Case1.『誕生秘話』


 ――人の本性はビッチなり
 其の善なる者は偽なり

姦子 「性ビッチ説」より。



 ある男の話をさせてほしい。
 人の性を暴き立てる、真実を探求する男の話だ。

 その日、藍堂(らんどう) 重記(しげき)はいつもの様に、所属事務所の女所長からの小言を一身に受けていた。

「藍堂、あんたさ……この報告書、何?」

 パサパサと書類の束を手で叩きながら、所長用の豪盛なデスクに長い美脚を乗せてふんぞり返る女所長。

「いや……すみません、どこが悪かったでしょうか?」
「どこって……写真の貼る位置はずれているし、誤字は三箇所もあるし、こんなの依頼人に見せられないわよ」

 そうは言っても10ページにもわたる報告資料を書き上げるのだから、そのぐらいのミスはしょうがないだろう、という言葉を飲み込む。
 ミスはミスであるので、言っても仕方がない。とにかく平身低頭、刺激せずにやり過ごすことだと長年の経験から藍堂(らんどう)は分かっていた。

「とにかく、今日……はこれ以上は残業になっちゃうから、明日早々に出勤して直してね。赤ペン入れといたから」
「はい……」

 書類をなるべく丁寧な姿勢で受け取り、自分のデスクに戻っていそいそと帰り支度を始める。
 ピロピロ~♪と軽快なメロディーが所長のデスクから鳴り響いた。見れば所長が派手派手しい彩色のケースに入ったスマホを手に取り、明るい口調で通話している。
 勤務中に私用携帯で堂々とお喋りしているのは良いんですかね……と心の中で独りごちる。

「あ~ら~、先~生♪ いつも口が上手いんだから。ええ、じゃあ今日も最上級のコースで。たっぷり気持ちの良い奴をお願いしますね♪」

 今日もまた入念にエステ通いか。職務上、見栄えには気を使う必要があるとはいえ、程度がある。もう、既に良い年であろうというのに。
 入所当初は少し憧れた時期もあった相手だが、そんな感情もすっかり冷めてしまっていた。まあ仕事の支障にはならないので有り難いことではあるが……。

「えっ、君彦君にも気に入って貰えますようにって? ふふ、やだやだ……」

 所長は得意先のエステシャンに相当気を許しているようで、遂に話はプライベートな事にも及んだ。何でもあの磨いた美貌で若いツバメを何人もたらしこんでいるらしい。何ともぞっとしない話だ。

 やれやれと他の職員に挨拶をしながらその場を立ち去り、ピッとタイムカードを押して事務所を出る。勤務時間が不規則になりがちな探偵業とは言え、昨今の社会情勢上、出退時間は厳しく管理されている。とにかくギリギリまで職務を効率化し、残業や休日出勤を行えば、別のところで帳尻を合わせねばならない。

 夜景に良く照り映える所属事務所の看板を背に、すごすごと駅へと向かう。あの『探偵事務所』という文字に憧れてこの世界に入った時の憧憬はもう何処に消えたのだろうか――。ここ最近はずっと、代わり映えのしない、浮気調査や人探しと言った仕事の連続だ。三十も半ばが近い年齢になってくれば、この生活はもうずっと変わることは無いんだろうなという事が分かる。口舌院や人口探偵といった、表の世界で華々しい活躍や業績を残す魔人探偵達とは程遠い、世の独身サラリーマン達と同じように、日々の娯楽からほんの少しずつ楽しみを見出し、そして年老いていく生活が続いていくだけだ。

 夢のない、この世界――。



「藍堂さんの指って、本当にとっても綺麗よね~。いつ触られても惚れ惚れしちゃう~」
「はは、そう言われるのはやっぱり悪い気がしないねえ」

 藍堂(らんどう)の数少ない趣味の一つが風俗店通いであった。学生時代から十年以上も足繁く通い続け、磨いてきただけあって、この指先の技術だけは少し誇れるものとなっていた。店の嬢達に迷惑はかけぬよう、常に綺麗に切りそろえ、彼女たちを少しでも満足させるように風俗の技術について学んできた。

「ねえ、サキちゃん」
「はい?」
「僕と付き合ってくれるかい?」
「……え?」

 この「サキ」という嬢は最近の藍堂の特にお気に入りの娘であった。厚化粧があまり似合わない、野暮ったい田舎臭さを残した娘であったが、そこが返って良い、と思う。田舎で暮らす弟妹の為に、昼はOL、夜は会社に内緒でこのお店で頑張って稼いでいるんです、というありきたりに思える話にも嘘はないように思えた。

「ごめん……なさい。藍堂さんの事、良い人だと思うけど……私、それはちょっと……」
「あ、ははは。だよねえ。冗談だよ、冗談。ごめんね、忘れてよ」

 藍堂の突然の告白に、サキは数十秒ほど真剣に悩みぬいた表情を見せた後で、深く頭を下げた。
 失敗したな、と藍堂は思う。こうなることは分かっていたはずなのに、一度思い込んでしまうと中々立ち止まることはできない。

「ごめん、なさい……」

 慌てて出口の扉へ向かった藍堂の背中へ、力ないサキの謝罪の言葉が投げかけられた。

「これで999人目か~~。はあ~~」

 夜空を見上げ、深く溜め息を吐く。
 藍堂は、自らが女性に好まれる容姿、性格に大いに欠けていることを自覚していた。ガラス張りの扉に映る己の姿を見てみれば、最近は更に寂しさを増した頭髪が目立つ、冴えない中年男の姿が見える。若い頃はもう少し顔に力があった様に思うが、最近はもうそれもない。仕事柄、体力だけは衰えないよう、最低限の体型維持には努めているのだが、この容姿と合いまって、今や客観的に見ても枯れたおっさんという評価が相応しいだろう。

 サキちゃんならば、それでももしかしたら受け入れてくれるのではないかと期待したが、これまでの998人同様、結果は見事に撃沈であった。

「ふむ……あれは本当に心から申し訳なく思っておる顔じゃったな。今時珍しい、中々心の清らかなお嬢ちゃんじゃったのう」
「わわっ!?」

 いつの間にか、藍堂の傍らに一人の老人が佇んでいた。藍堂の三分の二程の背格好の、僅かな白髪のみが生えた禿頭の好々爺であった。

「しかしお前さん、本当に告白する女に対しては能力を使わんのじゃのう。あらかじめ<探り>を入れておけば、結果がどうなるかは自ずと分かるじゃろうに」
「自分にも、ポリシーがありますから……」

