SSその2


「残念ね」

 佐渡ヶ谷フランソワは、鉄仮面のような無表情で呟いた。
 その内心を推し量ることは、娘である真望にさえ難しい。女王たる者の表情とは、すべからくプレイに寄与すべしという佐渡ヶ谷の家訓に忠実な相貌だった。
 だから真望は、胸に抱えた一抹の不安や寂しさといった弱さを表に出すことはせず、その言葉が本心から出たものだと信じることにした。

 本戦出場が決定した夜のことである。
 その報を耳にしたフランソワが真っ先に尋ねたのは、グロリアス・オリュンピア決勝の日取りであった。
 本戦出場などただの前提、それどころか強者ひしめくこの大会で、娘が決勝に進むことを疑いもしていない──そのような確信を含んだ質問だった。

「ええ、お母さまに試合を観覧していただけないのはわたしも残念です。ですが事情が事情ですので、どうかお気になさらないでください」
「……そうね、ようやく掴んだチャンスだもの。今回の理事選挙は、なんとしても勝たなければ」

 フランソワの言う理事選挙とは、現在彼女が籍を置く日本SM協会のものではない。
 その上位組織とも言えるSM界の総本山、国際SM協会のトップを決める選挙である。

 全世界に大規模な支部を構える協会の権威はSM界にとって絶対であり、その頂点に君臨したともなれば、地球上のSMを支配するも同義。
 それこそはフランソワの──ひいては日本SM協会の悲願であった。
 幾多の厳しい基準をクリアし、今回初めて選挙に出馬する資格を得たフランソワにとっては、万難を排して勝利を掴まねばならない。

フゴゴファゴフゴゴフォフォウフゴウファフゴフゴゴフンゴ(でも、逆に言えば決勝以外は観戦できるからね)

 場の雰囲気を和ませるように、今日は食卓になっている獅子雄が朗らかに言った。
 たくましい広背筋の上には熱いスープの入った器も並んでいるが、獅子雄はそれを悦びながらも、スープの表面にさざ波一つ立てることもない。

フオンフォフゴフォオンフゴフゴ。フゴゴンフゴファンファッゴフゴ(もちろん僕も応援してるよ。厳しい戦いだろうけど、がんばっておくれ)
「はい、ありがとうございます。佐渡ヶ谷の名を汚さぬよう、精一杯努めますわ」

 真望もまた、できる限りの明るさでそのように返答した。
 彼女は父母を愛している。佐渡ヶ谷という血統に誇りを持っている。それは紛れもない事実だ。

 ただ、日々夢想する圧倒的な快楽を前にすれば、彼女を社会的に構成する何もかもを放り出して厭わぬほどに、佐渡ヶ谷真望はマゾなのだった。

「(お父さま、お母さま、申し訳ありません。真望はどうしようもない子です)」

 何食わぬ顔で談笑しながら、真望は心中で謝罪を繰り返す。
 その罪悪感さえ、彼女にとっては甘い恥辱(かいかん)のスパイスであった。

「(もしも大会で理想の殿方に出会えたなら。その時には……)」

 真望の新雪めいた白い肌に、ほんのりと朱がさした。






七月十(なながつじゅう)

 グロリアス・オリュンピア一回戦の前日。
 運営の用意したホテルの一室で、バスローブ姿の真望は、付き人としてあてがわれたサンプル花子の言葉を復唱した。聞き覚えのある名だ。

「確かフェム王女を人質に取った愚か者を退治したとかって娘ね。どんな魔人なの?」
「はひっ♡玉龍拳という、あっ♡暗殺拳のっ、使い手で……ハァッ、じゅ、15歳のぉ♡女の子、でぇ……あっ♡あつっ♡」

 ベッドに座る真望の正面で、四つん這いになっているのがお付きのサンプル花子である。顔が好みだったので、真望は出会って5秒で彼女を下僕(ブタ)にした。
 外見上は幼く見えるサンプル花子に目隠しをさせ、そのシリコンのように滑らかな背肌を溶けたロウソクが伝うさまは例えようもなく背徳的である。

