<1>
「うわーすごい!! すごいすごーい!! 夢みたい!!」
繋いだ手が引かれ、仔犬のようにはしゃぐ女の子を傍に留める。
国内最大の遊園地、通称・夢の国。
【グロリアス・オリュンピア2回戦までーー残り5日】
徒士谷真歩は天使の如き愛娘と共に、
次回戦の試合会場と思しき、この地の下見に来ていた。
ーー「思しき」という表現の通り、ここが戦地となる確証はない。
運営から提示されし対戦地の情報は「夢の国」の3文字のみであり、
それはもしかすると「横浜ドリームランド」や「奈良ドリームランド」を指すのかもしれない。
しかし、グロリアス・オリュンピアは一種の興行だ。
客の予想を裏切ることはあっても、期待を裏切るようなことはあってはならぬ。
多くの観戦者が、……そして何より日本贔屓の主賓が「夢の国」という言葉から期待する場所が、
そのまま戦場になる可能性が高い。
徒士谷の上役もそのような論に理解を示し、出張・外勤の承認印を押下した。
ーーそう、徒士谷真歩は今、血税でこの夢の国を満喫しているのだ!
獣耳のカチューシャやマスコットキャラクターがあしらわれたフェイスペイントに彩られた彼女は、
傍から見ればただの浮かれた客の一人であるが、こう見えて絶賛勤務中。
本人の尊厳のために捕捉すると、入場費用と移動費用・昼食代1500円以外は自腹であるし、
彼女を彩る浮かれポンチな装飾は愛娘ーー大天使かがりのリクエストによるものだ。
勤務中ということで、一度は装飾を断った真歩であったが、殺人的愛らしさを誇るおねだりと、
マリオカートの敗北によって奪われていた人権の一部をちらつかされたことにより、
渋々とこれを承諾するに至った。
ーーただ、そんな見た目ではあるものの、彼女は堅実に下見をこなしている。
≪東海道五十三継≫ -- 徒士谷真歩の持つ、魔人能力。
今まで徒歩で行ったことのある場所であれば瞬間移動することができる能力。
5日後の会場はここを模した、こことは異なる空間だ。
この遊園地にどれだけ≪東海道≫を広げても、それは意味をなさない。
彼女が下見を行う大きな理由は、緊急退避箇所を見繕うことにある。
真歩が能力範囲を広げる条件は≪徒歩≫に限る。競歩でそれは満たされない。
一歩一歩踏みしめ、その歩みの度に浮世絵を愛でる時のように、
余韻を持って風景を脳に刷り込むことではじめて、そこは彼女の≪東海道≫となる。
訓練により、これを可能な限り高速化してはいるが、
それでも敵と遭遇した後に≪東海道≫を広げることは難しい。
だからこそーー無駄足は踏めない。
どこに転送されても最短で緊急避難箇所を≪東海道≫とするべく、
園内を練り歩きそのポイントを見繕うこの下見は、戦術上非常に有意義だ。
そして特に次の対戦は三つ巴……退避箇所の価値はタイマンの数倍に跳ね上がる。
彼女の能力はショートワープに類する能力だ。
見ている風景が瞬時に切り替わり、足元の状況が変わる。
どれだけ訓練しても、跳躍後の一瞬の硬直は避けられない。
この隙を、タイマンにおいては相手の背後や死角を突くことで帳消しにしているが、
三つ巴ではそうもいかぬ。
どこかに潜んだもう一人にとって、能力使用直後の真歩は格好の的となってしまう。
ーー故の退避箇所。何も考えず飛べる、安心の宿場。
射線が通っていないこと、袋小路でないこと、遮蔽物の耐久性……様々な条件を整理しながら、
園内を練り歩いていたーーその時だった。
「……ねぇ、ママ」
愛娘が心配そうに声をかけてきた。
「さっきから静かだけど……足、やっぱり……痛いの?」
先の大会1回戦、徒士谷真歩は足首切断という重症を負った。
それを見ていた娘は、余程ショックだったのか、しきりに足を気遣ってくる。
「すごい薬で治った」と、何度伝えてもその不安はぬぐえないようだった。
つい仕事に熱中し過ぎたと、真歩は反省した。
能力の制約でアトラクションに一緒に乗ってあげられない負い目がある。
普段仕事で十分に構ってあげられない負い目もある。
だからこそ、今日は仕事とはいえ、可能な限り娘の為に尽くすと決めたのだ。
二ィと無敵のママは笑い、娘の機嫌をとるべく、声を作ってみせた。
「ハハッ! 心配シテクレテ! アリガトォーー↑↑ 」
「えっ!!? すごい!!!」
ーー魔人警視流“忍法” 琴鳥
声真似のスキル。
幼女が歓声を上げるのと同時に「ブフォ!」と品の無い笑いが前方より聞こえて来た。
さっと視線を上げる。
ーー『あ、やべっ』
読唇術で対象の発した言葉を読み解く。
遥か前方の人影は、真歩と目が合った瞬間、そそくさと踵を返し人混みに紛れた。
夢の国を否定せんばかりの葬式めいた出で立ち。
快晴にも関わらず腕に提げられたビニール傘。
ーー叢雨 雫。旧知の仲にして、次の対戦相手。
「(ーー追うか)」
瞬間、能力の発動を迷う徒士谷。 叢雨の逃れた先は既に彼女の≪東海道≫だ。
「(……いや。追ってどうする)」
一拍置いて、徒士谷は冷静になる。
追っても、その先でうっかり暴力を振るってしまえば反則行為に抵触し、大会失格となる。
それに、あそこに叢雨がいた理由を徒士谷は短い時間で的確に推理しきっていた。
「(大方、私達と一緒で会場の下見に来たんだろう)」
……であれば、黒いスーツの女を捕まえてまで引き出したい情報などない。
更にこの人混みの中、娘を放ってゆくこともできない。
「運が良かったな」と、消えゆく背中に向けて念を飛ばした。
「……誰かいたの? エイジくん……戻って来た?」
急に遠くを見つめ出した母を気にして、かがりが声をかける。
「ううん……別の知り合い」
やや浮かない様子の真歩をかがりは気遣う。
「……悪い知り合い?」
ふむ、と顎に手を当て思案する真歩。
「悪くはないが……まぁ、『根はいい奴』……かな」
穏やかな表情を浮かべた母に安堵し「そっかぁ」と幼女は会話を早々に打ち切った。
母の手を引く。
彼女の関心は次の話題へと移っていた。
こっちこっちと、近くにあったファンタジックなベンチに母親を座らせる。
そしてコホンと咳ばらいをして、改まった様子で言う。
「かちやまほさん……ひとつ、よろしくて?」
「どうぞ」
どこで覚えたのか……いままで聞いたことの無いような口調に、真歩は笑って答える。
「いま私はすこぶるごきげんです! 今日は連れて来てくれてありがとう!」
「それはご丁寧にどうも」
「ごきげんな勢いで、いつもは聞けない……かなりぶっちゃけたことを聞いちゃいたいと思います」
「ほう……どうぞ、おぶっちゃけになって下さい」
「……エイジくん」
「ん?」
「エイジくんとは……どう……なの?」
どう、とは……? 真歩は逡巡する。
部下、内裏エイジ。
何かと要領が良く、仕事はまぁ……できる方だ。
だが、ここ一番の踏ん張りが効かず、それに付随した少し軽薄な性格にイラッとすることも少なくない。
しかし……ここまで詳細な評価を娘に伝えるべきか……?
「まぁまぁ頑張ってはいるよ……? もう少しシャキッとしてくれると嬉しいんだけどね」
無難な報告に対し返ってくる、ジトリとした娘からの視線。
何か答えを間違っただろうかと、狼狽える真歩にかがりは大きなため息をついた。
「……ハァ~~~~!! うん、だいじょうぶ、わかった! 全然ダメね、エイジくん!」
「いや、全くダメということはないぞ……?
まだ背中は任せられないが、いずれはーー」
聞く耳持たず……といった様子で娘は首を振って、嘆くようなポーズをとっている。
「先パァイ! すンません! 遅くなったッス!」
遠くから、男性の声。
チュロスを両手に持った優男が二人を目がけて駆けてくる。
ーー内裏エイジだ。
上役に徒士谷のサポート兼護衛として夢の国への出張を命じられた内裏エイジだ。
親子水入らずを満喫したい徒士谷によって、パシリを命じられ隔離されていた内裏エイジだ。
パシリの行列に並んでいる最中、まんまと捲かれ、半泣きで迷子になっていた内裏エイジがーー来た!
徒士谷の舌打ちをかき消すような元気さで、青年は言った。
「いやぁ~~~マジすンませんッス! 屋台並んでる間に見失っちゃって……!
……って、アレ? 先パイ、なんでオレ睨まれてんスか!?」
ジトリとした視線を向けてくるかがりを見て言う。
「わからん、反抗期だったらどうしよう……」
「あ、わかった! お腹減ったんだね? 待たせてごめんっ!
メープルとプレーン……どっちがいい?」
「メープル」と遠慮がちに答え、チュロスを受け取りぱぁぁと表情を明るくしたかがりは、
いけないいけないと己を律するように首を振った。
「エイジくん!」
「えっ、ハイ?」
「エイジくんは……もうちょっとがんばりましょう!」
「……うん、ママもそう思います」
「ママはだまってて!!」
腕を組み、意図も分からないくせに同調した母をかがりは叱り飛ばした。
強い言葉を使われ、ガン!とショックを受けた真歩を捨て置き、娘は続ける。
「エイジくん……! いい? ママは今日私服なの……! わかる? し・ふ・く!
それに、さっきと何か違うでしょ……!?
チュロスはありがとうございますだけど……それより先に、何か言うことがあるんじゃない?」
「あー」と分ったような、そうでないような……曖昧な返事を返しつつ、
エイジは真歩をじろじろと観察する。
「……なんだ」
「いやっ! なんつーか……先パイってこういうとこ来ると、意外と女子高生みたいな楽しみ方するンすね!
まじ意外ッス! ……マッキー? マッホー? ……なんて呼んだらいいかわかんねぇけど、
めちゃカワイイッスよ! 似合ってます!」
ゴォッ……と、一陣の風が吹いた。
ーー魔人警視流“空手” 表・砕明
目突きのスキル。
ピンッと爪の先でエイジのまつげを弾いて真歩は言う。
非暴力を普段娘に説いている以上、いつものように軽率にしばき倒すことはできない。
故の目突き寸止めと、極上のスマイル。
「あぶない……目にゴミが入る所だった。
それはそうと、上官には敬意をもって接しよう。 ……な、エイジくんっ?」
「ひょべァ!? りょッス! ちげ……っ! 了解ッス!!!」
最敬礼をとるエイジ。
ぺちん!……と、真歩の膝がもみじのような手によって叩かれた。
「あいたぁ!?」
「ママはもう少し優しくしましょう!」
「……お、いいこと言うねぇ~かがりちゃーん! 褒めて伸びるタイプ! 内裏エイジッス!」
「エイジくんは黙ってて!!」
「……うんうん、ママもエイジくんは一生口を閉じていたらいいのにな~って……頻繁に思います」
「ママも黙ってて!! ……もぉー!! もーーーーっ!! なんで!?
ふたりともおとなでしょ!?……なんで、こんななの……!? ……もーーーーっ!!」
かがりは、ざっくりと豪快に……メープル味の棒菓子に噛みついた。
■
<2>
【グロリアス・オリュンピア2回戦までーー残り4日】
真野 金の根城ーー真野清掃店から大きな音がした。
とある用事で店の前に居合わせた人物。彼の古くからの知人で、
本大会における担当エージェントーー宇津木秋秀は血相を変えて引き戸を開け放った!
「真野!? 無事か!」
宇津木が目にしたのは、散乱した数多の物品と、床で泣きながら身をよじる堕ちた英雄、
真野 金の姿であった。
泥酔した様子で、たった今、椅子から転げ落ちたようだった。
「なんだこのマッチングは……ッ! やっていいことと、悪いことがあるだろうがッ!! クソッ!」
「真野……やはり、ダメか……」
宇津木の姿を認めた真野は唾を飛ばし、倒れたままつっかかる。
「アアーッ!! テメッ……宇津木ィ! ……ハメやがったな!?
なんだこのマッチは……! はじめっから……殺す気だったんだろ!?
こんなっ……こんな露骨なツブシがあるか! オイ!」
「落ち着け」
「嫌だ……死にたくない……ハーッ! ハーッ! 助けてくれ……!
頼むよ宇津木……! 俺とお前の仲だろう……? 命だけは、どうか……」
爪を噛みつけ、ガチガチと震える真野。
水を飲むように、高濃度のアルコールをガブガブと流し込む。
次回戦の相手--徒士谷真歩、叢雨雫。
どちらも今大会五指には入る暴力の権化だ。
特に徒士谷真歩は≪表≫最強の魔人であると囁かれるほどの実力者だ。
「俺はか弱い魔人なんだ……! わかるか、魔人だよ、魔人……!
あんな化物共と……やれるわきゃねーだろ!! ふざけるな!!」
古いブラウン管テレビがチラチラと揺らめき、敵の1回戦の姿を映す。
目で追うことすらできぬ奥義の応酬! 遥か遠方より飛来する斬撃!
ワープ! ファイヤーストーム! 爆発オチ! ガトリングガン! おっぱい!
ーー確かにその戦いは戦闘魔人の領域を大きく逸脱していた。
「試合にならねぇ……! 世界観が違い過ぎる……! 嫌だ……殺される……っ!」
「落ち着け……真野。
かつて貴様は私にーー宇津木秋秀に勝った男なのだぞ。
私は……徒士谷にも叢雨にも勝てる。
徒士谷ならば、十度やれば五度、叢雨ならば九度は勝てるだろう……!
貴様が元の自分を取り戻しさえすれば……! 地上最強と呼ばれた、かつてのーー」
「ーーうるッせぇ!!」
ガンと真野は跳ね起きた。
「黙れ黙れ黙れ!! 何が最強だ! こんなシケた酔っ払いに……ナニ夢見てんだ!!」
地団太を踏む真野!
「……わかった。 こんなもんがあるからいけねェんだ……? なぁ……?」
そう言うと、真野は胸ポケットから一枚の金貨ーー師匠から受け継ぎし唯一無二の至宝、
≪イデアの金貨≫を取り出した!
「こんなもんがあるから最強なんて夢を見ちまう……!
こんなもんがあるせいで、変なジジイに付き纏われる……!
呪いの金貨じゃねぇか! こんなもんっ!! こんなもの……! こんなものォーーッ!!」
「おい、真野……落ち着け……! よせ……!」
「ウォオオオオオオオオーーーーッ!! ジャック……ポットォオオオオ!!」
「うおおおおおおおーーっ!!?」
堕ちた英雄は、全力で硬貨を投擲!
