プロローグ(常磐 糸吉)
浮遊感。そして、酸素を失ったかのように一瞬だけ意識が眩む。
次の瞬間、常磐 糸吉(じょうばん・いときち)は、巨大な円卓の置かれた石壁の部屋の中にいた。豪奢なタペストリーに調度品。壁にはその権力を誇示するかのように、幾つもの板金鎧が飾られている。
(――古城フィールド。悪くない)
歴史を感じさせる光景だが、このフィールドはその実、この試合のためだけに魔人能力で作られた、限りなく真作に近い精巧な贋作(ハリボテ)だ。
名前を、あるいは姿を借りた、空っぽの書き割り。
まるで自分のようだ、と糸吉は思う。
巨大な建築物を一瞬で創り出すことのできる魔人能力者を、まるで裏方のように使い倒すこの武闘大会の名は、グロリアス・オリュンピア。
浮遊都市エプシロンの王女、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=イプシロンのために開かれた、国を挙げての一大イベントである。
優勝者には賞金5億円と、死者すら蘇らせるオーパーツめいた技術力を誇るエプシロンの王女に「願いをかなえてもらう」権利が与えられる。
この破格の条件に、多くの魔人たちが参加者として名乗りを上げた。
糸吉もまた、優勝で得られる権利に惹かれて参加した者の一人である。
文字通り、これまでの様々な大会、または裏社会での暗躍で名を知られた猛者たちがひしめく中、大会運営委員会の中枢役員『五賢臣』は、「審査」のため、一部エントリー者を対象に予選を開催することを決めた。
『五賢臣』の誇る情報網に基づく経歴審査の結果「実力不足の可能性あり」と判断された者に対し、実戦に近い形式での予選試合が開かれることになったのだ。
彼の雇用主などは、「『白鞘の糸吉』がこんな扱いでいいの!? ふざけンじゃないわ! 親父に言いつけてやるから!」などと憤慨していたが、糸吉本人としては、妥当な扱いだと思っている。
なにせ、糸吉が鉄火場で活躍していたのは十年も前の話だ。今では組長の娘の下で犬探しだの浮気調査だのにいそしむ、うどの大木である。
むしろ糸吉が気にかけていたのは、この予選試合の対戦相手のことであった。
得寅 万太郎(うるとら・まんたろう)。若き魔人空手家であり、魔人総合格闘技において活躍中、実力派で知られた青年だ。糸吉もテレビ中継で試合を見たことがある。
そんな有力者すら、「実力不足の可能性あり」と判断されているのが、この大会のレベルなのである。一体、シードの連中はどんな魔人(バケモノ)揃いなのだろうか。自分の願いを阻む高く分厚い壁に、気が遠くなる。
(まあ、ここで勝たないとそもそも始まらないんだけれどなあ)
改めて糸吉は周囲を警戒する。対戦相手、万太郎の姿はない。物音もないところからすると、近くに転送されたわけではないようだ。
糸吉にとって、この配置は好都合だった。
糸吉の能力は真正面での戦いには向いていない。それを覆すためには、できるだけ小細工をしておく時間が必要なのだ。
フィールドへの転移に伴う自らの状況を確認する。身を包むコートはもちろん、装着したインカム、その内側に着込んだ対弾防具、愛用の白鞘、ホルスターに差した『緋星』――マカロフPMカスタム、ポケットの古銭入れ(こぜにいれ)。トランクに詰め込んだ爆薬、工具、その他各種ツール。全て異常なし。転移に伴う平衡感覚の乱れもなし。
インカムは何も音を発しない。この予選試合においては、本人の力を試すという意図か、通信封鎖がなされている。雇い主にして後見人、座錬 切(ざねり・きり)の支援は受けられない。
糸吉は右の手袋を外すと、転移させられたばかりの古城の床へと手のひらを押し付けた。
『尺取虫』――発動。
魔人能力『尺取虫』。それが糸吉に備わった異能の名。
念じて触れたものの情報を『計測』する、基本、それだけの能力だ。
まずは様子見で戦場を把握する。その程度の気持ちで行使した能力だった。
だが、糸吉の予想をはるかに上回る情報の奔流が一瞬で脳へと流れ込んでくる。
(しまっ……!)
