SSその2


 等々力昴が、40代半ばのころの話だ。

 昴はその日、愛車のセドリックに、メーターをつけただけの個人タクシーを運転していた。
 少し都心から離れた、昼下がりの住宅街では、すぐに捕まるようなお客もいないだろう。のんびりと、ドライブを楽しんでいた。
 満開の桜が見える公園のそばに駐車し、運転席で葉巻を嗜んでいると、突然後部座席のドアが開いた音がする。反射的に正面にあるバックミラーへ視線を上げると、下校中と思わしき一人の少年が写っていた。
 少年はランドセルを背負い、半そで半ズボンと言う健康そうな格好だったが、その顔面は蒼白で、息は切れていた。少年は、歯を震わせながら言った。

「た、助けてください」

「お安い御用です。お客様」

 その一言だけで、昴が少年を助けるには、十分な理由になる。
 サイドミラーには、拳銃を持った黒服の連中が写る。昴は、すぐにアクセルを全開にして、その場を立ち去った。
 後から聞いた話だが、どうも少年はロシアンマフィアの取引現場を見てしまったらしい。
 最終的には由美と協力して、そのマフィア自体を壊滅に追い込んだので、なんの取引をしていたのかは、知る由もなくなったが。
 少年は、警察署で三郎と言う馴染みの刑事に引き渡した。母親が迎えに来るまで、少年は泣きじゃくりながら昴に聞いた。

「どうして、ここまでしてくれたの」

 昴は、にこやかに笑いながら、少年に名刺を渡した。
 そこには、『タクシー運転手 等々力昴』とだけ、書かれていた。

「私は、タクシードライバーで、あなたはお客様ですから。最大限、お客様の利益の為に、仕事をしたまでですよ」

 昴は、少年の母親にタクシーのメーター代だけを請求し、その場を立ち去って行った。
 以後、その昴は少年と、今に至るまで一度も会っていない。
 そう、今に至るまで。

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 Relive

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敢行使命(チャレンジノルマ)

 試合場に電車を使って現れた――当然、経費の精算は先に済ませている――井戸浪 濠は、己の名刺と相手の名刺を交換する能力を発動する。
 しかし、何も起こらない。
 自分の名刺が減る様子はなく、相手の名刺が出現することもなかった。

「やはり、あの時から名刺を変えていないのか」

 井戸浪は、大事そうにケースにしまった、古ぼけた一枚の名刺を取り出した。
 そこには、『タクシー運転手 等々力昴』とだけ書かれた名刺があった。

 もう、30年以上前の話だ。自分を助けた運転手に、もう一度お礼を言いたいと思っていた。
 だが、等々力昴は無許可のタクシー運転手であり、誰もその行方を知らなかった。
 方々を調べる中で、等々力昴が裏社会でトップクラスの知名度を持つ男だということを知った。国家クラスの要人でも、その住居や正体はつかめていないという。
 そんな男を、一回の営業マンである自分が探し当てることなど、できるだろうか。いつしかそのまま月日は経ち、井戸浪は昴と会うことを諦めていた。
 スポンサー会社に送られる、グロリアス・オリュンピアの出場予定名簿を見るまでは。

 会って、どうということはない。ただ、大きくなった自分を見てほしいと思った。
 自分が、仕事に当たる心構えを教えてもらった人に、営業マンとして成長した自分を。

「こんなに早く目的を達成できるとは、思わなかった」

 井戸浪濠がグロリアス・オリュンピアに参加した最大の目的は、等々力昴だ。

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 試合場に現れたその老人を見た時、観客たちは一様に同じことを思った。
 本当に、この男があの“マスタードライバー”なのか、と。
 黒服を着た大柄な男……リヒト・アーグラインに腕を引かれる、覚束ない足取りの老人。等々力昴は、シルクのブルータイをつけ、カシミアの黒スーツに身を包み、これもまた上質なウールで仕立てられたハットをかぶって登場した。
 フルフルと震える昴は、リヒトにゆっくりと頭を下げ、井戸浪濠に正対し、にこやかに笑う。

「おや、光雄。そんなところで何をしているんですか」

 光雄とは、等々力昴の息子の名だ。等々力昴は、はっきりと自身の息子の名を井戸浪へ向けたのだ。
 井戸浪は、静かに昴を見据えた。
 井戸浪のその目に、感情はない。顧客(獲物)を狙う肉食獣の如く。大方の観客には、そう見えただろう。そこに、歓喜と憐憫を孕んでいるとは、誰も思わなかったはずだ。
 一流の営業は、感情を殺す。仕事に、私情は挟まない。
 知らずと身についたそのスキルは、過去の恩人と会ったとしても、剥がれることはなかった。

「それでは」

 ご武運を、と言おうとして、リヒトは口をつぐんだ。大会運営の一人として、特定の選手に肩入れはできない。
 せめてもの思いを込めて、深々と頭を下げる。だが、曖昧の中にいる昴は、きょろきょろと辺りを見回すばかりで、リヒトに目を向けることはなかった。