 なお真望は経験を積んだSMの達人であり、更に融点の低い和ロウソクを使用して怪我のないように努めている。
 素人が安易に真似をすると火傷等のリスクがあるため、ロウソクプレイに不慣れな方は必ずSM用のロウソクをお買い求め頂きたい。マゾミンとの約束だ。

「そういうことを聞いてるんじゃないわよ」
「あひぃいん!」

 プレイ用のバラ鞭を振り、肌に張り付いた蝋を一気に叩き落す。単に鞭打たれるだけでは得られない刺激がサンプル花子を襲った。

「プロフィールなんて大会のホームページを見れば分かるのよ。わたしが知りたいのは、その七月って娘がどんな魔人能力を持ってるのかってこと」
「ハァッ、ハッ……こ、公開されていないんっ♡、魔人能力については、わたしも存じ上げなんいっ♡です……で、ですが、あんっ♡推測する材料を提供する、んあっ♡ことは、規則に抵触しなあっ♡ああっ♡」
「要点をまとめなさい」
「はひ……先日、池袋北口のスラム街っ♡でぇ、七月十の姿が目撃されぇ♡ト、トラックを持ち上げているところが、動画投降サイトにひっ♡」
「なるほど」

 相槌を打った時にはすでに検索を終えている。
 タブレット上に映し出されたのは、巨大な運送用トラックを片手で持ち上げながら横断歩道を渡る少女の動画だ。通行人の誰かが撮ったのだろう。
 池袋北口といえば騒動の絶えない混沌とした地区だが、その中にあってもこの光景は異質である。

「バカバカしいぐらいの腕力ね」
「強盗犯の1人を倒したんふっ♡際の状況と、本人の発言を合わせて考えるとぉ♡、『殴った相手を蘇生する』っ♡もしくは『殴った相手の願いを叶える』能力ではないかと推測されあっ♡」
「……」

 真望は己の顎先に手を添え、思案した。
 サンプル花子の分析は的を射ている。この大立ち回り自体が誤った推理を引き起こすためのブラフである可能性はゼロではないが、真望の直感──『嗜虐者の瞳』はそれを否定していた。
 自信たっぷりのまっすぐな目付き、洗練された力強い身のこなし。言動から見ても直情傾向の娘である。

「(殴った相手の願いを叶える……もしそれが事実だとしたら)」
「はんっ♡あついぃ♡ご主人様っ♡もっとぉ♡もっとお願いします♡♡」

 思考を巡らせつつも、適切な位置、タイミングで蝋を垂らす手は止めない。その程度の動作は腕が覚えている。
 悶える花子をよそに、真望の目が真剣さを帯びていく。

「(……一回戦にして、わたしの願いが、叶えられる)」

 あるいはそれは、最大にして最後のチャンスであるかもしれなかった。
 このトーナメントを決勝まで勝ち抜いたとして、理想の相手に巡り合わない可能性はあるし、途中で負けることも考えられる。
 尊大無比の女王とて──否、だからこそ現実を把握しなければならない。
 佐渡ヶ谷真望は、決して最強無敵の存在ではない。

 サンプル花子の嬌声をBGMに、若き女王は空が白むまで考え続けた。





――――――――――――――――――――――――――――――






 地上最強の生物とはなにか──という問いに対する答えは人それぞれだろう。
 ライオンを挙げるもの。トラを推すもの。ホッキョクグマと言うもの。武器を持った人間と答えるもの。あるいは、魔人と断言するもの。
 条件によって解答が別れる問いだ。では、突出した個を除いた、種としての最強は?
 武器や兵器を用いない個が、地上において一対一で戦った時、いかなる種が最強であるのか?

