「よう! やっぱり来てくれたな宇津木秋秀! 聞いてくれよ……!」
老剣士が真野清掃店を訪れた二度目は、対戦者が決定した一日目の夜であった。
真野は躁じみた上機嫌で安酒を呷り、長椅子の上で叫んだ。
「いいニュースがある! 俺の相手……なんて言ったか……あいつ。あいつだよ」
「……九暗影か?」
「そうだ、そうそう、あいつと会ってきたよ……! スキー場でさ……ハハハハハ! 俺の勝利は確定だ! 当日あいつがどうなるかさ……楽しみにしてろよ、なあ、宇津木!」
「酔っているようだな」
宇津木秋秀はこのグロリアス・オリュンピアにおいて、運営本部に属する。
参加者からの要請があればすぐさま動き、ルール詳細の説明や、試合における不正行為の監視、あるいは試合に抵触しない限り必要経費等のサービスの便宜を図るエージェントである。
電話口ではそうした要望があるかのような口ぶりであったが、記憶を喪いつつある真野は、正気と狂気の境が曖昧なのであろう。
「私は参加枠を用意したが、そこまでだ。貴様に肩入れするつもりもない。試合の策をこの場で語ろうが語るまいが貴様の勝手だが、賢い選択ではないな……」
「……分かってねえな。ハハ……宇津木秋秀。九暗影は終わりだ。俺の言ってることは本当だよ」
「……」
「俺が間違ったことがあったか?」
真野は、ふと笑みを消して宇津木を見た。絶望と虚無の暗黒じみた眼差し。
「……なんてな! ハハハハ! や、違うんだ宇津木! この刀を返しとかなきゃな! それでわざわざ呼んだんだった! 今思い出したよ! 俺、記憶がアレだからさ……参るよなあ!」
「いや……以前に言ったように、『右一文字』は貴様に預ける。それは貴様と私の個人的な勝負の証で――」
「いいからいいから! 遠慮しないで持って帰れよ! な? そんなもん使わなくたって、俺はもう勝っちまうんだからさ……!」
笑顔で日本刀を押し付けられ、宇津木はただ困惑した。
――確かに、真野金は無敵の男だ。全盛期であれば、九暗影……飯田秋音ごときは、足元にも寄せ付けはしなかっただろう。
(……しかし、この自信は。この男は既に飯田と顔を合わせている……)
試合の事前に敵の強みを封じる知略。
真野は果たして、何を仕掛けているのか。
【任務内容】:目的不明かつ高脅威度の候補殺害
【対象】:無所属 真野金《まのかな》
【場所】:グロリアス・オリュンピア第一回戦 雪原
【納期】:三日
早朝のホテルの一室である。
少女は言葉を交わしている――他でもない、彼女自身と。
(Q1――真野金と戦ったら、私は勝てる?)
「分からない」
漠然とした、曖昧な問いだ。一種の儀式に近い。
だが、飯田秋音が任務に臨むに際し、必要な儀式でもあった。
少なくとも、実力以上の限界を求められる困難な任務において、秋音は常にそうしている。
彼女の有する異能『フラガラッハの嚮導』は、事象に対する絶対の回答能力。
この問いへの答えが『多分違う』『いいえ』ならば、その敵を事前に避ける。
そのようにして未来の失敗の可能性をより分け、成功だけを掴むことができた。
100%の任務達成率。グロリアス・オリュンピア出場という大任を命じられた飯田秋音には、若干19歳の若さにして、その大任に見合うだけの実績がある。
(『分からない』――悪くない。決まってしまうよりは余程いい)
敵は伝説の便利屋、真野金。この世界で最年少に近い秋音でさえ名を知っている。
彼我の格の差を思えば、試合三日前での曖昧な問いであっても、『いいえ』と断言されておかしくはなかった。
全盛期の真野が敵であったなら、秋音は勝てないはずだ。だが、彼には六年のブランクがある。
ならば無敵の男が、前線を退くに足る理由があったのか。
デスク脇の仄暗い照明に照らされながら、一人思索を進める。
(Q2――真野金は何かの理由で、全力を出せない状況にある?)
「はい」
僅かに逡巡する。対戦相手の決定時点から、秋音が戦闘準備に費やせる問いは僅かに30問しかない。
(Q3――それは傷病?)
「いいえ」
(Q4――それは魔人能力?)
