いいか、ばらけるな、銃を構えて時を待て」

「アニキ……待ってていいんですかィ?
どっかの窓から逃げられちまうんじゃあ……」

「逃げてくれるならラッキーだ」

「え、でも……せっかく捕まえた妖怪ジジイの孫に逃げられちまったら……」

「なぁ、ヤス。
さっきの動き、見たよな……?
あいつが本気なら、攫おうとした時点でお前ら3人なんか消し炭にできたんだ。
それをしなかった理由は……分かるよな」

「俺達を……とりにきた」

重々しくアニキは頷いた。

その直後、頭上からの大声。
見上げれば全裸の女ーー叢雨雫。

「こっちを見やがれ! 外道ども!」

一斉に男達は引き金を引いた。

撃ち放たれた弾丸は、次々と男達自身へと向きを変え、降り注ぐ!

男達には不可視化されたその傘が見えていなかった。
その傘の形状が。

ーー風の強い日に傘は裏返ることがある。

その時の形状は、まるでパラボラアンテナのような、まるでおちょこのような形となる。

球面鏡の原理。形状特性による飛び道具の反射。

変形のし易さ。
これもまた叢雨がコンビニ傘を愛用する理由のひとつであった。








倒れ臥す男たちの中で無事な者は二人だけ。
アニキとヤス。

姿を現した意図を見極めようとした前者と、
会話のため初動が遅れた後者。

理由は違えど、二人のみが凶弾を逃れた。

苦しそうに喘ぐ仲間達を見て、ヤスがビクつく。

「なんだ……こんな、こんなのって……」

コンテナの上にいた女はいつのまにかその姿を消していた。

「アニキ……! 逃げましょう、こんなにやられちまったら、もう……」

手負いのアニキは器用に片手で胸ポケットから煙草を取り出し、ヤスに渡した。

「まずは落ち着け」

何を悠長なと喚くヤスを、アニキは無言で威圧した。
すごすごとタバコを咥えるヤス。

「あ、そんな……! いけません! あっ、あっ!」

アニキがライターに火を灯し、ヤスのタバコに火をつけた。
上下関係の逆転に動揺するヤスに構わず、アニキも一本のタバコを口にした。

「……追撃をかける」

深く煙を吐き出した後、アニキはそう告げた。

「見てたんだ。 こいつらの犠牲は無駄じゃねぇ。
何発かは入った。 ……奴の足から血が噴き出るのを、この目で見た」

アニキはタバコを吐き捨てヤスの肩に手を置いた。

「お前に一人で追えつってるわけじゃねぇ……! 俺と……お前で殺るんだ。
≪竜胆会≫を敵に回す以上、いつかは奴とぶつかることになる。
それが今日になっただけ……。 いいな、覚悟を決めろ」

「アニキィ……!」

触れられた肩を通して、ヤスの身体に熱いパッションが流れ込む。
直接接触した対象の感情操作ーーアニキの持つ、魔人能力。

「行くぞ」








(痛い……痛いよ……)

足を撃たれた叢雨はコンテナ間にできた通路にその身を潜めていた。

被弾は誤算だった。
角度をつけての傘防御により全ての射線は潰していたはずだった。

撥弾か、防御に隙間があったのか、あるいは何らかの魔人能力だったのか……。
いずれにせよダメージは甚大。
末端だからといってダメージは小さくない。

体を抜けた2発の弾丸によるダメージはほどほど。
筋繊維が切れ、足が動かなくなり、大量の血を失った程度。
問題は骨を砕き、体内に残った一発。 これが致命。

心臓が動き、血脈が揺らぐ度、耐えがたい痛みが彼女を襲う。
受傷部は足。 しかし、脳を刺されるような感覚を彼女は味わっていた。

(痛いよ……陽太くん……)








日向 陽太(ひゅうが ようた)