 藍堂は性的意志を持って接触した相手から記憶、感情、深層意識を読み取る能力を持っていたが、自分でこれはと決めた女性相手には決してその能力を使わなかった。相手への裏切りになると考えていたからである。

「ところでのう、あの件、考え直してみる気はないか?」
「また、その話ですか……」

 この老人は藍堂と共に、この風俗店の常連であった。非常に気安く、話しやすい老人で、藍堂とも直ぐに打ち解け、様々な性的趣味についての会話を交わすこととなった。
 深い仲になるにつれ、老人は己の秘密について藍堂に語り出した。曰く、この老人には名前は無く、今はただ『老人』という称号のみを持つ存在であるらしい。
 どういうことかと訝しがる藍堂に対し、『老人』は風俗店の一人の嬢を使って己の話を証明してみせた。藍堂と二人で嬢のサービスを受ける体を装い、接客室にて『老人』と藍堂とで二人、徹底的に嬢を快楽責めした。
 『老人』のテクニックは藍堂が息を呑むものであった。多少なりとも指先の(わざ)だけには自信を持っていた藍堂であったが、老人の性技術は常識を外れていた。小指の一本が髪先や(うなし)を擦るだけでも嬢は「死んじゃう!」と悲鳴を上げ、胸部や局部等の性的な部分へと刺激が及べば、この世の物とも思えぬ喘ぎ声をかち上げる程であった。
 そうして嬢は遂には『老人』の性技の虜となり、何と彼の従者となる事を決め、店を退職したのであった。『老人』曰く、それは彼が属する組織『性徒会』にとっては初歩の技術であり、『老人』の住む屋敷にはこうして彼の従者となるに及んだ者達が1000人以上はいるという。
 『老人』は今、自らの後継者となれる人間を探しているのだという。自分にはその素質があり、修行を積めば同じ事が出来るようになるそうだ。
 退屈な日々に嫌気が差していた藍堂には、僅かばかり刺激を唆られる話ではあった。だが――。

「申し訳ないですが、やはり僕にはそこまで割り切る事はできません。女性を、人間の自由意志をああして性的な快楽で奪ってしまう、というのは……」
「ふ~む、そうか。残念、じゃな~。お前さんには類稀なる資質があると思っておるんじゃがな」

 そこまで好意的な事を言われるのは悪い気はしなかったが、『老人』の誘いの先には、もう決して戻れない道へ踏み込んでしまうという畏れが藍堂の目には見えていた。『性徒会』――性的な技術、能力、嗜好をとことんまで極め尽くす為の組織。そんな修羅の道へ足を踏み入れるだけの覚悟を、藍堂は持てなかった。

「僕、もうこの店には来ないかもしれません。ご厚意にしていただいたことはとても嬉しく思います。それでは……」

 サキに振られ、親しい『老人』の頼みも断ってしまったとあっては、お気に入りとはいえ、再びここを訪れる事は気が引ける。
 藍堂は後ろ髪を引かれる思いで、そそくさとその場を後にした。

「青い、な……。いや既に『真実』は何度も目にしているはず。にも関わらず、しがみつける意志を持つ強さゆえ、か――」

 取り残された『老人』の眼光は、満点の星空へと向いていた。一面に広がる星々達の中で、際立って目立つ輝きを放つ『性座』がその中にあった。『性徒会』に属する者のみが見えるという、百八の煌めく星々によって男性器と女性器が交わる姿を形造った『性斗百八星』。そしてその隣で一際大きく輝く、妖しき白い星――。

「じゃが、宿命(さだめ)からは逃れられん……。あの、『性兆星』の輝きが、お前さんを指し示しておる限りはな」



「ただいまー」

 藍堂(らんどう) 重記(しげき)が自宅に戻ると、彼の飼っていた猫のミケが「みゃー」と可愛い鳴き声を上げて、彼の足元に擦り寄ってきた。

「ミケ、良い子にしてたかい?」

 この飼い猫はある探偵業務の依頼の中で引き取ることになった猫である。家出した猫の探索というごくありふれた依頼であったが、その飼い猫は外で野良猫相手に子供を作っていたのだ。飼い主は、外で勝手に作った子猫まで引き取れないと受け入れを拒否。不憫に思った藍堂が自分で育てることにした。
 あまり動物に興味が無かった藍堂だが、飼ってみると案外可愛いもので、日々の生活の数少ない癒やしとなっていた。

 ミケの世話を終え、布団の上にごろりと転がる。ふと、今日は色々とあったせいか、昔の事を思い返してみたくなった。スマホの中の古い画像フォルダを開いてみる。

(マサ……トシ……)

 藍堂には竹馬の友があった。吉川(よしかわ) 将行(まさゆき)米良(めら) 敏木(としき)。互いにシゲ、マサ、トシとあだ名で呼び合う、中学時代からの親友であった。共通事項は全く女にモテないこと。他にも多くの趣味を共有していた三人であったが、この結びつきは最も強く、「俺らは将来、絶対に彼女とか、嫁とか作らねーぞ!」「おー!」と互いに言い合う仲であった。

 ――が、その内の一人、将行(まさゆき)……マサは七年前に目出度く結婚。とても美人の妻を迎えて、二人の娘という子宝にも恵まれて、平和な家庭を築いている。その事に対し、藍堂はとても誇らしく思っていた。自分が暗く、鬱屈した日々を送っている一方で、友が明るい道を歩いている事が一つの救いの様な気持ちであった。自分がこのまま孤独に死んでも、マサが変わりに正しい道を進んでくれる。
 マサもトシも、地方在住であり、特に家族持ちとなったマサとは互いの忙しさによってもう直接会う機会が少ない。それでも三人の心の結びつきは不滅であった。

「そういえば、伽羅(きゃら)ちゃん、そろそろ誕生日だったっけ」

 画像フォルダの中にあるマサの二人の娘の写真が目に映る。危ない、毎年何か誕生日プレゼントを送っていたのに、最近は業務も多忙で忘れかけるところであった。何を送ってあげよう。「Nintendo Switch」などはまだ早いだろうか。

 その時だった。握っていたスマホに急に振動が走り、着信を告げた。一体この時間に誰だ? と訝しがるとその番号は丁度今思い浮かべてる中の一人からであった。

(トシ――?)

