1回戦SS『Q:真野金は最強なのか?』
Scene03-a) 3/10(Sat.) 21:00
それは一つの荒涼の光景である。
大量の雪とともに寒風が吹き荒び、荒れ狂う不毛の地。
不安定な氷の地盤。大口を開けて待ち受けるクレバス。
準備がなければ――あるいは準備があったとしても、その低温は来訪者を容易に寒からしめ、動きを、ひいては命をも奪うだろう。
ここは人を拒む、天然の死の檻。
そして一つの決着をつけ、明暗を分ける――今はまだ白き戦場。
グロリアス・オリュンピア第一回戦・雪原STAGE
『フラガラッハの嚮導』九暗影 VS 『イデアの金貨』真野金
雪原の中、厚手の白いコートを着込み、目深にフードを被る女性の影があった。厚手の手袋に覆われた手には、自動小銃のような火器が握られている。
それは女――九暗影の慣れ親しんだ銃ではない。
虎の子の対魔人弾を発射するための専用大型拳銃は、手袋をしながら引き金を引けるものではないし、素手で握ろうものなら金属グリップが肌に張り付いて癒着する。
彼女は拳銃を懐に忍ばせ、主武装としては、寒冷地用の大型木製グリップを備えた小銃を選択している。
転送直後。九暗影は、心の中で一つの問いをした。
(Q1――真野金は短期決戦をしようとしている?)
九暗影の『フラガラッハの嚮導』は、脳内で質問した事項の是非を得る能力。
一方的な襲撃ではなく、彼我の決戦が確定している場合であれば、相手の戦略意図を先読みしておくことが、多大なるアドバンテージに繋がる。それは戦闘開始後の緊急対応に比べ、何倍もの効果を生む。
「分からない」
回答は、彼女の口からという形で発せられる。だが、その答えは期待したものではなかった。
当然だ。対戦相手――真野金は、最初から全てを組み立てているわけではない。
『イデアの金貨』は、その場の状況を利用しての、即断と即応が強み。予断と即応の九暗影では、少なくとも今の時点での相性が悪い。
――貴重な能力回数を、既に浪費してしまった。
九暗影は思わず地面を蹴りそうになり、堪える。意味の無い事をする体力が勿体無い。
――駄目だ、考えろと。考え続けろと、理性は言う。でも、ここまでまったく思い通りに運んでいない。
視界は吹雪で白く不透明で、彼女はさらに、苛立ちと不安を募らせた。
Scene01-a) 3/7(Wed.) 21:00
土曜日の午後9時から、日曜日の午前2時。
グロリアス・オリュンピア本戦――九暗影VS真野金の、試合期間だ。
奇しくもそれは、一般的な希望崎学園でのダンゲロス・ハルマゲドン――いわゆる“本戦”の開始時間と同じものだ。多くの学生や社会人の休みであり。次の日も休日であることが多く。白昼ではなく、適度な深夜帯である。
魔人同士の闘争興行の場として、お誂え向きの時間設定だ。
名目上は冴えないアジア系の留学生と、しがない清掃店の店主という、いささか画としての盛り上がりに欠けるマッチアップが、こうして絶好の開始時期を得ていること。
それは五賢臣が、この勝負を王女の上覧に堪えうると判断をしているということだ。
そのちょうど三日前が、組み合わせの発表となる。そして、真野にそれを伝えに来た男が居た。
「九暗影。能力は『フラガラッハの嚮導』。それが貴様の相手だ。戦場は雪原――」
メッセンジャーの老剣士は、テーブルに突っ伏すように蹲る、目の前の男に連絡事項を告げた。
「……真野」
参加表明を経てなお、彼にかつての溌剌とした様子は見られない。
テーブルの上には、注射器が無造作に転がっている――かつての英雄は、今やそこまで堕ちたのか?