糸吉は自分の失策に気が付いた。
『尺取虫』で一度に『計測』できる情報量は、対象が積み重ねてきた時間によって希釈される。
この古城が本物……たとえば築三百年のものであったならば、一度の接触で『計測』できるのはおよそ全情報の10万分の1程度。本当に些細なものだっただろう。
しかし、この古城は贋作。魔人能力により作られた、生まれたばかりの存在。つまり、構造、材質、歴史的背景、設置構築物、各部屋の用途等この城を構築するあらゆる情報が、一瞬で糸吉の脳にねじ込まれることになったのだ。
構造――『計測』完了。材質――『計測』完了。設計理念――『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了。『計測』完了『計測』完了『計測』完了『計測』完了『計測『計測『計測『計測『計『計『計計計計計計計計計計計計計計計計計計計計計計計計――
激痛。神経が爆ぜる。融けた金属を脳から背骨にかけて注がれた。
錯覚だ。情報の渦が呼び起こす実体のない痛覚反応だ。それは理解している。それでも無視できぬ幻痛。糸吉は白鞘を握りしめ、絶叫を飲み下す。
叫んではならない。この無防備な状態を敵に知らせてはいけない。
叶えたい願いがあるのだ。
この大会でなければ、実現しない誓いがあるのだ。
『――■■、知ってる? 尺取虫に体中を測られると、死んでしまうんだって』
『可愛いのにね。一生懸命動き回って■■みたい。結はね、尺取虫、好きだよ?』
過負荷に脳が、かつての記憶の断片を想起する。
それは、手にした力の出発点。
それは、手放した命の終着点。
幼さ。無邪気。それ故の罪。覚醒。
幼さ。無邪気。それ故の罰。喪失。
情報の奔流を飲み下すまでのしばしの間。
常磐 糸吉は、そんな、終わりの始まりの、夢を見た。
◇ ◇ ◇
いったい、何が起きている?
理解できない。思考が追い付かない。想定がまとまらない。
戦場となった古城を、白の道着に身を包んだ青年が走り抜ける。
炸裂音。古城の中で反響が消える間に、石柱が、飾られていた板金鎧が、立てかけてあった槍斧が道着の青年へと倒れこむ。
どれ一つでも、直撃すればただではすまない質量。単純だからこそ厄介で対応が限られる障害だ。
――能力発動『三分間の英雄(パートタイム・ヒーロー)』。
加速、2秒。道を塞がれる前に道着の青年――得寅 万太郎(うるとら・まんたろう)は障害物をかいくぐる。
能力限界時間残り、2分28秒。
爆発、爆発、爆発。
その度に、万太郎は能力を発動する。
筋力増強、1秒。のしかかる板金鎧をいなし。
反応力増強、3秒。ばらばらと迫る槍斧を避け。
耐久力増強、――継続。倒れこんでくる石壁――この面での攻撃は避けきれない――を真正面から受け止める。
みしり。ドミノ倒しのように倒れてきた石壁の下敷きになっても、魔人能力『三分間の英雄』で強化された耐久力は、圧倒的な質量から万太郎の肉体を守り抜いてくれた。
残り、2分19秒、なおも刻一刻と、万太郎の能力発動の限界時間は減少していく。ジリ貧というやつだ。
くそ。万太郎は心中で毒づいた。この適切な爆破タイミング。対戦者は間違いなく万太郎を見ている。この古城のどこかから、彼が走るのを観察している。
万太郎は石壁の下敷きとなったまま闇の中で息を殺しながら、打開策を図るべく思考を巡らせた。
このグロリアス・オリュンピアは、文字通りなんでもありの戦闘大会だ。
目つぶし、金的などの危険部位破壊はもちろん、火器や爆発物の利用、さらには、本人固有の異能、魔人能力に至るまで。
敗北条件は死亡、降参、戦闘領域からの離脱。目的はただ一つ。「強者であることの証明」。
今にして思えば、万太郎は、この条件を舐めていた。真正面からのタイマンにおいて、自分の魔人能力ほど向いたものはないと確信していたのだ。
『三分間の英雄(パートタイム・ヒーロー)』。
一日のうち、合計三分間だけ任意の身体能力を増強できる魔人能力。分割使用可能。汎用性、爆発力、いずれも申し分ない力だ。こと、戦闘においては最高峰の異能だと、万太郎は自負していた。
それが、今、敵の姿を見つけることすらできず、一方的に攻撃を受けている。
レギュレーションを考えても、万太郎に不利な要素はないはずだった。
試合開始と同時に、フィールドのランダムな地点に転送され、相手を探し、接敵して次第、戦闘開始。シンプルで、何より地力がものをいうはずのルール。