 もう一人の親友、トシ。自分と同じく未だ独り身だが、彼もまた地方勤めであり、最近は会う機会が少ない。むしろ距離がより近いため、マサの方が会う機会が多いという。

「シゲ……」

 電話口のトシの声は、何時になく震えていた。只ならぬ気配を藍堂は感じた。

「マサが、死んだ――――」



 冷たい霊安室のベッドの前で、藍堂は親友達と予期せぬ再会を果たした。

「マサ、どうして……」

 親友の死に顔は、安らかさとは程遠い、痣と傷跡だらけのものだった。激しい争いの後に死に至った事は明らかだ。
 全身に掛けられた毛布の下は、より酷い有様なのだろう。

「シゲ……」

 呆然とマサの死体を眺めてしばらくすると、同じように虚ろな表情で壁際に寄りかかっていた親友のトシがようやく声をかけてきた。

「トシ、一体何があったんだ、どうしてマサがこんな事に……」
「落ち着いて、聞いてくれ――」

 トシが語ったマサの顛末は衝撃的な内容であった。

 マサの妻が、不倫をしていたのだ。それも最近の話ではない。マサと結婚する前から、ずっとであった。
 マサの妻は性的欲求が人一倍強い女性であった。マサはセックスが下手だった。元々生真面目で、臆病な性格であり、親友の藍堂が誘っても風俗通いすらしたことのない男であった。そのマサに妻を満足させる技量などあるはずもなかった。優しさに惹かれて付き合い、結婚したといってもそれは表向きだけの話であった。裏では幾人もの逞しく、性欲が強い男たちとデートをし、まぐわい、そしてその事を一切後ろめたいとも思わない女であったのだ。
 生まれてきた二人の娘も、マサの子供ではなかった。マサが、医療に携わっていたトシへと依頼し、DNA鑑定で分かったことであった。しかも二人の娘とも、それぞれの父親すら異なっていたというのだ。
 絶望したマサは、妻が不倫に通っていた男達が集まっている店に火を放ち、全て焼き殺した。そして妻や娘との激しい争いの末に一家心中を果たしたのだった。

「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ、そんな事……」
「俺だって、信じたくねえよ! 信じたくないけど……」

 未だ受け入れ難く、ただ首を振って拒絶する蘭堂とは異なり、トシは話の途中から涙をぽろぽろとこぼし、その口調は多分に嗚咽交じりで聞き取り辛いものとなっていた。拳は硬く握られ、全身の筋肉があらゆる感情から痙攣を起こして震えている有様が見て取れた。

「このマサの死に方が、何よりの証拠、だろ……」

 ついにトシはその場に崩れ落ちた。マサの凄惨な死に顔、トシの悲惨な泣き顔。その二つを蘭堂は交互に見渡した。

「なあ、シゲ、教えてくれよ? マサは幸せだったよなあ。あの結婚式では嫁さんと一緒に笑顔だったよなあ。二次会で嫁さん含めて皆で、馬鹿笑いしたよな。綾奈(あやな)ちゃんや伽羅(きゃら)ちゃんが生まれた時も、俺達、はいって、嫁さんに笑顔で言われて抱っこしてやったよな。あれ、全部嘘だったなんて、そんな事ないよな……?」
「それは――」

 トシは涙しながら蘭堂の膝に縋り付き、問いかける。嘘――。あの貞淑な人妻を装っていた素顔は全て嘘だったのか? その問いに答える言葉を蘭堂は持っている。だが、それを今は答えることができない。

 綾奈ちゃんや伽羅ちゃん。マサの二人の娘の名前である。いずれもマサが自分やトシにも相談して真剣に考えて付けてあげた名前だ。二人の子が生まれ、成長した時、冗談めかして「お前に似なくて良かったよなー」などと言った言葉が胸に突き刺さる。嗚呼、自分はどれだけマサに残酷な――。

「マサ、どうして……」

 「どうしてこうなる前に相談してくれなかったんだ?」と思う。自分の力ならこうなる前に嫁の素行を調べ上げ、不貞行為を暴く事はできた。それでも家族の破滅を防ぐ事はできなかっただろうが、友と娘達の命だけは何とかできたかもしれない。慰謝料を請求し、過去を清算して新しい人生を歩む事のできる可能性はあったかもしれない。

 だがもう、誰に何を問いかけたところで答えを返すものはいない。マサも、二人の娘も、マサを最初から裏切っていたビッチ妻すらも。既に彼岸の向こうだ。ただやり場のない、行き場の無い思いが蘭堂の全身を絞めつけていく。

「うう、うわあああああああああーーーーー……」

 今はただもう、親友(とも)の亡骸の前で、トシと共に泣き崩れることしかできなかった――。



 キイイ……と重苦しく扉を開ける音が響いた。自宅に戻った蘭堂は、まったく生気の無い足取りのまま、照明も付けずに立ち尽くしていた。
 マサの通夜も、葬式の間も、蘭堂の心はずっと死んだ様な状態であった。頭の中では一つ、トシが霊安室で蘭堂へと尋ねた言葉だけが残っていた。

「全部嘘だったなんて、そんな事ないよな……?」

 嘘だ――と蘭堂には分かる。探偵業の中で、恋人同士の浮気調査や夫婦の不貞行為を暴いたことなど、もはや数えきれない程に上る。その中には今回のマサよりも酷い有様を晒したケースもあった。最も、結末がこのような悲惨さを迎えたものは無かったが……。

 それだけではない。蘭堂がこれまで告白してきた数多くの女たち。もう二度と相手と関わらないと心に決めて、能力を使って彼女らから自分を振った理由を探り出そうとしたことがある。
 「彼氏なんていません」と言いながら、10人以上の男友達と日頃遊んでいた女がいた。三つ又以上の恋人を天秤にかけ、誰がふさわしいか、自分に貢がせながら値踏みをしている女がいた。家庭持ちの男と付き合い、弱みを握ることで自分に逆らえなくして意のままにして楽しんでいた女がいた。

 ビッチ、ビッチ、ビッチ……。

 人間の見たくもないもない真実に触れる度、蘭堂の心の中でその言葉が大きくなっていった。それは別に女だけに限った特性、というものでもない。何よりも、そうした汚い心が自分の中でもどんどんと膨れ上がってくることに蘭堂は耐えきれないものを感じていた。たた欲望に忠実な肉の塊。獣としての本性――。
 マサだけは、そうしたものとは無縁の世界で生きてくれている、と思っていたのに……。

 「ミャー……」と、ふと下を見やれば飼い猫のミケが主の帰還を知って、ずりずりとすり寄ってきた。慰めてくれるのかな――と思った蘭堂はその体を優しく抱き上げ、その柔らかな毛皮に触れた。
 ――が、その時異変に気付いた。

(……お腹が膨れている?)

