SSその2




「ははっ、はははははははははは! はははははははは!!!」

 男の笑いが響き渡る。狂った男の、勝利を手にした男の哄笑が、吹雪舞う雪原に響き渡る。

「やっぱり……や、やっぱり、俺の思った通りだ!」

 男の名は真野(まの)(かな)。自我を失い、狂気に蝕まれ、それでいてなお最強の、“英雄(ヒーロー)”である。

「な、何度も……何度も、何度も、何度も!! 頼み込んでよかったよ、九暗影(くーあんいん)!」

 だから、男は見逃さない。
 銃を取り落し、崩れ落ちる少女を視界の中心に置きながらも、その視界の端に映る物を見逃さない。
 男のいる場所……スキー場を模した試合場、その監視員詰所、放送室。
 部屋の隅に置かれた、半分ほど中身が減った飲みかけのウイスキー瓶(ジャック ダニエル シングルバレル)
 三日前に(・・・・)男が持ち込んだ物品。

「あんたは……やっぱり、降参してくれたなああああああ!!」

 勝利に快哉を叫びながら、もう一つの勝利を心の空洞で受け止める。
 乾いた金属音が、彼の中にだけ響いた。実験(・・)は、成功だ。

「(……ジャックポット)」

 その言葉はまだ口にしない。
 彼はまだ己に勝ったに過ぎないのだから。
 敵に勝利するのは、次に放たれる金貨の役割だ。
 そして、金貨は未だ、彼の手中にある。



「……何をした?」

 誰にともなく、徒士谷(かちや)真歩(まほ)は呟いた。
 グロリアス・オリュンピア。
 その本戦ともなればいずれ劣らず一筋縄ではいかない魔人どもによる修羅の巷だ。
 無論、その試合の数々は鮮烈であり、強烈であり、熾烈であり、荒唐であり、規格外のものだ。
 その中で特に異質であったのは、ここ――雪原での一戦だろう。豪華客船?あれは別枠だよちょっと脇に置いとけ。

「ねー、ママー」
「んー?」

 派手な能力のやり取りはないが、両者の一挙手投足に駆け引きが伺える、高度な戦闘であった。

「(最後の瞬間まで、九暗影の動きにはほとんど迷いがない。遠視か、予知か。兎も角知覚系の能力だな)」

 手堅く、慎重。
 真歩は大陸から来た暗殺者という触れ込みの女を、自らの経験と照らし合わせてそのように分析した。いざ戦うとなれば、相当にやりにくい相手だ。

「ねぇってばー」
「んー」

 最も、そうはならない。少なくともこの大会においては。
 決着は九暗影の降参、という形で付けられた。状況的には、彼女が圧倒的優位であったにもかかわらず、だ!

―――真野金。あの男が、何かをしたのだろう。
 結局は、その結論に落ち着く。

「ママー。ねえママー。 マーーマーー!」
「うん」

 真野金は、警視庁に置いても“伝説”だ。
 彼の仕事のうちの幾つか、警察の関わったものについては捜査資料とともにその逸話は語られている。その全盛期は、確かまだ自身が新米であった頃で、それこそ英雄を語るかのように先輩刑事から聞かされたことを覚えている。
 個人的には全く情けない話であると思うのだが、警察内にもファンは多かった。

「ママ!!」
「うぇっ!? あっうん、何、どした?」
「どした、じゃないよもうっ」

 ぐいと袖口を引っ張ってきたのは、娘のかがりだった。急に大声を出しした娘は、ぷうと小さな唇を膨らませている。

「ごはん、早く食べちゃってよ。生返事ばっかりなんだから」
「あー……ごめんごめん。えっ、もしかしてずっと呼んでた…?」
「さあね」
「ごめんってー」

 PCデスクから立ち上がり、むくれる娘の頭をワシャワシャと撫でながらダイニングに向かう。
先の偽花火燐花の件があったため、二人は大事を取って寝泊まりをホテルから別のセーフハウスに移していた。
 高級ホテルのルームサービスに未練がないではなかったが、必要に応じて改めて手配することもできるとのことだった。

 時刻は午前七時を回った所。朝の情報番組の明るくも空々しい節回しをバックに、差し向かって食事を進める。

「……大会、大変なの?」
「ン」

 ふと向けられた娘の問いに、どう応えたものかと思案する。
 見れば、その表情には陰りが差しているのだ。

「まあ、な。強いよ、どいつもこいつも」

 塩鮭を箸でつまみながらそう応じる。

「でも、ママが一番強い。見てろよ、ちゃんと優勝して、今度こそES-08号を―」

 ジェイムズの仇を取る。
 その事について、真歩とかがりは共に戦う同志だ。
 一回戦で相まみえた偽花火燐花――ES-08号、或いは怪盗サーカス――は、その特性から、全てを封じ込むのは極めて難しい。だから真歩はそれを補うため、狙いを“優勝者の願い”に移した。
 それを達するに十分な力を持っているのだと、真歩は笑う。

「ん、そっか…そうだよね」

 娘の表情から、陰りは晴れない。
 これではなかったかなと思案。
 どうにもこの子は鬱屈とした感情を溜め込みがちなところがあるのだ。そして母親としては情けない限りだが、そのサインを必ず受け取れるわけではない。

「あー…まぁ、なンだ」

 まして明確にES-08号に“招待”された身だ。学校にこそ通わせているが、用心のために何かと不自由な生活をさせざるを得ない。
 テレビの脇に積み上がったDVDケースの山が、それを物語っている。

「次の試合終わったらさ、どっか出かけようか。時間、作るよ」
「……ほんとっ?」

 声を弾ませたかがりがぱっと顔を上げれば、その瞳は輝いていた。
 よしよし、今度は正解らしい。

「おお、本当だ」
「ほんとにほんと!? 約束だよ!?」
「ママがかがりとの約束破ったことあるか?」
「ちょっとしかない!」

 ああ…うん……ちょっとはあるよな……ゴメンな……。

「なんかあるか?行きたい場所とか、やりたいこととか」
「えっとねー、じゃあね、あそこ行きたい!」


「ミズリーランド!」



 叢雨(むらさめ)(しずく)は、馬鹿ではない。
 学歴としては小学校中退の身だが、己の力だけで生きることを選んだ時から学はなくとも馬鹿では生き延びることができないことを、彼女はよくよく学んでいた。
 そうして身につけた彼女なりの知恵は、教育の場で身につけるそれとは違って時に勘だとか嗅覚だとか言われることもあったが、大いに彼女の身を守った。
 その、知恵()が告げている。

「(これは……マズい。マズいぜ……!)」

 安物のパイプ椅子に乗せた引き締まった太ももの上、握りしめた拳はじんわりと汗をかいていた。
 もしこの成り行きが想定の最悪を推移するとして、残念ながら、この状況を打開する方策はない。
 無いままに、無情にもこの嗅覚だけが成就する。
 彼女の座するその部屋――取調室のドアが荒々しく開け放たれる。現れた相手を見て叢雨は思わず声を上げた。

「げェ、先生!」
「げぇじゃないよお前このバカっタレ! こんな時期に何やってんだ!」

 現れたのはよく見知った魔人警官であり、グロリアス・オリュンピアに参加する戦士であり、そして

「いや待ッて! 待ッてくれよ先生! 話聞いて! これには深ァーいワケが!」
「おう話せさあ話せ今話せすぐ話せ。あたしは忙しいんだ無駄な仕事増やすんじゃねえぞ!」

 彼女の、剣の師だった。



「……で、要するにだ」

 ひとしきり話し終えた叢雨を、真歩がじろりとにらみつける。
 その合間合間に懇々と説教をされ、叢雨はすっかり萎縮しきっていた。これはもう師事を受けていた頃からの刷り込みに近い。
 つかの間の沈黙に、彼女の助手と思しきもうひとりの刑事が調書を記すキーボード音だけが響いた。

「迷い猫を探している最中にカツアゲの現場に遭遇し」
「うす」
「止めに入ったら乱闘になり」
「うす」
「元締めに説教してやろうとチンピラどもの溜まり場に乗り込み」
「うす」
「また乱闘になり」
「うす」
「そしたらチンピラの頭がどこぞのボンボンで護衛だか目付役だかの黒服が乱入してきて」
「うす」
「また乱闘になり」
「うす」
「……近隣住民の善意の通報でまとめてしょっぴかれて今に至る、と」
「……うす」

「……」
「……」

「馬鹿なの? こんな時期にそういうことをお前はさあ」
「いやだから待ッてくれッて先生! オレは全部話し合いで解決しようとしたんだって! 大体乱闘ッても手出してねェし! 能力も使ってねェし!」

 両手を振って潔白を主張する。
 対する真歩は、こめかみを抑えてため息を付いた。

「ああ、そうだな。手は出してないな。他の証言とも一致している」
「だろ?」
「チンピラ共がどいつもこいつも手首だの指だの痛めてたが。お前ならそういう受け方もできるだろうが。それでも、手は出してないんだろうな」
「あー……いやそのォ……なんつーか、それは自衛の範疇と言うかー」
「お前なあ……時期が時期だ。こんな理由で失格になったらつまらんだろうが」

 つまらんってなんだよォ、と叢雨は唇を尖らせる。
 彼女はヒーローだ。自らをそう定めている。
 そんな理由で、手をのばすのをやめるのであれば、それこそ“つまらん”話だ。

