SSその1


山道を歩いていた。追われる身であるため、明かりは使っていない。
夜目は、効く方である。月明りさえ出ていれば、サーバルは問題なく歩くことが出来た。
ある時から、警察の動きが変わったことを、サーバルは感じていた。
包囲し、追い詰め、捕縛するという動きではなくなった。どちらかと言えば罠へと誘導する、狩人のそれに近い。
その変化に、サーバルは微かな政治のにおいを感じていた。恐らく、フクハラが何かを企てているのだろう。
その企てに、深くかかわるつもりもないが、無理に流れに逆らおうとも思わなかった。
遠くに明かりが見えた。同時に鈴の音。
人影の数、微かに聞こえてくる会話、足音からして、おそらく追手ではない。だが、悪霊が彼らを見て騒ぎを起こすことを、サーバルは望んでいなかった。
音を立てないよう、木々の中に入っていく。山の中での身のこなしは、父から学んでいた。
どんな密集した木々の中でも、枝一本折ることはない。
鈴の音が、近づいてくる。人影は、サーバルに気付くことなく過ぎ去っていった。
会話から察するに、近所の村の自警団だったらしい。周辺に出る人喰い虎を警戒し、見廻りをしているようだ。
虎、あるいはそれもいいかもしれない。
勝てと言われた。勝利すると誓った。虎を打ち殺すところを見せれば、マーゲイも喜ぶだろう。
そのまましばらく登り、再び山道に出た。そのまま、道なりに進んでいく。あえて、虎を探すことはしなかった。
喰らう側が、獲物を見つける。獲物が、それに抗う。獣同士の戦いは、それでいい。人として虎を狩る気は毛頭ない。獣の世界に、身を置いていたかった。
不意に辺りが暗くなった。月が、雲に隠れたようだ。同時に、獣の臭いが、鼻についた。
自然に、体が前に跳ねた。獣の臭いが、強くなる。背後から、今までに感じたことのない、圧を感じる。
低い唸り声が聞こえる。地面を蹴る音は、聞こえなかった。
そうか、これが本物の狩人か。それほどの相手が、私を殺しに来てくれたのか。
恐怖はなかった。代わりに、喜びが体を支配していた。
獣正拳大隈流の極意は、獣になり切ることだ。自分が、その極意をどれだけ掴むことが出来ているか。それを試すのに絶好の相手が、今目の前にいる。
既に、虎を包んでいた黒いモヤは消えていた。格闘家同士の戦いには、虚実が複雑に入り混じる。だが獣には、それはない。
サーバルが、前に出た。
同時、虎が頭を低くする。
跳ねようとしている。絶好の機だった。偶然か、それとも自分はそれを読んでいたのか。考える間もなく、頭に拳を打ち付けようとした。
虎は、跳躍をせず、低い姿勢のまま、前に出てきた。脚。食いちぎろうとしている。前転するように、体を宙に放り投げた。黄色と黒の縞模様が、目の前を通り過ぎていく。地面が見えると腕を前に出した。
振り返った瞬間、虎はとびかかってきていた。右脚が、振り下ろされる。左腕を前に出し、それを受け止めた。爪で、肩の肉が裂かれているのがわかった。そのまま、体重をかけてくる。押し潰されたら、終わりだと思った。力だけでは抗えないということもわかった。右手で、舌を掴む。口の奥ににまで手を突っ込めば、逆に噛み千切られることはない。離せ、と言わんばかりに左脚を振り落としてくる。呼吸を合わせ、左腕を跳ね上げる。喰い込まれた爪が、肉を抉る。虎との位置が入れ替わる。腹に拳を打ち付け、距離を取った。
前脚が、飛んでくる。上体を逸らした。爪が、体を掠める。体が退がろうとしているのを感じた。衝動を抑え込み、右脚を、低く蹴りだした。喉元を捉える。確かな感触があった。ガーデンリーグでの試合ならば、勝利を確信できる手応え。虎は、それを意に介していないかのように、前に出てくる。
