鏡の前、男が一人蹲る。
部屋の中には明かりの一つもなく、カーテンから漏れる電灯の光が僅かに部屋の形を浮かび上がらせた。
鏡の前、男は蹲ったまま動かない。
男の視線の先、鏡に映るのはエプシロン王国第一王女、フェムによく似た少女。
簡素な白のワンピースを身に纏い、麦わら帽子をかぶって、その両手には夏色の花束。髪の毛は太陽の光が零れたような金髪で、笑顔に細められた瞳は紅玉のようにきらめいていた。
「もうすぐ、もうすぐだ」
鏡の前、男は鏡の中の幻に呟きかける。
「エプシロン王国は、俺がこの空から引きずり堕ろす」
鏡の前、男は鏡へと拳を打ち付ける。
砕けた鏡にはもう少女の姿は無く、砕けて消えた幻を掴もうとするように手を平は宙を掻く。
ハクメンという男は、暗い部屋に一人蹲る。
「なぁ、だから、待っていてくれよ。フィリア、もうすぐ、お前を ……」
呟く言葉に、返事はない。
ヘラクレス・トーナメント決勝戦。
日本で行われるグロリアス・オリュンピアに先駆けてエプシロン王国で開かれたこのトーナメントは、王国内に存在する戦闘向きの魔人をかき集めて開催されたものだ。
エプシロン王国に存在する魔人の数は日本に比べれば遥かに少ない。しかし数の少なさは質の低さに直結しない。<西ローランドゴリラ>の変身能力を有するロレンズと、数多くのサンプル花子の能力を統合して扱える魔人であるちゃんぷる花子の決勝戦は既に激戦の様相を呈している。
戦場はビル群、ニッポンのシブヤを思わせる街並みはこれから訪れる地を意識したものだろう。
身の丈実に8m、質量と速度によるゴリラの暴力を<サンプルシューター・アレンジ>によるからめ手が掻い潜り、ダメージを蓄積させていく。コンクリートジャングルを自在に駆け回り射撃で翻弄するちゃんぷる花子と力任せにフィールドすら砕くロレンズの勝負は危ういところで均衡を保っていた。
振り下ろされる剛毛の拳を避けて、ちゃんぷる花子は執拗に眼や関節などの急所を狙い続ける。やがてしびれを切らしたのであろう、ロレンズは大ぶりに拳を振り上げた。
その瞬間、<サンプルシューター・トラップ>による時間差射撃がロレンズの膝を執拗に撃つ。撃つ。撃つ!
一撃ならば微動だにしない威力であっただろう。しかし、幾度となく繰り返される衝撃にその重鈍な巨体はついに体勢を崩し、地面に膝をつく。その重さ故に砕けたコンクリートの床に観客たちは歓声を上げる。最早決着はついたのだ、と。
立ち上がるには遅く、既にちゃんぷる花子は既に必殺の構えを取った。サンプルキャノン、実に22発分にも及ぶその『ちゃんぷるキャノン』はチャージを開始。これまでの対戦相手を屠ってきたちゃんぷる花子最大の一撃を前に、もはやロレンズも為す術はないかに思えた。
それは諦めによるものだろうか。まるで勝者を称える様に、ロレンズはドラミングを始めた。あらゆる獣でも最大級の膂力を持つ拳を、剛毛に覆われた胸筋へとたたきつけ続ける。
コンクリートジャングルを揺らす程に高らかなその音は決勝戦の決着には相応しく……。
事実、ドラミングが終わるころには勝者は決していた。
倒れていたのはちゃんぷる花子。勝者はロレンズという多くの観客を沸かせる驚愕の決着であった。
「はぁ……っ ん !」
エプシロン王国の第一王女私室。フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンその人が視線を向けるのは、エプシロン王国で先日行われた魔人トーナメントの大会決勝戦。
熱っぽい吐息は、その決着の瞬間に零れたものだ。
最後まで優勢に勝負を進めていたちゃんぷる花子は、決着の瞬間、必殺技を放つためのチャージの隙を突かれ、吹き飛ばされた。ロレンズは決勝に到るまでひた隠しにしていた切り札、『ドラミングカノン』による音の衝撃波がちゃんぷる花子を打ち破ったのだ。
魔人能力の応酬、起こりえない現象の衝突。これだからこそ魔人の戦いは面白い。
戦闘の余韻に、ほう、と熱い溜息が零れる。
(もしも、ロレンズさまがグロリアス・オリュンピアに出場したら、どうなるかしら?)
予選を通過した選手たちのリストを思い出して夢想する。
「則元総理となら、きっと力と力のぶつかり合いですわね。ふふ、どんな戦場なら耐えうるでしょう」
「澪木祭蔵さまの能力とだと……うーん、一体どんな姿になるのかしら?」
「チョコケロッグ太郎さまなら、怪獣大決戦になるのかもしれませんわね……」
「ああっ、もう! どれも魅力的な組み合わせに見えてきてしまいますわっ」
フェム王女が熱心に資料を読み漁っているのには理由がある。
日本政府からの細やかなプレゼント……フェム王女がこの大会を近しく感じていただくための方策として、彼らはたった一つだけシード枠を設けた。日本国内で競い、選ばれた22人とは別枠にエプシロン王国として大会に参加する推薦枠だ。
協議、調整の結果、その推薦枠はエプシロン王国側での厳正な審査と予選の上決定するものとしている。だが実質的にはフェム王女による応援枠だ。彼女にとっても、『ひいき』にする選手の一人くらいいてもいいだろうという計らいだ。
ヘラクレス・トーナメントもその推薦枠を決めるために開催されたものだ。フェム王女にとっても弱い魔人を選出しては楽しみが減るだけなので、優勝者のロレンズを推薦する心積もりだった。
しかしその考えは、一人の来訪者により少しばかり変化した。
「お嬢様、お客人がいらしております。お通しいたしますか?」
夢想に浸る最中に、しかし遮る様にノックと聞き慣れた声が響く。侍女ピャーチのものだ。
来客は予定にはなかったはずで、不慮の来客ならば執事や侍女たちが応対して会うべきか判断してくれるのが常だ。それなのに、この時ピャーチは王女に判断をゆだねた。
(珍しいこともあるものね?)