「はい」
一度の空振りを経たが、特定する価値のあった問いだ。
引退を強いられるだけの怪我や病気、魔人能力の影響、あるいは前線を退いての介護の必要があった誰かの死……グロリアス・オリュンピアのタイミングで真野が前触れなく復帰する理由があるとしたら、それらのどれかに関する願いを持つ確証は高かった。
「魔人能力の解除。動機面から崩すのは……私一人じゃ難しいかな」
相手の求めるもの、譲れないものを探ることのできる『フラガラッハの嚮導』は、直接対面しない交渉でこそ最も優位を発揮する能力である。
しかし今の秋音は、乏しい武装の他にエネルギー庁よりのバックアップを求めることはできない。与えられた猶予は三日。他者の魔人能力を解除する能力者を手配することは困難と判断する。
あくまで次善策。戦闘による勝利。
飯田秋音ではなく九暗影という名を与えられた意味はそこにあるのだろう。
(Q5――今回の戦場は……)
照り返しの光を優雅に泳いで、赤いスキーウェアが白い斜面を下っていく。
その日の午後には、飯田秋音は都心からほど近いこのスキー場を探り当てていた。
鮮やかなアルペンスキーの技術は、かつて『フラガラッハの嚮導』で学んだ。
何が正しく、何が誤った動きであるのか。どのタイミングで判断を下すべきか、『正解』が分かっている限り、その後は自分自身の技術としてフィードバックできる。軍隊の雪中戦闘に必須であるスキー技術に限らず、その他の多くの分野においても、飯田秋音は万能である。
斜面を下り終えた秋音は、視界の先に小さな監視員詰所の存在を認めた。
(Q7――あの小屋は今回の戦場に反映されてる?)
「はい」
設備は恐らく放送機器程度しかないだろうが、スノーモービルの車庫がある。
残る質問回数を無駄なく使い切るための偵察であった。
(Q8――今回の戦場でも、設備は動作する状態?)
「はい」
(Q9――私の転送位置は真野金より麓に近い?)
「多分そう」
――言うまでもなく、グロリアス・オリュンピアの戦闘地形は運営側の魔人能力によって再現される空間であって、戦闘は現実の地形上で行われるわけではない。しかし飯田秋音は、一つの答えを『フラガラッハの嚮導』で探り当てている。
「小姐、你需要我的帮忙吗?」
「……」
背後から呼びかける声があった。
振り向いた秋音はその姿を確認し、警戒を強めた。
「……我需要回答吗?」
「我也很困扰」
灰色のスキーウェアに身を包んだ男の顔を既に知っている。真野金。
彼は苦い表情で秋音から目を背けた。
「くそっ、警戒心が高いな……苦手なんだよ子供の相手は……」
「聞こえてるよ」
「……おい。日本語話せるのか」
「仕事で必要でしょう?」
留学生を装う大陸出身の魔人暗殺者、九暗影。
彼女のカヴァーに関しては、完全に整合性のある経歴と証拠が用意されている。
「どうしてこんなところにいるの? 真野金」
「……そりゃ、その、あれだ」
真野は視線を上げた。その先にあるのはロープウェイのケーブルだ。
「戦場が雪原っていっても、完全に何もない雪原のはずがない……。大会趣旨からして……カメラが必要だろ。低温環境下じゃあバッテリーの消耗も速いから、絶対に外部から電力を供給する必要がある……触れ込み通りの雪景色が整えられてて、電力供給設備がその雪原に十分に行き渡ってる地形なんて、スキー場くらいしかないからな……」
「――国土交通省側の魔人能力者のリソースも、それぞれの地形の設計図を一から描けるほど無限じゃない。だから、天国とか地獄みたいな客寄せの目玉を除けば……こっちにある地形を丸ごとコピーしてしまう方が現実的。そういうことだよね?」
真野金も、秋音と同じ思考でこのスキー場に至っていたのだ。
しかも、運営側がコピーするスキー場の特定に『フラガラッハの嚮導』の二問を費やした秋音とは違い、この男は生身の思考力だけで同じ結論に至っている。
「戦闘空間能力者は今回のイベントに不可欠なキーパーソンだ。お偉いさんとしては都心部の、目の届くところに置きたい。だから、そこから一日以内で行き来可能なスキー場……」
真野は、口の端を歪めるように笑った。
愛想笑いのような不釣り合いな表情は、秋音に言い知れない悪寒を与えた。
「……の全部に、雇った探偵を置いてた。午前からだ。あんたを見かけたら、連絡してもらうように頼んでた。ヘヘ……お互い世間に顔が知られちまって、大変だよな……。だからその、言いたくないんだが……九暗影。俺との試合さ……ま、負けてくれないかな……」
「何。言ってるの」
「金……もう金が、ないんだよ。何人も即日で雇って、勝たなきゃ借金がヤバイんだ。だからもう、こうやって直接頼むしか手がない……なあ、試合では降参して……俺に勝ちを譲ってくれないか!? 頼む、九暗影……! 降参してくれ!」
揺さぶりとも取れる真野の取り乱しようを前にして、秋音はあくまで冷静だった。
虚と実。騙し騙される世界の中で生き抜いてきた少女だ。最後に残った問いを走らせている。
(Q10――彼は本気で言ってないよね?)
