小学校の校庭。同級生の男の子が、笑顔でエリカに向かって走り寄る。
早い。すごい速さ。たぶん、オリンピック選手ぐらい早い。
エリカは必死で逃げるけど、間違いなく追いつかれる。
その男の子は走るのが得意な友達というわけではなかったけれど、『おに』だった。
時間が経つと『おに』の足がどんどん速くなっていくおにごっこ『はやおに』。
黒葉エリカの能力で開催されるこのゲームは、休み時間の過ごし方としてとても人気があった。
『おに』になって速く走るのはとても気持ちがいい。
それに、運動が苦手な子が『おに』になってもそのうち誰もが逃げ切れない速さになる。
「黒葉つかまえた!」
ほら、このように。エリカの背中を、男の子がポンと叩いた。ここからは、エリカが『おに』だ。
「ふう、さあて、と」
エリカは首をぐるりと回して校庭を見渡す。
初夏の太陽に照らされたグラウンドは、きらきらと光の砂を薄く撒いたように輝いていた。
見つけた。花子先生だ。大好きな花子先生。
『はやおに』は、子供でも大人を捕まえることができるルールだ。
もしかすると、エリカは花子先生を捕まえたくて『はやおに』をするようになったのかもしれない。
「花子先生ーっ! いくよーっ!」
エリカは宣告し、花子先生に向けて走り出した。
当時、教師を補助するためにサンプル花子を配備する計画が進められていた。
エリカの学校では、試験的に学級支援用サンプル花子が運用されていたのだ。
学校教育への導入には賛否両論あったが、少なくともエリカは花子先生が大好きだった。
どんな話でもちゃんと聞いてくれるし、こうやって休み時間に一緒に遊んでくれる。
たったった。『おに』となったエリカは、グラウンドを走る。
散り散りに逃げてゆく同級生達。でも、エリカの狙いは花子先生ただ一人。
花子先生は、とても足が速いけど、『はやおに』でどんどん速くなればそのうち──
≡≡≡≡≡≡≡≡≡
闇を駆ける、黒い影。か細い月明かりの下では、それが人間であると認識することは不可能だろう。
視界の中を一瞬で横切る影の名は、黒葉エリカ。サンプル花子保護団体のエージェントである。
サンプル花子を虐待者から奪還する任務を生業としているエリカだが、今回は私用だ。
懐から直方体に焼成された携帯食品を取り出し、口に運ぶ。その食事風景も認識不可能速度。
黒葉エリカは、常人の世界から隔絶された高速領域の住人なのだ。
(奴が──この中にいる)
エリカが睨みつけるのは、山奥に建てられた巨大な建物。
表向きは某企業の研修施設、とされているが、その実態はサンプル花子排斥組織の拠点である。
門の前には二人の警備員。その懐には粗悪な模造銃が忍ばされていた。
黒い影が警備員の側を通り過ぎると、敵の接近に気づくことすらなかった二人は声もなく倒れる。
その喉はナイフで掻き切られ、傷口から流血とひゅうひゅうという音だけが漏れていた。
(──どうやら、誘き出されてしまったようだね)
携帯食品を齧りながら、エリカは軽率に見張りを殺したことを悔いた。
二人の腕についた機器から、バイタルサインが発信されているのが見て取れた。
警備員がその辺のチンピラと大差ない兵隊だったので油断していた。
こいつらの本当の役割は警備ではなく、敵襲を察知するための生体センサーだったのだ。
建築物の外壁に小さな窓がいくつも開き、そこから無数の銃口が覗く。
銃眼。この建物は要塞化されている。次々に銃声が鳴り響く。
銃弾が、エリカに向かって雨のように降り注いだ。
(案の定、明らかに罠だけど──『餌』はちゃんと居そうだしなあ)
憎むべき敵。大好きだった花子先生を無残に殺した男。
そんな残酷なことをする奴なんて、死刑になるに違いないとエリカは思っていた。
だが、その男に課された刑罰は懲役1年。しかも執行猶予つき。