窓ガラスが割れ、それは屋外に飛び出した!!
ーーしかし、宇津木秋秀の優れた動体視力が、硬貨の真贋を見抜く!
「(あのサイズ、あの不鮮明な肖像画ーーエキュ金貨の模造品!)」
手品師が用いる≪握り込み≫と呼ばれる手法!
投擲までの一瞬で、真野は金貨をすり替えた!
ーーカィン!
本物のーー≪イデアの金貨≫が床へと落ちる。
ーー≪宇津木は硬貨の真贋を見定めるため真野から目を離した≫
その時、既に真野は動いていた!
「死ねぇ! ジャックポットパンチ!」
宇津木の脚を狙った低空タックル!! パンチですらない!! もう無茶苦茶だ!!
堕ちるといっても限度があるだろ!! 堕ちた英雄よ!!
宇津木を組み伏せた真野は、しわの寄った顔面に手を伸ばす……!
「うるせぇ! ……『勝てる』『勝てる』って、うるっっっせぇんだよォ!!
ーーだったらッ! 『勝てる』んだったら……お前がッ! 試合にッ! 出ろォーーッ!!」
「おい……やめ……モガッ!?」
顔面を……揉みしだく! しわをーー伸ばすッ!!
「ホラホラホラァーーー!? こうすりゃテメェのブ男ヅラもォ!
俺そっくりのハンサム顔になンだろう!? オオッ!!?
えっ……エウレーカ!!? イケる、イケるぞ宇津木! ーー逆転のアイディアだ!!
替え玉で試合に臨む……! 鬼才ならではの着眼点!! こんなこと、他に誰が思いつく!?
あぁ俺マジ、イデア! 今サイコーにイデアの金貨してる……!
ジャックポット! ジャックポット! ジャックーー」
「ーーほんとにッ、ヤメロォーーーーッ! ≪真野金≫を……汚すなァーーーーッ!」
ドッと、真野の水月に柄が深く突き立てられた。吹き飛ばされ、床に叩きつけられる英雄。
すっくと立ちあがった宇津木は乱れた衣を正して言う。
「一度説明したことだが……試合時間以外での戦闘行為は反則負けとなる。
今のはじゃれ合いとして私の胸に留めるが……私以外の者にこんなことを……
……オイ! 聞け!」
真野は頭を抱え、咽び泣いている。
なんと躁鬱の激しい男だろう。
「オォ……! おおぅっ…………! もう、おしまいだ……!
ハァーッ! ハァ―ッ! バケモノ……徒士谷……叢雨……オエッ!
おっ……! オッ……っぷ!」
戦いの重圧からか、多量の飲酒からか、激しい運動のせいか、水月を突かれたせいか……
真野は、嘔吐した。
見かねた宇津木は懐から手ぬぐいを取り出し、いそいそと始末にあたる。
苦しそうな真野に回復体位をとらせ、倒れた棚を起こし、散乱した物品を適当に積んで片付ける。
やがて店の奥へと入り、コップを持って戻って来た。
「飲め」
「うぇ~~~~ッ! 宇津木ィ~~~! ふッ……ぐぅ……!」
こくり、こくりと背をさすられながら水を飲み干した真野は、やや平静を取り戻したようだった。
真野の背を本棚に預け、宇津木は言う。
「……今日は副賞の金を渡しに来たんだが……出直すとしよう」
宇津木の言葉を聞いた直後から、みるみる真野の顔に生気が戻って行く。
「カネ……? ああ……っ! アアーーッ!!
そうだ……ははっ! それがあった……! 5000万円!
持って来てくれたんだよな、な! な! なぁっ!?」
「あぁ……」
ーー5000万円、真野が得た1回戦の賞金。
「おおっ!! 心の友よ!! ははっ、はははははははは!!」
「運営からは、機を見て渡すよう言われていた」
そう言い、宇津木は小包を手渡した。
舌なめずりをし、ご機嫌な様子で中を確認した真野は、激怒した。
「……なんだ、これは……! ふざけてんのか!?
ピンハネってレベルじゃねぇだろ!! 俺がボケてるからってナメてんのか!?」
小包の中身はーー三つの札束のみだった。
「『機を見て渡すように』……言ったばかりだろ。
今は真野に金を渡すべきでないと……『機ではない』と、私は判断する。
その三百万は、借金用だ。
店の借金が二十と八万、限度いっぱいまで借りたカードが十枚、およそ二百万……だったよな……?
利子も含めてそれで返しきれるだろう」
「ふざけンな! 越権だ! 俺の金を勝手に管理するんじゃねェ!!
テメェは……俺の女房か!!」
酒瓶が投げつけられる!
音も無く受け止める宇津木。
「中立だって言ったろォ……! おいィ……! 宇津木ィ!
耄碌したかジジイ! いいから……全額寄越しやがれ!!」
「中立だとも。私は健全な大会運営のために派遣されているエージェントだ。
……だからこそ、今は渡せぬ。今渡せば、運営に支障が出る。
金を渡したら……貴様ーー逃げる気だろう……!」
卓上に目をやる。 先ほど片付けた各国の観光ガイドブックが目に入った。
真野は沈黙した。それが、肯定を物語る。
「……うっ、ぐううっ!!」
「真野!」
またしても真野は酒を飲み干した! 酒に逃げた!
「もう……たくさんだ……戦いはもう、嫌なんだ……。
許してくれ……許してくれ……」
「真野……」
ぽろぽろと大粒の涙を零し、子供のように泣く真野。
堕ちた英雄は、もうーー這い上がれないのか。
暫しの沈黙の後、宇津木は口を開いた。
「すまない……。中立は、嘘かもしれんな……。
真野……、私はただ……もう一度見たかったんだ……。かつて地上最強と恐れられた者の雄姿を……。
『私に勝った奴は、こんなに凄い奴なんだ』と……盃を片手に、自慢したかったんだ……!」
「ううっ……ううう……」
「逃げないで欲しかった……。戦って欲しかった……。
そして叶うのならばーーもう一度、貴様と戦いたかった……!
試したかった……! 私の刀は≪金≫をに届き得るのかと……!
ーーだが、もう限界だというならば、……仕方なし」
宇津木の声が、僅かに上ずった。
「ううっ! うううっ!!」
「降りるか、真野」
「ーーううッ!! うあああああああああああーーっ!!」
咆哮! そして、猛烈な勢いを伴って、イデアの金貨が打ち上げられる!
コイントス! 高速回転するその金貨は表裏を隠し、手の甲で受け止められる!
「『降りるか』……だとッ! ふざけるな!! 卓を立てるのは俺だ!!」
ゆらりと立ち上がった真野の瞳には光があったーー黄金の、光が。
その佇まいにはかつてのーー全盛期の風格があった。
「表か裏か! それとも降りるかッ! ーー選べッ!! 宇津木!!
勝てばいま一度、貴様のふざけた夢に乗ってやるッ!
負ければ、5000万……! いや、貴様の全てを差し出せッ!!」
「ーーこの賭け、受けるか」と真野が問い終わる前に、宇津木は即答した。
「表」
宇津木には見えていた。落ち行くコインの表裏が。
それ以上に、真野の心が。
手品師のような技量を持つ真野だ。
コインの表裏など、落下後にいくらでも操作できる。
それに真野は知っているーー宇津木に優れた動体視力のあることを。
だからこそ迷いなく宇津木は答えた。
「表」ーー「お前の道は、お前で決めろ」……と。
心より戦いを降りたいと思っているのなら、それも良いだろう。
だが宇津木が真野に抱いた心象は違う。
どれだけ底に落ちても、どれだけ汚れても、その本質は決して衰えぬ、純金。
「ーー『全てを賭けろ』なんて……今更だ。
そんなもの、とうに賭けている。 貴様はーー好敵手だ。
人生を捧ぐに相応しいーー好敵手だ!」
宇津木はーー真野を信じた。
まだ≪真野金≫は死んでいないと……!
「ーーバッド、ビート……!」
手を開け、表を示したコインを見て、真野はそう吐き捨てた。
不運を嘆くスラング。
ーーしかし宇津木は確かに見た! 言葉とは裏腹に吊り上がった口角を!
「わかった……やるよ……! やりゃあ満足なんだろ……!?
テメェのクソみてぇな夢で、殺されてやる……!!」
「真野……!」
「だが、金は寄越せ! 戦うためには金が要る! いいか、宇津木!」
「ああ、いいとも……! ああ、ああ……っ!」
「金額はーー」
言いかけた真野は、電池が切れたおもちゃのように、その場にへたり込んだ。
「真野!?」
「……あ? ジジイ……? なんだァ……!? なんで俺の家にいやがる……!?」
「どうした、真野! 買うんだろ! 何かを! いくらいるんだ!!」
「アアーッ!? グッ……! そう、だ……『買う』んだ……!」
「頑張れ! 真野! 買ってきてやる! 何を……何がいるんだ!
いくらいるんだ! 金ならいくらでも出すぞ!!」
「ハァーッ! ハァーッ! ……酒、煙草……いや、葉巻でもいいのか……?
あとは女……! ヒヒッ……! ハァーッ! クソッ! 違う! 誰だ、なんで……っ!!
酒は要らねぇ、煙草はーー」
「……真野? 真野ォーーーーッ!?」
壊れかけの英雄は、その場に倒れた。
■
<3>
【グロリアス・オリュンピア2回戦までーー残り3日】
ごろりと巨岩の上にスーツの女性が寝転がった。
仰向けになったことで、豊満な胸部がより強調される。
刺すような日差しを遮るべく≪日傘≫を開き、携帯端末を操作する。
電波の薄い土地なれど、録画の再生に支障はない。
その映像はグロリアス・オリュンピア1回戦の【雪原】と【ピラミッド】のものだ。
何度も見たその動画を要所要所かいつまんで再生した後、
何度も繰り返した台詞を叫んだ!
「なんだこのマッチングはーーッ!!
やっていいことと、悪いことがあるだろうがぁーーーッ!!」
だろうがー、だろうがー、と山びこが返ってくる。
声の主は叢雨雫ーー三日後に試合を控えた二回戦進出者の一人だ。
はぁ……と溜息をついて、彼女は座禅を組み、目を閉じた。
対戦相手のことについて想いを馳せる。
徒士谷真歩ーー何かと縁のある最強最悪のクソババア。
十年前……ヒーロー稼業をはじめたばかりの叢雨に徒士谷が職務質問を仕掛け、
補導した時から二人の因縁は始まった。
以来、自称ヒーロー……実質的にはヤクザくずれの叢雨と、
武闘派公僕の徒士谷は、しばしば相見えることがあった。
ほとんどが敵と味方という立ち場だったが、稀に味方同士となる時もあった。
ーー敵として立ち塞がった徒士谷に、未だ叢雨は勝ったことがない。
喜劇のような小競り合いでも、信念を賭けた全身全霊の勝負でも、
徒士谷が常に絶対的勝者であった。
「ーーーンだよ! 魔人警視流って! 能力が百個あるようなもんじゃねェか!
剣術・柔術はいいとして……忍術って……なんだよッ!! なんでもありかよチクショウ!
……ふざけやがって! 次こそぜってーブッ倒す!」
自分の能力の応用の広さを棚に上げ、叢雨はそのように言う。
思考は、次の対戦相手へと移る。
真野金ーー面識はない。ただ、裏に身を置くものとして、飽きるほどその名は聞いた。
曰く、地上最強の男。曰く、影の英雄。
六年前に戦いから身を引いたはずのその男の名は、
今でも……いや、引いたからこそ、以前より燦然と輝いている。
「真野ならーー」「真野さえいればーー」「真野だったらーー」
古き裏の者達はまるで全能の神のように≪真野≫を語る。
ーー【雪原】の戦いを見た。はじめて、伝説の男の戦いを見た。
叢雨には理解の及ばぬ領域だった。
何故最後の局面で対戦相手は降参したのか……? 残弾はあったはずだ。
何度見返しても分からない。
見れば見るほど謎は増え、得体の知れぬ不気味さのみが膨らんだ。
ーーハァ……と、回想を終えた叢雨は肩を落とす。
表のレジェンドと、強すぎて禁止になった裏のゴールデンレジェンドにサンドイッチされ、
叢雨は、すっかりナーバスになっていたのだ。
それでもーー彼女は諦めてなどいない。
苦境こそが彼女の愛すべき故郷だ。決して折れぬヒーローは思考する。
一人でも手に余る強敵を相手にどう立ち回るべきか。
誰を狙い、誰と手を結ぶべきか。
ーー真っ先に思い浮かぶのはやはり、徒士谷真歩のしかめっ面だった。
「やっぱシャクだけど……あのババア、クッッソつえーよな……!
あいつをどうにかしなきゃ、試合になんねぇ」
ひとつの結論を得た叢雨に、遥か遠方から声がかけられる。
やっほー、やっほーという、いかにもなこだまに応え、叢雨は跳ね起きた。
遥か遠方では、ジャージ姿の戦友がぴょんぴょんと跳ね、手を振っている。
短いポニーテールが、ぴょこぴょこと跳ねる。
叢雨は、いつの間にか手に持っていたビニール傘を振り上げ、グルグルと回して応えた。
それを見て、ジャージの女はコサックダンスのような、そうでないような動きで応えた。
やたら切れの良い高速ステップ!
「なんだそりゃ」
スーツの女は、小さく噴き出した。
ーー場所は静岡県と山梨県の県境付近、富士山麓。
「『とかく出来ることを一歩ずつ』……か」
剣の師匠ーークソババアの口癖が不意に口から零れた。
認めたくないが、その理念は叢雨にしっかりと根付いている。
どんな苦境でも歩みを止めない。 立ち止まるのはーー最悪だ。
「いっくぞおおおお!! ああああらッよっと!!」
戦いの重圧を吹き飛ばすように、叢雨は傘を宙に放った。
■
<4>
【グロリアス・オリュンピア2回戦までーー残り2日】
下校のチャイムが鳴り、わいわいガヤガヤと、子ども達が校門から出ていく。
クラスのお友達にバイバイしながら、少女ーー徒士谷かがりは校庭の一番大きな木の下に、
ハンカチを敷いて座り込んだ。
季節は春を迎えつつある。温かな日差しが彼女を包む。
手をあわせ、かがりは唱えた。
「はぁ~~っ! グロリアス・オリンピュアさま! 今日もありがとうございます!」
にこにこと、何をしているわけでもないのに少女は楽しそうだ。
大好きなママがもうすぐ迎えに来てくれるーーたったそれだけの些細な幸福が、
彼女にとっては宝物のように尊い。
かがりの母親……徒士谷真歩の日常は多忙の中に在る。
複数の担当案件、部下の育成、暴力沙汰の最後の砦。
瞬間移動という使い勝手の良い能力もあり、
刑事という領分を超えて、時には交通事故や火災現場などにも駆り出される。
ーーあるいは、国の威信をかけた魔人能力大会にすら。
公安組織の最強戦力であるが故の悩み。
徒士谷真歩にしか解決できないヤマが多すぎるのだ。
たった数時間ーー娘の授業参観に出席しようとするだけでも、
数週間前からの綿密なスケジュール調整が必要となってくる。
そのような日々だ。 必然、愛娘に割ける時間は限られている。
普段は彼女自身が面倒を見るより、祖母――真歩の母親に任せてしまう時間の方が断然長い。
それが、……なんということだろう!