「いいえ」
真野金。数々の伝説を打ち立ててきた無敵の男。
新参である飯田秋音とは比較にならないほど、格上の敵であるはずだった。
「……ふざけないで……!」
「わ、分かった……金っ、金だけでいい! 俺は本当に、もう駄目なんだ!」
「どうしようもないね、あなた」
会話を交わす価値はなかった。立ち尽くす真野を置いて、スキーを走らせる。
去り際に、真野が小声で呟く独り言が聞こえた。
「……是……大概是吧……」
「……?」
『フラガラッハの嚮導』の回答は絶対の真実だ。
真野金は全力を出せない。秋音の想像よりも、遥かに深刻に。
「真野? 確かに会ったけど」
二日目である。飯田秋音の部屋には、一人の来客があった。
同じ政府の魔人エージェントである。宇津木秋秀。
「別に、一言か二言話しただけ。心配してるようなことはないから」
「そうか。それならば良いのだがな」
スーツ姿の老人は、キッチンに向かう少女の後ろ姿を見ている。
当然のことだが、秋音が宿泊しているのは大会運営本部の用意したホテルではない。カヴァーが暗殺者である以上は、動向を探られぬよう拠点を隠すのも当然のことである。ただ一つの条件として、彼女は、キッチン付きの部屋を所望している。
「――知っての通り、真野金は一通りの相手ではない。既に何かを仕掛けられている可能性がある。真野本人に動きがなくとも、スキー場で貴様に接触した者はいなかったか? 貴様の拠点に誰かが出入りした痕跡などは?」
「その程度なら、今朝にもう確認済み。会話や視認で条件を満たす魔人能力の可能性くらいは、私も考えてる」
Q1――真野金は私に何かを仕掛けている?
Q2――この拠点は危険?
Q3――今、真野金に協力している魔人能力者がいる?
日付変更と同時の『フラガラッハの嚮導』への問いは、全てにおいて『いいえ』の結果を確定している。
「……私の取り越し苦労か」
「別に私が負けても、宇津木さんは困らないでしょう?」
「フ。まったく、その通りだ」
宇津木は最強の魔人として真野金を推薦し、そしてその真野を排除するために運営の別部門が第一回戦の便宜を図り、エネルギー庁のエージェントである秋音が派遣されている。彼が秋音に抱く心境は複雑であった。
「私は……真野金の恐ろしさをよく知っている。彼に限っては、警戒しすぎるということはない。私の推薦枠で若い有望な芽が潰されてしまうのも夢見が悪いのでな」
「若い芽に思い出話を聞かせられなくなるから?」
「そうかもしれん」
「どうせなら、思い出話のついでに食べていって。多分、一人用には量が多いから」
寸胴鍋の中身を二度濾し終えると、澄んだ琥珀色のスープが現れる。
秋音は二口ほど味見して、塩味を整えた。
氷の中に冷やしたガラスのボウルに半分ほどを入れ、ゼリー状になるまで泡立て器で手早く混ぜていく。
「……それは?」
「別に。ただのコンソメ・ドゥ・ブフ。卵白で三時間かけて灰汁を取る……ゼラチンが入ってるから、冷やすと固まるの。こうやってウニを乗せれば、前菜のコンソメジュレの完成……」
言葉の終わりとほぼ同時に、グリルを開く。
白身魚の切り身が二つ並んで、パチパチと油を弾けさせている。
『フラガラッハの嚮導』で最適な『正解』を体に覚え込ませた料理は、秋音の唯一といってもいい趣味であった。もはや能力を使うまでもなく、その完成のタイミングすらも、呼吸のように当然に操ることができる。
「コンソメを作る時のブイヨンの一部を取って、ブルーテソースにしてある。ガーリック入りのオイルを何度もかけ直しながら焼けば、皮がカリカリの真鯛のポワレになる……これが、魚料理」
「……」
「冷蔵庫には肉料理のローストビーフを寝かせてるところ。食べていく?」
「……料理人顔負けだな。この仕事でなくとも生きていけるのではないか?」
「真野は、治る見込みはないの?」
皿を置きながら、秋音は虚を突く問いを発した。
「……既にそこまで調査しているのか。エネルギー庁の情報網か?」
「全盛期のようには動けないんだよね?」
答える能力の持ち主は、問うことにも長ける。
――素性を隠す必要がある。秋音からは、政府に接触することはできない。だが、政府の側から接触してくる限りは、情報を引き出すことができる。
真野金について熟知する宇津木秋秀であれば、それは渡りに船の情報源だ。
「記憶の欠落が、試合においてどのように働くかは予測できん。重要な局面で作戦を忘却する可能性は確かにある。しかし偶然に期待するようでは、あの男には負けるぞ。飯田秋音。装備も軍用のレベルまでは用意できないのだろう」
(……真野の障害は、記憶の欠落か)
自我を失う恐怖が、真野金を壊している。スキー場での言動と合わせれば、彼の状況の推測は容易だ。
「魔人能力は、金貨を弾くことで逆転の作戦を思いつく……だよね?」
「この業界にいるのならば、一度は聞いたことがあるだろう。奴の能力はその通りの意味だ。本当にそんな能力があるかどうかすら分からんがな……」
「つまり、答えを得る能力?」
飯田秋音は僅かに笑った。偶然の一致か、そのように意図されたものなのか。
「食べていって」
「……私などに振る舞って構わないのか」
「本当に食べて欲しい人は、どうせ食べてくれないから。……いただきます」
「ご馳走になる」
暗殺者と老剣士は同時に手を合わせて、静かに前菜を味わっていく。
「……先程の話の続きだが……老婆心ながら、先達よりの忠告はしておく。この道は血に汚れた修羅の道だ。貴様は若い。他の道もあるだろう」
「私は、エネルギー庁の国家刺客魔人。それ以外に何か必要?」
「歩みを止める気はないか、飯田秋音」
秋音は両目を閉じた。答えは決まっている。
虚と実。彼女は騙し騙される世界の中で生き抜いている。
この日に尋ねたすべての問いを、ただ一回だけで確定させる問いがあった。
(Q4――彼は私を騙していない?)
