プロローグ(等々力 昴)
『次のニュースです。本日午後5時ころ、15歳の記念としてエプシロン王国から来日されたファナ王女が、武装した日本人男性グループに連れ去られる事件が発生しました。
男たちは現在、千葉市に所在するグランドタワーを占拠し、現金50億円と逃走用車両を要求……』
千葉は木更津に所在する、数件の畑に囲まれた、巨大な屋敷がある。
純和風のその屋敷に住むのは、地元では有名な車好きのお爺さんと、綺麗で若い奥さん。仲のいい夫婦と、評判もいい。
二人は今日も、夜ご飯の準備をしていた。奥さんだけによるご飯を作らせるような、おじいさん……等々力昴ではない。アツアツの味噌汁が入った鍋を、ミトンを使って卓袱台に持っていく。
股引に木綿のシャツと言う、極限まで部屋着と言った格好。日本人離れした、鼻筋の通った端正な顔も、台無しである。
鍋敷きの上において、ふとテレビを見た。夜7時半。いつものニュースに移されていたのは、誘拐された王女様の顔写真だ。
「由美さん。これ…」
昴が、台所の奥さんを手招きする。由美と呼ばれた奥さんは、「はいはい」と返事をしながら、居間に向かう。
ゆったりとしたワンピースにエプロンをつけ、長い髪を後ろでまとめている。化粧はしていないのだろうが、肌の張りと溢れんばかりの色気があり、20代にも40代にも見えるような、年齢不詳の美しさを持っていた。
由美は、昴の横に立ち、テレビ画面を見た。
「あらあら、かわいい女の子。誘拐されたなんて、物騒ねえ」
「うちの孫と、同い年くらいじゃないですか」
「ほんとねえ」
「千葉だと、ここから40分もかからないですね」
「行く? お味噌汁、冷めちゃうけど」
「行きましょう。お味噌汁は、また温め直せば美味しく食べられますから」
二人は、ガスの元栓を閉めて、着替えを始めた。
―――――――――――
千葉市、グランドタワー。
地上80階。高さは100メートルを超える、千葉県最大級のホテルである。
この最上階は展望台として作られており、周囲はガラス張りになっている。いつもならば夜7時と言うこの時間は、恋人たちのデートコースとして賑わっているところだ。
だが、今は周囲100メートルほどにトラロープが敷かれ、厳戒態勢を取られていた。
「おらあ! 車と金はまだかって言ってんだよコラァー!」
タワーの入り口を陣取る、モヒカンに棘の生えた肩パットをつけた男が、手に持つマシンガンを空に乱射した。
中継するニュースキャスターは、悲鳴と共にしゃがみこむ。その光景を、王女護衛隊の一人であるリヒト・アーグラインは、警察幹部ともに装甲車の中で、奥歯を噛みしめながら見ていた。
「金の準備は、まだできないのですか」
リヒトの攻めるような物言いに、警察幹部はむすっとした顔で顎を撫でた。
「ええ、何しろ、100億円とか言う、頭の悪い金額ですからねえ。いくらエプシロン王国から補填されると言われても、円でかき集めるのは難しいのです。奴らも、素人ですよ。相場と言う物をわかっていない」
「能書きはいい! 王女がとらえられているんだぞ! 何かあれば、あなたの首も間違いなく飛ぶと思った方がいい」
「へいへい……、がんばってますよ、と」
てめえの不始末を押し付けやがって、とどこからか聞こえた気がした。悔しいが、リヒトには全く反論できない。
目を離したのは、一瞬だった。いや、一瞬と言えるほどの時間ですらない。王女が、空港のお土産屋に興味を示し、その視線の先を追った。それだけだった。
次の瞬間には、王女は消えていた。瞬間移動能力を持つ敵がいたのだろうか。捜索にも引っかからず、犯行声明、身代金の要求。状況は、あれよあれよと進んでいった。
腕っぷしには自信がある。だが、この状況ではそんなもの何にもならない。タワー内には、100人を超える犯罪者グループが見回っているという話だ。そんなところに、突っ込んでいけるわけがない。
「王女様……!」
歯噛みするリヒトの耳に、爆発音が届いた。
音は頭上から。見ると、タワーに近づきすぎた報道ヘリが1台、火を吹きながら墜落していた。
最上階から、RPGらしき砲先が、するっと中に入っていった。
(あんなものまであるのか……!)
