プロローグ(舞雷 不如帰)
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清涼な空気が澄み渡る朝、板張りの道場に少女たちの声が響いていた。
「やっ! はっ!」
「せぇい!」
「っ、だァ!!」
道着姿で組手をする2人の少女。
1人は高校生くらいだろうか。背が高く、大人びた風貌に似合った豊満な肉付き。腰ほどまで伸びた黒髪が動きに合わせて激しく揺れる。
もう1人は対照的に低い身長、貧相な体つき、肩に触れるか触れないか程度の黒いミディアムヘアー。小学生にすら見える見た目だが、実際は中学生だ。名は不如帰(ほととぎす)――政財界に強い力を持つ舞雷家のお嬢様である。
そんな彼女が相対している豊満な女子高生は姉である雀鷹(つみ)。姉であるからして、当然彼女もお嬢様だ。
2人が生まれた舞雷家の家訓は文武両道であり、こういった組手は彼女たちにとっては日課であった。
姉が放った上段蹴りを、左腕を立てるようにして受け止める不如帰。体重差のせいか体が揺らぐが、無理に態勢を維持しようとはせず一旦距離を取る。お互いに拳も足も届かない位置となったが、気は抜かない。
――来るっ!
届かない距離だというのに、姉は躊躇うことなく腰溜めにした拳を前に放つ。当然、不如帰に触れることはない。拳圧が前髪を揺らすことすらない。
だが、不如帰は首を振って回避行動を取る――と、直前まで彼女の顔があった場所を衝撃が突き抜けていく。何があったのか、しかし不如帰は振り返って確認するようなことはせず、強く前に踏み出す。
「ふぅ……!」
狙いは伸びきった姉の腕の内側。腰を深く落として懐に入り込めば、不如帰の姿は姉の視界から消える。
「っ!?」
「はァ!!」
雀鷹は不格好ながら伸ばした手を振り下ろすことで潜入した妹を闇雲に叩き落そうとするが、それより先に胸の中心に激しい衝撃が叩きつけられる。呼吸が止まり、足の感覚が一瞬消える。ふらついた足を叱咤するが、効果は無様に倒れるのを防ぐだけに留まり、雀鷹の膝が床につく。
彼女が顔を上げれば、そこには渾身の掌底を決めた妹の顔。最近、雀鷹がよく見る……見てしまう光景だ。
「……うー。不如帰ちゃん、強いー」
「ありがとうございます。……大丈夫ですか、つみ姉さん?」
「だいじょぶ、だいじょぶー」
ぱたりと、身を投げ出すようにその場に仰向けになる雀鷹。そんな姉の姿に不如帰はやや呆れのため息をつく。
「つみ姉さん、みっともないですよ」
「だってー……。ここ最近、ずっとこうだもん。同じ能力持ってるはずなのになー」
「気持ちは分かりますけど……はい、立ってください」
不如帰の差し出した手を雀鷹は握り、立ち上がる。そして再び組手が始まった。
ぶつかる拳、風を切る蹴り、ほとばしる汗、飛び交う――エネルギー弾。そう、先ほど雀鷹の拳より放たれたのはエネルギー弾だ。
能力名『雷光弾』……拳よりエネルギー弾を放つことができる雀鷹の魔人能力。そして先ほどの彼女の言葉通り、妹である不如帰も同じ能力『雷光弾』を持っているのだ。
こうしてエネルギー弾の飛び交う変わった組手は、道場の隅に置かれたスマホからアラームが鳴るまで続くのであった。
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「それでは、いってきます!」
「いってらっしゃ~い」
組手を終え、シャワーと朝食を済ませた不如帰は、セーラー服に身を包んで玄関の門をくぐる。
そんな彼女を出迎えたのは、同じセーラー服を着た茶髪のサイドテール少女。不如帰の友人だ。
「ベルさん。お待たせしてしまいましたか?」
「んーん。待ってないから大丈夫だよ」
「ならよかったです。……ベルさん?」
ベルと呼ばれた少女は、くんくんと鼻を鳴らしたかと思うと、不如帰の頭頂部に鼻先を埋めるように顔を突っ込む。身長差が20cmあるからこそ容易にできることだ。
