長ったらしい名前の、いかにもな最高級ホテルの上階。
そこが、あたし――阿呂芽ハナに与えられた部屋だった。
窓の外を見れば、高いビル群のつむじがずらりと一望できてしまう。
ソファだとか、ベッドだとか、なんの意味があるのかも分からない観葉植物だとか、内装のひとつひとつに至るまで、一体あの場末のネカフェ何泊分にあたるのか。
敷かれたカーペットも同じく高そうなのに、土足で踏みつけるのが正式だというのだからあたしの庶民ハートがキリキリと痛む。
あ、でもシャワールームはすごく綺麗。アメニティも超充実。それは素晴らしい。最高。
「……ふう」
スクールバッグを置いて、ベッドに腰を下ろす。
お尻がじんわり沈みつつも適度に支えられる、絶妙な反発感。
このベッドで寝るのは、さぞや心地よいことだろう。ちょっと楽しみ。余裕が出てきた。
気分を多少落ち着けると、無意識の習慣で右手がスマホを手に取る。
時間を潰したいとき。落ち着かないとき。特に理由のないとき――こうしてスマホを触ってしまうのは、現役JKの悲しいサガってやつだ。
適当にザッピングしようか、それとも大して面白くもないアプリゲームでもやろうか。行き先を決めかねた親指が所在なく宙を彷徨って、やがて。
「…………」
……あたしは少し躊躇ってから、その文字列を検索した。
▼阿呂芽ハナ [検索]
オリュンピアの出場者一覧見たけど、阿呂芽ハナって誰?
ただの女子高生? 強いの?
魔人剣道とか武道の大会でも見たことないし、大会関係者の娘とか?
五賢臣とは苗字違うでしょ。
じゃあアレだ。五賢臣の誰かと寝たんだな!
見るからに援交とかやってそうな顔してるし。
つーか俺寝たことあるわ。クールな顔してすげえ乱れて良かったぞ。
「……ハァ。最悪」
そんな予感もしてたとはいえ、これは堪える。
最強の魔人を決める戦いの場に、何の実績もないただのJKが放り込まれたんだ。
好奇の視線と根も葉もない雑言。所詮、世間なんてそんなものだ。
どうして受かったのかなんて、あたしにも分からない。
抽選枠に運よく引っかかったのか。考えたくないけど、五賢臣だかがJK好きだったのか。
なんでもいい。幸運でも、好色でも。
受かってしまえばこっちのものだ。
「……大丈夫。やってやる」
失うものなんて、元から何もない。
もう、とっくの昔に喪ってしまった後だから。
それでも、そうだ。あたしは。あたしには……!
「あたしには、『サンプル・シューター・コラボ』がいるんだ……!」
気持ちが落ち着かない。
どこかクラクラするような、内からカッと熱くなるような、不思議な感覚。
いつの間にか、喉もカラカラに渇いていた。
「……あたしは、勝つ! 勝つんだっ……!」
不安。
恐怖。
警鐘。
あたしのどこかが発する咎めるような声を、丸ごと飲み下してしまいたい。
漁ったバッグの中のペットボトルはとうに空で、部屋のゴミ箱に投げこんで、外れたけどお構いなしに、外に出る。
確か、ロビーに自販機があったはずだ――ルームサービスだのを頼むのは、なんだか気が引ける。
甘くて、けれどほんのり苦い、温かい市販のカフェオレがいい。
エレベーターを降りて、真っすぐ。自販機のところで、ああ、先客がいるみたいだ――
「――む」
「あっ」
「……ッ!」
男女のふたり組。
モッズコートを着た、冴えないツラの男。
そして傍らに侍る、メイド服を着せられた女の、忘れもしないその顔は――
灰色の大地を、暗く湿った風が撫でた。
彼方からは断続的になにかの悲鳴のような声が聞こえてくる。
運営の魔人により生成された、『地獄』ステージ。あたしの戦場だった。
「……、……ハァ」
もはや溜息しか出てこない。
わざわざ、あたしが言うまでもない。誰がどう見たって、こんなの最悪の中の最悪だ。
なにさ、地獄って。
あたしみたいなウリしてそうな不良には、ここがお似合いってこと?
バカにしやがって!