リヒトは、己の無力さに絶望した。
―――――――――――
「ヒャーッハッハッハ! ウザってえんだよクソマスコミがよぉー!」
二つに分かれた金髪モヒカンの男が、落ちていくヘリコプターに中指をたてた。周りの仲間は「いいぞぉー!」「ヒャッハァー!」と、頭の悪い嬌声を響かせる。
その光景を、エプシロン王国王女、ファナ=深月=ヴェッシュ=エプシロンは、椅子に後ろ手に縛られながら、ニコニコと眺めていた。
(なんだかみなさん、楽しそうでよかったですわ)
王女は、世間を知らぬ。自分が誘拐されたという、意識すらない。先のRPG射出も、日本風の花火か何かと思っている。
(お爺様の故郷、日本。やっぱり、みんないい人たちなんですわ)
このモヒカンの皆さんに出してもらったお水は美味しかった。ここに来るまでの運転も、ジェットコースターのようで楽しかった。
何より、みんなが笑っているし、私も笑っている。それならば幸せなんだ。ぼんやりと思っていた。
この王女の存在が、今後のエプシロン王国の王女教育に大きな影響を与えるのだが、それはまた別の話。
―――――――――――
グランドタワー付近の喧騒から、少し離れた林の中。イタリー製の上質なカシミアで作られたスーツに身を包み、ハットをかぶった昴は、愛車であるスバルインプレッサの運転席で、海外からわざわざ取り寄せた葉巻を煙らせていた。
耳につけた受信機から、由美の声が聞こえる。
「ヘリがやられたの、見た?」
「見ました。やはり、正攻法では難しそうですね」
「王女様がいるのは、展望台。ここには、リーダー格と思われる6人のモヒカンがいるわ。それ以外にも、各セクションに150人程度。全員、武装している。一人ずつやっちゃってもいいけど、ちょっと時間がかかりそうね」
「由美さんに、そんな危険なことはさせられません。やはり、壊すしかなさそうですね。突入時は、視線を集めておいていただいてよろしいですか」
「ふふ、貸し一つ。今日の洗い物、お願いね」
「全く……かないませんね」
通信が切れる。瞬間、スバルインプレッサはその姿を消した。
残ったのは、葉巻を吸う昴ただ一人。
昴がぱちんと、指を弾く。
突然目の前に、ヘリコプターが現れた。
「さて、タイヤが付いていないものは専門外ですが……まあ、なんとかなるでしょう」
―――――――――――
夜9時。誘拐から、約4時間。
グランドタワー最上階の誘拐犯たちは、イラついてた。
100億円を集めるのに、どれほどの時間がかかるのか、モヒカンである彼らにはとても予想がつかない。もともと待つのが苦手なモヒカンと言う生き物が、先も見えない中で4時間も待っているのだ。むしろ、褒められるべきと言えよう。
煙草も吸いつくした。床に捨てられたシケモクを拾って吸い、誰かの口臭が漂い、気持ち悪くなって捨てる。捨てた後に気づく。さっきのは、自分の口臭だ。そんなことを繰り返すほど、イライラしている。
王女はと言うと、長旅で疲れていたので、すっかり眠り果てていた。鼻からは提灯が現れ、スピースピーと寝息を立てている。
その幸せそうな寝顔が、モヒカンたちには気に食わなかった。
「目玉の一つくらい、抉ってやるってのはどうだ。そしたら、警察も少しは焦るんじゃねえか」
モヒカンが誰ともなく、呟いた。へへっと、下卑た笑いが響く。モヒカンどもの残虐性に火が付くまで、あとわずかと言ったところだ。
王女はふと、目を覚ました。誰かに体を揺すられたような気がしたのだ。きょろきょろと辺りを見回すが、血走った眼でこちらを見るモヒカンしか見当たらない。
「あの……どなたか私を起こしてくださいましたか?」
