SSその1


 カツ…………カツ…………カツ…………。

 徒士谷真歩(かちやまほ)の両足が一歩一歩を石畳に刻むごとに、狭い回廊は堅い足音を幾重にも残響させた。

 松明に仄暗く照らされた石壁の彫刻は、色褪せた漆喰の顔料で彩られている。
 そこに描かれているのは、罪の裁きを待つ死者の列。そして冥界の守護者たる獣頭の神である。

「……はん。バカバカしい」

 巨大ピラミッドの内部。
 古代エジプトの荘厳な墳墓を模した石造りの戦闘空間の中を、徒士谷真歩は歩いていた。

 伝説によれば、冥府の神アヌビスは死者の心臓と真実の羽を秤にかけて比べるという。
 正しき者には永遠の楽園が待つ。だが罪の重みで秤が少しでも傾いたなら、罪人の魂は獣に貪り食われるのだ。

(そんな簡単に『罪』なんてものが測れるんなら、この仕事も苦労しねーよなあ……おっと!)

 自嘲を口の内で転がしつつ、一歩を踏み出したその時。
 突如として足元の敷石が音を立てて崩れ去った。
 落とし穴! 不敬なる侵入者を罰する呪いの罠か……!

「やれやれ。こんな細かいところまでよく作ったもんだ」

 ……ぽっかり口を開けた罠の三歩ほど手前で悠然とたたずむのは、紛れもなく、たった今暗闇の底に消えたはずの真歩の姿。
 彼女は何事もなかったかのように穴を飛び越えると、再び歩きだした。

 延々と続く壁の彫刻はやがて、来世を約束された死者がミイラとなり、船でいずこかへと運ばれていく場面に移り変わった。
 通路の奥がだんだんと明るみを帯びてゆく。その先に、まばゆく照らされた広間があった。
 真歩は壁に背をつけ、注意深く中の様子をうかがう。

「……いた」

 並び立つ灯火台にあかあかと燃える火が大きな石室を朱に染める。
 幼き罪人、偽花火燐花(にせはなびりんか)は、その中央に立っていた。





 真歩がその名を告げられたのは、試合の始まる三日前のことだ。

「抱えてるヤマは全て片付けた……って言ってたじゃないスか、先パイ」
「うるせーぞエイジ。だいたい、犯罪者がこっちの都合で休んでくれるわけねーだろ」

 内裏(だいり)エイジ巡査が市外の警察病院に駆け付けたとき、徒士谷真歩はすでに正面入口にいた。
 彼は同情する。この鬼警官が心から長期休暇を楽しめるのは、世界中から犯罪という犯罪がすべて一掃されたときだけだろう。

「大会中は仕事しないハズじゃなかったんスか」
「あたしだってそのつもりだったよ。運営のやつらめ、一体なにを考えてやがる」

 軽口を叩きながら、二人は小さな病棟の廊下を進む。
 この区画は一般開放されておらず、入院している患者は警察関係者のみである。

「んで、その対戦相手……変な名前の。何者なんスかね。連続放火事件の容疑者とやらは」
「……あたしもまだ詳しくは聞いていないが」

 真歩は目を細めた。

「小さな女の子だそうだ」

 エイジは言葉を返さず、病室の扉を開けた。

 広い病室にはただ一人、ベッドに横たわる女性がいた。
 こちらに気が付き上半身を起こす様を見れば、右手は痛々しく包帯で巻かれ、顔にはいくつもの火傷の痕が残っている。

「……お話は伺っております。魔人の……」
「警視庁捜査一課、魔人犯罪対策室所属。警部補、徒士谷真歩だ。そちらは柊木茜音(ひいらぎあかね)巡査で間違いないな」

 真歩はベッド脇にある丸椅子に腰を下ろした。

「事件を解決するため。新たな犯行を防ぐため。重傷の身には酷だろうが、可能な限り情報を提供していただきたい」

 茜音は真歩の目をじっと見た。真歩も真剣な面持ちを返した。
 その横でエイジは状況に戸惑い、ただ立ち尽くしていた。
 しばらく目線を交わしたのち、茜音は唇を噛み、決意と共に頭を深々と下げた。

「……これは警察官としての立場だけではなく、一人の人間としての頼みです。徒士谷真歩警部補。お願いします。あの子を止めてください――」





(……ふむ。見た目は確かに、かわいらしいお嬢ちゃんだ)

 真歩は通路の影からじっくりと観察を続けた。
 ひらひらとした紫色の衣装に身を包んだ少女は、どこか虚空を見つめながら何事かをひとり呟いている。

(さあて、どうするか)

 戦闘開始からこの広間にたどり着くまで、真歩は十五分ほど時間をかけてピラミッド内部を歩き回った。
 しかし彼女にとって『歩く』とは、ただの移動や探索の手段だけではない。

(ここはひとまず引いて、さらに『徒歩圏』を広げておくべきか……いや!)