薄く微笑む。きっと答えはそうなのだろう。
「はい」
試合前日に宇津木が立ち寄った真野清掃店は、再び元の荒れようを見せていた。
彼は呆れ果てながら、部屋の隅に蹲る真野に声を投げた。
「何をしている」
「……ヒッ、う、宇津木……宇津木か、そうか、何だ……何の用だ」
「私は大会運営のエージェントだ。何の用だもあるまい。九暗影に会ったぞ」
「く、九暗影……? は? 俺……俺の知り合い、か?」
「……」
真野は恐慌した様子で、小さな手帳を忙しなく捲った。
ミミズめいて判読不能な文章の一つを目にして、ネズミめいた悲鳴を上げる。
「ハーッ、ハーッ……今は何日だ? なあ……! なあ、宇津木……!」
「貴様の九暗影との試合は明日だ。当日はせいぜいそれを忘れずにいろ」
「クソッ……! クソッ、なんなんだよ!」
二日前の異様な自信が全て嘘であったかのように、真野金は頭を掻き毟った。視線を彷徨わせ、事務所をひっくり返して何かを探し始める。
「あるはずだ、あれが……ちくしょう、あれが……どこだ……!」
「……何をしている。九暗影の様子を見たが、貴様の言うようなことは何もなかったぞ。貴様……本当に、勝つつもりなのか」
「うるせえんだよ! あれが……ああ、クソッ……あるじゃねえか……!」
無秩序な捜索を唐突に中断して、男は宇津木へと詰め寄る。
「何取ってんだよ!! それは俺のもんだろうが!」
「……ッ!?」
「それだ! その刀!! 俺がボケてるからってナメてんのか!? 俺に預けるって確かに言ったよな!!」
「待て、だがこれは、貴様が自分から二日前に……」
「ふざけんじゃねえよ! 勝手に取っていくんじゃねえ!!」
錯乱した男を無碍に取り押さえることは容易だったが、宇津木は『右一文字』を再び預けざるを得なかった。自分自身でこれを返却したつい数日前の記憶すら、真野金にとっては朧気なのだ。
「……真野!」
「ハーッ、ちくしょう、あと一日しかねえ……! 宇津木! 能力だ! な? 昔戦った間柄だろう!? あいつの、九暗影の能力を教えてくれ! あいつは何をしてくる!? どうやって戦う……考えろ……か、考えろ、何か……!」
「真野……大会運営として、貴様の問いに答えることはできない。私は貴様の味方にはなれない」
「アーッ!……アアーッ!! なんで忘れてんだよ俺はッ!! なんで参加してんだよ!?」
「貴様が決めたことだ!」
「クソッ……出てってくれ! 出ろ! 考えたい……頼む……」
「……」
――試合が始まる。
あるいは、とうに勝敗の決まった戦いであったのかもしれない。
白銀の世界で、飯田秋音は白い息を吐いた。
戦場は、秋音が事前の問いで確定させていた通りのスキー場である。
前日の10問の内のいくらかを費やして確定させた初期転送位置を元にスキーで滑り降り、彼女はその地点に真っ先に辿り着いている。
初日、コピー元のスキー場で確かめた監視員詰所である。
(……雪上で最も問題になるのは機動力。スキー技術を持っていないなら尚更、自在に移動できるスノーモービルを入手しに来るはず。これを手に入れた者が絶対有利の手段。だから真野も、あの日にこの小屋の近くにいた)
彼も、小屋の位置を記憶しようとしていたから。
それでも秋音の方が早い。彼女の転送位置は真野よりも麓に近く、事前にルートを検討しており、そして彼女にはスキー技術がある。
しかし彼女は小屋に入ることなく、その一歩手前でストックを差し、脳内に最初の問いを走らせた。
(Q1――真野は試合中にここを通る?)
「多分違う」
完全なゼロではない。小屋に近づきすらしないのであれば、『いいえ』という回答が帰ってくるはずだ。
僅かに移動しながら、質問を重ねていく。
(Q2――真野は試合中にここを通る?)
「はい」
(Q3――私は試合中にここを通る?)
「いいえ」
三問を消費。しかし勝利に限れば、その一つの答えを得られれば十分ではある。
(Q4――十分以内に、真野はこの小屋を見る?)