このグロリアス・オリュンピアの開催期間に限っては、
仕事の一環ーー身内の警護という名目で、大手を振ってお迎えに来てくれるのだ!
やったーーーーー!! すごい!! 夢みたい!! ……とは、かがりの言。
そんな具合にごきげん極まるかがりであったがーー、不意にブンと首を下に向けた!
「(わわっ!!? わーーーーーーっ!!?)」
集団下校を避けて、……人目を忍ぶように校舎から出てくる二人が目に入ったのだ。
隣のクラスの美人さんと、野球クラブのキャプテン。
ーー何かと目立つ二人だ、いろいろな噂がかがりの耳にも入っている。
いつも本ばかり読んでいて冷たい雰囲気だった美人さんの心を、キャプテンが開かせただとか。
猫やサイズの大きなビニール傘がラブラブのきっかけになっただとか……!
ーーちろりと覗くように顔を上げたかがりと、談笑していた少女の目がパチリとあった。
少女は、一瞬ハッとした表情をし、……はにかみ、頬を僅かに染めた。
「バイバイ」と、恥ずかしそうな細い声で言い、ちろちろと控えめに手を振ってみせる。
そんな様子があまりにも女の子らしくて、かがりもつられて赤くなる。
頭の上から煙を吹き出しながら、頭を垂れ、手を振った。
「おおおおっ!!? かっちんじゃ~~~ん!!!
明日もダブルドッヂやるから!!! また来いよな!!! 次は負けねぇーっ!!!」
一塁からライトまで届くような、やたら大きな声が響いてきて、かがりはしっしっ
と手を振った。
ハァ~という感嘆の溜息は、ややあって失望の溜息へと変わる。
そしてそれはすぐに怒りへと転じた。
ーーかがりは先日の夢の国での出来事を思い出したのだ!
「(小学生でもああやってちゃんとできるのに……! なんでっ!?
おとななのに……!! あの二人は……!! もーーーーーっ!!)」
わなわなと怒りに震えるかがり。
そんな彼女に向け、声がかけられた。
「ーーお、いたいた、徒士谷ジュニア! へいへーい! こっちこっち!」
声の方を見ると、校門脇の壁からひょっこりと肩から上が飛び出している。
大人の女性だ。 ビニール傘を頭の上でくるくると回している。
顔をあげたかがりを見て言う。
「おっほォ~~~! 顔そっくりなのな!
ババァ……じゃねぇ。 かあちゃんに渡して欲しいモンがあンだけどよォー!
頼まれてくンねェか!」
「だれ……です?」
訝しむかがり。
一回戦の折、事案が発生しかけた。
「知らない人には近づくな」……と、母親から厳重な注意を受けている。
「んァ~? 知らねぇ? テレビとか見てねぇの?
グロリアス・オリンピュアってーのに出てんだけど」
「ごめんなさい……刺激が強いから、見ちゃだめって言われてて……」
ーーそう、グロリアス・オリンピュアは国をあげた戦いでありながら、
R18指定コンテンツなのだ。
殺人や極度に性的な行為が映されるのだから、無理も無い。
地上波に放映される録画分は、相当に厳重な編集が施されており、
一回戦で一番カットされなかった【地獄】ですら、戦いの約八割が切られている。
地上波のNGラインが流血なのだから、致し方ない。
だからこそ、年齢認証ありの有料動画配信や、ライブビューイングは凄まじい人気を誇り、
二回戦現在にして、ちょっとした省庁の年間予算ほどの額は動いているという。
ーー閑話休題。
ともかくそういった理由により、かがりは国をあげての戦いについて詳しく知らず、
実母の戦いのみ一親等という理由で、例外的に関係者特別席でのリアルタイム視聴を許可されている。
母親の意向としては、教育上よろしくないので見せたくなかったのだが、
本人たっての希望と、「まぁ私が戦うのだから完封できるだろう」という自負があり、
視聴許可に至る。
「『叢雨 雫』っつーんだけどよ、かーちゃんから聞いたことない?」
一回戦の対戦相手を知らなかったように、かがりは当然目の前の人物についても知らない。
ふるふると首を横に振る。
「え、まじか……結構ショックかも」
悲しそうな表情を浮かべたお姉さんに、かがりは言う。
「ママだったらもうすぐ来るから、直接わたしたらどうですか?」
「ママ……だァ……!? あのメスゴリラ……ママって呼ばせてンの!? マジで!?
……いや、そうじゃねぇ! 来ちゃうのか、ママが!?」
女の背筋がピンっと伸びる。
「うん……もうすぐ来ると思いますけど……?」
「えっ、……ヤダ!」
首をかしげるかがり。
「なんつーかよ、ぜんぜん変な意味じゃねぇんだけどよォ……。
悪くとるなよ……? スゲぇポジティブな意味で、……オレ、あの人ニガテなんだわ……!
めちゃくちゃ厳しくねぇ!? あのバ……真歩さん!」
「わかるっ!! ……あ、ごめんなさい……わかります」
「んァ~? いいよ、タメ語で」
ニッと笑ったスーツの女に、かがりの警戒心がみるみるうちに融解していく。
「ジュニアは……かがり、だっけ?
オメェも結構ビシバシしごかれてンじゃねェの?
剣道とか、柔道とかでよォ……!」
「ん~ん! ママは私にやさしいよ! 習い事は好きにさせてくれるし!
ちょっとどうかと思っちゃうくらいデレッデレ……!
けど……」
「けど?」
「私とおばあちゃん以外には……ハチャメチャにきびしい時があるの!!」
かがりの回想は先日の夢の国に及んでいる。
「オアーーッ!! わかってくれるか!! わかるよな!! きびっしいよなァ!!
……オイオイオイ~、話がわかるじゃねぇか! てめっ、さてはいい奴だな、オイ!」
「でぃひひひひん! さてはいいやつ、かがりです!
私への甘さを、少しは他にもわけてくれればいいんだけど……!」
「いやー、あの人頑固っつーか不器用っつーか……そういうの無理だろ?
『ハチャメチャ厳しい』か『ハチャメチャ甘いの』二択しかねぇの。 ……わかる?」
「あ~~~~!! わっ!かっ!るぅ~~~~っ!! わかるわかる! すごいすごい!」
「だしょォ~~~~ッ!? いやー、かがり、おまっ……最高だな!!
テメェからも言ってやってくれよ……『ぽんぽんと人の肩外すんじゃねぇ!』って!
あれ、無茶苦茶痛ぇんだぞ!?」
「……え、なにそれ。 それはわかんない」
「アァ~ン? 肩外したり、腹ァ踏んづけたり、関節極めたり……。
よくやンだろ、あのババア! ……あ、ごめん、真歩さんな、ババアじゃねぇ、真歩さん」
「それは……見たことない……かな?
もしかしてムラサメさんって、悪い人……?
ママ、悪い人にはヨウシャないから……!」
「ふッッざけんな! オレぁヒーローだぞ!? 悪いわけあるか!
大正義だ! だれがどうみても光の戦士だっつーの!」
「なにそれ!」
幼女は噴き出した。
スーツの女もへへっと鼻の下をこする。
「つーか時間がねぇ! 真歩さんが来ちまうんだろ?
なぁー頼むよ! これ渡してくれよォ~~~! いいもんやっから! なっ! なっ!?」
茶封筒をパタパタとはためかせる。
「も~~~~~! しょうがないなぁーーーーっ!!」
かがりは壁の際まで歩いて行き、体を横に向けた。
「ここ! 入れて!」
ランドセルの隙間を指さした。
「ヨッシャァ! サンキューかがり!」
よっと壁に手をかけ、身を乗り出すスーツの女。
豊満な胸が壁に押し付けられ、形を変える。
ファアアビュラス! いいぞ! わかってきたな! その調子だ!
「ウェーイ! かがりポストに手紙をインだッ!」
「がっこん! はい、たしかに受け取りました! けしいん、ゆーこーです!」
「よっしゃ!! じゃあママが来る前にずらかるが……その前に……手ェ、だしな!」
「こう?」
「ちげぇ! 両手だ両手!」
手で受け皿を作ったかがり。
「へいへーい! 郵便代だ、飴ちゃんをやろう!」
「え~~~!? 飴ぇ~~~!? 私……もう五年生なんだけど?」
ぷくっと頬を膨らませて見せるかがり。マジ天使。
「へ?いらねぇの?……オレァいい歳だが、飴、好きだぜ?
まーいらねぇならいいや。 じゃ、そういうことで! あーばよっ!」
「まってまって! うそうそ! 欲しい!
ちょっとお姉さんぶりました! ごめんなさい!!」
「カーーッ! いいな、正直モンは最高だ!
どれ……テメェが好きそうな味を当ててやろう!」
「ふふふ……見抜けるかしら! 飴にはすこしうるさくてよ!」
手の皿をるんるんと左右に振ってみせる。
少し伸びたポニーテールぴょろぴょろ揺れる。
「ヘヘへェーー! 飴職人舐めんな! 勝負だオラァ―ッ!」
ポトンと、かがりの手に、ハッカのキャンディが落とされた。
「……はずれ、0点」
真顔だ。いや、やや苦い顔だ。微かな怒りすらある。
「ジョークだよ、ジョーク」
ぽとん、ぽとん。
黒飴! 甘露飴!
「うううう~~~~ん!! 悪くないけど……!! 30点!!」
おばあちゃん家でよく食べるやつ!
まぁまぁ好き! 酢コンブ以上! お煎餅未満!
「へへっ!今ので完全にわかったぜ……これだろ?」
ぽとんっっ!!
白とピンクの包み!特徴的な三角形!リボン包装ーー苺ミルクキャンディ!
「ああーっ!! これはいい!! やりますなぁ!! 95点!!」
「ハッハァーー!! だが本命はこいつだ!」
ぽっとぉーーん! (とぉーん……! とぉーん……! とぉーん……!)
それはーー遥か高みからの一手!
キューブ型のフルーツキャンディ!
透明なパッケージにカラフルな小粒キャンディが、≪二つ≫!!
「ああーーーーッ! いいッ!! これは最高!! でました! 100てっーーああっ!!?」
かがりの瞳孔がきゅううと大きく開く!
キューブキャンディを凝視!!
「ええーーーッ! 同色揃い!!? 激レアだあああああああ!!
しかもこれ、ピンク!! 季節限定のさくらんぼ味!! えっ、えっ、こんなことってある!!?
じゅ……十億点……!! すごいすごい!! ファアアビュラス!!」
「へんっ! 飴職人は伊達じゃねぇだろ?」
「すごいすごい!! 夢みたい!!」
「ーーっと、遊んでる場合じゃねぇンだった! 残り全部やンよ! 受け取んな!」
そう言って、スーツの女はざらざらと少女の手に飴を盛った。
「わ、わ、こんなにいいの!? ーーえ、でもちょっと多ッ!? 多い! 多い!
多いって!! わーーーっ! ストーーーップ!!」
■
<5>
ポーカーフェースな上長だ。
その表情から感情を読み取ることはできない。 しかしーー
「(ヒッ、ひぃーッス! 死ぬ! 死ぬゥーー!!)」
ーー殺気は、だだ漏れだった。
娘のお迎えの時間に被せるように入った、緊急ミーティング。
拘束時間はたかだか10分ほどだったが、
それを終えて戻って来た徒士谷真歩は、明らかに苛立っていた。
ーー警視庁捜査一課、魔人犯罪対策室。
タイプ音で虎の尾を踏まぬよう、口を開けたワニの虫歯をプッシュするおもちゃ、
あるいは黒ひげ危機一髪に剣を刺し入れるような繊細なタッチで、
ビクビクとキーボードを叩いていたエイジであったが、やがて意を決して話しかける!
報告・連絡・相談ーーほうれんそうは大事なのだ!
例えそれで、命を落とすハメになっても……!
「先パァイ、魔捜研から上ってきてた一回戦の解析、適当にまとめといたんで、
戻ってきたら見てもらってもいいッスか? 真野と叢雨のやつッス!」
魔捜研――魔人能力捜査研究所。
警視庁代表選手、徒士谷真歩のバックアップを行う部署のひとつ。
「ああ、すまんな、助かる」
魔捜研は能力オタクの巣窟だ。
論文のような形式で提出されるレポートは専門用語と不要なグラフで埋め尽くされおり、
現場の者がそこから欲しい情報を読み取るには、少しばかりコツがいる。
そこにきて、徒士谷は書類仕事があまり得意ではない。
この要約作業だけは、数少ないエイジの活躍の場だった。
「(『助かる』……! 『助かる』って、言ったぁ……! ほわぁ!)」
思いのほか理性的な返答に、自らの生の感触を噛みしめながら、エイジは嬉し涙を滲ませた。
ーー内裏エイジ、結構な苦労人だ。
「真野の分、すぐにくれ。 叢雨はだいたいわかるからいい、暇があれば読む。
……上から『真野を優先して撃破するように』と通達があった」
手早くデスクを片付けながら、真歩は言う。
「上って、どこッスか?」
「さぁな、岩さんは教えてくれなかったが……あの感触は政府関係者か、
あるいは大会の運営組織か……。 なんにせよ、ウチより力のあるところから圧がかかったらしい」
そう言って、真歩は座席にかけていたくたびれた紺のカーディガンに袖を通し、
エイジが差し出したクリアファイルを受け取った。
「かがりのところへ行ってくる。 30分で戻る」
「あっ、ちょっと! ダメっすよ! それパワポですけど、一応機密扱いッス!」
「あン?」
ぎゅっと、真歩の顔のパーツが中央寄る。
凶悪な魔人犯罪者が泣いて許しを乞う、しかめっ面。
「(あ……死んだ)」
突然の……死!
ぬうっと、質量感のある真歩の身体が、エイジに迫る。
「コンプライアンスは大事ッス! 非暴力!不服従ゥ~~~!」
自らの正当性を主張するエイジの頭がぐいと真歩の腕に寄せられた。
さらしに捲かれた固い胸と、たくましい腕による拘束。
ヘッドロックのような体勢で、真歩は囁く。
「お前が機密にしてくれりゃ、済む話だろ?