人差し指を顎先に当てて思案するけれど、心当たりはない。用件だけでもピャーチに聞いておこうかしら、と一瞬迷ったけれど好奇心が勝った。
寝台のほうは天蓋のカーテンで閉ざして、客人を招く際に使う椅子へと座る。身なりはそう大きく崩れてはいない。髪が整えられてはいないが、不慮の来訪故それくらいは許されるだろう。
「ええ、直ぐにお通しして頂戴。」
「かしこまりました」
やがて、ノックの音と共に来訪者が現れる。
現れたのは黒髪のオールバックに糸のように細い釣り目、スーツに身を包んだ弁護士然とした男だ。蝶ネクタイと白手袋に紳士感が溢れている。男は手を胸元に当て、王女へと深い礼をした。その衣服と所作に似つかわしくない、歪な笑みを口元に浮かべて。
その礼に対し、王女はにこやかに応じた。
「初めまして。私はエプシロン王国第一王女、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンと申しますわ。御用件をうかがってもよろしくて?」
王女は此処に彼が来ることなどを知らなかった。だから用件から話し出すのは当然のことだ。だというのに、問いかけた王女の言葉にピャーチは微かに眉をひそめ、狼狽えた様に見えた。まるで王女が要件を聞くことが意外かのようだ。
王女がその表情の些細な変化に気づくよりも早く、男は顔を上げて名乗る。
「ご機嫌麗しゅう、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン殿下。私は此の度、殿下にグロリアス・オリュンピアに関する提案をお持ちしご拝聴いただくために参りました、ハクメンという名の詐欺師に御座います」
「詐欺師さんからの提案? まぁ、そんなの初めてです。楽しそうね、ぜひ伺いますわ」
にぃ、と糸目が弓形に歪み、ハクメンと名乗る男は笑みを深める。
「遥か高き天空から、懸命に戦う魔人を見下ろすのはさぞかし心地良いことでしょう」
王女を嘲るようなその言葉に、ピャーチの表情は一気に険しくなる。しかし男はどこ吹く風だ。まるで舞台に立つのは己一人とばかりに大仰に天井を仰ぎ見て、クツクツと笑う。
「命尊き戦場、遥か技巧の極地、世界を塗り替える魂の削り合い。そうとも、アンタが好きなのはそう言った『娯楽』だ」
「……王女様の客人とはいえ、それ以上の無礼を働くようでしたら即刻部屋から立ち退いて頂きます」
凛と響くピャーチの声。しかしハクメンは可笑しくてしょうがない、とばかりに笑みを深めた。
その表情の意図が読めず、ただハクメンを睨むピャーチに対して言葉を投げかけたのはフェム王女その人であった。
彼女は小首をかしげ、その疑問を投げかける。
「あら? 私はその方を招いた記憶はないのですけれど。なにかカン違いなさっているのではなくて?」
「それは、そんなはずは。いえ、しかし確かに名簿には姫様の……」
男が部屋へとやってくるという予定は、つい先ほどピャーチがドアをノックするまでは全く知りえぬことだった。そうでもなければ髪も整え、化粧も万端にして、直前まで白熱した戦闘に夢中になっているだなんてことは無い。戦闘を見ることは大切な趣味だけれど、彼女は王女としての自覚を忘れたわけではない。
視線を交わし合い、互いに困惑する王女と侍女。僅かな沈黙。
「くっ、」
堪えきれない、とばかりに吹き出した男は乾いた笑い声をあげる。
「クカカ! どうしたというのかなご両人。呆けた顔をして」
ハクメンは口の端を左手で持ち上げて見せた。そしてその右手は人差し指と小指を立て、キツネのようにな影絵が絨毯に顔を出す。
「ははぁ、さては。……キツネに化かされたか?」
馬鹿にされた、と羞恥に顔を赤くしたピャーチがハクメンを射殺さんばかりに睨む。
来訪予定があったはずの名簿と、それを書いた覚えのない王女。改変された現実を前に、その減少の理由を察するのは十分だった。
「まさか、魔じ……」
「あなた、魔人なのですか?」
侍女の怒気を込めた言葉は、けれど王女の弾む声によって遮られる。その目は穏やかに細められ、期待に満ちた笑みが浮かんでいた。
「ああそうさ! アンタが開催しようというグロリアス・オリュンピア、そいつをより愉快にするためにやっ来た、しがないエンターテイナーだよ」
「王女様、この男は即刻つまみ出すべきです。不当に王城へ侵入するなど、何をするつもりかわかったものでは……」
「素敵ね、ぜひ詳しい話を聞きたいわ。私、魔人も詐欺師もエンターテイナーもしてくれる方に会うなんて初めてですわ」
「王女様!!」
飄々と嘯く男に楽し気な王女を前に、一体どちらに警戒すべきかもはや分からぬ侍女。