「いいえ」
万全の安全を確認した上で、必要な仕掛けを終えた。
彼女自身は小屋に入らず、程近くの岩陰へと身を潜めている。
彼女が纏う防寒服は、全てが純白の雪中迷彩だ。よもや先日の赤いスキーウェアを真野が愚直に信じ込むとは思えないが、それでも打てる布石は打ち、潜伏という可能性から意識を逸らそうとした試みの一つではあった。
(雪中装備は完全……けれど、待ちを狙うなら三時間程度が限界か……)
それは相手も同じことだろう。いつまでも雪中で待つことはできない。必ず建物へと向かう。
そして遅かれ早かれ、真野がこの監視員詰所に訪れることは『フラガラッハの嚮導』で確定させた。
粗悪な密造コルト・パイソンを構え、到来を待つ。
「……」
(――真野金と戦ったら、私は勝てる?)
『フラガラッハの嚮導』への問いではない。前日。そして二日前。それは一日一度ずつ尋ね、そして分かりきっている答えだ。
スキー場で真野と遭遇したあの日以降、この問いには『はい』の回答が返るようになった。
この曖昧な問いに……それも二日前の時点から肯定が返ることは、彼我に余程の戦力差がない限りあり得ない。
伝説の便利屋は、既にそれほどまでに衰えてしまったのか。
闇に生き、全てを成功させて、それでもいずれ……何も残ることはない。
(私は、どうなのだろう)
生きる上での何もかもに、ただ一つ、『正解』の道を見出すことができる。
けれどそれを知った上でなお、彼女はどうしようもなく誤ったこの道の上にいる。
真野金と同じ、破滅への道だ。怯え、憔悴して、敵に降参すら懇願した男は、あるいは飯田秋音が未来に至る姿だ。宇津木秋秀も、きっとそのことを知っていた。
(私は真野金に勝てる?)
勝つ。それが証明されなければならない。
同じように答えを得る能力であっても、彼女は真野とは違う。
ただ一つのささやかな未来を、最後には得ることのできる『正解』があるのだと。
――もしも願いの権利を使うことのできる未来があるのなら。その時はきっと。
「……来た……」
灰色のスキーウェアが遠くの斜面を下ってくる。あの日に見たものと同じ。
……ならば、そう思い込ませようとしている。
(Q5――あれは偽物だよね?)
「はい」
密封したスキーウェアの内に雪か何かを詰め込んで、木の骨格で支えた人形だ。
だから滑走の最中にそれがバランスを崩し、転倒していく様子を目で追うこともない。左方、別のルートを視認している。
真野金は、やはり雪原に紛れる白いスキーウェアだ。直滑降を試みている。秋音とは比べるべくもないスキー技術。
秋音が狙いを定める監視員詰所とインフォメーションセンターとの中間を取るルートを選んだか。
(Q6――今撃てば、右方向に進路を逸らせる?)
「はい」
狙いを定めはしない。どちらにせよ、吹雪が吹きすさび、指を凍えさせるこの雪原では粗悪銃での狙撃など見込むべくもない。
コルト・パイソンが発した音は、空砲である。
本命は、直前に手元で操作した無線機器。
麓に埋め込んだ爆竹の一つが爆ぜた。電気工作店で購入した遠隔信管である。
「……避けた」
隆起する地形の影に隠れるように、右に進路変更。
秋音の思った通り、斜面の上からの狙撃であると思い込んでいる――彼女が仕掛けた爆竹の爆破が、真野の位置よりも下方に着弾地点を誤認させた。
彼はスキーを脱ぎ捨て、転がるように小屋へと向かう。斜面の上からの狙撃があるのならば、安全な逃げ場は屋内。そのように心理誘導している。
真野が小屋の前まで至ったのならば、十分に『.357逆鱗弾』の射程圏内。
次は空砲ではない。秋音の位置を誤認したままの真野を、一方的に仕留める。
「ハーッ、ハーッ、ちくしょう……ちくしょう、どうして俺が……こんな……」
真野の嘆きの声までもが聞こえる距離だ。
逃避に支配された心理状態では、すぐ近くに潜む敵を見つけることはできない。
……だが。
「……ハーッ、ハーッ……九暗影……」
(……! 足を止めた……)
真野が立ち止まったのは、小屋に辿り着く寸前だ。何を見た。
(私のスキーの痕……最強の便利屋なら……吹雪で覆われた、僅かな凹凸でしかなくてもそれに気づける……?)
周囲を見回し、よろめくように歩く。警戒が目に見えて分かる。リボルバーを回転させ、空砲をもう一発打ち込む。同時に爆竹を爆破。
思考の猶予を徹底して奪う。
「ヒイッ!?」
(早く、小屋に!)
まだ近づかない。策を見破られているのか。演技なのか。
敵は衰えた英雄だ。判別がつかない。
(Q7――敵は私の位置に気付いている?)
