空から一人の男が落ちてくる。
背負っているのはパラシュートではなくリュックサックである。
どれだけ命知らずなのであろう。
けれど彼はまったく慌てる顔を見せない。
衝撃に備える。
ドゴオオオオオオオオオオオオン!!!!
大きな音がして土煙が舞う。
男の着地は試合会場の人工芝を大きくえぐり、クレーターを作った。
しかし土煙が治まった時、男は全くの無傷だった。
右膝を曲げ、左脚は横に伸ばしている。左手で地面をつき、右手を水平に。
均整のとれた着地ポーズ。
それを観客全員に見せつけるよう数秒間をおいてから、男は立ち上がった。
「私の飛び込みは、こういうためのものではないんだがな」
ビジネススーツに付いた埃を払いながら、男は嘆きの言葉を口にした。
男の名は井戸浪濠。
飲料水メーカーの最大手であり『グロリアス・オリュンピア』の出資元のひとつでもあるミズリー社のトップ営業マンだ。
濠はざっと周囲を見回す。観客席に敷き詰められる人、人、人。
この集客力に対して濠は「大したものだ」と素直な感想を抱いた。
ふと、ガラス張りの特等席に佇むフェム王女と目が合う。濠は一瞬にやりと笑った。
その後、濠は空を見上げる。
二機のヘリコプターが視界に映った。去り行くもの。未だに会場上空に留まるもの。
(あちらは随分手間取っているようだな)
この登場パフォーマンスは五賢臣が提案した。
両選手の参加経緯の報告を受けたとき、彼らの内の一人がこう発言したのだ。
「そのシーン、生で見たい! ……否、王女様にお見せするのに相応しいであろう」
こうして二機のヘリコプターが用意され、二人の登場シーン再現が決まった。
ただしそれは一人分しか実現されなかった。
上空で停滞していた方のヘリコプターは徐々に高度を下げていき、やがてゆっくりと着地した。
中からは係員に支えられた老人が姿を現す。
「な……なぜこのような場所に私を連れてくるのです」
何万という熱い視線に怯えた目をした老人。
彼こそがこのバトルもう一人の主役、等々力昴。
だが彼にこれから闘おうという意志はまったく見られない。
ただ身をこわばらせ、キョロキョロといろんな方向に目を走らせる。
その姿を哀れに思ったのか、濠が救いの声を投げかけた。
「やあ! 久しぶりじゃないか、父さん!」
もちろん、濠は昴の息子ではない。
しかし昴はその声にいくらかの安心を覚えたようだった。
「豊太……! 豊太じゃないですか!」
二人の様子を間近に見ていた戦場担当の国土交通省役員は、昴の姿に激しい落胆を覚えた。
『等々力昴』といえば自動車運転免許皆伝の達人であり、かつて“マスタードライバー”の異名を誇った男である。
当然、道路を管理する国土交通省にもその名は轟いている。
先輩から聞かされた昴の数々の活躍。それが今は見る影もない。
「返納」の二文字が役員の頭をよぎる。
しかしそれはありえない。
昴は運転免許を持っていないからだ。いや、この表現も実のところ正確ではない。
運転免許には5年間無事故・無違反でもらえるゴールド免許というものがあるのは皆さんご存知であろう。
実はその上位に、優れたドライバーにのみ密かに送られるプラチナ免許というものがある。
この審査は非常に厳しく、国内でそれを持つ者は現在10人程度だと言われている。
では、昴はそのプラチナ免許保持者なのか?