 転送が、行われた。

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 井戸浪は、ゆっくりと目を開いた。
 木々が生い茂る、道すら整備されていないただの坂に立っていた。辺りを見回し、ここが山岳の中腹であるとわかった。
 眼下には、大きく弧を描く海岸と、その弧に沿うように港町が広がっている。
 この風景に、井戸浪は見覚えがあった。過去の海外出張で、見た景色だ。

「あの村は、フランス領のマルティニークに所在する、サンピエールだな。となると、この対戦場のモデルは、西インド諸島のプレー山か」

 だとすれば、水を売るために使える手が、一つある。
 井戸浪は、頂上に向かって歩き始めた。

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「ああ、光雄。こんなところにいたんですか」

 山の中腹。萌ゆる木々に囲まれ、二人は接敵した。
 ふらふらと所在なく歩き回っていた昴は、井戸浪の顔を見てぱっと表情を明るくする。いまだに、誤解は解けていないらしい。それも、悪くはない。営業には、好都合だ。
 井戸浪は、背負ったリュックから150mlのペットボトルを取り出した。

「歩き疲れただろう。この水を、500万円で買わないか」

 グロリアス・オリュンピアにおいて、水を売れば勝利などと言うルールはもちろんない。井戸浪がしていることは、戦術という面では全く無意味だ。
 だが、そうせざるを得ない。
 この試合は、全国に放送されており、視聴率は60%を超す見込みだ。ここで自社製品の宣伝をせずして、何が営業マンか。
 昴への幾年月積み重ねた思いも、グロリアス・オリュンピアで勝ち進むことも、一度脇に置く。まずは、営業努力。総出で応援しに来てくれた社員のためにも、井戸浪は優先順位を違わない。

「……なるほど。そういうことですか」

 井戸浪は、昴の一言が何に対しての台詞なのかわからず、一瞬困惑した。
 昴を見ると、目を真っ赤に染め、全身に怒気を孕んでいる。皺だらけの右手を持ち上げ、力任せパチンと鳴らした。
 ブラックに塗られ、ワックス艶が高級感を出す車体が、林の中に出現する。重厚感のある4WDの車体は、圧倒的な力強さを感じさせる。
 南極や赤道直下すらものともせずに走行する、陸の王者と言われるモンスターマシン。トヨタランドクルーザーだ
 完全な臨戦態勢。井戸浪は、なるべく優しげな声を出す。

「等々力昴。何か気に障ったなら、謝ろう」

「気安く名前を呼ばないでください。“マスタードライバー”も、舐められたものですね」

 昴は、話をする気すらないらしい。けんもほろろな対応だ。
 老人の沸点は、営業百戦錬磨の井戸浪とて、完全には把握できぬ。結局何に怒っているのか、今もって理解はできない。
 だが、リカバリはせねばならない。怒られたから営業を諦めるなどと言う常人の精神性など、井戸浪はとっくに麻痺させている。

「まあ、落ち着け。まずは、話を……」

「聞く耳は持ちません。見せてあげましょう。私が、マスタードライバーと呼ばれる所以を」

 昴の中では、どのようなストーリーが繰り広げられているのか。流石の井戸浪も、計り知れない。
 昴が車に乗り込み、エンジンをかけた。高速の手さばきでギアをローに入れる。クラッチを離し、思い切り踏み込む。
 井戸浪が、猛スピードで迫りくるであろうランドクルーザーに対し、迎撃動作を取った。

 ガコン!

 だが、ランドクルーザーは歯車が止まる大きな音を鳴らして、その挙動を止めた。
 空気を揺らしていたアイドリング音は止まり、付近は静寂に包まれる。
 この現象は、疑いようがない。

(……エンスト?)

 あの、“マスタードライバー”がエンスト。とても信じられるものではないが、それが事実だ。
 運転席に座る昴の顔は蒼白で、冷汗をだらだらと流している。不慮の事態であることは、刺すような空気で伝わってきた。
 昴が犯したのは、ブレーキとアクセルを踏み間違えるという、実に初歩的なミスだ。
 あまりにも残酷に、人は老いる。それは、昴とて例外ではないということか。

(だが、警戒態勢は解けない)

 一流営業マンである井戸浪ですら、もはや都市伝説級の存在である昴のことを、完全に把握はできていない。だが、昴の強さに関する噂は、嫌と言うほど聞いている。
 昴は、己の失敗に動揺をしないという。大事なのは、リカバリだということを知っているからだ。
 一度の失敗があったとて、一瞬でそれを認め、状況把握を行い、最速の最適解を導き出す。それこそが、昴がマスタードライバーたる強さの一つなのだろう。

(ミスに付け込もうと思えば、逆にその隙を狙われるだろう。ここは動かず、次の動向を見る)

 井戸浪が、眉一つ動かさずに昴を見つめる。運転席に座る昴は、その視線を感じているのかいないのか、全身をフルフルと振るわせ始めた。

「……ホギャアアアアアアアア!!!!」

 昴が、トヨタランドクルーザーの分厚いドアを蹴り飛ばした。ドアは金具を弾き飛ばし、グワングワンと音を鳴らしながら、落ち葉に塗れた地面を転がる。
 昴が、獣の如き速さで飛び出した。その目には知性の欠片をも感じさせない。血走った暴人の如き目であった。

(……なんだ?)

