恐らくは、爆発音だったのだろう。
激流のように過ぎる光景の遙か後方。低い振動を雫は感じ取っていた。
「ハハハハハハハハ! ジャックポット! ざまあ見ろバカども! ハハ、どうだ見たよな!? 言ったとおりだ! 一発で全滅させたぞ!」
崖沿いの道を、大嵐の只中の航海よりも激しく荒れ狂って走る軍用ジープである。
幼い雫は助手席にしがみつくだけでも必死なのに、その男は荷台で両腕を広げて快哉の笑いを響かせていた。
「等々力! ハイタッチだ! ハハハハ! イエーイ!」
「ふふ。はしゃぎすぎると落車しますよ、真野くん」
これほどの破壊的走行を操りながら、運転席の老人は凪のように静かだ。片手をハンドルから離して、真野の悪ふざけに乗る余裕すらあった。
「う、うう」
「雫もホラ! イエーイ! あいつらはもう追ってこねーよ!」
「ヘリは来るでしょうねえ。基地の規模からして、三機」
「……陸からは追ってこねーよ! 喜ばせろバカ!」
叢雨雫が動けないのも、無理はなかった。この時の雫は十四歳で――魔人としても裏世界の住人としても、若すぎた。
竜胆会の末端として、魔人構成員に与えられる類の仕事を必死に生き延びる日々。八年前の話だった。
「恐ろしいでしょう。雫さん」
彼は決して雫を振り落とすことはないだろう。安全を確信して、なお恐ろしい。
等々力が運転する車両は、それ自体がまるで一つの怪物の暴力だ。
等々力昴の口調は変わらず穏やかだったが、石を跳ね上げる怒濤の中でも、耳にはっきりと届く。
息をつくこともできないので、雫は強く頷いた。
「いつも私や真野くんが偶然居合わせて、助けてあげられるわけではありません。それどころか、次は私達が敵かもしれませんよ」
「そうだそうだ! 危なっかしい真似は辞めて学校行け学校! バカになっちまうぞ!」
「……」
……等々力が言っているのは、この車のことなどではない。
闇の奥底へと踏み込む雫を引き止めようとしているのだと、その時に気付いた。
だから彼女がはっきりと答えを口にできたのは、車の揺れが小さくなったことだけが理由ではなかった。
「――友達が殺されたんだ。何もできなかった」
臓物とおびただしい量の血を流した、まだ温かい少年と、そこに寄り添い泣きじゃくることしかできない自分の姿。
『魔人覚醒時の初犯は不問』。日向陽太を殺した魔人は今だ生を謳歌している。
許せない。殺してやる。
「なァ……大事な人を殺された時、等々力さんならどうするんだ。真野さんなら。オ、オレは……殺してやりたい。オレの、仇だ」
「そうですね。由美さんなら、どうしますか」
老人は荷台を振り返ったが、視線の先は真野ではなかった。
彼はこの仕事の最中でも、何も存在しない虚空にふと呼びかけることがあった。
「ふふ。そうですね。その日の気分次第です」
「そんな……そんな軽い話じゃない」
「私は、そうしてきました」
等々力昴は無敵の傭兵だ。伝説のマスタードライバーならば、そうすることもできたのだろう。
彼の言葉は、荷台に立つ真野金が続けた。
「……つまり、殺す気分なら殺しちまってもいいってことだ! 俺はいいと思うぜ!? さっさとそうしろ!」
「そ……それは、まだ」
「実力が足りないからってか? ハハハハ、それならそれでいいじゃねえか! 自分の力を勘定に入れる程度の相手に、必死になることはねえよ!」
「せ、正義は!?」
幼い雫は叫んだ。
――等々力昴と真野金。
その時の彼女とは……あるいは今でも遠く隔たった、伝説の存在。
ただの気紛れで幼い子供を助け、敵がどれだけ強大でも臆すことがない。
この世界に身を投じた彼女が目指すべき、ヒーローの姿なのだろうと思いもした。
けれど、彼らはやはり違うのだ。
「だってオレが諦めたら、逃しちまったら! 正しいことをするヤツがいない! それでいいのかよ!?」
「雫さん」
日向陽太が本当に必要としたヒーローではない。
悪を許すことはできない。絶対に逃さない。
「……オレしかいないんだ。正義のヒーローが、殺さなきゃならない」
「一……二歩。鞭の攻撃。消える。現れる。一歩後方。進めない。二歩後方……」
真野清掃店の仄暗い一角である。
真野はとうに拠点をこの店舗から移して久しかったが、大会関係者との接触の際にはここを用いていた。
第一回戦の録画試合映像を流し続けるモニタに、何度目かの早戻しをかける。
画面に映る女は、徒士谷真歩である。ピラミッドにおける、偽花火隣火との格闘戦の映像であった。
「四番目……八、九。踏んでいる石畳が……そうか。先に進む方向に瞬間移動していないのは、既に炎に巻かれているからだ……こいつ、同じところを……」
「……」
不明瞭な内容を呟き続ける彼を、傍らで見下ろすスーツの男があった。
経済産業省所属。早乙女という仮の名を名乗っている。
「よし。よし、じゃあ、やれる。手はあるぞ。ハハ、なあんだ……瞬間移動じゃない、状況再現の亜種だ――珍しくもねえ。こんなの、大した魔人能力じゃねえ」
(……飯田で倒すしか手はなかった)
電子タバコを口に咥え、彼は思う。
真野金は見る影もなく衰えた、みすぼらしい様であるように見える。
しかし、第一回戦。飯田秋音という国家刺客が彼に挑み、そして破れた。
九暗影という名で大会に潜り込ませ、その組み合わせで試合を運ぶ。それが秋音の背後で糸を引いていた、早乙女の仕組んだ計画であったが。
(互いに情報のない第一回戦。身元を隠して、辿ることもできない暗殺者の身分。『イデアの金貨』の上位互換、事象を確定する回答能力『フラガラッハの嚮導』。何もかも、この男を倒すためのセッティングだった――そうでなければ、当然こうなる)
第一回戦で仕留めきれなかった以上、誰にも勝ち目はない。
真野金は試合映像から全てを暴き、敵を封殺して勝つ。全国配信の試合で彼に戦闘の様子を明かしてしまった時点で、自分だけが手札を晒してポーカー勝負に挑むに等しい無謀であろう。
叢雨雫。徒士谷真歩。彼女らは負けるだろう。
敗因は、第二回戦以降で真野金と戦うという事実そのものだ。
「真野。工作が趣味なのか?」
「よし、じゃあ……混色ができるやつだ……親水性はまずい。溶剤系のやつを……」
パン、と乾いた音が鳴った。
無表情のまま振り抜かれた早乙女の裏拳が、真野の顎を強かに打ったのだ。
「……? ……??」
「聞きたいことがあるんだが、真野」
早乙女はもう一度殴った。