答えはノーだ。
国は“マスタードライバー”に対して、日本で唯一、以下のような宣言を行っている。
「等々力昴は彼の存在そのものが運転技能の証明である」
つまり昴は彼自身が運転免許なのである。
ゆえに彼が免許不携帯で捕まることは決して無く、「返納」といっても物理的に何かが返納されるわけではない。
そしてその返納――表現が気になるなら「資格剥奪」――は未だ行われていない。
その事実を思い出した役員は、かすかな希望を見出す。
彼も見たいのだ。伝説の“マスタードライバー”の運転を。
「それでは、時間になりましたので始めさせていただきます」
役員が手を大きく上げると、会場の中心に二つのワープホールが発生した。
「さて」
転送地点に降り立った濠は早速名刺を1枚とボールペンを取り出した。
ミズリー社の名刺は裏が白紙となっている。
そこに彼は書き込みを始める。
『私の能力は名刺を交換する能力』
『私のいる場所は山の中腹にある道路上。頂上まであと50kmの看板』
そして少し考えてから、
『私はボケていない』
3つの項目を書き終えると濠は能力を発動する。
濠の持つ能力『敢行使命』は、彼が先ほど名刺に書き込んだ通り、名刺を交換する能力である。
この能力は相手が自分の名刺を持っていない場合にも成立し、効果が少し変わる。
濠の名刺が相手の手元に渡るのは変わらない。
では相手の名刺はどうなるかというと、無から生成され、濠の手元に渡るのだ。
このとき相手の名刺に書かれている情報量は、濠がこの能力で渡した名刺の情報量に等しい。
つまり、名刺に書き込みを行えばその分の情報を追加で交換することができるのである。
もちろん戦闘に際してこの書き込みによる情報交換はリスクを伴う。
相手がボケ老人だからいいものの、もっと頭の回る者が相手だったら……。
さらに悪いことに名刺を持っていたとしたら……。
しかしそれでもリスクは致命的ではない程度に抑えられる。
なぜならその名刺は相手にとってみれば「敵からわざわざ送られてきた情報」である。
当然信用することはできない。
もし対戦相手が濠の能力の詳しい効果にあたりを付け、名刺の情報が真実だと推測したとしても、それこそがブラフかもしれない。
いくらでも裏の裏の裏の……と疑うことができる。
しかし逆に濠にとってみれば名刺の情報はすべて真実だと確信できるのだ。
それはたとえ名前と所属組織だけだとしても、嘘かもしれない魔人能力よりはよっぽど価値のある情報だ。
濠は受け取った名刺を確認する。
「『等々力昴』、現在『無職』」
表の情報はそれだけだ。濠の名刺にも会社の公的な情報しか載っていないので当然の結果だ。
問題は裏。
『私の能力は乗り物を呼び出す能力』
『私のいる場所は山の中腹にある道路上。看板は無いが頂上まで道なりにあと52km』
『私はボケている』
満足のいく結果に思わず笑みがこぼれる。
最後の情報は念のため昴の認知症が演技でないかどうか確かめるために付け足したものだ。
どうやら認知症は本物だったらしい。
「では迎えに行くとするか、『父さん』を」
昴は困惑の極みであった。
いきなり訳の分からない連中にヘリコプターに乗せられ、人がたくさんいる競技場に下ろされた。
息子とつかの間の再会を果たしたかと思いきや、突然山の中にワープさせられ、
数分後にはいつの間にか知らない人の名刺を握っていた。
これが困惑しないでいられようか!
昴は何かを求めるように周囲をうろうろし始める。
そして徐々に山を道に沿って登り始めた。
やがてその先に、一人の男の影が見えた。
「父さん!」
「おお……豊太……無事でしたか!」
駆け出そうとして倒れそうになる昴を、濠はすっと支える。
「無理しちゃダメだよ父さん」
「……すみません」
しょんぼりする昴に、濠はひとつの提案をする。
「そうだ、父さん! 一緒に山頂までドライブしないか?」
「ですが車が……」
「何言ってるんだ、父さんなら『呼び出せる』だろ?」
「そ、そうでした……」
昴は恥ずかしがりながら指を鳴らす。
なるほど、これが発動条件か、と濠は分析する。
現れたのは年代もののスバルインプレッサ。
「では……」
「ちょっと待ってよ父さん!」
自然に運転席に入ろうとした昴を濠が制する。
こんな老いぼれに運転させていたら命がいくつあっても足りない。
「わざわざ父さんに運転させることはありません! 僕だってもういい大人なんだ。僕の運転を見てください!」
こう言えば、息子の成長を何よりも喜ぶ親ならば喜んで代わってくれる。
実際に人の親になったことなどないが、豊富な対人経験が濠にその台詞を言わせた。
「では、お願いしましょうかのう」
車は山をぐるぐると回りながら頂上を目指している。
「しかし豊太も大きくなりましたねぇ、ついこの間までこんなでしたのに」
昴が腰のあたりで手を広げる。