突っ伏していた真野が、わずかに顔を上げて口を開く。
「マジで……マジで出来るんだろうな、勝ちゃあ」
「ああ、勿論だ。イプシロン王家の秘薬――あれは途轍もない魔具だ。あらゆる怪我。病気。死亡。肉体消滅。不可逆変質。……記憶。それらを――」
「……がう」
「――試合前どころか、望むならば過去に遡って欠落を復元できるという。特定時期へ巻き戻しを希望するには勝利が必要だが、これさえあれば貴様の――」
「……違う。そっちじゃねえ……願いの、話だ」
「願い?」
老人は意外そうに眉を上げる。
「――まさか貴様に、そのようなものがあるとは」
「質問に答えろ。俺はマジかどうかを聞いてる……!」
彼の語気には往年の、飄々とした余裕は無い。
「真実だ。委細は分からんが、公然と斯様な嘘を吐く者を王女に戴くような国家が、ここまで存続できるものか。しかし分からんな。何が望みだ? 金か? 名誉か? あるいは愛か? 死者の蘇生か?そうだな、それとも……まだ力でも望むか?……本気を振るうに足る強敵が足りぬか?」
「……」
「答えずとも構わぬ。貴様が何を望もうが、一向に構うまいて」
老人は満足げに目を細める。
「――貴様は来た。多くの者が、いずれ貴様という存在を……貴様の力を識る!」
(……違うんだ。違うんだよ、ジジイ)
Scene02) 3/9(Fri.) 0:15
試合を二日後に控えた夜に、九暗影は、選手控え室の中で黙考する。
何度かの能力使用回数を投じ、既に真野の『イデアの金貨』に対する推量は組みあがっている。
『イデアの金貨』は、十中八九、コインの投擲をトリガーとして、望む結果を導き出す能力。ある意味では、『フラガラッハの嚮導』と似通ったものだ。
しかし、『イデアの金貨』が望む結果を取り出すものだとして、万能の願望器ではない。それは一介の魔人の持つべき力ではない。
強力な効果を持つ魔人能力には、制約がつきものである。現に、『フラガラッハの嚮導』は限定予言という強力無比なものであるが、回数の制約がある。
例えばそれは、効果対象。効果時間。発動条件。使用代償。
(そのどれでもなく――効果範囲)
その制約に、九暗影は思い至っている。能力残弾を消費するまでもない。彼女は回数制限のある能力を行使し続けているからこそ、能力を使わずとも洞察できることは、推論に拠って導く必要がある。
コインを投げるという動作によって発動するものであれば、効果範囲は自ずと推測される。
コイントスが見える範囲か、コインの音が聞こえる範囲。前者は観測者が必要になるため可能性は薄い。恐らくは後者だろう。
つまり、彼女の最大の勝ち筋は、効果範囲外――長距離からの狙撃となる。
それを十前に達成できるのは、どこか?
戦場の雪原ではない。吹雪で視界が確保できないおそれがあるからだ。
九暗影の選択した戦場は、現実世界――試合開始の前である。
選手控えとなっているホテルを臨む、あるビルの屋上。
会場の警備を、“まるで配置を知っているかのように”掻い潜った、一人の少女の姿があった。
夜闇に紛れ、狙撃銃を構える初期設定の少女。頭部にはインカムをつけている。
それは九暗影の借り受けた、サンプル花子であった。
- 反則事項
- 「試合時間以外での戦闘行為(ただしサンプル花子とのスパーリングを除く)」
- 「対戦相手以外に危害を加える(ただしサンプル花子を除く)」
- 「試合場以外の場所での破壊行動」
- 「試合時間に遅刻する」
選手はスパーリング用として、サンプル花子の貸与を受けることができる。
狙撃銃を構えさせたのも、名目上、スパーリングとして九暗影を撃つためとなっている。
『フラガラッハの嚮導』で射線を指示するのも、ただ練習条件を指定するためだ。
万一誤射をして、「真野金の居室」に着弾したとしても、試合時間以外での戦闘行為をしたのは九暗影ではなく、サンプル花子だ。
ルールの上ではグレーだろう。だが、彼女には見立てがある。
相手を殺害してしまっているなら、反則紛いの行いであろうと、強いて失格にはしないだろうと。それはただでさえ減ったバトルの回数を、より減らしてしまうことになる。
王女の観覧の希望に添えぬ行いを、政府が望むことはないだろう。それに。
(早乙女が仕事をこなしたなら。相手は、私が狩ることを期待されている魔人)
真野は蹴落とすべき、危険思想魔人である。絶対にそのはずだ。
早乙女の期待に万が一でも、背くことは出来ない。そう九暗影は考えている。
そうではないのではないか、という疑念も、浮かんではいる。
――早乙女は失敗しており、相手は無辜の魔人なのではないか?