「……しかも、いないしさぁ。暗黒騎士……なんとかザード」
ゲームのキャラみたいな、言ってて恥ずかしくなるようなうろ覚えの名前は、あたしの対戦相手だ。
スマホで確認する。そうそう、暗黒騎士ダークヴァルザードギアスだ。
こないだ会ったときも、本人がそう名乗っていた。あまりに真顔で言うもんだから、直視できなかった。
「……」
連関して浮かんできそうになる『会ったときのこと』を、あまり思い出さないようにする。
いけない。あいつは、倒さなくちゃいけない相手なんだ。
このだだっ広い地獄から見つけて――できれば先に見つけて、こっそり頭でも撃って、それでおしまいにしてしまいたい。
手にしたスマホで、地図アプリを起動してみる。
現在位置を示すアイコンは大会会場のままで、そりゃそうか、とも思う。
やはり魔人能力で生み出される空間には、そういう裏技は通じないみたいだ。
会場内にあって、しかも試合を中継しなきゃいけない都合上、電波がしっかり通っているのはあたしにとっても都合がいい。
ホントに全然見つかんなくて途方にくれたら、ツムツムできるし。いやしないけど。
「……あ。それなら、そっか」
ひとりのときって、どうにも独り言が出がちになってしまう。
ともあれあたしは、思いついたことをすぐさま実行に移す。
他の人はどうかしれないけど、こんなときでも常にスマホを中心に生きれるのは、フツーのJKの特権かもしれない。
▼暗黒騎士ダークヴァルザードギアス [検索]
あたしの対戦相手。あの冴えない男の大仰な名前を打ち込む。
もしなにかのキャラクターがモチーフなら、弱点とかが見つかるかもしれない。
魔人能力は妄想の産物。そういうパターンもあるってどっかで聞いたことがある。
そうして見つけた情報を、あたしは、後に後悔することになる。
見なければよかった、って。
そのふたりを見たとき、あたしは胸がざわつくのを感じた。
よく見知ったその顔。感情を読み取りにくい表情。
サンプル花子。
なぜメイド服なのか。隣の男の趣味なのか。確かに陰キャのオタクっぽい雰囲気がある。
どうする。
いや、どうするもこうするもないけど。大会参加者は、私闘厳禁。ちゃんと把握してる。
それでも。この男のサンプル花子の扱いによっては。
あたしはあたしを抑えきれる自信はない――
「……どうした、アナスタシア。旧知の者か?」
「いいえ。ダークヴァルザードギアス様。ですが――」
「ぶふっ!」
噴き出すのをこらえきれなかった。
えっ、なんて?
ダーク……え? アナスタシア? えっ、サンプル花子でしょ……!?
その名前ぜんぶ、アンタの趣味? 嘘でしょ???
完全に警戒モードだったところに、思わぬ角度から殴られた気分だ。
あたしの、まあ失礼な自覚はある反応を、ダークなんとか様はあまり気にした風でもなく。
「フ。確かにこの地上において我が威名はいささか耳朶に厳しいか。故にもう一度、我が口から名乗って進ぜよう」
ばさり、とくたびれたモッズコートを翻し、男は威厳たっぷりに言った。
「我こそは、孤高にして高潔なる暗黒騎士! ダークヴァルザードギアスである」
「そして忠実なるしもべ、アナスタシアと申します」
「ぶはっっ!!」
真顔で繰り広げられる学芸会に、あたしは全然耐え切れなかった。
「……そして、我の『薄氷魔撃・ガルツォ=ヌルス=ファグナス』が炸裂。悪政者は退き、アナスタシアは解放されたのである」
「はあ」
自販機前のベンチに並んで座り、あたしはこのイタい男の武勇伝を聞かされていた。
なんとか様の隣のサンプル花子を見ると、熱心に頷き感動に瞳を潤ませてすらいる。
これが本当にあったことなのか、それともそういう設定で発注した個体なのか、マジで分からない。
「……でも、じゃあ。その、あくせーしゃから救った後も、アナスタシア……さんは、どうしてメイド服なの?」
「ええ。私はダークヴァルザードギアス様の従者ですから」
分かんない! 依然として分かんない!
でも……なんとなく、伝わってくるものはある。
嫌々じゃあ、なさそう。この人は、自分の意志でダークうんたらに仕えてる。
サンプル花子に「自分の意志」なんて、ってのもあるけど、でも、分かるんだ。
そういうのは、なんとなく。
「……そっか。……良かったね、アナスタシアさん」
あたしの呟きに、アナスタシアさんはちょっと首を傾げた後、「はい」と噛み締めるように頷いた。
それからさらに少し話して、ふたりとは別れた。
自信たっぷりに先陣を切るダークハルバードグラス様(やっと覚えられた)と、その後ろをついていくアナスタシアさん。
ふたりを見送って、あたしも今度はミネラルウォーターを買って部屋に戻る。
最後に振り返れば、また何か話しているみたい。本当に、仲が良いことだ。
「……」
「どうした? アナスタシアよ。憂心あらば、遠慮なく我に打ち明けるがいい」
「……ダークヴァルザードギアス様。あの、阿呂芽ハナという子。おそらく、私と同じ――――」
部屋に戻る。
閉まった扉に腰を預けて、ふう、と一息。
いいふたりだったな、と素直に思う。
あたしだって、なんでもかんでもブチ切れてるわけじゃない。
人とサンプル花子の、素敵な関係があることくらい知っている。
たとえば――そう。あたしとママも、あんな感じだった。
どこに行くときも、あたしが先を急いでママが窘めながらもついてきてくれて。
しばらくして、危ないからって手を繋いで歩くようになるところまでが1パターンで。
ああ、そうだ。
あの事故の日も、そうやって手を繋いで歩いていたんだ。
道ではしゃぐのは危ない、って。あたしも、はーい、っておっきな返事をして。