サンプル花子の殺害は、器物損壊罪に過ぎないのだ。
エリカはずっと、その男を殺したかった。
しかし、国外に脱出したらしいということ以外、保護団体の情報網をもってしても把握できなかった。
数日前、その男が国内に戻ったという情報を聞いた時、罠だという予感はあった。
だが、エリカは永遠とも思えるほど長い間、復讐の機会を待っていたのだ。
これ以上、待つことはできなかった。
銃弾が到着した頃には、エリカは大きく横に移動した後だった。
エリカは地面に落ちている石を拾い、銃眼を狙って何個も投げつける。
彼女は銃を使わない。銃弾より速く走れるわけではないが、銃弾より速い投石ぐらいならできる。
投げられた石のうち幾つかが銃眼に吸い込まれ、射撃者のうち何名かを沈黙させた。
建物内の射撃者は、素早く動く影を捕らえられず闇雲に乱れ撃ちするしかない。
一方のエリカも、僅かな月明かりの下では銃弾を視認しづらく、被弾を完全に避けることは難しい。
無数の銃弾のうち一発が、エリカの移動方向へと飛来する。
回避不能な弾道。エリカは左腕を振るい、ガントレットの甲で銃弾を弾いた。
その時、銃弾に混じる異様な音をエリカは察知した。
(まずいのが来るぞ──)
視線を上げ、音のする方向、施設の屋上を見る。
煙の尾を引きながら飛来する、小型の筒状物体──小型ミサイル。これは魔人能力だ!
ミサイルの速度は銃弾よりも遅い。エリカは横に大きく飛んで回避する。
だが、一旦横を通過したミサイルは方向転換して再び襲ってきた。
屋上より更に追加のミサイル。そして更に追加のミサイル。銃弾の雨は引き続き継続。
ミサイルを回避。ミサイルを回避。銃弾を弾く。3発のミサイルはいつまでも追ってくる。
回避。弾く。回避。回避。回避。弾く。銃弾が腕を掠める。回避。投石する暇がない。
エリカはミサイルのうち一発を引きつけ、紙一重で回避しながらミサイル側面を掌で軽く打った。
ミサイルの軌道が逸れ、ミサイル同士が空中衝突し爆発を起こす。
大きな爆発。エリカは全力で飛びのき爆風の危険域から脱出する。
三発目のミサイルも爆発の余波を受けて、さらなる誘爆を起こす。
爆発に視線を奪われた射撃者が銃弾の雨が一瞬弱まった隙に、エリカは建物へと接近。
速度を乗せたガントレットの一撃で、強化ガラスを叩き割り室内へと転がり込んだ。
侵入者めがけて黒服の男達が殺到し、銃を乱射する。
エリカは素早く携帯食品を口に放り込み、銃弾の雨を縫うように駆け、黒服たちの間を走り抜ける。
黒い影が通った後に、ソニックブームの如く血しぶきの花が咲く。
擦れ違いざまに黒服の喉笛を掻き切りながら、床を、壁を、天井を蹴ってエリカは奥へと走る。
能力『はやおに』によって獲得した高速機動。
どんどん速くなればそのうち、追いつけるはずだった。
大好きな、花子先生に追いつけるはずだった。
──もう、花子先生には追いつけない。
自らの刃で降らす血の雨に、あの日の花子先生の姿が重なる。
全身を針に突き刺され、血の海に沈んでいく花子先生の姿。
走る。斬る。跳ぶ。切り裂く。携帯食品を食べる。駆け抜ける。斬る。斬る。斬り殺す。
あの日からエリカはずっと、終わらない『はやおに』を続けている。
花子先生は、『はやおに』の最中に殺された。
解除条件を満たせなくなった『はやおに』は、エリカを最高速度まで加速した。
エリカは『おに』である。止まることのできない、高速領域の復讐鬼である。
≡≡≡≡≡≡≡≡≡
まるで自分の人生そのもののような血の回廊を通り抜け、エリカは怨敵の元へと辿り着いた。
背後で閉じた扉の中で、ロック機構が働く音がする。
脱出不能の小部屋。憎むべき敵は目の前に。
「ようこそ、貴様の墓場に!」
恰幅の良い禿頭の大男。上等なスーツを身に付けている。