 偽花火燐花が、動いた。

 大きな空間には規則的に柱状の灯火台が並んでいた。
 少女は轟々と炎をたたえる灯火の一本に近づくと、それを力の限りに引き倒した。
 器になみなみとたたえられていた灯油がだくだくと流れ出し、石の床を燃えさかる炎が舐めた。

(こいつは……まずいな。陣取りゲームでは分が悪い)

 真歩が影から見張るなか、燐花は並び立つ灯火台を次々と床に倒していく。
 荘厳な石室はたちまち、床一面に炎が燃えさかる灼熱地獄と化した。

 魔捜研の捜査および柊木茜音の証言から得られた『放火魔術師(パイロマンサー)』こと偽花火燐花の情報を反芻し、真歩は判断する。

「……仕方ねえ」

 彼女の両足は、広間の中心へとその歩みを進めた。





「ふう……これくらいでいいかな。やっと準備できた……あれ?」

 辺りを焼き尽くす猛火の上に平然と立ちつくしながら、偽花火燐花は己に近づく人影に目を止めた。

「よう。火遊びとは感心しねーな、お嬢ちゃん」

 ロングコートを纏ったその女性は悠々と背筋を伸ばし、左手に黒塗りのステッキを携え、まっすぐ燐花を目指して歩いてくる。
 戸惑いながら首をかしげて、少女は問いかけた。

「あ、えと……その……ぜ、前座の方、でしょうか?」
「へ? いや、なに言ってんだお前」

 あまりにも的外れな言葉に思わず真歩の肩の力が抜ける。

「う、あ……すみません……わ、わ、わたし、とても失礼なことを」

 少女は哀れなほどに狼狽し、手を添えた頬を赤らめ目を左右に泳がせながら、続けた。

「共演者の方、だったんですね。そ、それならそうと……わたし、あの、に、偽花火燐花といいます。よ、よろしく、です。一緒に、がんばりましょう」

 真歩はため息をついた。

「なるほどね。完全にイカれてやがる」

 実際に見るまで半信半疑であったが……茜音から聞いた話は、どうやら真実のようだ。
 狂った道化少女は、この血を血で洗う死闘の戦場を、衆目を楽しませる華麗なショウの舞台と勘違いしている。
 外見からすれば娘とそこまで違わない年齢だろうに、と真歩は憐れんだ。
 だが、この場で己が彼女にしてやれることといえば――

「……それじゃあ、さっさと始めようかい」
「そ、そうですね。お客さんも、待たせちゃってますから」

 そう言うと燐花は、周囲にめらめらと燃え上がる火を、右手でがしりと掴んだ。
 暴れる火をそのまま床から引きちぎり、手の周りを使ってくるくると回す。
 火の粉を水しぶきのようにまき散らしながら回転する炎は、赤熱する平たい円環(リング)へと整形されていく。

「う、動かないでくださいね。いきます……」

 真歩は腰を下ろして攻撃に備える。
 研ぎ澄まされた魔人の技巧か、あるいは狂気の産物か。いずれにしても、それは来る。

「わなげ……」

 燐花は上半身ごと右腕をひねると、灼熱の円環を三枚同時に茜音へと放った。
 ……拍子抜けなほどにゆっくり、ふんわりと飛んできたそれを、真歩はただ半身で躱す。

「ええ……よ、よけないでください……」

 少女の表情はあからさまに落胆した。

「バカか。あんなもの真正面から食らって火傷するやつがいるか」
「ち、違うんです。お客さんとかアシスタントの人に、こう手を上に上げてもらって、首と両手で合計三つ、輪っかをすぽっ、て。そ、そういう芸なんです……」
「あ、本当にバカだ」