「なっなななな! なにするんですか、ベルさん!?」
「んー、今日もふにょのお風呂上りのいい匂いがする~。くんかくんか」
「やーめーてー!?」
あぁん、と残念がるベルの手を無理やり剥がして、なんとか脱出する不如帰。ちなみに「ふにょ」とは彼女のあだ名である。
不如帰とベルは、小学校に入った頃からの幼馴染だ。
「うん、ふにょは今日もちみっこくて可愛いなぁ」
「私だって、つみ姉さんみたいにそのうち大きくなりますよ……!」
「……諦めなよ、ふにょ。3年生ぐらいからずっと伸びてないんだからさ」
身長以外も雀鷹のようになるのは無理だと思うなーと不如帰の胸などを見ながら考えるが、さすがにそこまでの追い打ちをしない友情がベルにはあった。
そんなこんなで通学路を他愛もない会話をしながら仲良く歩く2人。だが、あるものを目にして不如帰の足が止まってしまった。
「……」
「どしたの、ふにょ? ……げ」
不如帰の視線の先を追ったベルが見たのは、でっぷりと太った男が全裸の少女に首輪とリードをつけて散歩している姿であった。白昼堂々と、だ。
もちろんこのような行為は通常正気でできるものではない。だが、全裸少女の首輪につけられたタグが、その行為を辛うじて理解できるものとしていた。
『サンプル花子』
技術の進歩により生み出された人造少女。多種多様な目的に応じて培養・生産される彼女らは、社会的には道具として扱われていた。
見た目も中身も製作者の望むがままに作り出せる人造少女は、いまやありとあらゆるニーズに応えることができるとして需要が高い。
この全裸少女も、男が己の性欲を満たすために発注したサンプル花子なのだろう。ならば、犯罪性はどこにも無い。道具……いってしまえばペットのようなものを散歩させているだけなのだから。もっともそれでもあまり表立ってやるべきではない趣味であることは確かなのだが。
「……」
「ふにょ……行こ?」
ベルは眉を顰める不如帰の手を引っ張り、この場を無理やり離れる。
しばらくの気まずい沈黙の後、不如帰が釈然としない様子でぽつりとつぶやく。
「作られた命とはいえ、人間……なのに、どうしてあんなことができるんでしょう……」
「んー……」
その意見は、あまりベルには同意できない。
何故なら、サンプル花子は製作者の望みを満たすためだけに作られた存在であり、それ以外の存在意義は無いからだ。
見た目だけでなく、思考や感情すら製作者の支配下にある存在。それはもはや自己を持って生きているといえるのだろうか?
故にベルはサンプル花子を高性能な人形としか思えない。この考えは、この世界では決して少数派ではないだろう。
だが、目の前の小さくとも高潔な少女はそうではない。サンプル花子を人間として見てしまっている。今の社会では心が苛まれる思考だ。だから、ベルは自分とは異なる考えでも、彼女の心の花を散らさぬよう言葉をかける。
「ふにょは優しいね」
「……そう、でしょうか」
「うん。よしよし」
不如帰の頭をベルが慈しむように撫でる。彼女の手から伝わる暖かさのせいで、頬が緩むのを止められない不如帰であった。
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それから数日後。
不如帰は親に渡さなければならない書類を片手に、家の中を歩いていた。舞雷家ではこの手の書類、プリント類は父親に渡さなくてはいけないのである。
父親の靴が玄関にあったことは既に確認してある。呼びかけてみたが父からの返事は無く、奇妙だと首を傾げつつも探している最中であった。
「ここでしょうか……?」
父親の書斎。ドアをノックして呼びかけてみるが返事はなし。もしかして寝ているのかもしれないとひょっこり覗いてみるが、父親の姿は無かった。
「ここでもないとすると……ん?」
ドアを閉める直前、何か紙が書斎の床に散乱していることに気づく。厳格な父親が放り出すにしては珍しい。