 井戸浪は内心動揺するが、毅然とした態度を保つのも、営業の鉄則だ。外面には、何も現さないよう、細心の注意を払う。
 昴は、震える人差指を井戸浪に差した。

「貴様……ッ! 私の失敗を見るなあああああ!!」

 昴が、外れ落ちた運転席ドアを手に取り、そのままフリスビーの如く井戸浪に放り投げた。
 恐ろしい速さで飛来するそれを、井戸浪は紙一重で躱す。高速で後方に去ったドアは、背後の大木に突き刺ささる。大木は、めきめきと音をたてて倒れた。
 井戸浪の頬に一筋の傷が生まれ、血がたらりと流れた。

「ヒャヒャヒャ……! 私の痴態を見たからには、生きて返しませんよオオォォォ!」

 昴が、口角から泡を飛ばしながら、己の筋力のみでバキバキとランドクルーザーのボンネットを外し、エンジンを引き抜いた。

「ランドクルーザーのエンジンはねェ、ディーゼルエンジンを使用しているんですよォ。ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも頑強で、重いんです。つまり……」

(とんだ思い違いをしていた)

 等々力昴は、車にさえ乗らなければ攻略はたやすい。そう思っていた。
 だが、等々力昴とて魔人なのだ。

「ガソリンエンジンよりも、人を殴り殺しやすいんですよォ! 私のディーゼルエンジンで、貴様の人生をピストン圧縮して差し上げましょオオオオう!」

 井戸浪は、エンジンを持って跳躍する昴を目前にし、認識を改めた。

(等々力昴は、肉弾戦でも強い)

 昴が、エンジンを横なぎに振り回す。井戸浪は、営業の外回りで鍛えた頑健な脚を使い、ブロックする。
 だが、200キロを超えるディーゼルエンジンは、井戸浪の体を容易く吹き飛ばす。井戸浪は横面から大木にぶち当たる。井戸浪の肩幅の倍はあろう樹木が小枝のようにしなり、わさわさと新緑が落ちて来た。
 井戸浪の口から、どろりと血が出る。内臓を損傷したようだ。
 だが、井戸浪は何事もなかったかのようにオールバックを撫でつけて髪型を直し、スーツの埃を払った。

「まずは、話を聞いてもらわないとな」

 井戸浪濠は、動揺をしない。幾多の営業で培った経験から、状況に応じて今自分がするべきことを見定め、淡々とこなす。
 噂で聞きかじった等々力昴の強さが、そのまま井戸浪にとっての、営業の極意となる。

「言ったでしょう! 貴様の話など、聞く耳を持ちませんねええええ!」

 昴は嬌声を上げ、エンジンを持たない左手で、自らの左耳を引きちぎった。鮮血が、勢い良く噴出し、昴の青いネクタイを紫色に染めていく。
 聞く耳を持たないというのは、そういう意味ではない。ここまでくると、もはや老化は関係ないのではないかと、思わないでもない。
 だが、この程度のことに動揺する井戸浪ではない。
 今まで営業してきた顧客には、現在の昴を超えるモンスターもいた。経験は、力だ。それは、己の歩んできた道を、信じることでもある。
 井戸浪の強さは、己を信じる強さだ。

「ミラーリングと言う言葉を、知っているか」

 井戸浪が、自らの右耳を持ち、勢いよく引きちぎった。昴と同じく、耳から鮮血が迸る。

「ヒャア? 貴様……何をしているんですかアァアアアッ?」

 昴が、絶叫と共に井戸浪に向かってエンジンを放り投げた。
 井戸浪は、右耳から噴出する血液にかまうことなく、懐から名刺を取り出し、エンジンに向かって投げる。空気を斬り裂く名刺は、エンジンに突き刺さり、大爆発が起こる。
 その爆発を目くらましに、昴が潜り込むように井戸浪に向かってきた。だが、狙いは井戸浪も同じ。二人は、ちょうど中心点。爆発の直下で拳を交わす。

「死ねぇ! ドライブパンチ!」

 昴の右拳が唸る。だが、それと同時に、井戸浪もまた左拳を打ち出した。
 火花が散るかのような激突。昴は更に、ツーリングキック、ハンドル抜き手、玉突き頭突きなど、多彩な技を繰り出す。
 しかし、その全てを、井戸浪は全く同じ攻撃で受け止めていた。

 営業技術の一つ、「ミラーリング」である。

 他人の行動を鏡に映すかのように真似ることで、対象者の信頼を得るという、心理学に基づいた営業技術だ。営業のプロが使えば、顧客はまるで生き別れた兄と再会したかのような感動すら覚えるという。
 だが、世界広しと言えど、コンマ1秒単位で動きを真似ることができる営業マンは、井戸浪をおいて他にいない。
 更に、攻撃を攻撃で受けることで、「単純接触効果」という、「接触する機会が増えるほど信頼を得やすい」心理学的効果も現れる。

