SSその1


 楽園は炎に包まれていた。
 波打つ緑の草原は焼かれ、琥珀に輝いていた美酒の河は燃え上がり、陽光に満たされた空は、今や白い雲ではなく黒煙に蝕まれている。

「国交省の皆の創意工夫を思えば、少々心苦しいものがあるが」

 荒野の如きひび割れた大地。
 ぱちぱちと火の粉の舞う花畑を背に、一人立つスーツ姿の偉丈夫あり。
 いや、偉丈夫どころではない。隆々としたその体躯の頭部は、獅子のそれだった。比喩ではなく、人の体にライオンの頭である。常人にはあり得ざる事態だ。
 そしてどうしたことだろうか、その体はたてがみの先から顔面、全身までもが、鈍く半透明に輝く結晶体で出来ていた。
 それは淡い発光すら感じられる、獣人の彫像だった。
 彼の名は則本英雄。超自然の肉体と化した、第102代日本国総理大臣の姿であった。

「これが日本本来の国土でなくて助かったよ。なればこそ私も、依然、全力で戦える」

 獅子の面が口を開く。前方、色とりどりの花の中に倒れ伏す、これもまた一人の男。
 澪木祭蔵。その衣服の裾は焼け焦げ、顔は土埃と火傷で汚れ、全身が大小様々な擦り傷と打撲にまみれている。

「『――ありの……ままの……すがた……みせ……るのよ……』」

 かろうじてといった調子で、か細い声が漏れた。呼吸こそ健在であるが、果たしてその意識は明瞭に保たれているのかどうか。
 則本は拳を構えたまま、まっすぐ澪木を見据え言い放つ。その振る舞いに、視線に、言葉に、些かの緩みも油断もない。

「君と私が、この一回戦でマッチングされた理由がわかった気がするよ。……すまないな、澪木くん。ここで眠ってもらうぞ」


〈一〉




 1980年代。当時の外務省四天王、“漆黒の則本”こと則本薫が長子、英雄は、幸福な少年時代の中にあった。
 両親の愛と四天王としての裕福な家柄。それは英雄を健やかに育て、またそうして身に付いた明るく健全な人間性は、周囲の優しさとなって英雄に返って来た。人が育つ流れの、正しい循環の中に英雄はいた。英雄が魔人に覚醒しても、それは変わらなかった。
 ある日、英雄は小田原で梅の農業に従事する、祖父の家に遊びに行った。
 そこで出された梅の実を漬けたシロップのジュースに、衝撃を受けた。

「ああ、そうかいそうかい、美味いか。んん、どうやって育てたのかって? そりゃあマメな世話に土づくり、根気の勝負よ。好きでやってるもんだが、中々大変でなあ。まだまだ道半ば……ん? 作り方の方は? そりゃなあ――」

 英雄は思った。こんなに懸命に梅を育てている祖父に、何かを返すことが出来る人間になりたい、と。
 将来は、そんな人間になろう。こうした地道な仕事に尽くす人々は、日本中にたくさんいるだろう。国のため、身近な人のため、誰かの“一生懸命”に報いられる人間になろう。
 なんなら外務省の父のように、自分は国の農業を推進する四天王を目指してもいいかもしれない。
 英雄は決意した。生きる指針が、一つ決まった日だった。

 高校へ入学した則本英雄が、坂城零との出会いにより総理大臣への道を歩みだす、三年程前のことであった。




「アッハッハッハ! こりゃ傑作だ!」
「ちょっと鈴木さん、笑いすぎ。こっちはマジな事態なんだから。……いや、うん、いいわ。むしろ笑ってて」

 馬鹿笑いを放つ鈴木――先日の検挙の前線指揮を執った公安警官である――を対面に、澪木祭蔵は苛立ちまぎれに言った。

「まったく……私はお国の要請で、ちょっとした警護も兼ねての出場なのよ? それが何よ一回戦からその相手が内閣総理大臣って! 五賢臣何考えてんのよ……総理も何考えてんのよ……」

 うなだれる。テーブルに広げられているのは、グロリアス・オリュンピア一回戦・関係者向け案内、その全11試合対戦者表。マジな事態であった。
 所は都内シティホテル。参加者用に運営が用意した高級ホテルではない。だが会場や招待客への宿泊施設にほど近く、緊急時の警備にも融通の利き易い地理に位置する。グロリアス・オリュンピア開会直前から、澪木は公安との打ち合わせのもと、その一室に詰めていた。