 ミケの腹を指で擦ってやる。間違いない。もぞもぞと動く、新しい生命の感覚がある。一体いつ……?蘭堂は、思わずミケの生殖器へと手を伸ばし、そこを優しく触れることで、ミケに探りを入れた。魔人能力、発動――。ミケは「ニャッ!?」と驚く声を上げた。
 脳裏に引き出されるミケの記憶。ミケは蘭堂のいない間にこっそりとベランダから抜け出し、日々、オスを誘っていた。ゴロゴロと横転して魅惑のポーズを取り、甘い猫なで声を出して、自分に相応しいオスはいないかと呼びかける。様々なオス猫がミケへと群がっていった。毛並みの艶やかなプレイボーイ風の血統書付きの隣のマダムの飼い猫、近所のススム君の家のヤンチャな白い三毛猫、近隣の野良猫たちを支配下におく屈強な黒いボス猫……、ところ構わず誘惑を仕掛けては、次々に気にいったオスたちと交尾していくミケ……。

「うう、ミケ……お前も……」

 遂に堰を切った様に、霊安室以来、堪えていたものが蘭堂の眼に溢れた。それは滝の様に蘭堂の顔を伝い、地面へと落ちた。

「お前も……ビッチだったんだな……」

 真実。純真さなど、どこにも無い。人もまた獣。そして獣はただ、己の欲望の為にのみ動く。

「どこの誰とも知らない男の子供を(はら)んで……うう……あああ……」

 蘭堂の胸の内を支配するは、絶望。それはやがてどす黒い物へと塗り変わっていく。親友(とも)の命を奪った、世界の真実に対する、憎悪。


「全てのビッチに死あれっ!! 俺のっ! 俺達のっ!! 憎悪の叫びを聞きながら死んでいけええええッッッッッ!!!!!」


 オオオオオーー……と、その後はただ声にならない声が続いた。慟哭は数刻にも渡って続いた。蘭堂の喉が枯れ果て、体力が尽きるまで。やがてスイッチが唐突に切れた機械のように蘭堂の叫びは突如止まり、後には主の身に何が起こったのかも分からぬミケの「ミーミー」という力ない叫びだけが残った。

 余談だが、春先になれば猫は発情期を迎える。ゆえに飼い主の管理から離れて自由に行動する時間が増えればメス猫が自分から積極的に繁殖に赴くのは生物としての当たり前の本能なのだが――その事を知っていたとて、今のこの男には何の慰めになったのか。

 蘭堂が倒れ伏し、闇と静寂が支配したマンションの一室。その玄関の先の重い扉の向こうで、一人の『老人』が佇んでいた。その口元に妖しい笑みを浮かべて――。



 一年後――。

 魔人警官、三澄(みすみ) 香奈(かな)巡査はその日、管轄内で発生していた連続猥褻(わいせつ)事件の捜査に当たっていた。
 学生、社会人、一人暮らしの老人までも……老若男女を問わず、突然にして性的絶頂……エクスタシーを迎えた状態となって道端へと放置され、その後はただ性的な欲求のみを求める状態へと落とされてしまう、恐るべき凶悪事件。被害者は全員がその後精神病棟へと送られ、未だ回復の見込みもない。
 彼女は魔人警官としての義憤から、そしてこの事件を解決すればその手柄で遂に念願の警部補昇進が叶う野心から、事件解決への意欲を燃やしていた。

(警部補に上がれれば、お給料も上がる。自分に出来ることも増える。そうすれば――)

 だが、それ以上に彼女の中には秘めたる想いが一つあった。

 入念な独自捜査の末、遂に彼女はこれはと思う犯人候補の当たりを付けていた。渋沢(しぶさわ) 雄一(ゆういち)。都内私立女子高の非常勤講師。平凡な経歴の男であったが、普段の警官としての職務の中で、彼女はある事実に気付いた。最近都内で発生している電車内痴漢事件の多くにこの男が居合わせていることに。
 痴漢事件自体、東京都内においてはあまりにも日常茶飯事であり、現在の連続猥褻事件に比ぶれば気に止める人間がほとんどいなかったが、この男がいた車両の被害者男女達が陥った症状の酷さは、その猥褻事件に通ずるものがあった。

 己が人生観を歪ませるほどの性的快楽。
 すなわち、強力な淫魔人の仕業――。

 猥褻事件が発生した現場の分布図もこの男の活動圏内に近い。
 間違いないと、職務の合間を縫って容疑者宅の前を見張り、遂にホシが動くのを目撃した。尾行開始。

 雑踏の中、容疑者を追っていく。次第に相手もまた、別の存在を尾行していることに気づく。希望崎の制服に身を包んだ女子高生。新たなターゲットを既に見定めていたのだ――! 注意深く、用心深く、相手の後を付ける。人混みを抜け、混み合った電車へと乗り込み、また駅前の雑踏へと踏み入れる。気づけば日が暮れている。ターゲットと、彼が追っている女子高生は、住宅街にまで進んでいき、更に児童公園の前を通り過ぎて……その瞬間、ターゲットが女子高生を羽交い締めして、公園の中へと連れ込んだ!
 いけない――! 香奈(かな)はショートポーチに隠し持っていた拳銃を抜き出し、自らも公園の中へ足を踏み入れる。このまま現行犯で即座に確保しないと――!


 トン――――


「…………ふにゃっ……?」

 不意に、肩を叩かれた。

 その瞬間、全身を電流が貫いた。

 これまで感じたこともない、甘い快感が……。

 腰砕けになりそうな感覚を何とか喰いしばってこらえ、ばっ、後ろを振り向く。
 ぬっ――と、幽鬼の様な男の顔がそこにあった。これまで追っていた渋沢(しぶさわ)雄一(ゆういち)ではない。黒いポーラーハットに、やはり黒一色のトレンチコート。一見すると洒落た探偵を思わせるような服装だが、異様なのはその男の容貌。眼に光がない。虚ろな死んだ眼差しで、体型も痩せ細っている。ゆらゆらと無造作に腕をだらしなく下げた様は、さながら生ける屍の様――。

(こんな男が付けていたことに、どうして気づけなかった?)