その顔の下半分は、ガスマスクで覆われており、異様な雰囲気を醸し出していた。
学級支援用サンプル花子殺害事件は、世論を大きく動かした。
慎重論が大勢を占めることになり、結果として学校現場への導入は見送られることになった。
ゆえに殺害犯である彼は、排斥集団の中では一種の英雄とみなされている。
さらに、その横に白髪の小男が一人。工員のような作業服。こちらの顔にもガスマスク。
小男の両腕には、筒状の機械が装着されている。
先ほど屋上から誘導ミサイル攻撃を仕掛けてきたのは、この小男だろう。
確実にエリカを仕留めるために雇われた助っ人か。
エリカはナイフを振り、刃についた血を落とす。新たな血を吸わせるために。
そして、携帯食品を一口で頬張り、数回噛んだだけで飲み込んだ。
『殺す』
エリカは、殺気の籠った字でそう書かれたメモを掲げる。
それが戦闘開始の合図となった。
メモを投げ捨てたエリカは、高速で大男へと駆ける。
大男は両手をかざした。その周囲に無数の針が召喚される。
花子先生の命を奪った、憎むべき能力。針使い。自身の周囲に球状の針の結界を作る能力。
そのままエリカが進めば結界に突き刺され、花子先生のように死ぬ。
エリカは結界の直前で足を止め、両手のナイフを振るい、無数の針を叩き落していく。
叩き落す。叩き落す。叩き落す。叩き落す。
エリカは、憎むべき仇の能力を把握している。
自分がナイフを振るう速度は、奴が針を再召喚する速度よりも速い。
このまま針を叩き落し続ければ、問題なく殺せる。
叩き落す! 叩き落す! 叩き落す!
(花子先生! ──花子先生!)
エリカの心は復讐に満たされていた。それ故、もう一人の男のことを失念していた。
気付いた時には、ミサイルがエリカに命中する寸前だった。
(危ない!)
エリカは飛びのき、針の結界から離れミサイルを回避した。
煙の尾を引いて飛ぶミサイルは、エリカを執拗に狙って執念深く飛び回る。
更にミサイルが2発追加される。合計3発の誘導ミサイル!
誘導ミサイルの軌道は自在かつ精密。
回避しながら針の結界に近づくことすら困難を極めた。
そして、一瞬の好機を掴んで接近し、ミサイル到達までのわずかな時間で針を叩き落したとしても。
また結界から離れた時には新しい針が補充されてしまう。
(いけない──このままでは殺せない。花子先生、どうすれば──)
さらに、エリカは自分の状況がもっと悪いことに気付いた。
二人の敵が、ガスマスクを着けている意味。鼻に感じる微かな刺激臭。
室内に遅効性の麻痺ガスが撒かれている!
エリカのマフラーは簡易な防毒機能を備えているが、本格的な防毒マスクほどの性能はない。
しかも高速領域の住人は、新陳代謝も高速なので麻痺ガスが効果を発揮するのも早いのだ。
速度の利を生かしにくい狭い空間。
迫り来る3発のミサイル。針の結界による鉄壁の防御。毒ガスによるタイムリミット。
ミサイルを躱す。ミサイルを躱す。ミサイルを躱す。ミサイルを躱す。
──体が痺れ始めた。
(──おかしい。何故、奴は攻めて来ない?)
ミサイルとのダンスを踊りながら、エリカは妙なことに気付いた。
針使いの動きに、違和感がある。
毒ガスによってエリカが無力化するのを待つ、という狙いはわかる。
だが、それにしても動きが消極的過ぎる。
広い範囲をカバーできる結界能力に、密閉された部屋。
ミサイルの男を守りつつ、結界を生かしてエリカの行動範囲を狭めていくことは可能なはずだ。
なぜ、それをしてこないのか。エリカは懐から携帯食料を取り出し、口に放り込んだ。
ミサイルを避けながら、針使いの動きをさらに観察する。ブドウ糖が脳に補給され思考を加速する。
その動きから、一定の法則が見出された。針使いは、常に部屋の隅のひとつを背にしている!