――そもそも、自分が捨て駒であり、任務の達成を初めから期待されていないのではないか?
それでも彼女は、信じている。彼のことを。
『フラガラッハの嚮導』を使えば、真実は詳らかになるのだろう。これは疑念を確信に変えることができる力だ。どちらに転ぶにせよ。
だが、彼女は使うことはない。
能力の使用回数は限られている。そのようなものに、貴重な回数を割けない。
何よりも、もう彼に対する不安を、確定させたくない。もう十分に承知しているから。
それは一方的な盲信であるが、それでも彼女の寄る辺であった。
サンプル花子が狙撃銃を構えた。
『フラガラッハの嚮導』があれば、見えぬ位置の敵を狙撃することが可能である。彼女の問いは、ただ絶対の事実のみを告げるからだ。
確実に真野の現在位置を捉え、サンプル花子が引き金を引こうとした瞬間、それは現れた。
「……貴様の行いは――」
不可視の遠隔斬撃が、彼女の狙撃銃を両断していた。
「――見切っているぞ。九暗影、いや……飯田秋音」
抜刀した、スーツ姿の老剣士であった。インカムの先の相手を威圧するように、男は切っ先を向けた。
九暗影――もとい、飯田秋音は、彼のことを知っていた。
宇津木秋秀。日本政府直属の――つまりは大会運営本部のエージェント。裏社会最強の便利屋であるという真野金を、この上覧にスカウトしたという男。
<スパーリングの邪魔、しないでもらえる?>
インカム越しの秋音が、苛立たしげに答えた。
「対面戦闘が不利と見て、小細工を弄したか。だが戦場というのは、銭勘定のようにはいかんぞ? そう主人にでも伝えておけ。通産屋の犬」
――自分の所属も見破られている。秋音は内奥の動揺を飲み込み、問い掛ける。
<……私を通報するつもり?>
「ハッ!まさか」宇津木は一笑に付した。「その逆だ」
「お前を守りに来た」
その意味を測りかね、沈黙する秋音。宇津木は鼻を鳴らすと、続ける。
「俺は陰謀屋ではない……観客だ、あの男のな。あ奴が最強だと示すためには、衆目の場が要る。このような前哨で、無為に決着がついてよいはずがなかろう?」
<それがなんで、私を守ることになるの?>
「……察しが悪いぞ。貴様がこのまま策を進めていれば、真野の術中だ。貴様が失格となり、奴は労せず次へ歩を進める。奴自身にとっては面倒がないだろうが、俺にはそれが堪えられん」
(Q6――彼の言葉は本当?)
<多分そう>
「……何か?」
<いえ。何でもない>
秋音は咄嗟の質問を後悔する。
事前襲撃が失敗した時点で、切り替えなければならなかった状況だ。無駄撃ちしていい局面ではない。
だが、失敗に終わった事自体は、厳然たる事実だ。彼女が宇津木に、救われたであろうことも。
<……礼は言わないから>
「言われてたまるものか。貴様の敗残は変わらん」
老剣士は刀を鞘に収めた。
物別れだ。秋音は花子に撤退指示を出すと、インカムの電源を切った。
そのままベッドに倒れ込む。
これで仕切り直し――どころか、事前襲撃にリソースを振り分けた分、大幅不利だ。
こんなザマでいいはずがない。秋音は決意を新たにすると、微睡みの中に身を委ねた。
早乙女の温もりがないことに、幾ばくかの寂寥を覚えながら。
Scene04) 3/10(Sat.) 23:40
雪原での戦いは、短期決戦か長期戦かの狙いの違いが、とみに顕著に出る。
防寒具を十分に着込まねば、そもそもとして長期戦など不可能だ。
だが、防寒と格闘能力はトレードオフの関係にある。厚着は格闘戦能力を大きく制限するためだ。一方で、十分に格闘できるだけの軽装では、長期戦に持ち込まれた瞬間に低体温症で終わりだ。
つまりは、通常の戦闘に加えて、短期決戦か長期戦か、相手の狙いの見立てが重要となる。
九暗影の選択は長期戦。
相手を近付かせることなく、自動小銃の間合いと制圧範囲で追い立てながら、罠――ワイヤーと爆弾を張った樹林帯で構える。近付きたいはずの真野にとっても、遮蔽物を駆使できる場所での戦いは、悪い選択肢ではない。
開けた場所であれば、銃の間合いを越えて詰めることは難しいからだ。