 未だガクガクと震える脚で何とか後ずさりながら、香奈(かな)は頭で疑問を浮かべていた。一体、いつから、何処から、この男は私を尾行し、肩に一撃を加えられるまでの致命的な隙を作り出してしまっていたのか?

 答えは、始めからずっと。香奈が雑踏の中で尾行を始めた時から、この男は群衆に紛れて香奈の背後に潜んでいた。
 これぞ『性徒会』の一派、『痴漢』が所持する技の一つ、人混みを利用した『完全気配遮断』である。異様な人口密度を誇る大都会、東京、其の中でも群を抜いて密集率の高い区画、それが朝の満員電車。その内部で性行為に及ぶ手段を長年にかけて考案し、練磨し、積み上げていった結果、『痴漢』という『性徒会』の新たな流派が生まれた。
 優れた『痴漢』は周囲の群衆を利用して己の存在を消し、ターゲットに対して誰の物からかも悟らせずに背後から性行為に及ぶ技術を持つ。そしてその完全ステルス性能は、ターゲットが電車を降り、人混みから離れた後もしばらく持続する。電車から降り、『痴漢』からの暴行が終わってほっと一息ついていたターゲットがしかし、そのままホテルやトイレ、果ては自宅にまでいつの間にか『痴漢』によって連れ込まれ、連けられ、更なる行為に及ばれるという話は、貴方も聞いたことがあるだろう。

 渋沢(しぶさわ)雄一(ゆういち)、彼こそが『性徒会』百八派が一つ、『痴漢』に属する男であった。だが今香奈に『痴漢』の技を持って快楽を与えた男は彼ではない。

「希望崎学園二年、南 明夫(あきお)君?」
「――!!?」

 目の前の男の口から暗い、静かな声が発せられる。何故、その名前を!? 香奈の目が驚愕に見開かれる。

「素朴で、純粋で、優しそうな瞳が好き、か。良いねえ。微笑ましい初々しさだねえ」

 かあっと顔が紅潮していくのを感じる。何故、年下の、高校生の、密かに交流している彼の事を――。

「どうされたいんだ? そいつに? 優しく手を握ってほしい? 口付けしたい? それとも――」
「黙れえっっっ!!」

 もはや警告もする気も無かった。銃弾を二発、発砲。急所に当たらなければそれでいい。
 一発は、まっすぐに男の腹部へと向かう。命中間違いなし。だが――。

 ヒュン、と男の指先が目にも止まらぬ速さで振りかざされた。香奈の魔人能力の感覚がはっきりと捉えた。信じられなかった。この男は銃弾を(つま)んだのだ。電光石火の腕の振りと、恐るべき指先の強さで。
 しかしもう一発はどうか? 香奈の能力は『曲射(バレット)一芸(サーカス)』。自らが放った銃弾の速度、軌道を自在に操作することができる能力である。そしてもう一つの銃弾は明後日の方向に飛んだように見せて、男の背後へと突き刺さるように弧を描いて戻ってくる。銃弾掴みに集中した男のがら空きの背中へと一撃――!

 ぐ 
  にゃ
    り

 またしても香奈の目に信じられぬ光景が映った。スーツを着込んだ男の腹部が半円を描いて大きく凹んだのだ。銃弾はそのまま空洞を通り抜け、香奈の元へ戻ってくる。慌てて能力を解除し、弾丸を地面に落とす。

「違うよなあ。もっと交わりたいんだよなあ。触れてほしいんだ。たっぷりと自分の身体を舐め回してほしいだ。若い剛直で、自分を貫いて欲しいんだ……」
「ば、化物ッ――!」

 ばんばんと、次々に銃弾を放つ。だがそれも全て、男の身体を通り抜けていく。事前に開かれた巨大な孔を通って。
 ぐにゃり、ぐねり、男の身体が曲がる、()がる。頬が(くぼ)む、肩が(ねじ)れる、脚が折れる。
 さながら軟体動物の如く、男の身体は人体という構図を無視するかの様に柔軟に躍動し、ぐねぐねと全身を歪ませ、凹ませながら、香奈へと迫るのだ。

 これぞ『痴漢』、第二の奥義『超軟体化』である! 限界ギリギリまでの数の人間を格納して疾走する満員電車の車中において、ターゲットへ近づいて性的行為に及ぶのは容易な事ではない。その地獄の環境に磨かれ、『痴漢』達は遂にこの技術を開発するに至った。全身の皮膚、筋肉、関節、果ては骨細胞までも自在に操り、アメーバのような単細胞生物の領域に至るまで自らの身体を柔軟化させ、自由自在に変形させる! これによっていかなる人口密集地帯においてもその隙間を掻い潜り、己が見定めた相手への性行為に及ぶことができる!
 大都会の中を蠢く『痴漢』達は今や皆、例外なくこの技術を身につけている! 嘘だ、と思う方は乗車率300%を超える通勤ラッシュ時の田園都市線の中において、10メートル離れた女子高生の背後にこの技ヌキで忍びよってから言っていただきたい!

 さて、その『痴漢』からこの技術を伝授されたこの男は、今や香奈巡査の眼前へと迫っていた――。

「ひ、ひいっ!?」

 全身が有り得ぬ方向に()がり、奇怪な怪物(モンスター)と化した男を前に、香奈は二歩、三歩素早く後ずさった。

「シュアアア!!」

 だが、更なる驚愕! 男の顔が、亀が甲羅から首を伸ばす時の様に、ぐにょんと数十センチ程も延びたのだ! これもまた『超軟体化』技術の応用! そして伸びた男の顔が、香奈の小さく柔らかな唇へと向かう!