詐欺師を名乗る男の話を聞こうとする王女については教育の見直しが必要だろうか。前王女……ファナ=深月=ヴェッシュ=エプシロン女王のかつての一件から大幅に変更された教育方針も、次の代には改定が必要そうだ。
「さて、王女サマ。 アンタの大会をより愉快にするために必要なものが一つある。聞いてくれるかい?」
「まぁ、なんでしょう。 すぐにでも用意できるものですの?」
「ああ勿論。というよりも、すでに用意されていると言ってもいい」
「伺いますわ」
夢見る少女と言うには、少々あくどい悪戯っ子のような笑みを浮かべるフェム王女。
人差し指立てて、ハクメンが指さしたのは、
「アンタの首だ」
一瞬き、王女の体が宙を舞い、首を掴まれたまま地面へと押し倒され、
「 動 く なッ !!」
状況は一変した。ハクメンと名乗る男の後頭部へとピャーチの銃が向けられる。
数秒前には一見穏やかな会話だったというのに、部屋を満たす空気は既に戦場の其れだ。ハクメンは王女の首へと手をかけ、ピャーチがその背中を狙う。
緊迫した空気が漂う室内。ハクメンは小さく笑みを浮かべているが、ピャーチは護衛用の銃に手が震えていた。
そして当の王女は、男に組み敷かれて微かに目を白黒させたあと、平然と彼に微笑みかけた。
「どうぞ、お行儀の悪い姿勢ではありますが、話の続きを」
「……ハッ、剛毅な王女様だ。命を狙われている自覚がないのか?」
「あなたはそうする気はないのでしょう?」
当然のように告げる言葉は、事実明確な根拠があった。この部屋は、部屋の主への害意がある者には侵入できない施工が施されている。それを知る人物は王城の関係者ごく一部を於いてほかにはいない。外に漏れているということもないはずだ。
エプシロン王国に伝わる技術の一つ……それも王族の部屋にだけ施された隠された代物だ。
それを聞いても、ハクメンは飄々と笑う。
「それでも、普通は多少動揺するものさ」
「あら、これでも私王女ですのよ? 命を狙われるのには慣れておりますわ」
ふふん、と地面に寝そべったまま胸を張る。呆れたような吐息が王女の頬に掛かった。双眸隠れた糸目は真意が読めないけれど、対応に困っているのだろうと王女はアタリをつけた。
「ピャーチ、銃を下ろしてくれる? そうされていたらきっと彼も話しにくいわ」
「しかし……」
「お願いよ」
「……承知、いたしました」
まるでいつもと同じ口調で話す王女に、しぶしぶに銃を下ろす。
ピャーチは戦闘訓練を受けているが、経験はない。震える手で撃った弾丸が王女へ当たらない保証はなく、内心で小さく安堵した。しかし王女への不埒な行いをした男への警戒を解くことは無い。
「それと」
王女は目の前の男のオールバックで広いデコへと、右手でデコピン。
「必要がないようでしたら、退いて下さらないかしら。 婦人に跨るのは失礼ですのよ?」
まるで弟を叱るような警戒心の無い言葉を前にハクメンは笑う。確かに彼の姿勢は紳士に有るまじきものであった。
しかしハクメンはフェム王女の首から手は離さない。必要があるからこそ、彼は王女の首に手をかけている。
「なぁに、直ぐに済むさ。俺はちょいとばかしアンタの掛け金を上げに来たんだ」
首に添えた手に力を籠める。その命の危険を自覚させるために。
「アンタも舞台に上がれよ、フェム王女。いつまでも観客なんぞ退屈だろう?」
「掛け金はエプシロン王国の民、全員の命だ」
「俺が優勝すれば、浮遊大陸エプシロンは地に堕ちる」
甘い声音で囁くのは、まるで成立する道理の無い、狐に化かされでもしなければ頷きようもない提案だ。
・・・
「 だから 、俺をアンタの推薦枠で大会に出場させな、王女フェム 」
まるで利益など無いその提案に、王女は…………。
時刻は25時32分。人通りのない夜の路地を男が駆けて行く。
褐色の肌に黒いドレッドヘア、筋骨隆々な体は実に2mもの巨体を誇る。フードパーカーと紺色のジャージに身を包んだ彼こそ現在のエプシロン王国で最強と目される魔人、<西ローランドゴリラ>のロレンズだ。
エプシロン王国の市街地は中世の街並みに似ているが、夜だというのに微かに明るい。床や壁自体が夜になると微かに光り出しているのだ。街中には夜の暗闇が存在しなくなって久しい。
ロレンズがなぜ夜に走っているのかと言えば、その容貌によるものが大きい。ただ立っているだけで他者を威圧しがちなロレンズは走り込みをするだけで怯えられてしまう。夜は夜で、その時間故に不審者として通報されたことは数知れないが、一定のコースで毎日走っている分にはそうカン違いをされることもなかった。
だからその日、走る先にスーツを着たオールバックの男が一人いたが、彼はいつも通りに走る速度を落とし目礼してすれ違うだけだった。いつも通りに。きっと数秒もすればすれ違ったことも忘れる程度の出来事……
