プロローグ(暗黒騎士ダークヴァルザードギアス)


「あ、土屋君。お疲れ様」

「……っす」

 都内某所のコンビニエンスストア『ヤリブスマート』。店長の小早川はレジ内から、着替えて退出するアルバイト店員に挨拶を投げた。土屋と呼ばれたモッズコートにジーンズ姿、リュックサックを背負った青年は、目を細めて自動ドアを抜けていく。外からは金色の朝日が差し込む。夜勤明けの目にはさぞかしまぶしかろう。
 土屋一郎。二十四歳だったか、五だったか。二年ほどこの店舗に勤めている。勤務態度はそれなりに真面目。良くも悪くも、客から顔を覚えられるタイプではない。

(ただ……)

 小早川は無人の店内を見回しながら思う。

(もう少し愛想が良ければなあ)

 周囲と少しも打ち解けた会話をする様子のない土屋の扱いを、小早川は少々掴みかねていた。だが、それも彼のあと二十年近く残っているマンションのローンと非行に走りだした娘、妻との不仲、加えて近頃手を出した仮装通貨の暴落に比べれば些細なことであると言えよう。

◆◆◆◆

 土屋一郎は、白い息を吐きながら朝焼けの町をゆっくりと歩いていた。その目は完全に死んだ魚のように濁り、輝かしい色の広がる空を見上げる余裕すらない。家に帰れば布団に倒れるようにして寝るばかりだ。

 仕事の感覚はもはやほぼルーチンワークだ。つらいも苦しいもない。ただ、身体を動かしながら心を遠くに飛ばし、どうにかこなしている。貯金はない。彼女もいた試しがない。未来のよすがもない。そんな自分を哀れとも思わない。彼の心は、乾きながら死んでいく一方だった。
 彼は道端のひしゃげた標識の傍で立ち止まり、ポケットから携帯電話を取り出す。軽く操作しSNSを眺めると、ひとつのニュースが目に入った。

『エプシロン王国王女、来日正式決定』

 首を傾げ、何の気なしにリンクを開く。そこにはまだ若い少女が上品な笑顔を浮かべた写真と、簡単な速報があった。曰く、遠く浮遊国家の王女が希望していた海外視察が、ついに本決まりになったという。また、それに伴い大規模な大会が都内で開催される、とも同時に記載があった。彼の目に不意に光が宿った。

 検索。グロリアス・オリュンピア。エプシロン王国。フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン王女。指がさくさくと動く。仕事の時の熱のない動きではない、そこには確かに魂が宿り、画面に集中しきっていた。よって。

 突然傍の標識に何か大きな物が衝突し、真っ二つにへし折れた時ようやく、彼は顔を上げた。

◆◆◆◆

 サンプル花子は背中を強打し、大きく打撲を受けたことを感じ取っていた。治癒には一週間ほどが必要だろうか。いや、そんな計算ももう必要ない。

 彼女は、ここで破壊されるのだから。

 量産型戦闘用美少女である彼女は富裕層の魔人、賽河原双六(さいのかわらそうろく)の持ち物だった。賽河原は量産型の設定にいちいち手間をかけることを好まなかったらしく、彼女はデフォルトの没個性的な外見で生まれた。それを悲しいとか、たまには髪型に手間をかけたかったとか、この時代に制服がロングのメイド服かよとかそういうことは思わない。彼女の心は、生まれつき乾いていた。

 ある日、サンプル花子は掃除中、一枚の皿を誤って割ってしまった。主の財力からすれば些細な失敗ではあったが、平謝りする彼女に主はこう告げた。『お前は役立たずだ』と。そうして、いつものように罰が加えられた。加虐趣味の主による暴力が。

 どうして、今日は逃げてしまったのだろう、と思う。乾いた彼女の心に、何かバグのようなものが生じていたのだろうか。サンプル花子は無我夢中で屋敷を逃げ出し、路上を駆け――やがて簡単に追いつかれ、『サンプル・シューター』を撃つ間もなく吹っ飛ばされた。
 そうして彼女は地面に叩きつけられ……いや。

「……?」

 サンプル花子は、身体が何かに受け止められ、痛みが少しも感じられなかったことをいぶかしく思い、反射で閉じていた目を開く。
 彼女は、誰かの腕に支えられていた。モッズコートにジーンズ、中肉中背の平凡な青年。どこか虚ろな目をした彼は、右手で折れた標識を拾い、杖か何かのように構えている。