「多分違う」
吹雪に交じる自らの囁き声に、秋音は奥歯を噛んだ。
疑っている。見つかることはないが、100%ではない。だが。
真野金は震えながら次の動作を見せた。
「ちくしょう……勝てるはずなんだ、大丈夫だ……俺を信じろ。俺は……真野金だ……」
(手袋を脱いだ……!)
拳銃のトリガーに指をかける準備をしている。位置が割れたのか? 敵は先に撃ってくるのか?
残りは三問しかない。飯田秋音は勝てる。それは最初に確定している。
……だが、この焦りに負けて貴重な質問回数を費やし続けるのか?
(Q8――敵は私の位置に気付いている?)
「 」
発砲音が響いた。真野が撃ったのだ。いや、それよりも。
(……聞こえなかった! フラガラッハの……私自身の答えが!)
潜伏中の彼女は、囁くように答えなければならない。吹雪の只中で答えなければならない。だがこのタイミングで、真野の闇雲な発砲音が……!
(彼は見つけている? 伝説の魔人。私は勝てる? ここで直接戦ったとして……)
真野が銃口を向けた。秋音は咄嗟に飛び出していた。
直後の銃声は、全く見当違いな方向を抉った。
「……出てきやがったな……九暗影……! 一つ、頼んでもいいかな……」
「答える必要――」
秋音の反応は、真野よりも速かった。リボルバーを二つ進めている。順序は、牽制用の実弾が二発。その後に必殺の対魔人マグナム弾『.357逆鱗弾』が来る。
真野が銃口を向ける。狙撃ならばともかく、格闘戦の速度で当てるには、その距離はもはや遠すぎる。高速の判断で右に躱す。『フラガラッハの嚮導』を費やすまでもなく、銃撃を回避している。
秋音の本命は拳銃を構える右手ではなく、後ろ手に回した左手。ナイフだ。
スキーウェアの下に防弾装備を着込んでいる可能性がある。露出した頸部の切断。
「なあ、降参し……」
真野の足が、積雪を蹴って跳ね上げる。目潰しに眩みながらも、肩からのタックルで真野を突き飛ばす。軸足だけで立っていた彼は容易にバランスを崩し、倒れた。
「は、話を聞いてくれ!頼むよ!」
横に転がりつつ叫ぶ。寸前まで真野の頭部が存在していた位置を、コルトパイソンの実弾が抉った。
乏しい防寒装備に体力を削られているとしても、身体能力そのものは真野の方が上だと考えるべきだ。
起き上がる初動にナイフを突き込む。スキーウェアの左腕が刃を絡める。秋音は即座に柄から手を離し、腰の後ろの二本目のナイフを取り出している。
「ああッ、クソッ、俺、俺はもう、戦いたく……!」
吹雪の如き斬撃の猛攻を前に涙すら流しながら、敵は後退していく。
防戦の一方だ。秋音が仕組んだ通りに。
真野の右手。握られたままの拳銃の銃口が上がるのを見る。好機だと思った。
(Q9――今カウンターを取れば、右手を落とせるよね?)
「降参してくれ。九暗影」
「はい。……!」
銃撃が、ナイフを握る左肩を浅く抉った。大した傷ではない。
しかしカウンターの好機を逃した彼女は、防寒装備の中で冷や汗を流していた。
――聞こえてはいないはずだ。戦場に設えられたマイクも、そこまで細かな音を拾ってはいない。国家規模のグロリアス・オリュンピアにおいて、この僅かな会話如きで降参の判定を下すはずがない……。
(私のミスだ。今、動揺せずにナイフを切り込んでいれば、真野の右手を落とせた……けど……もう一つの狙いは、今当たる)
逡巡も後悔も一瞬のことである。飯田秋音の思考は速い。彼女もまた、右手の銃を撃ち放っていた。真野が飛び退いて避けるように。
果たして、真野はそのように躱す。それが狙いだった。
「おッ」
間の抜けた声が響いた。
最初の問いで、秋音は確定させていた……『真野が試合中にそこを通る』ことを。
小屋の扉のすぐ手前で、真野は爆ぜて飛び散った自らの左脚を呆然と眺めていた。
「え、あ、うあッ、ちくしょうッ!!」
「……対人地雷にしていてよかった」
勝ち誇るでもなく、秋音は事実を確認している。
敵に勝利をする時、彼女はそのように『正解』を内省する。
「今みたいな格闘戦に持ち込まれた場合、私が被害を受けなくて済む……」
四肢を吹き飛ばす単純な対人地雷は、秋音でも入手可能な粗悪兵器の一つだ。
雪の下に敷いた板の下に地雷を置き……体重を板に載せた瞬間に爆発する、看破不可能な雪中のブービートラップ。
「う、ぐ、ぐあああああ!! 俺、俺の脚、ああ、何なんだよォッ!!」
(四発。五発。……六発)
パニックのままに乱射される銃弾を伏せて避けつつ、動向を冷徹に眺めている。
血の帯を雪上に描きながら、小屋の中へ。当然、そこにしか逃げ場はない。
(……弾切れ)
多少のイレギュラーがあったものの、全ては『フラガラッハの嚮導』が敷いた『正解』のままに。
動けず、武器を失い、狭い小屋で逃げ場のない真野を、『.357逆鱗弾』で射殺。
真野に反撃の手段はない――
(Q10――)
彼女ならば、それを確定させることができる。
(――私は真野金に勝てる?)