「ヒャヒャヒャヒャヒャァー! ヒャアアー! アアー! ア…ア……ッ!」

 昴の心中に、どんどん井戸浪に対する信頼が広がっていく。表情はどんどん安らいでいき、もはや縁側で茶をすするおじいさんのようだ。
 井戸浪の営業技術によって人為的に作られた、明確な弛緩。
 この機を逃す営業マンなど、今すぐ辞表を出すべきだ。

「まあそう言わずに、話だけでも!」

 井戸浪の、渾身の前蹴りが、昴の鳩尾に突き刺さった。昴の肺から空気が抜ける。
 これこそが、営業技術の一つ、「フットインザドア」である。小さな要求を受け入れた後は、その後の大きな要求も受け入れやすくなる。井戸浪は、「話をするだけでも」と言う小さな要求を昴に受け入れさせ、この先の交渉を有利に進めるつもりなのだ。
 また、ドアに足を入れるがごとく相手に前蹴りを叩きこむことで、断る言葉を発せなくさせるという効果もある。営業マンにとっては、必須技術だ。当然、「単純接触効果」も効いている。
 ゴロゴロと、十数メートルほど転がり、ゆっくりと起き上がる昴。その顔は、既に優し気な好々爺そのもの。「ゲフゥ」と口から血を吐きながらも、柔和な笑顔を井戸浪に向けた。

「お前の話を聞かないわけがないでしょう、光雄」

 会話が成立する。これこそが、営業技術の力。
 ここからは、井戸浪のフィールドだ。すかさずリュックからミズリー社の美味しい水を取り出した。

「お父さん。運動をして、喉が渇いただろう。この水を、500万円で買わないか。」

 “お父さん”と言う言葉は、男性のお客様に対して使うものとしては一般的だ。騙しているわけではない。
 ギリギリのラインを攻め、決して法律に違反はしない。それもまた、営業の鉄則である。

「おお、光雄。水かい。お前が持ってきた水を、買わないわけがないだろう」

 疑うことを知らぬと言わんばかりの昴に、井戸浪の心がわずかにざわつき、その目に迷いの光が宿った。
 これが、あの等々力昴か。
 自分が助けられた時、悪漢を車でなぎ倒しながらも、一人の死者も出さなかった。怖がる自分を勇気づけるため、絶えず話をしてくれた。
「人を幸せにする仕事をしたい」と話したとき、笑わずに応援してくれた。「君なら絶対になれますよ」と、頭を撫でてくれた。お金だって、タクシーのメーター代以外はもらおうともしなかった。
 強く、優しい、理想の仕事をする大人。それが、井戸浪にとっての等々力昴なのだ。
 それが。

「それでは、契約書を出そう」

 逡巡は、瞬く間に終わる。今の井戸浪は、憧れに憧れるだけの子どもではない。感傷に浸り、目的を逃す愚は犯さない。
 何よりも、憧れの等々力昴に水を買ってもらうことが、自分が成長した姿を見せる、最大の方法だと信じているからだ。

 だが、その瞬く間の逡巡により、井戸浪は、“兆し”を見逃した。
 一流営業マンとしては、あまりにも大きな不覚だったと言えよう。
 等々力昴の眼差しが、ふらふらと宙を彷徨い、やがてある一点を差した。
 その目には、光があった。

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 その眼差しを、以前見たことがある。
 あれは、いつの話だったか。ロシアンマフィアに襲われた少年を、警察署まで送り届けたことがあった。
 少年を元気づけるために、車内では色々な話をした。
 少年の夢は、営業マンなのだという。多くの人に幸せにする仕事をしたいらしい。
 小学生にしては珍しい夢と思ったが、ちゃんとした信念を持っている少年に、むしろ尊敬を覚えた。

「素晴らしいですね。今からもう、自分の夢をしっかり持っているなんて。君なら絶対になれますよ」

 助手席に座る少年の頭を撫でると、満更でもないような顔をした後、不安げに眉をひそめた。

「でもボク、不安なんです。営業マンって、ノルマ性じゃないですか。働いているうちに、いいものを売る事じゃなくて、売らなきゃいけないから売るようになっちゃうんじゃないかって。ちゃんと、お客さんのことを第一に考えるっていう、初心を忘れないでいられるかなって」

「し、しっかりしてますね。既に、社会人3年目レベルの悩みですよ」

 己の純粋さすら疑う、少年の仕事に対する本気の姿勢に、胸を打たれるような気持ちになる。自分が子どものころは、こんなに真剣に自分の将来を考えたことがあっただろうか。

「そうですね。仕事と言うのは……」

 私は、彼に何と言ったんだろうか。
 今、同じ顔をする彼に、何を言えるだろうか。
 ああ、そうだ。あの少年は……。

 スーッと、頭から霧が晴れていった。

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「水を、売っているんですね」

 昴が、突然井戸浪に声をかけた。井戸浪は、筆記用具を用意しながら、答える。

「ミズリー社の美味しい水だよ。不純物を極限まで取り除いているので、体調を崩すことはほとんどない。だが、特殊な処理技術を使っているので天然水そのままの味を楽しめて、美味しいんだ」