これでどこでも一緒だねって、そうやって笑っていたのに。
ずっと一緒だったのに。
ママだけが、遠くに行ってしまった――
「……う、ううう」
足音荒く部屋を進み、ソファのクッションに顔を埋める。
幸せそうなサンプル花子に、良かったねって言える感性くらい、ある。
ただ、結局あたしが喪ったものを思い出すことになって、辛いだけだ。
「――今だけだ。最悪なのは……今だけ」
ぜんぶひっくり返す。そのために、ここに来た。
気持ちを新たに、あたしはその日を待った。
――今にして思えば。
あのホテルでバッタリ出会った時点で、予感しておくべきだった。
同じタイミングで、同じところに宿泊してるなんて、きっと同じ理由に違いなかったのに。
「……フン。他愛もない」
ずん、と重く鈍い音と共に、巨体が地に沈む。
全身に刻まれた裂傷。我が暗黒瘴気に蝕まれた頭は、さながら黒き靄に支配されたが如くだろう。
配置されていた障害物――牛頭の獄卒も、我が盟友・暗黒瘴気剣『ダムギルスヴァリアグラード』の前にはさしたる脅威ではない。
地獄と称されたこの地形に、我――暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは、故郷にも似た懐かしさを覚えている。
荒野の大陸『ギ・ガラクシア』。彼の地もまた、力無くては生き残れぬ峻厳なる場所であった。
我とて、そう。この友と、二人でなくば。
右手に提げた暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードへと視線を落とし、すぐ、なぜか握っていた灰色の枯れ枝を放り棄てる。
植物も枯れ果てる、不毛の大地。
この地には我の他に、戦士があと一人。数日前に邂逅した、不可思議な縁を持つ娘。
名は、そう――
「……フッ」
身を躱す。物音には気づいていた。
後方より飛来した超常の弾丸が、的を外し地を穿つ。
アナスタシアと同じ、『魔弾の射手』。
他にも名があった気がするが、棄てさせた。あの能力は、間違いなく『魔弾の射手』以外の何物でもない。
「尋常なる死合に、奇襲か。だが、許そう。持たざる者の、其れでもなお勝たんとする、その闘志を認めよう」
コートを翻し、その者へと向き直る。
背後にそびえた針の山より、ゆっくりと現れたる少女は、まさしく。
「我が決闘者。阿呂芽ハナよ」
「……」
口を真一文字に閉じ、不服そうに顰めた眉。
変わらぬ不遜な表情のまま、阿呂芽ハナは我に歩み寄り、止まる。
この間合い。我が暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードの外であり、娘の『魔弾の射手』の内。
自身に有利な陣の張り方。
それでこそ、というものだ。
小娘でありながら、彼我の戦力の見極めはできている。相手にとって不足なし、である。
良かろう。
降り注ぐ弾雨を捌き、我が刃を届かせるまで。
牛頭の亡骸より棍棒を拾い上げる。我が手の内、ダムギルスヴァリアグラードが暗黒瘴気を纏う。
「いざ往かん。これなるは、我が覇道の序章……、」
「ずいぶん、いいキャラしてるんだね。……『土屋一郎』」
踏み出しかけた足が止まる。
見開いた眼で、娘を見る。
「ヤリブスマート……ああ、あそこ、品揃え悪いよね。あんたみたいなイタいのがバイトじゃ、当然か。そりゃあ、晒されるよ」
口の端を歪めた阿呂芽ハナは、小型電子石碑を掲げる。
綴られた呪言を、磔になった画像を、直視できない。
「……悪いけどさ。あたし、コンビニ全般、大ッ嫌いなんだよね」
♪ ずっと夢を見て 安心してた
♪ 僕は Day Dream Believer そんで 彼女はクイーン
それは、某大手コンビニエンスストアのテーマソング。
往年の大歌手が、亡き母を想い唄った曲。
――もう今は、彼女はどこにもいない。
――朝早く目覚ましが鳴っても。
――でもそれは、遠い遠い思い出。
――日が暮れてテーブルに座っても、
――今は彼女、写真の中で
――優しい目で僕に微笑む。
その歌を耳にするたびに軋む心があることを、彼女は理解してはいない。
「……」
テレビから流れ始めたCMソングを認め、サンプル花子はリモコンを手に取った。
今は、設定されたルーチン通りの、午後の休憩時間。
テーブルの上の茶菓子を摘まみつつ、テレビを見る。そういう仕様だ。
番組内容に拘りはない。CMに入ったのなら、執着なく別の局にチャンネルを変える。
次のチャンネルは、確か何年か前のドラマの再放送をやっていたはず。
「?」
首を傾げる。様子がおかしい。
別の番組がやっていた。
棍棒を携えた青年と、スマホを掲げる少女が向かい合っている。
これもまた、なにかのドラマなのだろうか。
少女の言葉がスピーカーから流れる。その声を耳にすると同時、画面の少女の正体に、サンプル花子は気付いた。
「――ハナ?」
掲げたスマホには、マナーの悪い客がふざけながら店内で撮った写真が映っている。
突飛なコンセプトの新商品を撮影した、何の変哲もない画像――その、背景に。
制服を着て覇気のない目で棚卸しをしている、冴えない男の姿。
「土屋一郎。へぇ、卒アルまであがってんじゃん。……この頃から目が死んでるね」
あたしは、可能な限り嫌味な言葉遣いを作って、いたぶるように話を続ける。
「読み上げてあげよっか? ……『土屋って、こんなやついたっけ?』『同窓会誰も呼んでないの?』『あれじゃない? 体育祭のリレーで思いっきりコケてたやつ』『それは俺』……」
息が詰まる。すこし、苦しい。