「……いや悪い悪い。あまりに出来過ぎてて、つい。だがお前さん、この試合――」
「ええ。本選出場まで叶ってお尻をまくったんじゃ、それこそ何のための仕事だか分からない。公安さん的にも、そうでしょ? 戦うわよ」
「……ま、そうなるか。総理だってその辺は歓迎の上での出場だろう、そこはきっと何の問題もない……が、今回は公安の情報面でのサポートは期待しないでくれよ。相応の危険人物ならともかく、内閣総理大臣じゃな」
「ん、そこはねえ。けど今の所、妨害の気配もないのはありがたいわ。王女様のためのお祭りだし、総理も真っ向勝負をお望みなら嬉しいわね」
「政治家先生なんて、とかく裏で何企んでるか知れたものじゃないが……そこはさすが則本総理、と言うべきかもな。課こそ違うが公安でも大助かりだよ。ここまで醜聞(ホコリ)と無縁の首相も珍しい」

 テレビに目をやる。週末夜のニュースで流れているのは、数日前のフェム王女来日歓迎、兼グロリアス・オリュンピア開催記念式典の様子だ。
 華やかな催しの中、その中心となって王女を迎えているのは、日本国第102代総理大臣・則本英雄。その人徳と政治手腕は歴代でも群を抜いており、また常に力強く、健康的な風貌で国民感情も非常に良好――間違いなく日本の歴史に残る総理大臣である。
 彼が本選に出場を果たした澪木祭蔵の、一回戦の相手。

「警備の観点上、総理の魔人能力は一部のSPと関係者を除いて厳重に秘匿されている。G・Oに出場する以上、来週には日本全てが知る所だが……この一回戦だけは他の参加者たち同様、本番で直接見極めるしかないな。まあ条件は総理も同じ……澪木?」

 澪木は画面を見つめていた。式典の様子では、優勝の際の願いに、魔人差別撤廃のサポートを王国に頼むことを公約として掲げる則本の様子が映されている。

「……あ、ううん、なんでもないわ。そうね、そこは確かに……」
「聞いてたか。ならいいが。さて……」

 対策を進める。同時に澪木は、そのニュースを脳裏で反芻していた。
 魔人差別撤廃の推進。それはとても、大義のある願いに見えた。


 永田町、首相官邸。
 日付の変わる一時間ほど前、夜更け時。則本英雄はグラスに注いだ翡翠色の液体を一息に飲み干した。

「試合の前夜に晩酌とは感心しませんな総理。今はとうに休まれてる時間では?」
「アルコールじゃないさ、ジュースだよ。……眠れなくてね。少しだけ、飲ませてくれないか」

 様子を見に来たついで、客間に招かれた秋元泰弘副総理が眉をしかめた。則本の対応も気心の知れた、慣れたものだ。

「いやぁやっと一息つきましたよ。まったく、総理が王女の提案を受け入れてから、その分公務のしわ寄せがこっちに押し付けられて、いけないいけない」
「う……それは平にすまない。大会が終わったら、今まで以上に励むから……」
「ふむ、期待せず待ってますよ」

 和やかな空気である。初戦前夜の雰囲気としては、悪くない。

「……いよいよですな、総理」
「ああ。始まるんだ、私の悲願への一歩にして、国を挙げての祭りが。盛り上げるぞ副総理」

 秋元が水を向け、則本が応える。その肉体のように力強く。
 夜が明ける。開戦の日だ。


〈ニ〉


 “そこ”はまさに楽園であった。

「へえ……この川は“クルアーン”の天国像なのね。色んな信仰の『天国』の習合というか、折衷案みたいになってるのかしら」

 眼下に流れる琥珀色の川に手を浸し、澪木は感心したように言った。
 べたつく様子は一切なく、真水のようにサラサラと手から零れる。この川に流れているものは、水ではなく香り高い酒だ。天国において酒で出来た川が流れている様子は、中東圏での信仰において、よく見られる。
 澪木の立つこの場は、フィールドのやや北西に位置する、小高い丘の上だ。川は更に北方から流れており、澪木の右手へ流れた後、中規模な滝となっている。その後は丘陵に沿って、南へ南へと下っているようだ。
 辺りを見回すと、視界の先まで広がる緑の草原、その絨毯に重なるように、赤、白、黄色の花畑。暖かな陽光に満たされた空に、抜けるような白い雲。どこからともなく聞こえる穏やかな金管(ラッパ)の音は、コルネットとトランペットの合奏だろうか。遠方には、宝石で輝く塔も見える。
 このフィールドは澪木の推測通り、世界各国の天国の集合、平均値、ごった煮……そう呼べる戦場といえた。