あたしとお前の機密……それでいこう、な」
ドッと、軽く鳩尾に拳があてられた。
「……ッス」
薄く笑んだ真歩は、その姿を消失させた。
残されたエイジは机につっぷす。
ーーひどい。 ひどいだまし討ちに遭った。
「(なんだよッ……! あのっ! 男前……!!)」
いろいろと不憫な後輩は、ポケットから携帯端末を取り出した。
■
「マ……マ……っ! たすけ……て……っ!」
「かっ!? かがりィーー!?」
学校に飛んだ徒士谷を待ち受けていたのは、娘のピンチだった!
腕をぷるぷるとさせるかがり! その手の上には、こんもりと積まれた飴の山!
飴をしこたま積まれたかがりは、耐えていたのだ……!
地面にそれを落とさぬよう、必死に……!!
「もうっ……! 限界! 助けて!」
「うーっ! かがりー! かがりー!」
ひょいひょいと山の上から順に飴をつまんで、カーディガンのポッケに詰めていく徒士谷真歩!
そのおぼつかなさ! 不器用さ! さながら小動物の如し!
娘の危機を前に動転し、その存在強度はギャグ時空に呑まれるレベルに低下している!
今の彼女は警視庁の精鋭・徒士谷真歩ではない、言うなれば、ーーかっちゃん!!
「ママ、そういうやり方もいいけど……こう、袋とかない!? ガバっとやっちゃいたいんだけど!」
「そっ、そうか、袋か! 袋だな! 任せろ!!」
ジャックポット! イデアの金貨もびっくりなアイディア!
そうだ! 袋だ! 袋さえあれば大量の飴を一気にしまっちゃうことができる!
一発逆転の発想による状況の打開! まるで能力バトル!! すごい!!
「待ってろ! すぐに戻る!」
かっちゃんは! 飛んだ!
■
「エイジィーー! 袋だァーー!」
「ぬあーーっ!?」
立ち入り禁止と書かれた虎テープの内に、かっちゃん出現!
上官が消え、けっこう呑気してたエイジもこれにはビビった!
ビターンと! 見ていた携帯端末を机に伏せる!
「先パイの30分はどうなってるんスか!? 戻るの早すぎません!?
精神と時の部屋ッスか!!?」
そんな軽口を叩きながらも、エイジはキャビネットを開け、良さげな袋を既に差し出している!
右手にはコンビニ袋、左手には洋服店のオシャレな紙袋!
「袋って……こんなんでいいスか?」
「恩に着る!」
オシャレな袋を引ったくり、かっちゃんは飛んだ!
「なんだったんだ……」
狐につままれたような状態のエイジであったが、ややあって席を立った。
乱れた心を落ち着けるべく、わざわざ上の階の自販機でコーヒーを買って戻って来た。
ギッ、と軋む椅子に深く腰掛けたところで、またしても虎テープの中に人影。
突然現れる人間など、内裏エイジは一人しか知らない。
「ーーまぁ~た袋ッスか? 行ったり来たり大変ッスね!」
「いや、違う」
急場を凌いだのだろう。
すっかり存在強度を取り戻した警視庁の精鋭・徒士谷真歩が言う。
「本当に助かった。 ありがとう」
そして、深々と頭を下げた。
「えっ!? やめてください!!」
エイジは軽薄な口調も忘れて言った。半ば叫びだった。
上官にこんなことで頭を下げて欲しくなかったのだ。
ーーここまで恭しく礼を言われたのは配属以来はじめてだった。
今日に至るまで、内裏エイジの自己評価としては、かなり頑張ってきたつもりだ。
それでも徒士谷真歩という存在に認められるには足りず、褒められたことなど数えるほどしかない。
だからこそ、ぽっと出の紙袋なんかに、これまでの努力が負けたような気持ちになって、
若干……涙目になってしまった。 本当にやめて欲しかった。
「……かがりちゃん、もういいんスか?」
内なる悲しみを誤魔化すように言う。
「待たせているからすぐに戻るが……ひとつお前に言わないとと思ってな。
最近読んだ本に、『悪いことをしたら、その場ですぐに叱りましょう』とあった」
「えっ、その本……かがりちゃんの教育本っしょ!?
俺、そのレベルで叱られるんスか!? てか、叱られンの!? なんで!?」
スッと卓上の、うつ伏せに置かれた携帯端末を指差す徒士谷。
あの目まぐるしいギャグ時空の中で、それでも真歩はエイジの不振な動きを捕捉していた。
ーー≪ビターンと! 見ていた携帯端末を机に伏せる!≫
徒士谷真歩の夫は探偵だった。
共にある中でそのスキルの一端を吸収し、彼の死後も独学で磨いた。
今では駆け出し探偵レベルにまで高まった洞察力によって、エイジが隠したかった秘密を暴いたのだ。
「あっ……! それは……確かに、すんませんッス! 以後気をつけます!」
業務時間中の私的携帯端末操作。
明確な罰則は無いが、繰り返し行えば信用を落とす行為だ。
「いや、それくらいは別に咎めない。
あたしもだが、……既定の休み時間なんて、あって無いようなものだろう?
上の者が居ない時くらい、羽を伸ばすがいいさ。 それだけの過密な毎日だ」
「ただな」と、徒士谷は続ける。
彼女は目撃したのだ、エイジの緩みきった表情を。 そして、結論付けた。
駆け出し探偵のーー名推理!
「もし何か悲しい手違いがあって、お前が気まずい思いをするといけない……!
だから時効になる前に、はっきりと言っておかねばと思って戻って来た。
現行犯だ、エイジ」
犯人はーーお前だ! そう言わんばかりに、びっとエイジを指差し、至極真面目な表情で言った。
「職場でのエロスはほどほどに……なっ!」
「先パイそれセクハラァ!!」というエイジの叫びを待たず、
言いたいことだけ言って、真歩は姿を消した。
「(--ッとに! なんっっっにもわかってねー!)」
パタンと、携帯端末が裏返される。
そこには、あの日のーー夢の国のひと時の切り抜きが映し出されていた。
マスコットキャラクターに寄り添う浮かれた親子。
内裏エイジが持つ写真の中で、唯一真歩が笑っている写真。
夢の国でのことが思い出される。
『エイジくん……! いい? ママは今日私服なの……! わかる? し・ふ・く!
……何か、言うことがあるんじゃない?』
「(……かがりちゃんはジェイムズさん似だな……! あの子のほうがよっぽど探偵だよ)」
『エイジくんは……もうちょっとがんばりましょう!』
「(だけど……酷なところは真歩さん似だ)」
内裏エイジは、既に頑張っている。
認められるために、常に目の前の課題に全力で取り組んでいる。
男として、いい格好をする機会があれば、見逃さずに攻めている。
功を焦って「同期とデートの約束をした」……なんて、揺さぶってみたこともある。
だけど結果はからっきし。
その性格故、多くの人間と接し、友好関係を築いてきたーー人の心の機微に通ずるエイジは確信していた。
徒士谷真歩が本当に、心の底から自分に対して興味を持っていないということに。
彼女の心は二年前のあの日から、いや、もっと遥かな昔から、一人の男しか許していない。
「(ッたく! 羨ましいぜ! ジェイムズさん!!)」
ややあって、エイジはキーボードを叩いた。
「……『出来ることを一歩一歩』……だ」
十分に休んだ。 仕事を再開する時だ。
エイジは絶望などしていない。 出来ることを一歩一歩ーーその理念が彼を支える。
捜査も、はじめは到達すべき目標しか与えられず、その道中は闇に包まれている。
質問し、時には詰問し、状況を検め、足で探しーーそうして、徐々に外堀を埋めていく。
その点、まっさらな事件なんかよりも、エイジの行く道は遥かに明るく見えた。
なにせもう、敵将の馬は射止めている。
ちょっと馬の方を好きになってしまいそうになるくらい、露骨なバックアップがある。
ならば次は自身を認めさせるフェイズだ。
通常業務を誰よりも早く、完璧にこなし、徒士谷真歩の書類仕事を一手に引き受ける。
代替の効かないない人材だと、徒士谷にも、更にその上の者にも認めさせる。
ーー次の一歩は、それからだ。
「(待ってろよ、真歩さん……ッ! 俺なしじゃいられない体にしてやるッ!)」
極めて合理的にたどり着いたはずのその結論。
しかし、字面の酷さと、さきほど不意に押しつけられた固い胸の感触が、
あらぬ妄想へとエイジを誘う。
ほわんほわんと、エイジなしでは居ても立ってもいられなくなった偶像を含んだピンクの吹き出しが、
彼の頭上に浮かんだ。
ーー固く結んださらしが、自らの手によって解かれてゆく。潤んだ瞳と唇。
「……うわっ、エロっ!!」
ーーエロスは、ほどほどに。
迷探偵の迷推理は、あながちハズレていなかったのかもしれない。
■
らららん、らららん、らーんららんら
明るい土手を仲睦まじげな親子が手を繋いで歩いている。
徒士谷真歩そして徒士谷かがり。
真歩の能力を使えば祖母の家までひとっ飛びのところを、
かがりの希望により、歩いて移動するよう取り決められている。
鼻歌まじりの超絶ごきげんな天使は、手紙を運ぶキューピッドでもある。
傘の女から受け取った茶封筒を道中、母に渡した。
『よう! 久しぶりだなクソババア! オレだ!』
一行読んだ時点で、真歩は破顔した。
「誰だよ……バカ。 口語で手紙を書くんじゃない……!」
「ママ、どうかした?」
「んー、ちょっとね」
ーー横を歩く大天使と、手紙の主の姿が徒士谷には被って見えた。
かがりから預かった飴の山の中に、ざらめをまぶした大玉のモノがあった。
懐かしさを感じずにはいられない品だった。
叢雨雫にはじめて会った時のことを思い出す。
そう、はじめてあのバカと出会ったのは、奴が今のかがりくらいの歳の頃だった。
◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇
「ーーせっ! 離せよッ!! こンの!! クソババア!! 降ろせ!!」
「徒士谷巡査長、ただいま戻りました! 机、使いますね!」
「オイィィィ! 聞けェーー!」
ーー高校卒業後すぐ、魔人剣道個人全国一位という華々しい成績をひっさげ警官となった徒士谷は、
周囲の期待以上の成長を見せ、二十にして既に特記戦力として名をあげつつあった。
トントン拍子にそのルートで出世するかと思われていた矢先、二十二にして妊娠。
その後丸一年と少しの休みを経た現在、前線復帰のリハビリとして箱の一員となっている。
今日は夜勤、深夜徘徊していた女児を保護してきたところだった。
担ぎ上げていた少女を椅子の近くに降ろす。
「まぁ座れや」
「うるせぇ! 死ね!」
ゴッと、徒士谷の脛が蹴られた。
子供にしては強すぎる力ーー魔人の膂力。 だが、相手が悪い。 最悪だ。
ーー魔人警視流“忍法” 帷子
内功による肉体の強化。恒常発揮型のスキル。
「はーい、公務執行妨害入りました~! 命の危険を感じたので、正当防衛に移ります」
「いでっ!? いででででででで! ちょっ、やめて!!」」
ぎううと、少女の耳が上へ上へと引き上げられる。
「痛い! 痛い! こっ、ころされる!! イデェッ!! お巡りさん! 助けてくれーーッ!!」
奥の方から声がする。
「徒士谷ァー! グーはダメだぞ、グーは!」
「了解でーす! チョキなのでセーフってことで!」
「ならヨーシ!」
「ア゛アアアアアアッ! 腐敗ッ!! 警察組織の闇ィイイイ!!」
しばらくして、原始的な体罰を解かれた女児は、両肩を掴まれ、強制的に着席させられた。
「名前は?」
「ハァーッ! ハァーッ! うるせぇ! クソババア!」
掴んだ肩ーーぎゅっと、骨と骨の隙間に指がねじ込まれる。
あと数センチねじ込めば、肩が外れるという限界まで。
「ア゛アアアアーーーッ!!? イデェエエエエエエエエ!!!」
「で、名前は?」
「アーッ! アーッ!! ば! ばくはつ!!」
「あン?」
「ばくはつおちたろう! ばくはつおちたろうだ!」
「ほう……!
すまないが、調書には上の名と下の名を分けて記入しないとなんだ。
『爆発オチ・太郎』か、それとも『爆発・オチ太郎』か教えてくれないか?」
「ハァーッ! ハァーッ! 太郎……! 爆発オチ・太郎だ……!」
「太郎さんね、了解。
女なのに珍しい名前だな」
「……ハッ! ジェンダーフリーって知らねぇのかクソババァ!」
「ごめんな~、クソババアはババアだから横文字苦手なんだよ」
明らかに、不穏な笑み。
経産婦となり、胸や体のラインに少しばかりの不安を抱いている真歩に、ババアは禁句だ。
「歳は、ま、いいや……! 12くらいだろ?」
「ッ!? なんでわかった!?」
「ほい、12歳っと」
「ア゛ーッ!! 卑怯だぞ!! ババア!!」
「その歳ならかけ算できンだろ?
ちょっと遊ぼうぜ、なぁ」
「ああン!? うるせっーーギッ!!」
肩が、力強く握り締められる。
にこやかな徒士谷。
「じゃじゃん! もんだいです!
美人婦警のクソババアは中学生の時から剣道をやっていました。
その時の握力はおよそ≪40kgw≫でした。
なんやかんやあって、魔人に覚醒し、その拍子に握力は≪3倍≫になりました。
さて、今の握力はいくつでしょうか?」
一段、込められる力があがる。
「ギャアアアアアアッ!! 120!! 120です!!」
「正解。では2問目。
握力≪120kgw≫のクソババアは警察に入り、優しい先輩たちに優しく指導され、
毎日ゲロ……は、まずいな。えーっと、毎日、七色発光ゲル状体液を吐き散らしながら、
≪魔人警視流≫というスーパーな技を体得しました。
その時、握力は≪9倍≫になりました。さて、今の握力はいくつでしょうか!」
更に、込める力が跳ね上がる。
「グアアアアアアアッ!! わかんねぇええええええええ!!!」
女子小学生の脳内電卓はオーバーフローをおこした!
「1080!」と、建屋の奥から声がした。
「はい岩さん早かった!
……で、3問目。 これは簡単だぞ?
クソババアは日夜実戦の中で修練を重ねています。
もう測れる器具が無いので分かりませんが、握力もきっとすごいことになっているのでしょう!
ーーそれだけの握力で、女子小学生の肩を真剣に握ったら、どうなるでしょうか?」
「掛け算どこいったああああああああ!! アアアアアアアァァァーーーッ!!
イデェ! ギィッ!アアアアアーーーッ!! ちぎれるッ!! 壊れるゥ~~ッ!!」
「うん、正解。壊れるな。
じゃあーー最後の問題だ。 クソババアは怒るとすぐ手が出ます。
逮捕の時もやりすぎちゃうことがよくあり、反省の書類を山ほど書きました。
そんなクソババアですが、実は今、……意外かもしれませんがーーかなりイライラしています。
深夜の勤務で眠かったり、早く夫の元に帰りたかったり、あたしに遠慮なく上官が煙草を吸ったりーー」
「聞こえてんぞー! 徒士谷ー! ごめんなー!」
「ざッス! ーーで、その上、足を蹴られ、クソババア呼ばわりされ……!