左脚を軸に、回り込むように突進を躱す。後ろを取った。背中に飛び乗る。首に向けて、拳を振り落とす。初めて、虎が苦しそうな声を上げた。追撃を加えようと、拳を振り上げた瞬間、虎が暴れ出した。振り落とそうとしている。右に、左に、虎の動きに合わせ、重心を変える。拳を振り落とす。虎の喉元から、低い唸り声が漏れる。掌を広げ、貫手の形を作った。獣正拳大隈流は、獣となること目的とする流派。特に、肉体の末端、爪を鍛え上げることに関しては他流派の追随を許さない。二度拳を打って、確信した。これなら、貫ける。
虎が、後ろに跳ねた。構わず、振り下ろす。背中に、何か、大きく硬いものが打ち付けられた。ごう、という音と共に、空気の塊が、口から出ていった。体が、中空に打ち出される。体をひねり、着地した。岩に、叩きつけられたようだ。
強い。闘いの最中だとわかっていても、笑みが漏れることを、抑えることが出来なかった。
「GRR」
いつの間にか、唸り声が漏れていたことに、サーバルは気づいた。
「GRRRRRRRR,GRRR,GRRRRRRRR!!!!!」
唸り声が、咆哮に変わる。地面を蹴る。迎え撃つかのように、虎が立ち上がった。前脚が、振り下ろされる。間合いを詰め、体で止める。爪にさえ当たらなければ、それでいい。
「GRRRRRRRR!!!!!」
咆哮と共に、喉元に噛みついた。血の味が、口の中に広がる。首を思い切り振り、肉を噛み千切った。
貫手、傷口を貫く。骨に触れた感触があった。
虎が、サーバルを押しつぶそうとしてくる。その力を利用として、手を更に奥まで貫こうとする。
前脚が振り下ろされる。体で、受け止める。
なあ、どうした、おい。随分と、力が弱くなってるじゃないか。正念場だな、お互いに。
生暖かい血が、手を伝ってくる。自分の額に流れているものが汗なのか、血なのか、もはやわからない。
戦っている。その実感だけが確かにある。
息は止めていた。息を吸った瞬間に一気に持っていかれるということがわかった。
ああ、みっともないな。組み合って、噛みつき合って、肉を、抉り合って。格闘家同士の戦いじゃあ、考えられない。
だが、それでいい。それでいいだろう、獣同士の戦いって言うのはこういうものだ。生きるか、死ぬかだけだ。なあ、おい、私とお前、どっちが死ぬかだ。
視界が、一瞬暗くなった。同時に、手に、何かが折れる感触が伝わってきた。
不意に、押しつぶそうとする力が弱くなった。肉が、指に吸い付くような動きをしている。
死んだ。そうか。死んだのか。
喉元から、手を引き抜いた。
虎は動かない。しばらくの間、動かなくなったそれを見ていた。
じきに、村の人間が虎の死体を見つけるだろう。
その前に、出来るだけこの場所離れるべきだと思った。
どこに向かえばいいのかは、わからない。どこか、行きたいところがあるわけでもない。
ただ、フクハラが流れを作っていることだけは、微かに感じている。
今は、ただその流れに乗っておこうと思った。流れから降りることは、いつでもできる。
自分を包む黒いモヤは、まだ消えていない。

持ち込む暗殺野菜は、一つだけにした。出来るだけ、手の内を晒したくはなかった。
暗殺野菜を使わずに済むならの方がいい。だが、林健四郎に暗殺野菜を使わずに戦えるほどの力はなかった。殺される寸前までは、いかなくてはならない。力の差がありすぎては、敵に場外負けなどを狙わせる余裕を生ませるかもしれなかった。
殺すか殺されるか、その域までもっていかなければ、林健四郎の能力は発動しない。その為には、やはり暗殺野菜は必要だった。
転送空間から、戦闘区域に移動した。移動は一瞬だった。特に体に異常も感じられない。
ツキは自分にある。林健四郎がそう確信したのは、天守閣から西の丸にいる対戦相手の姿を見つけた時だった。相手は、まだこちらに気付いていない。周囲の様子から、あれが、こちらの位置を確認するための囮である可能性も低いと判断した。
試合場に持ち込んだリンゴを口元に運ぶ。シャキ、という耳障りのいい音が響いた。
敵は、まだこちらに気付いていない。
狙いを定める。今なら一撃で決められる。息を大きく吸い込み、出来るだけ大きな声で
「ワッ!!!!!!!!!」
と叫んだ。
同時、巨大な『ワ』の形をした物質が中空に現れ、敵へと向かっていく。