「ははっ、時間が経つのは早いよね。大人になってから感じるようになったよ」
こういう場合は否定せず、適当に相手に話を合わせる。
そうすることでボロを出す可能性も最小限に抑えることができる。
微笑ましい親子の会話を演じる裏で、濠は考えを巡らせていた。
このボケきった老人を騙して水を売るのは容易い。
だが濠はそんなことをしにこのグロリアス・オリュンピアに参加したわけではない。
思えば練習のスパーリング相手として用意されたサンプル花子との戦いは酷かった。
10人の花子を同時に相手取り、それぞれにペットボトル一本10万円の水を売りつけることに成功してしまった。
彼女たちは素直すぎたのである。
しかし、この老父は仮にもグロリアス・オリュンピアの出場者として相応しいと五賢臣が太鼓判を押した男。
何かがあるに違いない。
それに、名前もどこかで聞いたことがある気がする。
濠は警戒しつつも期待を感じながら『その時』を待った。
頂上に着くと、濠はその片隅に車を停めた。
男二人、フロントガラス越しにそれぞれがぼんやりと景色を眺めている。
雲の無い青空、岩肌にまばらな緑を見せる山々。
濠が何気なしに腕時計を見ると、転送から1時間以上経過しているようだった。
そろそろ何らかのアクションを起こすべきかと考えていた時、突然昴が叫んだ。
「ああ! ここは由美さんとドライブに来たあの風景!」
それを皮切りに、昴の目に光が宿る。
「いえ、違いますね……。ここであってここではない……。
そう、思い出しましたよ。私がなぜここに来たのか」
その変化に濠は興奮していた。
ここにいるのはもはやボケた老人ではない。
運転手として幾度も死線をかいくぐってきた“マスタードライバー”なのだ。
濠は喜びを感じていた。
ようやく、自分が水を売るに相応しい相手に出会えた。
「始めましょう、井戸浪濠さん」
パチンと音がして、一台の大型バイクが現れた。
2015年、カワサキから発売されたモンスターマシン、Ninja H2R。
驚異の最高速度400km/hと同時に爆発的な加速力をも誇るこの機体は、
頻繁にストップ・アンド・ゴーを行う戦闘においても高い実力を発揮する。
さらになんといっても“Ninja”というネーミングだ!
日本大好きなフェム王女への忖度にぴったりではないか!
緑のラインがあしらわれた黒のボディ。
まさに忍者のクナイを思わせるそれを、昴は丁寧に点検する。
一方の濠は一本のペットボトルを昴の方に向け、こう宣言した。
「あなたにこの『おいしい水』を売ろう。お代は――」
昴は点検に余念なく、濠の話を聞き流している。
「――『二回戦の進出権』だ」
昴は濠の方を向きもせず、何も言葉を返さなかった。
最後にシートを軽く叩き、そこに跨る。
この段になってようやく昴が口を開く。
「おやめなさい、そういう商売は。身を滅ぼしますよ」
二倍近い人生経験の重みを含んだ言葉も、濠に対しては馬の耳に念仏だった。
会話は互いにすれ違ったまま、戦いの火蓋が切られる。
先に仕掛けたのは昴だった。
ブルオォォォォォォン!!!
怪物がうなる。
第一の突進を濠は横にかわした。
昴はすかさずターンを決め、今度は大きめのスラロームで襲いかかる。
右から来るか左から来るか分からない。
ならば、と濠は逆にバイクに向かっていく。
あわや激突!
というところで、濠は大きく跳躍した。
(跳び越しますか)
そのまま濠は山頂から降り、舗装されていない斜面を下っていく。
ここまでは追ってはこれまいとの考えだろうか。
だが甘い。
“マスタードライバー”にとって道でない道など存在しない。
大型バイクをあたかもマウンテンバイクのごとく扱い、凹凸の激しい斜面を下ってゆく。
後ろから恐ろしいまでのスピードでNinjaが迫ってくる。
このままではまずいと考えた濠は、まばらに立つ木の一つに隠れ、素早く名刺とペンを取り出した。
一度名刺を交換した相手と再び名刺を交換しようとする行為。
それはビジネスマンとして失礼極まりない行為である。
しかし誤った情報の名刺を持ち続けるとなると、それはそれで言語道断。
名刺を頼りに社長を訪ねたら失脚していたなどということがあったら目も当てられない。
故に、名刺の情報が古くなった場合、濠は新しい名刺を交換する。
『頂上まであと50km』などという情報はもう古い。
『私は、自分から見て右に飛び出したい』
『敢行使命』発動!
直ちに名刺が昴の元へ届き、濠は昴の新しい名刺を得る。
さすがの“マスタードライバー”といえど、大型バイクでオフロードを運転中にそれを見る余裕などあろうはずもない。
仮に読めたとして、『相手から見て右』を瞬時に的確に判断できようか!
濠は一方的に情報を得る。
『左にフェイントを掛けて右に回り込みます』
つまり、濠の出ようとしていた方向の逆!
後ろから回り込まれる!