「失礼します」
気づいてしまったからには放置するのは気持ち悪い、と不如帰は部屋に入り、散乱した紙を拾っていく。纏めて机の上にでも置いておけばいいだろう。
だがそんな彼女の手を、紙に書かれていた一文が催眠術のように止めてしまった。
『サンプル花子 発注書控え』
「――え?」
意味が分からない。いや、書いてあることの意味は分かる。書いてあることを素直にそのまま読めば、これはサンプル花子を発注した際の控え書類だ。
それが、何故、こんなところに、あるというのか。父親が発注したというのか。あのサンプル花子を。
いや。自分が潔癖なだけで、世間的にはサンプル花子は道具だ。人間扱いされていない。父親が発注したとしてもおかしくはない……不如帰は自分にそう言い聞かせる。家でサンプル花子を見たことはないが、きっと仕事で使ったのだろう、とも。
手が震える。動悸が止まらない。嫌な汗が流れるのを感じる。視界がぼやける。寒い。なぜか、とても寒い。
「……あっ、はっ、ぁ……」
知らずのうちに呼吸を止めていた。いったん深呼吸をして息を整える。吐ける、吸える。視界もクリアになった。
手は相変わらず震えているが、動かす分には問題ない。覚悟を決めて、発注書の続きを読む。
――覚悟? なんの覚悟だ?
分からない。なんの覚悟をしていたのか、わからない。何故なら、
『サンプル花子・個体識別名:雀鷹』
そこに記載されていた姉の名前。それによって、決めていた筈の覚悟は容易く粉砕されたのだから。
「つみ……姉さん……?」
読み返す。読み返す。そうすれば書いてあることが変わると信じているかのように読み返す。自分が読み間違えただけだと信じて読み返す。
だが、何度読み返しても、その発注書控えに書いてあることは、自分の姉がサンプル花子だったという事実だけであった。
なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは。
そして読んでいるうちに気づいてしまった。この発注書控えは1人分のものではない。他の分も、ある。
『サンプル花子・個体識別名:雲雀』
「ひ、ばり……」
雲雀。それは、母の名だ。つまり、姉だけでなく母までサンプル花子だったということになる。
いや待て。おかしい、おかしい、おかしい。
姉だけがサンプル花子なら、認めたくない真実だとしても理解できる。だが、母親までサンプル花子ならば……自分はなんだ?
サンプル花子の母親から生まれたのか? 生まれるものなのか? 姉が、サンプル花子なのに、そんな都合のいい解釈をしていいのか?
「っ……っ……!」
再び呼吸を忘れて書類を捲る。幸いかそれとも不幸か、今度は手がしっかり動く。発注控えが本当に2人分だけなのか……心臓が早鐘のように打ち続けてうるさい。
母の分が終わる。書類はまだ残っている。指が、書類の端にかかる。
だが、
「――見てしまったか」
「!?」
背後よりかけられた声が不如帰の不意をつき、書類が再び床に散乱する。聞き慣れた男性のもの。振り向けば、そこには居たのはやはり、
「お父様……!」
「不如帰……」
「お父様……! これは、これは……どういうことですか!?」
普段なら、部屋に入った上に勝手に書類を読んだことを謝罪するだろう不如帰だが、今の彼女にそんな余裕はない。
父親に詰め寄ると、震える声で書類の意味を問う。
「お母様と、つみ姉さんは、お父様が作ったサンプル花子で……」
「……」
父親は不如帰の目をじっと見たまま否定の言葉を紡ぐことも、首を横に振ることもしない。この場において、沈黙は肯定と同義だ。
「つまり、わた、私もサンプル――」
「それは違う」
今度は食い気味に否定された。その勘違いだけは許してはならないと。父親は不如帰が落とした書類を拾うと、いったん机の上に纏める。
「何から説明すればいいか……」
それからの父親の説明は、頭では理解できた。納得しようと思えば、納得できるものであった。