コエカタマリンゴ、ドラえもんを読んで、こんなこといいな、出来たらいいなと思って作った暗殺野菜だ。効果はドラえもんのコエカタマリンと同じ。食べた人間の声を個体の文字にして飛ばすことが出来る。声が大きければ大きいほど、文字も大きくなり、威力が上がる。狙い方も熟知している。あの大きさなら、充分に即死させれる。林健四郎は勝利を確信した。
だが、『ワ』は敵に直撃はしなかった。突然に黒いモヤに包まれ、動きが遅くなった。『ワ』は地面にぶつかり、遠くへと消えていった。
あれが、敵の能力か。林健四郎はリンゴを口元へと運んだ。
敵の姿は、消えている。
恐らく、これでこちらの位置は敵に気付かれた。だが、依然として自分の優位は動かない。


あの『ワ』が、敵の能力とみて間違いないだろう。恐らくはドラえもんのコエカタマリン、もしくはジョジョのエコーズとかイン・ア・サイレント・ウェイのようなものか。
あの『ワ』の動きからして、コエカタマリンの可能性の方が高い。サーバルはそう判断した。
『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』
多量の『ヅ』が飛んできた。敵は、あたりをつけて、物量で押してくるつもりのようだ。
いくつかは、黒いモヤがかかり速度を落としたが、モヤにかかっていない『ヅ』の方が多い。地面にぶつかった『ヅ』は、部位がばらけ、あたりを乱反射している。
『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』
『ヅ』が、さらに飛んでくる。地面にぶつかったとき、土煙が待ってくれるならいいが、声は地面に反射するだけだった。だが、人体に当たれば危害を与えることが出来るということは、ドラえもんの原作やゲームが証明している。
躊躇していても仕方のないことだった。この声を乗り越え、敵に近づくしかない。
天守閣の死角へと移動した。
『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』『ヅ』
そこに多量の『ヅ』が撃ち込まれる。息を呑み、逃げ出そうとする体を抑えつけた。焦ったら、負けだった。静かに、敵に見つからず移動する。それには敵の先手を打つよりも、敵の隙を見つけることだった。今、敵はサーバルがここにいると確信しているわけではない。このあたりにいるはずだとあたりをつけ、攻撃をしているだけだ。それならば、いつか必ず隙は出来る。そう己に言い聞かせ、サーバルは耐えていた。
ヅの嵐の中で、まれに『ヅ』が黒いモヤに包まれる。それが敵に見えているのか。
今は、耐えることが戦いだった。耐えることには慣れている、父との修行にも、弟の介護にも、いつも耐えてきた。
『ヅ』が今度は二の丸に降り注いだ。
敵が総当たりに出た。これが機だった。


敵の姿が消えた。最初は、確かに西の丸にいたはずだった。見当違いの所に、声を打ち込み、誘い出そうとしても、効果はなかった。
塀を乗り越えた気配はない。石垣に張り付いてもいない。
スパイエイセイチゴを持ってくるべきだったか。
林健四郎が、そう考えた時、1階から、床を蹴破るような音が聞こえた。


地面を掘り抜き、天守閣へと辿り着いた。
獣正拳大隈流の鍛錬で鍛え抜かれた指先にかかれば、造作もないことだった。
天守閣に着いた時、敵がその場に留まっていたことが意外だった。
待っていたのは、老齢の男だった。肉体は、年齢にしては鍛えられてはいる。だが、それは日々の生業によって得られたものだろう。サーバルのような格闘家とは、立ち姿からして既に異なっていた。
サーバルは、少しだけ、失望している自分がいることに気付いた。それが、何に対してなのかはわからない。
「こんなにあっさり距離を詰められるとはな。ツキは、ワシにあると思ったのじゃが」
男は既に黒いモヤに包まれている。それに対し、動揺するような様子は見えない。