 このような条件下なら、答えは決まっている。
 アフリカゾウ。平均で肩高4メートル、体重は5~6トンに達し、時速50キロのスピードで走るパワーを備えた、陸棲最大の哺乳類。
 地上において、アフリカゾウ以上に大きく重い生き物は存在しない。故に最強。
 子どもでも分かる単純な理屈。

 では、もしも。
 人間の骨格に、アフリカゾウの最大種に匹敵する質量を搭載したとするなら。
 その人間が、超重量の肉体を軽々と操るだけの筋力を保持していたなら。
 その人間が、代々受け継がれ進化してきた暗殺拳の継承者だとしたら。

 そのあり得ざる存在は、最強であるのか。
 果たして真望は、否が応にもその難題に答える必要に迫られていた。





 七月十は、さながら暴風の化身だった

 カンカン帽の麦色が残像となって軌跡を描き、鮮やかな赤色の民族衣装から覗くスカートの裾がひるがえるたびに、化石や古代生物の標本といった展示物の数々がバラバラに砕け散った。
 少女の打撃が直撃したわけではない。その風圧だけで、ガラスケースや骨格標本などを破壊するには充分だった。

 出凡(でぼん)海洋博物館。
 3階建の、主に古代の海洋生物が展示されている博物館。そのような設定である。
 試合開始から1分足らずで、1階は瓦礫の山積する、見るも無残なありさまと化した。

 短く、蒸気のような息を吐き出す少女。それだけで、周囲の残骸が突風にさらわれたかのごとく巻き上がった。怪獣じみた肺活量。
 やや風変わりな服装も、その身体能力の異常と比すれば何ほどのものでもない。

 七月十は試合開始から今に至るまで……攻撃中もだ……鳴らしていたスカボローフェアの口笛を止め、人差し指でカンカン帽のつばを持ち上げて言った。

「さあ、女王様。あんたの願いを言え!」
「誰に命令してるつもり?」

 真望は塵や埃にまみれ、露出した肌の数カ所に切傷を作っていたが、その酷薄な眼光は平時と何も変わらない。
 パシン、と鞭が空を打つ。携帯用に比べてより頑丈かつリーチの長い、戦闘用の鞭だ。

「命令するのはわたし。ブタのように地を這うのがあんた。光栄に思いなさい、このわたしが直々に調教してあげる」
「ハハッ、上等だ!その高すぎる鼻っ柱、私が叩き折ってやる!!」

 爆発音。展示物の残骸を盛大に蹴り上げ、十が前方へと踏みこむ。

「(直撃を受ければその時点で死。あのバカげた風圧を受けて隙を晒しても死。やり辛いわね)」

 真望にはその表情ほどの余裕はない。事実、戦闘力においては当初想定していたよりもはるかに大きな差があった。
 戦車の主砲をも受け止める特殊カーボン製の衣服だが、その中身が無事である保証はない。
 防弾チョッキを着ていても着弾の衝撃によってしばしば骨折が起こるように、その衝撃までは殺せない。
 そもそも、あの常識外の攻撃が戦車の主砲程度で済むものかどうか。

 加えてもう一つの誤算。
 ファーストコンタクトの際、CTCの技術によって十の懐にもぐりこむまでは良かった。
 すかさず関節技を仕掛けた真望が、それをまったく意に介さぬ十の反撃から逃れ得たのは、ひとえにのただの幸運に過ぎない。

 十の体に触れた際の巨岩のような感触。強く踏みこんだ様子もないのに、移動するたびにみしみしと軋む床。そして攻撃のたびに巻き起こる、あり得ないほどの風圧。
 真望が思考と直感によって導き出した答えは一つ。七月十は、怪力の上にめちゃくちゃ重い。
 迂闊であった。たしかに大会ホームページ上のプロフィールに体重の項目はなかったが、七月十とて年頃の娘だ。
 真望自身、わざわざ体重を公開などしていない。故に、特段不自然に思うこともなかった。

「(勝機はある。わたしなら実行できる。佐渡ヶ谷の娘なら)」

 思考を回す。幸運は二度も続かない。CTCを事実上封じられた今、勝つためにはひたすらに考える他ない。
 埃をかぶったことで発動した『悪徳の栄え(プロスペリテ・デュ・ヴィス)』の効果は、ほんのささやかなものである。
 現状、真望は機動力において十をわずかに上回っているが、それだけだ。攻撃力や防御力、持久力の面では比較にならないだろう。このまま状況が変わらなければ早晩つかまる。

 鞭による攻撃も、麻痺毒を塗った隠し針も効果を見せない。
 針などそもそも刺さらないし、あの体重では毒物が有効に働くかどうか。
 靴底に仕込んだ(かんな)は、蹴りつけた際に一発で壊れてしまった。
 素肌の露出している脛を狙ったというのに、どういう鍛え方をしているのか。