ゆえに、万太郎は試合開始直後、聴覚能力を強化して周囲を伺った。相手の居場所を把握するためだ。だが、試合開始直後、移動音は一切聞こえてこなかった。
仕方なく能力を解除して移動を開始したのだが、数分フィールドを歩きまわった結果がこれである。
おそらく、対戦相手は万太郎よりもこの場所に先に到着し、爆薬の類を仕掛けておいたのだろう。そこまでは理解の範囲内だ。
予想外だったのは、それがあまりにも的確であったことだ。小型の爆薬など、適当に設置したところで効果はたかがしれている。だが、この爆破は違った。
どれもが効率よく付近を通る者を巻き込むよう、精緻に計算されたもの。ドミノのようにさまざまな調度品、建物が倒壊し、爆破というより質量で相手を圧殺する悪辣な罠が張られていたのである。
そんなものが、初見の建物の中で、しかもたった数分間で用意できるだろうか。
だが、現実にこのトラップは、万太郎を着実に追い込んでいる。
おそらくは、何らかの魔人能力によるものだろう。真正面から殴りあえない相手がこれほど厄介であることを、万太郎は初めて知った。リングの上では競うことのできない力量を見せつけられ、武者震いがこみあげる。
石壁の下敷きになってから12秒。
爆破がやんだ。やはり間違いない。対戦相手は視認、手動で爆破を行っている。
石壁の下敷き、通常ならば圧死しているはずの状況下、無駄な罠の起動をやめたのだろう。
だが、ジャッジから試合終了は告げられていない。
即ち、万太郎が戦闘不能になっていないことは、対戦相手も認識している。
ぶ厚い石壁の質量で押しつぶしても勝てない相手に対する、次の一手を考えているのだろう。そこで、膠着状態が生まれたというわけだ。
改めて、息を殺し、万太郎は『三分間の英雄』能力の起動内容を切り替える。
耐久力、並びに聴覚強化。
とたんに、全身を強烈な圧が万太郎を襲う。全身の骨格が軋む。
『三分間の英雄』で増強できる身体能力は、同時に一つだけではない。複数の能力を同時に増強もできる。ただし、能力の並列強化を行う場合、強化する能力が増えるほどに強化の度合いが弱くなるのだ。
聴覚強化に振り向けた分、耐久力の強化が緩む。この状態では、石壁の重さに長く耐えることはできないだろう。万太郎は痛みに耐えながら耳をすました。
1秒。うっすらと呼吸音が聞こえる。背骨がみしり、と嫌な音が響く。
2秒。呼吸音の方向を特定。……上。ぴしり。神経感覚に亀裂が入る。
3秒。対象との距離を理解。『三分間の英雄』転換。耐久力並びに筋力強化。
全身を捻り、回転により力を生み出す。
のしかかる石壁に肩を叩きつけ、寸打の要領で万太郎はそれを破砕した。
開ける視界。そのまま視界を上へ。
感知した呼吸音の音源。対戦相手が身をひそめる、あるいは足場になるもの。
それはすぐに見つかった。天井より吊り下げられたシャンデリアだ。
豪奢な照明を吊るす鎖には、野暮ったいコートに身を包んだ大男が掴まっていた。
跳躍。
眼前に迫った男の無精ひげまで見えるところまで接近。
筋力増強。万太郎は空中で身を翻すと、そのまま拳を繰り出した。
呼応するように敵が万太郎へと手を伸ばす。(カウンター?)こちらの頬へ伸びる指。(打撃ではない。狙いはなんだ?)敵の五指がピアノでも弾くように頬に緩く触れる。(意図は?)交錯する腕と腕。
疑問によって停滞した攻防が終わり、万太郎の体感時間が正常化する。
拳に確かな手ごたえあり。万太郎の拳が敵の鳩尾へと吸い込まれる。
腕だけの不安定な一撃だが、それでも、直撃だ。
吹き飛んでいく敵。自由落下に任せながら、万太郎は先ほどの攻防の意味するところを考える。
対戦相手はこちらの攻撃を受けながら、何をしようとした? 手でこちらに触れるだけ? それに何の意味がある? 接触がトリガーとなる魔人能力? 打撃や射撃よりも有効な? 精神操作系能力者? であればまずい。能力のかみ合わせが致命的に悪い。だが、今まだ万太郎の自我認識に異常はない。遅効性? であれば、このまま畳みかけて勝負をつける。残り、1分58秒。また十分に余裕がある。もう、細切れに発動するような温存策は不要。全て使い尽くす。
着地とともにそう結論づけ、万太郎は相手に追撃を――
からん。
乾いた音。そして、世界が白に塗りつぶされた。
閃光弾。即座に事態を理解した万太郎の判断は早かった。
視覚は失った。十秒はまともに戻るまい。