「最初から運だよりじゃ、勝てるものも勝てないよ。爺さん」
男が笑った。
「それもそうじゃ。」
爺さんがゆっくりとリンゴに口元に運んだ。
胸元が微かに膨らむ。同時にサーバルは一歩目を踏み出した。
「ワッ!!!!!!」
『ワ』が、サーバルの左頬をかすめた。
声での攻撃は、呼吸と連動せざるを得ない。ならば、その動きを読むのは銃を相手取るよりもはるかに楽だった。
「ワッ!!!!!!」
再び、『ワ』。
だが、その声はサーバルの誘導した方向に流れていた。
この男は、格闘家の虚実についていけるほど、戦い慣れをしているわけではない。
男が、再びを声を出そうとする。
背後に回り込む。
右腕を振り下ろす。声を出す間に、爪で、頭を吹き飛ばす。
勝利を確信した。その瞬間、老齢の男の首がぐりんと廻った。
そしてその視線は、サーバルの爪を捉えていた。
サーバルの爪が、虚空を走った。


自分の立っている場所が、朽ちた小屋に変わっていることを、まずサーバルは認識した。
左側に気配を感じた。虎爪の形を取り、左腕を振り払う。爪は男に届くことなく、中空で止まった。
男の方に、体を向き直す。
「ここはどこだ。」
腹の探り合いを、するつもりはなかった。聞きたいことを聞く。相手がそれに答えるつもりがないなら、それでもいい。
「ワシは、精神と時と野菜の部屋と呼んでおる。」
「ドラゴンボールの、アレみたいなものか。」
「話が早いの。ただ、あちらは外の世界の1日が1年になっていたが、ここでは1秒が1年になる。」
「お前の能力は、声を形にするものではなかったのか。」
「アレは、ワシが育てた野菜の効能じゃ。能力は、この空間を作り出すことじゃよ。」
ふざけた話だ、とサーバルは思った。だが、この男が嘘をついていないこともわかった。
「私の爪が、お前に届かなかったのは。」
「この空間では、互いに傷つけあうことができないようになっておる。」
言葉が途切れるかどうかの瞬間、右足を跳ね上げた。金的。一撃必倒の蹴り。それに対し、男は何の反応もせず、右足はやはり中空で止まっていた。
「嘘は言っておらんよ。ここは、ワシが最期に、存分に野菜を育てるための空間じゃからな。」
「ふざけているのか。」
「ここは、ワシの走馬灯のようなもんじゃ。あ、死ぬって思った瞬間に自動で発動する。そしてワシはここで一年間好きに野菜を作る、そういう能力じゃ。お主を巻き込んで、申し訳ないとは思うがの」
「外の世界は、どうなっている。」
「お主がワシに爪を突き立てる寸前で、止まっておるよ。お主が一年間無事に過ごせば、そこから再開して、ワシは殺される。」
「無事に過ごせなかったら。」
「あんたが死ねば、ワシは生き残る。それはそれでありがたいことじゃな。」
けらけらと老人は笑った。面倒な能力だとは思った。だが、それを仕掛けた老人に対し、不快な印象は抱かなかった。老人についていたはずの黒いモヤは、いつの間にか消えている。
「さて、ワシは畑を耕しに出るが、お主も行くか。」
「遠慮しておく。」
「そうか。ま、一年は長い。好きに過ごすといい。」
老人は、手慣れた手つきで農耕具を準備し、戸を開けた。
「そうじゃ。自己紹介がまだじゃったの。ワシは林健四郎、お主は」
「大隈サーバル。」
「大隈どのか。ふむ、一年間、宜しく頼む。」
今度こそ、老人は小屋から出ていった。
そのまま、仰向けに転がった。外から、土を掘り起こす音と鳥の鳴き声が入ってくる。
一年。長いとも、短いともいえる時間だった。林健四郎を殺すことができれば、その瞬間に解除がされるだろう。
だが、自分の持てる技で、この空間のルールを破る方法はすぐには思い浮かばなかった。
することがない。寝転がったまま、サーバルは思った。
弟が死んでから、何かから追われるように、動き続けてきた。敵を倒し、追手から逃げた。
今、ここには誰もいない。逃げる先もなく、倒すべき相手もいない。
弟のことを、思い浮かべる。声は思い出せる。あのやせ細った腕も、鮮明に覚えている。だが、顔だけがわずかにぼやけてしまっている。
