プロローグ(春川 醤)
「師匠師匠!!見てください一大事っス!、あっおはようございます!!」
「はい、あおい君おはようございます。ただ、もうちょっと余裕を持って出勤しましょう」
小さな体を大きく震わせて柳原あおいが厨房に駆け込んでくる。その手にはグロリアス・オリュンピア開催を報じる今朝の新聞が握られていた。
「置いときますね!!着替えてきます!!」
几帳面に清掃された調理台の隅にバンっと新聞を放り投げ、厨房に併設されたスタッフルームにそのまま飛び込む。エネルギーの塊のような少女だ。
「元気なのはいいんですけどね、うーん」
あおいが置いた新聞に近寄りながらこの部屋の主は苦笑いを浮かべる。
「ふむ、グロリアス・オリュンピア開催。そしてフェム王女来日ですか、確かに一大事ですね・・・ですが」
手早く一面を流し読みした後、新聞を綺麗に折りたたみ邪魔にならないよう片付ける。
「今はそれよりも、お昼の仕込みの方が一大事です」
身に着けたグレーのコックスーツの皺を伸ばしコック帽を被りなおす。
彼が仕事に入る前の儀式、スイッチを切り替える作業だ。
「さて、今日は何を作りましょうか」
彼の名前は春川醤。
職業、内閣府特命担当魔人付料理人。
海千山千の魔人を相手取る魔人シェフである。
ダンゲロスSS5
春川醤 プロローグSS お品書き
一. La vraie bouillabaisse(本物のブイヤベース)クルトンを添えて
二.旬の海鮮の握り鮨とお造り バトルロワイアル風
「総員準備完了しました!師匠!!」
腕を後ろ手に組み、あおいが点呼の姿勢をとる。
とは言っても、基本的に厨房内のスタッフはあおいと醤の二人だけなので点呼を取る必要はないのだが。
「はい、分かりました。それとしつこいようですが、師匠と呼ぶのは止めてくれませんか」
「えーー!!駄目ですよ!師匠は師匠っス!!譲れません!!」
「僕としては弟子を取った覚えはないんですが・・・・・・」
「師匠からすれば私は弟子じゃないかもしれませんが、私からすれば師匠は師匠です!!」
若干むすっとしたような顔であおいが抗議する。
「しかしそれでは周りの人に示しが付かないので・・・・・・そうですね、せめてシェフと呼んでくれませんか」
「シェフ、醤シェフ、しょうしぇふ・・・・・・言いにくいからダメっス!醤師匠!!あ、しょうししょうの方が言いにくい!!」
けたけたと一人で笑うあおいに見て、醤はあきらめを含んだため息を付いた。
「まぁ、その話は後にしましょう。お昼の仕込みのことですが、花さんから軽いものをとリクエストがありました」
「軽食ですか?」
「ええ、なので今日は暖かいスープを作ろうと思います。最近寒いですしね」
「スープ!!スープいいですね!あ、でもスープっていっても何を・・・・・・」
スープを作ると分かってから笑顔、思案顔、悩み顔とあおいの表情がくるくる変わる。
(ふふ、早速素材や調理法で頭が一杯のようですね。僕も昔は同じようなものでしたが、さて)
「あおい君、これを見てください」
献立に頭を抱えていたあおいに醤が声をかける。
その両手にはずしりと大きなクーラーボックスが抱えられていた。
「お魚屋さんでいい海鮮を見かけたので今日はこれを使おうと思います」
クーラーボックスの中には多種多様な魚や甲殻類などがぎっしりと詰まっていた。
プロの醤の目から見ても質・鮮度ともに極上の逸品である。
「おおっ、このおっきな眼はカサゴっスね!こっちはホウボウ、ということは!!」
「ええ、今日はブイヤベースを作ります」
醤が小魚でフォン(出汁)を取り始めてから一時間強、あおいは醤の横顔を見ながら野菜の下処理をしていた。
傍から見ればぼうっとした顔つきだが、その手元はせわしない。
目線を落とすこともなく、小さなナイフで凄い速度でジャガイモの皮を剥いていく。
(はぁ~、師匠はやっぱりいいなぁ)
気を抜くとふにゃふにゃっとなりそうな顔を引き締めつつ作業を続ける。
目線の先では醤がスープの基本となる出汁の味見をしていた。
スープを口に含んだ途端、醤の厳しい顔がパァっと明るくなる。
誰に見られているわけでもないのに(実際はあおいが見ているが)うんうんと頷く。
(ううー、「おお、予想以上にいい味ですね、うんうん」とか思ってるんでしょ。あざといっス師匠!)