「アンタ、今日ここに隕石が落ちてくると言ったら、それを信じるかい?」
すれ違いざま聞こえた言葉に歩調を緩め、ロレンズは振り返る。声の主と目が合った。
時刻は深夜25:43。ロレンズとスーツの男を於いてほかには誰もいない。己に宛てた言葉ではあるのだろう。真意は読めないが、さては宗教か、営業だろうか。ロレンズは横に首を振った。
「いいや、信じない。用はそれだけだろうか? 悪いがトレーニングの途中でね」
直ぐに走り出そうとした彼に、背後から声がかかる。
「まぁ待てよ、ロレンズ」
名を呼ばれたロレンズは今度こそ脚を止め、背後へと向き直る。弓なりの月のような瞳も、小さく歪んだ笑みも、あるいはその一言をとっても友好的とは言い難い。何よりも、きっちりと着込んだスーツがこれほど場違いに見えることは少ないだろうと思わせるほどに、刃の様な敵意を感じる。
ほの暗く光る路地では彼の姿総てが明瞭に見えるとは言えないけれど、それでも知り合いではないことは確信できる。
「弱ったな、君は私のファンか。あいにくとサインの類は受け付けていないのだが」
自然体に、けれど油断はせずに相対する。名が売れた以上こういった『手合い』が来るのは分かっていた。軽く握った拳を前に構え、ゆっくりと重心を落とす。
正面のスーツの男も右手でナイフを抜く。張り詰めた空気はいつ攻撃されようと反撃すると語っているようだ。間違いなく手練れだが、しかし魔人能力は読めない。
「参考までに聞いておこう。目的は?」
「依頼があったのさ、アンタをグロリアス・オリュンピアに出場させるなって。 いや、私怨だったかな。アンタは人を殺した心当たりはあるかい? もし無いなら、そうだな……月が綺麗だから殺しにきたって理由でもいい」
「そうか、残念だ」
口でやり合う趣味はない、とばかりにロレンズは突進する。
彼我の距離は20m。彼にとっては三歩で届く間合いだ。
「おいおい、少しは会話を楽しもうぜ……っとッ!」
左手からノーモーションでの投げ針。既に相対距離は10m、そして暗闇に溶ける程に細い針は目視ではとらえきれない。回避の難しいその攻撃を
「 ガァッ ! ! ! 」
人の声とは思えぬほどの轟音にビリビリと大気が揺れる。周囲の住宅のガラス窓も悉く割れているだろう。極限まで肉体を鍛えた魔人は能力も無しに針を弾き飛ばす。
「搦め手……毒か。随分と陰湿な手を使う。しかし力の前には無意味だ。筋力と野生はすべてを解決する」
立ち止まり、敵を見据える。筋力に勝利し得る敵ではない、とロレンズは不敵に笑った。
傲慢とも言える、けれど魔人能力の格たる信念を告げたロレンズに対し、スーツの男はクツクツと笑いだす。
滑稽だと笑うようなその様に、ロレンズは不快気に眉を顰めた。
「何が可笑しいのだね」
「いや、いやね。ほら、アンタが随分と自信満々な様子だったけどさ」
スーツの男は切っ先をロレンズの足元に向ける。
「アンタ、もう攻撃を受けているんだぜ?」
確信したような言葉にロレンズが自らの足元へと一瞬視線を落とせば、ぱさりと音を立ててジャージの脛下が切り落とされていた。
「……っ?!」
即座に背後に跳躍。認識できない攻撃を受けるということは魔人戦闘では即刻敗北に繋がりかねない。だがスーツの男は距離を取ることを許さず、即座に追いすがりナイフを振るう。
上段からの振り下ろしを右手の甲でいなし、ロレンズは跳躍の勢いに任せて体をひねり、男の顎を狙って右足で蹴り上げる。のけ反って避けた男の顎をシューズのつま先が掠め、ロレンズは両手を地面につく。蹴りの勢いをそのままに、逆立ちの姿勢のまま左足の回し蹴りを男の胴体へと叩き込む。
恐らくは肋骨。確かな質量と手応え、いや足応えを感じて足を振り切り、男を蹴り飛ばす。苦し紛れに振るわれたナイフは空中を裂くだけで命中には届かない。
吹き飛んだ男は、地面を一度跳ねた直後に体勢を立て直し、低い姿勢で着地する。あばらの一本は折れているだろう。吹き飛ばされたときに口の中も切れたのか、血の混じる唾を地面へと吐き捨てている。
だというのにしかし、彼は不敵な笑みを浮かべる。
「痛み分け、か。良い一撃だけど、本当は足の一本でも落としたかったんだぜ?」
何を、と言おうとして、直ぐにその言葉の意味するところを理解した。
「君は、斬撃の遠隔操作、あるいは延長能力の持ち主か」
「ご明察。ってまあ、二度喰らえば分かるか」
ロレンズの右足には裂傷が走り、決して少なくない血が流れている。初撃の不可解な斬撃、今の一撃共にその能力によるものだろうと彼は確信する。厄介な相手だ。徒手空拳では不利だろう。
余裕綽々と言った様子のスーツの男に、ロレンズは腰を落とし、両拳を地面について構えを取る。
「君の名を聞こう。君は魔人として戦うに足る男だ」
