プロローグ(【宝物庫の守護者】張宝盒)


「まるでバッファローの群れでしたね」

 大学もバイトも初めたばかりの、うぶな顔した同僚が、陵辱の限りを尽くされた商品棚を見て、そう呟いた。
 私は菓子の補充をしながら答える。

「大学生です。バッファローの群れ、よりは、まあ、マシです」
「見たことあるんっすか?」
「いえ。でも、ミノタウロスの群れある」

 言った後で、バッファローとミノタウロス違う思ったけれど、同僚は沈思黙考するばかりなので、気にしない。
 正確に伝えるは難しい。
 あれは確か、ミノタウロスでもなかった。悪魔か半魔だったはず。【万物が至る宝物庫】を襲って、我々一族総出で追い返したんだ。あのあとのバーベキューは楽しかったな。
 ミノタウロスが日本で悪魔扱いされているなら、誤解は小さいはず。わからないけど。コミュニケーションは難しい。
 同僚は、重々しく口を開いた。

「ミノタウロスに万引きされたらやっぱ警察ですかね?」
「いるんですか?」
「いえ。でも化けてるのかも。人の皮かぶって」
「人のマネうまいなら財布持ってるじゃないですか?」
「それもそうっすね」

 同僚は分かりやすくホッとした。少し笑う。想像力が高く、変なことばかり考える人だ。ミノタウロスの背丈は人間の倍ある。天井にぶつかってしまう。

「怖い系の話苦手なんですよ。猫又とかあずき洗いとか岩人とか、ちっちゃい頃なんか絵本で見て泣いてホント、眠れないくらいで」
「怖い?」
「怖いっす」

 心底恐れているように腕をさすっている。

「百物語とか。怖い話が百個あるってのがもう怖いですよすでに」
「でも、本当いるじゃないですか。このお店にも。ほら、この時間なると決まって現れる化物……」
「張さん勘弁してくださいよ」

 時計を見る。日没際の今頃に、いつもやってくる。

「体中小便の臭いがして、人と思えない容貌で、歯がひとつもなくって、片足を引きずって歩く……」
「ちょっ真顔でホント勘弁してください」

 同僚は青ざめている。自動ドアが開いて、小気味よい入店音が鳴り、ますます青ざめている。
 錆びた人形みたいにぎちぎちと首を動かして、同僚はそこを見た。
 そして肩をピクッとあげて、言った。

「いらっしゃいませー」こっちを向いて、同僚は苦笑していた。「あの浮浪者っぽい常連さんじゃないですか。確かに臭いし怪しいけど」

 同僚は声を潜めてそう言い、レジへと向かった。

 ――いまはまだ人の形だけど、化物に『なりかけ』だ。正気の均衡が崩れかかっている。
 もし「お釣りが二十円になります」とでも言えば、「なりますってなんだよ」と言い遺し化物へと転ずるだろう。
 弁当のソースをレンジに入れて破裂させたら。
 ホットココアとチョコを同じに入れたら。
 袋の重心がズレて歪んだら。
 箸を入れ忘れたら。
 たったひとつのミスで、私たち従業員や他のお客さんの命を奪い、商品を貪り尽くし、床や天井を破壊し尽くす化物に堕ちてしまうだろう。
 でもまあタバコしか買わないから滅多に間違いはないだろう――。

「俺がエコーを買うような貧乏人に見えるのか!! わかばだ!!!!! 俺が金持っている!!! 御客様だぞ!! おい!! おいなんとか言えよおい!!!!」

 怒声。
 ああ。悪い想像はなぜ実現されるのだろう。
 見ると、彼の体は膨らみ肌は黒ずみ目は濁った血の色に光り口が裂け、大樹のような豪腕で同僚の襟を掴み上げていた。
 もう御客様ではない。化物だ。

 自然、守護者として身体が動いた。
 私は駆け寄って頭を床につけるほど頭を下げる。
 平身低頭。
 こういう相手にはひらすら低姿勢だ。
 頭を下げ、重心を低くして――、一気に放つ。体重をのせたボディブローで、化物は体勢を大きく崩す。足払い。ピカピカに磨いた床が、化物を転ばせる。毎日の掃除に答えてくれる、いい床だ。
 私は化物に馬乗りして、誠心誠意、お悔やみの言葉を申し上げながら、謝意を示す。拳で。申し訳ないと思う気持ちを、何度も何度も、相手の心に、心臓に響くよう、何度も何度も繰り返しぶつける。それでも化物は怨嗟の言葉を宣っている。これ以上どうすればいいのだ。
 ふと思い当たる。日本最上位の謝罪。
 土下座。
 土下座しかない。
 土下座は、まず床に手をつける。
 私は、どのコンビニにも売っている一般的なハサミを使うことにした。
「コンビニエンス」
 私と床との間には、怪物の胸がある。ハサミを怪物の胸に打ち付け、拳で謝意を示す。なにか思うことがあったのか、怪物はうっと息を漏らした。
 まだわずかに人の心が残っているのかもしれない。
 土下座を完遂すれば人の心を取り戻せるか――。
 万力をもってハサミを開き、手を突っ込み、穴を広げ、化物の臓腑を突き破り背までを貫く。冷たく固いピカピカに磨いた床に、やっと指が触れた。
 そして頭を下げる。頭を床につけるのが、最大限の謝意を示す。頭を下げる。化物の頭にぶつかる。それでも下げる。私の頭が床につかなければ、完全なる謝意を示せない。
 頭と床にほんの僅かな隙間を作って、ほんの少しのプライドを保つような、裏切り行為はしない。私はちゃんと床に頭をつける。化物の頭が邪魔でも、床につくまで、土下座は終わらない。
 完全なる謝意には完全なる土下座で報いるしかない。
 土下座だ。私の額は割れるかもしれないが、土下座だ。顔が汚れようが、返り血にまみれようがなんだ。土下座。土下座だ――。

「大変申し訳ありませんでした」

 私の額が床につき、完全なる形で謝罪は終わった。一件落着だ。
 御客様も認めてくれている。
 化物は謝罪を受け入れ、人の心を思い出したためか、人の姿に戻っていた。
 まるで化物などいなかったかのように。
 動かなくなった遺体の胸には巨大な穿孔があり、頭部は砕けているため、あまり人の姿に見えないけれど。動かない唇は、謝罪を受け入れて微笑しているように見える。
 店員が非を犯しても、誠意をもって謝れば、御客様は許してくださる。
 大事なのは、人の心だ。あなたとコンビに。その心だ。

「笑って許してくれたみたいですね」
「……そう、ですね」

 怒鳴られて怖い思いをした同僚は、やっとのことで、そう言った。
 間違いに懲りて、商品の取り違えをしないよう、注意を払うだろう。これまで以上に。そして、もし間違えても、謝れば、御客様は笑って許してくれることを学んだはずだ。
 同じコンビニ店員として――万物が至る宝物庫の守護者として、一緒に働くいい仲間になってくれるだろう。

「人は失敗から学び成長していく生き物だからね」
「………………ホント、勘弁して下さいよ」
最終更新:2018年02月18日 19:39