プロローグ(黒ヱ 志絵)
銃声は鳴り響かなかった。
されど銃弾は少女めがけて突き進む。
特殊な能力などではなく、消音器を装着した銃による射撃。
亜音速の一撃は歩く少女を背後から無慈悲に貫き、無機質なビルの壁に大輪の花を咲かせることはなく。
「『即座に殺さないのはリスクなんだけど』」
狙撃者は耳元から聞こえた声に慌てて振り向こうとしたが。
喉元に当てられた刃の感触が彼の動きを留めた。
「『なるべく情報が欲しいからできれば話を聞いてみて』ってアクトが言うから」
必死に眼のみを動かして状況の把握に努める狙撃者。
見れば、まるで合成写真のように、彼の体と先ほどまで前方にいた標的の少女とが重なっている。
そしてスッと伸びた彼女の反対の手にも短刀が握られていると、狙撃者が気づいたときにもう遅く。
銃を持った彼の手は腕から離れて地面に転がっていた。
絶叫。
「どうして私を襲うの? おじさん」
鮮血を垂れ流す狙撃者に無慈悲に問うた少女、黒ヱ志絵。
もはやどちらが襲われているのか判らない。
蹲った彼は叫びつつ、すぐに再び銃口を彼女に向け、発砲。
何らかの能力を発動したのだろう、元通りになっていた手に銃を握りしめて。
だがしかし、なおも銃弾は少女を貫かなかった。
見れば、鉛の弾は彼女が手に持っていた短刀によって、地面に縫い留められていた。
視覚と肉体の反応速度は、魔人の域すら超えているかのよう。
彼女は驚愕している狙撃者を蹴り上げると、胸ぐらをつかんでさらに問う。
「ねえ」
「ご……」
「ご?」
「合格! 合格! 貴方をグロリアス・オリュンピアに推薦します! だから手を放してくれ!」
そうして志絵は、狙撃手もといエプシロン王国のエージェントから、
数日後に日本で開催予定のトーナメントについての話を聞かされた。
「おもしろそう」「えっ、お仕事はどうするの?」「アクトなら許可してくれるでしょ」「そうかなー」
目の前でいきなり自問自答を始めた少女に一瞬ギョッとしたエージェントだが、
強い人にはよくあることなのでほうっておくことにした。
「あの」
「は、はい!」
「私に対する依頼は、アクト……私の雇い主を通してもらってもいい? これ名刺」
「あ、了解です」
両手で名刺を頂戴するエージェント。
日々の苦労が偲ばれる、美しい姿勢である。
「でも、自分的には……、やってみたいって、思うかな」
はにかむ志絵の表情を見て、エージェントは彼の担当候補者が十六歳の少女であったことを思い出した。
けれど。
「それよりさ、その手がくっついてるの、秘薬ってやつの力なの!? 教えて教えて」
「あっこれは私の特殊能力でして、秘薬が使えるのは私クラスだと絶命寸前でしか……」
「ふーん。つまんないの。そうだ、死にそうになるまで斬ってみてもいい?」
「勘弁してください……」
興味なさげに凄惨な提案をする彼女を前に愛想笑いを浮かべつつ、
帰ったら給料下がってもいいから宮廷担当への異動願いを出そうと心に誓うエージェントであった。
◆ ◆ ◆
とある高層マンションの最上階。
ワンフロアまるごとの居住空間の中は、どの部屋もとにかく物であふれていた。
靴箱の中にはスニーカー、ブーツ、サンダル、…
クローゼットの中にはブラウス、ワンピース、ドレス、…
ドレッサーの中には口紅、チーク、ファンデーション、…
飾り棚の上にはぬいぐるみ、シュシュ、ボトルシップ、…
本棚の中には小説、漫画、画集、…
どれもこれも何十個といった単位。
リビングの一角を占める作業机の上に並ぶモニターを見つめながら、少年は淀みなくキーを叩く。
突然、かすかだが静かな部屋に響く物音。
しかし彼は振り返ることもなく、来訪者を迎えた。
「おかえり。遅かったね」
「ただいま。変なやつに絡まれて……ちょっと」