「やり方を考えろ、って言ってんだよ、ばかたれ。ことによっちゃ始めから通報しときゃ収まる話だってある。警察は、信用できねえか」

 そう聞いて、今のは少しまずったな、と真歩は悔いた。
 警察ではどうにもならない相手に立ち向かうために叢雨雫はヒーローをやっているのだと、真歩は知っている。

「……先生のことは、信用してるけどさ」

 叢雨は不器用にそうはぐらかし、真歩も追求はしなかった。

「そ、それによォ、ほら、結局こうして収まるところに収まったじゃんかよゥ…」
「法律の話はな。そりゃお前をしょっぴく成行きにゃならんだろうが、運営がどう判断するかまではあたしゃ知らねぇよ」
「うえええぇマジかー……」

 ルール上、大会期間中の試合場外における戦闘行為、ならびに破壊行為は失格を基本として厳しいペナルティが課される。
 正当防衛…と、言えなくもないこの事態をどう判断するか。真歩には預かり知らないことだったが――

「報告は上げるが、恐らく問題にはならんだろう」

 応えたのは、前触れなく取調室に踏み入ってきた壮年の男だ。
 彼――運営本部のエージェント、宇津木秋秀はそのように告げた。

「……ここ、関係者以外立入禁止なんだがな」
「何事も抜け穴はある」

 こともなげに応える宇津木に、真歩は渋面を浮かべた。

「まあ、そう邪険にしてくれるな。早いほうが良いかと思って、これでも気を利かせたつもりなんだ」

 苦笑を浮かべてそう述べる宇津木に、真歩と叢雨の両名は唇を引き締める。
 この男がそう述べてきたからには、要件というのも自ずと知れようものだ。
 宇津木の差し出す封筒をそれぞれ受け取れば、果たして想像通りに次の試合の対戦相手と試合会場が記されていた。

「……うわ」
「マジかよ」

 当然、相手も同じものを見ているわけで、真歩と叢雨は顔を見合わせた。

 グロリアス・オリュンピア 2回戦
 マッチングは徒士谷真歩、真野金、叢雨雫の三つ巴。

 そして、戦場は―――


「……ミズリーランド」




 東京ミズリーランド。
 飲料水業界世界最大手、ミズリー社。グロリアス・オリュンピアでも最大手のスポンサーの一つであるその企業は、「生命の源をあなたに、社会に」のスローガンの元、飲料に留まらない多種多様な業種を擁しては世界を席巻する巨大複合企業だ。
 アミューズメント事業もその中の一環で、ここミズリーランドは訓練されたスタッフによる徹底した非日常空間の演出と、“水”をテーマにした数々のアトラクションで人気を博している。
 四季を通じた様々なイベントや数々の映画やキャラクター産業とのコラボレーションも頻繁に行われており、大人から子どもまで楽しめる一大アミューズメントパークだ。


「以上、パンフレットより抜粋」
「ちなみに今はグロリアス・オリュンピア応援フェア開催中、と」

 応援フェアの効果だろうか。園内は平日ながらなかなかの盛況ぶりだ。
 パンフレットを片手に歩いていた一組の男女は、地図で現在地を確認して歩き出す。
 その片割れは、警視庁捜査一課・魔人犯罪対策室所属――真歩の部下、内裏(だいり)エイジである。

「とりあえず西回りにぐるっと歩いて行く感じで地形を確認。先パイは東からだってさ。結構広いからね、ここ」

 合わせてエイジは彼の能力、『代理のエイジ(エージェントエイジ)』――対象からの依頼か承認があれば、自身の行動を対象が行ったことにできる能力――で、真歩の代わりに徒歩圏を確保していく。
 偵察の段階で何があるとも言えないが、念の為、というやつだ。

「うん、それは良いけどさあ、内裏くん。一応聞いておきたいんだけど」

 男女のもう一方――柊木(ひいらぎ)茜音(あかね)巡査はジト目で片割れの青年を見上げる。

「もしかしてデートって……これ?」
「いやあ……あっはははは」

 笑うエイジの脇腹を、茜音は肘でつついた。

「仕事じゃん」
「いや、デートデート、これは実質デート! ほら、扱い宙ぶらりんのまま病室にこもってても気が滅入るでしょ?」
「そうだけどさあ」

 それで連れ出された先が仕事というのはいかがなものか、と茜音は考える。
 ちなみに両名、この時点ですでにマスコットキャラのミズリンちゃんとうぉー太くんのカチューシャを着用している。
 見てくれはまあまあの浮かれカップルであった。

「……ところでさ。よくあるジンクスなんだけど、初デートがミズリーって――」
「さー、仕事仕事!! …ハッ! これは仕事カウントなのでデートの約束はまだ生きなのでは!?」
「調子に乗るなっ」




 ……あれから、もう十年になるか。
 ふとした瞬間、徒士谷真歩の脳裏に、その思いが去来する。


 魔人の多くは、多感な青少年期にその能力を覚醒させる。
 必然日本に限らず、各国政府・当局は若く、未熟で、向こう見ずな彼らに対して何らかの対策が求められてきた。
 そうした要請によって為された幾つかある施策のうちの一つ。
 当時まだいち若手議員に過ぎなかった則本英雄の尽力によって実現されたのが、警察庁主管による青少年魔人のための学びの場――数少ない市民権を得ている魔人スポーツを通して力の扱いを知り、魔人達の社会からの孤立を防ぎ、健全な心身の育成を促すコミュニティ。

 それが、はつらつ魔人剣道教室である。

 産休明けであったことから現場復帰までのクッションとして講師を務めていた徒士谷真歩は、そこで叢雨雫と出会った。
 どろりと濁ったコールタールに火を灯したような、そんな瞳が印象的で

「復讐がしたい」

 そう言って憚らない娘だった。そのための力を得に来たのだと。
 教室に集ったのは、学校から、地域から、家庭から。様々な理由でかつて属していたコミュニティから爪弾きにされた子どもたちだ。
 その中にあって叢雨は、殊更に孤立していた。自ら、それを選んでいた節がある。
 彼女は親しい相手を魔人によって殺され、そしてその犯人は法によって守られているという。
 叢雨にしてみれば、教室に集った魔人たちは彼女の仇の同類と映っていたのだろう。…或いは、彼女自身でさえも。

 真歩は根気強くその相手を務めたが、実のところそう大したことをしたとも思っていない。
 ただ、望まれるだけ立ち会っただけだ。
 向かってくるだけひたすら打ち据え、必要な基礎や技術の反復を教え、そしてまた向かってくるのを打ち据えた。
 余計なことを考える暇なく体を動かし、そうして動けなくなるほど疲れ切ったら、そのあとはいろいろな話をした。他の生徒らも交え、様々な話をした。

 もう一度家族と暮らせる日を夢見る少年が居た。
 傷つけた人らに償う方法を求める少女が居た。
 この力を活かした仕事につくのだと、笑う兄弟が居た。

 真歩は根気強く相手をしたが、大したことをしたとも思っていない。
 このことを、叢雨が知ればそれでいいと考えたからで、あとは子供らの間の話だと思ったからだ。

 通い始めて一月ほどした頃、道場に入る時に挨拶をするようになった。
 三月経つ頃、どうにも中々上達しない他の生徒に、何やら助言をしてやったらしい。
 半年ほどした頃、きゃらきゃらと笑いながら何やら雑談に興じていたので、興味を覚えて近寄った所

「先生はあっちに行ってて!」

 と、笑いながら邪険にされてしまった。
 大したことを、したつもりはない。
 けれどああ、もう大丈夫だと思ったことは覚えている。嬉しかった。



「(そのちびすけが、今じゃ一端のヒーローだ)」

 エイジと別れ、ミズリーランドを叢雨を伴って歩く。
 彼女ははつらつ魔人剣道教室を卒業し、今の生き方を選んだ。彼女の気性とセンスと、能力を考えれば、警察官を目指してはくれないかとも思ったが、彼女の選択を止めはしなかった。
 そうして無頼の環境で鍛え上げた彼女は、果たして今の自分で勝てるかどうか。

「……なァ、先生」
「ん」

 道すがら、叢雨が語りかけてくる。

「…見たよ、一回戦」
「ん、あぁ」
「…優勝して、願いをサーカスを捕まえるために使うつもり、何だよな」
「…まあ、そうだな」

 数歩先を歩く叢雨が立ち止まる。
 きゃあきゃあと笑う小学生の一団が、二人の脇を駆け抜けていった。

「オレにも、手伝わせてくれ」
「……」

 正直に言えば、願ってもない話だ。
 もう一人の対戦相手、真野金は、彼の伝説を知る身としては、たとえ二人がかりであっても確実な勝利を掴むビジョンは見えない。

「良いのか?」
「構わねェよ。本当なら、一回戦で降りても良かッたんだ」

 それがあのような顛末になったのだから、今にして思っても奇妙な話だ。
 カカ、と、叢雨は笑った。
 本来自分が打ち倒すべき(ヴィラン)どもは、とうに居なくなっていた。それを嘆く気持ちが無くはなかったが、本選出場者に真歩の名前を見つけて、納得もした。
 そうして残ったとびきりの(ヴィラン)も、真歩が手ずから討ち果たしたのだから痛快だ。