 これは、井戸浪が本当に思っていることだ。
 井戸浪ほどの営業マンならば、その辺に転がっている石ころでも、1000万の値をつけて売ることはできる。
 だが、井戸浪はそれを良しとしない。自分が売る商品は、自分が良いと思える商品でなければいけない。
 幼いころに聞かされた、昴の言葉を思い出す。

 『仕事と言うのは、最大限お客様の利益の為にするためのものです。それを忘れなければ、あなたなら立派な営業マンになれますよ』

 そう、仕事とは、最大限お客様の利益の為にすることだ。
 金をもらうからには、それだけの価値あるものを提供しなければならない。それが、井戸浪の信念だ。

「お父さんも、きっと気に入る。これを飲んで、長生きしてくれよ」

 身内からの長生きしてほしいという願いは、そう簡単に無下にはできない。それもまた、営業戦略の一つである。
 井戸浪は、自分が息子だと偽っているわけではない。だが、“勘違い”をしているならば、それを正す必要はない。
 “息子から受け取った水”と言う主観的な事実は、商品価値を跳ね上げるのだ。

「素晴らしい水です。本当にいい商品を売っているんですね」

 昴が、胸ポケットから白いハンカチを取り出し、引きちぎった耳に当て、止血を始めた。井戸浪もまた“ミラーリング”により、ハンカチで止血をする。
 井戸浪は、違和感を覚える。昴の態度が、あまりにも柔和すぎるのではないか。

(単純接触効果が効きすぎたか)

 単純接触効果は、多用するとお客様の脳に深刻な障害を引き起こすことがある。
 井戸浪ほどの営業マンが、そのような失策を犯したことはない。だが、昴は今までにない強敵だ。単純接触の加減を間違えた可能性はある。

(だが、戦闘中の負傷は、戦闘終了後に全て治療される)

 ならば問題は、今の昴の“購買意欲”があるかどうか。その一点だ。井戸浪は、慎重に昴の様子を見定める。
 昴は、「ああ、あとひとつ聞きたいのですが」と前置きをして、口を開いた。

「その水なんですけど、大事な人を忘れない効果などと言うのは、ありますか」

 予想外の質問に、井戸浪が一瞬硬直した。
 昴は、畳みかけるかのように、言葉を繋げる。

「由美さんのことを、忘れないことはできますか」

「健康にいい。大量の水を飲むと、ボケ防止になると言う本を出している識者もいる」

 井戸浪は、昴の言葉を流しつつ、契約書を書くための簡易机を用意する。筆記用具の準備も忘れない。
 だが、昴は答えにくいと井から逃げようとする井戸浪に、更に食い下がる。

「防止ではなく、現在進行しているときはどうですか」

「それは……」

 井戸浪は、答えに窮した。この質問には、答えられない。効きます、と簡単に言ってしまうわけにはいかないのだ。

(認知症特効の効果をうたえば、それはもはや医療行為であり、法に抵触する)

 営業は、フェアでなければならない。
 法律を破った営業は、もはや営業ではない。それは、ただの詐欺だ。

「わかりました」

 昴が、悲しそうに首を振った。
 その表情に、井戸浪の営業マンとしての勘が警鐘を鳴らす。昴の購買意欲が、薄れつつある。このままでは、逃げられる。

「長生きすれば、医療技術の発展も見込めるぞ!」

 井戸浪は、そう口にしながら、遠間に立つ昴に向かって、高速のタックルを繰り出した。
 単純接触効果は、接触の回数や接触の範囲によって、その効果を増す。マウントを取って、連続で単純接触効果を放てば、再び購買意欲を持ちなおすことは可能なはずだ。
 棒立ちの昴。これならば、間違いなく引き倒せる。そう、井戸浪は確信していた。

 パチンと、指が鳴る音が響いた。

 瞬間、井戸浪の前にフォークリフトが出現した。操縦者が立ちながら運転する、リーチフォークリフトと言うタイプのものだ。井戸浪のタックルが到達するよりも早く、昴がリフトに乗り込む。
 ギャギャっとタイヤが土を噛む音。それと共に、井戸浪の体が弾き飛ばされた。
 スピンターンをしたフォークリフトのアームに、横殴られたのだ。
 リーチフォークリフトは、座るタイプのリフトに比べて最小回転半径が小さく、小回りが利く。
 木々に囲まれた山岳地帯では、もってこいの獲物だ。

「大丈夫。これ以上の“営業”はいりませんよ」

「お父さん、試飲はいかがですか!」

 井戸浪が跳ね起き、リュック内のペットボトルを、昴の口元に投げつける。昴は、困った顔でフォークリフトのレバーを高速で動かした。

「もったいないから、試飲は結構ですよ」

 昴は素早くアームを上下させ、次々に撃ち落とした。
 だが、それは目くらましだ。
 井戸浪は、リフトの真横に回る。リーチフォークリフトには、運転席ドアがない。

(がら空きの横っ腹から乗り込み、直接“営業努力”をぶち込む!)