「……ああ」

 澪木は思わず顔をほころばせた。
 瑞々しい果実の生る木へ腰かけた天使が、優美にラッパを奏でている。少年とも少女ともつかない彼らは、小柄で愛らしい。小鳥も、人間のようにくるくる踊っている。
 ……試合場に、選手以外の入場者は存在しない。ならば彼らは、この『天国』のフィールドを演出するため作られた幻、舞台装置のようなものだろう。でたらめな運指にも拘らず、優雅な金管演奏が紡がれている点からも、それは明らかだ。
 だが澪木にとって、その辺りはさしたる問題ではない。ある意味、慣れて(・・・)いる(・・)。微笑んだ天使に軽く手を振って返し――。

 DOOM……!

 丘の中腹にある林から、爆発音が響いた。
 試合が始まってから、そこそこに時間が経っている。澪木がこの丘の上に辿り着いたのも、30分ほど前だ。

「あら、もうそこまで来たのかしら。思ったより早かったわね」

 量のかさむ装備を持ち込むのは現実的ではない。かなり簡素な罠だったが、役に立ってくれたようだ。
 握り潰したストロングゼロ缶をしまう。天国には不要なゴミだ。


「はっはァー! これが澪木くんの戦り方か! おもしろい!」

 うっかり踏んでしまった手榴弾トラップの爆風を払いつつ、則本が駆ける。ダメージはない。

「辺りを見渡した限り、戦うには高所であるあの丘が重要と踏んだが……やはり先に抑えられてしまったか!」

 試合開始時、会場――戦闘の様子を直に観客に伝える、モニタ付きの大会場だ。この様子も中継されているだろう――から則本が転移されたのは、フィールドの南東だった。対極線上の位置であり、不運だったといえよう。
 しかし悔やまない!総理大臣たるもの、常に前向き、全力シンキングだ!
 林を抜ける。そこは目指した丘の上。眩い花畑や川があるが、誰もおらず――林の出口、その樹上から、襲い掛かる影! 澪木の急襲だ!

「ぬぅん!」

 則本が頭上に迫った澪木の腕を取る。すぐさま手首を返し、逃れる澪木。至近距離での攻防が始まった。

「はじめまして総理。何年か前の衆院選、アナタに投票させてもらった者よ☆」
「それはそれは。清い一票をありがとう! 公務で少しでもそれに応えられているなら……嬉しいものだな!」

 澪木は右手のナイフを盾、牽制に用い、掌で急所を狙う。PMC時代に培ったナイフコンバットだ。対する則本も、鍛え込まれた武道で巧みに捌く。
 花畑を横切り、川辺へと向かっていく二人。一進一退の膠着状態だ。

(……そう、なるほどね。なら)

 澪木は則本を観察した。二秒間。酒の入った状態、『TDL』の前段階で。能力を直に発動させるわけではなく、ただ見た(・・・・)。この視認感覚はかつて抑え込んだ知覚を限定的に揺り起こす行為であり、非常に危険だ。
 故にそうそう使えはしないが……則本が自覚していないものが、澪木には見えた。則本が変わる、この世ならざる姿が。

「つまり……ここねッ!」

 その攻防の終止符を打ったのは、あまりにも一瞬の出来事だった。
 則本の拳を前に、澪木が素早く半身を入れ替える。左肘で則本の右拳を払いつつ、そのまま則本の右腕を左腕でロック。そして右手で則本の右手首を握り……“崩し”た瞬間、思い切り足を払った!
 完全に攻撃の力を利用された則本の体が、縦に半回転した。天地の逆転。
 受け身が取れない状態で、頭部から河原の地面へと叩きつける! 瞬間、則本の姿が変わった。結晶質の、人の体を持つ獅子の彫像。結晶。すなわち、衝撃に極めて弱い!
 則本が大地に激突した。果たして、則本の体は頭から粉々に……なりはしなかった。

「ッ!?」

 澪木の背筋に警鐘が走る。則本の体を抑える両手に覚える違和感――鍛錬したヒトの筋骨のものではない手ごたえ。文字通り鋼鉄の硬さ!
 『日ノ本ニ輝ク鋼ノ拳』。先ほどの手榴弾の爆風をも弾いた、則本の魔人能力!