「俺の名はハクメン。<延長線>の魔人能力者さ」
ハクメンが横薙ぎに刃を振るうと同時にロレンズは能力を発動する。<西ローランドゴリラ>により身の丈8mもの巨躯へと変貌したロレンズにとって、彼我の距離は既に一足一刀の間合いであり、ナイフによる斬撃など何度喰らおうと無傷で済む。
人間の力による斬撃などゴリラの暴力の前には無意味。
ゴリラと化したロレンズの拳がハクメンを襲い、一撃回避するたびに石畳が容赦なく砕かれていく。
重量、速度、射程、すべてロレンズのほうが格上であり、ハクメンに勝機はないかに思えた。だというのにハクメンの表情から余裕の笑みは消えない。飄々と回避しては足元を切り付け、また逃げ走る。
「人間形態のほうがまだ動きが多彩だったな。ゴリラになった方が弱いんじゃないか?」
『ウホホ』
確かにゴリラとなったロレンズは知性が落ちる。故に戦術戦略の質は落ちるが、彼は圧倒的暴力に絶対の自信を持っていた。人間形態に戻るなどと言う選択肢はない。魔人能力も警戒するほどではなく、ハクメンの刃はゴリラの肌を切り裂くことは出来なかったのだから、どうあっても負けはない。
逃げ走るハクメンを追い、執拗に攻撃を続ける。ゴリラと人間では体力が違う。いずれ彼の体力が尽きた時がロレンズの勝利の時だ。
だがハクメンの余裕の笑みは途切れない。既に息は切れ、砕けた床の破片に少しずつ体力を削られ、敗北は近づいているというのに。………まるで時間を稼いでいるかのように、牽制のような斬撃しか放ってこない。その攻防は十分にも及んだ。
決着への焦り、何もしてこないことへの不安。あるいは疲れか、それとも偶然に牽制の刃が良い処にヒットしたのか。
ロレンズは突然に体勢を崩し、路地の壁へと崩れ落ちる。
数十トンにも及ぶ巨体が路地を挟む壁を砕いた。だが、それだけだ。立ち上がってまた彼を追えば済む。
だが、たった一度転んだ、それだけのことにハクメンは高笑う。
「……ははは、ようやくか! 随分と時間が掛かったものだな」
ぼろぼろのジャケット、よれたネクタイ、汗で崩れたオールバックのハクメン。彼は我慢できないと言わんばかりに笑う。その笑みに、表情に、ロレンズの脳内に警鐘が走る。笑うだけの理由が彼にはあるのだ。
「鯨も一滴で眠るという麻痺毒だというのに、まさかここまで『保つ』だなんて、ゴリラというのは化け物らしい! だがどうやら、ついに体に回ってきたようだな」
毒、だと言う。
そうとも、彼の獲物を思い出せば自然なことだ。最初に針を投げてきたのは何故だ? 牽制、でないならば毒だ。暗器として投針ほど有名なものは少ない。それと同じようにナイフに毒が塗ってあったら? 魔人能力を発動する前に、すでにロレンズは毒を喰らっていたのだ。
先ほどまで何の違和感もなかった両足に痺れが走り、つま先から順番に動かなくなる。
『ウホ……!』
「なんだ、アンタは魔人が能力を活かすのに道具を使うなんて卑怯とでも言うのかい? ソイツは残念。俺は勝てれば良いのさ」
勝利を確信して歩み寄るハクメンへと、ロレンズは最後の力を振り絞り両腕を広げる。何をしようと言うのか、大会で見せてしまった切り札は、すでに彼も知っていた。
「ドラミングカノン、か。成る程いい手段だな、麻痺して威力が減るとはいえ、いまアンタが出来る唯一の攻撃手段だ。……が、大会でお披露目してしまったその奥の手、対策をしていないとでも?」
ロレンズは無言。だがそこに疑問があるのは事実だった。対策をしていないのならば、彼は余りにも無防備すぎる。ならばなぜ余裕が在るのか、対策が存在するのは間違いない。
全く効かないのでなく、距離が近いならば有効だというなら麻痺が切れるまでドラミングし続けるだけだ。だがその儚い希望を打ち砕くように、ハクメンは髪をかき上げ、その耳を露わにする。
耳栓が詰まっていた。
「そう、音による攻撃は、耳栓さえしていれば防げるのさ」
自信満々に、ハクメンは言い切った。
衝撃波を前にすれば無意味にも程がある、論理以前の問題だ。意味をなすはずがない。
しかし、
『ウホホ……!』
ロレンズの知性は低下していた。特に戦闘以外の分野については著しく低下していた。
音による攻撃なのだから、耳栓をすれば防げる。その理屈を信じた!!
もはやロレンズは敗北を確信していた。
だがそれは抵抗せずして敗北を受け入れることを意味しない。
『ウホ、ホホ、ウホホゥ!』
極限の力を、野生を、筋力への誇りを賭けて、ロレンズは自らの胸筋を叩く!
『 ウッホホホホ ウホホ !!!』
腕を極限まで撓らせ、最大の膂力を以て胸筋へと叩き付ける。
一打ちするごとに音の衝撃波が周囲を揺らし、石畳に罅を入れる。全方位への回避不可能な最大範囲攻撃!!
