プロローグ(雪斗(源氏名))


砂で覆われた一面の世界。
ここ、東京砂漠の一角には不釣合いな程に近代的で、不釣合いな程に彩られた、砂漠の静寂さを忘れさせる喧騒がそこにはあった。

眠らない街、新宿歌舞伎町。
眩いばかりのネオンに彩られたその街は、言わずと知れた日本一の歓楽街。
客引き、スカウト、謎の外国人、そして、それらを迎え撃つ市民は、皆すべからく狩人。ここは、食うか食われるかの魔の樹海。
ホストクラブ『I・SEKAI』はこの街に悠然と聳え立っていた。
オーナー曰く、日常とは異なる空間を、愛に満ちた空間を提供しようという意味で付けられた名だ。
上質な真紅の絨毯は床一面に敷かれ、天井に吊られた無数のシャンデリアは薄暗い室内でも確かな存在感を放っている。
建築基準法なぞどこ吹く風と言った噴水と、バロック式の大理石像が鎮座した、近代モダンの様相を呈した店内。
日常と切り離された空間であるそこでは、今、一つの異変が起きていた。

今さら述べる事でも無いが、最強の種族とは何であろうか。
空を駆け、硬い鱗で覆われた、万物を焼き尽くす炎を吐く竜種。
精霊の使役による魔術行使と、万里離れた獲物すらも射止める最強の狩人、エルフ種。
圧倒的な膂力を誇り、人語すら解する知恵をも持つ獣、魔獣種。
議論は尽きない所ではあるが、ここで”夜”という条件を付与すれば、満場は一致するだろう。

その種は、紅く甘美な液体で喉の渇きを潤す。
その種は、全てを魅了する魔眼を備える。
その種は、無数の眷属を使役する夜の王。


即ち『ホスト』である。


隅ではあるが店内を一望できる客席で、また一人、ホストが倒れ伏した。
19世紀イギリス王室を想起させる本革のソファを囲むように、積み上げられるは屍の山。
文字通り骸と化したホストの群れと、その中心には、不機嫌そうに座した女が5本目のボトルを空けている。

周知の事実ではあるが、ホストの血はワインで出来ている。
紅く甘美なその液体を何よりも好むホストにとって、酒など体液と等しい程に慣れ親しんだ物。
だが、今。夜の街に生きる青白い顔の亡者達は、皆、一様に朱に染められていた。
急性アルコール中毒。
酒を覚え始めた大学生ならばいざ知らず、夜の王たるホストが酒に潰れる等、何たる屈辱か。

――――カツーン
――――カツーン

なれば、その汚名を濯ぐ(そそぐ)べく。
この男が出てくる事は半ば必然であった。

――――カツーン
――――カツーン

絨毯の上にも関わらず響く乾いた足音は、その革靴の上質さを物語る。
仄暗い闇の中で確かに光る純白のスーツは、降り積もった雪のようで。

――――カツーン
――――カツーン

男こそ、このホストクラブのナンバーワン。
彼の歩く後には花弁が舞い散り、その背は眩い光に照らされている。
女の前で跪き(ひざまずき)、両手で丁寧に名刺を差し出す姿でさえも溢れる威厳。
その男の名は。


「初めまして。雪斗(源氏名)だ。よろしく」


◆◆◆◆


【雪斗(源氏名)プロローグ ~異世界で最強の魔道騎士だった俺は、ここ新宿歌舞伎町でもナンバーワンホストを目指す~】


◆◆◆◆

女がこの店に来たのは偶然。
誰でも良かった。偶然、先ほどそこに横たわったホストが声をかけてきただけだ。
胸をかき乱していく濁り(にごり)が取れれば。その濁り(にごり)を酒で洗い流せれば。

女の名は瀬能(せのう) (みさお)
黒のスーツに身を包んだ姿は、見た目以上に堅物なイメージを抱かせる。
年は20代前半だろうか。肩まで伸ばしたストレートの髪を両の耳元で結った、俗に言うツインお下げという髪型だ。
どちらかと言うと冷静な印象を抱かせる女性だが、今の彼女の表情は必要以上に険しく、もっと分かりやすく言うと怒っているようにも見える。