 燐花は身をかがめ、焦点の合わない目で虚ろに言葉を吐き出しはじめた。

「……また失敗しちゃった。話しかたが悪いんだ。どうして、できないんだろう。パブロはあんなに上手だったのに。『楽園』の中でもいちばん人を楽しませるのが好きだった。どんなにむずかしい顔をしたお客さんでも、パブロと一緒に舞台に上げられて、彼の引き起こすどたばたに巻き込まれると、自然に笑顔になるの。わたしには無理? いいえ、そんなことない、絶対できるはず。だってパブロにはできたんだもの。うん、わたし、もう一度やってみる。お願いパブロ・ディアス・マルティネス。わたしにあなたの力を貸して――」
「……なんだと!」

 炎とともにゆらりと立ち上がると、少女の目の色が変わった。

輪廻化生(リヰンカーネイシオ)

 そのまま再び火を両手でむしり取ると、腕に絡みつく炎が幾重にも重なる円環を形作った。

「ね、パブロ。あなたの魂は、いまここに。芸の十五番……《投輪(リング)》!」

 十数枚の円環が、同時に投げ放たれた。
 今度は一枚一枚が有無を言わさぬスピードで真歩の下に迫り来る!

「――さあ、お坊っちゃんもお嬢ちゃんも寄っといで! 淑女、紳士もご覧あれ! 楽しいサーカスのはじまりだ! 夢のひととき、まばたきは厳禁! ぼくらの名前は『楽園のサーカス(シルク・ドゥ・パラディ)』!」
「チッ!」

 真歩は地を蹴り側方へと回避した。
 だがそのとき、飛来する円環の一つが突然炎を噴き上げると、不自然にその軌道を直角に変えて真歩の顔をかすめた。

「……クソッたれ!」

 真歩の右頬に、火傷を帯びた切り傷が引かれる。
 だがそれだけではない。
 無数に宙を舞う灼熱の円環は、まるでそれらひとつひとつが意思を持っているかのように、燃えさかる広間を駆ける真歩のあとを正確に追尾した。

(火を変化させて作ったリング……その一部を火に戻して(・・・)いるんだ……宇宙船がスラスター噴射で向きを変えるみてーに!)

「さあ、その調子! みんなと一緒にお客さんを楽しませましょう! もっと! もっとです!」

 炎の迷路の袋小路に追い詰められた真歩のもとに、四方八方から炎の輪が襲い来る……その時!

東海道五十三継(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

 ――徒士谷真歩の姿は忽然と消え失せた。
 目標を失った火の輪は次々と地に落ち、床に燃え上がる炎そのものへと還った。

「えっ! あ、あれ……いない……」
「……おい」

 徒士谷真歩はすでに元いた地点から二十歩ほど離れて、偽花火燐花の側面に立っていた。
 その顔には、怒りを押し殺しているかのような、あるいは悲しみをこらえているかのような、嵐が訪れる直前の海のように深い表情が浮かんでいた。

「お前さっき、なんて言った。最初に輪っかを投げたとき」
「え? え、えと……だから、その……手を上に上げて」
「違う。そのあとだ」

 真歩はゆっくりと黒塗りのステッキの根元に手をかける。

「パブロ・ディアス・マルティネスは――」

 亡き夫の形見。仕込杖『馬律美作(ばりつみまさか)』。

「――誘拐犯『怪盗サーカス』の、三人目の犠牲者だ!」

 ばね仕掛けに弾かれたかのように、少女をめがけて、真歩は一直線に加速した。
 炎の壁が真歩の肌を焼く。彼女はそれを、ものともせずに駆け抜ける。

「魔人警視流」

 4メートルほども離れた間合いから、真歩は大きく一歩を踏みこみ瞬速のステッキを突き出す。

「“杖術” 蛟竜(みずち)!」

 だが、杖の先端がまさに燐花の脇腹に突き刺さらんとするその直前。

「わ、わっ」
「!」

 燐花は油だまりに燃え盛る炎の端をつかむと、カーペットを剥くかのように、足元からべりべりと引きはがした。
 引きずられる炎の幕に軸足を奪われた真歩は、しかし空中で巧みに体をひねると一回転して着地する。

「な……な、なにをするんですか! あ、危ないです!」

 少女は炎を丸め、両手を胸の前で交差する。手袋をしたその五指の間にはすべて、卵ほどの大きさの火球が挟み込まれている。

「……芸の一番。《手玉(ボール)》」

 まばゆいほどに白熱したいくつもの光球が、真歩に向かって投げつけられた。
 彼女の顔先で、それは奇妙に膨れ上がり……爆発! 轟音と共に爆炎を上げて破裂する!

(高密度に握り込んで圧縮した炎を、即席の爆弾にしているのか……器用なやつめ)

 だがすでに、そこに真歩の姿はない!