とぼけた声。モヒカンに、笑いが起きる。気勢をそがれた形だ。モヒカンは、黙ってまた酒を飲み始めた。
王女の頭に、クエスチョンマークが飛んだ。それでは、今私を起こしてくれたのは、どなたなのでしょう。
「お嬢さん、大丈夫?」
優しげな、艶のある声が聞こえた。声の方向に視線を向けると、何やら少し透けている、スニーキングスーツに身を包んだグラマーなお姉さん……由美が、王女の縄を解いていた。
腕を解放されて、なんだかうれしくなった王女は、全身を使って今の楽しさを表現した。
「はい、すっごく刺激的です! お姉さんも、何かのアトラクションの人ですか」
由美が目を丸くした後、にこやかに笑う。
「ああ、そういう感じの子なのね。よかったわ。飴ちゃんいる?」
「わー! ありがとうございます!」
既に全く透けていない由美が、胸の谷間に手を突っ込み、中からメロン飴を取り出した。王女はすぐに口に含む。コロコロと、口に広がる甘みを楽しんだ。
「な、なにしてんだてめえー!」
モヒカンの声が響いた。さっきから、やり取りは見ていた。だが、反応するのが遅れた。それはそうだ。
突然空中から現れたいい女が、人質の縄を解いている。こんな状況に、冷静に対応できるモヒカンなど、この世には存在しない。
だが、一人が口火を切った。もはや、やることは決まっている。モヒカンは、一斉に由美に銃を向けた。
由美は焦る様子もなく、年齢不肖なその美貌を振りまくように、長髪を手で撫でた。
「やめなさいよ。王女様に当たっちゃったらどうするのよ」
「うるせえ! てめえ、どこから入った!」
「玄関からに決まっているでしょ。あらあら、怖い。トリガーに指までいれちゃって。暴発しちゃったら、大変ね」
つかつかと、由美が王女から離れる。モヒカンは、信じられないものを見るように一瞬目を丸くし、すぐに愉悦の笑みを浮かべた。
「ば……馬鹿があぁー!」
一斉に、由美に向かって銃弾が放たれた。だが、銃弾が当たる前に由美の体は消え、弾丸は壁にひびを入れただけでとどまった。
「なっ……!」
モヒカンが驚きの声を上げると、また由美の姿が現れる。クスクスと、猫のような笑みを浮かべた。
「そんなに見つめないでよ、照れちゃうじゃない。それに、アタシばっかり見ていて、大丈夫なの?」
由美は、「すごい、すごいですー!」とパチパチ拍手をする王女に、視線を送った。
「これから来る人から、離れちゃだめよ。あなたを必ず守ってくれるから」
由美は、真っ直ぐにモヒカンたちを見た。
「アタシのこと、忘れないでね」
そう言って、由美は今度こそ完全に消えた。もはや、気配もない。
「さ、探せ! なんだったんだ今の女は!」
モヒカンが、周囲を見回す。そうして、ようやく気付く。
ヘリコプターが、窓のすぐそばにまで近寄っていたことに。
―――――――――――
地上からは、その姿は明白だった。
「なんだあのヘリは……。報道ヘリではない! いったい、どこのどいつが!」
リヒトが、最上階の窓にぴったりと張り付くヘリコプターを見て、驚愕の声を上げる。そもそも、何故あそこまで接近して、撃ち落とされなかったのかも謎である。
何もかもがイレギュラーな、一台のヘリ。
そのタラップから、何か黒い影が飛び出し、展望台の窓ガラスをぶち割った。
ヘリコプターは、自動操縦だったのだろうか。その後しばらくは滞空していたが、寄る辺を失ったかのようにふらふらとしたかと思うと、まるで煙のように姿を消した。
「なんなんだ……」
魔人が横行する唯一の国、日本。
ここまでわけのわからないことが起きるというのか。
―――――――――――
ヘリコプターから高速で展望台に飛んできたのは、バイクだった。