 繰り出された拳の風圧が頬をかすめる。あの攻撃の延長線上に身を置いただけでも、おそらく戦闘不能を免れない。
 蘇生が担保されているとはいえ、死の際にあって真望は冷静さを失っていなかった。

「(女王たるもの、いかなる時も冷静でありなさい。取り乱しては威厳に関わります。プレイルームのドアを開けたら、全裸におむつを被った中年が正座しているかもしれない……常にそのような心構えを持ちなさい)」

 母フランソワの実体験に基づいた教えが脳裏をよぎる。女王はいかなる時も女王らしく、威厳を保つ。

 攻撃の間断を塗って鞭が飛んだ。
 十は身を捻ってかわす。……なぜ?攻撃が効かないのに。
 思えば十は、試合開始から真望の攻撃を避けていた。魔人同士の戦いである以上、不自然なことではない。だが。

「(本当にそれだけ?)」

 避ける動作は、それだけ隙を生む行為でもある。効かない攻撃をかわすより、無視して最短距離を行けば捕まえられるかもしれない。
 真望の攻撃はすでに何度か十を捉えている。何事もないと理解しているはずなのに、それをしない理由がある。
 嗜虐者の瞳が、ぎらりと光った。

 十の苛烈な攻撃にともなう轟音の合間に、ぱさりとかすかな音がした。

「……?」

 違和感を覚えた十の攻撃が止まる。
 こちらに半身を向けて立つ真望の手には、たった今まで彼女が着ていた民族衣装がある。

「んな……!」
「いい色ね」

 感触を確かめるように、白魚のような指先が衣装の縫い目をなぞる。

 肌に触れぬまま鞭によって脱衣を成す技術は、特殊でありこそすれ異常の範疇ではない。
 一般人の中にも、シャツのボタンやブラのホックを外したりといった技を実現するものは存在する。
 いわんやSMの大家、佐渡ヶ谷の娘ともなれば、慮外の暴力に晒されながらその衣服を脱衣せしめることすらも。

「返せっ!!」

 怒りを露わに、十が猛然と迫る。
 推測が的中した。少なくともこの衣装は、十にとって大事なものだ。
 家族の形見、想い人の贈り物、あるいは儀礼的に重要ななにか。

 真望は観察する。踏み込みが雑だ。脱衣の動揺と絶対的戦力差が産んだ隙。
 そして女王の目は、その速度に順応しつつあった。

 強烈な踏み込みによって、床材がクモの巣状にひび割れる。暴風をまとい繰り出される致死の拳打。風圧が体勢に影響を及ぼさない、ぎりぎりの間合いを探る。
 逆巻く風の中、ほとんど地面と並行になりながら繰り出された鞭は、寸分違わず目標を捉えた。
 2人の少女が交錯し、立ち位置が逆転する。
 たぐり寄せた鞭の先から、真望は目的のものをつまみ取った。

「Bかしら。平坦だと思ったけど、着痩せするタイプ?」
「えっ、あっ、な……!」

 十が胸元をまさぐる。今朝たしかに身に付けたはずの、スポーツブラの感触がない。

「地味な下着ね。年頃なんだから、もうちょっとお洒落に気を使いなさい」
「そっ、それっ!私のぱん……っ!」

 十にしてみれば、狐にでも化かされたような気分だった。
 誰がその狼狽を責められよう。交錯の刹那、文字通り一瞬の内にブラとスパッツ、そしてパンツまでも奪われていたと気づいたのだ。

 恐るべきは佐渡ヶ谷の鞭術。音速を超える先端を、あたかも生きているかのように操る繊細な技巧。
 圧倒的暴威を前に下着を奪い去るのは、一輪車に乗って綱渡りをしながら知恵の輪を解くにも等しい難行である。

「こ、の……ハレンチ女!恥を知れ!」
「あんた、ちょっと鍛えすぎじゃない?防御力が高いのは結構だけど、皮膚感覚が鈍すぎるわ。そんなんじゃ良い人とのセックスにも苦労するわよ」
「セッ……よっ、余計なお世話だ!」