エリカは壁に向かって何かを投げつけ、目を閉じ、耳を塞いだ。
猛烈な閃光と轟音! 閃光手榴弾フラシュバン! 光と音で敵を無効化する人道的兵器だ。
彼女は銃を信用していない。銃弾は、それほど速いわけではないから。
彼女は光を信用している。光は速い。他の何者よりも!
目を閉じ、耳を塞いだとしても。エリカがゴーグルを装備していることを考え合わせても。
狭い部屋の中でフラッシュバンを炸裂させて、本人がノーダメージで済む理由はない。
閃光と轟音による視覚・聴覚ダメージは、エリカも敵同様に受ける。
だが、高速領域の住人は、閃光ダメージからの回復速度も速い。
回復速度によるアドバンテージ差はごく僅か。
流石にエリカの高速機動でも、針を全部叩き落して針使いを倒すまでの時間はない。
エリカは壁へと飛び、壁を蹴って跳ね返り、針の結界を迂回。後方に回り込んだ。
そして、部屋の隅、何もない空間に向かってナイフを突き立てた。
空間から血が噴き出る! そこに光学迷彩で潜んでいたのは第三の能力者、毒ガス太郎だ!
「毒ガス太郎!?」
ミサイル太郎が動揺する。毒ガス太郎は、ミサイル太郎と瓜二つの姿をしていた。
その両腕が毒ガス噴射装置になっている以外は、背格好も白髪もそっくり同じ。
二人は、双子の傭兵であったのだ。毒ガス太郎が喉から鮮血を噴出しながら倒れる。
もしあなたが双子だったとして、双子の片割れが突然殺されたら動揺するだろう。
少なくとも筆者だったら正気ではいられない。ありえないほど取り乱すと思う。
だから、凄腕の傭兵たるミサイル太郎が、ミサイルの制御を乱したのも無理からぬことである。
エリカの高速領域から見れば、その乱れは致命的に大きな隙であった。
低い姿勢で三歩踏み込み、ミサイルの下を潜って背後を取る。
後ろ足でミサイルを蹴りつけ、さらに加速させる。
ミサイルの飛ぶ先は、針使いが展開する針の結界。
針使いはミサイルに向けて手をかざし、結界の針を集中させる。
針の壁に触れたミサイルが爆発する。爆風で針の結界全体がうねり、歪む。
爆風が収まった時には、エリカの投げたナイフがミサイル太郎の喉に深々と突き刺さっていた。
喉から鮮血を撒き散らしながら崩れ落ちるミサイル太郎。
「おのれ! おのれサンプル花子もどきめ!」
針使いが、針の結界を再展開。360度死角なし。そのままエリカ目掛けて突進する。
エリカの目には、その突進は極めて緩慢な動きに見える。
両手に持ったナイフを振るい、接近してくる無数の針を叩き落していく。
叩き落す。叩き落す。叩き落す。叩き落す。落す。落す。落す。落す落す落す落す落す落す。
針の結界が薄くなるまで叩き落し、踏み込む。エリカの全身に何本もの針が刺さる。
結界の内側、針使いの間近に迫る。
(花子先生──これで全てが終わります!)