「戦う理由も願いもよォ、先生が叶えるならオレはそれが良いッて思う。世話ンなったし、それに…」

 叢雨は、ヒーローという生き方を選んだ。
 法で裁けない悪を裁き、法では守れない人々を守る。
 それを選んだのは、法で裁き、法で守るひとが既に居たからに他ならない。

「先生は、オレのヒーローだからな」
「おいやめろ、そういうこと真顔で言うな。泣いちゃうだろうが」

 応じる真歩は笑い、二人は拳を突き合わせた。

「頼りにしてるぜ、ヒーロー」
「任せろよ、ヒーロー」



「――ん」

 真歩と別れて歩き始めてから、1時間ほどたったころだったろうか。
 “それ”に気づいた内裏エイジは、気づかなかったフリをするために何食わぬ顔でアップルシナモン味のチュロスを口に運んだ。

「内裏くん内裏くん! 二時から向こうの広場でショー始まるってさ! 行ってみよ!」

 なんだかんだ普通に楽しんでしまってる柊木茜音巡査に、へらりと軽薄な笑みを向けた。

「茜音ちゃん」
「ん? なあに? 早めに行って場所取ろうよ」

 チョコ味のチュロスを齧りながら応じる。

「いま向こうでゴミ回収してるスタッフさあ」
「うん」
「真野だわアレ」
「ブッ!」

 盛大に咳き込んだ茜音においしい水を差し出しながらエイジは思案する。
 向こうはこちらに気づいているだろうか。
 自身は出場選手ではないが、コンビを組んでいる魔人警官、ぐらいであれば情報の一環として調べられ、面が割れている可能性は高い。

「えぇー…なんで清掃員……。下見にしたって普通にくればいいのに」
「そういや今は清掃会社やってるんだったか……案外いい手なんじゃない。清掃員とか作業着って、結構どこに居ても見咎められないし、一般客の入れないスタッフヤードなんかもしれっと入り込める」

 真野に目線を向けないようにしながら、エイジはそう分析した。

「……茜音ちゃん。尾行の経験は?」
「…警察学校で実習受けて、それっきり」
「…だよねー。うん、よし。………柊木巡査」

 返答を聞いたエイジは小さくうなずき、顔を引き締めて真っ直ぐに茜音を見やる。普段の軽薄な振る舞いは鳴りを潜めていた。

「ぅえっ…は、はいっ」
「ショーの場所取り、お願いしていい? ちょっと行って来るからさ」

 そうしてすぐにいつもの調子に戻り、へらへらと笑った。

「……危ないんじゃないの?」
ES-08号(サーカス)の時とは違うからね。あっちも失格のリスクを犯すような真似はしないさ。しくじってもせいぜい撒かれるだけだって」

 ちょうど真野が移動を開始したのを確認し、軽く手を降って歩き出した。

「それじゃ、場所取りヨロシク!」
「―――むぅ」

 止めたり食い下がったりして真野に気づかれても良くないと、結局茜音はエイジを止めずに見送ることとなった。

「(…ちょっとドキッとしてしまった自分にムカつく)」




 上司である徒士谷真歩ほどではないにしろ、内裏エイジもまた魔人警視流を修めている使い手だ。
 そしてその中でも彼は剣術や柔術の類ではなく、忍術や隠形の類を好んで扱う。

 “誰かの代わり”に成り代わる魔人であるエイジは、それ故に自分自身を隠すことに長けているのだ。

「(ここは……循環用の水路か?)」

 果たして、その隠形は今の所十全に機能しているようだ。
 しばらく園内を用心深く歩き回っていた様子の真野は、やがてバックヤードを抜けてこの地下水路に入り込んだ。
 水を主役にしたテーマパークであるこのミズリーランドは、当然のこととして常時大量の水が流れ、循環している。いま、真野とエイジが歩いているこの場所は、その機能を司っているのだろう。

「(――ここを利用するつもりか。試合までに水路の見取り図を手に入れるのは厳しいかなァ)」

 真野は水路を歩き回り、時折ぶつぶつと何事かを呟きながら使い込まれた手帳に何事かを書き込んでいる。血走ったその目は、音に聞く“伝説の英雄”のイメージとは趣を異にしていたが、鬼気迫った有様を伝えてきた。

 ごうごうと流れる水の音が反響し、真野の呟きは時折気まぐれに音をエイジのもとに届けるのみで意味のある像は為さない。
 多少のリスクをとっても、もう少し近づいてみるか――そう考えていた時である。

「―――ここだな」
「…?」

 妙にはっきりと、その言葉が聞こえてきた。
 そこは丁度水路の突き当りの袋小路のようになっている部分で、ちょっとした広場のようになっていた。
 資材などが置かれている様子もなく、閑散とした空洞が、一帯を満たしていた。

「(で、真上は確か――大噴水、だったか?)」

 …真野の戦術にあって、一定の意味を持つ場所なのだろうか。
 エイジは、一層の注意を真野に払う。

「――――ット」

 チリン、と。その時響く音があった。
 水音が響く中、不思議と響くそれは鈴の音か、あるいは

「(これは、イデアの――)」

 ―――コインが落ちた音のような。
 “伝説”の中で語られる、真野金の無敵の魔人能力。
 それがなぜ、今?

 その音の出処を探りほんの束の間、意識が真野から離れると同時、内裏エイジは組み伏せられていた。



「――――っ!?」
「テメェ!! どういう了見だ!」

 状況を理解するより早く、興奮した様子の真野がエイジの腕を捻り上げてくる。

「ざけんな! ざっけんなよ! 誰の差金だ! 徒士谷か、叢雨か!? それとも他の参加者が俺を潰しにきやがったか! そうは行くか! そうは行くかよ、くそったれめ!」
「―――っ!? 待て! おい待てって! 待ってくれよ!」
「何が戦闘行為の禁止だ! テメーで手を下さなきゃ良いなんて理屈が通るかよ! ハ、ハハ、ハハハ! 残念だったな! 見てろよ、運営のエージェントは俺の古馴染みなんだ…! 潰れるのはお前らの方だ…っ!」

 酷く興奮した調子で真野は捲し立てる。
 うっすらと、アルコールの匂いがした。

「だから待てって! 聞けよ、話を…!
 そりゃ確かに後は尾行たさ! けど情報収集なんてやって当たり前だろ! 手を出すつもりなんて無い! ホントに!」

 真野が懐の中の銃に手をかけたのを察知して、エイジは必死に弁明した。

「(……イカれてる! これが伝説の男だって!?)」

 年かさの先輩刑事から聞いた話とはずいぶん違う。
 刹那の間に組み伏せられた身のこなしこそ本物なのかもしれないが、その言動は被害妄想のヤク中か、場末の酔っぱらいのそれに近い。

「……悪かったよ。な? マジで撃って失格になりたくはないだろ」
「ハーッ! ハーッ! ハー…ッ!」

 上ずる声で落ち着かせようとするエイジに対して、真野の息は変わらず荒い。
 それでもしばしの二人の間に沈黙が横たわり、その間に呼吸は落ち着いていく。

「……誰の差金だ」
「………徒士谷サンだよ」
「………失せろ。そのまま振り向かずに、だ」
「オーケイ、オーケイ、言う通りにする。だから変な気起こさないでくれよ…!」

 エイジは真野の言に従って、背中を向けたままじりじりと歩んで距離を取る。
 やがて、水路の角に差し掛かって曲がってからは、一気に走り出した。



「っぶなーー! マジで寿命縮んだ! なんだあれ!」

 水路を脱したエイジは、思わずそう零した。
 背中にかいた汗で、じっとりとシャツが張り付き気持ち悪い。

「(……それでも。それでも先パイが、あの男に負ける気はしないな)」

 刑事の勘なんてまだ育っても居ないエイジだったが、それでも直に接した印象はそれだった。
 そして、いかにも三下っぽい思考に至ったことに軽く自己嫌悪に陥る。

 耳元には、金貨の落ちるあの音と、同時に発された男の言葉が暫く耳にこびりついていた。



 娘のかがりは、鬱屈とした感情をどうにも溜め込んでしまいがちなところがある。
 そして母親としては情けない限りだが、そのサインを必ずしも受け取れるわけではないのだ。
 多少の言い訳が許されるのであれば、過去に類を見ない規模の大会への出場と、その中での仇との遭遇と戦闘。真歩自身も、決して余裕があったわけでもないのだ。

「信っっじらんないッ!!!」

 とにかく。
 徒士谷家のリビングでは暴風が吹き荒れてた。

「待って、待てって。かがり、頼むから」

 一度娘がこうなると真歩はとたんに弱い。
 特にここ暫く、娘に負担をかけてきた負い目があるだけになおさらだ。

「一緒にさあ!! 一緒に行こうねって約束したじゃん! 約束したのに!! なんでママだけ行ったの!」
「だからさぁ~、試合の準備で必要だったんだって。なあ、分かってくれよ、いい子だから。な?」
「知らない! 知らない知らない!!」

 ほとほと困りはてた様子の真歩が猫なで声で宥めすかすが、むしろ火に油だ。
 涙声のまま頭を振って、一層強く拒絶の意を顕にした。

「約束は守るって。試合終わったらさ、二人でちゃんと遊びに行こう、な?」
「いい! どうせピュって行ってピュって帰ってくるだけじゃん!! ママどうせバスも電車もミズリースプラッシュもうぉー太くんクルーズも乗れないじゃん!!」

 真歩はその能力の特性から、およそあらゆる乗り物の類を利用することができない。
 二人で出かける時は、おおよそ能力を利用するか、さもなくば徒歩が常だ。
 ――家族とバスや電車で遠出、というごくありふれた行楽に、かがりも憧れがないではない。ただ、母の仕事を理解し、その小さな憧れに蓋をしていただけだ。
 それを突きつけられて真歩は、言葉に詰まった。

「…っ! かがり、待ちなさい!」
「うるさい! 着いてこないで!」

 その母の表情を見たかがりは、衝動的に唇を噛んで家を飛び出す。
 取り残された真歩は力なく肩を落とし、卓上の夫の写真をすがるように眺めることしかできない。
 写真の中の夫は、……今の真歩には少々眩しすぎるぐらいの、爽やかな笑顔を浮かべていた。



 ママのバカ! ママのバカ! ママのバカ!
 バカバカバカバカバカぁ! もう知らない!