彼女のヒーロは幼くしてその命を散らした。

彼はただの明るく気さくな小学生だった。
だが叢雨雫にとって、彼は紛れもないヒーローだった。

雨の字が二つも入る名前と引っ込み思案な性格。
それが災いし「雨女」とイジメられていた幼き日の彼女を救ったのが、
東京から転校してきた日向 陽太だった。

傘による一人遊びだけが友達だった叢雨に、はじめてできた友達、
そして、初恋の人。

ーー追い詰められた叢雨の必ず行きつく回想がこれだ。
ーー彼女の最も深い部分にこの想い出がある。

最後の日の光景が浮かぶ。

臓物とおびただしい量の血を流した、まだ温かい少年と、
そこに寄り添い泣きじゃくることしかできない自分の姿。

少年はどれほどの痛みの中で死んだのか。
それはどれほどの苦しみだったのか。どれほどの無念だったのか。

日向 陽太を殺した魔人は今だ生を謳歌している。
「魔人覚醒時の初犯は不問」という歪んだ法に守られて。

許せない。許せない。許せない。

ーー殺してやる。

この怒りこそが叢雨雫という存在そのものであり、
力の源だ。

白骨と化した少年が、少女に絡みつく。
そして耳元で何かを囁いた。

ーー「ああ、わかってるって。
     こんなところで……死んでたまるか!」

痛みを心の力で捻じ伏せ、ヒーローは赤土の上でもがいた。








倉庫の最奥、建物の隅にその女はいた。
足からは今だ血が流れ出ており、息は絶え絶え。
しかし、戦意は衰えていない。
血液の滴る傘はしっかりと追ってきた二人に向け開かれている。

地面に座っていることで当たり判定が小さくなっており、
射撃は無駄に終わるだろう。

かといって近づけば魔人の膂力が待っている。
失血による衰弱を待つか?
しかし、増援の可能性、逆に回復する可能性もある。

瞬時にいくつかのシミュレートを終えたアニキは、指示を出した。

「回り込め、二方向から撃ち込んで終いだ」

「へい!」

ヤスがぐるりとコンテナをまわり、女の側面をとろうと影に隠れた瞬間、
バサリという音がした。

「ア……! アニキ!?」

嫌な予感がして振り向くと、そこには倒れ伏すアニキの姿があった。
顔には赤色の斑点が浮かんでいる。

(これは……血!)
(さっきの音は、傘を開く音!)

(飛ばしたんだ……血を!)

ヤスはコンテナの影にしゃがみ込んだ。

頼れる仲間や子分は一掃され、
心の支えであった兄貴もあまりにあっけなく討たれた。

(1人で殺れるか……?
あのクソ強いアニキを寄せ付けなかった女を……?
……無理だよな、チクショウ)

(かといって逃げても未来には繋がらねぇ……)
(ここであの女を逃がせば、≪竜胆会≫をあげての追っ手がかかるに違いねぇ……)

ーーその思考の途中で、コンテナの向こう側からドサリと音がした。

(倒……れた……?)
(確かに、ひどい傷だった、いつ倒れてもおかしくないような……)
(でも、もし罠だったら……)