 顔面をゆでだこのようにした十が怒鳴った時には、すでに真望は行動を終えている。
 上空へ打ち放った鞭は、天井からワイヤーで吊り下げられたモササウルスの骨格標本を捉え、その身体を宙空へと運ぶ。

「忠告しておくけど」

 軽業師のような宙返りを見せた真望は、標本に腰を下ろし、足を組みながら言葉を繋ぐ。
 こちらを睨みつける少女の足に、楔を打ち込む呪言を。

「今飛び跳ねたりしたら、見えるわよ。中身」

 その一言で、今まさに飛び上がろうとしていた十の動きが止まった。
 グロリアス・オリュンピアにおける戦場が、あらゆる角度に対応する視点を確保していることは七月十も承知している。
 必然性があるならば、スカートの中が丸見えになる視点だって採用される。だからこそスパッツを履いてきたのだ。

 中性的で、ともすれば男らしささえ垣間見える七月十とて15歳の乙女である。
 かつての自分を救ってくれた、居場所も知らぬ男の子を探すために、魔人ひしめく大会に身を投じるぐらいには乙女なのである。

「あんたが衆人環境で露出して悦ぶド変態だっていうなら別に止めないけど。わたしはその辺理解のある女王だから」
「誰がド変態だ!アンタにだけは言われたくないよ!」
「あらそう」

 飄々とした相槌と共に、真望は鞭を手すりに巻き付け、2階へと飛び移っている。

「じゃあ、精々そこでのんびりしておきなさい。(これ)は返さないけどね」
「~~~っ、クソッ!」

 スカートを両手で押さえながら、十は最寄りの階段を駆け上がる。
 10トン超の質量を、空中を踏んで加速させるほどの脚力は、今や常人のそれとさしたる違いもない。
 いつも通りの激しい動きは、すなわち貞操の危機(ポロリ)を意味する。

「(……まさか、佐渡ヶ谷は最初からこれを狙って……?)」

 十の胸の内に疑念が膨らんでいく。
 果たして今、あの性悪な女王を追いかけているのは正しい行為なのだろうか。

 真望の姿はすぐに見つかった。外周を沿う形で設えられた廊下を進んだ先、正面玄関を見下ろすテラスから、十の衣服を戦闘領域外へ放り投げる女王が見えた。

 少女の中で、何かが切れる音がした。

 ずどんという衝突音とともに、怒りに燃える処女(おとめ)が、しっかりとスカートを押さえながら降ってきた。石畳のいくつかが衝撃によって宙を舞う。
 氷の女王は、憤怒の視線を醒めた目で見つめ返した。

「下着のことはもういい。でも、あの民族衣装はおばあちゃんの手縫いだ。ゴミみたいに投げ捨てていいものじゃない」
「あらそう。じゃあ取りに行けば?別に止めたりしないわ」
「佐渡ヶ谷真望!!」

 鬼神のごとく力強い足取りが大地を震わせる。それまでとは比較にならぬ、肌を刺すようなプレッシャー。
 その渦中にあってなお、真望の顔貌は氷像めいて変わることなく。

「お前の願いを言え!!」

 願い。
 ほんの一瞬間、真望は己の願いを思い返した。
 もし本当に、この拳に打たれることで願いが叶うのならば。

「……わたしは寛大な女王です。故に、もう一度だけ答えましょう」

 眼前に突きつけられた指先に向け、真望は傲然と言い放った。

「命令するのはわたし。ブタのように地を這うのがあんたよ」

 それが彼女の結論だった。願いとは、夢とは誰かに叶えてもらうものではなく、己の手でつかみ取るもの。
 女王のプライドが、安易な選択を拒んだ。

「──玉龍拳奥義!!」

 大気を歪ませるほどの闘志をまとい、十がその拳を振りかぶる。震脚によって石畳が陥没し、博物館全体がびりびりと振動する。
 その一撃は山を砕き天を穿つと謳われる、玉龍拳が奥義。必殺の打撃が繰り出されんとする刹那──