昔、家族で旅行に出かけた時に乗っていた車が事故にあった。それで母と姉は死んでしまった。その事実に嘆き悲しんだ父は、母と姉そのものをサンプル花子として発注したのだ。自分にその時の記憶が無いのは、事故のショックが大きかったからだ……と。
筋は通っている。発注書の控えを改めて見せてもらったが、そこには自分がサンプル花子であるとは書いていなかった。
「難しいことかもしれないが……。不如帰には、これからも雲雀と雀鷹には、家族として接してほしい」
「わかり、ました……」
ふらふらと、覚束ない足取りで部屋を出る。どこをどう歩いて自室に戻ったかは覚えていない。父親に本来の目的である書類を渡し忘れていることに気づいたのは、床で目を覚ましてからのことであった。
●
それからの彼女の日々は、苦痛と共にあった。
今までと何も変わらない筈の、母、姉。サンプル花子だとしても、同じ人間だと考えていた自分。
なのに。だというのに。
母と姉の笑顔、言葉、身振り手振り、すべてが薄膜のようなもので覆われているように感じてしまう。その薄膜を剥がしてしまえば、そこにあるのは人形の顔――黒髪おかっぱのデフォルト花子なのではないかという考えが、どうしても頭から離れない。
……そして、自分も本当はそんな顔なのではないか。
あの時の父の説明は確かに納得しようと思えば納得できた。だが、裏を返せば疑おうとすればどこまでも疑えるものであった。
事故のショックで記憶がない? ――都合がよすぎる。自分も家族も最初からサンプル花子で、そんな事故は無いのでは?
発注書に自分の名はなかった? ――父は自分に見せる前に一度机で整理していなかったか。本当に自分は全てに目を通したのか?
疑い始めれば、全てが疑わしくなってくる。何が魔人能力『雷光弾』だ、あれはサンプル花子デフォルト能力『サンプル・シューター』ではないか。
自分の成長が止まってしまっているのも、サンプル花子だからではないのか。
サンプル花子が虐げられているのを見て心を痛めてしまうのは、自分がサンプル花子だからこそではないのか――!
「違う、違う、ちがうちがうちがうちがう!!!」
自分は人間だ。人間として、人間の意志と、誇りをもって生きてきた。決して『そのように生きるように作られた』からではない!
魔人能力も、あれはまだ発展途中なだけだ。これから進化する。決してサンプル・シューターではない。
自己を確立させようと鏡を見る。黒髪の少女がそこにいた。髪を少し整えれば、おかっぱになってしまう。気持ち悪い、胃の底から何かがこみあげてくる。いやだ、ちがう、私はサンプル花子じゃない。
「私は、私は、人間――!! サンプル花子じゃ、ない」
――人形じゃ、ない!
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1年後。
薄暗く入り組んだ路地裏。元々人が通らない場所だが、陽が落ちていることもあって、人の気配は皆無であった。あるのは、人形の息遣いと、それを貪る獣たちの下卑た笑い声。
「ひゃははははは!!」
「おらっ、おら! もっと喘いで雰囲気出せよ!」
「トールくん、それぶちこむのはさすがに無理っしょ~」
「いやいや、いけるもんだって……っと。おら、力抜けや!!」
「待て、まてまてトール! 今いいところだから……うっ」
黒髪おかっぱの少女を嬲る、モヒカンの男たち。彼らを止める者はここには居ない……はずだった。
「はぁ……。お人形相手にお盛んなこと」
「あぁ?」
場に似つかわしくない少女の声。モヒカンらが声の方へ振り向けば、そこに居たのは長い銀髪をポニーテールにした赤眼の美少女。シャツの上に黒いロングジャケットを羽織り、ホットパンツからは黒タイツに包まれた足がすらりと伸びている。
肉付きさえよければ、モヒカンどもはすぐにでも飛びかかっていただろう。だが、
「ちっ、ガキかよ。さっさと帰れ」