陣地を構築されることを嫌い、彼は短期決戦を狙ってくるのではないか。
それが九暗影の見立てではある。それ故、何よりも奇襲を警戒しなければならない。
猛吹雪が続いている。視界が制限されれば、それだけ悪天候に乗じた接近を許す可能性がある。
死角が多くなる作業を行う際には、事前に半径200m以内に敵が存在しないことを、Q2~Q4で確認していく。
そうして手持ちの爆発物のほとんどを設置しつくし、九暗影は息を吐いた。女性一人でこなすには、結構な重労働だ。
いつの間にか吹雪も止み、静謐な闇夜が姿を見せていた。夜空の漆黒と、大地の純白――モノクロームのコントラストが幻想的な風景を描き出していたが、彼女にそれを楽しむ余裕はない。
左手。彼女は入念に時刻合わせを行った時計をちらりと見る。
23時40分。もう総試合時間の半分以上が経過していた。
5時間が経過してしまえば、両者共に失格になる。様々な状況を鑑みても、そろそろ仕掛けなくてはならない時間帯が近づいている。真野はどう出てくるだろうか?
彼女の予感をあざ笑うように、遠くに乾いた破裂音がする。
銃声――ではない。爆発の音のような。
「……まさか」
九暗影は真野の目論見を察する。
爆発の衝撃で滑り落ちた雪塊が、すぐに流れ落ちてくることだろう。
暴力的な質量が、樹林地帯を呑まんと迫り来ることだろう。
それは九暗影の仕掛けた罠ごと、木々をなぎ倒し――
(Q5――氷湖の方に走れば雪崩から逃げ切れる?)
「はい」
後悔に押しつぶされる時間はなかった。そうしていては雪塊に押しつぶされる時間が来る。
――本当に、何もかもうまく行かない。
九暗影は踵を返し、迫り来る死の白から逃げ出した。
Scene03-b) 3/10(Sat.) 21:00
試合開始直後。雪原フィールド、小高い丘の上に、一人の男の姿があった。
白いコートに身を包んだその男――真野金は、吹き荒れる吹雪を見るや否や、コインを放り投げた。『イデアの金貨』一つさえあれば。彼は無敵の男であった時のように、無数のドアを開ける解を得られる。
多くを失い、徐々に衰えゆく頭と身体だが、コインを投げる所作と、イデアを取り出したときの快哉の声だけは、しかと覚えている。
「……ジャックポット」
彼は答えを得た。
岩肌がえぐれ、洞のようになった場所に身を滑り込ませた。
持ち込んだ食料に手をつけながら、吹雪が止むまで、決して体力を使わずそうするつもりだ。
二時間を越えても、彼は吹雪が止むまで、ひたすらそうしていた。
吹雪が止んでからは、真野は注射器を取り出した。自らに打ち込む。中身は覚醒剤――疲労抑制と集中力強化作用をドーズする。
眼下に広がる樹林帯に目を向ける。こちらを探すことも無く、罠を仕掛け続けていたとすれば、九暗影が根城にしたのはここだ。発破によりそこに雪崩を流し込み、罠を踏み荒らす。
事前にシミュレーション計算を走らせた、雪崩の発生条件。
その導式を、真野は一字一句漏らすことなく、深く心に刻み込んでいる。
こればかりは事前準備だ。
戦闘はいかに相手の有利を潰し、自分の有利を押し付けるかだ。
九暗影のアドバンテージは陣地の有利だ。それを潰す。
真野のアドバンテージは体力の有利だ。
九暗影が吹雪の中、罠を仕掛けるために消費したそのリソースを、真野は丸々温存したどころか、薬効によってむしろ増強に振っている。
つまりは、真野の狙いは、対長期戦読みの長期戦だった。
九暗影の読み通り、『イデアの金貨』と『フラガラッハの嚮導』は、似通った力と言える。
効果範囲と回数制限という違いさえあれ、その効果を使わずとも洞察できることは、推測し、思考し、行動する必要がある。
能力の強さの差ではなく、敵との読み合い。そこで真野金が上を行った。
Scene05) 3/10(Sat.) 23:50
雪崩から逃れた九暗影に、突き進み襲い来る影があった。
九暗影はすぐさま対応し、小銃を精確に撃ち込む――も、止まらない。
それは人影でなく、肥大化して転がり来る雪玉。
(Q6――右側に転がればかわせる?)