それを読み取ると、濠は背中から一本のペットボトルを取り出した。
(今です!)
名刺通りのフェイントを行い、濠が油断していると見た昴は車体で殴りつけようとする。
濠はすんでのところでこれを避け、逆に冷や水を浴びせ、ついでに蹴りつけた。
「なんのっ!」
昴は怯むことなく前進し、接近戦が始まる。
御年80歳とはとても思えぬ膂力で216kgもの車体を軽々と振り回す昴。
……と、見えるだろうが実はそうではない。
昴はバイクの推進力を利用し、最小限の力で鮮やかにこれを操っていく。
『忍者』を冠するバイクに跨るに、なんと相応しい男だろうか。
だが濠もさるもの、Ninjaの猛攻から致命傷だけは避けつつ、隙あらば拳を打ち込んでいく。
なぜ戦闘者でない、一介の営業マンである濠にこのようなことができるのだろうか?
それは彼が毎日欠かさず日経新聞を読んでいるからに他ならない。
日経新聞、正式名称・日本経済新聞は、国内外のあらゆる業界における経済情報を取り扱う新聞である。
営業マンとしては必須のアイテムと言っても過言ではない。
そして濠はこれを余すところなく読み込んでいる。
分かりやすいものとしては株価であろう。
株価は企業の価値を反映し、それを単価として数値で表す。
ならばそれを欠かさず追っていけば、どのような場合に価値が高まる、あるいは低まるのかという感覚が身につく。
その鍛えられた感覚は戦闘にも活かすことができる。
濠は相手の攻撃の『価値』を読み、それが安い場合は『買い』に行く。
『価値』が高い攻撃に対しては、売るべきものを持っていない場合はスルーする。
しかし、売るべきものがある場合、全力で喧嘩を『売る』べきなのだ。
今! まさにNinjaが牙を剥く!
体勢を崩した濠を、前輪を高く掲げ踏み潰さんとする!
しかしその動きは、濠の伸ばした手の前でピタッと止まった。
濠が売った切り札は、まさに切り“札”であった。
Princess of Epsilon Kingdom
Fem Isuzu Beş Epsilon
「なっ……!」
「これに泥を塗ることができない参加者は多いと踏んで手に入れておいた。
あなたもそうだろう、“マスタードライバー”」
それは他でもないフェム王女の名刺!
会場で彼女と目が合った時、濠は能力によってそれを手に入れていたのだ。
「私もあることを思い出したぞ。
たしか、まだ何もできない新人だった頃だ、懐かしい。
20年前、世間を賑わせたあの『グランドタワーの事件』」
その時に昴が救った少女が、フェム王女の母にして現イプシロン王国女王・ファナ=深月=ヴェッシュ=エプシロンであった。
恩人の立場とはいえ、縁のある身。
いや、そもそもどのような間柄であっても人の名刺など盾にされては……。
その気の迷いを濠は容赦なく突く。
お得意の飛び込み営業によって、懐に飛び込む!
「さあ、買え!」
「ぐっ!」
昴はバイクから振り落とされた。
そのまま二人は倒れた体勢でもみ合いになる。
「やめてください! 豊太! ああ、由美さん助けて!」
肉体と精神、双方にショックを受けた昴は錯乱状態に陥る。
そしてそのまま、指をパチンと鳴らした。
昴の能力『“あなたと海辺を走りたい”』は自身の周囲2m以内に乗り物を呼び出す。
それは、地面の上とは限らない。
急に現れた影を感じて、濠は一人飛び退こうとする。
そうはさせまい、と昴が濠にしがみつく。
パワーバランスの結果として、二人は結局そのままもつれた状態で横に転がるだけだった。
二人が元居た場所に、上空2mの位置からヘリコプターが墜落してきた。
ガラスは割れ、辺りに破片をまき散らそうとする。
破片が自分に降りかからないよう、昴はすぐにヘリコプターを消し去った。
二人は道路の上まで転がって来ていた。
本来ならば昴のホームグラウンドである。
しかしもはや彼は詰んでいるようだった。
単純な腕力で言えば、濠の方が明らかに強い。
この状況から、昴が操作しなくても濠だけを弾き飛ばせるような乗り物。
そんなものがあるだろうか。
いや、ある!