「んんーーーんんんんーーーっ!!」

 奪われたのだ。初めての口付け(ファースト・キス)を。彼となら、と思っていた大切なものを。それだけでは終わらない。男の舌が口腔を(ねぶ)り、無理やり香奈の口をこじ開ける。そして容赦なく、その舌を突き入れてくる。

「ああっ……」

 なんだろう、これは、と思う。甘いのだ。最初に肩を突かれた時と同様。いや、それ以上だ。嫌で仕方ないはずなのに、男の舌の動きは何故だか妙に優しく、なまめかしい。そして無理矢理に押し込まれ、飲まされる唾液の味。これは――嗚呼、昔、こっそりと舐めてみた、母親が買い置きしていた蜂蜜の味に似ている。何だか蕩けそうな――。

「い、いやっ……! いやあああっ!!」

 香奈は強靭な意志を持って何とか男を突き飛ばす。

「上官が嫌らしく尻を見ている視線――」

 だが男が全くたじろぐ事は無い。そしてぐにょぐにょと『超軟体化』によってゼリーの様に歪む口元から、香奈が心の奥深く秘めていた願望を紡ぎ出す。

「後輩くんのどことない自分への憧れの眼差し――」

 男の暗く、心の底から冷たく訴えるような呟きは、香奈の脳内で自分に向けられた欲望の視線をフラッシュバックさせた。
 「ハアハア……」と息を切らせて、喉を詰まらせながら、それを否定するも、脳の状態が何かおかしい。先ほどのディープキスによって、まるで麻薬を注入されたかの様なトリップ状態にあるのを感じている。
 全身が、熱い。

「全部、気づいてたんだろう? それでいて職務に一生懸命な、正義に忠実な女性警官を演じていたわけだ。その裏では、どこかで若え男のチ〇ポを咥えてえって欲望を潜めていたってわけだ」
「ち、違うっ! 違うう――」

 胸の奥に秘めていた感情と、果てない快感が脳内でミックスされるたび、違う、違うと心の中が悲鳴を上げる。
 だが、何が違うと言うのだろうか? 日々の職務に少しずつ疲れ、嫌気が溜まっていた時に、彼に、明夫(あきお)君に出会った。きっかけは痴漢の冤罪で困っていた彼を助けたことからだった。引かれていき、指導、の名目で連絡先を交換した。この前は二人でちょっとしたショッピングにも――。確かにそれは大人として、警官として、良からぬ好意であったかもしれない。不純なものだったかもしれない。
 けど、その感情は決して――!

「何も違わねえっ! 何もっ! さあ、曝け出せっ!」

 一瞬にして筋肉を収斂させ、通常の人間型の姿形へと戻った男がその指拳を繰り出す!
 ターゲットは、忠実な法の番人を装っているビッチ警察官、香奈――!

 その仮面を――――――!!

「シャアッッッ!!!」
「ひああああっ!!」

 その虚飾を――――――!!

「ヒャアアッッ!!!」
「ああああああんっっっ!!」

 その欺瞞を――――――!!

「キイィィヤアアアアアアァァーーーーーッッッッッッ!!!」
「あふふっ! はああん!! 嫌やゃああああーーーーーーっ!!」

 暴く、剥がす、()じり取る。
 其れ、人の本性はビッチなり、其の善なる者は偽なり。紀元前の中国の思想家にして『性徒会』の先人たる姦子の教え。それを貫き通し、ここに曝け出す男が一人。
 藍堂(らんどう) 重記(しげき)、彼の中で今まさに! 新たな『性徒会』の流派が生まれようとしていた!

「性徒ッッ! 百烈拳ッッ!! アアアーーーータタタタタタタアアアァァーーーーーーーッッッ!!!」
「あひゃあああっ!! べひゃあああああああっ!! しひゃひゃああああんっっ!!」

 嵐の様な指拳の連打! その全てが香奈の全身の快楽秘孔を適格に穿つ! そして付かれる度、香奈のビッチ願望が暴かれていく!

「わ、わたしっ……! 欲しかったのおっ!! 明夫くんのっ!! 彼の優しい温もりがっ!! キスして欲しかったのおっ!! 触ってほしかったのおおっっ!!」
「クソビッチがッッッ!!」

 陥落――。
 遂に己のビッチ願望を認めた香奈が最後の指拳を心臓に受け、絶頂(エクスタシー)を迎えてその場に崩れ落ちた。
 その瞬間、百を超す指拳の風圧によって香奈の着ていたスーツが散り散りに吹き飛び、生まれたままの姿をさらけ出した。
 更にその衝撃によって香奈の陰部の奥に秘められていた二十五年間守り通してきた処女膜も容赦無く千切れ飛んだ。
 全裸で地面へと転がった香奈は己の全てを奪われ、暴かれた事を自覚した。自分が、どうしようもないビッチである、ということも。

「こ、殺しっ……殺して……」
「お前はもう死んでいる」

 涙に濡れ、掠れ掠れの声で懇願する香奈を見下ろし、『探偵』は冷たくそう言い放ったのだった。

「三澄巡査っ!! どこですかー!?」

 その時、香奈の後輩である男性警官の声がその場に響き渡った。
 香奈は念のため、住宅街へ移動する前に応援を要請していたのだった。

「三澄巡査っ!! 巡査ーーっ!?」

 後輩警官は遂に公園の中へと踏み込んだ、だが……。

「ここにもいない、どこなんだ……?」

 既に蘭堂も香奈の姿もそこには無かった。



「危ないところだったな、この技も、習得しておいて正解だったか」

 蘭堂は、公園から数キロ離れた人気のない路地裏にいた。腕の中には裸の香奈を抱えている。
 何故、一瞬にして公園に踏み込んだ警官の目の前から忽然と姿を消し、これ程の距離を移動することができたのか?