家族としての、情は持っていた。今でも、弟の死は悲しい。出来る限りのことは、したつもりだった。これ以上、望まれても出来ることはないと思っていた。だが、今はもっと何かしてやれたのではないかという考えを打ち消すことが出来ない。
何が、出来たというのだ。
目を瞑る。父の顔、母の顔、弟の顔が、浮かんでくる。だが、そのどれもがどこかぼやけていて、他人のように思えてしまう。
何が、出来たというのだ。
遠くからパチパチ、と火の爆ぜる音が聞こえてきた。
いつの間にか、寝入ってしまっていたらしい。
「おお、目が覚めたか。」
囲炉裏の前で、林健四郎が飯を食べていた。
「お主の分も、用意してある。川魚じゃが、よかったらどうじゃ。」
いつの間にか、自分の体に麻布がかけられていたことに、サーバルは気づいた。
不覚だった。尋常な闘いなら、殺されていてもおかしくはない。
「余計なことをするな。」
「ふむ、だが、メシを食わねば、体がもたんぞ。」
「攻撃がされないとしても、敵の出したものをおいそれと食えるか。川魚ぐらい、自分で取る」
自分で言葉にして、違和感を持った。
「川魚が、取れるのか。」
「ここは、部屋と名づけられてはいても、ワシの住んでいる山を再現したものじゃからな。畑もあれば窯場もある。森には獣もおるし、川には魚がおる。多少ながら備蓄もある。」
妙な能力であると改めて思った。だが、嘘は言っていない。
「川はどこだ。」
「小屋を出て、右手じゃ。しばらく歩けば、せせらぎが聞こえてくるじゃろう。」
そのまま、小屋を出た。春といえど、山の上はまだ肌寒かった。
罠の警戒をしながら進んでいったが、何も仕掛けられてはいなかった。代わりに、獣の通り道を見つけた。昼間に詳しく調べれば、狩りも出来るだろう。
川に着いた。靴を脱ぎ、川の中に入る。水の冷たさ、川底の石の感触が、かすかに子供の頃を思い出させた。
手で水を払い、魚を岸に打ち上げた。3匹もいれば。十分だろう。
小屋に入ると、林健四郎は既に寝入っていた。
囲炉裏で、魚を焼き、3匹全てを喰らった。
うまい。メシを食ってそう思うのが、随分と久しぶりのことのように感じた。


最初の1か月はいつの間にか過ぎていった。川魚だけでは、飽きるので狩りも始めた。獣の通る道は、すぐに見つけることが出来た。黒いモヤがなければ、そのまま狩ることも出来ただろうが、今の状態では道具を使わずに狩りをするのは難しいとサーバルは思った。
弓を作ったが、狙ったところに矢は飛ばすことは出来なかった。こんなものか、と思っていたが、林健四郎の助言を聞くとすっと手になじむ感触があった。狙った箇所に、近いところに撃てる。その日、初めて鹿を狩ることが出来た。
1頭目の鹿は、林健四郎にも少し分けてやった。礼にと、蓄えの野菜を渡そうとしてきたが、それは固辞した。
礼を受け取るようになったのは、4度目の狩りからだった。信用をしたつもりではなかった。
だが、共に生きているという感覚は、確かにあった。1か月の間、林健四郎と林健四郎の育てる畑を見てきた。
毎日、変わらないようでいて、少しずつ大きく、鮮やかに成長させていく緑が、サーバルをそんな気持ちにさせたのかもしれない。
気ままに過ごしていた。心からそう思える時間を味わったのは、初めてだった。
林健四郎に誘われ、器を作るようになったのは、一度目の収穫が終わった頃だった。それに応じたのは、林健四郎の作る、空のように透き通った、青い器を自分でも作りたいと思ったからだ。
まず、土を揉むことから教えられた。土は、揉んでいるうちに、ただの土ではなくなっていった。土は、自分になり、父になり、弟になった。
土が語り掛けてくる。
何故、八百長相手に、リベンジを仕掛けたのか。
問いを無視し、ひたすらに土を揉み続ける。幾ら揉み続けても、形はまとまらなかった。
土は、サーバルの力を跳ね除けるように押し返してくる。
何故、お前は戦おうとする。