彼女は、グロリアス・オリンピュアを束ねる五賢臣の一人である。
だが、誰もが平伏するその通り名は数日前までの物。

「私の……! 私のマッチングの何が不満なんだ! ……絶対に、絶対に最高に熱い試合を見せてくれるはずなのに……!」

行き場の無い感情の終着点としてグラスは勢い良く叩きつけられた。満たされた水面が激しく波を打つ。
そう。今の彼女の通り名は、”無能な”という冠言葉で揶揄されていた。
先日行われた、グロリアス・オリンピュア本戦マッチング。彼女の担当したマッチングは、観戦者から大きな不評を買ったらしい。
一部の心無い者達からは、その名を捩り”むのうちゃん”等と陰口を叩かれることすらもあった。

肩を並べて座する雪斗に管を巻くその姿に、性質の悪い酔っ払いのイメージを想起したかもしれない。
だが、それは違う。彼女がここまで自分の事を話し出したのには、一つの理由があった。
それこそが、ホストが持つ第一の刃。秘密の共有と、特別感の供与だ。
雪斗は彼女にこう告げた。
これから話すことは誰にも言っていない二人だけの秘密だ、と。実は自分は異世界からの転生者だ、と。
ご存知の通り、秘密を共有するという行為は、心理的な距離を大きく縮める事に繋がる。
剣を構えた騎士は、一足跳びで間合いを詰める。
振りかぶられた豪剣。その膂力を以って乱れなく打ち降ろされる剣の名は、特別感。
”自分だけ”という言葉が持つ切れ味は、竜の鱗ですらも断ち切っていく。

「……絶対に、絶対に。 最高のマッチングなんだ……」

「…………」「分かる」

続けて抜くは、第二の刃。即ち、共感と承認。
仲間意識を芽生えさせ、また、認めてやることで、この人は信頼出来る と思わせる。ホストにおける初歩のテクニックである。
雪斗はその一言をただ使うだけで、瀬能の心の内に滑り込んでいく。
それはまるで、幾重にも編まれた魔術障壁を一枚ずつ剥ぐかのように。
警戒心と言う壁を、丁寧に取り除く。

「見てろ……本戦が始まったらきっと、私が正しかったって認めさせてやるんだ……」

ここで雪斗は、第三の刃を披露する。

「お前は……。 悔しかったんだな……」

「ッ!! そ、そうだ……! 私は……」 「……悔しい!!」

感情の吐露。
出来事に対して、女性が何を思ったかを結びつけ露出させる。
言葉となって現出した感情は、心を大きく揺さぶっていく。
如何に獰猛な魔獣でも、心の臓を穿たれればその動きを止めるが如く。

「……悔しい!!」「……悔しい!!」「……悔しい!!」

主を失った神殿が崩壊するかのように、彼女の心も決壊を始めだした。
かつて雪斗が居た世界では、ただ退避すれば良いだけであった状況。
だが、今は違う。
今の雪斗は、異世界最強の魔道騎士では無い。
彼は――ホストだ。
崩れ行く神殿に取り残されているのは、討ち倒すべき魔王などではない。守るべき女性だ。
ならば、剣を捨てよう。剣を捨て、彼女の手を取ろう。
彼女が、最も欲している言葉を贈ろう。

「頑張ったな」

ピシリ、と乾いた音が響く。
魔王の仮面に亀裂が走る。

「お前は」「正しい」

亀裂はなおも走り続け、朽ちたゴーレムのようにボロボロと零れていく。

「お前は」

破壊された仮面。その下には。

「必要な人間だ」

零れ落ちる涙を厭わずに微笑む、姫の姿があった。


◆◆◆◆

ホストクラブ『I・SEKAI』。
未だ喧騒覚めやらぬ店内の玄関口で、瀬能はコートを羽織る。
脱いでしまおうかと思うのは、近頃の気温の上昇によるものか。
はたまた、彼女の内に熱が灯っているからなのか。