視線すら、部屋の片隅に注がれている。
「ひっ、な、なんで」
「……ああ、すまない。もう一発殴ってたか? 聞きたいことがある。あれが次の試合で持ち込む武器か?」
木や金属を重ねて張り合わせた板。ゆるく布を巻いた骨組み。ビニール傘。
テグスや釣り針を使用した痕跡も見えた。
「第一回戦の賞金があるんだろう。サブマシンガンでも買ったらどうだ。それで楽勝だ」
「それは……それは、無理だろ……? なあ、早乙女。足がつくルートで銃を買ったら、逮捕する口実ができるよな……だから、あんたがこうして俺を監視してる……」
「……」
早乙女は椅子を蹴倒した。真野は床に転がされ、呻いた。
「うっ、ぐう」
特に怒りはない。単に、そのようなことができるというだけだ。
飯田秋音の前でなければ、人間性を装う必要もない。
「分かるか? 真野。お前は失敗した。伝説の男が、耄碌したのか?」
「……な、なんだよ、あんた……クソッ……」
「このルールは、負けた側が一方的に有利だ。試合外で戦闘行為を行った場合、その時点で参加資格を剥奪される。試合開始時に会場に辿り着かない場合、自動的に敗北になる。その上、一度負けた奴は死亡すら完璧に回復してくれる。試合で殺すことすらできない」
彼が真野を引き入れようとしていた理由はそこにある。
運営側の意図がどこにあろうと、早乙女のような種類の人間はこのルールをそのように解釈する。真野も同種だ。
「敗者側が一方的に勝者側を嬲るためにあるようなルールだと思わないか? 敗者から身を護るには、こちらも敗者を動かすしかない。第一回戦で問われたのは、場外の戦いを出来る敗者を、どれだけ上手く自分の側に引き込めるかだ――お前程の便利屋が、どうして敗者側で戦わなかった?」
「で、でも、待て、俺をやったら、飯田の正体ぐべっ」
「ん?」
倒れた顔面にさらに蹴りを叩き込み、踏みにじる。
早乙女には当然それができる――敵の交渉カードが、自分にとって如何に取るに足らないものか思い込ませるということ。
「すまない。また踏んだな。俺がお前に協力して何か得があるのか? 願いの権利でもくれるのか? 九暗影に関してちょっとした始末書を書かなくていい以上の価値がお前にあるのか?」
「……はっ、はっ……はあ……」
ただの人間である早乙女に為す術もなく血塗れにされながら、最強の魔人は惨めに彼を見上げるしかない。
――試合外での戦闘行為は反則となる。
怯え、喘ぎながら、真野は懇願した。
「あ、ある……! 本当だ……。あんた達に、得になることだ……」
試合の日。太陽を背にした巨大観覧車が、矛を交える魔人達を見下ろしている。
真歩の背後の鉄柵には、何本目かのビニール傘が突き刺さった。
頑丈な鋼鉄製の柵の隙間に食い込み、形状すら歪める、通常の傘ではありえない威力。常人が直撃すれば、致命傷は免れないだろう。
「……参るな」
回避で目にかかった長い黒髪を払って、徒士谷真歩は敵を見た。
叢雨雫。無論、いずれ倒さなければならない相手ではあるが。
「オイオイオイオイ! やるなァ刑事さん! いいじゃねえか!」
「お前はバカか!?」
槍投げの要領で投擲されたビニール傘の軌道を、片手で構えた鞘を沿わせるように逸らす。魔人警視流。真歩の近接戦能力であれば、雫の投擲攻撃を凌ぎ続ける事は十分可能だ――が。
(状況ってもんがあるだろう……!)
開始早々の遭遇から、反撃の余地のない猛攻。
真歩が確信していた前提が通用しない。
この対戦組み合わせで最も危険な相手は、真野金であるはずだ。真歩と雫が完全な共同戦線を張ったとして、なお倒せるかどうか。
このように互いが潰し合う状況は、姿を現さない真野をいたずらに有利にするだけだ。
「へッ――察しの通りオレはバカだよ! だけどなァ、大体分かってきたぜ~!」
敵の射線を外すように下がる真歩は、観覧車の手前まで追い詰められている。
残弾が尽きる様子がない。傘を投げたと見えた次の瞬間には、手に次弾が装填されている。
ゴンドラを大きく蹴って方向転換し、新たなビニール傘を回避。
(……黄色)
名を『太陽の傘』という。雫の魔人能力に関しては、徒士谷真歩も試合映像から、当たらずともある程度の当たりをつけてはいた。
叢雨雫は、『透明性』と『傘バランス』の特性強化によって、数十本にも上るビニール傘の残弾を保持し続けているのだ――これほどの武装をただ一人で持ち込める参加者は、彼女をおいて他にはいるまい。
「おめェ、いい奴だろ」
「……何?」
「あれ……違うか? 刑事さん、全然オレに反撃する様子がねェしさ……や、オレの方だって外し気味には投げてたンだぜ? でも、もし悪党ならなんかこう……オレに仕掛けてくんだろ。オレは戦う気のねェやつとはやらねェーの」
「あー……」
雫は本当に攻撃態勢を解いている。ブラフをかけているようにも見えない。
真歩は気まずく頭を掻いた。
(――違うんだけどなぁ)
この三すくみにおいて最も有利な魔人能力を持っている者は、他ならぬ徒士谷真歩だ。
一度徒歩で踏破した地点に、瞬間に帰還する能力。『東海道五十三継』という名である。この試合の三名の中では、彼女一人だけが群を抜いて圧倒的な機動能力を持つ。
瞬間移動の優位点の一つは、そのスピードと並んで、移動に伴う体力の消耗がない点にある。残る二名が互いに戦闘し、どちらかが倒れた時点で、万全の状態から奇襲を仕掛ける戦術が最善。
叢雨雫と鉢合わせてしまったのはその下準備としての『踏破』の最中であり……最初にこの遊園地全域をその足で辿る必要性がある以上、ある意味で避けがたい遭遇ではあったのだろう。
「叢雨雫。参加者の中じゃ、お前が一番よく分からねえんだよな。ヒーロー……要は魔人連中によくいる自警団気取りだとして、だ。悪党を倒すためだけに、わざわざこんなとこまで出るか? 勝ち進めばもっと悪党が出てくるかもしれないって?」
「オイオイオイ刑事さん、願いを叶える大会だぜ? ……悪党が勝っちまったら大変だって、ちょっとでも思わねえか? 思ってるだけで動けないでいる奴は、それこそヒーローじゃねェだろ」
「……まあ、そうかもしれないけどな」
毒気を抜かれた様子で、真歩は答えた。
真野金が何かを仕掛けているかもしれない状況で、このような会話を交わす程度には、彼女は叢雨雫という存在に興味を抱いていた。
(嘘をついている感じもしねえんだよな。何が引っかかってる?)