「は? なに、喧嘩売ってんの?」
「っせぇな……。ロリコンのケはねぇんだよ。痛い目に遭いてェのか?」
白けたとばかりに、モヒカンらはズボンを履くと、各々釘バットだったりメリケンサックだったり鎖鎌だったりをその手に持つ。
「別にいいんだぜェ? そういう趣味のやつに売り飛ばすってのもアリだからなァ!」
凶器を構えた男たちを前に、しかし少女は一切の怯えを見せず、それどころか嘲るような笑みを浮かべる。
「わざわざやるって宣言しなきゃ行動に移せないとか、ダッサ」
「アァ!?」
そこまで言われて黙っているほど、モヒカンらは人間ができていない。いっそ殺してやるつもりで、武器を振り回す。
横薙ぎにフルスイングされる釘バット。少女はその背の低さを活かし、軽く前のめりになるだけで避けると、カウンターの拳が男の腹に突き刺さる。
続いてメリケンサック装着の拳が少女に迫るが、彼女は手首に的確な手刀を叩きこみ弾くと、直線的な下段蹴りで男の膝を砕いた。
次々に飛びかかる男たちを、少女は小柄な体格を活かした身動きと、それに似合わない魔人の力で次々と沈めていく。
「っと」
「チィ!」
突然ガキィンと金属同士がぶつかる音が少女の側頭部の辺りで響く。
舌打ちした男の手に握られているのは鎖鎌。男が鎖を引っ張ると、少女の頭に直撃する筈だった分銅が男の手に戻る。
「へぇ……。少しは出来るやつもいるみたいね?」
感心したように、だが余裕を崩さない少女の笑みを鎖鎌モヒカンは無視する。乱戦の隙間を縫った完璧な狙撃だった筈。少女の両手は攻撃に使われていてガードには戻せず、首を振っただけじゃ確実にヒットする挙動。
だが、分銅は空中で何かにぶつかり、少女に当たらなかった。
「――魔人能力か!」
「せーいかい。ふふっ、私に能力を使わせたご褒美として、あなたにはしっかりと見せてあげましょう」
お気に入りの玩具を自慢する調子で、少女が両手を手のひらを見せるように顔の高さまで挙げる。その手は何も触れていない。だというのに、隣に立っていたモヒカンが横殴りに吹っ飛んだ。
いや、鎖鎌モヒカンには何が起きたのかが見えていた。空中に浮かぶ白く光る球体が、弧を描いてモヒカンの顔面に叩きつけられたのだ。
白光球は、少女の周囲をふわふわと浮かんでいる。まるで彼女を守るかのように。
「やべぇな……!」
鎖鎌モヒカンはこの能力の危険性を一目で理解する。剣になり盾にもなる、少女が自在に動かせる球体。分銅が弾かれたことからして、硬度は十分ある筈だ。少女本来の格闘能力と組み合わせれば、近接戦闘で自分に勝ち目はないことは火を見るより明らかだ。
「ここはトンズラさせてもらうぜ!!」
仲間には悪いが、自分の身の方が大事だ。そう判断した鎖鎌モヒカンは乱戦から背を向ける。いったん距離を取ってしまえば、自分の魔人能力『孤独な旅立ち【ブレイブソロスタート】』で逃げ切れる筈だ、と。
だが、走り出した直後、鎖鎌モヒカンの背に何かが突き刺さり、貫通していった。
「あ――?」
「悪いわね。これ、矢にもなるの」
鎖鎌モヒカンが意識を失う前に見たのは、自分の胸から飛び出していく細長い白光だった。
――何が矢だ。こんなもん、ただの先端が鋭い棒じゃねぇか……。
少女――舞雷不如帰が、モヒカンたち全員を地面に沈めるのに、そう大して時間はかからなかった。
「……ふん。これで仕事は終わり、と」
不如帰は、家を出た。あの家で暮らすのは精神が壊れそうだったからだ。もっとも今でも自己崩壊の恐怖に苛まれてまともに寝ることができていない。
サンプル花子を思わせる黒髪は染め、魔人能力も厳しい鍛錬の末に別物と呼べるほどのものへ進化させた。
以前より修めていた武術と能力を合わせて、強力な戦闘魔人へとなった不如帰は、己の戦闘力を売りにして生計を立てていた。