 家を飛び出すときの私、徒士谷かがりの内心は大体こんな感じだった。
 あんまりにも興奮していて、飛び出してからどんなふうに走ったのか、いまいち記憶があいまい。
 気がつけば私は、見覚えのない住宅街をとぼとぼと歩いていた。

 出るときに辛うじて履くことを忘れなかった靴がちょっと痛い。随分長いこと歩いてたみたいだ。
 腕時計(鍵っ子には必需品。スマホの充電は割と当てにならない)を見ると、大体ママと喧嘩を始めてから1時間ぐらいが過ぎていた。
 喧嘩してた時間も考えると、歩いたのは30分ぐらいになるだろうか。思ったより時間が過ぎてなくて、ちょっと笑える。
 笑える……と思ったけど、口元は、変な形に歪んだだけだった。鏡があるわけじゃないけど、相当変な顔だったと思う。

「……ああ、もう……」

 なんかもう、疲れちゃった。
 ぴんと張ってた気持ちが、切れちゃった感じ。
 ばったり倒れちゃっても誰も気にしないんじゃないかな、って、怖さと期待が入り混じった感情がよぎる。
 ……まあ、倒れたら困るのはまず私なんだけど。

 どこかに休めるような場所ないかな、と思って周囲を見渡す。
 目の前には軽く右手にカーブする道路。それに直角に交差する形の道路が幾つか見える。
 左手には生け垣、生け垣、道路を超えてからも生け垣がずらっと。
 生け垣のあるような家ってお金持ちなんだっけ? テレビで見たのを思い出す。
 右手にも似たような生け垣が幾つか並んで……あっ、一か所だけ空いてる。

 空いた場所に(全速力で走る体力は残ってないから)小走りで行ってみると、そこは寂れた広場だった。
 ベンチが幾つかと、そこそこの広さの砂地。一応入口には○○児童公園、みたいなことが書いてあるから公園なんだろうけど、それにしては妙に殺風景だった。
 こんなところで遊びたいと思う児童、いるのかなあ。ちょっと児童を甘く見すぎだと思う。
 それはさておき、座る場所があるのはありがたいので私は遠慮なくベンチをお借りする事にした。

「……はぁーあ……」

 休む場所が見つかると、棚上げにしてた心の中の問題が次々と顔を出してくる。
 ママが倒してくれたけど、またどこにいるか分からなくなった怪盗サーカスの事。
 最近グロリアス・オリュンピアにかかりっきりで、返事も上の空なママの事。
 そして、一緒に行くって約束したのに、ママだけが先に行っちゃったミズリーランドの事……。

「……って、全部ママの事じゃん」

 口元が奇妙に歪む。笑おうとした自覚はあるんだけど、体がついてきてくれなかった。
 ベンチに横になろうとしたけど、ご丁寧にベンチの席が一人分ずつに区切られててできない。仕方ないので、背もたれにもたれかかって空を見上げる。空は私が――正直あまりお絵かきは得意ではない私が――絵の具で雑に塗ったみたいな灰色で、私の心のイメージをだいぶ雑に反映していた。

 ため息、一つ。思わずママ、と呟きそうになって、慌てて止める。
 私ももう11歳だし、親離れをしてもいい頃だと思う。私の頭の中のちゃんとした部分が、時々そう思うのは気づいてる。
 “仕方のないこと”が、私を――というよりは、ママを取り巻いているのに、本当は気づいてる。ただ少し、心がついてこないだけだ。

「……馬鹿」

 そう呟く私の頬を、一滴の水滴が濡らした。
 ……いや、別に泣いたとかじゃなくて、空から降ってきた。え、なに、雨?
 ちょ、ちょっと待って、傘とか持ってきてないんだけど、のわー!
 慌てる私の視界を、透明な何かが遮った。いや、透明だから向こうは見えるんだけど。
 これは……。

「ビニール傘?」
「そ。たまたま傘の持ち合わせがあったもんでね。かがりちゃんのかわいいお顔を濡らすのは忍びないんで、ちょっと邪魔させてもらったぜ」

 いつの間にか、ベンチの私の隣の席に、一人のお姉さんが座っていた。
 抜群のスタイル、きりっとした顔。ビニール傘を持った姿が何とも様になる、そんなお姉さん。
 私は、この人の事を知っていた。グロリアス・オリュンピアの出場選手の一人。
 1回戦を抜けた人たちの中で、ママとラッコさんの次ぐらいに気になった選手。

「叢雨……さん?」
「お! オレの名前を知ってるのか。いやァ、大会とか出てみるもんだね」

 彼女はそういうと、人懐っこい笑みを浮かべ

「いかにも、叢雨雫お姉さんだ」

 改めて、名乗ったのだった。



「それでかがりちゃん、悩みごとかい? 通りすがりのオレでよければ、どんな悩みでも瞬殺してやるぜ」
「悩み……」

 そっか。私、傍から見ると悩んでるように見えたんだ。
 そう考えると、自分の中のぐじゃぐじゃっとなった感情が、なんとなく整理されていくのが分かる。
 ……って、あれ?

「あの、私の名前」
「先生に写真見せてもらってたからな。あ、先生……徒士谷真歩師範とは結構古い知り合いでね。かがりちゃんが赤ん坊のころから写真だけは見てる」
「なんですと……」

 恥かしさサプライズ……! 何してくれちゃってるのさママー!?
 と、恥ずかしがってる間に、私の中のぐじゃぐじゃはある程度整理されていった。
 うん。いまなら、説明するのに物を投げたり暴れたりする必要はないだろう。

「……まとまってないんですけど、話、聞いてもらっていいですか?」
「もっちろんだ。いくらでも聞いてやるよ」
「あの……ママの事、なんですけど」

 叢雨さんに促されるまま、私はぽつり、ぽつりと語り始めた。
 私の家は2年前にパパが死んでから、ママが一人で切り盛りしていること。
 ママは魔人で、そのおかげで人にはできない事が出来るけど、人にはできる事で出来ない事があること。
 最近、ママがグロリアス・オリュンピアや色々な諸々で忙しそうで、あまり構ってくれないこと。
 私が怪盗サーカス……パパの仇に【招待状】を送られたこと。
 怪盗サーカスはママにグロリアス・オリュンピアで倒されたけど、その後行方が知れないこと。
 ママは私にミズリーランドに一緒に行く約束をしたけど、ママは乗り物に乗れないから行っても楽しくないこと。
 そして、そんな約束をしたにもかかわらず、ママ達だけでミズリーランドに行ってしまった事……。

「可笑しいですよね。ミズリーランドに行くのは楽しくないのに、ママ達がミズリーランドに行くのはいや、なんて。でも、その事を聞いたら心の奥の方がどっかーんってしちゃって。思わず飛び出してきちゃいました……って、え、叢雨さん?」
「う……うう、ぐっ、ぐふぅ……」

 叢雨さんは……泣いていた。見ているこっちがびっくりするほどの大泣きっぷりだった。しかもそれを必死にこらえようとしていた。私が今まで見た中で泣くのを我慢している顔が似合う女の人ランキング堂々の第一位獲得だった。いや、それはともかく。

「ちょちょちょ、なんでそんな泣いてるんです!? ほら、ハンカチ貸してあげますから拭いてくださいっ」
「ぐすっ……すまねェ。滅多な事じゃ泣かないようにしてるんだけどな……」

 叢雨さんはそう言って泣き笑いを浮かべると、涙をハンカチで拭いて、何とか落ち着いたようだった。

「さっきも言ったけどよ、オレはかがりちゃんの事、先生からいろいろ聞いててさ……ああ、この子は幸せなんだな、ッて思ってたんだよ。そりゃママは魔人だけどよォ、そんなこと関係ないぐらいかっこいい人だしさ。こんな人に育てられてるかがりちゃんは幸せ者だって……ずっと思ってた」

 一旦言葉を切る叢雨さん。その表情は真顔になっていた。

「だけどさ、違ったんだな。いや、もちろん幸せな事もあったんだろうけど、それと同じか、それ以上に、大変な事もあったんだな……すまねえ、かがりちゃん。オレの目は節穴だ。ぶん殴ってくれていいぞ」
「え、ええ!? そんなことできませんよ!? 今日会ったばっかりの人に!」
「かがりちゃんの事は10年前からよく知ってるんだ。写真越しだけど」
「事実を言ってるんでしょうけどストーカー宣言にしか聞こえませんっ!」

 やいのやいの。
 しばらくわちゃわちゃして、私も叢雨さんもだいぶ落ち着いてきた。

「……相談はしましたし落ち着きましたけど、いまいち解決した気がしません」
「奇遇だな、オレもだ。……んじゃ、ここはひとつ、原始的な手段に頼ってみるとするか」
「はあ……原始的?」
「ちょっとママのことブッ飛ばして謝らせようぜ」
「!?」

 ぼ、暴力! 大変、ママの顔が変形しちゃう!