もうほとんどキレています。 目の前の女の子の肩はもう助からないでしょう……」
「イエエエエアアッ!? 助からないの!? アアアアアッーーー! アアアアアアッー!!」
「でも、名前……。 名前とか住所とか、そういった質問に素直に答えてくれれば、
少しは怒りもおさまるような気がします。
ーーというわけで、改めて最後の問題だ。 『名前はーーなんだ?』」
「アアアアアーーーっ!! ばくはつ!! ばくはつおちたろう!!」
「あン?」
ガタンと席を立った剛腕婦警!
左手で女児の首をひっ掴み、立たせた!
やや引かれた右手は二指を突き出す構えをとっている!
「最後っつったろ! 0点だ……!」
ーー魔人警視流“空手” 表・砕明
目突きのスキル。
ゴッ、という音と共に、風が吹いた。
「ガッ!!? んっ!? ンンンン~~~~ッ!!」
目を閉じた隙を縫って、女児の口内にざらりとした異物が挿入された!
反射的に吐き出そうとする女児! 吐き出させまいと唇をつまむ婦警!
うんうん悶えていた女児は、しばらくして大人しくなる。
「甘……い……?」
「そりゃそうだろ、砂糖の塊舐めりゃ甘いに決まってる」
そう言って徒士谷は席につき、ごろりとした大玉の飴の封を切り、口に放った。
妊娠を機に煙草をきっぱりと辞めた彼女のデスクには、口寂しさを和らげるため、
飴やらガムやら乾珍味やらがぎっしりと詰まっている。
がりっ、がりっと大玉を三口で平らげてから、婦警は笑んで言う。
「最後っつったろ、もう聞かねぇよ。それ舐めたら出てっていいぞ。
どうせ調書なんて誰も読んでねぇんだ。適当に書いときゃいいさ」
「徒士谷ァー! 俺は読んでないけど、たまに監査が入るから気をつけろよー!」
「岩さん書いといて下さいよー!」
「いいぞー! 岩さんねつ造大得意!」
ころんと、飴を舌で転がし、女児はパイプ椅子に腰を落とした。
むすっとした視線を、徒士谷に浴びせている。
そんな視線を受け流し、徒士谷は言う。
「別に説教垂れるわけじゃあないが……夜の町は危ない。
危険な魔人がうろうろしている。
今あたしがしたみたいな……いや、もっとヒドイことを平気でする奴に溢れてる」
「うるせぇ! それがなんだ!」
「お前……死ぬぞ」
徒士谷は少女の在り方を正したかった。
目の前の少女が、魔人になりたてであることは補導時の小競り合いでわかった。
膂力はそこそこだが、技も、戦闘に対するカンもない完全な素人だった。
「魔人になった」という全能感で突っ走り、
「魔人となった後、更に鍛えて来た者」にあっさりと狩られる典型だった。
「死なねぇ! ≪ヒーロー≫は……死なねぇ!」
「あン?」
「≪ヒーロー≫は無敵だ!」
「ちょ……まて、なんだヒーローって」
「≪ヒーロー≫は……オレだァ!!」
わけがわからなくて、徒士谷は笑ってしまった。
徒士谷真歩はこういった強固な理念を持った狂人に弱い。
『ーー犯人は、君だ。≪名探偵≫を出し抜けるとでも思ったのか!』
『あン?』
『時間経過した吸殻、移動教室のタイミング、そしてその不自然な制服の膨らみ……!
全ての証拠が語っている、君がーー犯人だと!
偉大なる≪名探偵≫ジェイムズの目は欺けない!』
『誰がジェイムズだハゲ。おまえ3組の徒士谷だろ? ……変人、徒士谷』
わけのわからない理を突き通し、終には改名までしてしまった変人を好きになった。
だから、目の前の変人のことも憎めない。
「お前……面白いな……!
さっきのだって、泣かせるつもりでやったんだ。
なのにケロッとしやがって」
魔人覚醒の全能感に浮足立つ者には、認識の矯正が必要だ。
暴走しないよう、自分は最強無敵ではないとしっかり刻む必要がある。
若かりし頃の夫や警察の諸先輩が徒士谷にそうしてくれたように。
「≪ヒーロー≫は泣かないんだ! 当たり前だろ!」
「だがなぁ……やっぱりお前、そのままだと死ぬぞ。 弱すぎる」
「ハァ~~~? 強いですぅーー! 最強無敵ですけどォーー?」
「ほんとに強かったら、捕まってないだろ」
「あ……! いや、今日は脇腹とか……痛かったし……!」
「ふーん、≪ヒーロー≫は言い訳するんだな」
「ッ!! しない! オレは弱い!!
だが、すぐ強くなる! 無限に強くなる!! それが≪ヒーロー≫だ!」
また真歩は笑った。だんだんと、この狂人の扱い方を心得て来たのだ。
「なぁ……≪ヒーロー≫って修行とかすんのか?」
「修行……! まだやってなかったけど、かっこいいな……それ! たぶんするぞ!」
「どこでする?」
「山とか……無人島……?」
「アテがねぇなら、いいとこ教えてやるよ。
警視庁4万6000人の頂、武の総本山……!」
「ぶのそーほんざん!! わかんねぇけど、めちゃくちゃかっこいい響きだなァ! オイ!」
「じゃ、決まりってことで。
明日のお昼にここへ来い。 連れてってやるよ」
「え! ババアも来ンの!?」
「来るというか……しばらくはあたしが教えることになるだろうな。
あとババア言うな、徒士谷さんだ」
「え~! 徒士谷さんが行くならやめようかな……。 なんかこえーし」
「ほう……≪ヒーロー≫は、怖くなったら逃げだすんだな」
「逃げるわけねェだろ!! 何言ってんだぶっ殺すぞ!!」
はっ、と徒士谷は鼻で笑った。
「じゃ、明日からよろしくな『太郎』くん」
「あァ? 太郎? 何言ってんだ! オレは叢雨! ≪ヒーロー≫、叢雨雫だ!」
「はンっ! 最初から名乗れ。
徒士谷真歩、今は降格して≪巡査長≫だ。 よろしくな、叢雨」
「おうっ! よろしくな! クソババア!」
深夜の箱がどよめいた。
「イッデェェェーーーー!! 殴った! この警察殴ったぞ!!」
「ああ~っ! グーはいかんと言ったろ! 徒士谷ァ!」
「さーせん、つい」
◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇
ガリっと飴を噛み砕く。
結局、叢雨は一ヶ月もせず道場を飛び出した。
魔人警視流の基礎と、徒士谷の技の一端を持ち逃げして。
それからは何かと因縁があり、敵になったり味方になったり。
かれこれ十年の付き合いになる。
最後に斬り結んだのは半年ほど前だが、相変わらずの狂人ぶりだった。
そんな狂人が書いたであろう手紙に目を落とす。
『オレはババアと勝負がしてえ! だがつまんねえ横やり入れられんのはごめんだ。
二人で真野を先に殺ろう。入り口ゲートで待つ』
相変わらずだと、徒士谷は感じた。
叢雨の性格・性質・能力は嫌というほど知っている。
事前の準備・修練はする。戦いの中で工夫は凝らす。
だが、事前の搦め手を打つような精神性はしていない。
なぜならば彼女は≪ヒーロー≫だから。
それにこれが待ち伏せの布石だとすれば、あまりに幼稚すぎる。
だからこそ、これは本心であると徒士谷真歩は受け取った。
そしてそれは好都合だった。
なんなら、徒士谷の方から「真野を片付けるまで手出しをするな」と伝言を飛ばすつもりだった。
徒士谷には真野を優先撃破するようにというお達しが出ている。
利害は一致していた。
「いいお手紙だった?」
不意に娘がそんなことを聞いてきた。
「んー? どうして?」
「だってママ、なんだか嬉しそうな顔してたから」
嬉しそうーー指摘されて初めて気が付いた。
叢雨と組んで戦うのは三年ぶりだ。
大きなヤクザ間抗争の仲裁に入った時以来だ。
叢雨とは何度か組んだ。 二人が組んで……負けたヤマは一度として無かった。
「(嬉しくはないが……そうだな、戦場で会いたい気持ちはある……かな)」
徒士谷真歩は警視庁最強の魔人だ。
そこに、彼女以上の使い手ーー彼女が安心して背を任せられる者などいない。
期待の俊才・内裏エイジをもってしてもまだまだその任には遠い。
だが、もしその座に、最も近いものがいるとすれば、それはーー。
「(真野をとった後、まずは腹に一発入れてやろう。
夢の国で人を笑いやがった件もあるが……!
もういい加減ーー『クソババア』を笑い飛ばせない歳になってるんだ)」
くしゃりと、かがりに見えないように手紙が握りつぶされた。
■
<6>
【グロリアス・オリュンピア2回戦までーー残り1日】
真野清掃店。
「そうだ!!」「娘の!!」「ーーが惜しかったら!!」「ーーと」「1000万円用意しろ!!」
宇津木秋秀は血相を変えて引き戸を開け放った!
「何をしている!! 真野ォーーーッ!」
不穏な会話が店外にも漏れ聞こえていたのだ。
がしゃんと宇津木を見て、受話器を置く真野。
「よっ……よお~~~! 宇津木ィ! 来てくれたか! 元気そうだな!
ははっ……そうだ、羊羹があるんだ。 羊羹好きだったろ、なぁ宇津木」
「真野、今誰とーー」
「茶も湧かそう、緑の濃いやつだ、好きだろ宇津木、なぁっ」
特定の選手に肩入れしてはいけない。また、逆ーー過度な干渉も然り。
真野のこととなるとつい熱くなってしまうきらいがあるが、
本来であれば真野が誰と電話していようが、構うべきではないのだ。
本人が誤魔化したがっているのなら、なおのこと。
一呼吸ついた宇津木は冷静になった。
「いや、お茶も羊羹も結構。 選手からそのような施しは受けられない。
呼び出した用件を言え」
カァーンと、お茶っぱの缶が投げつけらた。
床に茶葉が散らばる。 また真野の癇癪だ。
「ふざけるなッ! 知ってるぞ……!! お前、九暗影のメシ喰ったよなぁ……!?
九暗影は良くて、俺は駄目なのか!! 何が公平性だ! 喰えよっ……!! なんで、なんでだ……!!」
真野にしては珍しい、正論だった。
宇津木もこれには痛いところを突かれたと納得し、羊羹を食すことを承諾した。
ーーふんふっふっふ~ふ~ ふんふっふっふ~ふ~
承諾したとたん、機嫌を直し鼻歌を歌い出した真野。
なんと感情の起伏が激しい男だろうか。
「宇津木ィー! いま持ってくから、客用の机の上を開けてくれ」
そんな声が炊事場から響いてくる。
大剣豪たる自分が家政婦の真似事などとも思ったが、
それを言えば今鼻歌を歌いながら羊羹を切り分けているのは、あの≪真野金≫だ。
仕方がないと机の前に立った宇津木は愕然とした。
あまりに無造作に、危険物が置かれている。
手榴弾、液体燃料、分解された弾丸と……黒色の粉末、火薬か。それにこれはーー閃光手榴弾?
うかつに触ることすらできない火薬樽が部屋の一画に形成されていた。
片付けようにも、散乱する火薬が恐ろし過ぎて手が出せない。
こんな……≪絶対に火を近づけてはいけないような空間≫を何故放置しているのか。
うっかり引火したら爆発オチ必死ではないか……!
なぜこんな、≪絶対に火を近づけてはいけない机≫が……!?
「おいーー」
真野を叱りつけようとした時、既に真野はお盆に≪それ≫を乗せ、発進していた。
ーーふんふっふっふ~ふ~ ふんふっふっふ~ふ~
鼻歌、そして。
ーーハッピバースデー宇津木~! ハッピバースデー宇津木~!
鼻歌の正体がーー開示される!
それは誕生歌! 手に持つのはバースデー羊羹!
数十本の蝋燭が刺され、轟々と燃え盛る栗羊羹! もはやただの火の玉!
ちなみに宇津木の誕生日は三ヶ月以上先だ。
「真野ォーーーー!!」
歩みを止めにかかる宇津木、しかしその足取りは覚束ない!
組み伏せるように、実力で静止させれば、盆は返り、爆発オチ必至!
「止まれ真野! 止まれェ!!」
「アァーッ!? なんだ……九暗影の飯は食えて! オレの羊羹はァ~~!!? アアーッ!?」
「ちがう! そういう話じゃない!!」
一歩一歩、火薬樽へと真野は歩みを進める。
真野の説得によるコントロールーー困難。
全力で逃げ出すーー可能、ただし真野が爆発オチする可能性あり。
能力による抜刀で真野を避けて火のみを斬るーー可能、ただし抜刀時の火花で爆発オチの可能性あり。
ならばーー!
窮した宇津木は、瞬時に最適解へと到達する。
「ーーおお、宇津木ィ! 喜んでくれるか! ははっ! 運ぶのも待てないってか……!」
「ふーっ! ふーっ!」
最適解ーーそれは≪吹いて、消す!≫ シンプルイズザベスト!
「ふーっ!! ふーっ!! ふーっ!!」
「ははっ! 宇津木! せっかちさんめ」
「ふーっ!!! ふーっ!!! ふーっ!!! ふぅ~~~っ!!!」
宇津木はハチャメチャに頑張った……!
そして、成し遂げた……!
そんな彼の苦労など知らず、
爆発オチ机に到達した真野は口をとがらせ文句を言う。
「なんだ……片付けといてくれって言ったのに……!
まぁいい、今日は誕生日だしな、特別だぜ?」
そう言い、お盆を片手で保持、腕をでんと机の中央に置き、
ズズーッと腕を滑らせ卓上の物を無造作に落とした!
「真野ォーーーー!!」
超反射神経!バビュンと宇津木がヘッドスライディング!
手榴弾! 閃光手榴弾! 液体燃料! 危険物を受け止める!
「よっこらせっと」
「真野ォーーーー!!?」
真野の腕が逆にスライド!!
宇津木も逆方向にヘッドスライディング!!
複数の薬莢、弾丸、プラスチック爆弾! 危険物を受け止める!
「真……野……!」
なんとか危険物を足元に固めて置いた宇津木がよろよろと机の顔を上げると、
そこには……葉巻を咥えた真野の姿が!!
今にもライターの火打ち石に手をかけんとするその姿を認め、宇津木はーー!!
「ウオオオオオオオオオオオオオッ!! 真野ォオオオオオオオオオ!!」
バチーンと真野の頬が張られた! つい……手が出てしまった!