 それは『痴漢』第三の奥義、『異常スプリント力』に依るものであった。近年、朝の満員電車で痴漢を働いた輩が線路に飛び降り、逃走を図るというニュースを貴方も何度か目にしたことがあるだろう。『性徒会』に属する『痴漢』も万全万能ではない。時には勇敢な一市民によって腕を掴まれ、駅員の前に突き出されてしまうこともある。
 そんな時の最後の切り札となるのがこの『異常スプリント力』。一瞬の隙を付き、駅員や他の乗客達を振り切った後、極限まで鍛えぬいた『異常スプリント力』によって『痴漢』達はスタートダッシュ時から一気に最高速にまで達する。その速度、人類の限界点近くまで到達するのだ。実に時速160キロオーバー。人類最速の男、ウサイン・ボルトの領域に迫る程である。
 例え中央快速線がそのまま走り出して『痴漢』の追跡を開始しようとも、最高速に達した『痴漢』には追い付けない。そのまま都会の喧騒の中へ、逃走を許してしまうのである。
 朝7時~10時の通勤ラッシュ時、電車内で駅員から「お客様の線路内立ち入りにより~」などどいうアナウンスがあって電車が長時間止まったならば、それは今まさに『痴漢』が彼を追跡する列車を振り切るべく、長いレールの上で果てないスピード勝負を挑んでいる瞬間である。どうか、そのまま轢殺されてしまえ、と呪詛の言葉を投げかけていただきたい。

「がはっっ!!!!!!!」

 一瞬、気が抜けた瞬間だった。蘭堂は口から大量の血を吹き出し、地面の上に赤い水たまりを作った。

(ここまで、よく持った方か……ぐっ……)

 無理もない。『完全気配遮断』『超軟体化』そして『異常スプリント力』……一つ一つが習得には数か月から数年をも要する『痴漢』の奥義を三つもこの短期間で無理やりに引き出し、使用したのだ。元々素質があった蘭堂でも尋常ならざる手段で達成できることではなかった。『痴漢』渋沢(しぶさわ) 雄一(しぶさわ)からの過酷な実践指導に加え、薬物投与による強制的な肉体変化、全身くまなくメスを入れる違法な人体改造を駆使してようやく成し得たことである。
 その代償は大きい。蘭堂の寿命は既にもって10年。更に他の『性徒会』の奥義を使おうとすればする程、5年、1年とその残りの寿命は加速度的に縮まっていく。

(その程度で済むなら、問題はない……)

 だが、それでもいい、それでも……と蘭堂は思う。既にこの命は友の墓標の下に諸共に沈んだ身。できるだけ多くの人間に、自分がビッチなんだという事実をこの技をもって突きつけてやる。それを叶えるためならば――。

「中々の手並みじゃったぞ、『探偵』よ」

 血を吐き、倒れ伏した蘭堂の前へ、飄々と迫りくる一つの小さな影があった。『性徒会』百八派が一人、そして蘭堂をこの地獄へ誘った男、『老人』である。

「帽子が落ちておるな。己の『性徒会』としてのトレードマークは大切にしておくもんじゃ」

 倒れた時に勢いで落ちた黒いポーラーハットをひょいと拾い上げ、更にその隣でまだ全裸で喘いだまま「あきお、くうん……」と譫言(うわごと)を繰り返す香奈を見やった。

「じゃが、少々拍子抜けの相手じゃったかな? 戦闘能力の方はともかく、願望の方はいささか分かり安過ぎたわ。この程度の相手を堕とすのは『性徒会』としてはあまりに容易い」
「関係ない。人間、一皮剥けば誰も同じだ――」

 薄れゆく意識をこらえ、死んだ瞳のまま地に付す蘭堂……いや、『探偵』は『老人』を見上げる。その奥に秘かに燃ゆる炎を、『老人』はしかと見つめる。

「なれば、その野心に次なる道を与えてやろう……ほれ」

 老人は懐から携帯TVを取り出し、蘭堂の前に差し出した。
 そこには色素の薄い髪を肩口に垂らした、外国の少女が映っていた。幼さを残しながらも気品に満ちた少女であったが、意識が朦朧とした『探偵』の耳にはもうその声が絶え絶えとしか聞こえない。

『世界の常識を塗り替えるほどに、何かを強く想うことができる。それはこの上なく素敵なことだと、(わたくし)は思います――』

 美しい少女であった。一目見れば多くの人間が心を奪われ、その虜となるものも少なくないだろう。それが貴族や王族というのであれば、生涯をかけた忠誠を誓う者もいるだろう。
 だが、もはや人間の美醜を感じ入る心は『探偵』の中からは既に死んでいる。今あるのはただ――。

「次はこの娘を()ればいいのか?」
「気が(はや)いわ。それはお主が勝ち残った時、まだその気があった時に取っておけ」
「勝ち残る――?」

 『老人』は、画面に映る少女が語る大会、グロリアス・オリュンピアについて告げる。強者達が集い、その力を競い合うバトルロイヤル。最後まで勝ち残った者には莫大な賞金と、可能な限りの願いを叶える権利が与えられるという。

「金も……他人の力を借りて叶えたい願いも、俺にはない」
「じゃろうな。『性徒会』に属するものは皆、己が欲望は自らの技量を持って掴み取ってこその矜持の持ち主ばかり。故に今回の祭り事も静観の構えかと思うておったが、お前さんの修行が予想よりも早く仕上がった」

 『探偵』はただ、最短距離での『性徒会』の奥義の習得を望んだ。外法な手段に身をやつすことも(いと)わなかった。それでも『性徒会』の基礎的な技法の習得をマスターするまでで二年、というのが『老人』の見立てだったが、そのわずか半分でこの男は成し遂げた。さらには別流派の『痴漢』の技の再現までも。執念、の為せる技か。

「今のところ願いに興味は無いじゃろうが、この戦いに集まる強者に関してはどうかな? 強き力、強き意志、強き願い……それらを持ち合わせた魔人達の奥に秘めたるビッチ願望を大衆の眼前へと曝け出す……お前さんの望みに最も相応しい<シチュエイション>……という奴じゃと思うが」

 『老人』を見上げ、『探偵』はその意図を掴みかねていた。『性徒会』は本来、各々に与えられた現場で独自の性的活動に勤しむのが常であると教えたのはこの『老人』だ。当然、『探偵』自身もそのつもりであったが、何故このような手助けをするのか。気紛れという奴だろうか――?