彼女は思考を進めようとして――その考えは、頭上から割り込んだ声に中断する。
《――徒士谷真歩。聞いてるか? なあ、まだ落ちてはないだろ? 聞いてるよな?》
「真野……」
声を響かせているのは、園内スピーカーだ。
第一回戦の雪原でも使った手だ。徒士谷がどこにいようが影響を及ぼせる手段。放送室からの放送を想定して、真野は動いていたのか。
「叢雨。真野金はどうなんだ? あの野郎をヒーローって呼ぶやつもいるし、悪党って呼ぶやつもいる。あたし達警察にとっちゃ、もちろん敵だ。お前の正義だと、奴はどっちだ」
「……。あの人は」
雫が答える前に、放送が言葉を続けた。
《で、なんだ……娘さんは、かがりっていうのか? 平仮名でかがり? 11歳? おいおい、かわいい盛りだろ……ハ、ハハ……ちょっと信じらんねえな徒士谷真歩。親としての愛情がないのか?》
「……あァ?」
真歩は明確な苛立ちと共にスピーカーを見上げた。
反則ではない。対戦相手以外に危害を加えることが反則負けだとしても、それを『伺わせる』だけならばルールに抵触しない。そうしたレベルの脅しならば、それこそ偽花火燐花が第一回戦で実行済みのことだ。
それでも娘のことをあげつらわれて挑発されるのは、彼女の癇に障った。
「真野。真野ね。とりあえずまァ、全身の骨くらいは叩き折ってやるか」
《偽花火燐花はどこにでもいる》
「……」
《そういうことだろ? 試合であんたが見破ったことだ――怪盗サーカスの『招待状』が娘さんに出されてることも言ってたな? 何やってんだ? なァ……娘さんの宿泊先も、あんたのついていない時間帯も、全国中継でバレバレなんだぞ》
……違う。真野金の園内放送の目的は、徒士谷真歩への脅しではない。
もっと直接的な手段だ。
この男は、徒士谷真歩を直接に排除しようとしている――
《試合なんかにかまけている暇は、ないんじゃあないのか》
「……ッ!」
『東海道五十三継』を発動したい衝動を、こらえる必要があった。
……真野の狙っている通りのことが、真歩には可能だ。
たとえ試合の最中であろうと、彼女はいつでも娘の元に帰ることができる。
距離を無視する――敗北の確定する場外であろうと、移動できる。否。できてしまう。
真野金。無敵の便利屋。伝説の男。
時に『可能である』ということが枷になることを、この敵は知っている。
だが、怒りの声を上げたのは、叢雨雫であった。
「真野……! オレの前で……人質にしやがったな……ガキの命を……!!」
「叢雨、落ち着け……!」
「刑事さん。今、答えがはっきりしたよ」
その声は憎悪に満ちている。女女の殺人を咎めた時と同じ目をしていた。
それが、彼女の信ずるヒーローの眼差しだというのだろうか。
――それどころか、次は私達が敵かもしれませんよ。
「真野金……テメェは……! オレが殺すべき、悪党だ!」
ゲーム機が燃えてしまった。お気に入りのワンピースも。
どうしよう。ごうごうと煙を吐き出すホテルの窓を見上げながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
あと五分、自分の部屋でママの試合を見ていたら、私はどうなっていたんだろう。
「いいえ。はい。……まだ安心できない」
お姉さんは少し怖い顔で、燃える私の部屋を見ている。
手を引く力が強くて、それも私を不安にさせた。
「場所を変えて逃げよう。かがりちゃん」
「ね、ねえ……本当なんですよね? ママから頼まれたって……」
「そう? 私がそう言った?」
……私の体がふるえたのは、怪盗サーカスが恐ろしいからだけではなかった。
ママが警察の人に頼んで、守ってくれている。
お姉さんは私を助けてくれた。
――だけど。この人まで、私の味方じゃなかったら?
「……九暗影さん」
ごめんなさい。ごめんなさい。
だって、もう少しで部屋と一緒に私が燃えちゃうところだったから。
知らない人についていっちゃいけないなんて、今さら遅すぎる。
「緊張しているんだね。かがりちゃん。ほら、食べて」
お姉さんは口の端で笑って、私に銀紙の包みを渡した。
可愛らしい苺のトリュフチョコだ。手作りなのかな。
けれど、そんなきれいなお菓子も、私を安心させてくれない。
「――考えて逃げるには、糖分が必要だから」
《徒士谷真歩。試合が長引けば長引くほど、あんたの娘の身は危険になる。今回は三人戦だ。最後の一人になるまでどれだけ時間がかかると思ってる……》
「よくもまあ……ベラベラと喋りやがる」
『東海道五十三継』を駆使した上でも、広大な遊園地だ。敵が放送を行う地点に当たりをつけ、徒歩で到達するにはさらに時間を要した。
……娘を守らなければならない、貴重な時間が。
(こいつの選択肢は一つだ。迷子センター。初見のフィールドだろうが、どの案内表示にも必ず表記される『放送施設』)
真歩を排除する最高率の手を敵が選んでいる以上、そこに無駄な推測の一手すら差し挟むことはなかったはずだ。この犯人ならば、誰よりも真っ先に放送施設を抑えれば、それは無益な遭遇戦を避けることにもなる。
放送はまだ続いている。十分な警戒と共に、迷子センターの扉に手をかける。
その開き方に不自然な抵抗を感じ、真歩は足元に目を落とした。
(……糸)
爆発。
瞬間に連鎖した破片の嵐が、扉ごとを吹き飛ばした。
「……ッぶね!」
――その遥か手前。片膝で着地しながら、真歩は焦燥の汗を拭っている。
『東海道五十三継』。一瞬の内に位置座標を仕切り直せる真歩に対しては、トラップも格闘戦も意味を成さない。
糸に掛かった敵を始末するブービートラップなどは、意思の発動速度と比べればあまりに遅すぎる。
「炎や煙がない……扉の破壊痕から見て、手口は小破片による殺傷。凶器は…………対人地雷か……」
《今ザザッ……俺を倒せたとしてだ……そのザッに残ってるのは叢雨雫だ。お前は何分でこいつを殺せる……》
「……チッ」
再び、魔人能力を発動。進むのは迷子センターから離れる方向ではなく、踏み込む方向。
このようなケースの場合、安全なのはトラップから逃げる先ではなく、既にトラップが発動済みの前方であることを知っている。
放送室に踏み込んだ彼女は、予測していた通りのものを発見した。
……ONの状態に固定された園内放送のマイクと、そこにテープで縛り付けられた機材。真野の声は今も園内に響き続けている。
「全部ICレコーダーの録音ってか……まんまと引っ掛けられた……いや」
分かっていても、踏み込まざるを得なかったはずだ。
『東海道五十三継』に探知能力はない。それが罠であろうと、現状、真野の手がかりが確実に残されている地点はこの放送室しかないのだ。
(……それよりも、ヤバイのはこっちだ)
対人地雷だ。真野は敢えてその武器を仕掛けてきた。
彼の意図するメッセージは、真野の第一回戦の戦いを見た彼女ならば分かる。
(あれは九暗影の武器だ……! 大陸の暗殺者――第一回戦で使った分以外にも、第二回戦以降に備えてあの手の武器を買い込んでいたのは間違いないはず。奴は何らかの手段で九暗影を味方に取り込んでいる……試合の最中だろうと、奴を動かすことができるってことか……!)