「そう、遠慮せずに!」

 ペットボトルを握りつぶす勢いで、渾身の崩拳を放った。

「これ以上の営業は、老体には少々厳しいものがありましてね」

 昴が、フォークリフトのアームを限界まで下げ、高速で前進した。
 下がったアームは、坂になった地面にそのまま突き刺さる。そのままさらに前進することで、リフトの車体がアームを視点に浮きあがった。
 井戸浪の拳が、フォークリフトのタイヤに跳ね返された。

(この動きは)

 井戸浪は、思い出した。少年期に乗ったタクシーの、重力を失ったかのような動きを。

「失礼。ちょっと、距離を離しますね」

 昴は、そのままアームを上昇させた。アームは地面に刺さっているので、車体は下に沈み込む。
 井戸浪は、フォークリフトにドロップキックを食らうような形で、勢いよく吹き飛ばされた。地面をしばらく転がった後、跳ね起きる。ほとんどダメージはないが、自慢のスーツが土だらけだ。
 恐ろしく精密かつ大胆な運転技術。何より、瞬間の判断力。先ほどとは、まるで別人だ。接触すらできないのでは、心理学など役に立たない。

(これは、マスタードライバーのドライビングテクニックだ)

 昴のテクニックを再びこの目のできた、打ち震えるような喜び。それと共に、絶望感に襲われる。
 どういうことかわからないが、昴は技術を取り戻した。その上、営業殺法に乗らないことから、購買意欲は望めない。
 今切り結んだ感覚では、とても太刀打ちできるレベルではない。まともに戦えば、水の購入はおろか、グロリアス・オリュンピアの勝利も望めないだろう。

(いや、違う)

 もはや、勝敗はどうでもいい。
 幼いころ、道を示してくれた等々力昴に、自分の人生をかけて培って営業努力を認めてもらいたい。
 そのために、等々力昴に自慢の水を買ってもらう以上の目的など、もはや考えられはしない。

「……等々力昴」

 かくなる上は。
 井戸浪は、ポケットから簡易なスイッチを出し、フォークリフトに乗る昴を見つめた。

「お前は、絶対に水を買いたくなる」

 スイッチを押し込んだ。
 山頂から、轟音が響き渡る。井戸浪が仕掛けた、大量のペットボトルロケットが、一斉に噴出したのだ。
 次いで、地面が揺れる。数瞬後、先ほどよりもさらに大きな爆発音が響き渡り、山頂から白い煙が吹き出す。

 噴火が、起こった。

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 今回作られた山岳地帯のモデルは、西インド諸島に位置するプレー山。
 1902年に大噴火を起こし麓の湊村であるサンピエールを全滅させた活火山である。
 井戸浪は、試合開始と同時に火口に向かい、大量のペットボトルロケットを設置した。
 それを爆発させることで、火口を刺激し、噴火を誘発させたのだ。

「ここに、水がある」

 井戸浪は、フォークリフトに乗る昴に、リュックを差し出した。

「プレー山災害で最も被害を拡大させたのは、火砕流と言う現象だ。山頂から吹き出した温度数百度の熱雲は、時速100キロを超えて山を滑り降り、全てを焼き尽くす。
 そこで、この水だ。全部売ろう。1本、500万円だ。何も持っていない私よりも、水を浴びたあなたの方が、生き延びる時間は長くなる。すなわち、この戦いの勝者となる」

 もはや、これ以上の営業戦略はない。これで水を購入させられなければ、もう打つ手はない。井戸浪は、息を飲み、返事を待った。
 昴は、目を細めて微笑んだ。

「買いますよ」

 井戸浪の目が、大きく広がった。まさか、即決。それも、値下げ交渉すらせずに。
 気が付けば、フォークリフトは音もなく姿を消していた。

「お水、買わせていただきますよ。ただし、条件があります」

 昴がぱちんと指を鳴らした。
 出現したのは、黒ずんだカーキ色に車体を包み、銀色に光るカスタムバンパーが、悪路からその身を守る。前方にせり出たボンネットは、その溢れんばかりのパワーを主張するかのようだ。
 ジープラングラー。世代を超えて愛される、オフロード車の王道と言える車だ。

「ふもとまで、ドライブをしましょう。あなたの水は、そこで買いますよ」

 その意図を察し、井戸浪は首を横に振る。

「無理だ。いくらあなたでも、木が生い茂る山岳を、火砕流に追いつかれない速度で走るなど、できない」

「ふふ。“マスタードライバー”も、甘く見られたものですね。特にあなたは、私のテクニックを間近で体験して知っているはずでしょう。井戸浪濠くん」

 井戸浪が、思わず目を見開いた。この戦いで初めて見せた明確な井戸浪の動揺に、昴は思わず笑みをこぼした。
 昴のその顔に、曖昧さは露ほどもなかった。

「いつから、気づいていた」

「君が契約書を出したあたりですね。濠君の困った顔を見て、ああ、どこかで見たことがある顔だなと思ったら、スーッと頭がすっきりしてきたんです」

「……思い出したなら、言ってくれても良かったのでは」

「いや、君の営業殺法が素晴らしい切れ味だったので、つい見惚れてしまって。お話するタイミングを、逃してしまいました。
 ああ、そうだ。お水も、最初から買うつもりだったんですよ。濠君がこんなに頑張って営業してくれているのに、買わないはずがありません。記憶のことは残念でしたけど、それで買わないなんてことは、全くないです。誤解をさせたなら、すみませんでした」