「……魔人警視流」
「! 芸の十二番……」

 偽花火燐花の背後。徒士谷真歩は仕込杖から刀身を抜き放たんとする。

「“居合” 天狗乃(てんぐの)……」
「《紐玉(ポイ)》!」

 燐花は手早く火球の一部を毛糸玉のようにほどき、紐の先端を持つと肩の後ろで高速に振り回した。
 彗星のように尾を引く炎の軌跡は燐花の背で多重円の障壁を描き、真歩の行く手を阻む。

 抜刀を中断し一歩後ろに引いた真歩。
 彼女に向かって振り向いた燐花は、まるで楽しいショウを見た子供のように高揚し、満面の笑顔を浮かべていた。

「……す……すごいです! どうやったんですか! さっきも、あっちにいたと思ったら、急に、いなくなって……いきなり! 本当にすごいの! まるで、そう、スティーブン・プランクの脱出マジックみたい!」

 真歩はぎりりと奥歯を噛みしめる。

「……こんなに早くたどり着くとはな」

 スティーブン・プランク。
 その名は六人目の誘拐被害者のものだ。

「続きはここを出てからゆっくり聞こう。警察でな。当然、署内は火気厳禁だ」
「……え?」

 青ざめた顔で、少女は後ずさった。

「そ、そんな……それは、困ります……わたしの芸……お、お、お客さんに見てもらえなくなっちゃう。それはだめです。絶対にだめなんです」

 そのままくるりときびすを返すと、一目散に広間の出口へと向かって駆け出した。

「逃がすかよ……なに!?」

 それと同時に、石室のあちこちでいくつもの爆発が起こった。
 荘厳なオベリスクの一柱が根本からゆっくりと傾き、轟音と共に地に倒れ、真歩の行く手をふさいだ。

(クソッ! さっきあたしに投げたとき同時に、周囲にも不発のまま爆弾をばらまいてやがったな! だが……)

 取り残された真歩の眼前、少女は広間を脱出してその姿を消す。
 彼女はしかし、慌てる様子もなくゆっくりとその目を閉じた。

(その道は既に歩測済み(・・・・)だ。通路は曲がり角まで22.8メートル。そこから傾斜32度の階段が58段。あいつの足で例の場所にたどり着くまでの時間は……)

 ――徒士谷真歩の『東海道五十三継(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』は、彼女が一度足を踏み入れた場所すべてにたった一歩で再訪することを許可する、強力な瞬間移動能力である。
 それを可能とするのは、ひとえに彼女が持つ、己が残した足跡に対する絶対の空間認識に他ならない。
 真歩の両足は、彼女が歩いたその道程を、一寸の歪みも狂いもなく完璧に記憶している。
 徒士谷真歩のこれまでの『歩み』は文字通り彼女に蓄積した知識そのものであり、強大な武器でもあるのだ。

「お生憎様。そこはあたしの東海道だ」





「……ふ、ふう……追いかけてこないのかな……?」

 即席の松明を手に、息を切らしながら偽花火燐花は階段を駆けあがる。

「うん……うん、大丈夫。みんな、ありがとう。わたし、絶対くじけないよ……」

 少女は誰にともなく語りかける。
 だが石段を登り切ったその時。なにも存在しない虚空から突如として女の手が出現した。

「え」

 そして燐花の胸元を掴むと、その身体を宙に舞い上げた。

「犯罪者がこのあたしから――」

 魔人警視流“柔術” 土鏡(つちかがみ)

「――逃げられると思うな!」

 徒士谷真歩は少女を抱え上げると石畳を蹴り、そのまま二人して地に穿たれた大穴へと飛び込んだ。
 自由落下の勢いを乗せたまま、燐花の身体を背中から穴の底へと叩きつける。