試合外で戦闘行為を行った場合、その時点で参加資格を剥奪される。
試合開始時に会場に辿り着かない場合、自動的に敗北になる。
その上、敗者は死亡すら完璧に回復される。試合で殺すことすらできない。
たとえそのような行為があったとしても、何一つルールに抵触しない――
敗者側が一方的に勝者側を嬲るためにあるかのようなルール。
「違う。あの野郎がここまでしてあたしを退場させようとしてるのは、三人戦であたしの能力に対処する手段が何一つないからだ……! 犯人の思惑に乗るな。かがりは万全に守って……!」
着信音が鳴り響いたのはその時であった。
電話の画面を見る。内裏エイジからの着信。
彼ならば言うまでもなく、真歩が試合の最中であることを知っているはずだ。
その上で、電話をする必要があったということを意味する。
「……く」
通話ボタンに指を伸ばし、止める。
(この電話自体が真野の罠だったとしたら?)
映像を配信する以上、試合場には常に電波は通っている。リアルタイムでネット上の書き込みを閲覧することすら可能であろう。ルールとしては明言されていないものの……協力者に対する試合中の外部連絡が反則に抵触し、この電話を取った瞬間、真歩が敗北の裁定を受けることはないか。
(いや。この携帯は警察の緊急連絡用携帯だ。こいつを取ったとして、公務員としての職務を優先したって言い訳が立つ。グロリアス・オリュンピアは国の主催だ――問題は……ない!)
電話口からは、狼狽する後輩の声が届いた。
《先……先パイ! すンません! かがりちゃんが……か、かがりちゃんが……》
「いっつも言ってんだろうがエイジ! 報告ははっきり簡潔に言え!!」
《……消えましたッ! 警備の……交代の少しの隙に、かがりちゃんの部屋から出火して……! 踏み込んだ時には、もうどこにも痕跡が……今、必死で捜索してるとこですッ! 先パイすンません……すンませんしたッ!》
「……。大丈夫だエイジ。お前ならやれる。落ち着いて、一つずつだ。犯人の思考を辿れ。あたしの娘だとか、そういうことは今は忘れろ。相手はたかが犯罪者で、お前はそいつらを捕らえ続けてきたプロだ。やれるな。エイジ」
《はい……はい……!》
通話を終えて、大きく溜息をつく。あらゆる悪い予感が的中していくかのようだ。
そもそも、犯人はどのようにして警備の隙間を突くことができたのか?
(――怪盗サーカスは神出鬼没。どこにでも入り込み、どこにでも現れる)
それは何故か。
真歩が長年追い続けた怪盗サーカスは、その正体すら不明だった。
彼女は既に、理由を知っている。
(怪盗サーカスに正体はない。偽花火燐花はどこにでもいる)
『輪廻化生』が炎を人間にすら作り変えられる魔人能力なのだとしたら、その姿が偽花火燐火自身である必要すらなかったのではないか。
あらゆる人物として、あらゆる組織に潜伏し……警察の内部の情報すら得られる力が、この犯人には最初からあったのではないか。
(……エイジ。あいつの『代理のエイジ』は、まるで他人に化けたみたいに、どんなところにも入り込むことができる……能力にかかってる奴はそれが他人だとすら思わねェし、代理を立ててる奴は当然その場に居合わせたりもしない。――もしも、本当に『他人に化ける』能力だったとしたら?)
徒士谷真歩は刑事である。
一歩ずつ、まるで道ある限り歩き続ける旅人のように……
そこに材料がある限り、思考を進ませずにはいられない。
(柊木茜音。偽花火燐火の放火事件の生き残り。唯一の目撃者。誰も正体を掴ませなかった怪盗サーカスが、どうして彼女にだけ詰めが甘かった? 炎に巻かれたにしては軽傷すぎる――偽花火燐火の『入れ替わり』があったとして、誰がそれを見分けられる?)
――犯人は、この中にいる。
かつての自分自身の言葉が、今は彼女を追い詰めている。
エイジに事件を任せ、自分はこの試合を勝ち進めば良い。
だが、この事件で真に信頼できる者が、彼女自身の他にいるのだろうか?
「真野金……!」
撤退すべきだ。今なら間に合う。九暗影が動いている。怪盗サーカスの正体。
どれだけ事件解決に近づいたとしても……娘を失ってしまえば、何も意味がない。
彼は園内放送をしただけだ。それでも、全ての状況が彼女に告げている――
『真野金が有利になるように、ここで敗退しろ』。
「だ、れ、がッ……! お前みたいな野郎に負けてやるかよ……! あたしは刑事だ。東海道に後戻りはねェ! ブッ潰す!」
鈍い破裂音が遠くから響いたのは、その時であった。
はたと立ち上がり、建物の外へと出る。
徒士谷真歩が本来狙っていたのは、漁夫の利を狙う待ちの戦略だ。
そうだとしても、今の長考にひどく時間を割いてしまっていたことに気付く。
音の方角を見る。
「くッそ……真野……本当の狙いは、あっちか……!」
戦わずして真歩を撤退させるだけではない。
心理の歩みを鈍らせ、全てを踏破する彼女の足を……確実に止めることが。
「真野ォーッ!!」
全力で駆け、最中のカフェテラスに差されていた巨大パラソルの一つを手に取る。
膂力で根本をへし折り、畳み、一本の巨大剣と化す。
まず放送室へと向かった徒士谷真歩とは対照的に、叢雨雫は直線で真野の待つ地点にまで到達している。
「く、ハハ……覚えてる……お前のことは覚えてるよ、叢雨雫……」
巨大ウォーターシュートの直下で、彼は雫の到達を待ち構えていた。
足元に空の缶を転がし、右手には、銃器ではない巨大な武器を片手に提げている。
敵の策など一切考慮に入れず、彼女は怒りのままに武器を叩きつけた。
直情で動く叢雨雫は、時にあらゆる計算を覆す脅威となり得る。
「ふッざけんじゃア! ねェーぞ!!」
巨大パラソルが石畳を破砕した。
真野は寸前で回避し、左手の銃口を向け……しかし巨大な盾としての面積を持つパラソルに射線を阻まれている。
「テメェ……! ガキを人質に取るくらい落ちぶれたかよ!? そうでもしなきゃあ勝てねェくらいに、テメェの腕は腐っちまったか! 真野金!」
「心外だなオイ……お、俺は……人質になんて、取っちゃいねえよ……!」
「そういうことじゃねェーだろ!」
雫は叫んだ。
頭上のウォーターシュートでボートが滝壺へと落下して、細かな飛沫を上げた。
許せなかった。悔しかった。
幼い日に彼女が見た真野金は、紛れもない伝説だった。
彼女が追い求め続けたヒーローではなくとも、その強さに憧れすらしたのだ。
「親が子供を想う気持ちにつけ込んでンのは同じだ! テメェの力で勝ってないのは同じだ! そんな卑怯な手で勝って、それで最強か! そんなクソみてーな強さを誰に誇れる!」
「……!」
傘の近接射程から逃れるべく、真野は距離を取っている。
雫も状況を判断し、動きを阻害するパラソルを捨てている。
同じことだ。傘を万能の兵器と化す『太陽の傘』にとっては、視界の全体が射程圏内に等しい。
「テメェはここで倒す! 刑事さんが、安心して娘ンとこに帰れるようになァ!!」
残るビニール傘の残弾は十八本。今度は真歩との戦闘時のような手加減はない。
不可視特性を強化された傘槍は、回避不能の遠隔刺突と化して真野を貫く――!