「はい」
恐るべき国家刺客は、監視員詰所へと踏み入っていく。
全てを失った古い伝説に、その手で引導を渡すべく。
「降参してくれ。本当に……頼む……」
扉の向こうからは懇願が聞こえる。血の跡とその呟きで、真野の隠れ潜む部屋も分かる。この期に及んで、彼はそれだけに縋っている。
「答える必要、ないよね?」
「――是」
「……?」
「……大概是吧……」
意味の掴みかねる呟きだった。しかし、言いようもない恐ろしい予感が秋音の足を一瞬止めた。
その予感は正しかったが、そうするべきではなかった。
「なあ……九暗影……なんでだろうな……。最初に、スキー場で会った時だよ……」
「何を言って……」
「なんで大陸の暗殺者が、日本語で独り言を言ってるのかなあって思ったんだよ」
「……」
「この試合が終わったら、ハハ、美味いコース料理でも食いたいよな……」
秋音はすぐさま扉を開け放った。真野は座り込んでいた。無力だった。
ただ、スキーウェアの中に隠していたと思しき武器を抜いていた。
日本刀だった。
「前菜のコンソメジュレ」
「なんで……」
「魚料理はさ……真鯛のポワレのブルーテソースとか……ハ、ハハハ……」
「待って、なんで、どうして……」
――宇津木秋秀の日本刀を、真野金が持っているのか。
それは全てを覆す恐るべき事実を、彼女に突きつけていた。
「なんでだろうな……? 外国の暗殺者の『逆』ってなんだ? こういう質問には、あんたは答えられるのか……教えてくれよ、九暗影」
「……そんな、嫌……」
真野は、指で『右一文字』の鞘の先端を弾いた。
木彫りの工作で僅かに延長されていた先端が、それで外れる。
鞘の黒塗りに紛れて仕込まれていた空間からは、一枚のコインが落ちた。
「――ジャックポット」
剣士である宇津木秋秀は、自らの刀を肌身離さず持ち歩いている。
そうだ……秋音が宇津木と会っていたその時、その空間の内部には、別のものが仕込まれていたはずだ。
あの日、なぜ宇津木は秋音に会いに来たのか。何らかの言動で大会運営の彼を動かしていたのだ。宇津木自身も気づかない内に、真野が情報を得るためのスパイに変えられていた。
(ボイス……レコーダー……私の……私の、二日前の時点の会話が、全部……)
――私は、エネルギー庁の国家刺客魔人。それ以外に何か必要?
飯田秋音は今死ぬ。
いざという時には、最初から居なかったことにする。
文字に残されることも許されない、特級の命令だった。
「は、はっ……はあっ……!」
今は、秋音が荒い息を抑えて、真野に銃口を向けていた。
(何も……反則ですら、ない……。真野金は、試合外の戦闘行為をしていない。誰にも危害を加えていない。何一つ……破壊すらしていない……!)
「無駄だ」
『.357逆鱗弾』。あらゆる防御を貫いて、真野金を殺すことができる。
けれど、それが何になるのか? グロリアス・オリュンピアは、死亡すらも試合後に回復させてしまうことができる。ひどく残酷なルール。
真野の構える日本刀は、殺されてもなお事実を暴露できるという、秋音だけに伝わるメッセージだ。
「弾切れなんだろ?」
いいえ。間違っている。弾切れなのは、あなたの方なのに。
「俺の刀が、あんたを斬るほうが速い」
「か、勝っていたのに……私、私は……」
――間違っていた。
全てに『正解』を導き出せる能力であるのに、それを用いる飯田秋音が、最初から問うべき質問を間違えていた。
A2――真野金は何らかの理由で、全力を出せない状況にある。
A3――それは傷病ではない。
A4――それは魔人能力である。
A7――監視員詰所は今回の戦場に反映されている。
A8――今回の戦場でも、設備は動作する状態である。
A9――飯田秋音の転送位置は真野金より麓に近い。
A10――真野金は本気で飯田秋音に降参してほしいと思っている。
A1――真野金は飯田秋音に何も仕掛けていない。
A2――飯田秋音の拠点は危険ではない。
A3――今、真野金に協力している魔人能力者は一人もいない。
A4――宇津木秋秀は飯田秋音を騙していない。
A1――真野金は試合中に地雷埋設地点を通る。
A3――飯田秋音は試合中に地雷埋設地点を通らない。
A4――十分以内に、真野金は監視員詰所を見ない。
A5――坂を滑走するスキーウェアは偽物である。
A6――今撃てば、右方向に真野金の進路を逸らせる。
A7――真野金は飯田秋音の位置に気付いていない。
A9――今カウンターを取れば、真野金の右手を落とせる。
A10――
(私は、真野に勝つことができるのに)
エネルギー庁に居場所がなくなる。その一つさえ厭わなければ、この引き金を引くことができる。彼女は勝つことができる。それはあるいは、彼女の人生における『正解』であるのかもしれない。
ああ。それをしてしまえば、もう早乙女に返らぬ問いを問うこともないのだろう。
――この仕事でなくとも生きていけるのではないか?