問いに、応える言葉を、サーバルを持っていなかった。
土の声を無視して、無理矢理にでも形を整えた。その土の焼き上がりは、自分でもダメなものだとわかった。
そして逃げた。
土が語り掛けてくる言葉から、一度は耳を塞ぎ、離れていった。
その時も林健四郎は何も言わず、ただ日々の業を為していた。
そのことに、ひどく安心している自分がいることに、サーバルは驚いていた。
林健四郎に、再び窯場に立てを言われたなら、二度と器作りには携わらなかったかもしれない。何も言われないことで、再び向き合おうという気持ちになった。
土に語った。私は、どうすればいいのか。弟は何を望んでいたのか。
一心不乱に、土を揉み続けた。闘い続けるべきなのか、戦いから、降りるべきなのか。
何を、為せばいいのか。どうすれば、許されるのか。
土は、形を変え続けていた。父の顔を見せ、自分の顔を作り、弟の表情が見えた。
揉み続けているうちに、それらは消えた。残ったのは、自分の心と向き合っているという感触だった。
八百長相手に、挑み続けたのは、嘘を、本当にしたかったからだ。
八百長で負けたのではなく、実力で負けたのだと思いたかった。
優勝すると、弟に約束した。
その約束を、守れなかった。いや、守ろうとすら、しなかった。
優勝が出来たのなら、それが一番よかったのだろう。
優勝が出来なくても、誓いを守るために尽力出来たのなら、そこに誠が残ったはずだ。
だが、あの時のサーバルは、勝利を目指してすらいなかった。誓いを、守ろうとしていなかった。
ただ、嘘をついていただけだ。
だから。
あいつらと真っ向から闘った。真っ向から闘って、負けることが出来たのなら、あの八百長も、本当の負けになると思った。嘘を、本当に出来ると思った。
嘘を、本当にしたかった。
そして、情けない過去の自分を正当化するために戦うことを、情けないとも思っていた。
だから、勝ちたいだけだと嘯いた。
それが出来なくなったら、虎と戦い、命を落とそうともした。
嘘つきは嫌いだと言いながら、自分が嘘をついていることから、目を逸らし続けていた。
逃げるな。
土は、最期にそう言った。或いは土ではなく、自分でそう思っただけなのかもしれない。
だが、それしかないと思った。弟に嘘をついた。そのまま、弟は死んでいった。
その事実を、変える方法はない。なら、それを背負ったまま、生きていくしかない。
土が、形を成した。
自分が作った、という気はしなかった。土そのものに、導かれたという気持ちがある。何か不思議なものを見るように、サーバルは土を見つめていた。



「いい出来じゃな。」
焼きあがった器を見て、林健四郎が言った。林健四郎に器の出来を褒められるのは初めてだった。
「今までの器は、悲しみを覆い隠そうとするあまり、どこか歪さが出来ていた。だが、この器は、悲しみも後悔も、ただそこにあるものとして受け止めている。」
それがどういう意味なのか、サーバルにはよくわからなかった。ただこの器は、今の自分自身だと思った。
「よくやった。」
林から、器を手渡された。柔かな手触り。手の内に、空が広がっているかのように青い。
「これを、私が作ったのか」
「うむ」
青が広がっている。掌の中にも、頭の上にも。そんなことすらもサーバルは忘れていた。
幼い頃、父との修行に疲れた時、サーバルを癒してくれたのは弟だった。修行がうまくいかなかった時、「大隈流サーバルの型!」などと言いながら大仰な構えを取れば、それだけも弟は褒めてくれた。
私が、弟を支えていた。けれど、弟も、私を支えてくれていた。忘れていたのは、そのことだ。
両手を掲げる。青白い器は、空に溶けているようだった。サーバルの両手を包んでいた黒いモヤは、いつの間にか消えていた。そのことよりも、この器を作り上げることができたことが、サーバルには嬉しかった。
「この器を、現実に持ち帰れないのが残念じゃ」
「いや、構わない。私が、この器を作り上げることが出来た。持ち帰ることができなくても、その事実は、確かにある。それだけで、私は充分だ。」