「ハァーッ! ハァーッ!」
息を荒げる宇津木、突然の暴力に涙する真野。
「……帰る! 清掃業者を手配するから、お前はもう何も触るな、何もするな!
わかったか!」
これ以上茶番に付きあっていられるかと、店を出ようとした宇津木の足に真野が絡みつく。
「ううっ……待ってくれぇ……宇津木、見捨てないでくれ……!」
「こんな危険なところにいられるか! ええい、離せ!」
「金だ、金がいるんだ……あとちょっとでいい、頼むよ……!」
「金なら渡したろ!」
先日、店を訪れた際に借金返済用とは別に、
試合の準備資金として500万円を獲得賞金の中から真野に手渡した。
「ンなもんつかいきっちまったよ……へへ……!
酒、煙草、女……へへ……いい体の女だった……! それに葉巻って美味ぇんだな……。
あとな、男も山ほど買ってやった! ハハッ! これが勝者の世界だ! どうだ宇津木!」
侮蔑の視線を向ける宇津木。
真野が獲得した賞金だ、どう使おうと勝手だが、到底準備のためとは思えぬ散財。
「次の戦い……勝つ気があるのか」
「ああ、もちろんだとも、宇津木……!
あとちょっと、あとちょっと準備すりゃあそれで全部なんだ……!
コナ……クスリ、ゴム……紐に手錠……20万もありゃいける! たったそれだけで勝てるんだ!」
「それは……試合に必要なものなんだろうな……!」
「ああ、信じてくれ、宇津木! 俺は勝つ! だから……なぁ、投資してくれ! 頼むよ」
怪しげな品目。 しかしそれでも宇津木は、真野を信じずにはいられない。
「わかった。すぐに戻る」
栗羊羹ーーあれは、思えば真野なりのご機嫌とりだったのかもしれない。
真野に……まだ不安定ながらも≪理≫が戻ってきているように感じる。
それに三日前のような泣き言は言わなくなった。
「化物とは戦えない」--そんな泣き言を。
着実に……自分の知らぬところで真野は事前策を整えていて、鮮やかな手腕で勝ち抜けるのではないか?
そのような期待を、そのような光景を宇津木は捨てることができない。
好意的過ぎる解釈かもしれない、希望的過ぎる予測かもしれない。
それでも宇津木はーー信じずにはいられない。
果たしてそれは、黄金≪ほんもの≫か黄鉄鉱≪にせもの≫か。
審判の時が迫る。
■
<6.5>
試合開始直前。
グロリアス・オリュンピアーー関係者専用観戦席。
2回戦選手徒士谷真歩の一親等、徒士谷かがり。
そしてその付き添い、真歩の部下・内裏エイジ。
映画館のミニシアターめいた空間。
他の関係者もザワザワと座席につきだす。
殺し合いを前に、ポップコーンや飲み物片手に席に着く胆の太い者がいたかと思えば、
自身が戦場に赴くかのような、ひりつく殺気を纏う者もいた。
そんな中、かがりとエイジは横に並んで座っている。
「……真歩さんは見て欲しくないって言ってたけど、やっぱり見るんだよね……?
今からここを出て、一緒に普通の映画を見に行ったりはしない、よ……ねぇ~」
静かに、かがりは頷く。
「ママが頑張ってるのに、見ないなんてありえない」
エイジの優れた人間観察眼は、それが上っ面の発言だと見抜いている。
かがりは恐れているのだ。 愛する人が知らぬところで傷つくことを。
なんと言葉をかけたらいいものかと思案するエイジに、かがりが言う。
「それにね……! みんなが心配してるような大人の人しか見ちゃいけないような……そんな戦いにはならない!
だって、そうでしょう! ママが戦うんだから! ママは無敵なんだから!!
アっという間にみんな倒しちゃうに決まってる!!」
「……ふっ」
「だれ! いま笑ったの!」
「最強はーー真野だ」
「ちがう! ママ!! ママが一番!!」
「……真野だ」
「ママ!!」
「真野だ」
「ママ~~~ッ!!」
「真野だッ!」
言いあう幼女と着流しの男。
「あ、すいません……! 大きな声出しちゃって」
そこにエイジが割って入る。
「エイジくんは悔しくないの!!? ママが最強だって思ってないの……!!?」
荒ぶるかがりをなだめ、着流しの男に謝り倒し、席を離したエイジ。
連れて来たかがりは、つーんとえいじと逆方向を向いている。
「大丈夫、俺も先パイが最強だと思ってる。
だけどここには……この大会には、最強の人間しか集められていないんだ。
みんな自分の応援してる人こそが最強だって思ってるんだよ、だからーー」
「そうでもないぞ」
まとまりかけた話を、ポップコーンをかじるジャージ姿の女がシェイクする。
「私は一緒に修行したよしみで雫ちゃんを応援するが、
最強が誰かと問われれば、迷わず徒士谷真歩ーーかっちゃんを推すぞ?
クンフーの桁が違う……! ありゃあもう、災害みたいなもんだ!」
「んふふ~~~!」
推しの高評価にご満悦のかがり。 すっかり機嫌を直したようだ。
「(ーーま、最強が勝つとは限らんのだけど)」
女はポップコーンと共に言葉をひとつ飲み込んだ。
長かった待機時間が明け、戦いがーー始まる。
館内が暗くなり、映し出される各選手のPV&1回戦ダイジェスト。
選手名が表示され、映像が流れ出す。
二人目の映像が流れ出した時、かがりは小さく呟いた。
「ーーこの人、ちがう」
■
ダンゲロスSS5 第2回戦 【夢の国】
「真野の世界」
■
<7>
時は夕刻。
徒士谷真歩は入場ゲート付近に出現した。
「(やはりーーこの遊園地!)」
戦場を見渡した真歩は、素早く行動を起こす。
≪叢雨雫と合流し真野を討つ≫
そのような算段である。
叢雨から指定された合流場所は入場ゲート……まさに出現位置そのもの。
ならばと、徒士谷はすぐさま歩みを開始した。
一歩ずつ踏みしめていくーー広げてゆく、≪東海道≫を。
事前に下見を行った通り、逃げ込める箇所を優先して確保していく。
かつんかつんとあえて音を立てて歩く。
徒士谷は叢雨の能力を熟知している。
鳴り響く園内BGMに紛れる小さな小さな足音を拾う性能を有する事実を知っている。
二つの拠点を設置し終え、広場の一割を≪東海道≫とした。
真野を討った後は叢雨との戦いとなる。
広場を最終処刑場とすべく整地を行っていたその最中、叢雨雫が駆け寄って来る姿が見えた。
試合開始より30秒も経っていない。
ーー早かったな
と、声をかけようとした。
たったそれだけのことが、取り返しのつかぬ大きな失着となった。
≪それを敵として認識できなかった≫
≪見えた瞬間退避していれば、あるいは見えた瞬間に刀を振ってさえいればーー!≫
風景の一部が揺らいだ!
「ーーッ!」
第六感めいた反射速度で愛刀・馬律美作を防御にあてるが一手遅い。
既に攻撃は到達している。
初手必殺ーー叢雨雫の飛ぶ斬撃。
ビシャリという音がして、横一文字に胴と腕が切り裂かれる。
辛うじて守った心臓。
腹部の傷が深い。零れ落ちんとする臓腑を押さえる。
左腕はダラリと垂れ、動かない。利き手を使って押さえるしかない。
内功が無ければ、両断されていた。
ーー徒士谷真歩は混乱の中にいる。
緊急ーー退避!
このような時の為の避難地点。
絶対安全箇所への跳躍。
しかしーー成らず! 能力発動不可!
大津! 草津! 石部! 水口! 土山! 坂下! 関宿! 亀山! 庄野! 石薬師!
ーー消えてゆく!
四日市! 桑名! 宮! 鳴海! 池鯉鮒! 岡崎! 藤川! 赤坂! 御油! 吉田!
ーー徒士谷真歩の≪東海道≫が消えてゆく!!
飛ぶ斬撃は二手目だった! 会敵前に≪東海道≫殺しの一手目は放たれていた!
ーー何もかもが、一手遅い
東海道の宿場を襲った怪物が、真歩にも≪飛来≫する!
わずかな空気の揺らぎを感じ、半歩移動。
脳天を抉らんとするそれをーー最小限の動きで、最小限のダメージで避ける。
肩と、腿を抉られる。そして、≪石畳が砕かれる≫
血により、不可視の怪物の姿が可視化される。
それは遥か天より降り注ぐーービニール傘。傘の雨。
鋼鉄程の強度を持ち、触れた物を問答無用で弾き飛ばし、
目に見えず、気配を追い辛いーー四つの特性を兼ね備えた殺意の雨が東海道に降り注ぐ。
真歩は叢雨の能力の機微を知っている、この傘も見たことのある応用だ。
翻って、叢雨も真歩の能力の機微を知る。能力仕様の詳細を知る。
≪東海道五十三継≫ーー今まで徒歩で≪行ったことのある場所≫であれば瞬間移動することができる能力。
つまり、≪行ったことのある場所≫を破壊さえすれば使用不能となる能力。
土地破壊は大規模でなくとも良い。
表層を、真歩が踏んだ足跡を消してしまう程度に抉れば、そこは≪東海道≫を外れる。
傘の雨が降り注ぐ。
叢雨が腕を大きく後ろにしならせ、急速に抱きかかえるような動作を行っているのが見えた。
ーー射出している。 両手に持った何本もの傘を、同時に。
生存領域を求め、まだ破壊されていない≪東海道≫を転々とする。
しかしそれは広場内を揺らめくに過ぎない。
退避の要所は初手で潰されている、≪東海道≫はまだ広場の中にしか広がっていなかった。
転移し、一歩踏む。 新たなる≪東海道≫を作る。
しかしそれは対処療法だ。 生存時間を伸ばすに過ぎない。
広場から脱出できない以上、徐々に林立する傘の密度は増えていく。
傘には触れられぬ。触れれば弾き飛ばされる。
一度でも触れれば、それは連鎖し、終わらぬピンボール遊戯のように、
立てなくなるまで打ちのめされるであろう。
だから徒士谷は地面を見る。
叢雨の傘は不可視なれど、抉られた地面は可視。
破壊跡の上には、必ず化物が潜んでいる。
ーー真歩には見えている、叢雨の仕掛けていることすべてが、その対策が。
しかし、やはり……すべてが一手遅い!
対策が分かっていても、実際に打てなければ意味が無い。
初手の重傷があまりに大きな壁として立ちはだかる。
飛ぶ斬撃、二太刀目がーー来る!
刀は振れぬーーならば!
ーー魔人警視流“忍法” 土遁岩障子
震脚! 砂利を打ち上げ、防壁と成す!
「ーーギッ!?」
殺した、正面の斬撃軌道は確かに殺した。
徒士谷の背と側面を撃ったのは散弾。 無数に突き刺さる傘で乱反射した水撃の残滓!
一発一発は軽微なれど、束なれば命に届き得る回避困難な散撃。
三太刀目! 「ぐっ……! ああッ!!」
見えていても避けきれぬ。二連の土遁でダメージを減らすがせいぜい。
またーー傘の雨が降り出す。
決して包囲網から逃がさず、こちらの動きが止まれば斬撃を打ち込んで来る。
二度、三度……滅びゆく東海道を転々としたところで、クラリと体が揺らいだ。
肉体的ダメージによるもの以上のよろめき、これはーー!
「(ーーーー毒!)」
僅かに、衣服から白い煙。
水撃はーー液体状の薬品を飛ばしていた。
忍法により、毒に強い耐性を持つ真歩をしてこのダメージ。
かなりの量を吸わされたか、あるいは強毒か……!
息を吐き、止める。
徒士谷真歩の無呼吸活動限界可能時間はおよそ十五分。
しかし、それは十分に深呼吸し、かつ、肉体が万全な状態の時に限る。
既に肺に取り込んでしまった毒を全て吐いてから息を止めた。
ならば活動時間は五十秒を切るだろう。 --絶命までのカウントダウンが始まった。
残り少ない命の宿へと飛ぶ際に、制服の一層ーー毒の発生源となっている布を≪捨て置き≫飛んだ。
≪東海道五十三継≫は衣服や所持品等、持ち運びできる程度のものであれば一緒に瞬間移動することが可能。
ーー裏を返せば≪持って行かないこと≫も可能。
腿丈のレギンスと血の滲んだブラウス姿となる。
雨が降り続く。
叢雨の残弾はまだ尽きぬだろう。
ビニール傘の特性を強化する能力だ。
軽さの特性を強化し、持ち運べるだけ持ってきているの違いない。
エイジが要約した魔捜研の分析資料を見た。
理論式上、一万本近い傘を持ち込めるそうだ。
だが、現実的な条件を重ねていくと、三百程度が限度でないかと予想が立つという。
避けながら、削られながら、数えていた。
まだ百五十、半分撃ったかどうかという段階。
残弾と命の削り合い。このままでは命が先に尽きるだろう。
いや、それより先に尽きるものがある!
二川! 白須賀! 新居! 舞坂! 浜松! 見付! 袋井! 掛川! 日坂! 金谷!
ーー刻一刻と消えていく!
島田! 藤枝! 岡部! 鞠子! 府中! 江尻! 興津! 由比! 蒲原! 吉原!
ーー≪東海道≫が……消えていく!!
原! 沼津! 三島! 箱根! 小田原! 大磯! 平塚! 藤沢! 戸塚! 程ヶ谷!
ーー 三の宿 神奈川 消滅
ーーーー 二の宿 川崎 消滅
ーーーーーー 旅立ちの宿 品川 消滅
≪東海道五十三継≫ーー全滅!
街道の外で氷雨に打たれた旅人の末路が徒士谷に迫る。
真歩は歯噛みした。
前方に生存可能領域がある。
だが、あからさま過ぎる。
確実な罠。それでも、そこに逃げ込まねばならぬ。
それほどまでに追立てられている。
その悔しさ故の歯噛み!
意を決し、踏み込む。
待ち受けていたのは傘の投げ槍。
曲射し、雨となしていた傘のーー直線投擲!
同時に八射!
ーー刀を振らねば、死ぬ!
傷を押さえていた右手で致命の軌跡にある三射をいなす! 傷口が開き、血液が噴出する!
四射は深く体を抉った!
そして残る一本が、徒士谷の頭部を刺した!
ぐあんと、真歩の頭が後ろにのけ反る!
しかし! 徒士谷歯で、口で! その一投を止めていた!