石畳が砕け、木々が悲鳴を上げ、周囲の建造物のガラスがことごとく砕けてどこかで悲鳴が上がる。
しかし、ハクメンはほんの一度、その衝撃に対してのけ反っただけだ。全く効いていないわけではない。しかし吹き飛ぶこともなく、有効打とはなりえない。その糸目を弓形の月のような笑みに歪める。
それはロレンズが敗北を認め、ドラミングをやめるには十分だった。
筋力に込めた気迫が抜けると脳内麻薬がせき止めていた麻痺毒が次第に体中に回る。腕も重く、動かし出すことが難しくなる。
一歩、二歩。もう障害はないとばかりに歩み寄るハクメン。ロレンズは、すぐ目の前にいる男を引き裂く事すらもう叶わない。
ハクメンは項垂れたゴリラの首にナイフをあてがうと、無言のままにその柔らかな部分を渾身の力で引き裂いた。
吹きだす血潮が石畳を赤く染め、その熱と共に野生が失われていくとロレンズの体は獣から人へと戻って行った。
見上げた直ぐ先にいる糸目の男は、嘲うかのようにこちらを見下していた。能力が解けた今、これ以上の抵抗は無意味だ。ロレンズは静かに天を仰ぐ。
「……私の負けだ。好きに、」
好きにしろ、と言葉にしようとして、記憶の中に引っ掛かりを感じる。戻ってきた知性が疑問を投げる。
何故、こんな簡単なことに気付かなかったのだ、と。
(最後の決着、あれは何だ?)
恐怖と驚愕を込めた視線を頭上の人物へと向ける。
衝撃波を、耳栓で防げるはずがない。ドラミングカノンは音では無く衝撃波だ。だとしたら、何故。
視線の意図に気付いたのだろう、ハクメンはクツクツと笑い声を零す。
「察したか? 察したようだな」
ならば冥途の土産に聞いていけ、と男は両手を広げて語りだす。
「俺の能力は<真実>、『嘘を真実にする』能力さ」
それは余りにも万能な改変能力だ。その言葉が事実ならば敵う能力者などどれほど存在するだろう。
「例えば『すでに攻撃した』と言えば敵に傷が刻まれ、俺はこういう能力だと言えば実際にその能力が使える。ナイフに塗っていなかった毒を塗っていたことにすることだってできるし、敵の必殺技を無効化できると言い張れば、実際に無効化できるのさ」
獣性を失い戻ってきた理性が、流れる血と共に失われていく。霞行く思考の中で疑問を呈する。
強力な能力だ。事実ならば、自分など遥かに及ぶはずがない。
「な、ぜ…、おま、え、……は」
「ああ、何故真面目に戦ったかだって? そんなもの、愉快だからに決まっているだろう。実力があり、努力してきた人間を薄っぺらな舌先三寸で絶望させる瞬間がな」
クツクツと、愉快さを隠しもせずにハクメンは笑う。
「何よりも、決着ってんなら、それはもうとっくに決まってるのさ。なぁ、」
「アンタ、今日ここに隕石が落ちてくると言ったら、それを信じるかい?」
それは、出会い頭に告げられた言葉。
驚愕と恐怖、そして『有りえない』という多数の感情を綯交ぜにロレンズは空を見上げる。
(そんなこと、出来るはずがない。ただの一介の魔人が実現できる範囲をはるかに超えている……!)
夜空には寒気がするほどに星々が煌々と瞬き、澄んだ空を彩っている。
そこには落ちてくることを思わせるほどに強い光など存在しない。
「10」
だというのに、ハクメンは既定の事実であるかのように数を数えだす。
「9」
カウントダウンだ、と気づくのに一秒を要した。
「8」
そんなことをすれば自分も死んでしまうはずだ。
「7」
ならば彼はそんなことをするはずがない。
「6」
それとも彼は、耳栓のように嘘をついて居るのだろうか、自分には隕石は効かないのだと
「5」
そんな嘘が、道理も何もない言葉すら実現するならば、そんなものは神だ。
「4」
だが、まず一体何の必要があって、隕石を落とすというのだ。
「3」
依頼内容は知らないが、自分を殺すか捕えればいい。隕石など、被害を増やすだけで無用のはず。
「2」
起こるはずがない。彼には隕石を落とす理由も
「1」
ない、はず、だ、が
「 ゼロ 」
最期のカウントにロレンズは目を瞑り、最悪の瞬間を前に祈る。故郷を、家族を想い、残してきた恋人の顔を思い出す。
しかし、いつまで待ってもその絶望は訪れなかった。
目を開け、呆然と見上げた夜空は綺麗で、星々が煌めいている。
隕石など、どこにも、
「どうしたロレンズ、呆けた顔で」
「狐にでも化かされたか?」
嘲うような笑みを含んだ声。
それが、ロレンズが死ぬ前に聞いた最期の音だった。
「……エプシロン王国第一王女として、それを認めるメリットがありませんわね」
自分を推薦枠にねじ込め、という言葉に対して、王城の私室でハクメンに組み敷かれたまま、王女はそう答えた。
「なんだ、意外だな。アンタは二つ返事で乗ってくると思ったんだが」
「あら、心外。これでも私、王女として国も民も愛していてよ?」
「だがそれは、魔人同士の戦いへの熱情へは劣る。だろう?」
「それは……」
事実、その通りだ。故に王女は沈黙を返してしまい、ピャーチが慌てて声を上げる。
「王女様、そのような男の言葉に耳を貸す必要などありません!!」
「黙ってろよ堅ブツ侍女。今俺は王女サマと話してるんだ」
「何様のつもりで……!」
我慢ならない、と再び銃を抜こうとするピャーチを手で制したのは、他ならぬフェム王女だ。
「続けて。王国を天秤にかけてまで、私があなたを推薦すると思ったのは、何故?」
「王女様……!」