「うっ、あ……!」
その石突に脇腹の皮を持っていかれながら、真野はよろめいた。
不可視の投槍を。
(……躱しやがった!)
左手の銃口が上がる。もう片手に構えていた傘で、瞬時に防御態勢を固める。
「球面鏡」
真野の呟きと同時に、飛来物がビニール傘へと突き刺さった。
……『裏返った傘』の球面鏡で反射ができない。
(銃弾じゃない。矢だ。右手の武器はクロスボウ……!)
「叢雨……それ、お前が考えた技じゃないよな……? ハハハ……お前バカだったしな……。覚えてる……本当、お前らのことだけはよく覚えてんだよ……」
「だったらどうだってンだ……!」
続く射撃を回避する。やはり、矢だ。
見えていれば直撃を避けることは容易い。球面鏡での反射は不可能だが、彼女の傘の防御を貫くほどの威力もない。
……その前提も、直後に崩れる。
たった今矢を受けた片手の傘が、黒煙を噴き上げている。
「だあッちくしょう! 火矢か……!」
「あれから学校の勉強はしたか? ビニール傘はポリビニルアルコールだ。引火すれば燃え続ける。それも煙を発しながらだ」
「そのッ、程度で」
「――大丈夫か? 『燃えている傘』までそうやってバランスを取り続けられるのか?」
「……!」
今の二射目は、外したのではない。回避されることを織り込み済みで、彼女が無数に保持する的のどれかに当てるつもりだったのだ。右肩の上に載せたビニール傘の一本に、引火している。それは同じくバランスを保持し続けていた他の傘にまで延焼しつつあった。
(いや。だとしてもどうやって不可視状態の傘に当てた!? さっきの傘槍だって、こいつは見えていて躱した! こいつの能力はオレも知ってる……コインだって投げる暇はなかった……)
ウォーターシュートを一周したボートが、再び頭上で飛沫を上げた。
まるで霧のような、細かな水飛沫。
『太陽の傘』の必殺の撥弾には到底足りない程度の……
「……塗料」
連射される火矢を回避しながら、雫は言った。
攻勢に移ることができない。
自分の体だけでなく、保持する傘にすら当てないよう回避する必要がある。
「ウォーターシュートの水面に……テメェ、塗料を撒いてやがるだろ……! 上のボートが派手に水飛沫を撒き散らすと、こういう風に――」
新たな傘の一本を手に取る。
ビニール面をよく見れば、確かに霧を吹いたように細かな着色がある。
「ビニール傘の透明性がなくなる。元から『透明じゃない』モンは、透明性の強化のしようがねェからなァ~!」
「……叢雨。やっぱお前、バカだよ。向いてない。そーいうことはさ……最初に気付け? ここに誘い込まれた、最初にさ」
――そうだ。彼らは同じく裏社会に生きる魔人だった。
雫が真野の『イデアの金貨』を知るように、彼もまた雫の魔人能力を知っている。
彼女であれば……『傘アンテナ』や『傘占い』で、誰よりも先に真野自身の位置に辿り着けることも。徒士谷真歩の足を止めている間に、そうして彼女一人だけをこの場に誘い込んだ。
「ヘッ……上等だろ……!」
雫は、むしろ闘志の笑みを浮かべた。
真野金ほどの相手と比べれば、叢雨雫の判断力などは遥か格下に過ぎないのだろう。小学生の花凛にすら呆れられたほどだ。そこは自信がある。
火の移ったいくつかの傘を捨てる。ビニール地の燃えた傘は、既に傘ではない。
彼女が持ち込んだ無限の残弾は、確実に削られている。
「小細工しかできなくなった外道相手にゃ、この程度がフェアな条件だよ!! 真野金!!」
「……なあ。俺は、そんなだったか?」
「くたばれッ!!」
傘槍の初動は見破られている。撥弾の弾となる十分な水もここにはない。
ならば、接近戦。放たれるクロスボウの火矢を躱しながら、距離を詰めていく。
「おおおッ!?」
「やっぱ斬り合いはギリギリだよなァ!? そんなデカい武器を構えてちゃあよ!」
焦り乱射される火矢を意に介することもない。右手の一本さえ残れば、それで切断できる。
仮に何らかの手で接近戦をいなされたとしても、二の矢がある。
(狙いは上……! ウォーターシュートまで登る。そこには有り余るくれェの水がある。頭上からの撥弾でこいつをブッ潰す!)
無様に背を向けて走った真野は、柱の陰で何かに足を取られて転んだ。
十年前とは別人の如き無様。
好機に踏み込み、傘槍を突く。
柱の陰に踏み込んだ足を、炎が登った。
「……ッ!?」
「……非親水系。溶剤系。混色可」
足が止まった一瞬、真野は跳ねた。迎撃に突き出した傘を脇で挟み止め、獣めいた瞬発力で雫を地面に押さえつける。
雫の足を止めた炎は、外れた火矢に引火した塗料だった。
ウォーターシュートの水面に撒いていた分だけではない。引火性の溶剤――
「……ハハハハハハ! 叢雨ッ!! 俺の策を見破って得意になれたか? 『上から降る』塗料のほうにさああ! バカはいつまで経っても! 十年経っても!! 手のひらの上なんだよ!!」
「ち、くしょう……!」
『太陽の傘』にとって最強の武器は『水』。叢雨雫は叩き上げの強者だ。だから、かつて裏社会に生きた彼らの誰もが知るように、真野金もそれを知っている。
雫にとって唯一の優位となった接近戦。到達すれば勝利を確定できる大量の水源。
このウォーターシュート直下は最初から、予め全ての動線を引かれた罠だ。
「バカ……バカ叢雨が! 百年早え! ハハハハハハ! 卑怯とかどうとか……バカの言うことなんだよ! 俺はお前らなんかとは違う! 俺は勝ってきた! 勝てる頭があったんだ!! ほ、本当なら、俺は……!」
「――そうだな。察しの通り、オレはバカだよ」
だが。バカだからこそ。
直情で動く叢雨雫は、時にあらゆる計算を覆す脅威となり得る。
押さえつけられながらも保持していた『傘バランス』を、彼女は自ら解除した。
全ての傘が倒れて、地面に。
「ヒーローなんざ、バカしかできねェ……!」
無数の破裂音が響いた。
女女との戦闘でも用いた、水以外に対する『弾く特性』。それを地面に対して作用させる!
地面を跳ねたビニール傘の全弾が、至近距離から真野へと殺到!
「おおおおおおッ!?」
「『ジャンプ傘』ッ!!」
槍としての投擲でもなく、彼女の手を離れた上での能力作用である以上、それは人体を貫くほどの威力ではない。
だが、地から天に登る雨の如きその乱舞は、真野の体を打ち上げるには十分に過ぎる……!
散乱した傘の一つを手に取り、空中で回避行動の取れぬ敵へと狙いを定める!