ずっと一方的に喋ってるからだ。あるいは、この地獄とかいうところに漂ってる空気が、すごく肺に悪いかだ。
知らない。ぜんぶ、無視する。今はとにかく、攻撃を続けなければ。
「アハッ。トレンドにもあがってるじゃん、暗黒騎士ダークヴァルザードギアス。良かったね、人気者。……『イタいオタクとそのへんのJKのバトルとか何が楽しいの?』『五賢臣は五乱心に改名しろ』……これあたしのディスも入ってんじゃん。まあいいけど」
「……」
「黙ってないでさ。ねえ。卒業年からして……いま、25歳くらい? そんなトシで暗黒騎士とか、恥ずかしくないの? 一人暮らし? それとも実家? ……親、とか。どう思ってるかなぁ!?」
親。言いながら、あたしも軽く、思いを馳せる。
こいつの親が、この中継を見ていたら。やっぱり、息子が晒し者にされてて悲しいんだろうか。あたしに対して怒り心頭だろうか。
それとも恥ずかしい息子だって呆れかえるのだろうか。
少なくとも、あたしの場合。
この中継を、ママに見られてなくて良かったって、心から思う。
地獄。
罪を犯した者が落とされる、身の毛もよだつような場所。
なるほど、今のあたしにはお似合いだ。
「……娘」
黙って聞いていた土屋一郎が、やっとのことで呟く。
ずっと瞳を閉じて、耐えるような、瞑想しているような、そんな表情をしていた。
「もう、止せ」
「ハ……アハハ! さすがの暗黒騎士サマも、もう無理か! じゃあ、さっさと降参――」
「否」
瞼を開けた土屋一郎――暗黒騎士ダークヴァルザードギアスに、まっすぐに射竦められる。
あたしの罵詈雑言に、少しもたじろいでいない。……どころか。
「阿呂芽ハナ。貴嬢のためだ」
「……は?」
その眼は、何なの。
弱者とか子どもに向けるみたいな、その眼は。
ママがあたしに向けた、優しく困ったような表情と同じ、それを、やめて。
「……我に突き立てんとした刃が、己が魂にも疵を刻んでいるではないか」
「な、にそれ」
その言葉から慌てて隠すみたいに、あたしは制服の袖で目尻を拭う。
「っ……意味、分かんない」
無意味だ。分かってる。
たぶん、途中からずっとそうだった。声だって震えてたし、鼻もたくさん啜ってた。
もう、取り繕えない。
「……最悪っ……!」
俯いた拍子に、灰色の地面にパタパタと染みが広がった。
それを見たくなくて、戦いの真っ最中にあるまじきことに、両手で顔を覆ってかぶりを振る。
どんな手を使ってでも勝つって、そう決意した。
失うものなんてない。どれだけ汚くても、絶対に勝利をもぎ取ってやるって。
だから、検索結果から試合のミラー中継にたどり着いたとき、これで不意打ちしてやるって画策した。
だから、土屋一郎の個人情報を見つけたとき、これで心を折ってやるってほくそ笑んだ。
失うものなんて何もない。
あたしの心だってそうだ。勝つためには、いくらでも壊れろって思っていた。
でも、無理だった。
短い間だったけど、分かっちゃったから。
ダークヴァルザードギアスと、アナスタシアさん。
ふたりは主従だって言ってたけど、あれは、もっと違う何かだった。
互いが互いを尊重して、支え合って。そんな、暖かな関係を、知っている。
家族だ。
サンプル花子と築いた家族が、あそこにもあったんだ。
あたしとママ以外にも、あったんだ。
「――最悪ッ!!」
叫びながら、あたしはスマホを地面に叩きつけた。
液晶の破片を散らかしながら、スマホはクルクルとどこかへ滑っていく。
そうしたって、自分のしたことが帳消しになるわけじゃないのに。
「最悪、ううう、最悪! ホント、最悪っ……!!」
あたしはもう、隠しようもないくらいに泣きじゃくっていた。
袖がびちゃびちゃになるくらい泣き喚いて、どのくらい時間が経っていたのかも定かじゃない。
その間、ダークヴァルザードギアスが攻撃を仕掛けてこなかったのは、暗黒騎士とやらの矜持ってやつなのか、それともそれほどまでにあたしが哀れだったのか。
「……そろそろ、終幕としようぞ」
暗黒騎士は懐からどっかの部位の人骨を取り出した。
地獄っていうくらいだから、地形のどっかに落ちてても不思議ではないけれど。
それでも、拾っちゃうのか。割とヒく。けど、まあ、暗黒騎士だしな。
そして結局棍棒はいつの間にか捨てていた。あっちのほうが強そうだろうに。
そんなことをぼんやりと考えられるくらいには、落ち着いた。
腫れぼったい視界で、暗黒騎士を見る。
「自ら負けを宣言するなら、我も命までは奪わん……が」
「……それは、嫌」
「フ。で、あろうな」
無様に泣き腫らした赤い目でも、あたしは精一杯にダークヴァルザードギアスを睨みつけている。
退かない。退きたくない。
そこまで譲ってしまったら、あたしにはもう、本当に何もなくなってしまう。
「ならば我がともがら、ダムギルスヴァリアグラードが幕を引くまで」
程よい長さと太さを持つ人骨が、じっとりとした暗い気を纏っていく。
いい加減理解できていた。あれが、ダークヴァルザードギアスの魔人能力だ。
武器強化能力――かな。
暗黒騎士ってイメージ的にも、あの攻撃を食らったらマズそう。ゲームでいえば、バッドステータス付与系って感じ。
優先するべきは、回避。
「決着の刻ぞ!」
ダークヴァルザードギアスが駆ける。
構えは上段。なんとなく、一撃で決めてくれそうな気概を感じる。
距離がどんどん縮まっていく。人骨の間合いまで、あと数歩――
「『鎮魂槌撃・ゴルドラード=バストゥス』」
振り下ろされるよく分かんない名前の一撃を、あたしは真っすぐに見つめる。
怖い。でも、やる。
不安を。恐怖を。警鐘を。
ぜんぶ、殺す。あたしは……勝つんだ!!