「ふんッ!!」

 両手を地面につけた則本がブレイクダンスめいて回転、澪木を弾き飛ばす。すぐさま勁が練り込まれる。

「今度はこちらの番だな! 破ァッ!!」

 ――ここで一つ、記しておかなければならない。

 夢の国、幻想の地において、獅子とは特別な生物である。
 古来より数多の神話、世界中の文化伝承において、王権や神性の象徴として語り継がれてきた。夢の国においても、それは変わらない。ヒーロー、もしくは力あるライバル……すごぶる魅力的なモチーフとして、地位を確立している。
 百獣の王(ライオン・キング)の名の通り、頂点の獣の一種なのである。
 そして。
 則本は元々『浮遊国家エプシロン王国から単身、生身で飛び降り』『発勁の一振りで成人男性数人が吹き飛ぶ衝撃波を発生させる』程に身体能力の高い魔人である。
 そこへ夢の国――ある種、神話の世界の獣と言ってもいい――の獅子の筋力と俊敏性が乗算された時、何が起こるか。

 則本が震脚で踏み込む。
 大地が溶け(・・)、抉れた。

 繰り出された超音速の発勁は空気を熱し、その余波で持って前方へ爆炎と化した衝撃波を叩きこむ。
 楽園に、大蛇の如き炎が疾った。


「ちょっと! ちょっとちょっと!!」

 すんでで爆炎の範囲から逃れた澪木が走る。
 身体硬質化の魔人能力。これはまずい。獅子でありながら結晶体である。それが則本の変身の姿だ。単純に、これだけならまだいい。
 結晶質の特徴として、概ね傷には強いが衝撃には弱い、というものがある。故にこの姿の者との戦闘は、パワーに主眼を置いた強力な一撃が有効というのが澪木の中のセオリーだ。
 しかし……ここで硬質化の力である。それはシンプルに、結晶体の弱点がなくなることを意味する。加えて、『獅子』の力である。

「――そこだな!」

 残心の暇もあらばこそ、則本が澪木へ向き直り、再度の拳を繰り出した。
 再びの爆音。
 破壊の衝撃が、先ほどと合わせて十字の形に楽園を横切る。川が炎を上げた。
 すさまじいパワーと反射性、そして獣めいた直感。これらの力が、短所を完璧にカバーした上で則本に宿っているのだ。厳密な意味で生物としてのライオンではないため、ネコ科の生態に根差した攻略も望めないだろう。純粋に強化のみの恩恵を受けている。

「ああんもう! 何あれ出来過ぎよ! 限度ってモノを知らないの総理!」

 しかし、澪木は変化を解かない。
 知ってしまっているのだ。花畑の攻防で撃ち合ううちに、これ以上なく。則本の魔人としての身体能力は自分よりはるかに上。そして魔人能力の防御で付け入る隙を与えない。
 単純に、生身の則本との戦闘では自分に勝ち目はない。
 だが今の状態なら……自分の観察が確かならば、一つだけ弱点が、戦い様がある。故に敢えて変身を解かない、いや、解けないのだ。極めて危険だが、勝機はこの状態にしかない。
 転がり、走り、拳の炎を躱し続けた澪木が、則本の前に立った。
 息を吸い、吐く。やるしかない。


「この体は……ふむ、水晶の原石か? 澪木くんの魔人能力と言うわけか」

 突然に変貌してしまった自らの体に、則本自身も混乱がないでもなかった。
 しかし、「体を変化させる」という一点において、TDLと日ノ本ニ輝ク鋼ノ拳に、通ずる点はなくもない。TDL発動の瞬間、自身も能力を使っていたのがよかったのだろう、体組織の構成の変化と、膂力の上昇、それらをワンクッションおいて受け止めることが出来た。
 その澪木が、攻撃をかい潜りつつ、自分の正面に立っている。
 なぜ彼が自分をこのままにしているのかは分からない。制限か、何かの企てか? ……やってみるがいい。国民の謀り一つ、受け止められずして何が総理か。国を背負う者として、正面から打ち破ってやる。
 対する澪木は……どうしたことだろうか。何と則本を前に目を閉じていた。同時に、肩を、足を、指を、トントンと上下させている。

「何のつもりかな……? 畳み掛けさせてもらうぞ!」

 則本の爆裂発勁! 衝撃波と同時、更に自身も飛び掛かる!