「――オッラァァァッ!! 『流星……雨』ッ!!!」
豪速の槍が空を引き裂き、腕で守られていない腹部を貫く。
夥しい赤が空中で爆裂して、彼女の戦闘の決着を告げた。
「ハァ、ハァ……! 終わりだ……! これで、全部……!!」
真野金は、ボロ屑のように地面に墜落した。
これで一人脱落。真歩の娘のために残された時間は少ない。
「……叢雨!」
『ジャンプ傘』の破裂音を察知したのだろう。
徒士谷真歩が、遅れて戦場に到達していた。
決着に間に合ったのは、無論『東海道五十三継』の移動の恩恵であるが――
雫は笑顔を向けた。彼女の信じるヒーローとしての、会心の笑いだった。
「刑事さん! ――降参だ!! オレは降参するぞ!! あんたはもう戦わなくていい! オレは構わねえで、今すぐに娘さんのとこ行ってやれ!!」
「バッ……バッカ野郎!!」
真歩は狼狽して叫んだ。何の負い目もない、堂々とした降伏宣言だった。
観客や運営にもその声は届いただろう。もはや取り消せない。
叢雨雫は、ヒーローである。そのようなことができる参加者だった。
「ヘヘ……! そうだ。オレはバカだけど……」
「そうじゃない、バカ!! 試合はまだ終わっちゃいない!!」
二人の声を銃声が割った。
不意を打った銃弾を真歩が回避できたのは、『東海道五十三継』による一歩分の瞬間移動である。
その凶弾を放った者は……
「真野……!」
「へ、へへ……なんだ、クソ……。こっちは、頭いいなあ」
よろよろと、ゾンビめいて立ち上がっている。
腹部からは致死量の赤い液体がボタボタと流れ落ちた。
「と、塗料……」
水袋に入れた塗料を衣服の下に。……混色可能。まるで血液のように。最初から使っていた塗料の、本命の用途はそうだったのか。あまりにも単純な手。
……否。断じて単純ではない。
彼には確かに雫の傘槍が直撃して、戦闘不能になっていたはずだった。
「な、なんで……」
「――傘。こいつに持たせた傘がトリックだろう。真野」
真野は答えず、腹部に突き刺さったままの傘を投げ捨てた。
刑事は淡々と、状況から看破した推理を続けた。
「……そのクロスボウ。わざわざ自作で用意した理由はなんだ? 布で巻いた骨組み部分に隠していたものがあったんじゃないか? 例えば……ビニール傘とか」
今しがた真野が投げ捨てたビニール傘は、中途で歪んでへし折れている。
雫が正しく強化した傘であれば、そのようにはならない。最初から……その骨組みに切れ込みが入りでもしていない限り。
「違う、オレは……あの一瞬で飛び散ったビニール傘を……」
敵が宙に浮き、狙いが定められたのは、ほんの一瞬の好機だ。
――故に最も取りやすい、手元近くにあったものを。
雫を押さえつけ、胡乱な独白をしている最中……
真野が自ら用意したビニール傘を、その位置に転がしていたとしたなら。
「ちくしょう……自分で……選んで……!」
――ビニール傘には、様々な特性がある。
『開かなければ壊れているか分からない』。
取り違えても気付かないほどに、『見分けがつかない』。
「悪いな、叢雨」
トン、トンと戦闘のステップを踏みながら、真歩は告げた。
「だが、お前の善意は無駄にしないよ――すぐに、終わらせてやる」
「……ッ」
「お前は本物のヒーローだ」
クロスボウを解体した真野金の武器は、もう片手の拳銃のみ。壊れた傘で大幅に威力が減じたとは言え、腹部への傘槍の直撃でも少なからぬダメージを負っているはずだ。
『東海道五十三継』と魔人警視流を極めた徒士谷真歩ならば、近接戦での敗北はない。敵が真野金――伝説の男でなければ、そう断言できる。
愛刀たる仕込杖、『馬律美作』を上段に構える。
一撃で首を落とす。
「徒士谷……フェアに行こう。俺は叢雨との戦いで、何度か矢を撃ってる……」
「オイ。無駄話してる暇があんのか? ……お前の立ってる、その場所はだな」
刀を振り下ろすと同時に、全ては終わっている。
――破裂音を聞いた直後、彼女はこのウォーターシュート付近に到達した。
それは即ち、彼女は叢雨雫との遭遇以前にこの領域を『踏破済み』であることを意味する……!
(あたしの)
『東海道五十三継』。出現地点は、真野の背後。
刀身に最大加速を載せた状態での瞬間移動。
初動も間合いも無視するその斬撃は、反応不可能の必殺の一撃である。
(東海道――)
斬撃は止まった。
停止の一瞬の隙に、真野は振り返って正確に真歩を捉えた。
そのまま組み付き、雫にしたのと同様にグラウンドへと持ち込む。
「ぐうッ!?」
「くた……ばれッ!!」
(縦四方固め……いや、それより……!)
真歩は、たった今振り下ろした刀身に絡んだ糸を認識している。奇襲の一撃を空中で止めているのは、釣り用のテグスだ。
『東海道五十三継』の有利性は、一度踏破した……彼女自身がその目で安全性を確かめた場所にのみ移動できる点である。
この開けた地形に、糸を掛ける場所などなかったはずなのに。
(矢……か……。クロスボウで射掛けた矢に、テグスを結ぶことができた……地形に突き立った矢から、糸のトラップを――)
呼吸が締め上げられる。
直接接触による拘束。瞬間移動能力者に対するセオリー通りの手を取ったか。
触れた相手共々移動しなければならない能力なら、これで逃れることはできない。
「……すげェな。真野」
「なんだ……クソッ」
娘の一件に心を乱され、卑劣な奸計で叢雨雫を脱落させられて、真歩はそれでもそう思えた。
強い相手だ。能力に頼ることなく、たった一人でここまで彼女らを追い詰めた。
年月に衰えてもなお、真野金は伝説の男だった。
「マジの話だ……素直に、そう思うよ」
地に押さえつけられた真歩が見ているのは、真野ではない。
その先の大観覧車である。
――大観覧車は『乗り物』であるだろうか?
彼女にとってはそうではない。徒士谷真歩の定義する『乗り物』は、自分自身の二本の足と同じように、一つの道を進んでいくためのものだ。決まったその場を回り続ける大観覧車は、前に進むことはない。
彼女は見ている。遊園地のどこからでも見えるその巨大な車輪の、直上近くに達したゴンドラを見ている。
「黄色だ」
自分の辿った道のりを覚えている。 最初に叢雨雫と交戦したその時。
黄色のゴンドラの外壁を彼女は確かに『踏破』した。
「やめろ!」
「……止めてみろッ!! これが、あたしの!」
抱きかかえた真野金ごと、彼女はゴンドラ外壁、高空へと瞬間移動する!
――『東海道五十三継』!