エリカは相手の喉を目掛けてナイフを突き出す。
針使いは上体を大きく横に逸らせて、間一髪でナイフを避ける。
針使いは両手首を返し、招くような動作をする。
周囲を取り巻く無数の針が方向転換し、エリカに向かって一斉に襲い掛かる。
エリカはナイフを振るい、針使いの左手首を切り裂く。
腱を斬られた針使いの左手が、力を失ってだらりと開いた。
それに呼応して左面に展開された針がばらけて落下する。
落下する針の中を潜り抜け、右面から襲い来る数千本の針からエリカは退避する。
針使いは残された右手を振り、針たちにエリカへの集中攻撃を命じる。
雀蜂の群れの如く、ひと固まりになって飛来する針。
エリカは床面を滑るようにして残虐な群れの下を通過し、擦違い様に針使いの両脚の腱を斬る。
体勢を崩した針使いの巨体が、ぐらりと傾く。
倒れながらも針使いはエリカの姿を探し、右腕を伸ばしたが無駄だった。
針使いの視界がエリカの影を捉えることはなく、右腕はエリカのナイフによって無力化された。
その直後、針使いは首筋に刃物の気配を感じたが、それが首を切り裂くことはなかった。
密閉された部屋に、針使いが床に倒れる音がずしりと響いた。
その四肢は腱を斬られ、もはや這って動くことも、針一つ喚び出すこともできない。
エリカは、冷たい目で横たわる大男を見下ろし、メモを突き付けた。
『最後に質問。なぜ、サンプル花子を憎む?』
どんな理由があろうと許す気はないし、理解することもできないだろう。
だが、大切な花子先生がどうして死ななければならなかったのか、知っておきたかった。
「お……俺は……サンプル……花子に……両親を……殺……され──」
男は息も絶え絶えに、ゆっくりと己の悲しい身の上を語りだした。
その言葉を遮るように、エリカのナイフが喉に突き立てられた。
高速領域に過ごすエリカから見た周囲の時間の流れは、極めて緩慢である。
そこまで聞けば理由の把握には十分であり、それ以上、身勝手な言葉に耐えることはできなかった。
なにしろ、エリカは、主観時間にして五十年以上もこの時を待っていたのだ。
人を憎んで花子憎まず。
両親が殺された恨みをサンプル花子に向けるのは、まったくの筋違いである。
その恨みを、サンプル花子を悪しき目的に使う者に向けてくれたのならば。
或いはこの男も、自分と共に戦う仲間になっていたのかもしれない。
エリカは懐から、温かみのある狐色に焼き上げられた携帯食品を取り出して齧った。
復讐を成し遂げた今でも、その味は全く変わらなかった。
携帯食品の味は、うっとりと甘く、心安らぐ大量生産品の味だった。
≡≡≡≡≡≡≡≡≡
近所の人間からは“サンプル花子屋敷”と呼ばれる、普通の民家にしてはちょっと広めの一軒家。
ここが黒葉エリカの住居である。
ある意味、近隣の名物といってもいい建物だが、この屋敷を訪れる人間はほとんどいない。
屋敷の主であるエリカが人嫌いであるというだけでなく、常人では高速領域の存在である彼女との会話がほとんど成立しないからだ。
「おかえりなさいませ、エリカさま」
「ただいまー」
家の前を箒で掃いていた、メイド服のサンプル花子がエリカを出迎える。
エリカは出迎えに来た花子の胸元に飛び込み、ぎゅっと抱きしめた。
サンプル花子にだけ見せる、エリカの親愛表現だ。
なお、この屋敷にいる花子たちの多くは、訓練によりエリカの高速発話を聞き取ることが可能である。
「私が出かけてる間、何かあったかな?」
「特に問題はありませんでしたよ。それと保護団体の方からお手紙が届いておりましたので、書斎の机の上に置いておきました」
「ありがとう。君はとてもえらいので頭を撫でてあげよう」
エリカはメイドの頭を撫でると、門をくぐり抜け、庭を通り過ぎながら屋敷の中へと向かう。
携帯食を食べながら、屋敷の中を歩いていると、リビングに花子たちが集まっていた。
見れば、花子たちはテレビの画面を見ている。
「なんだい?この騒ぎは」
「あっ、エリカ姉さま。グロリアス・オリュンピアの本戦選手が決まったそうですよ」
エリカがテレビの画面に目を向けると、確かにそこには、グロリアス・オリュンピアの選手紹介が映し出されている。
ちなみに姉さまと呼んでいるが、当然のことながらエリカは花子と血がつながっているわけではない。
そういう個体として、依頼主から発注され、飽きた主人から捨てられたのだ。
それはサンプル花子の命が軽んじられるこの世界において、決して珍しいことではない。
ここにいるのは似たような経緯を経て、エリカに保護されたサンプル花子ばかりである。