「…………ッ!! …………ア…………か、は……」

 少女の肺から、空気がすべて絞り出された。

「順番が前後したが、まあいい。ちょうどおあつらえ向きの場所を見つけたんでな、利用させてもらおう」

 広く深い落とし穴には、四方の壁に空いた格子から滝のように砂が流れ込んできていた。
 光差す出口ははるか上方、決して手の届かぬ高さにある。

「今ここで洗いざらいしゃべるか、このまま砂に埋もれてミイラの仲間入りをするか、選べ。お前は知っているはずだ。『怪盗サーカス』のことを」

 真歩は燐花の胸元から手を離して立ち上がる。
 少女は満身創痍の体で上半身を起こし、激しくせき込んだ。

「あ……か、『怪盗サーカス』……ですか」

 二年前のあの日、ジェイムズは死んだ。
 その手に真相を掴むことなく。

「ご存じ、だったんですね。だ、団長のこと」

 ドクン。
 真歩の心臓は激しく高鳴った。
 だがそれとは裏腹に、少女を見下ろす表情は氷のように冷静そのものだった。

 あの日以来探し求めてきたもの。
 それは今、目の前にある。

「え、えっとですね、団長は……その……すごいんです! な、なんでもできるし、優しくて、それで、えと……す、すみません。わたし、お話するのが苦手で……あっ、そうだ」

 両手を顔の前にかざすと、燐花の手袋はめらめらと燃えたち、流れる砂を明るく照らした。
 この期に及んでまだ火を隠し持っていたのか。
 真歩は警戒を強めるものの、そのまま少女を為すがままにさせた。

「ヴァーニャみたいにやればいいんだわ。芸の十六番、《人形劇(パペット)》」

 炎をまとった手袋をこね回すと、燐花の右手は質素な姿をした少女の人形へと形を変えた。
 彼女が指を巧みに動かすと、それは生命を得たかのようにいきいきと演技をはじめた。





「――昔むかしのことです。あるところに、一人ぼっちの小さな女の子がいました。女の子はさみしくて、いつも泣いていました。でも、その日はちがいました」

 左手に現れた男性の炎人形には、顔がなかった。

「女の子のもとに、招待状が届いたのです。わたしの名は『怪盗サーカス』。是非わがサーカスにおいでください、と。連れられてみると、そこはまるで夢のような世界。まさに『楽園』でした」

 燐花が指を振ると、少女の人形に花を模したリボンが咲いた。
 真歩は言葉を押し殺し、ただ静かにその演劇を鑑賞し続けた。

「すぐに女の子はサーカスの一員になりました。楽園のこどもたちの中で、いちばんのへたっぴ。だけどみんなに教えてもらいながら、毎日練習を続けました。そんなある日のことです。楽園に――」

 少女の両手の人形が、突如として、ぼうと音を立てて燃え上がった。

「――空からお日さまがやってきました(・・・・・・・・・・・・・・・)

 ゆらめく火に焼かれるがまま、彼女の人形はその役を演じ続ける。

「あんまりまぶしかったものですから、一目見るなり女の子は気を失ってしまいました。しばらく経ってから目を覚ますと……あたり一面は炎に包まれていました。女の子は焼け落ちるテントの中で、必死にみんなを探しました。声が枯れるまでみんなの名前を呼び続けました。そして、真っ赤に燃える幕のかげに、あのやさしい団長の姿を見つけました。でも、団長はもう」

 燐花は、左手から男の人形ごと手袋を外し、素肌をさらした。
 そこに現れたものを見て、真歩は内臓が裏返るかのような感覚を味わい、息を呑み込んだ。

「まっくろくろに焼け焦げてしまっていました」

 少女の声は震えていた。

「ピエロのスティーブンも、力持ちのカルロスも……み、みんなみんな……まっくろこげで……それでも、女の子は……お、女の子は……」

 炎の人形の上に、ぽたりぽたりと、雫が落ちた。
 はかない水滴は高熱に焼かれ、煙だけを残して次々と蒸発した。

「…………あれ……う、うまく、できない……変なの……ご、ごめんなさい。へ、下手でごめんなさい。も、もっと、練習しないと…………れ、練習…………」
「……もういい」

 真歩はゆっくりと、首を横に振った。

「やめろ。もういい、十分だ」

 ――あの子を止めてください、と茜音は言った。
 その言葉の意味するところを、彼女は心から理解した。

 人形の火が燃え尽きると、穴の底には砂の積もる音と薄闇だけがあった。
 真歩は燐花に手を差し出し、厳しくも柔らかな口調で告げる。

「炎を捨てろ、過去という檻の中に置き去りにしてしまえ。これ以上ひとりで苦しむんじゃない。あたしの手を取ってくれ。一緒にここを出よう」

 だが、少女はうつむきながらかぶりを振ると、力なく笑った。

「だめ。絶対にだめなの。わたしの芸……みんなから教わった芸を、お客さんに見てもらっている限り。みんなは……団長は……ずっと生き続けているの。だから、どんなに下手でも、わたしは芸をやめない」