黒くメタリックな、フルカウルバイク。空中で横倒し状態のそれには、全身をスーツに包み、半ヘルにゴーグルをかけた男が乗っている。
昴は、そのままグランドタワーのガラス面をぶち破った。
耳を塞ぎたくなるような、破砕音。飛び散るガラス片。強烈な勢いに押され、散弾銃のようにガラス片が飛び散った。
だが、その一枚たりとも王女に当たることはなく、モヒカンだけを切り裂いた。
「うおっ」「ぎゃ」「ひぃ」
モヒカンのうめき声をBGMに、バイクは華麗な着地を決め、王女の隣に音もなく止まった。
鋭角な流線型を持ちながら、ダイナミックなシルエットを持つマシン。BMW社がその技術の粋を尽くして開発した最速の呼び声高い、BMW-S1000RR。
そのマシンを駆る昴は、ゆっくりとバイクから下り、ゴーグルを外して丁寧なお辞儀をした。
「はじめまして。私、等々力昴と言う者です。以後、お見知りおきを。これから、ここを一緒に脱出させていただければと思うのですが、よろしいでしょうか」
にこやかな笑みを浮かべる昴。それに王女は、満面の笑みで答えた。
「初めまして。私は、ファナ=深月=ヴェッシュ=エプシロンと申します。今日は色々なことがあって、凄く刺激的な日ですね! どうぞ、よろしくお願いします!」
「ハッハッハ。これはこれは、元気なお嬢さんだ。今日がいい日になったなら、それは嬉しい誤算ですよ。それでは、後ろに乗って頂いてもよろしいですかな」
「はいっ!」
元気よく返事をした王女は、昴の腰にギュッとしがみついた。さっきのお姉さんが言っていたのは、きっとこの人だ。だったら、離れないようにしっかりしがみつかなければ。
「さて、では出発を……」
「おい、待ててめえ!」
ガラス片にあえぎながらも、モヒカンの一人が起き上がり、拳銃を突きつける。だが、昴はあくまでもにこやかな笑みを絶やさない。
「このまま逃がすとでも思ってんのか。無茶苦茶やってくれやがって。さっきの女はどこいった! てめえの仲間か!」
「ふふ、仲間なんて言葉じゃあ、語りつくせませんよ。彼女の名は、“色褪せる(シンナー・カラー)由美”。私の、良き相棒です」
「語ってんじゃねえぞ! 王女を下ろしな。今なら、楽に殺してやる」
「おっと、拳銃を撃つのはお勧めしません。弾の無駄になりますよ」
昴は、ヘルメットを王女に被せながら、ブルンと一つアイドリングをした。
「バカクセエこと言ってんじゃねえぞアァーッ!」
モヒカンが、拳銃の引き金を引いた。
瞬間、昴はアクセルをひねった。
バイクの後輪が、勢い良く回る。地面への激しいトルクは、前輪部に反作用を起こし、前輪が勢いよく持ち上がった。
ギンッと硬質音がした。
前輪のフロントフォークに取り付けられた、ビス。そこが、僅かに欠けていた。
「忠告通り、ですね」
「なんっ……! く、クソがァーッ!」
モヒカンが、さながらつながり目のおまわりさんの如く拳銃を連射する。だが、昴はバイクを器用に操り、ハンドルやタイヤの各所につけられたビスに弾丸を当て、ボディやタイヤに傷をつけない。
「うるああああ!」
起き上がっていた他のモヒカンたちが、青龍刀を手に切りかかってきた。拳銃が通じないなら、刀だ。モヒカンは、自分の膂力にこそ絶対の自信を持つ
「王女もろとも、死にやがれェー!」
「申し訳ありませんが、それは無理な注文です」
昴は、急加速からの急制動をかけて後輪を持ち上げ、そのまま横殴りにターンを決める。
モヒカンたちの持つ青龍刀のみを、後輪部で弾き飛ばした。
「野郎……!」
そのままさらにもう一回転し、男たちの胴を横殴る。S1000RRの車両重量は、200キログラムを超える。後輪部分のみとはいえ、弾かれればひとたまりもない。