「予想以上にいい味ですね」
(そして、わかりやすいっス・・・・・・)
機嫌を良くしたのか鼻歌を口ずさみながらメインとなる魚の下ごしらえに移る。
あおいの包丁捌きも相当なものだが、醤の動きはその数段上であった。
一瞬でうろこを剥ぎ、味が染みやすいように隠し包丁を入れる。
(これで師匠が妻子持ちでさえなければなぁ・・・・・・)
隣で作業する醤をあおいが見上げる。あおいの身長は150cm足らずだ、30cmの身長差があれば必然的に見上げる形になる。
楽しそうに作業する醤とは逆にあおいの顔は曇っていく。
「あおい君どうしました?何か問題でも」
「いーえ、なんでもないっス」
あおいからの視線に気づいた醤が声をかける、あおいは少しドキつっとしたのかバツの悪そうな顔で答える。
「はぁ、それならいいのですが。魚の下ごしらえがもうすぐ終わります、仕上げの準備に掛かってください」
「はい!!・・・・・って、あれ、師匠!!まだ貝や海老が終わってないっスけど」
あおいの言うとおり、クーラーボックスには海老や貝、たこなどが手付かずのまま残されていた。
「残念ながら使えないんです、今日は本物のブイヤベースを作るつもりなので」
「本物?」
「ええ、ブイヤベースの本場のマルセイユにはブイヤベース憲章というものがあります」
大きな鍋にフェンネルやトマトなどを放り込み炒める。
あおいと話しながらもその手は一切休まない。
「伝統を守るために材料から給仕の仕方まできちんと決まっているんです。貝や甲殻類、イカ・タコ等の軟体類は入れてはいけないんです」
「ええっ!、でもフランスでムール貝が入ったブイヤベース食べたことあるっスよ!!」
「ははは、それはそれでブイヤベースなんだよ。あくまで伝統的かどうかというのが問題だからね」
「ううーん、なんだか納得いかないっス!」
「ローマ字のSUSHIと江戸前寿司の違いとでも言えばいいのかなぁ、まぁ今僕が作っているのも厳密にはダメなんだけどね。本当は地中海沿岸で取れた魚を使わなきゃいけないから」
「厳しいっスね」
「フランスは厳しいね、AOC(原産地呼称統制法)なんてのもあるし」
いい香りが漂ってきた鍋に小魚で取ったフォンをなみなみと注ぎ火を強める。
「ここからは時間との勝負です、ブイヤベースは強火で短時間で仕上げる必要があります」
先程の魚も全て鍋に入れ火加減を調節する。
「あおい君はクルトンとルイユ(にんにくを使ったマヨネーズソース)の準備を」
「了解っス」
醤の指示を受けあおいがオーブンに火を入れに行く。
(あーあ、もうちょっと師匠の顔見てたかったんだけどなぁ)
ハタチの割にはあどけなさが残るあおいの顔は、見事なまでに恋する乙女の表情であった
「滋味あふれるクラシカルな味わいでした、とても結構です」
花 内閣府特命担当魔人が笑みを浮かべスプーンを置く。
内閣府特命担当魔人とは国内外の外交折衝において魔人に関する事柄を専門に取り扱う役職である。その権力は高く、現職の大臣にも匹敵するほどである。
「ありがとうございます」
醤が彼の(そしてあおいの)雇用主に頭をさげる。
醤は特命魔人付料理人であるが政府に雇われているわけではない、あくまでも花が私的に雇っているに過ぎないのだ。
醤は花のもとで料理の腕をふるい間接的にではあるが外交に携わってきたのだ。
「ごめんなさい、美味しいお食事を頂いてすぐですがお仕事の話をしてもよいですか」
花が食事の邪魔にならぬようにと髪を束ねていたゴムをほどく。
長く美しい黒髪がふぁさりと揺れる。
彼女の外見はとても若々しく20代にしか見えないが、実際の年齢を知る者はいない。
それどころか本名や国籍を知っているものすらいない、女性であるかどうかすらも怪しい。
「は、はい、設宴でしょうか?」
設宴とは外交上の要人をもてなす為に開かれる食事会の事である。
そこで出される料理には政治的メッセージが込められることも少なくないという。
「ええ、そうです。しかし、通常の設宴以上に重要なお仕事です」
花の顔を見た醤が気を引き締める。
「ご存知かとは思いますが、我が国でグロリアス・オリュンピアが開催されます」
「はい、存じています」
「開催されること自体は水面下で動いており、ずいぶん前から開催は決定していたのですが」
花が少し眉をひそめる。
「もしかして、来日されるフェム王女に関してでしょうか」
「少し違います、『既に』来日しているフェム王女についてです」