弱い心は低きに流れる。
罠という可能性を思い浮かべながらも、楽な方へ逃げてしまった。

ヤスは「頼む、死んでてくれ」という願いを込め、
恐る恐るコンテナの角から顔を出そうとし、ーー

ーー「戻れッ!!」

瀕死のアニキに命を救われた。

再びバサリと音がして、血の飛沫がアニキに今度こそトドメを刺した。

「……もうすこしだったのに」

小さな声のはずなのに、その言葉はやけに響き、
彼の精神を削り取った。

そして精神的な補強としてかかっていた、アニキの魔人能力も
気絶によって解除されてしまった。

よってそこに残るのは、ただの無力なチンピラである。

「ウッ……オオォーーーーッ!! アニキィーーーーーーッ!!」

半狂乱のヤスは銃を構え、ガチガチと震えている。

恐怖と怒りが混ざり合い、次の動作ができない。

定まらぬ感情の嵐の中で、しかし、ーー男は光明を見出した。

通路の横に、ごく最近動かした形跡のあるビニールシートを見つけたのだ。
そして、そこからはみ出た、人形のように細い脚を。








「フヒィ……ヒヒヒヒヒヒヒヒィァ!!」

姿を現した男を叢雨は撃てなかった。
男が幼女を盾のように構えていためだ。

「傘をッ! 傘を捨てやがれェーーー!!」

銃を幼女に付きつけての恫喝。
仲間を失い、アニキを失った彼に、もう失うものはない。
故の捨て身。

女はゆっくりとした動きで傘を閉じ、中頃を鷲掴みにし、
振りかぶった。

「武器捨てるのはテメェの方だ……!」

「舐めんな、殺っちまうぞ!!」

「やってみろ、引き金に少しでも力をかけた瞬間、お前の頭はハジケ飛ぶ!
……≪傘槍投げ≫……お前もやったことあンだろ?
オレの傘は早いぜ……! どうだ、命を賭けて試してみるか」

男の息が乱れる。
緊張で手が震える。

「ハァ……ッ! ハァー……ッ! 殺ッ……すッ!」

「バカが……死ね!」

男は銃を下ろさない。

睨み合いの末、女はーー傘を下ろした。

傘の投擲に自信はあった、投げれば必殺も嘘ではない。
ただし、幼女を巻き込む可能性が消せなかった。

射出が遅ければ相打ち。
速くても着弾時の衝撃や、痛みによる筋肉硬直で引き金を引かれてしまう可能性があった。

それらを総合し、彼女は傘を手放したのだ。

スルリと手から零れた傘が地に堕ちる。

「アハッ……! アヒャハハハハハッ! いいぞッ! それでいい!!」

銃を女に向けたヤスが一歩前に出る。

「よくもアニキを……!」

更に一歩前に出て、頭部に狙いをつける!

「死ねやクソアマ!! アヒャヒャ! アヒャヒハハハハハハァ…………は?」

その時になって、男はようやく異常に気付いた。

ーー魔人能力研究家はこのような攻撃に「精神攻撃」という名をつけている。
ーー精神が不安定で、著しく判断能力が低下している者だけがハマる、トラップ。

男は、いつのまにか女の目の前に立っていた。
そして、その左手には女が捨てたビニール傘が握られている。

一体、何故。
行動を起こしたヤス自身がその現象を理解できずにいる。

防御の要と思われる傘を捨てさせることに成功した。
ならば、遠くからの銃撃でおしまいだったはずだ。

魔人ーー叢雨雫は傘から手を放す際に能力を発動した。

彼女が愛用武器としてコンビニ傘を選ぶ理由のひとつとして
「気安く盗まれる特性」が挙げられる。

彼女はその性質を強化した。
精神の弱ったチンピラは街灯に引き寄せられる蛾のように、
知らず知らずのうちに傘へ向かい手を伸ばしていた。

チンピラの持つ悪性、そして精神値の低下を見切った女は、
あえて傘を盗ませたのだ。

ーー女の手が銃に伸びる。

ショートレンジの攻防!
手練れのアニキをして防げなかった近接戦に、どうしてヤスが勝てるだろう。

「ヒッ」

悪あがき的発砲。
しかしそれは女の手のひらを貫通するも、気勢を削ぐには至らず。
女の手は銃身を紙粘土のようにねじりつぶした。

「傘パク野郎はーー死刑だ!」

銃を鉄くずに変えた剛指が、男の頭へと伸びた。




<6>


後日、病院の一室。

品の良さそうな老紳士が、ベッドの女性へと言葉をかける。

「かわいい孫を救ってくれてありがとう」

「なんて言って……俺を殺しにきたんじゃねーのか」

「まさか」

「ぶっちゃけ怒ってンだろ? 孫をエサにしたこと。
あと準備してもらった携帯もぶっ壊しちまったしな」

「そんなことは些細なことだ。
君も孫も無事……その結果が全てだよ。
生きて帰って来てくれてありがとう」

「はッ……そうかい」

女は掛布団の下で握っていた傘を置いた。

「……あの後、どうなった?」

「倉庫にいた子達は、警察にお願いしたよ。
僕の知る限り、この件で死んだ子はいない……よかったね、≪ヒーロー≫ちゃん」

「……けッ」

安堵したのを知られたくなくて、叢雨はそっぽを向いた。
叢雨雫は暴力的な素行に反し、人の死を嫌う。

「花凛は……?」

「元気だよ。
この件のことはほとんど覚えていないみたいでね。
怖い思いをさせないよう、君が早々に眠らせてくれたおかげだ。
本当に……重ね重ねありがとう」

どうにもやりにくいと、女は頭をかいた。

「アイツ……学校で上手くやれてっか?
三年前、ドンパチやった時によォ……テメェの会がテレビで滅多打ちにされてたよな。
そん時に大人達は花凛の素性に気付いたみてぇなんだ。
それでなんかいろいろあって、学校で居づらくなっちまったようで……」