「『――降り始めた雪は足跡消して――』」

 激烈なる死の波が迫る中、澪木の口から飛び出したのは……歌! これは歌である!
 同時に澪木は身を翻し、跳んだ。速い――そして、高い!

「何ッ!?」
「『風が心にささやくの。このままじゃダメなんだと――』」

 アクロバティックなダンスの如き挙動で衝撃波を躱した澪木は、更に跳びかかる則本の下を滑るようにくぐる。そして振り向く則本に狙いすましたような……一撃!

 ミュージカルである!
 澪木は暴力の化身、嵐のような苛烈極まる則本の攻撃に対し、この状況をミュージカルの一場面と定義することで、一瞬だけ現実とは別レイヤーの、心情の在り様がモノを言う領域をつくりだし潜り抜けたのだ。
 曲は、自らの在り様のまま世界と対峙することを唄う強き心の歌であり、困難に立ち向かう勇気を与えてくれる歌でもある。澪木お気に入りの曲の一つである。
 自らの歌と、強烈な自己暗示により、周囲の状況全てを歌劇の中にあるとする。正味な話、たとえ瞬間的なものだとしても、現実には不可能な妄念の業だろう。
 だが、今の相手は夢の国の住人であり、何よりここは人々の願いが生んだ『楽園』の概念たる世界。ファンタジーの極致たるこの局面なら……可能!

 則本による迎撃の左拳が迫る。だが澪木の狙いは則本への直接攻撃ではない。今まさに繰り出された攻撃の手そのものである!

「ぬうッ!」

 既に一瞬のミュージカル効果は解除されている。澪木の左手が、撃ち出された則本の左手首を掴む。一気に引き寄せ、同時に踏み込んだ。激突。全身の力と、引きこんだ則本の体の反作用を利用して強烈な体当たりだ。八極拳や太極拳において、靠撃(コウゲキ)と呼ばれる技の変形である!

「う、お――!」

 則本の体が、澪木共々宙へ跳ぶ。その着地点は二人が立っていた草原ではない。
 この丘から、平原に向かって流れる川。その流れが段差に従って落下しはじめる、滝の口だ。則本は下方を見た。そこに広がっているのは、まさに己の拳により引火し、炎上している香酒の河――!
 滝に飲まれた二人は、諸共に川を落下した。高さ自体はさほどでもない。致命傷には程遠い高低差ではある。
 滝壺に落ちた則本は、獅子の力を活かし、即座にロケットのように浮上。既に澪木はそばにいない。このまま水面に……。
 揺らめく陽炎に身を潜め、飛び出してきた影が握った岩で則本の顔面を強打! 澪木!

「うおおおおおっ!?」
「ああーっ、もう! カッコ悪いったらこんなの!」

 自嘲にまみれた表情で、澪木が吐き捨てる。
 則本は浮き上がることが出来ない! 水面に近づくたび、滝壺の淵に立った澪木の殴打が襲い、押し戻されてしまう。自慢の膂力も、踏ん張りが利かない水中ではうまく働かない。

がばばんども(かまわんとも)! べんぎょぐをづぐじでごぞのじょうぶ(全力を尽くしてこその勝負)!」

 則本が吼える。一国の総理の矜持にかけて、その言葉に嘘はない。しかし外見的にも実際的にも、完全に溺れている。正直なところ、色々な意味で危険だ。

(そうか。これは……!)

 だが状況と裏腹に、乗本の思考自体は冷えている。打開策を探っている。
 やがて……則本は浮かんで来なくなった。

「はぁ……はあっ」

 澪木の息は、ただ荒い。
 まったく、自分は何をやっているのか。来賓の王女のため、国のため……あいつの弟のため。そんな目的を掲げて来たのに、その大元たる日本の総理大臣を相手に、こんな手段を選ばぬ戦いをしている。
 本末転倒ではないか。笑ってしまう――。
 ……いや、違う。警察の代表として来た自分は、公共の警護のため、ここを勝たねばならない。そして相手は、自分一人の力で掛かろうと思えば、心底なりふり構わず戦って、ようやく勝機を引き出せるか否かの強者。それはこの短い戦闘の中でも、痛感している。
 一国の総理大臣とは、それほどまでに強い。それほどまでに背負っているものが違う。