 震えながら身を起こし、にじんだ目で真歩を正面から見据える。
 そして上半身をのけぞると、まっすぐに上を向き、焼けただれた手を大きく開けた口の中に差し入れた。

隠し芸(・・・)。《剣呑(ソードスワロウ)》」

 少女の喉奥から、赤く輝く炎の刺突剣が取り出された。
 剣先を向けられた真歩は、手を下ろすと、悲しみをたたえてそれに相対した。

「最後にもうひとつだけ、質問させてくれ。王女に手紙を出したのはお前か?」
「……王女様に? ……なんのこと、ですか?」
「いや……いい。なんでもない」

 真歩は腰を深く下ろし、仕込杖を握った。
 そして小さな声で告げた。

「終わらせよう」

 偽花火燐花は、剣を振りかざし、彼女へと踊りかかった。
 その動作は、日々魔人武道の研鑽を重ねる徒士谷真歩にとってあまりにも遅い。
 真歩は仕込杖を振り抜く。
 だがそのとき、少女が突き出した剣の中ほどから、太陽プロミネンスのごとく爆炎が吹き出した。
 切り離され射出された剣先が、狙いあやまたずまっすぐに真歩の心臓を狙う。

 しかし、その不意打ちすらも彼女の思い描く予想の通りだ。
 仕込杖の刀身は鞘から抜かれてはいなかった。
 短く持ってコンパクトに振られたステッキの先端は正確に飛来する剣先を打ち落とし、勢いそのまま逆の端が燐花の手の甲を強く打った。

 炎の剣を取り落とした燐花のふところに、真歩はしゃがみこんだ。
 そして全身の筋肉を弓のように引き絞ると、力を解き放つ。
 後方に宙返りをするがごとく空中で燐花の胸元を蹴り上げた。

「…………く、あ……」

「魔人警視流“空手” 飛鳶撃(ひえんげき)。偽花火燐花。お前はもう逃げられない」

 魔人武道家が放つ渾身の蹴撃を受けた燐花の小さな身体は、空中に十メートルほども浮き上がった。
 真歩の目には、その胸に残した彼女の『足跡』がはっきりと見えている。

「たとえどこへ行こうとも。お前はあたしの『徒歩圏内』だ」

 真歩は、黒塗りの仕込杖から刀を抜く。
 その姿が、かき消えた。

東海道五十三継(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

 刹那の間隙すらもなく、真歩はそのまま、はるか上空を落下する燐花の体の上へと瞬間移動した。
 ……だが。見下ろす彼女の目は、驚愕に見開かれることとなった。

 偽花火燐花が、いない。
 空を舞う真歩の足元には、たしかに彼女がその足跡を刻みつけたばかりの、少女の服がある。
 しかし、その服の下にあるべき、少女の姿が存在しない。

 服を脱ぎ捨てたとでもいうのか。
 なぜ。
 この一瞬で。
 どうやって。

「……スティーブンは言ってたわ。手品のコツ。本当に隠したいものは、見えないところに隠すんじゃなくて」

 下方からぶつぶつと呟く声が聞こえる。
 真歩はそこで、宙をはためく布の端にちらちらと揺れる、紫色の炎に気がついた。

「視ていないところに隠すの」

 その瞬間。
 少女が先程までその身に纏っていた衣装が。
 繊維の一本一本にいたるまで極限に圧縮されたそれが、幾層にも重なる業火へと戻った(・・・)

 紅蓮に燃え盛る火に、真歩の全身は包まれた。
 逃れるすべはなかった。
 浄化の炎は、彼女の肌を、肉を、すべての細胞を焼いた。
 焼き尽くした。

 白く濁りゆく真歩の瞳が最後にとらえた光景。
 それは、宙を落下する少女の裸体だった。

「ねえ」

 真歩は見た。
 全身どす黒く焦げ付き、赤くただれた肉を晒したその姿。
 我が身を燃やし、世界を燃やし、ただただ破滅へと歩みを進めるその少女を。

「わたしを見て」

 狂ったその目に映るものは、いまや満場の観客のみだ。

「ああ……嗚呼。ありがとうございます。皆さま、本当にありがとうございます。偽花火燐花は、世界一の幸せ者です」

 壊れたその耳に響くものは、もはや万雷の拍手だけだ。



 少女は止まらない。
 すべてを灰に灼き尽くすまで。

 炎はただ、その横で静かに燃え続けていた。
 パチパチ。パチパチと。
最終更新:2018年03月11日 00:52