ガチンと強化された傘の先端を噛みちぎり、吐き捨てた。
この時、ようやく一時だけ雨が止んだ。
叢雨はこの投擲に重きを置いていたのだろう。
徒士谷がのけ反ったことで、仕留めたと思い、油断が生じたのだろう。
延々と降り続け、行きつく暇すらなかった殺意の雨の間。
この僅かな晴れ間の中で徒士谷がとったのは、非合理極まりない行動だった。
それでも、彼女は叫ばざるを得なかった。
怒りが、彼女を突き動かした。
「外道に堕ちたかァーーーー!!! 叢雨雫ゥーーーーー!!!」
戦術意図なき、ただの罵声。
ーーその見解に自信はあった、十年の積み上げがあった。
ーーその見立てに命を賭けても良いと思った。
共闘しようと手紙を書いた叢雨を信じた。
その末路がこれならば、恨まずにはいられなかった。
だが、叢雨はその渾身の言葉を聞き……一瞬だけ、≪困惑した表情≫を見せた。
徒士谷の思考が急速に冷えていく。
晴れ間はその一瞬のみ、また殺意の雨が降る。
もうとうに毒はまわりきっている、生存領域はない。
ーー徒士谷真歩は既に詰んでいる。
あとは肉を削りながら命を削りながら……耐久がどこまで持つかの話となる。
その苦境の中で、徒士谷ーー探偵・徒士谷真歩は高速で頭を働かせる。
困惑した表情、嘘ではない。 あの局面でそんなブラフを張る意味がない。
そもそもあいつはそこまで器用な真似ができない。
ならば、何故叢雨雫は困った? ーーそうだ、心当たりが無いからだ。
外道と言われる所以がわからなかったからだ。
あいつは……≪正々堂々私と勝負しているつもり≫でいる……!
「(ちく……しょう……っ!)」
「手紙を出しておいて、何故不意打ちを行ったか」と咎めた。
それは見当違いだった。
≪叢雨雫は手紙など出していない≫
かがりが「叢雨雫と名乗るスーツの女」と言ったから、
手紙の内容が叢雨を感じさせるものだったから、差し入れの飴が私と叢雨しか知らない思い出の品だったから。
どれも、手紙の主=叢雨雫と確定させるには足りない。
私も叢雨も露出の多い魔人だ、調べれば口調や関係性、経歴などいくらでも探れるだろう。
それに飴は複数の物を並べて、選択者の動向を探るーー典型的な悪質占い師の手口じゃないか……!
疑い始めればきりがない、あの日かがりを迎えに行くタイミングで入った緊急ミーティング、
都合が良すぎる。
かがりをあんなに長時間放ってしまったのは、あの日くらいのものだ。
真野討伐を任されたタイミングもそう。
利害の一致ーー手紙を信じたくなるような時に合わせてそれは来た。
何もかもがあまりに出来すぎている。
かがりに詳しく状況を聞いていれば、手紙を筆跡鑑定に出していれば、この事態は避けられた。
それに、叢雨の性格に対する見解……っ!
『事前の搦め手を打つような精神性はしていない』
あいつが今まで私に頼ったことがあったか、向こうから手を組もうと言ってきたことがあったか!?
あいつは何かと一人で戦おうとする奴だったじゃないか……!
なんたる……間抜け。
決定打は手紙の一文。
『よう! ≪久しぶり≫だなクソババア! オレだ!』
≪久しぶり≫とはなんだ……! たった三日前に、夢の国で会っただろう!
手紙の作成者が調べきれない偶発的な遭遇。反映できなかったんだ……!
夫なら、こんなポカはしなかったはずだ。
不自然なミーティングのタイミングで違和に気付き、手紙を証拠として押さえたはずだ。
私が名探偵なら、こんなことにはならなかった。
私が知らず、叢雨も心あたりのない手紙ーー!
警察の上の者を動かせる力を持つ人物ーー!
私と叢雨を対消滅マッチングさせて、得のある者ーー!
それはーー!
「(なんたる……不覚ッ! 犯人はーーあたし、大間抜けは……あたし!)」
心の崩れに比例して、体も崩れていく。
もう徒士谷真歩は立ち上がれない。
無理を承知で、血を犠牲に、攻撃を受けながら停戦を叫んだ。
無論通るはずもない。そのように鍛えた、戦場ではシビアであれと教えた。
この局面でーー私ができることはただひとつ。
徒士谷真歩は体を守る内功を解いた。
ピンと背筋を張り、目を見開いた。
戦士の選んだ道は、戦術的即死だった。
叢雨と相打ちをとる余力は残していた。
だが、それでは共倒れになる。
そうなって喜ぶ者の策中にあるのだ。 思い通りになってたまるか。
ならば、一番嫌がる手は何か。それが即死。
余力を残した叢雨をぶつけてやるのが最善……!
飛ぶ斬撃が、迫る。
「(ーー怒鳴って悪かったな、叢雨)」
圧縮され、静止したような時間の中でーー。
ーー迫る死の前に思い出すのは娘の姿だった。
下校の道すがら、夢の国、授業参観。
最近のことから順々に、思い出されて行く。
授業参観のこと。
どうみてもいつも以上に手をあげて、熱心に勉強に取り組むかがりがひたすらに可愛くて、
帰りはご褒美に外食に行った。ちょっとおしゃれなファミリーレストランだった。
ママに授業を≪見られてるから≫って、はしゃぐーー
ーーガンと、殴られたような衝撃
≪見られている≫ ≪見られている≫ ≪見られている≫
最愛の娘、かがりが、この試合を見ている。
◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇
夫の葬式は慎ましやかに行われた。
ドタバタ日が続き、実家の復旧作業にあったていた時の話だ。
母が私用ででかけるとのことで、あたしとかがりだけが実家に残された。
夫が死んだ日、かがりはわんわんと泣いた。
が……それっきりだった。
あれから一週間経ったが、今日まで泣いているところをみたことがない。
それどころかクルクルとよくお手伝いをしてくれて、明るくすらある。
あたしは素朴な疑問を抱き、娘に尋ねた。
「かがりは強いね……! もう悲しくないの?」
すると突然、ぎゅううとかがりはあたしに抱き付いてきた。
やっぱり悲しかったんだ、甘えたかったんだと、安堵するあたしにかがりは言った。
「ごめん」
何故謝られたのか分からずいると、しゃがむように促された。
わけもわからずしゃがむと、またかがりが抱き付いてきた。
あたしの頭を包むように。
「あたしだけ泣いちゃって……ごめんね
ママはちゃんと泣いた?」
そういえば、泣いた覚えがない。
あたしの中で夫の死は数ある事件のひとつとして処理されていた。
年に星の数ほどもある殺人事件に、いちいち泣いていてはキリがない。
ーーだが、娘の言葉を聞いてわかってきた。
無意識にそうしていたことを。そうでなければ耐えられなかったことを。
「ごめんね……ごめんね……!
一番悲しいのはママなのに、先に泣いちゃって……」
母は家にいない。娘と二人きり。
震える娘の声が……あたしに共振した。
ぽつり、ぽつりと、被害者・徒士谷ジェイムズではくーー夫・徒士谷ジェイムズとの記憶が蘇る。
高校同級、進学、同棲、妊娠、結婚、子育て……!
人生の半分以上を共にした仲だった。
たくさん喧嘩もしたけど、その何倍も、うんと愛された。
『……そんな顔をしないでくれよ。今度はもう無茶はしないし、必ず話すよ。絶対だ』
あの日がーーあの晩の温もりが最後になるなんて思っていなかった。
必ず話すって言ったくせに……! 無茶はしないって言ったくせに……!
だから、あまりに唐突過ぎて、現実感がわかなかったんだと思う。
封じ込めていた感情が、意図的に殺していた感情があふれ出してくる。
娘に弱いところは見せまいという想いがあった、吐き出す場所が無かったという事情があった。
それでも、泣きたいと思う気持ちに私は嘘を突き通した。
「ママだって、泣いてもいいんだよ……! 悲しくないはず……ないじゃない!」
それを娘はーー名探偵の血が流れた娘は、その嘘を一発で言い当てた。
そんなことをされてはもう、たまらない。
名指しされた犯人はつらつらと動機を話すものだ。
結局二人してわんわん泣いて、戻って来たお母さんに心配されて……!
ーーそしてその日、あたしは誓ったんだ
◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇
夫が死んだ日のことが、徒士谷の脳内に回想された。
娘かがりが切断された足を心配していたことが思い出された。
あの子が泣くところなんて、悲しむところなんて……もう、見たくない!
あの日徒士谷は誓ったーーかがりのために、何があっても生き抜くと。
かがりが見ている前で、例えそれが仮初の死であったとしても、死ぬわけには絶対にいかない。
「(死ねっ! ーーないっ!!)」
圧縮されていた時間が動き出す!
迫る刃! 内功を再発動! 既に不能となっている左半身を差し出す!
左腕と肋骨を受けに使った、左腕は飛んだが致命の傷を避ける。
続く反射散弾はなす術なく受けるも、意識を刈り取られるには至らない。
雨の雫と雫の合間!
そのほんの一瞬の隙間で、徒士谷は動いた。
「(出来ることを一歩一歩)」
叢雨を倒す。真野を倒す……は到達すべき最終結論だ。
今すべきことは何か。踏み出すべき一歩目はどこか。
それは離脱、この死地からの脱出!
「(娘のためだ! 力を貸せッ! ジェイムズ!!)」
居合の逆! 高速納刀! ーーからの、仕込みステッキの鞘射出!
腹の傷から血が噴き出すが、構わない!
叢雨の逆方向、徒士谷の後方を抜け、その鞘は飛ぶ!
おお、見よ! それこそが≪日本橋≫!
五十三の宿場がすべて潰えても、決して消えて無くならぬ、心にかかる、旅立ちの橋!
魔人能力ーー≪東海道五十三継≫、発動!
叢雨を仕留めるべく温存した秘策を、離脱のために投げうつ!
その鞘は、この戦いに臨む遥か以前に踏みこみ、≪東海道≫と化している!
どの土地よりも最も早く≪東海道≫となった地! 傍にありながら、心の支えとなる虹の架け橋!
徒士谷真歩の姿が傘に囲まれた処刑場から離脱しーーそしてッ!!
「ーージャックポット」
二発の銃声。
徒士谷真歩の跳躍にーー跳躍後のわずかな硬直に合わせて射出されたその弾丸。
飛ぶ方向が分かりさえすれば、クレー射撃に当てる腕前さえあれば、
どれだけ非力だろうが、非魔人だろうが、徒士谷真歩≪ばけもの≫を殺害できる。
一発目は本命、側頭部を捉え、紅い花を咲かせた。
後詰めの二発目は肩を抜いた。
真野が銃を攻撃手段として使うのは異例中の異例。
それは通常、脅しの手段にして、交渉のテーブルにあがるためのドレスコード。
それほどまでに、異例な……逸脱した戦士が、徒士谷真歩という存在であった。
ぐらりと、糸が切れた人形のようにまわった真歩は、間もなく石畳に倒れ伏した。
■
<8>
転送直後の叢雨雫は即座に≪傘アンテナ≫により索敵を行った。
事前のうちに考えはまとまっていた。
狙うべきは最速速攻!攻撃対象はクソババアだ!
真野金の戦いは、理解が及ばなかった。
正直に言って、それほどの脅威に思えなかった。
体術も並以下、決着もよくわからない。
と、すれば、既知のーー絶対に放っておけない脅威に対処すべきだ。
「(出来ることを一歩一歩……だ!)」
≪東海道五十三継≫ -- 徒士谷真歩の持つ、魔人能力。
刻一刻と脅威を増すその能力。
出鼻をくじく以外に有効な対処手段を見いだせていない。
しかしこのレギュレーションだからこそ、勝てるチャンスがあると叢雨は考えた。
都内はすべてババアの≪東海道≫と化している、
その点≪東海道≫と化していない土地で戦えるだけで全く前提が違って来る。
かつて考案して「東京都の地面を全部掘るわけにはいかない」という結論に至り廃案となった、
土地破壊・能力封殺案を再考。
作戦期間のうち二日は遊園地で過ごし、ババアがよくやる緊急退避に使えそうな場所を探った。
残りの日程は山に籠って、ひたすら土地破壊の練習に努めた。
傘術の先を行くジャージ師匠に習って、二本しか同時に投げられなかった傘を八本まで投げられるようになった。
その後、狙いのところに八本を収束させられるようになった後は、組手をひたすら行った。
ジャージ師匠が魔人警視流をラーニングして、スパーリングパートナーを務めてくれた。
結果は散々で、結局「≪万全の≫徒士谷真歩には勝てない」という結論しか得られなかったが、
それはそれで収穫だった。
決して超えられぬ天まで続く壁ではなく、
≪なにかの拍子にまぎれがおきれば超えられない山ではない≫と思えるようになった。
索敵開始直後、足音がした。
「(ざけやがって……! ぶっ殺す!!)」
徒士谷は叢雨の能力を知っている。
何度か前の対戦で、音による索敵の返しとしてすり足を打ち出している。
それなのにあえて音を鳴らすということは、完全に誘い出されていると感じた。
それでも行くしかない。時間を与えれば≪東海道≫は増殖し、手が付けられなくなるのだから。
移動中も音を確認した。
足音で、だいたいの位置を判断し、下調べした逃げ込みそうな箇所を特定した。
会敵前、その周囲に向かい、八本ずつの傘を放った。
今回持ち込んだ傘は限界一杯、およそ三百、これが尽きる前に倒さねばならぬ。
ショッピングエリアでの補充は時間がかかるため見込めない。
とにかくーー短期決戦だ。
会敵までの時間もカウントした。
27秒で会敵。ババアの能力強度は知っている。
それで広げられた≪東海道≫の範囲にも、音と合わせ想像がつく。
かなりいい状態で開戦できた。
要所潰しの他に、既に上方に傘を投擲し終えている。
≪崩天・叢雨≫
東海道潰しの為に叢雨が編み出した秘策。
≪アメノハバキリ≫
ババアの居合を盗み見て、能力をブレンドして完成させた中距離戦の切り札。
二つを同時に必殺を切るーースペシャル合わせだ。
師匠との特訓の中でーー魔人警視流をラーニングした師匠が最も嫌がったのがこれだった。
魔人警視流はほぼ近距離格闘の詰め合わせ、そこに≪東海道≫が乗ってはじめて、
遠近自在の暴力の権化となる。
故に、初手である程度≪東海道≫さえ潰しておけば、魔人警視流には射程の暴力が通用する。
なんでもありだと思い込み、課題としていた魔人警視流”忍術”は、
その実、現実ベースの地味なものだと、師匠のラーニングで明らかとなった。
やぶれかぶれの特効めいた初手は、何故だかババアに当たった。
拍子抜けだった。一瞬自分の目を疑った。
師匠との模擬戦では、嫌がりはしたものの、ちゃんと当たったことはなかった。
まぎれがーー起きた!