「ああ、もちろんグロリアス・オリュンピアでの話な。あそこでの怪我ならどんなのでも治るらしいし、ブッ飛ばすぐらい大したことないだろ」
「それもそうで……いやいやいや騙されませんよ!? ぶっ飛ばされたら痛いじゃないですか!」
「……かがりちゃんのママが、痛い程度で音を上げるかね」
「……上げない…」
「だろ? それに、ブッ飛ばせたらママも少しは暇になるだろ。その間にゆっくり家族サービスして貰えばいい。願いの方はオレが取りに行っておくから」

 なるほど、完璧な作戦だ。失敗の可能性がほとんど考えられてないところを除けば。
 こういうのをやさしく指摘するのも私の役目だろう。さらりと指摘する。

「……もし、負けたら?」
「そん時はオレと一緒にママのところに謝りに行こうか! ワハハ!」
「ああ、軽ぅい……」

 でもまあ、軽さが救いになる事というのは確かにあるのだ。
 少なくとも今の私は、顔を歪ませることなく、普通に笑えているのだから。
 笑いながら私は、帰った後ママにこの作戦をどうやって隠し通すか、考え始めていた。



 早朝のホテルの一室。
 笑み1つ浮かべることなく、少女は己に問いを発する。

Q1(クエスチョン)――この手紙に書かれていることは、すべて本当?)
「はい」

 己の口から発された回答に、少女は唇を噛む。
 予想される回答の中でほぼ最悪の物だったからだ。
 『分からない』『多分違う』『いいえ』なら、必要な情報を読み取ったうえで捨て置けばいい。
 『多分そう』なら、手紙の真贋性など致命的なポイントを問いただした上で相応の対応を。
 だが、『はい』とは。
 その回答が出てしまった以上、少女にもはや選択肢はない。

「(……私がこの質問をする事も計算のうち、という事? ……まさか。だけど、あの男なら十分あり得る……)」

 少女は震撼する。だが、その震えを鎮めるために質問をするわけにもいかない。
 問い直す代わりに、手の中の手紙――今朝方、補給物資に混ぜて届けられたそれをもう一度最初から読み返す。

 手紙の内容は簡潔だ。
 少女に対しての依頼。依頼を行うに際しての簡単な前提知識。前払いと成功報酬の記載。
 依頼に際してある男の承認を得ている(・・・・・・・・・・・)との補記。
 その男の名前。
 そして、差出人の名前――真野金。

 その全てが真実であることは、少女自身の問いによって確認済みだ。
 だからこそ、少女は恐怖をぬぐえない。
 この、一見理由のわからない依頼(・・・・・・・・・・・・)によって何が引き起こされるのか、真野金は何を狙っているのか、想像もつかない。だから怖い。
 だが、それでも。

「(彼が承認しているというのが事実なら……私は、歩みを止められない)」

 それは他でもない、少女自身の選択だ。
 あの日、真野金に敗れた時に、少女自身が選び取った道だ。
 だから、その結果として

「(例え真野金に従う(・・・・・・)事になっても……私は、後悔しない)」

 ……とはいえ。

「嫌か嫌じゃないかで言ったら、すごく嫌だけど」

 口から少しだけ本音をこぼして、少女は再び自問を始めた。


 飯田秋音(いいだあきね)は、未だ死んでいる。
 今だ歩み続けるのは、九暗影。
 その影は今、金貨の嚮導により、走り始める。



 試合開始のアナウンスと同時、転送が行われた瞬間。徒士谷真歩は自らのコンディションを確認する。愛刀、よし。部下兼相棒(内裏エイジ)との通信用インカム、感度良好。そして、魔人能力のコントロール……極めて(・・・)良好。

「――なるほどな」

 自分にとっては慣れ親しんだ物ではあるのだが、この感覚を人に説明するのは難しい。
 とにかく、“それ”ができるという認識と実感があった。
 “夢の国”東京ミズリーランド。転送された先のこの戦場では、先だって行った偵察で見て回ったのとまったく同じ光景が広がっている。

「(国交省の魔人の能力は、“場所を複製する”能力、ってところか。地獄だのはまた別の理屈なんだろうが…)」

 あれは複製するがこれはしない、というような細かな(或いは面倒な)制約もなく、本当に一定地域を丸ごとコピーしているのだろう。つまりここは、東京ミズリーランド“そのもの”と言っていい。

東海道(とうかいどう)五十三(ごじゅうさん)(つぎ)

 能力を発動し、確信を実績に置き換える。
 真歩は最初に転送されたアトラクションが立ち並ぶエリアから、ミズリーキャッスルの展望ラウンジに移動していた。

「つまり」

 会場設営に用いられた“場所を複製する”能力。その複製の精度たるや、

「ここは既に、あたしの東海道ってワケだ」

 “既に歩いた”という記録すらも引き継いでいるらしい。
 会場が特定の場所を指定された時点で視野に入れないではなかったが、可能性は低いだろうと思っていた。これは、嬉しい誤算だ。

「(だが…)」

 展望台から眼下に広がるミズリーランドを一望する。
 嫌な予測も一つ、的中したらしい。

「真野はあそこ、だな」

 戦場中央付近に鎮座する巨大な入江。その更に中央に位置する、一隻の小型の客船があった。
 ゆらゆらと鈍足で航行するその船は、ミズリーランドの人気アトラクションの一つ、うぉー太海賊団のアドベンチャークルーズだ。

 厄介である。
 船上に座していることが、ではない。
 既に真歩の能力を相当程度に解明しており、その上で対策を練ってきているであろうことが、だ。
 それは、真野金という男の本領なのだ。

 真歩は、魔人警官の中でも述べ十年以上を対魔人犯罪の最前線で戦ってきたベテランだ。
 必然、その能力は人目に触れる機会が多く、それ故に、調査は比較的たやすい。
 ただネットを検索するだけでも「瞬間移動する魔人警官」程度の情報はヒットするし、然るべき情報筋を頼れば移動先が徒歩圏内に限ることも知れるだろう。
 そしてそれ以上の資金を投入すれば恐らくは、致命にして最大の弱点――“乗り物を利用すれば移動先がリセットされる”――を、掴むことは可能だ。
 真野は既にそこに至っている。
 少なくともそのつもりで対応するべきであるということは明白だった。





「……状況としちゃそんな所だな」
「なるほど」

 叢雨と合流した真歩は、簡潔に状況と所感を伝える。
 船上に引きこもる相手に対処するすべが真歩にも無いではなかったが、それでも真歩と違って面倒な制約を負っていない叢雨を頼るほうが確実だと判断したのだ。

「乗り込むか、飛び道具(傘ジャベリン)で燻り出すかはともかく。まずは現地に向かう。あたしだけじゃなくお前への対策も怠っちゃ居ねえだろうから、それも見極めねえとな」
「あー……なァ、先生よォ。その事なんだけどさァ」
「あン?」

 歩き出す真歩の背に、バツの悪そうな叢雨の声が向けられた。
 振り向けば彼女は、居心地が悪そうに後頭部をかいている。

「そのォー…なンだ。悪ィな。気が変わった(・・・・・・)
「何を――」

 訝しげな表情を浮かべる真歩に対して、叢雨は雄弁だった。
 一足で間合いを詰め、手にしていた傘で逆袈裟に斬り上げたのだ。

「あぁ……そうかよ」
「ッ!」

 だが、その一撃は為らない。
 傘に速度が乗る前に真歩はそれを踏みつけて封じ込んだ。真歩は、なぜ、とは問わない。
 ここは既に戦場で、今ある現実が全てだったからだ。

「お前は昔っから、ほんっと言う事聞かねぇじゃじゃ馬だったからなァ!」

 仕込杖の石突で鳩尾を突こうとする真歩に対して、今度は叢雨が先んじた。
 傘を踏む足に対して“弾く力”を強化し、体勢を崩す。
 真歩は能力を使って距離を取り、追撃を避けた。

 こうして得物を手に対峙するのは何年ぶりか。その鋭利な身のこなしに、真歩は冷や汗をかいた。
 かつての日々のように汗臭い防具を身にはまとわず、握っているのは竹刀ではなく必殺の武器。
 腰に吊った愛刀、馬律美作(ばりつみまさか)を抜き放ち、叢雨を睨みつけた。




「始まったか」

 うぉー太海賊団のアドベンチャークルーズ。
 その船上、幾つも据えたモニターの一つは、“本物の”ミズリーランドにおける、パブリックビューイング会場の様子を映していた。
 観客のどよめきと歓声、そして何より大型モニターに映し出された二人の様子が状況を物語っている。
 それを確認して、真野金は小さく呟いた。