「東海道!! だぁぁぁぁぁぁッ!!!」
転移。グラウンドから剥がされた真野金を突き飛ばす。地上へ再転移。
全ては一瞬の出来事である。
「ああああああああッ……クソッ……死にたく……!」
落下する真野は、観覧車の骨組みにテグスで取り付こうとした。
加速のついた体重を支えきれず、それは千切れた。なお諦めなかった。指が骨組みに触れた。それは塗料で滑った。
二度の減速を経ても、高所からの墜落衝撃は屈強な魔人の四肢の骨を砕くに十分であった。
「かはッ、ガハッ……アッ……!!」
「いくらお前が強くてもな」
悪の終わりを告げるように、母の足音が響いた。
空中へのダイブで刀を失い、真野と同じく無手であったが、勝負は決していた。
「最初に決めたんだよ。『全身の骨くらいは叩き折ってやる』ってな――」
一歩を踏み出す。
爪先の付近にコインが落ちた。
虚空から現れたかのようだった。
「…………」
「ジャックポット」
何を。
真歩は空を見上げた。
あの時、観覧車の直上に投げ出されたと同時に……コインを落としていたのか。
ならば理解は出来る。だが、何をした?
「真野、」
ひどく乾いた破裂音が、彼女自身の背から響いた。
「う」
徒士谷真歩は前のめりに倒れた。爆ぜて背骨までもが抉れた背中を露にして。
何が起こったのか、その瞬間では分からなかった。
(……そんな)
真野は指一つ動かしていない。アリバイがある。
どんな凶器を。トリックは何だ。
(違う……くそ……。こいつはとっくに、あたしに触れていたんじゃあないか……)
真歩をテグスのトラップで嵌めた一瞬、真野は組み付きによる瞬間移動の封殺を選んだ。今ならその意味が分かる。背中に手を回す、縦四方固めだ。
(釣り針で……テグスに結んだ対人地雷を……あたしの衣服に、直接……つけてやがったんだ……)
『東海道五十三継』。白兵戦も、射撃戦も、徒士谷真歩には届かない。
その体を拘束してすら、彼女の歩みを止めることはできない。
それでも、多くの瞬間移動能力がそうであるように――
自分が身につけているものからは、逃れることができない。
「ハッ……ハァ……クソッ……」
「ガハッ、ク、ハハハハハ……」
両者共に重傷。
だが、動かずともじきに勝敗は決するだろう――この負傷の深さならば、真歩が先に息絶える。
(真野金……こいつは自爆覚悟で……あたしに爆弾をつけていたのか……? 能力で、固め技から逃れてさえいなかったら……いや……できねえか……最初から、あたしには……)
そうだ。真歩は勝負を焦っていた。
娘のために、彼女のために降参を選んだ雫のために、一刻も早く決着をつける必要があった。
じわじわと絞め落とされながらじっくりと打開策を考えるなどできるはずがなかったし、彼女にはそこから逃れられる『逃げ道』が常にあった。
時に『可能である』ということが枷になることを、この敵は知っている。
数々の策で果てしなく積み上げ続けられた思考負担に、最後の一瞬……刑事としての判断力の器が、ついに溢れた。
大観覧車の直上に転移したあの時。
彼女はまさしく自らの手で、真野のコイントスを投げ上げていたのだ――
(……)
敗北を認め、瞳を閉じようとしたその時だった。
「……ふざけんじゃねェぞ」
現れた影は、既に敗退した、この場でただ一人無傷の魔人である。
「テメェみたいな悪党が……勝って、いいわけがねェだろ……!!」
処刑剣めいたビニール傘を引きずりながら、倒れ伏す真野へと向かっている。
ヒーロー、叢雨雫。
「やめろ、オイ、やめろ……叢雨!」
「あんたを勝たせてやる!! 徒士谷真歩!!」
試合の決着は付いていない。
真野金と、徒士谷真歩。
両者にまだ戦闘意思がある以上は、先に死んだほうが負けだ。
――悪党を倒すためだけに、わざわざこんなとこまで出るか?
快活な人格からあまりにも乖離した、悪逆への強い憎悪。
彼女は重大な反則を犯してなお、一つの悪を討とうとしている……!
「陽太くん……許せない。許せない……!!」
「……来たかな」
徒士谷かがりを連れての潜伏先として九暗影が選んだのは、結局、元のホテルの別の一室である。
遠く離れれば、それでかがりに余計な不安を与えかねない。
何よりも、入口が一つの部屋であるほうが――このようにして、待ち構えやすい。
扉に体当りする音が何度か響き、やがて破られた。
二人の男女が内へと踏み込む。
「動くな! 警察っす……警察です!」
「この子がかがりちゃん!?」
「間違いない! 茜音ちゃん、確保を!」
「下の名前で呼ばないでって!」
内裏エイジと柊木茜音である。
徒士谷かがり行方不明事件の最大の容疑者が偽花火燐火である以上、直に彼女を目撃した茜音がエイジと行動を共にするのはごく自然な成り行きであったが。
ベッドの端に座る九暗影は、椅子に座るかがりに小さく囁いた。
「ごめんね。ちょっと、びっくりさせちゃうかも」
「お姉さん……?」
二人の警官が動き出すよりも、遥かにその思考は早い。
(Q7――右の男は偽花火燐火?)
(Q8――左の女は偽花火燐火?)
「いいえ。いいえ」
……一度目を閉じた。
「あなた」
呼びかけた相手は、柊木茜音である。
怪盗サーカス事件に関する上層部の都合上、長く職務復帰を停止されていた女だ。
「その服はクリーニングしたばかり?」
「何を」
答えを待たずに、九暗影は引き金を引く。
ベッドの下に隠していた消火器の薬剤が、彼女を白く覆い尽くした。
「きゃあああああッ!?」
「茜音ちゃん! くそっ、こいつ……!」
「……よく見て!」
彼女は一喝した。今はエイジの動きに注意を払う暇はない。
「この手の敵のやり口を知らない? 本当に隠したいものは、見えないところに隠すんじゃなくて――」
消火剤に覆われた茜音のスーツが、陽炎めいて揺らめいた。
その場の誰でもない声が響く。
『あ、あれ――困ったな……ご、ごめんなさい……』
茜音のスーツは炎に変じると同時に消火剤に窒息され、力なく消えていく。
『招待しなければいけないのに。スティーブンみたいに、うまくやれると思ったのに。ざ、残念です……とても、残念……』
「……」
「……」
二人の刑事は絶句したまま、炎の消失の様を見た。
『輪廻化生』。あらゆる物質へと変じ、それ自身が偽花火燐火ですらある、変幻の炎。
それは長く療養していた茜音のクリーニング済みの衣服として届けられていた。
これも、数多存在する偽花火の一つに過ぎないのだろう。しかし予測されていた一つの襲撃を凌ぎきって、九暗影は深く溜息をついた。
「あ、ありがとう……ございます。九暗影お姉さん」
「分かってたことだから」
「え、えっと。すごかった」
「……。別に、大したことじゃない」
警察関係者への襲撃を未然に防いだという実績。
九暗影は無論、ただの大陸の暗殺者に過ぎないが、エネルギー庁の上層部は警察庁への恩を売ることができるだろう。
彼女らがただで真野に手を貸すことはあり得ないが、裏を返せば、相応の見返りがある限りは動くことができる。
九暗影は、手持ち無沙汰にかがりの頭を撫でる。
それだけだ。他に理由などない。