「そうか。そういえばそんなものもあったね」
画面を見ながら、大きな欠伸をするエリカ。
「きょうみないの?おねーちゃん。たのしそうなおまつりだよ」
小さな少女の姿をしたサンプル花子がエリカに尋ねた。
「そうですよ。せっかく天空の王女が来日しているんですから」
少女の言葉に同調するようにそばにいた花子も言った。
「いや、私にとって命がけの能力バトルなんてものは日常茶飯事だからね。改めて見なければいけないものでもないだろう。君たちがそれを楽しむのは別に良いことだと思うけどね」
エリカは大きく伸びをしながら、テレビの前の空いていたソファーに腰掛ける。
「それに実のところ、保護団体のメンバーからも参加しないかと言われたんだ。どんな願いでもかなえてもらえるという話だからね。けど、私は君たちも知っての通り、人間がそれほど好きではないし、サンプル花子の事がなければ積極的に人間に関わりたいとも思っていないんだ。その私が願いをかなえてもらうなんておかしな話だろう」
エリカは人間が好きではない。
そして、彼女の大切な存在を人間ではないからという理由で踏みにじった人間の世界に何も期待していなかった。
だからといって、人間を滅ぼしたいとも思わない。
サンプル花子を傷つける人間は許せないが、彼女に協力してくれる人間がいるように全ての人間が悪という訳はないのだから。
エリカの望みはただ、このまま愛するサンプル花子たちと楽しく暮らしていたい。それだけなのだけだ。
だから、人間の世界のイベントだと認識するグロリアス・オリュンピアにも参加する気はなかったし、願いの結果、世界がどうなろうと知ったことではなかった。
―――その時までは。
「まあ、せっかくだから私もここで一緒に見るよ」
携帯食を食べながら、花子たちとテレビを見ることにした。
テレビ画面ではまだグロリアス・オリュンピアの選手紹介が続いていた。
その時紹介されていたのは舞雷不如帰という選手。
政財界に通じる名門の出身だという少女のこれまでの生い立ちが流されていた。
そこまでは特に問題はなかった。
問題は彼女が優勝したときにか叶えてほしいという願いだった。
それはこの世全てのサンプル花子を消滅させるというもの。
それを聞いたとき、エリカは強いショックを受けた。
花子のために生きてきたエリカにとっては受け入れられないものである。
まさか選手の中にそのような願いを持つ者がいるとは。
たとえその背景にどんな事情であろうとも、認められるものではなかった。
花子先生に続いて、どうして世界は大切なものをまた奪おうとするのか。憤りを感じた。
気が付くと、持っていた携帯食品を握りつぶしていた。
「エリカ姉さま」
「おねーちゃん」
エリカと一緒にテレビを見ていたサンプル花子たちが不安げにエリカの方を見ている。
彼女たちは元々遺棄されたり、虐待を受けていたのだ。自分たちを傷つけるものには敏感なのだろう。
「君たちは何も心配しなくていい。そうだ、お菓子をあげよう。みんなで食べるといい」
不安な彼女たちにエリカまで不安な顔を見せてはいけない。
そう判断し、彼女たちの不安を和らげようと、笑顔で携帯食として持っていたお菓子を差し出した。
その後、エリカは書斎へ戻り、情報を得るため、パソコンを立ち上げた。
グロリアス・オリュンピアの実態について調べてみれば、サンプル花子の扱いもひどいものだ。
試合外の暴力が禁止されているにもかかわらず、サンプル花子だけはその例外とされている。ここでも彼女たちの命の扱いは軽い。
サンプル花子を消滅させる願いがイプシロン王国に本当に実現可能かはわからないが、この扱いを考えれば、可能であれば実行されてしまうことは想像に難くない。
ならば、花子に害を及ぶ願いを持つ可能性がある参戦者にには優勝させるわけにはいかない。
行かなくては。イプシロン王国へ。
エリカはポケットから紙片を取り出す。
古びた新聞の切り抜き。そこに映し出されているのは楽しそうに遊ぶ子供たちとサンプル花子の写真。
かつての学級支援用サンプル花子の試験導入の記事だった。
「……花子先生」
それはもう失われてしまった思い出。
黒葉エリカはあの日からずっと追い続けている。
サンプル花子のことを。
その先に見える大好きだった幻想のことを。
だから、エリカはサンプル花子を幸せになってほしいと願っている。
だから、エリカはサンプル花子を守りたいと願っている。
だから、エリカはサンプル花子の世界を作りたいと願っている
だから、エリカはサンプル花子を愛している。
加速していったエリカの時間の中、今もまだ心だけは独りあの日に取り残されている。