昴は既に冷静さを取り戻していた。
指を打ち鳴らす。
その乗り物は二人に颯爽と近づいてきて、濠を、蹄で蹴った。
「深月!」
「ヒヒィ~ン!」
毛並みの整った、栗毛の牝馬だった。
その立ち振る舞いは堂々としていて、ファナ女王のミドルネームを頂くに相応しい気高さである。
昴はすかさず深月に飛び乗る。
「あれしきで動揺するとは、お恥ずかしい限りです」
自らを奮い立たせるための言葉を口にする昴。
その静かな熱は深月にも伝わっていた。
せわしなく地面を掻き、今にも駆け出しそうに合図を待つ。
濠は、ゆっくりと起き上がった。
一陣の風が吹いた。
それをきっかけに、昴が深月を駆る。濠が構える。
四つの目と二つの目がにらみ合う。
「はいやぁぁぁ!!!」
しわがれた、しかしずっしりとした声が木霊する。
その声には、この温厚な老人が滅多に表さない怒りの色がふくまれていた。
『お嬢さん』の娘の名を悪用された怒り。
だが濠はまだ慌てない。
最大限まで彼らを引き寄せ、かわしてからもう一度飛び込み営業を掛ける。
その瞬間を見極めなければいけない。
濠は射貫くような眼光を向ける。
それをものともせず、ついに深月が最高速に達する。
接触までもうすぐだ。
濠が腰を低くする。
その時!
昴が手を天に向けて高く掲げ、一つ、打ち鳴らした。
途端、景色が変わる。
昴が呼び出した乗り物は、電車。
それも、彼らを『中に乗せた状態』で!
(これは……!)
更に濠のいる場所は連結部!
左右、上下の移動がことごとく制限される!
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!」
逃げ場が無いことを悟った濠は、フェム王女の名刺を再び掲げる。
あたかも水戸黄門の印籠のように。
しかし昴に同じ手は通用しなかった。
その名刺を深月が器用にくわえて奪う。
濠の目が驚きに見開かれる。
そしてそのまま、深月は彼を蹴り飛ばした。
「このざま、か」
地面に横たわりそうつぶやく濠。
そこに、深月から降りた昴が声を掛ける。
「あなたは若い。まだやり直せます。どうか、正しい道を歩んでください」
濠から、いつものあざ笑うような顔ではない、素直な笑みがこぼれる。
「四十代にもなって『まだ若い』と言われるとはな……まったく」
傍らから『おいしい水』のペットボトルを取り出し、キャップを開けて昴に差し出す。
「強いお人だ」
昴も笑って水を受け取る。
「いえいえ、それほどでも……」
そしてそれを、口にした。
悪人を打ち倒す瞬間、それは至高の快感だ。
故に気が緩む。
神のごとく、滅びゆく悪人のすべてを赦す気になる。
不意に差し出された水も、警戒せず受け取ってしまう。
お客様を神の座に、自らを死喪の座に。
それが『接待』。
「契約、成立だな」
その言葉を聞いて、昴が固まる。
もちろんこんなものは大会ルール外の取引に過ぎない。
しかし『二回戦進出を懸けた』と銘打たれた水を、どんな文脈でも飲んでしまったこと。
それだけが重要なのだ。
それだけで人は、うろたえる。
何故飲んでしまったのか、と。
さらに。
信じられないことに、満身創痍かと思われた濠はふらふらと立ち上がった。
昴は思わずペットボトルを取り落とす。
動揺で動けずにいる昴に対して、濠は両手を包み込むように握ってきた。
指パッチンが封じられる。
ここから濠は、攻撃を繰り出してくるのだろうか?
とんでもない! 彼は営業マンなのだ。
成約後の言動など決まっている。
「お買い上げ、ありがとうございます!」
勢いよく頭を垂れる、斜め45度の最敬礼。
それが、至近距離にあった昴の頭蓋を砕いた。
お代を頂戴し終えた濠が会場に戻ってきた。
彼の闘い方に、観客席は歓声とブーイングに割れている。
濠はそれをまったく気にしない。
どうせ、サシで会ったら数秒で濠に水を売られてしまう連中なのだから。
濠はもはや次なる対戦相手に思いを馳せている。
彼にはこの大会に懸ける願いなどない。
5億の金も欲しいとは思っていない。
ただひたすら、強い相手に己の営業をぶつけたかった。
魔人の強さは自我の強さである。
ある程度自我の強い相手に対しては、その自我をくすぐってやることで営業もやりやすい。
しかし魔人ほど強烈な自我を持つ人物相手には営業の難度がぐっと高くなる。
それを切り崩したときの達成感が、彼はたまらなく好きだった。
売ること。
それだけが彼の営みであり業なのだ。