「大丈夫、元気にやってるよ。
最近男の子の友達ができてみたいでね。
ええと、なんて言ったかな……」

「クリみたいな頭の小僧か?」

「よく知っているね。
そう、そんな見た目の子だったよ」

「そっか……あいつ……よかったな」

ふと表情の緩んだ叢雨は、ハッとして眼前の紳士を睨んだ。

「……なに見てんだコラ!」

「やはり雫には笑顔が良く似合うと思って、
つい見入ってしまった。申し訳ない」

「うるせー! 帰れ! 金は置いて帰れ!」

老紳士はカバンから小さな包みを取り出し、
ベッド脇の簡易机に置いた。

「それじゃあ、元気な様子も見られたし、これで失礼するよ。
俺が居ると気が休まらないだろうしね」

席を立とうした紳士に、叢雨が言った。

「しばらく、依頼は受けられねぇから……なんかあっても自前でどうにかしろよ」

「……何か、大きな仕事があるのかい?」

「あれだよ、あれ」

叢雨は病室に備え付けられているテレビを指さした。
ニュースはちょうど、世界最大の能力バトル大会
「グロリアス・オリュンピア」に関する情報を伝えていた。

最近はどこのチャンネルを見てもやれ会場がやれ土地が、と……この話題ばかりだ。

「誰からの依頼だい?」

「依頼? ちげぇ、オレの意志だよ」

「俺はあまり世の中のことに詳しくないんだけどね。
あの大会からは、なにか良くない気配を感じるんだ。
どうしても……出なきゃいけないのかい?」

「ああ、ヤベェ奴が出るって話が聞こえてきてる。
金や権力を与えちゃ駄目な奴らが……!
そいつらを……叩く!」

「それは本当に君がやらないといけないのか」という言葉を、老人は内に飲み込んだ。

そのかわり、伝えたい想いを別の言葉にして吐き出す。

「……今日ね、気が早いけど半纏を予約してきたんだ」

「……急に何の話だよ」

「来年俺が還暦を迎えるって話だよ。
来年の今頃、半纏を着て、温泉旅館に泊まって、家族達に祝われるんだ。
そう……花凛だって来てくれる」

「だから、何の……」

「雫にも来てほしい。 一緒に祝ってくれないか」

「ハァ!? やだよ! なんでジジイの半纏なんか見にいかねェといけねぇんだ!」

「俺が祝って欲しいからだよ」

「意味わかんねぇ! イヤだね! 誰が、そんな……!」

ニコニコと、老紳士は雫を見つめている。

「いや、行かねぇって! 粘ってねぇでさっさと帰れ!」

「わかった、じゃあ正式に依頼を出すよ。区分は護衛かな。
『俺の還暦祝いに出席すること』……これは前金」

そう言って、老紳士はカバンから包みを取り出し、
机の上に重ねて置いた。

「雫は嫌がるかもしれないけど、俺は君のことを大切に思っている。
それこそ、家族のように。 だから無事に帰って来て欲しい。
ささやかだけど、そのお金で準備を整えてくれ」

「ーーッ! 黙れよ妖怪ピュアジジイ!」

ハァと溜息を着き、叢雨雫は眉間を押さえた。
そして紳士から目を逸らして言う。

「……半纏会には絶対行かねぇけど、まぁーー」

テレビからは「グロリアス・オリュンピア」に関する情報がまだ流れている。
その音声が、叢雨の発した蚊の鳴くようにか細い声をかき消した。

『ーー死ぬ気もねェよ』という照れた声を。
最終更新:2018年02月18日 21:18