「おや、一般の方を巻き込んでしまったかな。申し訳ない。聞き分けのないメイドの折檻中でね。従順な個体と注文したのだが」

 上等なスーツ姿の中年男性が角を曲がって姿を現した。賽河原双六、彼女の主だ。

「返していただけるとありがたい。所有者の正当な権利だ」

 彼女は、自分が軽く震えていることに気づく。だが、無辜の人間を巻き込むことは彼女の中のアルゴリズム(良心)に反していた。サンプル花子は身をよじって地面に降り、自ら主の元に帰ろうとし――。

「なるほど、貴君の言い分、もっともである」

 突然の時代がかった言葉に、耳を疑った。声は、青年のものであるらしい。

「だが、あいにく我は邪法の元に生まれし高貴なる暗黒騎士。道理に従う理由などなし!」

「何?」

 青年の腕が、サンプル花子をかばうように彼女の進路を遮った。

「申し遅れた。我は暗黒騎士ダークヴァルザードギアス。孤高にして高潔。そして彼が」

 折れた標識がぐいと持ち上げられる。

「我が腹心の友、暗黒瘴気剣『ダムギルスヴァリアグラード』ぞ」

 標識じゃん、と彼女は内心思った。多分主も同じだろう。思ったのだが、なんというか、表には出せなかった。そういうことってある。怖いし。

「こは正義にあらず。我が道を阻む貴君への戒めである。さあ、我が暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードの露となれい! かかってくるが良い」

 彼は標識をまるで長剣のように構える。

「『深淵斬撃・グラウドロス=ヴァルスギルグナール』」

 ぶん、と標識が大きく振られた。人の力ではない。魔人、と思った。標識は主の立っていた場所を薙ぎ、通りの塀に食い込み止まる。主は一歩後ろに下がり無傷……いや。

 シルクのネクタイが、すぱりと胸のあたりで切断され、ひらひらと地面に落ちた。斬ったのだ。鉄の棒で。主は不快げに眉をひそめてから、薄く笑った。恐らく、この青年の持つ魔人能力はごくシンプルなものだ。『触れた物品に切断能力を持たせる』。主もそれを見抜いたろう。そして、恐るるにあたわずと判断したらしい。主の左手が微かに動き、瞬間、青年は先の彼女と同じく衝撃波によりくの字に折れて後方に吹っ飛んだ。勢いで手から離れた標識がアスファルトの地面を裂き、そしてからんと音を立てて転がる。
 『死殺(ダイコロ)』。主の能力は、いつも変わらず冷酷苛烈に対する者を排除する。

◆◆◆◆

 暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは元来、小学生時代の土屋一郎が『れんごくの書』と名付けた一冊の創作大学ノートに登場したキャラクターだ。敵役ながら主人公より紹介ページが長くなり、やがて外伝の構想が生まれて三ページほど綴られて終わった経緯を持つ。存在は彼自身も忘れていた。机の中を整理している時にかのノートを見つけるまでは。


 衝撃波に吹き飛ばされ片膝をついた彼は、一瞬暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードを目で探す。傍にはなぜか地面に転がっている標識があるが、即座に手が届く距離ではない。ならば。

 彼は背のリュックサックに素早く手を突っ込み、さらなる暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードを取り出した。


 金銭問題。人間関係。先の見えない未来。彼は疲弊していた。そして、己の拙い直筆のノートの創作に強く揺さぶられた心は、彼に魔人能力をもたらす。暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは、常に最強の剣である暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードを手にしていた。己もかくあらねばならないと、そう彼は信じたのだ。


 彼は、暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは、一振りの剣を握る。その昔彼は、ただひとつの得物のみを振るうと漆黒の誓いを立てた。すなわち、暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラード。なお、魔人能力『イーヴァルディの砥石』の効果により彼が握る武器は全て暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードとなる。

「貴君の力はその程度か……読んだぞ」

 暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは相棒たる剣を振り、一気に加速した。衝撃波が襲い来る前に男の懐に飛び込み、一閃。

