プロローグ(井戸浪 濠)


風が吹きすさぶも、飛んでくるのは砂ばかり。
後ろを振り向けばすぐそこにビル群が見える。
「すぐそこに」というもののそれは見た目通りの近さではない。
蜃気楼。遠くのものが近く見える、この気候独自の現象。
実際にはあの街から数時間の道のりを歩いてきたのだ。
東京砂漠のど真ん中。男はそろそろ自分の決意を後悔しはじめていた。

不意に影が差した。
見上げると一機のヘリコプターが上空を旋回しているのが認められる。
まさか、自分が遭難していると思われていて、救助にでも来たのだろうか。
男が訝しんでいると、ヘリコプターのハッチが突然開き、中から何か……いや、“誰か”が落ちてきた!

かの人物は、大いに砂埃を巻き上げ、男の目と鼻の先で華麗な着地を決めた。
スーツの上からでも分かるくらいに鍛え抜かれた体格を持つ、オールバックの中年男性。
背中の大きなリュックさえなければ、ヤクザに違いないと思っただろう。

「はじめまして、筒井新聞社の 李 報夛(リ ポータ) 記者」

落ちてきた男は妙に安心感のある渋い声でそう言った。
ここで一つ疑問がある。
なぜ初対面の相手の所属と名前を知っているのか?
その答えは、彼が手に持っているカードのようなものにあった。
報夛はそれによく見覚えがある。

(俺の名刺だと? そんなもの、渡した覚えはないぞ!)

報夛は確認のため、胸ポケットに手を入れる。
確かな感触がそこにあった。
名刺入れごと抜き取られたわけではないようだ。
にもかかわらず……念のため開いてみたその中に、見慣れない一枚が増えていた。

「ミズリー株式会社、営業部営業一課課長、井戸浪……濠……!」

その肩書きで報夛は確信した。
噂話でしか聞いたことはないが、間違いない。

(これは……飛び込み営業!)

『飛び込み営業』。
相手の懐に飛び込み、相手が動揺している隙に商品を売り付ける営業スタイルである。
そして上空からのこの飛び込み精度、並みの営業マンではない!
初めて飛び込み営業に遭遇する報夛にさえ恐れを抱かせるその実力。
社内でトップなのは間違いない。おそらく国内でも有数の営業力だろう。
しかも間の悪いことにミズリー――『おいしい水』で有名なあのミズリーである。
砂漠のど真ん中にいる人間に売り付けるにはうってつけの商材だ。

『その人が今一番必要としているものを提供する』

営業の大大大原則である。
ああ、しかし今だけは……今だけはどうしてもダメなのだ。
報夛には水を売られてはいけない理由がある!
そんな報夛の意志などまったくおかまいなしに、濠はペットボトルを突きつけ、二言目を繰り出してきた。

「この水を、5億円で買わないか」

「……」

拍子抜けだった。
確かに、『最初にありえない金額を提示する』というのは営業において常套手段である。
これによって次に提示する値段が実際よりも安く感じられるのだ。
しかし飛び込み営業と合わせるべき手段でないのは明白。
なぜならせっかく飛び込みによって動揺を誘ったのに、法外な値段の提示が思考を冷静な状態へ引き戻させるからだ。
恐ろしい営業マンの襲撃を受けたかと思ったが、なんということはなかった。
あとは「結構です」と答えるだけ。
たったそれだけのことで、また目的地へ向かえる。
報夛は今日の目的地に思いを馳せた。

高さ634mを誇る東京砂漠のシンボル、東京スカイサボテン。
その最上階に目的のレストランはあった。
砂漠の中に都会の姿が浮かぶエキゾチックな夜景。
それを眺めながら、最高級のサボテン料理を頂くのだ。
ただ、その料理にはある“曰く”がある。
それは

『レストランにたどり着くまでの間、砂漠で何ひとつ口にしなかった者だけがこの料理の“本当の味”を味わえる』

というもの。
だからこそ、ここで今! 水を売られるわけにはいかない!

決意を新たに夢想から帰ってきた報夛を待ち構えていたのは、意外な光景だった。
濠がそこら中に激しく水を撒いていた。
撒き散らした水が綺麗な虹を作っている。

「何を、やっているんだ?」

「気化熱……だ」

「は?」

答えになっていない答えに報夛は思わず聞き返す。
濠は補足した。

「水が蒸発するときに熱を奪う現象だ。
 どうだ、涼しくなったろう。
 そして君はこの恩恵を受けた。つまり……」

報夛が本当に恐怖を感じたのはこの先だった。

「5億円払え」

もちろん報夛にショックを与えたのは言葉の内容そのものではない。
こんな屁理屈に付き合う理由なんてない。
ただこの男は……とにかく小手先の営業手法を手当たり次第に使えばそれで契約が成ると思っているような弱者ではなかった。
彼がそんな小心者ならこんな脅しのような手は使うまい。
思えば最初からそうだったではないか。
なんだ5億円って!
『ありえない金額』にしても限度ってものがあるだろう!
この男は狂っている……営業狂だ!
まだ大人しいうちに一刻も早く逃げなければ、どんな手段で水を売られてしまうか分かったものではない!