もう後は、しっちゃかめっちゃかに傘を投げるだけだ。
時折≪アメノハバキリ≫を織り混ぜる。
≪ハバキリ≫で射出するのは、飛ばし易い濃度に希釈した洗剤。
次弾で希釈した漂白剤。 これを交互に行った。
コスパ最強のビニ傘によるコスパ最強の毒殺攻撃。
あの徒士谷真歩に勝てる!
あの徒士谷真歩に!! 徒士谷真歩に!!
無我夢中で傘を投げ続けた。
近接されれば勝ち目は無い。
投げて、投げて、投げてーー!
残弾が尽きかけた頃、ババアが消えた。
まだ≪東海道≫が残っていたのかと--行先を探そうとした瞬間、銃声が鳴った。
■
叢雨雫が倒れ伏した徒士谷真歩を目視した。
自分が倒すはずだった、それを横取りされた。
十年の仇敵だった。 絶対に自分の手で倒したかった。
「(真野ォ……!)」
静かな怒りを燃やす。
しかし、その挙動は冷静そのものだ。
銃弾の出所がわからない以上、無暗に動くは下策。
なればこそ! ≪傘アンテナ≫ーー初手索敵!
ーー直後、耳をつんざく轟音。 爆発音だった。
館内BGMの音量との兼ね合いで、索敵感度を上げていなかったがために、
叢雨は生を得た。 感度次第では脳を焼かれていた。
爆発のおかげで、おおまかな位置がつかめた。
入場門の右の林。
傘を前方に開きーー音の下方向からの銃撃を警戒を行いつつ、林に向かい駆ける。
チラリと、夕日の差す木々の間に人影が見えた気がした。
≪アメノハバキリ≫
傘袋から鞘走り、林をーー断つ!
豪快な伐採! ずるり滑るように木々が倒れてゆく!
その最中チカチカと林が光った。 そして、またしても林が爆発!
「(ーーなにか……仕掛けてあったな……?)」
林の奥……飛ぶ斬撃の射程外に人影。
「ヒッ……!! 来るんじゃねぇ……! 化物! 人殺しィ……!!」
罵声を吐きながら男は逃亡する。 林の奥の建物に向かって。
その姿ーー嫌というほど繰り返し見た映像と一致する。
不気味な男だ--とは叢雨の所感。
決して体術に秀でるわけではない、言動も酔っ払いやチンピラのよう。
それなのに、ふらりと一回戦を勝ち抜いたというその実績が不気味さをより強固にしている。
追って来いと言わんばかりの走りに、何か歯車に組み込まれてしまったような不安を覚えながらも、
ヒーローは定石を打つ。
敵影を追う。見つけたならばそこで断つべし。
林を抜ける速度がやや、ゆるやかになる。
先の爆発と発光が、叢雨に心的負担をかける。
戦速を落とすための手だとわかっていても、警戒を怠るわけにはいかない。
鋼線のパンジステークを潜り、それに連動したブービートラップを抜け、林をひた走る。
先行する男が建物裏の小さな出入り口から中に入った。
「来るなァー! このっ……人殺しィ!!」……という台詞を残して。
やや遅れて、叢雨も建物の前へと到着する。
叢雨はなんとも言えない圧迫感を感じている。
追っているのは自分のはずなのに、追い立てているはずなのに……!
何かが……何かがおかしい……!
建物の中へ入るのは抵抗があった。
≪アメノハバキリ≫
建物を崩落させて圧殺できないかと試みるも、
遊園地の極めて高い安全設計ーー魔人学校をも凌駕するその固さが、無粋な手を許さない。
「ちっ……! 行くしかねェのかよ……!」
どんどんと募る不安を押し殺し、ヒーローはドアに向かって傘を投げた。
ドアが爆発した。 ノブに手榴弾が仕掛けてあったのだろう。
■
建物の中は薄暗い。
宇宙を題材とした室内コースター。
叢雨の下見では立ち入れなかった領域。
薄暗く、立体的でありながら、その全容はつかめない。
これまでのトラップ攻勢の観点から、地の利は真野にあるように思えた。
「追って来るんじゃねぇ……! やめろ……! 殺さないでくれ……!」
闇に乗じて、どこからともなく声が聞こえてくる。
「(くっそ……! やりづれぇ!!)」
叢雨は、傘をバラバラっと10本放った。
≪十連傘占い≫
音の索敵が封じられている時の次善の手。
占いの精度を強化した傘……といっても、
元々傘占いという行為自体がダウジング程度の探索性能しかないので、大して的中率は高くない。
それでも十本も投げれば、偏りが発生し、ある程度の索敵ができる。
「そこだァーーーー!」
≪八連傘槍投げ≫
ギィンという金属音がした。
「ヒィッ! やめろ!」
悲鳴、どれか一発でも当たったのだろうか?
「オラァ! オラァアアア!!」
≪八連傘槍投げ≫ ≪八連傘槍投げ≫
金属音が奏でられる。
「ヒィ……! ヒィ……! ヒヒッ!」
「何笑ってんだゴラアアァ!!」
≪八連傘槍投げ≫ ≪八連傘槍投げ≫ ≪八連傘槍投げ≫
「はははははっ! ははははははははははっ!!」
「……ッ」
「いいのか……そんなに無駄打ちして……えぇ?」
「るっっっせぇ!!」
≪アメノハバキリ≫
ギィ―ンと、金属をこするような音がした。
「(なんだ……なんなんだよ……!)」
ーー叢雨は知らず知らずのうちに絡めとられている。
≪傘アンテナ≫は手榴弾で封じられている。
≪アメノハバキリ≫は室内戦で封じられている。
≪無尽蔵の水弾≫は水の無い戦場へ誘導されて封じられている。
≪傘ゴルフ≫は室内戦で封じられている。
≪落下傘≫は薬品融解で封じられている。
≪反射≫は飛び道具を控えることで封じられている。
一回戦で見せた応用だけではない、まだ見せていないーー叢雨自身が気づいていない応用さえも、
既に先回りして潰されている。
それは魔人能力だけではない、身体的特性、性格、ファイトスタイル……諸々の強みを、
既に握りつぶしている。
真野金の本質は思考力。
まるで詰将棋のように終局まで読み切る力。
それはもっとも省エネルギーな手を見つける力。
真っ向から倒せぬ強敵には戦わせぬ事前策を打つ。
しかし、この叢雨雫程度の相手ならば、それは過剰なエネルギーだ。
少しだけMAPを整え、少しだけ準備を整えれば制することのできる相手。
闇の英雄の戦は、常に大がかりな大逆転劇だったわけではない。
そこには十把一絡げの雑魚散らしも含まれる。
この戦いはそれに当たる。
この建物に入った時点で……否、真野と対戦が組まれた時点ではじめから勝機などなかった。
「ごめんな……えっと、誰だっけ、ああ、そうか……」
「(どこだ……! どこから来る!)」
「誰でもいいか、もう終わりだ」
至極つまらなそうに、真野はそう言う。
彼には最初から……最初から全て見えている……!
カッ……と、薄暗い空間に慣れた叢雨の目を閃光手榴弾が焼いた。
二発の銃弾、見えないながらも頭部を傘によって守っていた叢雨。
しかし、それは布石。既に投げ放たれていた対魔人手錠が、叢雨の足と支柱を繋ぐ。
宇宙船がワープする時のような音が流れ出す。
「グッ……ガァアア!!」
まだ目の明かぬ叢雨は傘の盾で頭部を守りながら、
もう片方の手で傘を振り回す
「アンタがあんまりにもゆっくりだったから、もう仕掛けが終わっちまった……!
降参をおすすめするぜ……! この先は、ただ痛いだけだ」
建屋内が僅かに振動しだす。
「1回戦見たよ……! 素晴らしかった……、バケモンみたいな能力だよな……それ」
ビニール傘を指差す真野。
「特にあそこがよかった……あの、水柱をはじくやつだ……!
師匠が得意だったんだよ、難しい計算みたいなやつがな……!」
建物の振動が増していく!
「で……俺も師匠の真似して計算してみた。
ひっさびさに電卓たたいてみたんだが、どうかな、答え合わせさせてくれよ
俺の予想は……『たぶん無理』だぜ」
「なんのッ……話だッ……!」
「さっさと降参しろって話」
真野は一発の銃弾を放った。
頭上に仕掛けていたプラスチック爆弾が炸裂し、建物の一部が破損した。
そこに、屋内を騒がせていた室内コースターが到達!
破損した建物の一部ーー破れたレールから、走行速度と自重を乗せて叢雨に降り注ぐ!
「弾いてみな、ヒーロー」
「ヒィィィロォォォシェルーーーー
ズンと、爆音めいた落下音がヒーローの慟哭をかき消した。
■
「わかるぜ……それ、いてぇよな……!」
「うるっ……! せえっ……!」
壁にもたれかかる叢雨雫、右手には≪見えざる傘の槍≫が握り締められている。
そして着目すべきはその足だ。
質量圧殺から逃れるため、手錠をかけられた足首を切断し難を逃れた。
「でも……俺は地雷でやられたのに比べて、お前は自力で切ったんだろ……?
こええことするよな」
そんな会話に気を引きつけておきながら、抜け目なく真野は懐から水風船を取り出し投擲!
空中で打ち抜く!
白い粉が、叢雨に降りかかる。
毒を警戒し、息を止める叢雨。
「ははっ……ハズレだ、これはな……念のためってやつ」
チラチラと降る粉が、叢雨の≪見えざる傘の槍≫をすり抜けて落ちる。
「どうせブラフだろうと思ったが、≪念のため≫
逃げるときにあらかた落としちまったんだろ……? なぁ」
真野が銃を向ける。
「まだやるのか……? もう、十分頑張ったろ?
こっからは更に痛いだけだぞ……?」
真野にはもう、とっくに終局の絵が見えている。
「5!」
カウントダウンーー開始。
「4!」
「3!」
「2!」 --銃声!
叢雨は胸ポケットに隠し持っていた折りたたみ傘で、畳んだまま、銃弾を弾く!
ビスッと小さな音がして、真野の眉間に着弾する。
「ーーあ゛? ああああああっ!?」
仰向けに倒れ込みながら、真野銃を乱射!
追い打ちを! 確実なトドメを刺すべく、手早く傘を組み立て、槍投げの体勢に入る叢雨!
ーーカィン
硬貨の落ちる音がした。
バツンという何かが弾けるような音。
ーー真野倒れ際に放った弾丸は、的確にケーブルを切断していた。
コースターに動力を伝える電線に。
蔦状に落下したそれは真野と叢雨の間を通ったが、傘を持つ叢雨に誘電した。
家庭用電源やスタンガンなどの比ではない高電圧が叢雨を焼いた。
一方眉間を撃ち抜かれた真野は軽く勢いをつけて起き上がった!
「いってぇええええなぁあああああ ちくしょう!! だから降参しろっつったんだ!!
もう負けてんのに……テメェがクソみたいに粘るから!! クソが!!」
真野は事前に細工した銃弾を作成していた。
自分を追い詰めるために。
イデアの金貨は、≪逆転≫のアイディアを思いつき、≪必ず勝利≫する能力だ。
発動には≪逆転≫ーー前提として、劣勢となる必要がある。
だから真野は準備した99%勝ちの決まっている戦いを、100%にするために。
不殺の弾丸で「眉間を撃たれた!」というエセの劣勢を作り出し能力の発動条件を満たしたのだ。
絶対勝利が確定した。
真野は叢雨が今後何をしようと負けることはない。
揺るがざる未来が確定したのだ。
バリリっと、炭化した瞼を無理矢理ひらいた叢雨の焦点は、もはや真野を見ていない。
「そんなになって、かわいそうにな……! だから言ったんだ、降参しておけって、何度も何度も」
強みを潰された。
叢雨雫は何もしていない。 全く、何もできなかった……!
「バケ……モノ……!」
「はっ! ははははははっ!! 聞いたか宇都木! 傑作だ! 化物が化物っていいやがったぞ!! 宇津木ィ!」
もはや生命維持すらままならぬその体で、ヒーローは、叢雨雫は薄く笑った。
「ーーテメェじゃ……ねぇ!」
ーーードッ!
真野の背中に衝撃が走る!
叢雨は真野を見ていなかった! その後ろに現れた人物しか目に入っていなかった!
真野の背中に投げつけられたそれは、鞘!
「る!」
「お!」
「らあああああああああああああああああああああッ!!」
徒士谷真歩・現着!
ーー魔人警視流“居合” 天狗乃太刀!
乾坤一擲! 朽ち行く体を代価として放った! 今試合初撃にして最終攻撃!
しかしそれは、一振一殺の撃剣理念を体現した一振り!
「……バッド、ビート!」
真野の上半身が宙を舞った。
ーーしかし、カメラに映らぬよう帽子に隠された口元は笑っていた。
■
「おい叢雨ェー! ここまでこれるか?」
うつ伏せになったまま、徒士谷真歩はトントンと自分の右前のスペースを指でつく。
「アァッ? もうちょっと休んだら立ち上がれると思うけど……なんかあんのか?」
「いやな、さっきの一振りで、もういろいろ出ちゃってて……ちょっと、もう、動けないんだわ……!
寝返りでも、打とうもんならさ……かがりに一生もんのトラウマ植え付けてしまうことになる」
「アァ―ン? だから、なんだよ……!」
「だから、ここまで叢雨が来てくれたらさ、こう、えいって頭を潰してあたしの勝ちにできるなぁ……と」
「こええええよ!! 『わかりましたー行きます!』とはならんぜ ババア!」
「ハッ……! じゃあ、あたしの負けかよ……! あーあ、かがりにかっこいいところ見せたかったのにな」
「……まぁ、そのよ。見所はあったんじゃねぇの? 最後とか、まぁまぁカッコ良かったと思うぜ、ヒーロー的に考えて」
「えー、お前に言われてもなー……かがりに言われたい……!」
「ハンっ! うるせぇよ、クソババア!」
■
<10>
大会から数日後。
深夜の船着き場。
「勘が……いいな、爺さん!」
「真野……なんだこの船は」
「いや、試しに吹っ掛けたら、吹っ掛けたまんま送られてきてよ……!
あの娘ーー思ったより箱入りだったようだぜ」
「真野、お前、その喋り……まさか……!」
「なんだよ、気付いてなかったのかよ
『ジャックポットパンチ』に『ハッピバースデー』だぜ、ふざけてるにきまってんじゃねぇか……!
てっきり合わせてくれてんだと思ってたぜ」
「真野ォーーー!」
「ははっ、どうする、一緒に来るか?」
■
<リザルト>
徒士谷 真歩ーーGO2回戦敗退。娘にめっちゃくちゃにおなかをさすられる。
叢雨 雫ーーGO2回戦に勝利。3回戦へ駒を進める。
真野 金ーー無益な大会から無事撤退。資金と足を調達し、世界に戦場を移す。
宇津木秋秀ーーGO運営を辞表を提出、真野を追って世界に戦場を移す。