「人の歴史ある限り、其の裏に『性徒会』有り。既に一回戦に参加する魔人は決まっておるようじゃが、儂のツテを使えばお前さんの為に一席、枠を用意することができる」

 『性徒会』百八派にはその技量を持って時の権力者や為政者達に取り入り、影から彼らを思うままに動かしている者も多い。人である限り逃れられぬ欲望、それらを充全に満たす力が彼らにはあるからだ。既に今回の大会運営にも『性徒会』から捧げられる貢物やその性技の虜となり、操り人形とされてしまっている者達がいるのだろう。
 いや、あるいはこの『老人』本人が――。

「…………」

 だが、そんなことはどうでもいいことだ、と『探偵』は思い直す。

「いいだろう……。確かに願ってもない舞台だ……。相手が老若男女、誰であろうが関係ない……。全ての人間に、どんな人間でもビッチだという事実を暴いて突きつける。俺の(わざ)でそれが叶うなら……」
「それでこそ、じゃ。お主を見出した儂の目は間違っておらんかった」

 ニヤリと『老人』はその歳にも関わらず未だ健在な白い歯を見せて笑うと、探偵の下半身へと近づき、「ひょっ!」とその股間を撫でた。

「うっ!!!!」

 途端に、『探偵』の全身を稲妻の様な快感が奔った。やはり、この男にはまだ及ばない――と思いつつ、『探偵』の意識はまどろみの中に沈んだ。

「じゃが、今は眠れい。百八派の『医者』ところへ連れて行こう。まずはその傷を癒やして大会に備えると良いて。『医者』が飼っておる白衣のエンジェル達の温もりもたっぷりと味わえ。今回の仕事の褒美じゃ。もっとも、それが今のお前さんにとってどれ程の安らぎになるかは知らんがの」

 ククク……と『老人』の口元が歪む。老いにより、忘れかけていた若き頃の情動が自らの心にも灯るのを感じる。この男が何処までやれるのか。何を見せてくれようというのか。

「だが、敵もおそらく手強いぞ……? 手練手管を用いて戦う魔人がおろう。我ら『性徒会』とは理念を異にする淫魔人もおろう。ただ純粋に力の強き魔人もおろう。儂らを凌ぐ技量を持つ魔人もおるやもしれぬ」

 だが、最強は『性徒会』だ。人間の……いや生物の根本に在る情動を否定せず、自在に引き出す力。あるゆる場所、あらゆる時代で叩き上げ、磨き上げ、培われてきた力。それをこの男が存分に証明してみせてくれる。人間全てに対する底知れぬ憎悪と共に。

「踏みにじり、蹂躙し、そしてたっぷりと喘がせ、陵辱してやるが良い。それこそが『性徒会』。それこそが我らの()き様――!」

 『老人』の遥かな宇宙(そら)の上では今また『性座』が輝いている。男性器と女性器が交わる様を星々が形造った『性徒会』の象徴、『性斗百八星』。その中で、男性器の先端にある一つの小さな星が今、強く輝きを増した。百八番目、人間の心の奥にあるたった一つの真実を探り当てるという『探偵』の星――。

「叩き付けてやれ! お前の性技(せいぎ)を!」

 『老人』の叫びは、誰に聞こえることも無く広がる夜景の中へと消えていった。



 翌日――。

 希望崎学園二年、南 明夫(あきお)は昨晩から言いようの無い不安を胸の内に感じていた。

(香奈さん、どうして連絡をくれないんだろう……)

 三澄香奈、痴漢の冤罪にかけられた自分の言う事を真摯に聞いてくれた魔人警官。彼女の事を思うたび、この胸が締め付けられる。何気ない部活の悩みの話から徐々に話が広がり、射撃ゲームという共通の趣味を持っていたことから、親しくなって、一緒にゲーセンにも出かけ、連絡先も交換した。
 ここ最近は毎晩の様に連絡を取り合っている。なのに、昨日から不自然に連絡が無い。

 不安を覚えるのはそれ以前に彼女が残していた言葉。連続猥褻事件の解決への意気込みだ。彼女は警部補への出世、魔人公安に行くことに拘っていた。交番勤務でなくなればもっと自分とも自由に会える時間が取れると意気込んでいた。そんな事を気にしなくてもいいのに、と返したのだが――。

 これ以上考えていてもできることは無い。夕陽が差すグラウンドを進んで帰途へ付こうとすると、ざわざわとした喧騒が校門の前を包んでいた。
 何だろう、とその雑踏に近づいてみる。人混みをかき分け、前の方へと進み出る。

「あ――――」

 そこに映っていたのは、全裸でフェンス前の茂みの上に転がされていた、三澄香奈の姿であった。
 顔から、口から、局部から、白濁とした液体が零れ落ち、綺麗な白い肌のあちこちには痛々しい赤い傷跡。
 先程まで、校内の不良魔人達に散々に嬲りものにされたことは想像に難くない。

「そんな……そんな……」

 ガクガクと唇が震える。目から涙が零れる。
 一体、誰が――!? どうして、こんな事に――?

「あ、あきお……くうん……」

 その時だった。香奈の眼がパチリと開き、意識を取り戻した彼女は、明夫の姿を認めると、そのまま彼の下へと覚束ない足腰の動きのみでずりずりと這いよった。

「香奈さん!? どうして……どうして!?」
「これが……これが私なのお……本当の、私なの」

 香奈は全裸のまま、犬の様な姿勢で口を伸ばす。そのまま歯で明夫の制服のジッパーを下ろそうとした。

「ずっと、ずっと欲しかったの、これが……」
「香奈、さん――」

 しかし力の無い香奈の歯茎は上手く明夫の股間を捉えられず、バタンと地面へと顔を付けてしまう。
 顔から鼻血が出て、それでもなお香奈は股間を求める。

「明夫、くん……、ごめん……なさい、でも、私――どれだけ、自分が犬の様になったとしても、貴方の、事が――」

 遂に香奈の口がジッパーを捉えた。的確にそれを下へと降ろしていく。周囲から向けられる蔑みと憐れみの視線。だが明夫だけは違った。彼女の汚れた顔を見下ろしながら、なおもこう思う。

 ああ、なんて――。
 なんて、美しんだろう、と。

 どんな姿に変わったとしても、どんな本性を秘めていたとしても、どれだけ汚れたとしても。
 自分は彼女が好きなんだろう、と気づく。
 こうなった姿を見つめても、その想いは変わらない。

 明夫はゆっくりと自らの手で股間を曝け出し、少しでも彼女が優しく手に取りやすいようにと、その手を彼女の頬に添えた。


 こうして、ここに一つの真実は暴かれた。互いの欲望を曝け出した二人がこれからどうなるのかは分からない。だが少なくともその間に『嘘』は無い事だろう。
 人の性を暴き立てる、真実を探求する男『探偵』。これが彼の最初の事件である。しかし次なる事件、そして更なる真実を追い求めるこの男の冒険はまだ、これから――。


Case1.『誕生秘話』 終了。Case2へ続く。
最終更新:2018年03月06日 22:33