いっそ王女に対して怒っているのではないかと言うほどに強い語調に、フェム王女も困ったように笑う。いつもの我が儘、無茶をお説教する時の顔だと彼女は良く知っていた。お説教前の顔だと知ってなお、無茶や我が儘をやめないからこそ、見ただけで分かるのだけれど。今日も今日とて、王女は戦場への慕情を抑えられなかった。
「そこの堅ブツ侍女、」
「ピャーチっていうのよ。可愛い名前でしょう?」
「……ピャーチも納得したようだし、話を続けよう」
「……全く納得はしておりませんが、どうぞ続けてください」
首にかけていた手の力を緩め、王女の襟首を掴むと、それを引き上げながらハクメンは立ち上がる。
「先に言っておくが俺が参加することでアンタへのメリットは一切ない」
「まあ大変。なら私はあなたの提案を断らないと」
「それが合理的だ。だが一つだけ保証してやる」
これから投げかける言葉が、王女の心積もりを変えると確信の笑みを浮かべ、告げる。
アンタが望む言葉で、甘く化かしてやるよ、と。
「俺が優勝すれば、浮遊大陸エプシロンは地に堕ちる」
「即ち、この浮遊大陸を守るためには俺以外の参加者が優勝しなければならない」
「アンタを楽しませるために選ばれた22人が、アンタの愛する王国を守るために戦うんだ」
「アンタが俺の誘いに乗るならば、アンタも戦いの舞台に上がるひとりの役者となる。傍観者ではいられない」
爛々と瞳に熱を滾らせ、物語へ誘うように手を差し伸べてくるハクメン。彼は王女にリスクを背負えと言う。
リターンなど何一つない。もしもその手を取ったならば、このトーナメントは地獄となる。
「それは、」
王女として、許せるわけがない。
王国を、民を、賭け金に乗せろ、だなどと。
しかし王女ではない自分の心がどうしようもなく揺れ動いた。
王国を賭す行為に、ではない。
この大会で起こる全ての試合が、真実に命のかかった極限の死合いへと昇華されようというその選択肢に、どうしようもない程に惹かれてしまった。
(私は、王女失格ですわね)
(民よりも、国よりも、美しく尊いものへと、恋焦がれてしまったのですから)
あきらめにも似た笑みを浮かべて、王女はハクメンに差し伸べられた手を取った。
取るはずがないと思っていた選択肢を、ほんの数分のうちに選ばずにはいられなくなった。
まるで、狐か何かに化かされているかのようだ。
「あなたを、エプシロン王国の推薦枠としてグロリアス・オリュンピアに出場させるように、私、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンが助力いたしましょう」
「お前ならそう言うと思ったよ」
まるで旧知の友であるかのように二人は固く握手を交わす。
その様を、ピャーチだけは苦々しい表情で眺めていた。
「……ですが、それはあなたが魔人トーナメントに値する強者であれば、の話です」
にっこり、満面の笑みを浮かべるフェム王女は、見る人が見れば恋に堕ちそうなほどに愛らしく、美しかった。
良い考えが思いついたとばかりに手を叩き、ハクメンへと条件を告げる。
「そうですわね……。対戦相手は当初の推薦枠予定だったロレンズ様にいたしましょう! 彼に勝てないならば素直に諦めてくださいませ。その程度の実力では優勝など儘なりませんものね」
「それは予選として、戦闘可能という認識でいいのか?」
「あなたの戦いぶりが、私にとって推薦枠に足るものであれば、そうなりますわ」
つまり勝利しようとも優勝が見込めぬならば即刻捕縛し、刑に処されるということだろう。勝てば認めて貰える訳ではないらしい。
成る程、それは狂気の発想だ。
エプシロン王国第一王女、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンは、
ハクメンが優勝しうるなら、『国を滅ぼし得る存在であれば』参加権を与えると言ったのだ。
これが狂気でなくて一体なんだ。
こみ上げてくる笑いを抑え、ハクメンは頷く。
「承知した。条件はそれだけか?」
「いいえ、あと三つほど。ですが、これは通過した場合の話ですわ」
「伺おう」
「一つは願いの内容について。これは混乱を防止するため、此方の権限で内容を伏せさせていただきます」
「成る程、それは確かに合理的だな」
「ええ、それにほら、もしあなたが決勝戦に進んだ時に……初めてそこで、この決勝に王国の存亡がかかっている、って発表できるんだと思うと、ほら、胸が熱くときめくでしょう……?」
「同意を求められても困るんだが」
「ときめくのです」
「そうか」
王女は咳ばらいを一つ。熱が入りすぎた自覚があるらしい。少々頬も紅い。
対して背後に控えるピャーチは冷静なものだ。さては先ほどの条件、勝負の内容如何にせよ捕える予定だと思っているのだろう。故に今、事を荒立てる必要はないのだと。
莫迦な話だ。目の前の少女の、この悪戯が楽しみで仕方ないと言わんばかりの瞳を見れば、彼女が本気で言っていることなど分かるだろうに。
「こほん。もう一つは、あなたの側の賭け金についてですわ」
「賭け金、ね。そう言えば話して居なかったな」
とはいえ、魔人一人に支払える対価など知れている。
命一つ。其処に精々付加価値を付ける事しか出来はしない。
「俺の能力は<真実>、『嘘を真実にする能力』だ」
唐突なカミングアウトにフェム王女は目を瞬いた。
それはそうだ。能力とは隠しおおせるならば隠したほうが有効であり、ましてハクメンは最終的にエプシロン王国に対立する。能力を事前に話すメリットが見当たらない。
