プロローグ(春花 暁音)


眠っている時に見た夢を、ぼんやりと輪郭だけ覚えていた経験があるだろうか。
あるいは、一目見ただけで恋に落ちてしまったなんて経験でもいい。
それはまるで海に沈んでいるような、あるいは柔らかい綿に包まれているような。そんな浮遊感と共にある。


「ふぁ……ん……」
いくつかのグループが横に並んでワイワイと喋る帰り道を、欠伸をしながら歩いている。
成績は平均より少し高いが、授業態度がそれを帳消しにしている。話しかければそれなりに言葉を返してくれるが、積極的に他の人に話しかけにいくわけではない。なにより、休み時間は常に寝ていて、なかなか話しかけに行きにくい少し変わったヤツ。それが、高校内での大勢から見た春花暁音のイメージである。
中学校の頃の彼を知っている人からのイメージは、また違ったものだ。中学校3年生の時、仲の良かった幼馴染、灰凪詩音を目の前で交通事故で失ってしまった。学校には復帰したものの、辛い現実から逃げるようにほとんどの時間を眠って過ごしていた、高校に入ってもまだその死を引きずっているかわいそうな男。それが、少し詳しく彼を知っている人からのイメージだ。
ならば、もっと詳しく彼を知っている人から見た彼のイメージは、果たしてどのようなものだろうか。


「ただいま、父さん」
「おう、おかえり暁音……なあ、たまに稽古でもどうだ? 軽い組手だ」

暁音が家の戸を開けると、白い道着を着て黒い帯で縛っている父親が立っていた。いかにもたまたま玄関に立っていました、といいたいように靴箱に手を入れていたが、道着を着ているのに汗をかいていない、どころか呼吸も整っていることから、暁音は父親が最初から誘うつもりで待っていたのだと判断する。

「いいよ、着替えてくるから少し待っていてほしい」

特にその言葉を断る理由は暁音にはなかった。最近は――、幼馴染を事故で失ってからは、全然稽古をしていなかったが、幼い頃はよくこうして父親に誘われて稽古を受けていた。
暁音の家は道場であった、教えている武術は、正直に言って大人になった今でもよく分かっていないが、基本的な体さばきや集中力、そして生きる上での心構えのようなものまで父親に教わってきたような気がする。
だから暁音にとって、父親は最も自分を理解してくれる人だ。自らの魔人能力を打ち明けていいと唯一思えたほどに。

――――――――――――――――――――――――――――――

「それで父さん……なにか、俺に話したいことでもあるの?」
「……暁音、お前はなんでもお見通しだな」
「父さんがわかりやすいだけだよ」

道場の床に座り、流した汗をタオルで拭きながら暁音は自らの父親に話しかける。不器用な父親は大事な話をする前に組手に誘ってくることを、暁音は今までの経験から理解している。
図星をつかれた彼は、息を切るように吐くと、正座をして暁音の方に向き直った。

「……暁音、お前は寝てたから恐らく知らないだろうが、近々この日本で、最強の魔人を決める大会が行われる」
「……そうなんだ、でも父さん、わかってると思うけど、俺は静かに暮らせればいいし、別に力を競い合いたいわけでも……」
「まあ聞け、大会優勝者には賞金と最強の称号が貰えるんだが……もうひとつ、望みをひとつ叶えてもらう権利が手に入るんだ」
「だれに叶えてもらうのさ、まさか総理大臣だとか言わないよね?」
「……エプシロン王国、死者すら治す霊薬を初めとした色々な、想像のつかないくらいすごい技術をもった浮遊国家の王女様だ」

暁音の体が跳ねた。疲労による汗とは違う、様々な感情の入り乱れと興奮によって分泌された汗が彼の頬を伝う。

「勝てばきっと、お前の幼馴染の灰凪さんは生き返る……二年前にお前が失った日常が戻ってくるかもしれない」

暁音の肩に、父親の手が触れた。力強い視線が暁音をしっかりと見つめる。

「参加条件は、強いことただ一つだ。暁音、お前は……強い。だから、出てみる気はないか?」

――その日、また1人大会への参加を決意したものが生まれた。彼の戦う理由は――

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暗い寝室の中で、暁音は1人考える。

(……ちがうよ、父さん)

幼馴染を失ってから、現実から逃げるようにほとんどの時間を寝て過ごしていた。それでも、幼馴染のためなら現実でも戦える力と意志をもった自慢の息子。
もしかしたら父さんの思う自分のイメージはそんな感じかもしれない。

(ちがうんだ)

暁音は思う。暗い天井に手をかざして、自分の決意を再確認する。
父さんは、あるいは中学校の頃からの知り合いたちも、きっと自分が眠る理由は幼馴染のいない現実から逃げるためだと思っているだろう。
ちがう、幼馴染を失った次の日、夢の中でそれを見た。それは朧気に覚えていた夢の記憶にして、一目見ただけで恋に落ちた、そんなふわふわとした幸福感。

会いたい、その日から自分の心はそれで染められた。だから戦う理由はそれだ。死すら治す薬があるなら、夢を現実にする方法も持っているかもしれない。
だから勝つ、絶対に、誰の前でどんな手段を使おうとも、ただ彼女に会うために。

「……待ってて」

闇に溶け込むその声と共に、暁音は右手を頭に当てる。『お手製子守唄』、彼の意識は、また彼女に会うために闇に溶けていく。
最終更新:2018年02月18日 19:56