 ずん。澪木の立つ、大地が揺れた。
 一瞬遅れ、びしり、びしりと川底に亀裂が走る。

「嘘でしょ……」

 心底怖気が走る。
 一国の総理大臣とは、それほどまでに強い。それほどまでに背負っているものが違う。
 とは言え――!
 大地が爆ぜた。


 滝壺とは、落下する流水の侵蝕により、周囲の川底よりさらに一段以上深くなっている地点を指す。
 則本は、澪木が自分を水底に沈めることによる溺死勝利を狙っていると推測した。
 人の比重が1前後に対して、水晶は2.7。明確に水に沈むラインであり、これならば変身を維持させていたことにも納得が行く。
 そこで則本は逆に沈んだのだ。そして底にまで潜り、大地を踏みしめた上で川底を全力で殴りつけたのである。
 果たして、水中圧力差の急激な変動(キャビテ―ション)により極小点のプラズマまでをも発生させたその拳は、周囲全てのアルコールへの引火により、罅の入った大地諸共川底を爆裂せしめた――。

 空中に舞い上げられた香酒の川が、雨となって地面へ降り注ぐ。則本の周囲約十メートル圏、ほんの僅かな時干上がった川も、周囲からの香酒の流入で元の在り様を取り戻そうとしている。
 その中心に立つのは、獅子が人の形を取った彫像、則本。
 その視線の先には、爆風に飛ばされ、岸辺の花畑に倒れ伏す澪木。
 則本は拳を構える。

「……国交省の皆の創意工夫を思えば、少々心苦しいものがあるが――」


「――すまないな、澪木くん。ここで眠ってもらうぞ」

 君の能力は恐ろしいものだ。
 則本は、内心でのみ語る。いや、この能力含め、君の個性には違いない。だがそれでも。
 人を無差別に変異させ、時に魔人能力との化学反応で思いもよらぬ事態を引き起こしかねない力。それは早すぎるのだ。いずれ受け入れられるべき力だとしても、現段階の魔人差別撤廃活動の中では、やはり早すぎる。

 それを直接、則本自身が確かめ、則本自身の手でこの催しより退場させる。
 この対戦を決めた五賢臣は、ここまで読んでいたのだろうか?

「がはっ!」

 澪木が、倒れたまま吐血する。爆風のダメージはあまりに大きい。

「やられたわ……まだ、手は残ってたんだけど……」

 危険な状態だ。もはや意識を繋ぎとめているミュージカル効果ですら限界だろう。則本も、とどめを刺さんと近づいてくる。
 耳にラッパの音が聞こえてきた。聞き覚えのある曲。澪木が視線だけでそちらを見ると……天使と、躍る小鳥がいた。
 丘で見た天使とは別個体だろう。だがそれは間違いなくこの天国に生み出された天使であった。
 悲しそうな顔をしていた。演出のための幻影なのに、悲しい顔をしていたのだ。

「ちょっと……そりゃ、ここをこんなにしちゃったのも、私がした、総理のアレだけどさ……」

 それは命の危機の前に見た白昼夢か。あるいはそれこそ、澪木だけが感じた幻だたのかもしれない。いや、きっとそうだったろう。
 しかし。そんな顔を見てしまっては。
 もう少し頑張らなければ、それは自分ではないような気がした。

「……ふーっ。『何も……こわ……くない……風よ……吹け!』」

 今や強いて自分を保たせるためだけの、蚊の鳴くようなミュージカルソング。だが、最後の力を振り絞るためのみならば。
 その瞬間、澪木は弾かれたように跳んだ。則本にソバットが刺さる。たまらず後ずさる則本。

「ねえ、総理」
「ふむ。何かね。見上げたタフネスだ、さすがは本選出場者だよ」

 着地。視線を受け止め、澪木が言う。

「正直ね、私アナタになら、負けてあげてもいいかと思っていたの。私の願いはきっと、ここじゃなくても別の形で叶えられるかもしれないし、アナタの願いは掛け値なしに立派。それならね」
「フッ。今更ではないかな澪木くん。君の顔には、最早そんなことは書いていないぞ?」
「ええ。今決めた――総理。私、アナタに勝ちたいわ」