 二人で組んで攻めてくるものと、真野は踏んでいたが、そういうわけかそういう成行きにはならなかったようだ。
 予測は外した。だが想定の範囲内ではある。
 そして外し方も自分の有利となる形で、だ。油断こそしなかったが、やや拍子抜けした心地を覚える。

 ――仕込みは全て終わっている。

 船上に広げられた大量の銃火器、ドローン、PCにモニター、それらを見渡し、手繰り始める。
 これらの大量の物資は、今日、真野が持ち込んだわけではない。
 持ち込んだとして、試合の開始直後に全て船に乗せることなどできようはずもない。
 これらは全て、始めから船内にあった(・・・・・・・・・・)ものだ。

 会場を設営する国交省の魔人の能力は、場所を複製する能力である。
 徒士谷真歩が試合開始時に得たものと同じ結論に、真野は一回戦の時点で辿り着いていた。
 その特性上、コピー元に存在するものは全て試合会場に反映される。
 スキー場に持ち込んだ飲みかけのウィスキー瓶が雪原の戦場に反映されたように(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、銃器を、ドローンを、爆弾を、カメラを、マイクを、電子機器を、ブービートラップを……。
 “コピー元”が予め分かっているのであれば、これらを予め運び込んでおけば、それは戦場に反映されるのだ。
 真野は、一回戦におけるベストバウト選出で得た賞金を惜しげもなく投入し、いまのこの“戦場”を作り上げた。

 状況をつぶさに把握し、適切な火力を投入し、地の利を得て蹂躙する。
 金貨を投げる一発逆転の策ではなく、このただただ当たり前の戦闘が、真野の組み上げた戦場である。

 船上より、ドローンが飛び立った。





「チッ…!」

 二人の戦闘は、危うい均衡を保っていた。
 終始圧しているのは、真歩の方だ。

 ―――東海道五十三継。

 極めてシンプルなこの瞬間移動能力は、接近戦に置いて無類の強さを発揮する。
 予備動作無く、体勢も関係なくほんの半歩分間合いを離し、或いは寄せ、ずらすことを可能にするこの能力は、こと達人の域にある者同士の戦闘で、あまりにも圧倒的なアドバンテージだ。
 足を止めて斬り合えば、彼女のこの微細な“徒歩圏”を広げることになる。必然として叢雨は走り、常に移動しながら迎撃することを余儀なくされる。

 それでも尚、この戦場全域は彼女が歩いた東海道だ。

「う、おおおおォォォ!」

 魔人警視流“剣術”――雀蜂!
 遊歩道を駆け抜ける中、彼女の足跡のある要所要所で、死角からの一撃が叢雨を襲う。
 すんでのところで叢雨はそれをいなし、また駆ける。

「ちっ…成程な、読めてきたぜ」

 幾度目かの“奇襲”を凌がれる。
 叢雨は優秀な弟子で、稀代の戦士(ヒーロー)ではあったが、少々出来すぎだ。

「タネは、その傘か」
「へへッ、御名答!」

 戦闘開始時から叢雨が振るっているのは、日頃愛用するビニール傘ではない。
 黒いスーツによく映える紅色の蛇の目傘だ。
 それは師と戦うと決めた時に、叢雨が彼女に対抗するために用意したものだった。

 瞬間移動。死角からの高速にして必殺の一撃!
 だが、この傘があれば――

「“蛇の目でお迎え” 嬉しいな、っとォ!」

 それを知覚するより早く、傘が、身体が動いてその一撃を受け止め、弾き飛ばす。
 叢雨雫の能力、太陽の傘(ヒーローシェルター)による性質強化!蛇の目傘による自動迎撃(オートカウンター)だ。

「お迎えってそういう意味じゃねえよ馬ァ鹿!!」

 思わず真歩は声を上げるが、それは無粋であり無意味なものだ。
 叢雨がそう認識すれば、そのようになる。魔人とは、そういうものなのだ。
 それでも続け様に仕掛けて完全に体勢を崩せば、一撃を入れることは可能だろう。それを許さないのは

「――っちぃ!うざってぇ!」

 上空を旋回する三機のドローン。
 火器を搭載したそれぞれが散発的に加えてくる銃撃が、それを許さない。
 両方の疲弊――あわよくば共倒れ狙いってところかと当たりをつける。

「埒が明かねぇな」
「いや、そうでもないぜェ!」

 走り続ける叢雨は、しかし快哉の声を上げた。
 真歩の猛攻をしのぎながら、目的地に辿り着いたのだ。

 “大噴水の広場”

「―――っ!」

 真歩の表情に焦りが覗く。
 叢雨は跳躍し、その噴水に飛び込んだ。





「どうした先生、来ないのかい」

 噴水の中央、スーツの裾を水に濡らしながら、叢雨雫は不敵に笑う。

「馬鹿いえ、くそ、一杯食わされたな」

 先までの猛攻は鳴りを潜め、真歩は渋面を浮かべた。
 戦いは危うい均衡を保ち、しかし攻守は逆転している。理由は二つ。

 一つは徒歩圏。
 真歩は予め歩いていた場所にしか能力での移動はできない。
 そして下見の段階で、わざわざ噴水の内部にまで踏み入ることはしなかった。
 故に叢雨に攻撃を加えるには足場の悪い水場に踏み入り、直接接近する必要がある。

 そしてもう一つは、叢雨の力に起因する。

「《アメノハバキリ》」

 水を纏った傘を“弾く力”と共に振るうことで水滴の斬撃を飛ばす、必殺の域にまで高められた叢雲雫の能力応用。
 通常であれば鞘に仕込んだごく少量の水しか飛ばせない、ここ一番のタイミングで用いる奥の手だ。だが、今この場においては話が違う(・・・・)――!

 その一撃で、旋回するドローンが両断された。

 東京ミズリーランド。
 “水”をテーマとしたアミューズメントパークであるそこは、到るところに(武器)が存在する。
 この戦場において、無類の攻撃力を誇るのは、叢雨雫に他ならない。




 戦場全域への移動手段。
 幾重にも仕込まれた火器と鉄量。
 無尽蔵の水という刃。

 三者三様の“地の利”を得た戦いは、次の段階に移行する。



《アメノハバキリ》

 傘の“弾く力”を利用したその一撃がドローンに向けられたその瞬間、真歩は能力を発動させた。

「魔人警視流――“居合”」

 そう、今この時、蛇の目でお迎え(オートカウンター)は停止している!

(ミズチ)

 蛇の目傘の上に降り立った真歩は、そのまま駆け抜けて叢雨の胸元を切り裂いた。

「いい線行ってたよ、雫。だが悪いな」

 噴水の中央に、血飛沫が咲いた。
 “最初の一撃”だ。
 叢雨が戦端を開いたその一撃をいなす際に、真歩はこの傘を踏みつけている(・・・・・・・)

「そこは、あたしの東海道だ」
「ガッ…!?」

 叢雨の身体が大きく傾ぐ。
 じろりと真歩を睨みつけ、そして

「アアアアアアアッ!!!!!」

 踏みとどまった。
 胸元に仕込んでいた折り畳み傘をすんでのところで強化し、深手ながらも致命を避ける。

「!?」

 浅かった!
 そう断ずると同時に返す刀を振りかぶる。
 真歩は相手を崩したこの好機を、叢雨は相手を殺しうるこの間合を、両者とも確実なものにするつもりだった。

 視線が交錯する。
 意図が交錯する。
 そして剣と技が交錯する前に――


 真野の仕込んだ爆薬が、その一切を吹き飛ばした。




「……なんつー真似しやがる。それがてめーのやり口かよ、真野金」

 苦々し気に顔を歪めて、その爆発から能力で離脱した真歩は入江の湾岸から船上の男を睨みつけた。
 なるほどこの上ないタイミングだった。少しでも反応が遅れれば、諸共爆殺されていただろう。
 ……しかしそれはあわよくば程度に共倒れを狙ったもので、真歩が離脱することは織り込み済みのハズだ。

「(……つまり、サシになったらあたしの方が与しやすいと考えたワケだ)」

 それは能力の弱点を利用し、船上に座してるが故か。
 そうであるなら馬鹿にした話だと、顔を歪める。
 この力に目覚めて二十年。魔人警官となって十六年を数える。この程度、対処できないはずがないのだ。

「―――?」

 そう、気勢を上げて真野を睨みつけた所、あることに気づく。
 真野もまた、こちらを見据えており――……そして、何かを誇示するように左手を上げた。
 手のひらに収まるほどの直方体のそれは、無線機か、一昔ばかり前の携帯電話のようにも見える。真野はそれに幾つかの操作を加える。

「何を――」

 視界の端で、爆発が起こった。真野の手元の機械は、起爆装置ということだろう。
 しかし爆発が起こったのは両者がにらみ合う位置からは遥か遠方。
 戦闘に、影響があるとは到底思えない。真歩は、その意図するところを図る。