「はい」
彼女は「はい」とだけ呟き、真横に転がり雪玉との激突を避けた。
すぐに銃を構えなおす。転がしてきた相手が近いはずだからだ。
(Q7――前に居る?)
「いいえ」
索敵には十分な結果だ。発声と共に、即座に180度反転。銃を構えた先に、男の姿があった。
それを認めると同時に発砲。しかし、男――真野の動きが一拍早い。足元の雪を蹴り上げ、エイムを切っている。
これは『フラガラッハの嚮導』の難点だ。
奇襲を看破することは出来る。だが、能力を使用した瞬間、「はい」や「いいえ」の発話をもって、看破したこと自体を相手にも伝えることになるため、対応の暇を与える。相手が用心深いなら、奇襲に先んじて逆奇襲を仕掛けることはできない。
「――そいつは」雪煙の先から、真野の声。
「えらく本格的な装備だな……留学生じゃなかったのか? 簡単に化けの皮を見せるもんだな? それとも何だ?その下にまだ着込んでるのか?」
「セクハラに答える必要、ある?」
「……お上手な日本語だ。ネイティブみたいだ……なっ!」
会話はブラフ。九暗影に雪玉が投げつけられた。
小銃での迎撃。雪玉が破砕され、キン!と硬質な音が響いた。
中に詰められていた『イデアの金貨』が、ほとんど音も無く雪上に落ちた。
「――ジャックポット」
九暗影の視線がコインに一瞬向いた時には、真野は距離を既に詰めていた。
右手が振り上げられる。握ったナイフが閃く。
(Q8――右にかわす方が安全?)
とっさの回避判断。『フラガラッハの嚮導』の戦闘応用。
それは十分に機能しなかった。
「――分からない」
九暗影は呟くと同時に、自らの発言に慄然とした。
それは左右ともに安全でないことを意味する。
(Q9――後ろなら安全?)
「多分そう」
咄嗟に後ろに下がる。だが浅く、遅い。
真野の左手から繰り出された、湿ったタオルのようなものが、九暗影の右腕を打ち据えた。
小銃を取り落とす。布地が巻きつくように、彼女の腕に貼り付く。
飛沫が目に入るのを避けながら、九暗影はその拘束を振りほどこうとするが、その時には真野は手を離している。布はべっとりと貼りついたまま、振った腕は空を切った。
真野は既に、九暗影へと飛びついていた。
少女の体躯。銃使い。非直接戦闘型の能力。
決して恵まれた体つきではないにせよ、力比べでは真野が上回る。
「……二択をする能力なんだろう、そいつは。それを回避に使うなら、単純な2分割か、最も脅威な手が来るか来ないかの問いしかない――」
のしかかるように、真野は九暗影を押し倒した。
両手で首を締め上げる。くぐもった悲鳴が、潰れるように消え行く。
「……合ってるか?合ってるよな?」
喉を締め上げられている九暗影は、それに応えることも出来ない。
真野の能力攻略選択肢の一つだ。発声を不可能にし、能力を使わせない。
九暗影はそれでも、真野の足首を掴み引っ張った。
真野は踏ん張るように地を蹴ろうとしたが、落ちていた金貨にぶつかりカツン!と踵を鳴らすに留まる。凍結した地面に安定を保てず、滑るようにバランスを崩した。
彼は首から手を離すと地面に手をつき、姿勢を立て直した。
「ケハッ……!ケハッ……!」
九暗影は乱れた呼吸を整える。もしも地面が凍湖でなければ、彼女はこのまま終わっていただろう。
何とか仕切り直しに――出来たわけではなかった。
真野は足首を捕まれる瞬間、鉄板仕込みの踵で、思い切り金貨を蹴り鳴らしていた。擦過で散った火花が、布地に染み込んだガソリンに引火していた。
巻きついた九暗影の右腕が燃えていく。
首絞めで酸素を奪われていた脳では、状況に対する対処が遅れた。彼女が地を転がり、火を掻き消す頃には、肘から下は大部分が焼け焦げていた。
腕自体は軽い火傷で済んだが、問題は袖だ。防寒の機能を失い、下腕部はすっかり露出していた。
(……最初から、この形を狙っていた?)