「っ……ああああああっ!!」
気合の咆哮をあげて、あたしは動いた。
左手首を掲げて盾に。右手は袖を引っ張って精一杯の防護にして、骨を掴む。
攻撃を、正面から受け止めにかかる。
「ぎ、ああああうあああっ――!」
衝撃と同時に、地獄の業火に焼かれたみたいな鋭い痛みが襲う。
痛い。痛い痛い痛い――!
悲鳴が溢れる。止まったはずの涙もボロボロと零れだす。
胸が苦しくなって、息も詰まってくる。頭もクラクラしてきた。
でも――どこか、心地いい気持ちもあった。
マゾではない。決して違う。
自分のしでかした罪に、痛みという罰が与えられている錯覚。その心地よさ。
それがあるだけで、あたしはやっぱり、こうして良かったと思えた。
「……ム、ぬうう」
ダークヴァルザードギアスが不可解そうな声を上げた。
彼が放った必殺の一撃は、あたしの左腕の半ばまでと、右の手のひらをザックリ切り裂いたところで止まった。
それ以上押し込もうとしているみたいだけど、なんとかソードをがっちり掴んだあたしの手が、徐々に押し返している。
JKが、成人男性を押し返している。ふつうはありえない光景。でも。
「ッ……あたしの。あたしとママの、『サンプル・シューター』を舐めんなっ……!」
魔人能力『サンプル・シューター』の威力は、「助走をつけた全力パンチ」に等しい。
それはすなわち、本人の腕力や脚力を鍛えることで、後天的に威力を向上できるということ。
だからあたしは鍛錬を欠かさなかった。腕相撲じゃ負けなし。体育祭のリレーでは陸上部に並んでアンカーを走る。
どっちも、一線級の戦闘魔人には劣るだろうけど。
でも、腕力と脚力以上に、それを鍛えさせた『サンプル・シューター』への――ママへの執着が、あたしの一番の武器だ。
これだけは、誰にも負けやしない。見せつけてやる。
「コンビニバイトが、舐めんなよ……! あたしのバイト先はっ、酒屋だああああっ!!」
「何、だとッ……!?」
人骨ごと、力任せにダークヴァルザードギアスを振り回した。
ダークヴァルザードギアスは人骨を取り落としながらたたらを踏んで後ずさる。
「はあっ……はあ! うううっ……!」
両腕の痛みは甚大で、血はダラダラ流れている。視界も、涙でぐしゃぐしゃだ。
息も切れ切れ。心臓もバクバク。頭もなんだかグラグラしてる。
コンディションは最悪。
それでも、あたしはまだ最悪じゃない。
最悪じゃ、ない。
「暗黒騎士が、なんだ! ……マザコン舐めんな!!」
目の前の娘――阿呂芽ハナを、侮っていた部分がないといえば、嘘になる。
我と同様、五賢臣なる者たちの目に適って本戦に出場したのだ。ただの道化ではないだろう。
そう考える裏で、しかしただの少女ではある、との思いもあった。
アナスタシアの言葉で、娘の能力がアナスタシアと同じ『魔弾の射手』であると判明した瞬間に、強力な術者ではないという格付けが為されたのも確かだ。
いずれにせよ――阿呂芽ハナの最後の抵抗は、我にとって予期せぬものであったことは認めよう。
ではそれは、我の意にそぐわぬものか?
我の覇道において不都合な存在か――?
「……フッ。否!」
障害とは、強大であればあるほど好い。
好敵手を求め彷徨った、ギ・ガラクシアでの日々が懐かしい。
彼の地に似た、この地獄で――我は得たり。尽きることなき闘志を燃やす、至上の好敵手を。
「一撃防いだこと、まずは称賛しよう。だが……我が暗黒瘴気剣に死角なし!」
コートの内より友を呼び覚ます。
両の指の間に装填された、計八対の暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラード。
特に関係はないが、昨夜のアナスタシアとの饗宴の記憶が思い起こされる。
あれは、素晴らしいひと時であった。
「……トランプじゃん!!」
娘が何か騒いでおる。
我の必殺の『革命返し』がアナスタシアの策謀を打ち砕いた瞬間を、貴嬢にも見せたかったわ。
そう。我には、アナスタシアがいる。
莫逆の友、ダムギルスヴァリアグラードがいる。
闘争に囚われた我が身は、明日をも知れぬ。
だが、未来のよすがはなくとも、刹那のよすががある。
それさえあれば、我は、我でいられる。そうなのだ、娘よ。
「……受けてみよ。『無尽鳥撃・ダズ=フェニカ=フェニカ』!」
暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードを、一斉に放つ。
対する娘はにわかに後退りつつ、比較的無事な右手を掲げる。
掌に集中しだすは、『魔弾の射手』の弾丸。
だが、すぐには撃ち出されない。維持されたまま、娘は痛みに顔をしかめつつも親指と人差し指で輪を作る。
「あッツ……『コラボ』ッ! 『サンプル・バブル』!!」
輪の中へ呼気を吹き込む。
滞留した弾丸が、泡の膨らむが如くに大きく広がっていくではないか。
娘が手を振って泡を放すと同時、我の『無尽鳥撃』と接触。
耳をつんざく破裂音を立てて、互いの業は対消滅した。
なるほど、泡沫。
儚くも美しき防壁か。楽しませてくれる。
「ならば。この距離では、如何に?」
「ぐっ……!」
泡沫で視界が覆われた際に、我は走り出していた。間合いが詰まる。
迎撃すべく娘も『魔弾の射手』を放つが、消耗も大きかろう、狙いは定まらず彼方へ飛ぶ。
取り出したる暗黒瘴気剣は、これまで永き闘争の歴史を共に歩んできた、文字入りダンボール製ぞ。
「『薄氷魔撃・ガルツォ=ヌルス=ファグナス』」
「『スライド』ッ!」
複数の炸裂音。暗黒瘴気剣が肩を掠める。
だが、確たる手応えはなし――斜め後方へと視線を向ける。
姿勢を低くした阿呂芽ハナがいた。
「はあっ、はああっ……!」
「フム。大方、『魔弾の射手』を直下に撃ち、その衝撃で高速機動したといったところか」
成功したとはいえ、無茶な回避だ。
能力『魔弾の射手』の弱点は、すでにアナスタシアより聞き及んでいる。
過度の使用により訪れる、百と八十の静寂。あそこまでの移動に、一体何発を切った?