だが、それで敵の位置を特定できなくなると考えたなら、敵の判断は誤りだ。
『三分間の英雄』転換。聴覚増強――
強化された聴覚が、針の音すら聞き分けるような鋭敏さを得た、その瞬間。
轟音。爆音。炸裂音。
物理的衝撃すら伴う振動が、万太郎の耳を……脳を貫いた。
(――やられた)
万太郎は自分が策にはめられたことを理解した。
敵は『三分間の英雄』で聴覚が強化できることを知っていて、あえてそれを誘ったのだ。
閃光で視覚のみを潰し、聴覚強化を誘って轟音を叩きつける。それが、名前すら憶えていないほど万太郎が侮っていた相手の、致命的な策。
意識が爆音の壁によって一瞬で塗りつぶされていく。
スタングレネード。通常の人間に対してですら難聴を引き起こす170デシベルの音圧に、万太郎の増強された聴覚は、あまりにも無防備だった。
◇ ◇ ◇
「戦闘不能――とはいえ、予選から大苦戦。失態ね。ユイちゃん」
腹を抱えて悶絶しているコートの男……たった今、『三分間の英雄』得寅 万太郎に勝利した、常磐 糸吉。彼の通信機から、若い女の声が響いた。
戦闘が終了し、通信封鎖が解除されたのである。
女……糸吉の雇用主、座錬 切の声には若干の険があった。彼女が糸吉をユイと呼ぶのは、たいてい機嫌が悪い証拠だった。
「切さん、もう少しオブラートに包んでくれませんかね。僕重傷者ですよ? これ絶対あばら折れてますよ……内臓もやられてるかも……」
「なっさけない。かつての『白鞘』はどうしたのよ。平和ボケ。一撃くらっただけでしょ?」
「プロ格闘家の一撃は死ねますって。十年のブランクがあるんですよ」
糸吉の弱音に、切はわざとらしくため息をついてみせた。
「ンで? 今後の勝機は? 『尺取虫』」
雇用主からかつての二つ名を呼ばれ、糸吉の表情が引き締まる。
間延びした口調が一転、感情を廃したものへと変わった。
「セッティングは僕向きですね。フィールドは魔人能力の産物。「発生してから」3日以内。ですので、どの建物も構築物も、一度触れただけで『計測』しきれます。これはアドバンテージでしょうね」
「その『計測』のせいで最初一分間くらいぼんやりしてたような気がしたけど」
「情報量が予想外に膨大で、不意を打たれました。次回は数十秒で済むでしょう。接敵していなければ許容範囲内です」
「それは結構。で、ステージの構造理解の恩恵、戦術への応用はさっきの通りというわけね?」
「おっしゃるとおりで」
「それで、もう一つ聞きたいンだけれど」
切は、その名の通り、触れれば切れそうな鋭さで、糸吉に言葉を突きつけた。
「『過剰計測(メルトダウン)』、なぜ使わなかったの? 使えば、下敷きにした時点で勝てたでしょうに」
「……すみません」
「謝罪は求めてないわ。ほしいのは説明。これじゃせっかくの通宝も疋定も無駄じゃない」
「申し訳ありません。切さん」
「……いいわ。矛盾は自分が一番理解してるでしょ。けど、本戦はそんな様子で勝てるような相手ばっかと思わないこと」
「……はい」
「それじゃあ、お説教は終わり。糸吉、予選、おつかれさま。あとは『五賢臣』が、本戦出場の資格ありと判断してくれることを祈るだけ! 帰ったら、湖平の稲荷寿司おごったげるわ!」
切の語り口が、詰問口調からいつもの気さくなものへと戻る。
いつもの名前で彼を呼ぶのが、糸吉と彼女との仲直りの証だった。
敬愛する雇用主の機嫌が戻ったのを確認し、糸吉の緊張の糸もまた緩む。
一つの戦いを終えたことの安堵か、彼の意識は急速に薄れていった。
胸に叩き込まれた万太郎の一撃の痛みが、そして何より、久しぶりに酷使した『尺取虫』による消耗が、それに拍車をかけていく。
「ねえ、聞いてる? 糸吉」
だから、切の漏らした最後の言葉を、糸吉は聞き取ることができなかった。
「私も、結姉も――――――なんだから」
◇ ◇ ◇
『言葉はいつも不誠実。触れただけで、相手のことがわかったらいいのにね』
『結はね。■■と手をつなぐと、■■のことがわかる気がするんだ』
『もっともっと、手をつなごう? 君のことを、もっと知りたいな――』
それは、手にした力の出発点。
それは、手放した命の終着点。
幼さ。無邪気。それ故の罪。覚醒。
幼さ。無邪気。それ故の罰。喪失。
救護室で目をさますまでのしばしの間。
常磐 糸吉は、そんな、終わりの始まりの、夢を見た。
最終更新:2018年02月18日 19:47