 昴は、トコトコと井戸浪に近づき、ポンポンとその頭を撫でた。

「昔会った時は小さな子どもだったのに、立派になりましたね。濠君」

 井戸浪の目に、涙が溜まった。
 子どものころ、撫でられた時と同じ、大きな手。武骨ながら、柔らかな優しさに溢れた、マスタードライバーの手だ。

 思えば、この人に命を救われたときから、井戸浪の営業人生は始まったのだ。
 昴のように、武骨で優しく、人のために行動できる人間になりたいと思った。
 そのために、毎日、血の滲むような営業努力に勤しみ、営業スキルを上げた。青天井の取引で利益が1阿僧祇を超えた時は、実に誇らしかった。
 他人に妬まれ、蔑まれても。井戸浪の営業力を恐れた幹部に左遷させられても、営業をやめなかった。
 営業が好きだったのは当然だが、心の中ではどこか、等々力昴に認められたい思いもあったのだろう。

 すごいね、と。頑張ったねと、褒めてもらいたかった。
 あの大きな手に、もう一度頭を撫でてほしかったんだ。

 涙を零さぬよう、奥歯を噛みしめる井戸浪。その震える肩を、昴はポンポンと叩いた。

「さて、積もる話もありますが、今はここを離れましょう。乗って」

 今の井戸浪に、断るという選択肢などない。
 勧められるがままに、井戸浪はジープラングラーの助手席に乗る。
 昴がバックミラーを調整していると、ランドクルーザーの残骸が写り、顔をしかめた。

「ああ、あのランドクルーザーは、私がやったんですね。この私が物件事故を起こすとは……。歳は取りたくないものですね。後で、修理しないと」

 全壊したランドクルーザーが、音もなく消え失せる。

「いや、あれは……なんでもない」

 井戸浪は、あれは物件事故ではないと思ったが、無粋なことは言わなかった。
 今は、“マスタードライバー”の助手席に乗っているということを、素直に喜ぼうと思った。
 轟音が響く。背後から、迫りくる火砕流の熱波を感じる。

「さあて、楽しみますか。これ以上、保険料を上げるわけにもいきませんからね」

 昴の目に、求道者の光が宿った。アクセルを踏み込み、タイヤが金切り声を上げ、全速力で発進した。

「ヒィーハァー!」

 その後の運転は、筆舌に尽くしがたい。
 片輪走行。ジャンプ。ドリフト。あらゆる技術を使いこなし、100キロを超える速度で木々を抜けていく。なのに、全く不安はない。まるで、ゆりかごのように安心できる助手席だ。
 私と言うお客様の為に、最大限の努力をする昴の顔は、あの時と同じ。仕事人の顔をしていた。
 お客様への気遣いと、自分の仕事への絶対の自信が溢れる、不敵な笑顔。

(こんな顔を、私はしたいんだ)

 ロシアンマフィアに追われていた、タクシーの中を思い出す。
 あの時と、同じだ。
 追われる恐怖すら、忘れてしまう。ジェットコースターのような胸の高鳴りと、安心感が混在する、素敵な時間。
 それを再び感じられた喜びが、井戸浪の胸を満たした。



 麓についたとき、昴は子どものように笑って、ジープラングラーの車体をすべすべと撫でた。

「ね。物件事故、起こさなかったでしょ」

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 昴が、井戸浪から手渡された水を、むせないよう慎重に口に含む。
 さわやかな喉ごしに、思わず笑みがこぼれた。

「いやあ、これはいい。美味しいですよ。濠くん」

「ありがとうございます。わが社自慢の、美味しい水です」

 井戸浪が、深々と頭を下げる。先ほどまでの少年のような表情は消え、今は立派に営業マンの顔だ。
 昴は、手にしたペットボトルの水を、そのまま自分の左耳にかける。激痛が走るが、いつまでも血をだらだらと流しておくのも、不躾だ。それにしても、いつの間に耳が千切れたのだろうか。
 懐から褥瘡になったときのためのガーゼと医療用テープを取り出し、耳の傷を塞ぐ。これで、動く分には支障はないだろう。

「さて、それでは仕切り直しと行きますか」

 昴が背筋を伸ばし、指を鳴らそうとする。
 だが、井戸浪は手を広げ、それを制止した。

「その前に、ひとつ聞いてもいいか。営業マンではなく、あなたに憧れた、一人の井戸浪濠として」

「どうしました、そんな改まって。私に答えられることならば、もちろん」

「あなたは、由美さんを生き返らせるために戦っているのか」

 今度は、昴が驚きの表情を見せる。ポリポリと頬を掻き、バツが悪そうな顔をした。

「どこまでご存じなのでしょうか」

「大体のことは、噂で聞いた。だが、あくまで噂でしかない。だから、はっきりと貴方に聞いてみたかった。
 私には、あなたが由美さんを生き返らせるために戦っているとは思えない。私は由美さんに一度しか会ったことはないが、自身の延命を願う人とは思えなかった。あなたが、由美さんの願いもなく、老衰した妻を生き返らせるというのは、どうも違和感がある。何より、あなたが由美さんにもう一度死の運命を与えるとは、思えない。
 だが、あなたが私利私欲のために願いを叶えるというのも、考えにくい。これは、完全に勘だが、あなたは自分のために戦える人ではないように思う。
 等々力昴。あなたは一体、なんのために戦っているのだ」