九暗影とて、考えすぎだと思いたかった。
Scene01-b) 3/7(Wed.) 21:00
(……違うんだ。違うんだよ、ジジイ)
――『イデアの金貨』は、彼の能力ではない。これは祖父より継いだ、呪いの魔具だ。
彼の真の能力は、祖母のものだ。「深く心に刻みこんだ」事柄を、半永久的に保持できる能力。そして許容量を超えたものについては、完全に記憶から抹消しなければならないし、することのできる能力。
彼はすべてを忘れていった。
打ち倒してきた、無双の強者を。それは要らぬ過去だ。
蓄えてきた、無辺の知識を。それは要らぬ現在だ。
(……俺は、最強であり続けたいわけじゃない)
誰もが彼を、最強と担ぎ上げ、最強を相手にせんと挑み、面倒事を持ち込み続けてきた。
(そんなのは、テメエらが勝手に呼んだことだろう)
だが真野は、そんなものに一切興味はない。ただ明日をつつがなく生きていければ、それだけでよかった。
本当にそれだけだったのに。随分と遠回りをさせられた。
ここに来ても、また遠回りだ。祖父の形見は、道を進む方法を教えてくれるが、それだけだ。
道の先がどこに続くのかは、一度も教えてはくれない。自分で考えるしかない。
(――俺が忘れるだけでは、駄目だ)
真野は思索を巡らせた。今の彼には、道の先――目指すべき頂がある。
(俺について、一切を忘れさせる。それが願えるんだろうな? 王女サマとやら)
Scene06) 3/10(Sat.) 23:55
九暗影は、素肌となった右手にマグナム銃――".357逆鱗弾"の射出用、を構えていた。もはやこれを握ることを制約していた手袋は無い。勿論、この氷点の環境下で、長く戦い続けられるわけでもないが。
起死回生のQ10――遮蔽物に身を隠したところを、逆鱗弾で貫通殺する可能性は、空しく「いいえ」の言に潰えていた。
一方的に耐久戦の利を得たにもかかわらず、真野は離脱しようとはしない――出来ないわけではない。
時に雪を蹴り上げては、射線を乱しながら。時にリボルバーを抜いて構えてみせ、脅威を見せ付けながら。
付かず離れずの距離を維持したまま、粘り続けること。これ自体が、真野の選択する長期戦である。
もしも真野が離脱してしまえば、九暗影は手持ちの装備をやりくりして、申し訳程度だろうが右手の防寒措置を施せるだろう。
このまま素手を維持させれば、指はかじかんでいく。マグナム銃の金属グリップは、皮膚に張り付いて剥がれなくなる。こうして最前線で時間を使わせること自体が、真野に有利をもたらす。
だが。
(……本当にそうか?)
数度の交錯のうち、真野は疑念を覚える。
同じ結論に、九暗影が辿り着いているとしたら。このまま座して敗北を待つだろうか?
彼女も強いて積極攻勢に出てはこない。何かを待っているのではないか?
(試す程度だ。試す程度なら、時間は作れる……)
ホルスターから拳銃を抜く。同時にホルスターに仕込んだ、隙を見て拾い上げていたコインを小指の先で引っ掛け、挟み込む。リボルバーの牽制射線を九暗影に向けると同時。銃を持ち上げる勢いのまま、コインを指から滑らせるように抜き放った。
一分の隙もない動きだったが、彼が「ジャックポット」の快哉を上げることはなかった。
――コインの落ちる音より早く、鳴り響いた音があった。
Scene07) 3/11(Sun.) 0:00
ピピピピピ!