「ところで乳首浮いてるわよ」
「────」

 冷や水を浴びせるような一言が、必殺技の必殺性を奪った。
 本来の威力、精巧さを欠いた一撃は、それでもなお恐るべき威力を保っていたが。

「きゃあああああ!!」

 もうもうと舞い上がる砂塵の中、少女の甲高い悲鳴が上がった。

 戦闘領域の境界を背にしていた真望は、あたかもホール内での攻防をリフレインするかのように、正面玄関の方へと移動している。
 乱気流のような剛風の中、風と風とが相殺されてわずかに生まれた空白地帯をくぐり抜けたのだ。
 十の放った奥義が完全であればこのような隙さえなく、成すすべもなく領域外まで吹き飛ばされていただろう。

 そして真望がその手に持つものは、紺色のプリーツスカートである。

「な、な、な……何してるんだよ!?何がしたいんだよお前!!」
「まだ分かってなかったの?」

 真望は憐れむように小首を傾げて問い返した。砂塵が晴れ、両者の姿が露わになっていく。

「羞恥プレイよ」
「~~~ッッ」

その場にしゃがみこんだ十は言葉を失った。
カンカン帽の少女は、両手で前後からセーラー服の裾を引っ張って大事な部分をカバーし、かろうじて乙女の尊厳を保っていた。

「大変ね。今、間違いなくこの試合が視聴者数ナンバーワンになってるわよ。全世界があんたの下半身に注目してるわ」

 スカートを指先でもてあそびながら、真望は他人事のように言った。
 あまりの恥ずかしさにぷるぷると頬を震わせながらも、十は動くことができない。
 『全世界』という言葉が脳内で反響する。全世界。もしかしたら、あの子もこの試合を見ているかもしれない。元よりそれが七月十の目的であるが、この時ばかりはシステムを恨んだ。

 大事な所を押さえながら攻撃し続ければ、あるいは勝機があるかもしれない。
 が、いつ貞操の危機(ポロリ)が起きるやもしれぬ恐れを抱えながら蹴りを放つだけの度胸は、15歳の少女にはまだなかった。
 それに、もし残ったセーラー服まで奪われたら?
 十は生まれたままの姿で戦わなくてはならない。手は二本しかないのだ。どうしたって恥部をカバーしきれない。

「自分の立場を理解できたかしら」
「……うう、ううぅうぅう!」

 あまりの屈辱、あまりの恥辱である。
 感情の許容量をはるかに超える羞恥と怒りが少女を突き動かす。
 絶対に見えないように極限まで裾を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
 一撃。たった一撃を入れることができれば。
 だが、その足はいまや産まれたての子鹿めいて頼りなく震えていた。

「がんばるわね。素直に感心するわ」
「ふぅっ、ふーっ……!お前、なんかに……!お前にだけは、絶対……!」
「皮肉で言ってるんじゃないわ。今ごろはSNSのトレンドワードに半裸少女とか下半身丸出しとかランクインしてるでしょうし、ネットにこの試合の動画が放流されたら、半永久的にあんたのすっぽんぽんが電子の海を漂い続けるのよ。よほどの勇気がないと無理なことだわ」
「こ、の……卑怯者ぉ……!」

 十は再び座りこんでしまった。大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれはじめる。あまりにも容赦のない言葉の鞭。
 なお追い打ちをかけるように、女王の唇に嗜虐的な笑みが浮かぶ。

「超ウケる。戦いの最中に服を脱がされるような隙をさらす方が悪いんじゃない」
「うる゛さい゛っ!このバカッ!アホ!変態!悪魔!ドS!」
「最後のは否定しないけどね」

 スカートをその場に落とし、真望は鞭を構える。
 涙目の少女を冷たく見下ろす様は、あまりに堂に入っていた。

「あんたの願いを言いなさい」
「……え?」

 一瞬毒づくのを忘れて聞き返すほど、それは予想外な問いかけだった。
 反応を一顧だにすることもなく、女王は言葉を続ける。

「あんたが今ここで投了するなら、わたしがこの大会を優勝してあんたの願いを叶えるわ。佐渡ヶ谷の名にかけて誓いましょう」
「……いやだって言ったら?」
「言わなきゃ分からないかしら?まあいいでしょう」