 いつだって、背を向けた筈の夢や幻想が、力を与えてくれていた。

「立派な宣言だが……まだ策があるかのね? 受けて立とう」
「……ええ。全部整ったわ。勝ちに行くわよ、総理」

 相手を見据える則本に対し、髪の乱れ切った澪木は視線すら判然としない。
 いや、その顔面自体には、かなりの範囲に焼け爛れた様子が見える。背中や腹部も、一瞥してわかるほど甚大なダメージが広がっていた。攻撃の右腕だけは守り切った。かろうじてそう言えるほどの満身創痍であった。
 則本が宣告する。

「君は間違いなく強かった。総理として誓う、心から尊敬する。……終わりにしよう」

 ……香酒に灯る炎が、一際大きく燃え上がった。
 跳躍! 則本が一息で至近距離に詰める! その最後の拳が奔り――飴のように(・・・・)割けた。
 この一合だけに合わせる。全ての反応を捨て賭けた澪木のナイフ――!

「ぬ――!」

 慌てたのは則本である。
 これは!? 『日ノ本ニ輝ク鋼ノ拳』は未だ健在、衝撃に弱いだろう今の弱点をカバーし、自分を完璧な人間要塞に仕立てている筈だ。それがなぜこうも……いや違う! 異常な事態はそこではない。これは……これは、私の腕が溶けている!?

「総理。アナタは知らないかもしれないけど」

 澪木のはっきりとした声が響く。風が吹いた。澪木の視線が、則本を刺した。その目に灯るのは勝利への意志に満ちた光。

「アナタを創っているものを教えてあげる――!」

 ……体が菓子に変わる者。それは秘めた夢想の如き理想を、捨てず、曲げず、まっすぐ半生に打ち出して来た人間に多い。澪木の経験上の知恵である。
 故に。澪木はその『菓子に変わる者』を危険と判断している。
 思想の話ではない。単純に敵として立ちはだかった際の戦力としてだ。
 理想を曲げず、まっすぐに打ち出して来た者。それは生きる上で、時に厳しい現実に立ち向かう際、己の魂を一番の武器として来た者に他ならない。そして、そのような者が世に生きる際、何が起こるか。
 人を惹きつけるのだ。
 ケーキ、フルーツ、ハチミツ……それは夢の国でも変わらない。甘く、香り高く、時に華やかで力強い。その在り方は人々を魅了し、行く道を示し、大きな熱狂の中心ともなり得る。
 体が菓子と変わる者。それはとりもなおさず、人の上に立ち導く者の素質を示している――!

 則本を形作っているものは、結晶質であると同時に、鉱物ではない。
 氷砂糖だ。
 糖。それは菓子の本質の一つにして極致。その、純粋たる結晶。
 それこそが則本英雄の正体。
 だが、それは精髄であると同時、物質的にはただの結晶である。
 人によっては経験があるだろう。熱した酒に浸された氷砂糖は、恐るべき速さで溶ける!
 そして、その体の硬度をどれだけ高めようと、流体として溶けてしまえば関係ない!

「ぐ、ぬ……ウオオオオオオーーーッ!!」

 則本が咆哮する。
 見誤っていた。目の前の敵を、自分を! 何という未熟! だが、勝つ!この局面を乗り越えて、私は……この国のため、日本の皆のため、勝つ!
 最短最速のスピードで、則本の右ストレートが迫る。
 澪木の稲妻のようなローキック。溶けかけた足が大きく曲がり、則本の拳の発射を挫いた。
 止まらぬパンチが空を切る。衝撃の余波だけで澪木の左耳が抉れ飛んだ。だが止まらない。

「『――少しも寒くないわ!!』」

 力強く謳い上げた。ドロドロに溶けた防御の両腕を、澪木最後の掌が貫き千切る。
 体ごとぶつかった澪木の右手は叩き潰さんばかりの勢いで則本の左胸をぶち抜き、そのまま胸部と胴部を完全に裂断した。
 則本の獅子化が解かれる。鈍化した最期の時間の中、則本は千切れ飛ぶ己の腕と、その場に倒れる、腹部から上のない自分の体を見た。
 その向こう、精も根も尽き果てた澪木が、熱された酒の川へ倒れゆく姿も。
 不思議と、笑みが漏れた。
 出来る限りの力は尽くしたが、最後に運否天賦の勝負に持ち込まれるとは。……ああ、そう言えば。数年前の内閣総理大臣指名選挙の時も、こんな気分になったな――。
 脳裏に去来するある種の満足感とともに、バラバラになった則本も、また川へと落ちる。
 澪木と則本、その生命活動が完全に停止したのは、どちらが先だったか。それは――。