鳴り響いたのは、時計のアラーム音。
九暗影が、0時00分ちょうどにセットしたタイマー。
それはリロードを告げる音。
『フラガラッハの嚮導』の使用回数制限を、リセットしたことを示す音。
刹那、九暗影は反転。
コートが翻る。銃口が覆われる……射線が見えない。
(Q1――心臓を(Q2――頭部を(Q3――眼を(Q4――右手を(Q5――左手を(Q6――右脚を(Q7――左脚を(Q8――肺を(Q9――腹部を撃てる?)))))))
『フラガラッハの嚮導』の、高速並列使用。ここを逃がせば最早チャンスはない。問いに対応する答えが、連続して彼女の口から発せられる。
「いいえ多分違ういいえいいえ多分そう多分違うはいいいえいいえ」
――七問目!
九暗影は矢継ぎ早に言葉を紡ぎながら、マグナムを抜いていた。
狙いはA7の通り、左脚。『フラガラッハの嚮導』が解を違えることはない。
対魔人マグナム弾――“357.逆鱗弾”。
それは対防御能力者を想定した、卓絶した貫通力を備えた銃弾。
銃弾は九暗影の翻した防寒具を、真野が着込む防寒具を穿ち、その先の真野の左脚を、確かに貫いた。
そこで趨勢は決まった。
身動きをほとんど封じられた真野に対し、九暗影は次弾を突きつけた。発射の直前に、真野はこの時点での最適解を選択した。
「……降伏だ」
敗北宣言。
彼は死にたくなかった。自らの死を体験することなく、戦闘は終結した。
決着を告げるかのように、コインの残響が遅れて鳴った。
グロリアス・オリュンピア第一回戦・雪原STAGE
『フラガラッハの嚮導』九暗影 VS 『イデアの金貨』真野金
勝者――九暗影
Scene08) 3/11(Sun.) 0:35
彼に衰えは確かにあったのだろう。
真野金がかつての全盛であれば、遅れさえ取らなかったのかもしれない。
だが、グロリアス・オリュンピアは、最強であった者を決めるものではない。
今、最強である者を決めるものである。勝者こそが強者と見なされる。そこに一切の例外はない。
この場では、ただ、勝敗がついた。それだけのことだ。
決着後……控室へと転送された直後。
九暗影は息を吐き、決意する。
質問回数は、一つだけ残っていた。
今であれば、訊くことが出来た。
(Q10――彼は私が排除すべき魔人だった?)
「いいえ」
解答はいつも無慈悲だ。何の配慮も無く、最悪の答えを突きつける。
彼女は己の能力を呪うとともに、実際に命を奪わなかったことに、少しだけ、安堵した。
「真野。貴様は……」
老人は「わざと負けたのか?」と問い詰めようとし、それを取りやめた。それは両者に失礼な問いだ。
「……まさか?」
訊こうとしていた内容を察したかのように、真野は応える。
「まあだが、これで全部終わりだな……清々するな?
アンタみたいな強い奴に一杯食わしてやるのは、楽しいからな。俺が負けるとは思わなかったんだろ?」
どこまで本気で言っているのか。この男の本音を見れたことは、今の今まで一度も無かった。
――今の今までは。
「……これでいいだろ。俺はもう最強じゃない。この通り負けたんだ……
……もう俺に関わるな。じゃあな」
真野は老剣士に、吐き捨てるように告げる。
「真野」
「……俺の前から消えろ……二度も言わせるな」
「……貴様は、何を苛立っている?」
老人の言葉に、真野は癪に障ったかのように睨み付ける。
「……決まってるだろ? 分かんねえのかジジイ……!ふざけやがって、ああ、負けたからだよ、クソがっ!」
多くを失ったのかもしれない。だが、真野金は枯れてなど居ない。
敗北を悔しがる、勝利への渇望が。確かに残っている。
「……あそこでこうしてれば……いやもっと前からか……ああクソッ……!」
それは紛れも無く、彼の本音であったのだろう。
ぶつぶつと呟く真野に、宇津木は満足そうに、凶悪に顔を歪めた。
Q:真野金は最強なのか?
A:真野金はもはや、最強の男ではない。しかし、再びそうなる可能性は大いに存在する。