「『薄氷魔撃・ガルツォ=ヌルス=ファグナス』」

 男の左手に一筋の薄い傷跡が刻まれる。同時に、くらくらとした軽い目眩、動悸、息切れなどの諸症状が男を襲った。

「な、な、な?」

 男の手から六面ダイスがこぼれ落ち、返す刃がぱくりとそれをふたつに割る。
 先の一撃を受けた際に、その拳が固く何かを握り込んでいることを暗黒騎士ダークヴァルザードギアスは見逃さなかった。また、攻撃を放つ直前の拳が不自然に揺れた事も。
 『死殺(ダイコロ)』はダイス出目に応じたマス数相手を衝撃で移動させる能力。ダイスが破壊されては何も意味がない。

「次は手首を落とす」

 暗黒瘴気剣ダムギルスヴァリアグラードが、するりと男に向けられる。その鋭い切っ先、そして強烈な魔の気に恐れをなした男は、戦意を喪失しすごすごと引き下がった。

◆◆◆◆

 サンプル花子は、目の前の光景に呆気にとられていた。モッズコートの青年が握っているのは、へなへなと折れかけたダンボール製の、どうにか剣の形をしている物体だった。マジックでざっくりと剣のイラストも描いてあるし、刀身には『ダムギルスヴァリアグラード』との文字まで書かれていたので、多分ダムギルスヴァリアグラードなのだと思う。この剣で、たったひとりで彼は主を退けたのだ。

「娘。片はついた。どこへなりとも好きなところに行くが良い」

「あなたは……どちらに行かれるのですか」

 サンプル花子は震える声でそう尋ねた。青年は顔色ひとつ変えずにこう答える。

「『グロリアス・オリュンピア』登録に向かう。目的は闘争。そしてまたかの王女、我が仕えるべき主として見定める必要がある……もし真に相応しき器の持ち主であれば、願いを用いこの剣を捧げることも厭わぬ」

 ダンボールヴァリアグラードを空に突き上げ、そしてまた背のリュックサックに戻す。切断能力はまだ残っていたようで、リュックサックの脇を切り裂いて刃が飛び出たが、さしたる問題ではない。

 そう、さしたる問題ではない。サンプル花子は……培養槽から出て一年と経たない彼女は、青年の語る騎士物語にうっかり魅せられていたのだ。ちょっとなんか変かな、警察呼んだ方がいいのかな、とか思わないでもなかったが、格好いいのでそんなに気にしないことにした。何より従順な個体としてデザインされた彼女は、無意識的に主を求める。よって彼女は、目の前の暗黒騎士にこう告げた。

「それならば、私もお供させてください」

「えっ?」

 素っぽい裏返った声が返ってくる。

「私、出来る限りあなたのサポートをいたします。帰るところもありませんし、何より助けていただいたお礼です。どうか、お願いします」

「えっマジ……いや、正気か? この暗黒騎士ダークヴァルザードギアスの傍にあっては……ええと、地獄の気がそなたの命を蝕むぞ」

「構いません」

 二対の目がかち合う。ひとつに宿るは稚気じみた逃避と狂気。もうひとつに宿るものも、あるいは。
 サンプル花子は、やはり自分には未調整の、何かバグのようなものが巣食っているのだと思う。何もかもおかしい、こんな狂ったおとぎ話みたいな状況に、心が変に浮き立っているのだから。

「……そなた、名は」

「サンプル花子と申します」

「下らぬ名だな。我の侍女には相応しくない……今後はアナスタシアと名乗るが良い」

「!」

 彼女は顔をぱっと輝かせた。そして一生懸命に頭の中の知識をかき集め、そしてメイド服の長いスカートをつまみ、うやうやしく礼をする。

「仰せのままに、暗黒騎士ダークヴァルザードギアス様」

「行くぞ」

「はい!」

 アナスタシアは、暗黒騎士ダークヴァルザードギアスの背を追った。着古したモッズコートの背後に、彼女にだけは大きくひるがえる漆黒のマントが見えていた。

◆◆◆◆

 暗黒騎士ダークヴァルザードギアス……土屋一郎。貯金はない。彼女もいた試しがない。未来のよすがもない。
 だが、彼には夢があった。それは机の中にしまい込まれた、埃まみれの黴びた夢。彼にしか理解できぬ幻想の夢。
 その夢に目指す果てと、そして傍に寄り添い咲く花が生まれた時、物語は始まる。
最終更新:2018年02月18日 20:04