そのまま、部屋の中を縦横無尽に走り回り、次々と男たちを弾き飛ばしていく。
王女は、目くるめくアトラクションに興奮しながらも、どこか落ち着いていた。
飛び跳ねるように走り回るバイクの後ろに乗っているというのに、不思議と振り落とされるような不安定さはない。
全ての動きが、自分を気遣ってくれている。それが、よくわかる運転だ。
(すごい)
これが、お爺様の国。日本の、紳士。
王女は、大好きだった祖父のぬくもりを思い出し、更に力強く、昴の背を抱きしめた。
―――――――――――
『み、見てください! 展望台の中で、バイクに乗った男が暴れております! 武装モヒカンを次々と……! ああ、見事なターン! こんな、こんな運転が、人間に可能なのでしょうか!』
ニュースから流れる映像を、リヒトは食い入るように見ていた。王女を助ける。護衛隊である自分にはできなかったことを、これほど軽々とやってのける男がいる。
居ても立っても居られない。リヒトは、警察幹部に檄を飛ばす。
「あの男だけに任せてられるか! 私たちも援護するぞ! 警察隊を突入させろ!」
「い、いや、しかしそれは難しいですよ。玄関にはグレネードを持ったモヒカンが数十人構えていますし、あれを突破するのは警察だけではとてもとても……」
「だが、時間が経てば展望台の男もモヒカンに追い詰められるぞ! みすみす死なせるつもりか!」
「そこはいいわよ。気にしないで。むしろ、入らないでくれた方がうれしいわ」
女性の声。今この作戦本部には、女性はいなかったはずではないか。
目を向けると、スニーキングスーツに身を包んだ、弾けるような色気を持つ女性が、本部の机の上で足を組んで座っていた。
リヒトは、反射的に懐の拳銃に手を伸ばした。
「お、お前は一体、何者……」
「ゆ、由美ちゃん!」
「あはん、お久しぶりね。三郎ちゃん」
「……知り合い、ですか」
三郎と呼ばれた警察幹部は、デレデレと鼻の下を伸ばす。リヒトは、拳銃から手を離した。
「ということは、今展望台にいるのは、“マスタードライバー”ですか」
「その通り。だから、突破も出来なくはないと思うんだけど、王女様を連れながらだと万一があるから、もっと手っ取り早い方法を取らせてもらうわ。そのためにも、警察隊は突入しないでほしいの。
あと、タワーから見て海側の人の避難をお願いするわ。まあ、野次馬しかいないから、すぐに終わると思うけど」
「一体、何をするつもりなんだ」
リヒトは、全く意図の読めない指示に、怪訝な顔をする。
「うふ、険しい顔しちゃって、可愛い。心配しなくても、王女様は昴ちゃんが必ず守るから大丈夫よ」
由美の体が、薄くなって消えていく。最後に残した一言は、リヒトにとって全く信じがたいものだった。
「あのタワー、爆破して倒すから」
由美の体が、完全に消えた。警察幹部は、顔を青ざめさせて「ひ……避難! 避難だー!」と無線に大声を上げた。
「冗談じゃ……ないのか?」
リヒトは、騒然とする周囲に、置いていかれたような気持ちになった。
―――――――――――
グランドタワー最上階。
並み居るモヒカンを倒しつくし、階下からのドアに鍵をかけた。
ドアの向こうからは、何人ものモヒカンの声が聞こえてくる。破られるのも、時間の問題だろう。
だが、昴は慌てない。由美が間に合わないなど、あり得ないことだからだ。
ドンと、鈍い爆発音が聞こえ、グランドタワーが傾いた。爆発音は、階下から聞こえ、どんどんと昇ってくる。
「始まりましたね。流石由美さん。仕掛けが早い」
「これからは、何が起こるんですか」