血と煙の香りを漂わせながら現れたのは少女、黒ヱ志絵。
彼女は部屋を見渡すと、途端に不満げになった。
床にはお菓子の袋がいくつも積み重なっており、テレビの前にはゲームが出しっぱなし。
椅子をぐるんと回して、少年の頬を両手で挟む。
「片付けなさい」
「ごえんなふぁい」
「また遊んでたの?」
「いやいや、マーケティングの一環だよ……十代のニーズも知っておかなくちゃ」
部屋に学校の友達が遊びに来ていたらしい。
どうみてもただのクソガキである少年、谷町明来翔。
けれど、モニターに映っているものは、中学生が眺めるようなものではとてもなかった。
堅苦しい文章のメール、何やら複雑なグラフ、めまぐるしく変わる数字……。
志絵には全然判らないが、彼が立派に社長をやっていることは、自分の住処と胃袋が教えてくれた。
それはそれとして、明来翔は頬を挟まれたまま持ち上げられ、掃除をせざるをえなくなったが。
「で、絡まれたときの話なんだけど」
「ああ、グロリアス・オリュンピアの候補者に推薦されたんだって? 連絡が来たよ」
「仕事早いなー。知ってるならさっさと訊くけど、アクト、あなたはどう思う?」
先ほどまでとは裏腹に、少し緊張した面持ちの志絵は、習い事を始めたい子どものようだ。
対して、ゲームをしまいゴミを捨て、流しで手を洗う明来翔はその親のようにあっさりと。
「いいじゃん。出なよ」
「ずいぶん簡単に言うね。心配じゃないの?」
「そりゃあ、不測の事態は起きるかもしれないけど、クロヱは強いし、命の保証もあるし」
「いや私じゃなくて、会社」
いちおう心配しておいてあげたのに、と肩をすくめる明来翔。
「たとえ大会期間中の戦闘が禁止されてても、普段からクロヱが半年入院しても
問題ないくらいには余裕を持ってやってる。それに……」
「それに?」
「正直、メリットは超でかい」
「あっそう」
「たとえ一回戦で負けたとしても出場者に選ばれるだけで相当な栄誉らしいし。
クロヱもひさしぶりに全力で戦ってみたいでしょ?」
訊かれた志絵は考える。
たしかに私は楽しかった。
本気で命を狙われる感覚。ヒリヒリしてドキドキする。
それをもっと大きな舞台で、もっともっと強い人と。
ふと志絵の目に入ったのは、ガチャガチャで揃えた名刀を模したキーホルダーのコレクション。
ご丁寧にシークレットが二つ欠けている。
能力を発動したとき、お友達に取られてしまったのだろう。
脳裏に浮かぶイメージ。
ひとりぼっちの部屋でお菓子を食べながら、ずーっとパソコンに向かっているアクト。
想像したら、なんだかさみしくなってきて――
「どうしたの? クロヱは……志絵は大丈夫だって」
志絵はぎゅっと明来翔を抱きしめた。
とたんに彼の顔が真っ赤になる。
さっきまでの余裕が嘘のように。
「ちょ、ちょっと……!」
「少し、不安になったの」
「不安?」
「私がいなくなったら、明来翔にはもう会えないなって」
「そ、そりゃ、いなくなったら、会えないよ……」
なんの返しも思いつかないくらいどぎまぎしているのを感じて、志絵の表情が緩む。
「でも、会社は新しい人を雇えばいいし、友達もいっぱいいるし、大丈夫か」
「そんなことない! 僕は志絵と一緒がいいからここを作ったんだ。志絵がいなかったら意味ない」
「ありがと」
そっと離れて頭をなでると、明来翔は少しさみしそうな顔をしたが、すぐに真っ赤になって俯いた。
「私、どんなことがあってもがんばれそう」
「うるさい」
私を連れ出してくれた彼。
もっともっと楽しいことを一緒にしたい。
この大会で活躍すれば、これからどんどん大きな舞台に立てるかもしれない。
夢見た世界に二人で行くために。
悪夢だって瑞夢に変えてやる。
いま、夢の世界を潜り抜けて。
(了)