「ええっ!」
「昨夜、極秘で来日されました」
「オリュンピアの開催はまだ大分先では?」
「ええ、ですので今回の来日は非公式ということになります」
普段あまりうろたえたりしない花であるが、少し困惑している様子が醤には見て取れた。
「通常の設宴を行うのであればいいのですが、どうもそうはいかないようなのです」
「はぁ……」
「フェム王女からこんな希望が出されました、『来日中に春川醤の料理が食べたい』と」
醤が目をぱちくりとさせる、どうやらまだ事の推移が飲み込めていないようだ。
「つまり、あなたが名指しでフェム王女に選ばれたということです」
「……え、ええーーー、自分がですか?」
「ええ、そうです。しかも私や政府の人間は交えずに食事がしたいとの事です」
「つまり、僕一人でフェム王女の設宴を」
「行って頂く必要があります」
ごくりとつばを飲む音が響く。
「春川さんにはフェム王女をもてなして頂くのは勿論ですが、それ以上に彼女の真意を確かめていただきたいのです」
「か、かしこまりました」
「目的を探れとは言いません、彼女の言動などで気になるところを覚えておいてください」
各国の首脳級魔人を幾度ももてなして来た醤ではあるが、それはあくまで花の裏方としての仕事であった。
醤にとっても、花がいないということはそれだけで大変なプレッシャーであった。
「そ、それで具体的な日時や料理の希望などは」
「日時は来日中ならいつでもよいとのことです、それどころか優先して時間を空けるのもやぶさかではないそうです。料理内容についても同様です、シェフの好きなようにしてよいと」
「なるほど……」
「ああ、それと調理助手としてあおい君の同行は認められました。彼女はエプシロン王国に長期滞在したこともありますから役立つ事もあるでしょう」
それを聞いて醤の顔から多少険がとれる。
「ああ、それはありがたいです!一人では作れるものに限度がありますし」
「既に彼女に王女のタイムスケジュールを渡しています、早速検討に入ってください。一段落するまでは通常業務は気にしなくて結構ですので」
「ありがとうございます、早速とりかかります」
花はその言葉を聞くとすっくと立ち上がり深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、本来なら私もご一緒すべきなのですが」
「ああああ、やめてください。花特命担当が謝ることはありません」
「日本の国益にも関する重大事です。よろしくお願いします」
再三の要求にも関わらず、醤が部屋から出て行くまで花の頭が上がることはなかった。
「ふふ、あなたが春川様ですか」
「はい。お会いできて光栄です、フェム王女」
……ワーワー、やれ……そこだ……ろせっ……
綺羅びやかな内装の瀟洒な部屋だが、部屋の外から雰囲気にそぐわぬ歓声が漏れ聞こえる。
醤が設宴の場に選んだのは魔人国技館であった。
元々、フェム王女が訪れる予定であったが、それに合わせ醤が料理を振舞う形となった。
「言ってくださればお時間をおつくりしましたのに」
「いえ、ちょっとした趣向がありまして……」
「まぁ、何かしら!楽しみですわ!」
「ご観覧頂く魔人相撲が始まりましたら、料理をお持ちします」
醤が一礼し部屋を退出する、その足跡をフェムが熱っぽい視線で追いかける。
「ふふ、本当に楽しみ」
「おおーーっと、横綱黒王が巨大な馬に乗って土俵入りだァ!!!既に三人の力士が跳ね飛ばされた!そしてそのまま開始のゴングが鳴りひびく!魔人相撲バトルロワイアル場所開幕であります!!」
熱に浮かされたようなリングアナウンサーの名調子に観客が歓声を送る。
黒王の土俵インパフォーマンスは国民的な人気を誇る名物であった。
また勝利後に腕を大きく掲げ『イッチバーン』と叫ぶ勝ち名乗りは、マネがしやすく子供たちにも大人気であった。
そして、遙か高みからその土俵入りを見つめる双眸があった。
「はぁ、やはりプロの土俵インは美しいですわ」
爛々と目を輝かせる王女にドアの向こうから声がかかる。
「フェム王女、お待たせいたしました。お食事をお持ちしました。」
「かしこまりましたわ、どうぞお持ちになって」
土俵から目を離さずにフェムが答える。
「失礼いたします。旬の海鮮の握り鮨とお造りのバトルロワイアル風でございます」
醤とあおいが二人がかりで大きなゲタを運ぶ。
通常の鮨を載せるゲタの数倍はあろうかという巨大なゲタだ。