 昴は、再度驚いた。二回しか会っていないのに、そこまで看破するとは、大した観察力だ。
 やはり、彼は偉大な営業マンに成長したのだろう。隠しごとは、できないようだ。
 昴は観念したように、息を吐いた。

「あの人は、生き返らせてほしいなんて言いませんよ。“やっとこの世からオサラバできるわ”なんて、逝く間際まで笑顔だった人ですから」

 由美は、老衰だった。
 昴よりも12歳ほど年上の由美が、昴よりも先に逝くことは、お互いに覚悟していたことでもあった。
 当然悲しさもあったが、それ以上に、最愛の人の最期を、自宅の布団で看取れる喜びが上回った。それは由美も同じだったようで、お互いに笑って、穏やかに話しながら、最期の瞬間を待っていた。
 “先に逝って悪いわネ”と、由美は言った。
 “しばらく待たせますが、すみませんね”と、昴は言った。
 何も憂うことのない、和やかな時間だった。

「では、なんのために」

「最期にね、言ったんですよ。“アタシのこと、忘れないでね”って」

 その言葉は、存在を希釈するという魔人能力を持つ由美の、口癖でもあった。
 ともすれば、この世にいたという痕跡すら失ってしまう能力を持つ由美にとって、それは願いだったのだろう。
 昴が黙って頷くのを見て、由美は最期まで笑顔で息を引き取った。
 その満足げな顔は、今でも昴の心に深く刻まれている。

「自分が自分でなくなることは、怖くありません。ただ、由美さんの最期の望みを叶えられないことが、一番苦しいんです。せめて、私の命が尽きるまで。由美さんのことは、忘れないでいたいんですよ。
 だから私は、この戦いを勝ち抜き、記憶を無くさないよう治療を受けたいのです。自分の都合しか考えてないと言われると、何も言い返せませんけどね」

 昴は、照れくさそうに笑った。
 井戸浪が、「ありがとうございます」と低い声で言い、静かに頭を下げた。

「決まりだ。私は、降参する」

「……え?」

「山の中腹で切り結んだとき、分かった。常態のあなた相手では、私に勝ち目はない。
 私からすれば、あなたに水を飲んでもらっただけで、十分(に)目的は達している。何しろ、あの“マスタードライバー”が推薦する水だからな。都市伝説級の知名度を持つあなたの宣伝効果は、計り知れない。
 だが、そのあなたが今後情けない姿を見せれば、効果は落ちる。ぜひ優勝してほしい」

 その言葉には、限りない優しさがあった。
 昴は、井戸浪の逞しい立ち姿に、誇らしさをすら感じた。
 私を追いかけてくれた少年が、こんな立派な青年に成長し、送り出してくれる。
 私は、なんと幸せ者だろう。

「……わかりました。最善を尽くしますよ」

「何より、こうして元気な姿を見られただけで、十分だ。今日は久しぶりに会えて、本当にうれしかった」

 井戸浪が、顔を隠すように、ふいとそっぽを向いた。
 こういうところは、まだまだ若い。昴は、孫を見るかのような微笑ましい気持ちになった。
 その時、昴はふと気づき、ポンと手を叩いた。

「ああ、そうだ。水のお代でしたね。いくらでしたっけ」

「500万円になります」

 ノータイムで返す井戸浪。その目は再び、獲物を狙う猛禽類の如き鋭さを取り戻す。
 その真剣な眼差しに、昴は思わず吹き出した。

「流石ですね。そんなジョークも、久しぶりに聞きましたよ。はい、500万円」

 昴は、ポケットから小銭入れを取り出し、500円玉を井戸浪の手に転がした。
 100円代の商品の値段に、あえて“万”をつけてみる。こんな、昔ながらの八百屋がするような、古き良き営業スキルまでも身に着けているとは。

「私のような老体を相手にするときの作法も、良くできていますね。流石ですよ、濠君」

 井戸浪が、硬直したまま動かない。
 昴はニコニコと笑顔でいたが、だんだんオロオロと所在なさげになっていく。

「あ、あれ? 違いましたか? 500万円です……よね」

 井戸浪の凝り固まった頬が、自然と笑顔になるのを、止めることはできなかった。

「……いや、確かに500万円だ。私にとっては、間違いなくその価値がある」

 憧れの人から受け取った500円玉を、井戸浪濠は強く強く握りしめた。

「まいどあり、です」

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 グロリアス・オリュンピア
 第一回戦 山岳地帯STAGE

 勝者:等々力昴
最終更新:2018年03月11日 00:33