「(何のつもりだ? いや、そもそもいつの間にあんな場所に爆薬を運び込んだ……?)」

 ――……運び込んだ?
 そこに思考が至った時に、あ、と、声を上げる。

 先よりも一層強く、憤怒を湛えた瞳で船上の真野を睨みつけた。

「ああ、そうかよ。それがてめーのやり口か。真野金…!」





 これはメッセージだ。
 そして真野金は、その上で真歩に選択を迫っている。

 “場所の複製を作る”国交省の魔人能力。恐らく真野は、相当に早い段階でその事に気づいていた。そしてそれを、利用した!
 つまりあの爆弾は、運び込んだのではなくはじめからあったモノ―――既に、いま、本物のミズリーランドに仕掛けられているものだ! いま正に、観戦のために多くの人が集まっている、本物のミズリーランドに!
 真野は、そのことを誇示してきている。

「(――ハッタリだ!)」

 そう、九割方――いや、それ以上の確率で、これは虚仮威(こけおど)しのたぐいだ。
 本当に仕掛けてあったとして、試合開始と同時に撤去されている可能性が最も高い。もしまだ爆弾があったとして、本当にそれを起爆したのならそれは失格どころの話ではない。

 それは最悪のテロ事件であり、真野金は国家の威信にかけて捕縛・抹殺されるだろう。
 そうまでするメリットは真野にはなく、こうするしか無いほど勝ち筋が限られているわけではない。
 ―――その、ハズだ。

 しかし。
 しかしそれでも、徒士谷真歩は警察官だ。
 あるやなしやもわからないほんの僅かの可能性が、彼女を縛り付けた。


『―――オレが行きます』

 逡巡に穴を開けたのは、インカム越しに響く相棒の声だった。
 もとより頭の回りはいい男だった。同じものを見て、同じ結論に達したのだろう。

『大噴水の真下ならココから三分かかりません。モノがあるかどうか、オレが確認をします』

 ただ一箇所。
 それでも、確認が取れるのはただ一箇所だ。どうあがいても、博打にしかならない。
 だが、背を押す決断の一助にはなる。

「本当に爆弾があるなら、あたしが処理する。徒歩圏も確保しろ」
『――ッス!』

 場外負けを取られるだろう。だがその場合は確たる証拠を以て真野を大会から排除できる筈だ。
 賭けには、変わりないが―――

「エイジ」
『……?』
「頼むぜ」
『ハイ!』

 三分。
 反撃、撤退、或いは急襲。
 それを定めるために真歩は逡巡の素振りで、真野を改めて睨みつけた。




『――ナシです!大噴水直下、不審物なし!』

 息を切らせたエイジの声が、仕込んだインカム越しに耳を突いた。

「わかった」

 腹を決める。
 この決断は、あたしのものだ。
 九割九分の見込みに、部下のこの一言を最後の一押しとして、反撃に転ずる。

 足元の石畳を踏み砕き、その一枚を蹴り上げた。
 ボレーキックの要領で更に蹴り飛ばせば、そいつは弾丸となって船上の真野に襲いかかる。

 真歩が踏み砕いた石材が、だ。

「魔人警視流」

 それが船上に到達すると同時、能力を発動する。

「“居合”」

 目を見開く真野がすぐ目の前に現れる。真野は、即座にリボルバーを抜いた。

「飛燕ンンンッ――!」

 抜き放った刃は飛来する銃弾と、そして真野の指ごと起爆装置を切り捨てる。首まで持っていくつもりだったのを、それだけは避けてみせたのは流石といったところか。

「グッ――!?」

 だが、逃がすつもりはない。
 そも船上に逃げ場はない。
 宙に舞う石畳の石片を刀の柄で弾き、距離を取る真野に追いすがる。
 船上に着地しないまま、能力を続けざまに用いて空中に居ながら追い詰める――!

 宙を舞う指が、起爆装置が、そして

「―――ジャックポット」

 一枚の金貨が、甲板の上に落ちる。

「なッ……!?」

 そうして徒士谷真歩は、能力を発動できずに甲板上に叩きつけられた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 慣れ親しんだ己の能力だ。何が起きたのかは、即座に理解してしまう。
 徒士谷真歩は、十六年をかけて築き上げた能力の射程、そのすべてを奪われたのだ。



 ……船上で起きた異変の原因。
 その答え(アンサー)を伝えるためには、少しだけ時を巻き戻す必要がある。

「――ナシです!大噴水直下、不審物なし!」
『わかった』

 通信先からの応答を得て、内裏エイジは一息つく。
 ここで息が抜けた彼を責める事は、誰にもできまい。
 この局面での彼の役割はここで終わり。誰もがそう思ったに違いない。
 あの男(・・・)と、少女を除いて。

Q4(クエスチョン)――今、彼を撃てば殺さずに動きを止められる?)
「多分そう」
Q5(クエスチョン)――今、彼を撃てば殺さずに動きを止められる?)
「はい」

 嚮導の導くままに。一拍置いて物陰から飛び出し、彼に3発の銃弾を浴びせる。

「――っ!?」

 エイジはとっさに体をひねり、銃弾をかわす。2発が外れ、1発が彼の右太ももに突き刺さった。
 致命傷ではない。
 が、少女はそこまで織り込み済みである。
 まだ彼に死なれては困る(・・・・・・・・・・・)のだ。
 一気に距離を詰め、接近戦の間合いに入る。
 エイジが、さほど接近戦が得意な魔人でないのは事前に『回答済み』だ。
 動作に入る直前、即座に問う。この問いが、少女にとっての致命打である。

Q6(クエスチョン)――左足を刈れば、狙った場所(・・・・・)に倒れる?)
Q7(クエスチョン)――倒れる瞬間までに、彼の魔人能力は解除されている?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
「はいいいえ」

 最高の回答を得て、少女は行動に移る。
 蹴りの射程圏に入った瞬間、距離を縮めた勢いのままに下段蹴りを放つ。狙いは左脚。
 銃弾を受けて動きが鈍ったエイジはそれに抗う事が出来ず、為すすべなく転倒し、転がり落ちる。
 転がり落ちた先には水路……否。
 水路に浮かぶゴムボート(・・・・・)が待ち受けている。無論、少女が先んじて用意していた物だ。
 エイジが気づいたかどうかは少女には判別できなかったが、抵抗できなければどちらでも同じこと。
 そのまま、エイジはゴムボートの上に落下するように身体を乗せた(・・・・・・)

 内裏エイジの魔人能力――『代理のエイジ(エージェントエイジ)』は、対象からの依頼や承認があれば、自身の行動を対象が行ったことにする事ができる――そういう能力だ。
 例えば真歩の承認があれば、グロリアス・オリュンピアの選手が宿泊するホテルに“真歩として”入り込むことも、真歩として徒歩圏を広げる事もできる(・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 そして、その能力の持続中は、真歩が持つ能力制限も彼が担う(・・・・・・・・・・・・・・)
 すなわち、彼がゴムボートに体を乗せた瞬間、徒士谷真歩は、十六年をかけて築き上げた能力の射程、そのすべてを奪われたのだ。
 無論、そのリスクは真歩もエイジも承知の上ではあったのだが。

「九……暗影……!」

 エイジは絶望に呑まれそうになりながらも、必死で少女に問いかける。

「なぜ、お前が……オレを……!」

 少女の回答は、にべもなかった。

「答える必要、ないよね?」


 大会から脱した魔人と、参加者ですら無い魔人。
 その暗闘を、罰する者は居ない。




「ハーッ、ハーッ、ハーッ!ハ、ハハ…ハハハハ…!」

 喘ぎか、哄笑か、とかく乱れた気勢を上げながら、真野はモーターボートを駆っていた。
 “本当に死ぬわけではない”この戦いで、徒士谷を死兵にすることすら許すつもりはなかった。
 宇津木ではあるまいし弾丸を切り捨てるような女と、組み合う気もなかった。

 積み上げて生み出したその一瞬の隙で、真野は徒士谷を船上に拘束し、そうして離脱した。
 あとは抵抗の余地も意味も許さない。爆破をして、それで終わりだ。

「俺の、勝ちだ…!」

 ――そう口にした瞬間、真野は強烈な違和感を覚えた。

「あ…?」

 その正体を、真野はすぐに察する。だがそれが像を結ぶ前に


 飛来する傘が真野に突き刺さる(・・・・・・・・・・・・・・)


「傘…ジャベ、リン…っ!」

 岸には、傷だらけの女が膝をついていた。




 ――なぜだ? と、真野は自問する。
 大噴水で真野は、叢雨雫の爆殺を試みた。
 それはいい。

 だがなぜ自分は、その成否の確認も、より確実な止めも怠った?

「クソ、クソ…っ!…そういうことか…!」

 今なら。そう、今なら。
 叢雨雫が能力を解除した(・・・・・・・・・・・)今なら、その事に考えを巡らせることができる。


 朝、雨が降る。傘を持って家を出る。
 夕方、雨は既に止んでいる。傘を持たずに家路につく。
 多くの人に、きっと覚えがあることだろう。

 傘には、忘れ去られやすい特性(・・・・・・・・・・)がある――!

 そしてそれは真野金に、『イデアの金貨』にとって致命的だ。
 あらゆる事態を、状況を想定し、統合し、答えを出す。
 イデアの金貨のその前提に対して、【忘却】という穴を空ける――!