そして、消耗というならば。
両腕と肩。三度も我が暗黒瘴気に侵されては、すでに立っていることもままならぬはず。
にも拘らず未だ立ち続け、我に向ける眼光の未だ鋭きことよ。
まったく、飽きさせぬ娘ぞ。
「……我に獲物をいたぶる趣味はなし」
故にこそ、そろそろ仕舞いとせねば。
どうやら、娘も同じ腹積もりであるらしい。
「ううう……うううううっ……!」
堪えきれぬ痛みを呻きと泪で訴えつつも、懸命なる意志にて両腕を前方へ構える。
既知なり。『魔弾の射手』の最終奥義、『黒星粉砕』。
両の掌より精製した弾丸を同期。二乗の破壊力を以て敵を撃滅する、まさしく決着に相応しき業。
その威力はアナスタシアも案じておった。
だが、付け入る隙はある。
両腕の損傷。加えて我が暗黒瘴気の侵蝕。
先程の攻防でも、狙いを外しておった。強大な業故に、生じる隙もまた甚大なり。
娘の側に立つならば、『黒星粉砕』が唯一の勝ち筋。是が非でも当てたい筈。
なれば、自ずと導かれる。射程距離のさらに内。十二分に引き付けてからの必中の一射。
無論、それは我の暗黒瘴気剣を懐へ招くと同義。互いに、必殺の間合いぞ。
「フ! 終焉に相応しき交錯となろう。いざ参らん――!」
娘の砲口と不退転の眼差しを見据え、突き進む。
我が覇道は常に高潔にして威風堂々たらねばならぬ。真っ向勝負こそ華よ。
「まだ……! はあっ、まだ、まだあっ……っ!!」
一歩。また一歩と彼我の距離が詰まる。
地に鮮血を垂らしながらも、娘は絶好の機を窺いタイミングを計る。
「はあっ、はあ……! はああっ……、」
荒い呼吸のリズムが――止まった。
「『サンプル』!」
来る!
我の間合いの一歩外。流石の慧眼と讃えよう。
そうでなくては面白くない! さあ、ここから凌ぎ、華麗に決めて魅せよう。
砲掌を、見極める。
「『キャノッ……!?」
娘の掌中に渦巻いた弾丸が、霧散した。
驚愕に見開かれる眼。
「あっ……」
失策か。残弾を見誤ったな。
呆気ない幕切れではあるが、何、ここまでよくぞ戦った。
苦しまぬよう、一刀にて終わらせてやるのがせめてもの餞となろう。
「さらば、不屈なる少女よ! 『深淵斬撃・グラウドロス――――」
視界が揺れる。
膝に力が入らない。否、膝だけではない。
全身から、力が抜けていく。
振り上げた手中、ダムギルスヴァリアグラードが滑り落ちた。
状況を精確に理解できたわけではない。が、概ね察した。
一杯食わされたようだな。
フ。それでこそ、我が好敵手よ。
見事なり、阿呂芽ハナ――――
「……ム」
「お目覚めですか? ダークヴァルザードギアス様」
「ああ……アナスタシアか」
大会会場内、医務室。
グロリアス・オリュンピアの試合にて敗北した魔人が転送され、エプシロン王国の秘薬により蘇生される場所。
前後の記憶がやや不明瞭ながら、それでも。
暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは、自身が敗北したことを理解した。
覚醒直後のようなぼやけた視界が徐々にはっきりとしていく。
視界の中に一際大きく映るのは、上下が逆さまになったアナスタシアの美貌。
妙に近い。
「えっ?」
ん? なにかおかしくない?