 破砕した石畳を、ぴしゃりと鞭が打つ。
 真望は満面の笑顔で宣言した。

「全世界生中継強制公開ストリップショーよ」
「…………」

 十は迷った。
 自分で参ったと言うのは死ぬほど嫌だし、全世界生中継強制公開ストリップショーも同じくらい嫌だ。
 そして、何よりも嫌なのは。

「……お前に叶えてもらう願いごとなんてない。死んでもごめんだ」

 もしこの女の言う通り、願いを叶えてもらったとして。
 あの子と再会して、話をしたりするたびに、きっと今目の前にあるドS魔人の笑顔を思い出すだろう。
 それだけは断じて許容できなかった。
 いやもうマジで、本当に想像するだけで吐き気がこみ上げてくるぐらいイヤだった。

「あらそう」

 真望はわざとらしく肩をすくめてみせた。その動作がなんだか嬉しそうに見えたのは、涙でかすんだ視界のせいだろうか。

「……でも」

その一言を口にするために、十は深く息を吸い、吐き出した。両手がふさがっているので涙もぬぐえない。

 天元山のおばあちゃんの顔が脳裏に浮かぶ。応援してくれた近所の人たち。先の見えない暗闇から救ってくれたあの子。

 はたから見れば、どうしようもなくみじめでみっともないのだろう。
 後から思い返して、それこそ死にたくなるかもしれない。
 でも、ここまでされて自分で引き際を決められないのは、もっとカッコ悪い。

『戦いの最中に服を脱がされるような隙をさらす方が悪いんじゃない』

 本当に認めたくないが、認めざるを得なかった。戦いとは基本、やられた方が悪い。
 このような辱めを受けて身動きが取れなくなっている──そんな状況に置かれた時点で、拳法家としては、すでに。

「……この勝負は私の負けだよ。降参する」
「……賢明ね」

 言葉とともに吐き出したため息には、安堵の色が滲んでいた。
 落ちたスカートを拾い上げ、十の背後に回ると、その下半身を覆うようにかぶせる。

「本心で言うけど、あんたは強かったわ。でも」
「……?」

 振り向いた先にあった女王の表情は、少女の目になぜだか寂しげに映った。
 その後に続く一言を、十は理解できない。真望以外の誰も理解できない。

 今はまだ、誰も。

「女王には向いてないわね」





――――――――――――――――――――――――――――――





「……はぁ〜〜〜……」

 熱いシャワーを浴びながら、壁に体重を預ける。知らず、深いため息が漏れた。
 観客の視点では、試合の流れを真望が支配し、圧勝したように見えただろう。事実そのように振る舞った。

 だが実際は、それ以外の勝ち筋を見出せなかったに過ぎない。
 細くもろい勝機の糸を、全神経を集中してたぐり寄せた、薄氷の勝利。
 それが真実だ。

 あの場で七月十が降参しなければ、もはや真望に勝つ手立てはほぼ残されていなかった。
 互いに決定打を欠いたまま、時間切れで両者敗北となるか、開き直った十に打ち倒されるか。
 いずれにせよ一回戦を突破できなかった可能性は極めて高い。
 徹底して十の冷静さを奪い、精神的に責め続ける必要があった。


 それでも、もし、七月十が全裸になることもいとわず戦い続ける性格だったら。
 奥義を放つ瞬間に動揺を誘えなかったら。
 鞭の操作を数ミリ誤っていたら。
 初手で反撃を喰らっていたら。

「……っぶなかったぁー……」

 ずるずるとへたりこむ。今さらになって震えが来ていた。
 自分の願いは叶えられず、佐渡ヶ谷の名を地に落とす……その最悪は、紙一重で回避した。
 七月十に最悪を押し付けることで、それを成し得た。

 長い足を折りたたみ、両手でかき抱く。そうすることで、重い事実に耐えるように。

「ああ、でも」

 極限の羞恥に染まった、少女の泣き顔を思い出す。
 もしも立場が逆だったら、それは一体どれほどの。

「……ものすごく気持ち良いんだろうなぁ……」





 佐渡ヶ谷真望、二回戦進出。
最終更新:2018年03月11日 00:37