そうか、と呟く林健四郎の声が聞こえた。
自分が、こんな器を作れるようになったことを、父は喜んでくれるだろうか。
きっと、喜んでくれる。何故か、そう確信することが出来た。
それからは、林健四郎の畑仕事を手伝うことも増えた。器づくりの時と違い、林健四郎の言うことは細かかった。最初はうるさく感じていたが、心から野菜のことを考えているのだということがわかってからは、そういう気持ちは少なくなった。
畑は、一日見ただけでは何も変わらない。しかし、毎日見ていると少しずつ変わっていくことがわかる。その変化は、サーバルの気持ちに暖かなものを与えた。或いは、父もサーバルや、弟の成長をこんな風に見ていたのかもしれない。
土と共に生きる。こういう生き方もあるのだ。
世界には、様々な人間が暮らしている。そんな当たり前のことを、サーバルは初めて肌で感じることができた。

穏やかな充足感と共に、精神と時と野菜の部屋での日々は過ぎていった。
「酒でも、あればよかったのじゃが。」
最後の夜、林健四郎はそう呟いた。
「ああ、そうだな。」
この空間から、離れるのが惜しい。この老人と、別れがたい。こんな思いを抱くようになるとは、思っていなかった。
いつの間にか、林健四郎と食卓を囲むのが、日常になっていた。
林健四郎が作った野菜と、サーバルがとってきた川魚と獣肉。それを林健四郎が料理をしている。
贅沢であるとは、とてもいえない料理だった。だが、素朴さの中に、どこか、得難い豊かさがあった。そう感じるのは、決してこれがこの空間で味合う最期の食事だからではなかった。
「この空間が消えたら、あんたは死ぬのか。」
「そういう能力じゃからの。」
林健四郎は、恬淡としていた。自分の運命を、既に受け入れているようだった。
「この空間は、ワシが、最期に存分に野菜を作るための空間じゃ。ワシは存分に野菜を作った。それに、お前さんが見事な器を作り上げる所を見ることが出来た。」
林健四郎が、微笑んだ。真っ直ぐ、林健四郎の笑みを見るのは初めてな気がした。
「ワシは、十分満足しとるよ。」
胸が熱くなるのを感じた。それは、抑えようとして、抑えられるものではなかった。ならば、そのまま吐き出そうと決めた。
「私もだ。ここの暮らしは、楽しかった。あんたと闘うことが、一緒に過ごすことが出来て、よかった。あんたに誓うよ。私は、絶対負けない。父の為に、弟の為に、あんたの為に、勝利を目指す。」
胸の熱さは収まらなかった。燃え滾っている。何か、別の生き物が暴れ回っているかのように、熱さが。
「ガッ……ガァッ……!!」
それにしても、熱すぎる。痛みが激しさを増している。
「すまんな。」
遠くから、林健四郎の声が聞こえた。うるさい、何かが、体の中で暴れ回っている。だんだんと、激しくなる。体の中の、大切な物が破れる音が聞こえた。
「ワシ、ホントは全然満足しとらんのじゃ」
黒いモヤが、林健四郎を包んでいる。黒いモヤは、嘘をつかなければ、解除される。そのことにこの男は気づいていたのか。
「待っておったよ。こうして、何の警戒もなく食事を共にしてくれるようになるのを。当たり前のように、山で過ごしてくれるようになるのを。」
声は既に聞こえていなかった。ただ、林健四郎が周到に、自分を殺す機を狙っていたことだけはわかった。自分が、甘かった。
「この野菜は特別製じゃ。食らった人間の臓腑を、内側から食らいつくす。毒が効かない人間でも、確実に殺せる、とっておきじゃ。」
林健四郎の表情はいつものままだった。野菜を愛で、器作りに興じる時の、掴みどころのない茫洋とした表情のまま、サーバルを見下ろしていた。
「……ク…ソ……ジ、ジ……イ……」
痛みは、消えていた。痛みと共に、意識も遠くへ行こうとしていた。
生きたかった。戦いたかった。マーゲイのために、自分の為に。
ああ、ごめんな、マーゲイ。やっぱり、私は、嘘つきだった。

最終更新:2018年03月11日 00:39