〈三〉


 淡い光で目が覚めた。
 則本を照らしているのは、医務室の電灯だ。ふむ、と僅かに頷いて、こともなげに身を起こす則本。

「――総理!」

 声が響く。寝台の傍らに座っていた運転手、兼ボディーガード内藤芳佳が、抱きつかんばかりの勢いで立ち上がり……思い止まって、ぺたぺたと顔に振れる程度に抑えた。

「え、ええと……おはようございます、総理。――お疲れ様でした」
「あ、あぁ……うむ、内藤?」

 照れ隠しの混じる声で応え、則本の顔面を撫でつける内藤。無事を確認するように。完治しているとはいえ、先程まで重傷、いや死人だったのだ。
 ……そして、則本は何も語らずとも、その調子だけで察することが出来た。この戦い、自分は敗れたのだと。

「……そうか。心配をかけたな。だがこの大会では、これが最初で最後だ」
「この大会だけじゃないと、私も嬉しいんですけどね。いつも無茶ばかりしますから」
「ああ、善処しよう」

 政治家らしい言葉だ。自分でも内心苦笑してしまう。やはり自分も、国を挙げての王女歓迎に少し浮ついていたのかもしれない。やれやれ、自分もまだまだ――。

「総理、これを見てください」

 則本の様子を見守っていた内藤が、一台のタブレットを取り出した。手早い起動がなされる。

「内藤? それは」

 動画が始まる。それは、会場の記録だった。
 若者、老人、子供、男性、女性。全てが、内閣総理大臣則本英雄の勝利を祈っていた。
 その力強い戦いに、誰もが声援を送っていた。

「内藤、これは、君……!」
「これだけじゃありません。テレビやネットでも、誰もが総理を見て、応援してくれていました。この会場で、いいえ日本中で、今でも皆さんが総理の無事を祈っています。総理は立派です。立派な人なんです。……しおらしい姿なんて、似合いませんよ総理」

 まっすぐ則本を見つめて、内藤が言った。
 そうだ、忘れていた。自分は負けたが、まだまだ国民のため、魔人差別撤廃のため、戦うべき場は残っている。やれることはたくさんあるのだ。

「……ああ。そう言ってくれると、奮い立たないわけにはいかないな! 礼を言うぞ内藤!」
「これでもボディーガードですからね。早くいつもの調子に戻ってくれないと。守りがいがありません」
「ふっ、頼もしいな、君は!」

 そもそもだ。忘れていたというのなら、自分は初心からだ。勝負に「もしも」はないが、覚えていたとしたら、少しは違った結果が待っていたかもしれない。

 ――梅の実を酒やシロップに漬けるにゃな、たっくさんの氷砂糖を使うのよ。

 この道へと踏み出した、最初の一歩の記憶だ。

「……ああ、まだ道半ば、さ。私も」
「? 何ですか、総理」
「いいや、何でもないさ! さて、明日から出直しだな内藤! これからまた忙しくなるぞ!」

 総理の道は厳しい。だが国と国民を背負う者として、へこたれている暇はない。
 グロリアス・オリュンピアに参戦し、一度死亡までした則本であったが――翌日、誰よりも早く国会に出席し、誰よりも多くの公務に復帰、副総理をまたも驚かせることとなる。
 しかし、それはまた別の話。


 同じく、別の医務室。
 もう一人の参加者が、寝台に横たわる。則本の部屋とは対照的に、こちらの雰囲気は静かなものだった。詰めているのも医療スタッフと、看護のサンプル花子だけ。一人きりだ。既に蘇生しているが、こちらは起き上がらない。
 異常だろうか? 否。

「うう、痛い……しんどい……もうあんな怪物とやりたくないわぁ……」

 澪木祭蔵。彼はこの試合により今後あと三日間はうなされることになるのだが、これもまた別の話。


 グロリアス・オリュンピア第一回戦・第△試合
 【戦場:天国 ○澪木祭蔵 VS 則本英雄●】
最終更新:2018年03月11日 00:29