その疑問の答えは、今更のように気づいた、後頭部を支える柔らかく暖かな感触が教えてくれた。
すなわち――膝枕である。
「えっ、はっ!?」
素っ頓狂な声を上げて身じろぐ暗黒騎士ダークヴァルザードギアス――土屋一郎。
仕方ない。彼女いない暦=年齢には刺激が強すぎた。
だが、彼の身体はアナスタシアが手を回し、いかにも離れがたく拘束されていた。
アナスタシアは、凛々しい暗黒騎士としての主も、たまに現れるどこか情けない素の主も、どちらも慕っていた。
つまり、わざと。こう見えてしたたかな女であった。
「……ンンッ! ン゛ッ! ――フ。我が就寝の番、大儀であったぞ」
なんとなく威厳を取り戻した感じを演出しつつ。
しかしすぐさま、表情に影を落とす。
「いや。無様なところ見せたな……高貴なる暗黒騎士たる我が、初戦敗退か」
「いいえ」
自嘲的な笑みすら浮かべた暗黒騎士に、敬虔なる従者は首を振った。
「ご立派でした。主さま……誰もが貴方の雄姿を讃えています」
言いながら、アナスタシアは携帯を摘み上げ、彼に見せる。
彼自身の携帯だ。普段は、もっぱら小早川店長からの業務連絡のみで、両親からの着信も、友人からのメッセージもない――その、枯れた端末に。
土屋センパイ、魔人だったんスね! 超カッチョかったッス! オレ、感動しました!
――バイトの後輩。
土屋君。いつもありがとう。楽しそうに打ち込めているものがあるみたいで、安心しました。
――店長。
テレビ見たよ! 土屋くん、すごいね! そだ、今度集まろうって話出てるんだけど――
――かつての同級生。
一郎。お疲れ様。たまには顔見せに帰ってきな。
――両親。
たくさんのメッセージに溢れた携帯は、自分のものではないようで。
それでも、暗黒騎士の胸に広がるのは、虚栄ではない感情で。
心無い者もいる。
金銭問題。人間関係。先の見えない未来。不安はどこそこにもある。
最悪は、誰の心にも巣食っている。
それでも。
思いもよらぬほど近くに。案外、救いは転がっているものだ。
取るに足らぬフリーターが、高潔なる暗黒騎士になることも。
虐げられた少女を、高潔なる暗黒の騎士が現れて助けてくれることも。
そんな、白昼夢の妄想のような出来事も、信じてさえいれば。
すべて現実に起こりうる。フェム王女も愛した、魔人の国ならば。
「……フ。フフふ、はは、ははははっ!」
その日。
暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは、久しぶりに、土屋一郎として笑った。
「……はあっ。……『サンプル・シューター』……!!」
その瞬間まで、すべてスローモーションだった。
迫りくる暗黒騎士も、振り上げたクソダサいダンボールの剣も。あたし自身の鼓動すらも。
目の前で、グラリと揺れて倒れようとしている、対戦相手も。
すべてのサンプル花子に奥の手として登録されている、大技『サンプル・キャノン』。
それをフェイクに使って、弾切れを誤認させる。緩んだ意識の間隙に、必勝の一撃を入れる。
狙いは顎。過たず撃ち抜けた。事前にエイムをブレさせる演出を挟んだおかげもあったかもしれない。
そう、演出。わざと。……5割くらいは。
嘘。3割くらいは、演出。
……本当、当たって良かった。
ともあれ――ずっと暖めてた、あたしの一世一代の作戦。
相手が『サンプル・シューター』を知らなければ通じなかった、決死の逆転策。
実際、とても際どかった。あたしの残弾は、不意打ちの分でめでたく空になった。
残されていた残弾数は、大体1.5発分。
0.5発分で不発を演じて、最後の1発分で決める。
成功して良かった。
ここから3分間は、正真正銘の丸腰。
もしこれで決まっていなかったら。起き上がられたら。
あたしに、打つ手はない――
「――あ。ああ……ああああああ」
スローモーションが一転、加速していく。
勝利を確信して緩んでいた頭が、急速にうなりをあげ始める。
もし、起き上がられたら。
これで決まっていなかったら。あたしに打つ手は、なにもない。
逆転、からの再逆転。
「ああああっ、ああああああ――!!」
嫌だ。負けられない。
今まさに崩れ落ちる相手が、途端に醜悪な魔物に見えてくる。
気絶したフリをして勝機を窺う、姑息な魔物。
もう目の前にあるんだ。掴みかけた勝利を、手放してなるものか。
手放してなるものか――!