「……ん。 少しスッキリしたかも。 ……あ、」
「ありが、とう」

隣に立つ雪斗に向けて放ったはずの言葉は、男の視線を受け止めることが出来ず、思わず宙に放り捨てられる。

「フッ」

その様子に僅かに口角を緩めた雪斗は、自身の背後に現出している花の中から一輪を摘み。

「俺からのプレゼントだ」

放り投げられた花。まるで雪のように、静かに瀬能の掌に収められたその花の名はタチアオイ。
その花言葉は

「……気高く、威厳に満ちた美」

呆けたまま呟き、頬を朱に染める瀬能。
彼女を見つめたまま、雪斗は言葉を紡ぐ。

「……グロリアス・オリンピュア。 すでに本戦出場者は決まっているらしいが」
「突如現れたリザーバーが優勝する、というのは、最高に盛り上がる展開だと思わんか?」

「えっ?」

熱に侵された瀬能の思考は、その言葉の意味を捉えることは適わなかった。

「リザーバーが優勝するという、最も盛り上がる展開。 その功労者となるのは、お前だ」
「その花は、俺がいた世界ではこういった意味も持つ」
「”俺がお前をナンバーワンにしてやる”だ」

言葉を失う、とはこの事を指すのだろう。
雪斗は、初めて会った瀬能のために、グロリアス・オリンピュアに出場するのだという。
そして、リザーバーとして自分を出場させろという。

「で、でも……。そんな事、急に言われても……」

(さえず)るな」

瀬能の唇を、雪斗の指が塞ぐ。
それは暖かく、雪のように溶けてしまいそうで。
雪斗の為すがまま、瀬能は肩を抱き寄せられた。

「見ろ」

瞬間、街から灯りが消える。
雪斗の魔人能力で灯していた街の灯り。それが消された今、街は眠りに着いたかのように暗闇に覆われた。

「見えるか? あの一番に輝く星が」
「あれは俺だ。 グロリアス・オリンピュアでナンバーワンになる俺自身だ」
「そして」 「その隣の星こそが、お前だ」

一面に広がる星の海で、瀬能は確かに見た。
一際輝く一等星と、その隣にいる二等星を。
グロリアス・オリンピュアで優勝している雪斗の姿を。
そして。
隣に立つ、男の横顔を。

「……一つ、聞かせて。 何故、予選に出なかったの?」

先ほどの短い時間ですら瀬能には確信できた。
音もなく忍び寄る歩方、肉体を覆う覇気、貫くような眼光。
その実力は本戦出場者と比べても見劣りすることは無いだろう。

「簡単な話だ。 その時はグロリアス・オリンピュアの存在を知らなかったからな」

「……そう。ま、また」
「また、連絡……する……」

それだけを言い残し、瀬能は夜の闇へと消えていった。
その背中を見送る雪斗の胸中にはしこりが残った。
それは、一つだけ付いた嘘が残した爪痕。

ホストとは広く話題に精通していなければならない。
女性が興味ある事柄を抑えておくことはホストに取って基本中の基本である。
ファッション、グルメ、芸能、流行のスポット。
果ては政治、スポーツ、そして。
今最も日本を騒がせている、グロリアス・オリンピュアについても例外では無い。

では、何故知らない等と嘘を付いたのか。
理由は単純。ホストが持つ第一の刃である、秘密の共有と特別感の供与のためだ。
この嘘こそが、より強い特別感を与えるための最も重要なファクターであった。
”瀬能のために出場する”という二人だけの秘密と、自分のために”初めて知った大会に出場を決意する”という特別感。
ホストとして、女性を喜ばせるに最善の一手を打ったまでの事だ。

女性は特別(オンリーワン)を望む。
であれば男性は何を望むのか。
ホストは何を望むのか。
雪斗は何を望むのか。

異世界最強の魔道騎士として。
夜に生きるホストとして。
男として。
彼は、ナンバーワンを望んだ。

不遜な笑みを携えたまま、雪斗は店内へと踵を返す。
自身の背後に現出した花から、一輪を摘んで。
そのまま胸ポケットに刺された花の名前はグラジオラス。
花言葉は――――


――――勝利。
最終更新:2018年03月06日 22:28