今回の仕事はある富豪からサンプル花子を盗み出したモヒカンたちへの制裁。あくまでも道具に乱暴しただけであり、人間へのものに比べて罪が軽くなることもあって、サンプル花子はモヒカン雑魚のようなチンピラにとっても狙い目なのだ。ある意味、人間にとっては治安がよくなっていると考えることもできる。
「……」
凄惨な凌辱を受けたサンプル花子だったが、まだ息はある。だがサンプル花子の奪還は仕事の中には含まれていなかった。持ち主の富豪は独占欲が強く、汚れた人形などいらないということなのだろう。
だが、そんな持ち主の意思など知ることなく、サンプル花子はきっと富豪のもとへ戻ろうとするだろう。それが、サンプル花子なのだから。
だから。不如帰は、現実をサンプル花子へと突きつける。無駄な足掻きほど醜いものはない、と。
「あなたの持ち主ね。もう、あなたいらないって。……だから、あなたには帰るところなんて無いわよ」
「……ぇ。なら……私は……どうすれば……?」
「知らないわよ。そこらへんで野垂れ死ねば? どうせ、あなたは自分の意志で生きることもできないんでしょ?」
そうだ。自分の意志で生きていくのが人間だ。私は、私の意志で生きている。そこに捨てられた人形とは違う。
ちっぽけな優越感を胸に、不如帰はサンプル花子に背を向けて歩き出す。彼女が再び立ち上がるかどうかなんて興味がないとでも言いたげに。
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そして、舞雷不如帰はグロリアス・オリュンピアの開催を知る。
彼女の目に留まったのは、大会優勝者へと与えられる『可能な範囲で望みをひとつ叶える権利』だった。
その権利があれば、今も彼女の心へと侵蝕する闇――自分がサンプル花子かもしれないという闇を払拭することができる。
当然、過去に製造所に問い合わせたことはある。だが、発注者のプライバシーを守るためということで回答を得ることは叶わなかった。
しかし、この権利があれば――いや、それどころではない。あの世間を賑わせるエプシロン王国のフェム王女なのだ。とんでもない能力で普通は不可能な願いすら叶えることができることかもしれない。
例えば、例えば、そう。この世全てのサンプル花子を消滅させるなんてことも、できるかもしれない……!
「は、はは……!」
不如帰はあの日から初めて、歓喜の笑い声をあげる。それだけ彼女にとって大きな希望だったのだ。
全てのサンプル花子が消滅しても自分が存在していれば、自分は人間だ。自分が消滅してしまったなら、それはそれでいい。アレだということ認めて生きるのは、死より辛い絶望だからだ。
社会には大きな混乱が起きるだろうが、知ったことではない。サンプル花子なんて醜く無様で哀れな異物に頼った社会がまず間違っているのだ。
「えぇ、えぇ……! 救ってみせましょう……! 私を、世界を――!」
そして、
母と、姉と、路地裏の少女の顔が、ぼんやりと脳裏に浮かんで、消えた。
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「そうか……。不如帰がグロリアス・オリュンピアに」
男は、部下からの報告を受けて、沈痛な面持ちで息を吐く。
「すまない……1人にしてくれ」
絞り出すように呟かれた男の言葉に、部下は心中を察して小さくお辞儀をして退室した。
部屋の外の足音が、遠くなっていく。
それに呼応するかのように、男の表情は歪んでいく。口角が吊り上がり、白い歯が外気に触れていた。
「嗚呼、ようやく……! ようやくだ……!」
その表情が示す感情は、喜び。男は、まるで我が子が生まれたかのような喜びぶりで部屋を忙しなく歩き始める。
「不如帰! 私が作り、育て上げた、我が娘! あぁ、私の愛が世界を震わせるところを見せてくれ!!」
男の夢が、情熱が、燃え盛る。激しい炎は、男が燃料として用意した過去をも燃やし尽くす。燃料となった『発注書』が何人分だったのか。もはや、その事実は男にとって灰ほどにも興味が無いことであった。