無我夢中で伸ばしたあたしの左手は、ダークヴァルザードギアスのくたびれたモッズコートの襟を掴んだ。
ザックリと切られた腕が、死んでしまうような痛みを訴えてくる。
知らない。そんなことよりも、あたしは。
「ああああああッッ!!」
静止したダークヴァルザードギアスの顔を、右手で力いっぱいに殴りつけた。
前掛かりになりすぎて、ダークヴァルザードギアスごと倒れてしまう。
「ぐあっ……うう、うううううッ――!」
左手を離してしまった。なにしてんの。ふざけるな。
殴った右手の痛みもすさまじい。黙ってて。それどころじゃない。
やらなきゃ。でないと、あたしが負ける。
「あああああッ! あああッ、ああああああああッ!!」
仰向けになったダークヴァルザードギアスに馬乗りになって、あたしは一心不乱に拳を振るった。
反撃はない。抵抗すらもない。
でも油断してはいけない。このチャンスを逃がしたら、あたしは負けるんだ。
「あああああああああ――ッッ!!」
両腕が燃える。
頭が痛い。視界がぼやける。呼吸もまったく整わない。
とうにカラカラに渇いているはずの喉から、あたしの意思とは関係なく声が溢れてくる。
再び、涙も流れてきた。何に対して、なのか、あたしにも分からない。
なにもかもを置き去りにしたあたしの頭の中には、唯一「勝たなきゃ」という思いだけがあって。
その思いに突き動かされるまま、どのくらいの時間、そうしていたんだろう。
「っ……ああ、ああああっ……ゲホッ! えほっ、はあッ……!」
あたしの腕がまったく上がらなくなって、ついには声も枯れた頃。
馬乗りになった相手が誰だったのか、判別する手段はなくなっていた。
首のない死体が倒れている。
頭部があるはずの場所を中心に、地獄の灰色の大地に毒々しく咲いた深紅の花。
大会会場に再転送されるまで、真っ白な頭でそれを見ていた。
【グロリアス・オリュンピア 第1回戦 地獄STAGE 決着】
勝者:阿呂芽ハナ
決着時間:41分51秒 49分32秒
決まり手:気絶による戦闘不能 殴殺
視界が一気に開けた。
膝立ちのあたしは、息苦しい灰色の世界ではなく、照明が眩しい大会会場のドームにいた。
股下に転がっていたはずのダークヴァルザードギアスがいない。
ああ、負けたら医務室へと転送されるんだっけ。あまり、頭が回らない。
よろめきながら立ち上がる。
ステージをぐるりと囲んでいる観客は、みな一様にぽかんとした表情を浮かべている。
ショックを受けているような、開いた口が塞がらないとでもいうような。どこかマヌケな感じ。
降り注ぐ視線の中心にいるのは、まぎれもなくあたし。
戦いの勝者。あの暗黒騎士を倒した、いうなれば勇者だ。
けれどそこに賞賛の色はなし。どころかむしろ、化け物でも見たかのようなこの空気は何――
「――あ、ああっ」
置いてけぼりにしていた様々なものが、一気にあたしに追いついてくる。
肉を潰し骨を砕く感触。
全身に浴びた返り血の生温かさと不快なにおい。
すぐ近くから聞こえていた、何か獣の唸り声のようなものは、ああ、あたしの声だったんだ。
「……ち。違っ……違う。あたし……違う――!」
ひとを、殺した。
いくら秘薬とやらで蘇るとはいえ。
昨日までただの女子高生でしかなかったあたしが、ひとを、殺した。
顔も制服も、赤い返り血にべっとりと染まって。
弁解にもなってない弁解を並べる口に続こうとした両手は、少しも持ち上がることなくだらんと垂れて、会場を血で汚す。
その血だって、あたしの血なのかダークヴァルザードギアスの血なのかも、よく分からない。
会場に集まった人たち。ううん、それだけじゃない。
テレビとかで見ている日本中、世界中の人が。
きっと、あたしのことを化け物だと思ってる。
やめて。そんな目で、見ないで。
息が荒い。視界が暗い。頭が重い。さっきの、地獄の瘴気に未だ囚われているような感覚。
そうだ。あたしが悪いんじゃない。
地獄だからだ。地獄の鬼か何かに乗っ取られてたんだ。あれは、あたしじゃなかった。
誰か、そう言って。
――ぱちぱちぱち。
しんと静まった会場に、間の抜けた拍手の音が響いた。
顔を上げる。会場の一番奥。
耐魔人用強化ガラスごしに、そいつと目が合った。
『……素晴らしい戦いでした。地獄という戦場に、これほど似合う戦いもなかったでしょう』
蕩けそうな微笑を浮かべた、色素の薄い髪と肌を持つ、ドレス姿の少女。
『止めていただいた甲斐がありました。阿呂芽選手。貴女の勇姿に、心から御礼申し上げます』
ふわりと頭を下げる、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン。すべての元凶。
遥か高みから見下ろす女だけが、あたしが化け物であることを祝福しているみたいだった。
こいつのせいで、あたしは。
ちがう。自分のせいだ。
ちがう。あたしのせいじゃない。あたしじゃない。
あたしは、化け物じゃ――
「うっ――う、ぐっ」
醜い声とともに。
あたしはその場に、胃の内容物を盛大にぶちまけた。
遠く、悲鳴があがった気がする。
そのまま、意識がどこかへ消えていく。
電池が切れた人形みたいに、カクンと砕けた足腰。崩れ落ちる。
打ち付けた顔面に痛みはなく、生暖かく湿った感触とすえたにおいだけがある。
全身全霊をかけた暗黒騎士との決闘なんて、そんな白昼夢の妄想、誰も信じてはくれない。
ただ、野獣のように気の狂ったJKが全国ネットで醜態を晒しただけだ。
本当に、最悪の地獄だった。
夢というなら、そう。あたしはもう、ずっと悪夢しか見てない。
救いの手が差し伸べられるなんて。
それこそ、白昼夢だ。信じちゃいない。
同刻。
阿呂芽家のテレビには、未だ変わらず番組が続いている。
戦いは決着を迎えた。
勝者である何の変哲もない少女は、会場転送後に気を失い、担架で運ばれるところだった。
サンプル花子にインプットされた昼休憩の時間は、まだ残っている。
ルーチンが「夕飯の買い物」に切り替わるまで、あと1時間と8分。
にもかかわらず。
バタン、と音がして。
扉が閉まり、次いで足音がひとつ、急ぎ遠ざかっていった。
<阿呂芽ハナ 本戦1回戦SS「Day Dream Believer」 了>