爆発音と振動に、流石に少し不安そうな顔を見せる。ブルンブルンと大きくアイドリングをして、昴は王女の頭にポンと手を乗せた。
「ジェットコースターはお好きですか?」
王女の顔が、ニパッと輝く
「すごく、好きです! フリーフォールとかも、大好き」
「それは良かった。それなら、きっと楽しめます。口閉じて、舌を噛まないことだけ注意してくださいね」
言うが早いか、S1000RRは轟音を立てながら急発進した。行先は、窓。初めに昴が割って入ってきた、場所だ。
タワーは少しずつ倒れ、ちょうど坂を上るような形になっている。
「安全と安心の空中ドライブを、ゆっくりお楽しみください」
バイクが、ジャンプ台のようになった窓から、射出されるように飛び出した。
斬りつけるような冷たい風。すぐさま襲い来る浮遊感。グランドタワー最上階は、地上から100メートルの高さにある。落ちたとすれば、とても生き延びられる高さではない。
「きゃああああ! ……んぐッ……!」
王女が叫び、すぐに舌を噛まないように口を閉じる。吹き飛ばされないよう、必死に昴の体にしがみつく。
徐々に傾いていくグランドタワーが、真下に見える。少しずつ倒れていく、巨大なタワー。現実味のない光景。
昴の背と言う安心感がなければ。意識を手放していたかもしれない。
「いい子です」
昴が一言いうと、突然バイクが消え去った。腰を下ろす物もなくなり、より落下をダイレクトに感じる。
パチンと、指を鳴らす音が聞こえた。
次の瞬間、昴の直近にバイクが現れた。青く細身の車体。まるで、鳥類を思わせるフロントフェンダー。
ヤマハ社製YZ450F。モトクロスでも使われる、オフロードバイクの名機である。
昴は、空中で器用にサドルをまたぎ、エンジンを入れる。
「さあて、ゲームの始まりと行きますか」
崩れゆくタワーの壁面。そこに、オフロードバイクのサスペンションをふんだんに利用し、着地した。
バイクは、崩れゆくグランドタワーの壁を駆けた。倒れつつあるからこそ、直角ではない、急角度の坂。
(私……壁を走ってる!)
爆発音と閃光。それと共に、少しずつ傾いていくタワー。地面の窓から飛び出していくモヒカンたち。
そして、笑い声をあげる昴。
「ハッハァーッ! 悪くない。悪くありませんね!」
割れたガラス面が、破砕したブロック片が、バイクの車線上に飛び散ってくる。だが、昴はスライドとジャンプを使い、一撃も当たることなく走り行く。
王女は、見た。壁面を下る、昴の表情を。
それは、誰かを救いに来たヒーローの顔でも、女性を気遣う紳士の顔でもない。
ただただ、己の技術の限界に挑戦する、求道者の姿があった。
地面が近い。このまま加速し続ければ、激突は免れない。
昴は、急にハンドルを切った。目標は、大玄関の扉上についたひさしだ。
壁にほぼ直角に取り付けられたひさしに、前輪が設置する直前、昴は少し前輪を上げた。
バイクは、その慣性を保ったまま中空に放り投げられた。
「ヒィーハァー!」
恐ろしいほどの大ジャンプ。このまま地面にたどり着けば、如何にオフロードに特化したこのバイクであっても、破壊は免れないだろう。
では、どこに着地するか。それを考えていない、昴ではなかった。
バイクはまっすぐに、グランドタワーを包囲するパトカーの上へと飛んでいった。
―――――――――――
「ありがとうございました」
「私からも、礼を言わせてください。本当に、ありがとうございました」
王女とリヒトは、昴に深々と頭を垂れた。
昴は、2人乗りの真っ赤なオープンカーから降車し、同じく深々と腰からお辞儀をする。
「お礼を言われるようなことではありません。仕事も引退していますし、今回は完全に私の都合です」