そして、そのゲタの上で握り鮨が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
その動きが目に入ったフェム王女が初めて顔をこちらに向ける。
「まぁ!これは何かしら」
「フェム王女が大変な親日家ということで、本日は鮨をご用意しました。専門ではないので至らない点もあるかと思いますがご容赦ください」
しかしそれはどうみても普通の鮨の形をしていなかった。
ネタでできたボディーにシャリの頭部と手足がついた人形とでも言うべきか。
その人形は王女を目の前にしても動きを止めていなかった。
「これはどうやって食べればいいのかしら、……あら?」
どうやって口に運ぼうとしたか考えていたフェムが何かしらに気づいた様子です。
「もしかして……」
「ご想像通りかと思います、もう少しお待ちください」
その説明を終えるか終えないかの刹那
――――決まったァァ!ハル・フージーのマイクをリモコンに変える能力が炸裂!!額がぱっくり裂けた、これは痛いこれは痛いこれは立てないぃぃぃぃぃ!!!――――
バトルの脱落者が出たことを示す行司の軍配が敗北者に投擲する。
行司が正確な狙いをつけた軍配は、横綱の付けた傷と寸分たがわぬ場所に見事に突き刺さった。
それとタイミングを同じくするかのようにゲタの上でも、ヒラメの鮨人形がハマチの鮨人形を仕留めた。
ボロボロと崩れる鮨人形、しかしただ崩れるのではなく明確な意思を持って崩れ落ちていく。
そして崩れきった鮨人形はきれいな鮨の形となっていた。
「つまり……『敗者』を喰らうのですね」
一礼して醤が答える。
「はい、またお造りは室内を『泳がせて』おきますので、お好きなタイミングでお召し上がり下さい」
はっとフェム王女が周りを見渡すと、部屋中を多種多様な魚が泳ぎ回っていた。
自分が空中にいることを、そして自分の体の大部分が刺身になっていることを忘れたかのように悠然と泳いでいた。
「これがあなたの能力ですのね!」
「僭越ながら披露させていただきました」
数瞬後、外の喧騒にも負けない大きな拍手の音が室内に反響した。
「満足いたしましたわ!」
「光栄です」
既に土俵上では戦いが終結している、数多くの魔人力士が横たわり無残な姿を晒していた。
「やはりあなたは私が思ったとおりの方ですわね」
「と、言いますと」
ようやく来たなと醤が身構える。
「あなたをグロリアス・オリュンピアに出場するよう要請いたしますわ!」
「は?」
「は?」
醤とあおいの口から疑問が漏れるのも無理はなかろう。
それは予想を遥かに超えたものであった。
「不思議がることはありませんわ、私は全て知ってますのよ」
フェムが一枚の髪を取り出す、それは醤のプロフィールであった。
その略歴をつらつらと醤の前で読み上げていく。
「2010年に霧呼婦人とご結婚、香ちゃんというお子様がいらっしゃいますね」
醤の顔に普段見せないような苦悶の表情が浮かぶ。
あおいが不審に思うような、鬼気迫る表情だ。
「王女、あなたは、一体、なにを」
「うふふ、あなたは私と同類ですわね」
(師匠、一体。あれ、そういえば師匠の奥さんの名前とか初めて聞いたような)
あおいの胸中に浮かんだ疑問を解消するまもなくフェム王女がつづける。
「2016年、妻子の殺害未遂容疑で勾留、逮捕。凶器は伊勢海老のビスク、ふわふわオムライス、イチゴのショートケーキ。魔人能力の暴走での事故として扱われ、花内閣府特命担当魔人との司法取引に応じ釈放。以後、特命担当付料理人として今に至る」
ニッコリとフェム王女が笑い付け加える。
「ダメですわよ、プロフィールは正しく書かないと」
醤もあおいも微動だにしない。
いや、微動だにできないのだろう。
醤は逃れ得ぬ過去が迫ってきた音を聞いた。
「調理に熱がこもりすぎると、『料理』が言うことを効かなくなることがあるんそうですね、あなた」
ビスクの海を泳ぎ妻に突き刺さる伊勢海老
「こんなに美味しい料理が作れるのに、本気で腕を振るえないんですってね」
卵の沼で溺れる娘を撃ちぬくイチゴ
「オリュンピアに出てくださいませ、春川様」
食卓を笑顔で満たすはずの料理が牙を剥き、血の雨を降らせる
「そこにあなたが本気で腕をふるえる最強の『お客様』が居ますわ」
笑顔のままフェムは立ち上がり部屋を出る。
「それでは、よいお返事お待ちしております」
バタリと扉が閉まる。
それでも醤とあおいは一言も発さず、立ち尽くしたままであった。