違う。違う。私にはこれしかない。
どんなに明らかな『正解』が見えていても、そうでありたかった。
「答えてくれよ、九暗影。……あんたは、降参してくれるよな?」
(Q11――私は真野金に勝ってはいけない?)
『フラガラッハの嚮導』の答えは、一日十解。
それ以上はない。彼女は、自分でそう答えるしかない。
「はい」
真野金。やはり、宇津木秋秀の言っていた通りだったのだ。
「ははっ、はははははははははは! はははははははは!!!」
脚を奪われた無力な男は哄笑した。まるで怪物の合唱のように、それはスキー場全体に響き渡った。
そうだ。監視員詰所の、ここは放送室だ。
飯田秋音の『答え』は、この試合を見る者の全てにアナウンスで届いている――
(わ、私が……勝てる相手では、到底なかった。格が、違いすぎた。この男はただ……私に近づいて話すだけで良かったんだ。この小屋に私が待ち伏せしていることも気付いていた。真野金。この男は……)
「やっぱり……や、やっぱり、俺の思った通りだ!」
英雄の自我が失われていたとして、それがなんだというのか。
「な、何度も……何度も、何度も、何度も!! 頼み込んでよかったよ、九暗影! あんたは……やっぱり、降参してくれたなああああああ!!」
銃を取り落として、少女はその場に崩れ落ちた。
(狂気すら呑み込む、化物――)
「……今日もコンビニの握り飯か?」
「ああ?」
明るい昼の日差しが差し込む、エネルギー庁本部庁舎の休憩室である。多くの職員が外食を選ぶ中にあって、彼の昼食は常に質素な出来合いの惣菜であった。
同僚を見上げて、早乙女は気怠げに答えた。
「別に、今すぐ栄養不足で死ぬわけじゃない。料理の時間もいらないしな」
「作ってくれる彼女はいないのか。ほら、あれだ」
「ああ……飯田の話か」
九暗影の名で出場した彼女は、第一回戦で真野金を相手に敗退。
早乙女からの任務こそ果たせなかったものの、エネルギー庁との関わりは公式に暴露されることなく、いずれ本来の所属に戻ることだろう。
「まあ、いい勉強にはなった。敗退させた真野金を願いで吊って、エネルギー庁の手駒に置きたかったとこだったが……欲をかきすぎるのも考えものだ」
「だから曖昧な命令しか出してなかったんだろう。何が国のエネルギー政策だ。飯田も随分困ったんじゃないか」
「その程度で困るような育て方はしてないさ」
「真野の降伏勧告には随分困っていたように見えたがな」
ビニールの包みを剥きながら、早乙女はくつくつと笑った。
「……いや、あれでいい。任務遂行を優先して勝ちを選べる鉄砲玉か。それとも、俺という個人につく忠実な道具か。いい試金石になった。俺も、あれだけ手塩にかけた道具を手放すのは惜しい」
「いつか刺されるな、お前」
「いいじゃないか。自分で鍛えた道具に刺されるなら本望だ」
同僚は隣に座り、弁当箱を開ける。早乙女の食事は既に終わっていた。
一人立ち去ろうとしたが、思い留まって声をかける。
「……そうだ。真野金には気をつけろよ。庁の方で何か動かそうとは考えるな。上層部にもそう言っておけ」
「なんだ、藪から棒に」
「俺はあいつを利用しようとしたが、どうも、奴の方がそう仕向けていたように思えてならない」
「……馬鹿な。そんなことが可能なのか」
「伝説の英雄が……弱みを抱えて、政府主導の試合に出場する。しかも政府のエージェントがスカウトに来るまで奴は待っていた。最初に情報を得るのは俺達だ。俺じゃなくても、誰かが奴を利用しようとしたはずだ」
「……」
「そして俺は今、まんまと奴に弱みを握られてる」
早乙女は苦笑を漏らした。
真野金はもはや、飯田秋音の情報を人質にできる。
無論、早乙女が彼女を切り捨てることは容易だが――それと引き換えにするまでもない軽微な『要求』であればどうだろうか。
皮肉にも第一回戦の最後で彼女が見せた忠誠のために、早乙女も飯田秋音を惜しく思っている。
「気をつけろよ。世の中には本物の化物がいる」
「……お前がそれを言うかよ」
一人残された男は、そう吐き捨てた。
ごく当たり前の、家庭的な弁当だ。彼は早乙女のような冷血漢とは違う。
形の悪い卵焼きを口に運びながら、小さく呟く。
「くだらない」
――たかが子供の願いくらい、お前が叶えてやれば良かったんだ。