「とりあえず、服着せてあげたら?」
「えっ……ひゃあ!」
「見てないから! 俺は見てないからね、茜音ちゃん!」
「オレしかいないんだ」
やはり真野金は、日向陽太が本当に必要としたヒーローではなかった。
悪を許すことはできない。絶対に逃さない。
白骨と化した少年が、少女に絡みつく。
いつも、耳元で何かを囁いている。
「正義のヒーローが、殺さなきゃならない……!」
この怒りこそが叢雨雫という存在そのものであり、力の源だった。
「……叢雨」
うつ伏せに倒れたままで、真野は声を発した。
「もういいだろ……」
雫は決断的に歩を進める。くだらない命乞いだ。
真野は、かつての彼を思い出せないほどに変わり果ててしまった。
その有様は彼女が最も憎悪する、悪党そのものだ。
「テメェだ……テメェみたいなのが、陽太くんを殺した!!」
「自分を責めるな」
歩みが止まった。
「等々力の爺さんは……そう言ってたんだろ……」
「……違う! 駄目だ! まだなんだよ!!」
最後の日の光景を思い出すことができる。
今でも鮮明に。
臓物とおびただしい量の血を流した、まだ温かい少年と、そこに寄り添い泣きじゃくることしかできない自分の姿。
『魔人覚醒時の初犯は不問』。日向陽太を殺した魔人は今だ生を謳歌している。
――雨だ。ひどい雨が、彼女の大切なヒーローの血を流していくのだ。
「まだ、のうのうと生きてやがるんだ!! ヒーローを……オレを! 陽太くんを殺したやつが!」
(叢雨……そうか……)
それは二人にしか通じないやり取りであったが……遠い意識でそれを聞いている真歩には、理解できた。
快活な人格とひどく不釣り合いな、悪逆への憎悪。
何故、彼女はヒーローであることに拘り続けるのか。犯人は果たして誰だったのか。
それが、彼女の信ずるヒーローの眼差しだというのだろうか。
「そういうヒーローが、いなきゃいけねーんだよ!! 悪党を問答無用でブッ潰してくれる、絶対に許したりなんかしねェ、本当のヒーローが! なんでだよ……!! なんでオレ以外にいないんだ!! どうして、あんた達がヒーローになってくれなかった!!」
叢雨雫。彼女はエプシロン王国に対する願いを持たない。
悪を倒すというだけの理由で参加して、敵を見失った後も、こうして戦いから降りられずにいる。女女女女女と戦ったその時にも一切の執着なく、ヒーローとしての役割を受け渡そうとした。
正しき者と戦い、敗北すること自体が彼女の望みであったから。
本物のヒーローに、彼女自身を倒してほしかった。
「誰か……私を、倒してくれよ……誰か……」
「……バカ野郎」
動けぬままの真野は、力なく笑った。
「お互い、しょうもねえよな……。忘れたくないことは忘れちまってて……覚えていたくないことは……」
沈黙する三人の間に、携帯の着信音が響いた。
負傷の深い真歩は立ち上がることすらできなかったが、通話ボタンを押すことだけはできた。
《――先パイ! やりました! かがりちゃんは無事っす! 大会参加者の九暗影が、偽花火を倒しました! だから先パイ、心配いりませんから! もう……もう試合を続けて、平気っすから!!》
「……ハハ。遅えぞバーカ。……とっくに負けたよ」
――敗者から身を護るには、こちらも敗者を動かすしかない。
それは、この試合に勝つための策以上のものではなかったのだろう。
それでも真野金は……結果的に、そのようにしたのだ。
「なあ……叢雨」
「だ、大丈夫だ……私、オレが、あんたを、勝って帰すから……」
「いいよ。もう死にそうだ。……あたしは、一度も死なずに、あの子に会いたい。……お前だって……そうじゃないのか。生きて帰るって約束している奴は、一人でもいないのか……」
「……」
「なあ……叢雨。真野は、あたしの娘を助けたんだよ」
「そんな」
雫は、今にも泣き出しそうな子供のような顔で真野を見た。
「そんな、今さら……言われたって。……なあ!? あんたは真野金なのか? オレ、オレにはもう、わかんねェよ……! あの日からもう、何もかも、ずいぶん変わっちまった……!」
「知るかよ……俺が、知るわけがないだろ……クソッ……」
――真野金。
その時の彼女とは……あるいは今でも遠く隔たった、伝説の存在。
ただの気紛れで幼い子供を助け、敵がどれだけ強大でも臆すことがない。
「知りたいだけなんだ。俺は、俺でいたい。それだけでいい。俺自身が欲しいんだ。……なあ叢雨。俺はそういうやつだったか……? 教えてくれよ。気分で子供を助けたりするような……俺は、そういう奴だったのか……」
叢雨雫は涙を拭った。彼は雫の求めていたようなヒーローではない。
けれどかつての笑いを、あの嵐のような日々を覚えている。
裏社会の、最強の英雄。
決して負けることのなかった、誰よりも無敵の。
「……そうだったんだよ。真野金。……あんたは、そういうやつだったんだ」
断罪の傘は、力なく地面に落ちていた。
「本当の、ヒーローだったんだよ」
――試合は終わった。
今は、二人の女がホテルの通路を歩いている。
「ヘヘ……ッたく、情けねェとこ見せちまったな……本当に、あんたに勝ちを譲りたいって思ってたんだぜ……刑事さん」
「そうか。そりゃありがとな」
「偽花火はどうすンだ? もうあいつを捕まえる手段なんてねーだろ」
「そうかもしれないけどさ。ま、結局その辺もあたしのエゴなんだよなー……」
缶コーヒーを片手にポケットに手を突っ込んで、真歩は遠い目をした。
「迷宮入りの魔人犯罪なんていくらでもある。ES-08号よりひどい被害が出ちまった事件だって、捜査の糸口すら見えないようなやつだってある。願いなんて本当は、いくらあっても足りやしねえのさ。怪盗サーカスだけ一発の願いで叶えちまおうってのは、結局……妻として、母親としての我儘だ。一歩一歩正しい道を進まなきゃなんねェのに……ズルして、ショートカットしたくなっちまった」
「あー……よく分かんねェけど……でも、オレなら助けてやれっぜ! かがりちゃんの護衛だって、頼まれれば全然やるからさ!」
「お前の能力は火に弱いだろ」
「あー、いやあ……考えりゃあ、やりようはあるって! な!?」
真歩はかすかに笑う。試合の時からどことなく雫を放っておけなかった理由が、今なら分かる気がした。
きっと、彼女は子供なのだ。
ヒーローの殻を被り続けていた少女の内側は、ずっと時が止まったままだ。
刑事である真歩には、雫の有り方の是非を決めることなどできない。
それは魔人社会において、悲劇が悲劇で塗り潰されないためのルールだ。
――『魔人覚醒時の初犯は不問』。
彼女には最初から、真歩が暴くべき罪などないのだから。
「……なあ、刑事さん」
しばしの沈黙の後で、雫は口を開いた。
「真野は、自分でいたいってさ」
「ああ。そうらしいな」
「もしも……命を賭けてまで戦って、叶えたい願いがそうだったなら……」
彼女は窓の外を仰いだ。
あの日のように、せめて雨が降っていればいいと願ったが、空は無情に青かった。
「自分でいたくない奴は、どうすれば良かったんだろうな」