報夛の判断は早かった。

「シャッター・チャーーーーーーーーンス!」

そして、静寂が訪れた。

実は李 報夛は魔人である。
『シャッター・チャンス』はこの世の時間を好きなだけ止め、自分だけがその中を動ける魔人能力。
ただしこの能力はその名が示す通り、あくまで写真を撮りやすくするための能力である。
そのため、時間停止中にできることは移動と写真撮影くらいだし、逆に写真を1枚以上撮らないと解除できない。
しかし今回はそれだけで十分だ。
この狂った男に気付かれず距離をとる。
なんならこのままスカイサボテンまで行ってしまおうか。
時が止まっているので足が砂に沈む感触を味わえないのは残念だが。
そんなことを考えながら、報夛は最後に濠の方を一瞥し……二度見した。

濠は、水を飲んでいる最中だった。

左手を腰に当て、ペットボトルを高く掲げる。
いわゆるラッパ飲みの姿勢だ。
その堂々と胸を張ったポーズは日の光を受け神々しささえ感じさせる。
喉が、今まさに『おいしい水』が通過中ですと言わんばかりに喉が強調されている。
そして何よりその笑顔。
幸せそうな笑顔。
怖いと、狂っていると、ヤクザとさえ思っていた彼が、実はごく普通の平和を愛する人間であったと思い知らせてくる笑顔。
こんなにおいしそうに水を飲む人間はいまだかつて見たことがない。
報夛は己の運の無さを嘆いた。
ああ、なぜ、時が止まるのがこのタイミングだったのか。
この瞬間、報夛の敗北は決定した。
こんな姿を見せる男をフレームに収めない奴がいるとしたら、そいつはジャーナリストではない。
報夛は濠が最もおいしく水を飲んでいるように見えるアングルを探す。
妥協は無かった。
吟味に吟味を重ね、シャッターを切っていく。
その間、嫌でも意識する。
この男をここまで魅せる『おいしい水』だ。
もちろん業界最大手のミズリー社の『おいしい水』である。
報夛も幾度となく、今月だけでも数え切れぬほど口にした経験はある。
しかし今! まさにこの今の瞬間! 彼の飲んでいるその『おいしい水』!
これを体験しなければ、報夛もまたジャーナリスト失格のレッテルを貼られるに違いないだろう!
報道部の同僚にではなく、他ならぬ自分自身によって!

「水を……ください」

時が動き始めた後、彼は静かに濠に告げた。

ところで実際に報夛が切り札を切ったのは最悪のタイミングだったには違いない。
だが実はそれだけではなかったのだ。
上空からの飛び込み、水を突きつける行為、水を撒く行為。
気付いて頂けただろうか。濠はこれまでずっと、オーバーなアクションを取り続けていたのだ。
それはひとえにカメラに対する“映え”を意識してのこと。
濠は報夛の魔人能力を知っていたわけではない。
しかし報夛の職業を知った時から、ずっと、“シャッター・チャンス”を待っていたのだ。

ペットボトル1本の『おいしい水』を飲み終えた報夛は、感動のあまり涙を流した。
砂漠に数時間。そもそも限界は近かったのだ。
それでも、生まれてからこれまでの間に飲んだどんな水よりも『おいしい』と感じた。
故郷を捨て、日本に渡ってきた日のことを思い出す。
父は、母は、弟妹たちは、元気にしているだろうか。

「さて、お代のことだが……」

濠の声が報夛の意識を現実に引き戻した。
そうであった。
水の受け渡しの間、どちらも値段のことは口にしなかった。
ということはこの水はやはり1本5億円の水なのであろう。
そんな借金を背負って、返すアテなどあるわけがない。
それがこの時期でなければ。

「少し……1か月ほど、待ってくれないか」

拒否されると思っていたのか、濠は意外そうに聞き返した。

「金を作る算段でもあるのか?」

「先日、エプシロン王国のフェム王女の来日決定が報道されただろう?」

「ああ、あれがどうした?」

「これはまだマスコミ関係者しか知らないことだが……
 能力バトル好きな王女の来日に合わせ、魔人を集めた大会が急ピッチで準備されている。
 大会の名は『グロリアス・オリュンピア』!
 優勝賞金……奇遇にも5億円だ。俺が出て勝てるような自信は全くないが……正直に言う、返すアテはそれしかない!」

「……」

濠はしばし考えた。否、考えるフリをした。
本当は彼は知っていた。
なぜならミズリー社もグロリアス・オリュンピアのスポンサーのひとつに名を連ねているからである。
5億円という数字が『奇遇』で出てくるわけがないのだ。
それを思えば、彼がこれから言う台詞はまったく白々しい。

「いい情報をありがとう。
 その大会には私が出るとしよう。
 そして君からは情報料として4億9999万円頂こうか」

「じゃ、じゃあ……!」

「お代は1万円でいい」

「あ、ありがとうございますっ!!」

報夛は大喜びで財布を開け、一万円札を濠に差し出した。
濠はそれを恭しく受け取ると、ヘリコプターから降りてきた梯子に掴まって去っていく。
その姿が小さくなって消えるまで、報夛はずっと見守っていた。

確かに、『最初にありえない金額を提示する』というのは営業において常套手段である。
これによって次に提示する値段が実際よりも安く感じられるのだ。


《井戸浪 濠・プロローグ 完》
最終更新:2018年02月18日 19:37