「カハッ…この……なンだ!なんなんだ…!」

 突き刺さった傘を引き抜く。
 飛距離と、叢雨の負傷。威力は減衰していたようだが、それでも真野の肺に穴が空いた。


 爆破の瞬間、蛇の目傘による自動迎撃が間に合っていたのだ。
 決して無傷とは言えない――むしろ大いに負傷したが、しかし叢雨はこの特性を利用し、身を隠した。

 そして、徒士谷真歩と真野金、互いに一流の魔人を相手取らなければならないという事実が大いに作用し、意識から叢雨の存在を消し去ったのだ。

 視界の端で、甲板から徒士谷が海中へと落ちていくのを認めた。
 爆破をし損ねたことにより、拘束から脱したのだろう。

「ちくしょう、なんなんだ! どいつもこいつも、俺の邪魔を――!」

 痛みと怒り、そして“裏をかかれた”という苛立ちが、悪罵の言葉となって口をつく。
 いま、この戦場において、イデアの金貨は役に立たない。

「ハーッ、ハーッ、ハーッ…!」

 引きつった表情筋は、やがてけだものじみた様相を真野の顔に貼り付ける。
 だからなんだ。それがどうしたという。
 俺は、真野金だ――!

 たかがイデアの金貨(切り札)が打ち破られただけだ。
 その程度、いままで向かってきた連中の中には、両手の指で余るほどにだって居る。
 そういうやつを、俺はどうしてきた?

 死にかけの叢雨雫が追いすがる。
 殺せたはずの徒士谷真歩が追いすがる。
 どちらも、超一流の戦士だろう。


 そういうやつらに、一泡吹かせるのが楽しいんじゃあないか――!




 戦いは終局に向かう。
 それぞれに重傷を負った三者は、示し合わせたように岸辺に集った。

 真歩は拘束から脱するために右腕を切り落とし、血を垂れ流すままに岸辺に辿り着いた。出血多量で霞む視界はほぼ用をなしておらず、長くは、戦えない。左手で刀を構える。

 真野は叢雨の一撃によって胸元に穴を開けられた。肺腑の損傷は、ほぼ致命打だった。長くは、戦えない。リボルバーを構える。

 最も重傷の叢雨は、真歩からの一戦と爆発の余波で数えるのも馬鹿らしいほどの傷を追っている。傘を杖に立つのがやっとで、長くは戦えない。気付けに唇を噛みちぎり、両者を睨みつけた。


「五秒だ」

 短期決着。
 三者の思惑は一致している。
 睨み合う時間すら惜しく、真野の言葉に否やを唱える者はいない。

 それを了承ととった真野は、いまこの時、用をなさない金貨を。
 指を斬り飛ばされた方の手で放り投げた。



 ―――――残り五秒

 いま一番優位にあるのは徒士谷真歩だ。
 二名の認識は一致していた。

 だから真野は、叢雨を撃った。 リボルバー、残弾数5。

 即座に応じる叢雨は傘を変形させ、裏返す。
 “球面鏡の原理”――打ち込まれた弾丸は傘の形状に沿って反転し、跳ね返される。
 それは真歩へと向かった。

「――!」

 その意を察した真歩は咄嗟に体を反らす。
 銃弾こそいなしたが、大いに体制を崩した。



 ――――残り四秒

 体制を崩した真歩の両足に、真野は弾丸を打ち込む。リボルバー、残弾数3。
 この状況下で真歩にとっての値千金の“一歩”を、与えるつもりはなかった。

 弾丸は右膝を砕いたが、左を穿つ前に横薙ぎの一閃が銃を弾く。

 “一歩”、真歩は踏み出してこらえた。



 ―――残り三秒

 弾かれた銃を飛ばされるまいと銃把に真野は力を込める。
 それを狙って叢雨は、傘を跳ね上げた。

 それを阻んだのは返す刀の真歩の剣。
 傘と、刀と、銃。三者の得物が交錯する。




――残り二秒

 叢雨がここで切り札を切った。
 得物から手を放し、懐の得物に持ち替える。
 傷口から滲み出る血がたっぷりと付着した、折り畳み傘。

 三者が交錯したこのタイミングで、それを振り抜く。
 その血を飛ばす《アメノハバキリ》――!

 真歩は二秒前に得た“一歩”を活かし、能力による移動で急所を外す。

 「ガッ――!」

 真野はその、直撃を受ける。致命傷だ。
 反撃の弾丸は、血の刃に切り裂かれた。 リボルバー、残弾数2。





―残り一秒

 更に一歩。
 切り札を切ったがゆえに出来る隙に、真歩は徒歩圏を広げる。
 そうして得た踏み込みと共に、上段から刀を振り下ろした。
 魔人警視流でもなんでもない、すべての剣の基礎の、ただの一打。

 叢雨は倒れ込みながら、一度は放した傘に再び手を伸ばす。
 そこに至れば、迎撃が叶う。

 “蛇の目でお迎え(オートカウンター)

 …それ故に、もう一方の攻撃には対応できない。

 真野の放った銃弾が、叢雨の頭を吹き飛ばした。
 ―――致命傷を得ることと、死ぬことは違う。

 真野は、残った時間で確実に、もう一人をも絶命させるつもりだ。
 リボルバー、残弾数1。



ゼロ

 互いの得物が、互いの急所を最短距離で狙う。
 右足を砕かれた真歩はもはや立っていることも叶わない。
 倒れることと振り下ろすことは同義だ。

 そして、自由落下よりも弾丸のほうが圧倒的に早い。

 金貨が、地に落ちる。

 リボルバー、残弾ゼロ




「悪いな」

 真歩は剣を振り下ろさなかった。
 能力で“一歩前”に立ち戻り、その弾丸をやり過ごす。

「一秒、はみ出ちまった」

 そうして今度こそ、倒れ込みながら――最強の英雄に、刃を突き立てた。


                            マイナス1


 グロリアスオリュンピア 第二回戦 夢の国STAGE

 勝者:徒士谷真歩






「かがり」
「なあに、ママ」
「やっぱり降りる……」
「ムリでーーす♪」
「待って。待って待ってほんとなにこれめっちゃ高い一回止めようこれちょっとまって待って待って―――」


「う、ウオギャァァァァアアアア!!」
「ひゃっほーーーーーーーーーーっ!」
「きゃ~~~~~~~~~~~~♪」


 三者三様の歓声(一部悲鳴)が、澄みきった青空にこだまする。
 ミズリースプラッシュマウンテンのボートに満載された老若男女が、今日も歓喜や悲痛に歪んだ表情で、滝壺付近に設置された背の高い門を潜り抜けていく。
 その表情は高精彩カメラで撮影され、通りすがりの観客たちをも楽しませていた。
 もちろん、その写真の中に知り合いの顔を見つけ、思わず含み笑いするカップルなど、珍しい物でもない。
 そして、この二人もまた、そんなカップルのうちの一組だった。

「うっわ、徒士谷警部補すごい顔……内裏くん、あんな顔の徒士谷警部補、見た事ある?」
「初見なり」
「……口調が変だよ?」
「ごめん動揺した。オレも初めて見る……っていうか、世界初公開じゃないかなあ」
「だよね……そっか。魔人能力に目覚めてから、ずっと乗り物乗ってなかったんだものね」
「ブランク十年じゃ効かないだろうし、ね。その分を取り戻すぐらい楽しんでほしい物だけど……いてて」
「大丈夫?」

 右太ももをぐるぐると巻いた包帯をさするエイジに、茜音は心配そうに声をかける。

「ん、大丈夫。これはオレのミスの結果だから、茜音ちゃんは気にしなくていいよ」
「でも……」
「大丈夫。……逆に、このぐらいは受け持たないと、うちのボスに申し訳が立たないって」
「……」

 エイジの言は、あながち強がり、という訳でもない。
 エイジを襲撃した刺客による攻撃は、エイジ自身よりもむしろ真歩に甚大なダメージを残した。
 都内全域に構築した“徒歩圏”の消失。
 正確なところはエイジも聞いていないが、構築にかかった時間はそれこそ十年では効かないはずだ。それが、水泡に帰した事になる。
 真歩自身の判断の下した結果、と言ってしまえばその通りだが、エイジにはそこまで自身の責任を矮小化させて考える事は出来なかった。
 こうして遊園地の乗り物を楽しめているのはその恩恵と言えなくもないが、やはりトータルで考えればマイナスだろう。

「まあ、背負い込みすぎることもない……っていうのは、ボスから直に言われたんだけど」
「徒士谷警部補から? なんて?」
「『あたしが歩けなくなった訳じゃない。また歩きなおせばいい。もちろんお前が手伝いたいなら止めないけどな』だって」
「……警部補らしいね」
「ほんとにね」

 男女二人は、どちらともなく笑いあった。
 無論、そんな空気が長々と続くはずもなく。

「内裏さ~~~~んっ!」
「ん……あれ、どうしたのかがりちゃん」

 ぶしつけな乱入者が、少々甘い空気を全力で壊した。
 エイジの問いに、乱入者……徒士谷かがりは大声で答える。

「ちょっと手伝いに来てもらっていいですか!? ママが……」
「……うちのボスに何か?」

 エイジの目に仕事モードの火が入る。が、かがりはふるふると首を振り、言った。

「滝から落ちたショックが効きすぎて腰が抜けたみたいで……今、叢雨さんが医務室に連れていきました!」
「……」

 男女二人は顔を見合わせ、それぞれにため息をついた。
 どうやら、二人が甘い気分に浸り、親子が乗り物を楽しめるようになるには、幾ばくかの時間が必要なようである。



最終更新:2018年03月26日 01:10