「都合……とは」
「ニュースを見たんですよ。私の孫と同い年の女性が、誘拐されたと。食卓には、ふさわしくありませんよね」
「えっと、どういうことですか」
「ふさわしくないニュースを、終わらせに来たんです」
事もなげに、言い放つ。リヒトは、身震いした。
たったそれだけの理由で、単身で武装する誘拐犯の所に突っ込み、グランドタワーを崩壊させたというのか。
リヒトは、震える手を懸命に抑えながら、口を開く。
「あなたがたには、エプシロン王国政府から、何かしらの謝礼を送らせていただきたい。なにか、望みは……」
「いや、そんなものはいりませんよ。先ほど言った通り、私は自分の都合で……」
「ちょっと、アタシのこと、忘れないでよね」
突然、声が聞こえた。見ると、いつの間にかオープンカーの助手席に、由美が座っている。王女が、ぱっと顔を明るくした。
「あ、由美さん!」
「ファナちゃーん。無事でよかったわー」
車に乗ったまま、王女をハグする由美。なんと不遜な、とリヒトは思ったが、功績を考えると余計なことは言えない。なにより、王女もとても楽しそうだ。
「あ、謝礼のことなんだけどね。タワーの再建費でもお願いしようかしら。壊しちゃったから、修理しないといけないでしょ」
「ゆ、由美さん。そんな大金を、この方たちに出していただくわけには」
「大丈夫よ、自分とこの王女が助かったんだから、安いもんじゃない。ね、イケメン君」
「リヒト……」
王女の視線が、リヒトに向けられる。そんな、捨てられた子犬のような目を向けるのはやめてほしい。リヒトは、ふうと一息つく。
「承りました。100億円よりは安いでしょうからね」
「さっすが、話が分かるわね。それじゃ、行きましょ昴ちゃん。炒め物、しなしなになっちゃうわ」
「……わかりました。申し訳ありませんが、よろしくお願いします。リヒトさん」
昴はハットをかぶる。由美は投げキッスをしながら、車は発進した。
後で知ったことである。
タワーの修理代は既に由美が管理者に小切手で送っており、エプシロン王国の負担は一切なかった。
「礼を断るための弁だった……ということですか」
リヒトは、苦笑した。謝礼を渡そうにも、誰に聞いても二人の所在地は知れない。ありがたいという感情以上に、してやられたという思いが強かった。
それは、20年経った今でも、心に残り続けている。
―――――――――――
20年後。
千葉は木更津に所在する、数件の畑に囲まれた、巨大な屋敷がある。
その縁側で、のんびりと日向ぼっこをする老人がいた。頭は禿げ上がり、どこか目は虚ろだ。
お茶を飲みながら、日がなのんびりと緑を見て過ごす。それが、老人の日常だった。
屋敷の前に、黒塗りのベンツが止まる。運転席と助手席から、黒服にサングラスをかけた男たちが現れた。
男達は迷いなく、真っ直ぐに老人の下に歩を進める。
老人の目前に立った二人は、丁寧に頭を下げた。
「やっと見つけましたよ。等々力昴様」
黒服の一人が、サングラスを取った。
「覚えていらっしゃいますか。私は、リヒト・アーグラインと申します。ファナ女王の件では、大変お世話になりました」
老人の表情に、変化はない。リヒトは、続ける。
「本日は、ある大会の出場権をお届けに参りました。ファナ女王の娘である、フェム王女。この方が来日される際に、日本で大規模な能力バトル大会が行われます。フェム王女は、ぜひあなたに出場していただきたいと考えております」
「……あ?」
等々力昴は、ようやく目をリヒトに向けた。だが、その目に写っているものが何なのか、図る術はない。