「それは……けれど強すぎる能力ですわ。魔人の想像力が世界を改変するとしても、あらゆる事象を改変可能な能力など、存在するはずがありませんもの」
「冷静だな。そしてアンタの思った通りだ。俺の能力にはいくつかの制約がある」
指折り数えて四つ、ハクメンは能力に関する説明を王女に語る。
「嘘はついた相手が信じたもの、信じた程度しか発動しない」
「相手が信じていようと、第三者の変貌を要するものはその第三者が信じない限り発動しない」
「能力に発動選択は存在しない。ついた嘘を信じられれば、俺が望まずとも真実になる」
「一人しか信じないならば小さな改変しか起こせないが、信じたものが多ければ改変範囲は広がる。」
最後の親指、
「これが最も重要な事項だ。俺の能力は、俺が死ねばすべて解除される」
死人に口なし、だ。
「俺は既に多くの大会関係者に対して嘘を真実にしてきた。当然この部屋へと招かれるにあたっても、な」
「その影響全てが取り除かれるのだから、あなたの命には魔人一人分以上の価値がある、と?」
「そうだ。王国に比べれば遥かに不足だろう。だが22人の選手を相手に全賭け(オールイン)の勝負としては許される範囲だろう?」
微かな思案の間、けれどその程度のことは些細な事なのだろう。王女は鷹揚に頷いた。
「信じれば真実になるのがあなたの能力でしたわね。では今までの話、すべて『信じて差し上げます』」
「……その説明が嘘だという可能性は考慮しないのか?」
「しましたわよ? ですが、信じたほうが楽しそうだと思いましたの」
溜息が二つ、同時に零れた。部屋の中には王女のほかにただ二人、ハクメンとピャーチしかいない。互いにここにいる理由は異なるが、王女に対して着いた溜息の感情は似たようなものだった。
「最後の一つは、もしもあなたが優勝した場合についてですわ」
「なんだ、言ってしまっていいのか?」
拍子抜けしたとばかりに肩を竦めるハクメン。彼は、優勝した瞬間に大会運営が自分を葬り去ることを想定しないほどに愚かではない。なにせグロリアス・オリュンピアは、日本という国がエプシロン王国の甘い汁を啜るために用意した『おままごと』なのだから。自分の存在は日本にとっても、エプシロン王国にとっても害悪だ。
故にここで提示される条件について、ハクメンは手で遮った。
「その話は優勝した時にでもすればいい」
「あら、自信家ですのね?」
くすりと楽し気な笑みを浮かべる王女は事の重大さを理解しているのだろうか。いや、理解しているからこそ彼女は愉快そうに笑っているのだろう。それはハクメンにとって、喜ばしいことだ。
だからこそ、ハクメンは認識を擦り合わせるために一つ指を立てて告げる。
「もし優勝しても、俺の『エプシロン王国を崩壊させる』という願いはアンタらに妨害されて叶わないだろう」
その言葉に意外そうな顔をする王女と、当然とばかりに鼻を鳴らす侍女。
「あら、諦めるのですか?」
「いいや。 だから俺がこれから告げるのは大嘘さ」
認識のすり合わせは大事なことだ。特に、相手を騙そうとする詐欺師にとっては
「俺が優勝すれば、浮遊大陸エプシロンは地に堕ちる」
宣戦布告だ。この地にいるすべての民を騙して見せると。<真実>がこの嘘を実現するのだ、と。
「ふふ、ふふふふ。まあ大変」
国を亡ぼすと、そう宣言されたというのに王女の笑みは変わらない。
胸を切り裂く罪悪感を塗りつぶすような戦場への憧憬が、心を焦がしている。
「条件はそれで終わりだな? であれば早速ロレンズとの勝負の準備に取り掛かるが」
「はい、では……」
去りゆくハクメンへ、にこやかに笑いかけた王女。侍女のピャーチは渋面を向けている。
しかし、戸を開きもう部屋を辞す段階になったハクメンへ、引き留める様に王女が言葉を紡ぐ。
「………あ、いえ、最後に一つ」
「なんだ?」
面倒な事を言ってくる、そう予想でもしたのだろう、ハクメンの糸目は笑みを消していた。もはやこの場所にいる意味はなく、戦闘の準備をすることが最善であると思っているのだろう。
その反応もまた、おかしなことだ。本当に推薦されたいというなら王女へ取り入るために機嫌を取るべきだ。だというのに彼は、脅すような蠱惑的な提案の時を除いても王女への対応が雑すぎる。
こなれている、と言ってもいい。
「『お前ならそう言うと思ったよ』とのことでしたが、
以前、私はあなたにお会いしたことがあったかしら?」
こてり、小首をかしげた愛らしい仕草の少女は、けれどその内心で確信していた。
彼が自分の事を知っているのは間違いのない事実だと。
呆れたような溜息を再度ついたハクメンは、静かに首を横に振る。
「いいや、俺はアンタと会ったことは一度も無いな」
「そうですか、それは信じないで差し上げあげますわね」
くすり、小悪魔のような笑みを浮かべた王女。
あきらめにも似た表情でハクメンも笑い、その場を辞した。
背後の扉を閉め、廊下に一人となったハクメンは剥がれかけた仮面をつけ直す様に瞳を弓なりに、不気味な笑みを張り付ける。そうとも、自分は白面の狐。騙し化かしはお手の物。
「しかし、お前を相手にすると思うと、本当にやりにくい」
仮面から感情を零してしまったかのように、震えた声が虚空に消える。
呟くのは王女の名前ではなく、彼女とうり二つの、一人の少女の名前。
「なぁ、フィリア」
呟く言葉に、返事は、ない。