「客か? 珍しいですのう。おーい、由美さん。お茶、だしてください」
「等々力由美さまは、10年前に死亡しております」
リヒトが、淡々と言葉を紡ぐ。昴は、朦朧とした視線を、ふらふらと宙に彷徨わせる。
「由美さんは、おらんのですか」
「それも、今回お誘いした理由の一つです。ファナ女王は、由美様がすでに死去されているという事実に、たいへん悲しんでおられます。
我が国の技術力ならば、死者の蘇生も不可能ではありません。ですが、それでは100億でも足らぬほどの莫大な金額が必要となります。如何に女王と言えど、命を救った相手と言えど、国家予算が如き大金を動かすことは、不可能でした」
だが、たった一つ方法はある。
どんな願いも叶えると、現王女が直々に宣言した大会に優勝したならば。
「等々力様は、由美さまを生き返らせたくはないですか」
リヒトは、真っ直ぐに昴の目を見つめた。
昴は、きょろきょろと辺りを見回したあと、力なく頭を垂れた。
「……由美さん」
それきり、動かなくなる。
リヒトは、首を横に振った。
「ダメか……」
運転していた黒服……ジョルジュ・シリウスが、昴の顔を覗き込んだ。
「エプシロン王国の医療技術を使えば、こんくらいの認知症なら改善できるんじゃないですか」
「完全に治すことも可能だ。だが、その治療にもやはり莫大な金額がかかる。それこそ、優勝でもしてもらわない限りは動かせないような金が必要だ。大会選手にそんなことをすれば、えこひいきと取られても仕方がない」
「じゃあ、時間の無駄だったってことすか」
「残念ながら、な」
リヒトは、ジョルジュに運転席に戻るよう指示する。ジョルジュは「へーい」と軽い返事をしながら、車に乗り込んだ。
リヒトは、悔しさに歯噛みした。かつての大恩人に、何一つ報いることができない、自分の無力さを、全身に感じた。
最後に、この哀れな、かつて最強の何でも屋と謳われた老人の顔を、憐憫の思いで見つめた。
昴は、真っ直ぐにリヒトを見つめていた。その目に、覚束なさはない。はっきりと意思を持った、刺すような瞳。
「待ってください」
はっきりとした、あの時のような声。リヒトは、それだけで動けなくなる。
「エプシロン……。ああ、あの時の、グランドタワーの時のお嬢さんですか。懐かしい……。本当に、懐かしい」
リヒトは、事前の情報収集で聞いていたことがある。この老人は、既に耄碌し、一日のほとんどを曖昧の中で過ごす。
だが、何をスイッチにするのかわからないが、日に数度、朧から抜け出す事があるという。
それが、今だということなのか。
「参加、させてください」
昴はすたすたと姿勢よく歩きだし、何も言葉を発せないリヒトをよそに、真っ直ぐにベンツへと向かっていく。
「先輩、早く乗って……うお!」
運転席から顔を出したジョルジュを引きずり出し、運転席に座った。
ギャリギャリとタイヤが回り、その場でターンをする。1回転、2回転。円の轍は、全くずれない。
全く同じ軌道で、ターンを繰り返しているのだ。
「すげ……」
ジョルジュが思わず呟く。昴は、にやりと笑った。
その表情は、もはや曖昧模糊な老人のものではない。
20年前と同じく、己の技術の限界に挑戦する、求道者の姿があった。
車の片側が浮き上がる。しかし、ターンの軌道は確保している。
そのまま、後部も浮き上がる。どのようなテクニックを使えばこうなるのか、リヒトには全く理解できない。
左前輪一本でくるくると回った後、ベンツは音もなく接地した。
後に残った轍には、やはり一本のズレもなかった。
「見せて差し上げます。“マスタードライバー”の、ラストドライブを」
御年80の昴の目に、ぎらついた光が宿った。